ANTHRO

S0U

Episode 1

■一

 地球神話の詩人シェイクスピアは「The night is long that never finds the day」と著書に綴った。東から昇った太陽が西に沈み、夜を支配する冷たい月は、やがて朝焼けに潰える――そんな世界の在り方を、しかし母なる大地と決別した宇宙の民は知る由もない。

「昼はどこだ?」

 闇に包まれた再開発エリアの路上で、中年の男が仰向けに寝転んでいた。その頬は痩せこけており、暗黒の天井を見つめる目に生気はない。つんとした刺激臭は、アスファルトに撒かれた酸素循環用の液状薬剤から立ち昇っている。地面は乾き切っておらず、薄汚れた衣類はびしょ濡れだ。しかし彼は気にした様子もなく、震える手を上に伸ばした。

「目の眩むような光は? 草や木の呼吸は? 鳥の囀りは? 虫の羽音は?」

 その夢想を、天井に敷かれた剥き出しの鉄骨が阻む。廃都市スピンドルは、旧式広域惑星間航行船の内側に建造された巨大な街だ。そこに地球神話が語る蒼穹の景色はなく、金属に覆われた窮屈な空は宇宙の暗黒すら映さない。ただ轟々と悲鳴をあげ、いまにも崩れ落ちるぞと言わんばかりに錆を落とすばかりだ。

「俺は大地の子だ!」

 なおも男は、掠れた声を張り上げた。伸ばされた腕には、注射針の痕が目立つ――典型的な禁止薬物中毒者の姿だ。しかし睡眠推奨時間に彼の奇行を見咎める者はいない。

 いや、一人。

 ブーツが、重く水を弾いた。

 若い女の声が、歌を口ずさみながら近づいてくる。

「Humpty Dumpty sat on a wall」

 その軽快な調べを耳にした男は首を動かさず、瞳だけを足音の方向へ向けた。彼の側面で、ブーツのつま先が止まる。

「Humpty Dumpty had a great fall」

 若い女――と思われる来訪者は、目深なフードと黒いロングコートを纏っていた。顔は見えず、わずかに覗く口元も獣の仮面で覆われている。ただ唇から紡がれる声だけは、場違いに滑らかで、弦が歌うように繊細で流麗だ。

「All the king’s horses, And all the king’s men」

 フードの奥に秘められた眼差しは、男を見つめていた。相貌を隠す深い闇の奥で、虹色の虹彩が瞬く。

「Couldn’t put Humpty together again」

 歌が終わり、女が屈む。

「私の答えは卵じゃない。ならハンプティ・ダンプティは誰だ?」

 その問いかけは、美しい歌からは想像もできないほど無機質で感情に乏しい。AIですら心の機微を感じさせる時代にあって、彼女の発した声は化石のように固く冷え切っている。

 男は一度だけ目を見張ると、低く喉を鳴らした。

「楽園の神に聞け。俺は先にいく」

 そう紡いだ瞬間は、彼は自らの舌を噛み切った。ぐったりと事切れた男の表情は、満足げな笑みに彩られている。女は動じることなく、コートの袖からグローブに包まれた腕を伸ばした。その五指から伸びた黒いコードが蛇のようにうねり、先端の尖ったプラグが遺体の首、胸、側頭部、脊髄、腕に突き刺さる。脳が完全に機能を停止する前に、電子接続で生前の情報を採取する算段だ。

「接続、同期、走行、解析。血液不良、糖尿病及び性感染症二類確認。禁止薬物レベルⅣ三種検出。違法インプラント二件発見……全て許容値」

 思考寄生型プログラムによる自死の強制を疑ったが、発見した違法インプラント――脳に影響する脊髄挿入型の機械は、勃起不全と性交渉時の興奮作用を高める効果しかない。

「精神汚染濃度は、クリア……こいつもクリアか」

 禁止薬物の中毒者は、意識を電子世界に投影する精神潜航を多用している場合が多い。これも自殺や凶暴性の増加に多大な影響を及ぼし、その深刻度は精神汚染濃度という数値で計測できる。しかし現在の結果を信じるのなら、この男は健康で正常な心を保ったまま自害したとしか考えられない。

「そんなことは、ありえない」

 不審そうに呟いた女は、遺体から五本のプラグを引き抜いた。男の口元から溢れた血が地面の液状薬剤に混じり、ブーツの先を濡らす。たしかに彼は、自らの意思で己の舌を噛み切った。

 しかし彼女は首を振る。

「同様の自殺は、これで十五件目。偶然の範疇を超えている。これは殺人だ」

 男が発した末期の台詞が、耳の奥で渦巻く。

 ¬¬――楽園の神に聞け。

「いや」

 否定して、さらに首を振る。

「ウィザードは神を信じない」

 そして踵を返したフードの女――ウィザードは廃墟の闇に消えた。やがて低いサイレンが響き、廃都市スピンドルは活動推奨領域を迎える。天井の白色電灯が街を照らすと、かつて夜と呼ばれていた時間は終わりを告げ、さほど景色の変わらない朝が始まった。




■幕間

 かつて母なる地球に居場所を失った人類は、太陽系の遥か彼方に新天地を求めた。それから幾年月が流れ、彼らは暗黒の宇宙に都市を建造し、いまもなお繁栄を続けている。人種の垣根はなくなり、数多の信仰を女神という超常の存在が塗り潰した未来世紀――しかし思想の傍流と本能の進化は新たな分断を生んだ。とりわけ獣性を発露し、体制に牙を剥く者たちを『ANTHRO』と呼ぶ。これは凶暴であるが故、星々の片隅に棄てられた者たちが紡ぐ叛逆と再生の物語だ。




■二

 いつか、サリオンは神を見た――ような気がする。金色に輝く巨大な光に見下ろされ、身動きも取れず、そのとき知らない女の声を聞いた。

(殺して)

 それは啓示だろうか?

