机上捜査
十井 風
第1話 ボート死体遺棄事件
男がいる部屋はとても質素なものだ。長い机と椅子が二脚。小さい窓は開けられているが、夏の今、外から入って来る風だけではとても涼めない。
男は窓から空を見上げる。絵具で塗ったような青に入道雲の白がとてもよく映える。夏らしい美しい景色だが、これだけ入道雲が多いときっと天候は下り坂になっていくのだろう。
そんな事を考えながら時を過ごしていると、扉が軽く叩かれる。
「どうぞ」
扉に向かって声を掛ける。ゆっくりと扉が開き、女性が入ってきた。
男は目を見開いた。彼女は車椅子に乗っていたからだ。こちらから行くべきだった、呼びつけたのが申し訳ないと彼は思う。
折れそうな細い腕を使って車椅子を動かし、女性は男の前にやって来た。
人形のように恐ろしく整った顔に微笑を浮かべている。
「お初にお目にかかります、ルファルド国家捜査局特別捜査官のアリーヤと申します」
「わざわざ来ていただいてすまない。こちらが訪ねるべきだったのに」
「いいえ、これで移動するのは皆様が足を使って動くのと同じくらい当たり前のこと。気を使ってもらう必要はありません」
アリーヤはそう言うと、机上に置かれたファイルに目をやる。この中には今回の事件について捜査局が調べ上げた情報が詰まっていた。
「わたくしに聞きたい事件の資料ですね。では、拝見させていただきます」
アリーヤはそう言うと、ファイルを開き中に目を通していく。文字を追う目の動きは、まるで動き回る獲物を見つめる狩人のようだ。あっという間に何十冊もあったファイルの資料を全て読み切ってしまった。
「成程、まず話を進める前に事件の内容をおさらいしておきましょう」
彼女は先ほど目を通した資料について話し出した。
某日、ルファルド国南部の海で女性の遺体が乗ったボートが発見された。通報したのは地元の漁師であった。
駆け付けた捜査官によると、女性の遺体はボートの底に寝かせられ、手を組んだ状態であった。首には刃物が突き刺さり、胸元にはピンクのグラジオラスの花が添えられていた。
被害者はイザベラ・ダドリー。ルファルド国西部にあるサフィアという街に住んでいた。体がとても弱く、滅多に外に出ないが夫のエイブラハムと非常に仲が良く、おしどり夫婦として街で有名だったという。
エイブラハム・ダドリーは稼ぎが良いわけでもなく、容姿も普通だったが、病弱な妻を献身的に支えていたと近所の人から評されている。
彼の職業は人気店の雇われの料理人であった。勤務態度は真面目だったという。仕事が終わればすぐに帰宅し、妻の代わりに家事をこなしていた。
遺体の司法解剖から容疑者にエイブラハムが浮上。イザベラの首に刺さっていた刃物は彼が仕事で使う包丁であった。凶器からはイザベラ、エイブラハムの指紋が検出されている。
任意同行を求められたエイブラハムは快く応じ、イザベラの死体遺棄についてもあっさりと認めた。
「わたくしに聞きたいのは、何故エイブラハム・ダドリーがイザベラの死体を遺棄したのか。街で評判になるくらい仲睦まじい夫婦だったのに」
アリーヤは真っすぐとこちらに視線を向ける。彼は静かに頷いた。
「普通に考えると痴話喧嘩からの殺人という説になるでしょう。ですが、それは考えにくいです」
「何故そう思う?」
「イザベラの遺体にグラジオラスを飾っていた点です。遺体に花を持たせるのはおそらく弔いの意が強いのでしょう。カッとなって殺したと仮定すると、我に返った後にわざわざ特定の花を用意するなんて事が出来る精神状態にあるとは思えませんから。痴話喧嘩で殺害してしまったなら普通は取り乱します。警察から逃れようと死体を遺棄したとしても、すぐに思い浮かぶのは解体するか土に埋めるかでしょうね」
それに花にこだわりのある妻の誕生日には、いつもマリーゴールドの花束を買っていたエイブラハムにとって、花の種類はとても重要なのでしょうと彼女は続けた。
「では、アリーヤさん。真相はどう考える?」
男の問いにアリーヤは少し考える。すぐに、思いついたかのように指を立てた。
「捜査局はエイブラハムがイザベラを殺し死体を遺棄したという仮説を立てているようですが、わたくしの仮定はこうです。エイブラハムはイザベラを殺してはいなかった。やったのは死体の遺棄だけ。では、どうしてイザベラは亡くなったのか? それは自死なのではないでしょうか」
男の沈黙をアリーヤは続きを聞かせてくれという意思表示と受け取る。
「イザベラは体が弱く、ずっと家に居たのでしょう? エイブラハムが勤務後に家事を行っていたというところからイザベラは家事も出来ないくらい体調が悪かった。仕事なんて出来る状態ではないでしょうから稼ぎ頭はエイブラハムだけ。ですが、雇われ料理人の収入は決して多くはない。2人で慎ましく生きていたとしても厳しい生活だったでしょう。それに、医療費の事もある。かなり大変だったと思います。きっとイザベラは自分を憎く感じたのでしょう。夫に全てを任せてしまう自分が不甲斐なく感じたかもしれません。あるいは、自分が死ねばエイブラハムだけでもまともな生活を送れると考えたのかもしれません。そして、彼女は夫が使っている包丁で自身の首を刺した……」
アリーヤは部屋に入ってきた時からずっと浮かべている微笑を消し、沈痛な面持ちで語っていた。
「仕事から帰ってきたエイブラハムは驚いたでしょう。家に帰ると何より愛する妻が自死していたのですから。イザベラは遺書を残していたのかもしれません。自分をどう埋葬して欲しいのか、今までの事を書いていたのか、あるいは夫への愛を書いたのかも。エイブラハムはそれを読んで南部の海へイザベラを連れて行った……」
どうしてそう考えるのか、と男が聞かなくても彼女は答えた。
「死亡推定時刻が、エイブラハムが花屋でグラジオラスを購入した前だったからです。夫が花を購入したのは妻の死亡後という事になります。妻が自死、遺書を残していたなら死亡後の行動は腑に落ちやすいのではないですか?」
「では、何故南部の海にしたのだと思う? 海なら西部にもあるのに」
「海はたくさんあります。どうして南部でなければならなかったのか? それは2人の思い出の地だったからでしょう。初めてデートした場所かもしれないし、プロポーズした場所かもしれない。2人にとって大切な場所だから選んだのです。でないと、漁業や観光が盛んな南部の海に死体を遺棄しても、人目が多すぎますからすぐに見つかります。隠すつもりならもっとバレにくい場所を選ぶはずです」
先ほどまで空を流れていた入道雲が鈍色の雲に変化している。雨が降りそうな匂いがした。
「エイブラハムには最初から死体を隠すつもりなんてないでしょうね。彼が行っているのは『埋葬』なのですから」
ぽつぽつと雨が地を叩く音が聞こえてきた。一瞬のうちに水が入ったバケツをひっくり返したような勢いで雨が降り始める。
「イザベラは花にこだわりがあったといいます。きっと花言葉にも詳しかったでしょう。彼女の誕生日に贈られたマリーゴールドの花言葉は『健康、真心、愛情、勇者』。エイブラハムは彼女に元気になってもらいたい願いや自分の愛を可憐な花に詰め込んで贈ったのかもしれませんね。そして、遺体に添えられていたピンクのグラジオラスの花言葉は『たゆまぬ努力、ひたむきな愛、満足』です。この事件はダドリー夫妻の純粋でたくさんの愛情が詰まった出来事と考えても良いでしょう」
アリーヤは雨空を見やる。空が泣いているかのように雨は降り続ける。
「死体遺棄だけみると事件ですし、法律に反しています。ですが、わたくしは2人の強い愛の絆は誰にも咎めは出来ないと思います。あなたもそう思いませんか、エイブラハムさん」
アリーヤは目の前の男を呼ぶ。エイブラハムは泣きそうな嬉しそうな笑みを浮かべる。
「あなたがわたくしを呼び、捜査を希望したのは妻が望んでいた事だけでも、捜査局に分かってもらいたかったのではありませんか?」
「その通りです。罪は罪、私は罪人です。そこに意を唱えるつもりはありません。ですが、妻が望んだ事だけでも分かってもらえれば、私もきっと妻も報われると思ったのです。試すような真似をしてしまい、申し訳ない。それに、真相に気付いてくれてありがとうございました」
エイブラハムは深々とアリーヤに頭を下げる。その後、扉から数人の男性捜査官が入って来てエイブラハムを連れて行く。
誰もいなくなった部屋でアリーヤは目の前の捜査資料に目を落とす。
「夏の日、海と小舟ですか。海を漂いながらイザベラにプロポーズしたのでしょうね。そして、命を絶ったイザベラを海に浮かべたのも、彼女が好きだった夏と海を見せたかったんでしょう? 綺麗な空は見られたでしょうか……」
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