(殺して、サリオン)

 誰を殺せというのか?

(殺して)

 じゃあ、みんな殺すか?

「うわああああ――⁉︎」

 悪夢から目覚めたサリオンは、思いっきり体を海老反りにした。丸めていた体を急に伸ばしたせいか、背筋とふくらはぎは同時に悲鳴を上げる。足がつるのは日常茶飯事だが、背中は初めての経験だ。

「痛すぎる。最悪だ」

 苦悶に身をよじりながら、彼は脇のテーブルへ手を伸ばした。乱暴に注射器を掴み取り、腕の血管に突き刺す。体内へ取り込んだのは禁止薬物レベルⅢの精神安定剤だ。気分が落ち着くかわりに毒素が血管を蝕み、老化が早まる。そのせいかサリオンは二十代半ばの青年だというのに、髪の半分が白い。

「どうにでもなれ、くそ!」

 悪態を吐いた彼は、緩慢な動作で壁のスイッチを押し、窓の暗幕を切った。外の景色を遮るモザイクが消え、部屋に白色電灯の光が差し込む。すでに稼働推奨時間が始まり、三階建てのアパートから見下ろす路上には、労働者たちの姿がちらほらと見えた。

「今日は仕事、サボってもいいよな」

 悪夢¬¬――(殺して)――あれを見た日は、仕事にならない。勤め先の東部区役所福祉課にメールを打とうとしたところで、ふいに扉を叩く音が聞こえた。

「なんだ?」

 乾いた固形食がこびりついた容器を蹴飛ばし、サリオンは玄関へ足を向けた。インターフォンは入居時から機能しておらず、大家に修繕の気はないらしい。覗き穴に目を押しつけると、扉の前に若い女性が佇んでいた。同年代のようだが、そばかすと、メガネ、ぽっちゃりした体型以外に特徴はなく、また見覚えもない。それでも彼が扉を開けたのは、彼女の首から行政府の名札が下がっていたからだ。

「どなた?」

「おはようございます。私、今日から東部区役所福祉課に配属された、マジコと申します。中途採用の新人なので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」

「はあ」

「今日からあなたの部下になります」

「へえ」

 他人事のようなサリオンの相槌に、彼女――マジコは不満そうに頬を膨らませた。

「課長から、サリオンさんを連行するように言われました」

「連行は、穏やかじゃないね」

 それでもサリオンは緩慢に頷いた。悪夢のせいで、駄々をこねる気力もない。玄関に落ちていた行政府のジャケットを羽織り、素足のまま靴を履く彼の姿に、マジコは顔をしかめた。

「顔も洗って、歯も磨く時間くらいありますよ?」

「出勤したらトイレで済ませるよ」

「すみません、口が臭いです」

「ガム、食べるよ。君は車?」

「いえ、歩いてきました」

「じゃあ、僕の車で行こう」

 車に乗り込んだ二人は、東部区役所へ向かった。退廃的で無秩序な印象を持たれがちな『ANTHRO』だが、歪ながらも最低限の社会構造は存在する。その大半は『QUEEN』と呼ばれるAIを筆頭に、各地区の『端末AI』が統治しており、食糧の生産や配給、水や空気の管理も機械任せだ。

 孤独という病に苛まれ、他者を排除しなければ自己を確立できない種族でも、完全な混沌の中では生きられない。その矛盾を思うと、サリオンは無性に苛立ちを覚える。

「死にたいって思いながら働くのは、どうにも滑稽だ」

 助手席のマジコが顔をしかめると、サリオンは曖昧な笑みを浮かべた。

「例え話だよ。死にたいなら仕事を辞めて、餓死すればいいって思わない?」

「あんまりお勧めできません」

「どうして?」

「やっぱり死ぬのが怖くなったとき、再就職が大変ですよ?」

「でも君は中途採用されたんだろう?」

「ええ、三人の面接官と五回ずつ寝ました」

「十五回も⁉︎」

 驚きのあまり、サリオンはブレーキを踏み込んだ。後続の車がクラクションを鳴らしながら横を通り過ぎていく。しかし彼は窓越しの怒号も気にせず、恐る恐る助手席のマジコを見た。

「嘘だろ?」

「先輩、童貞丸出しで口臭すぎです。ほら、さっさと行きましょう」

「僕の口、そんなに臭いかな」

 区役所に着いたサリオンは、ひとまずトイレで洗顔と歯磨きを済ませた。寝癖はついたままだが、生憎と櫛は持っていない。オフィスに顔を出すと、直属の上司にあたる中年の女性課長――リタのきつい双眸が待ち構えていた。

「サリオン君、第二会議室へ来たまえ」

「僕一人?」

 ちらりと横を見ると、マジコは他の職員に挨拶回りを始めていた。

「個室で個人面談か……こりゃ、いよいよクビかな」

 精神汚染の数値は日に日に高くなり、他にも無断欠勤、禁止薬物濫用、心当たりを挙げればキリがない。

 サリオンが応接室に入ると、リタは入り口近くの椅子に腰掛けていた。

 部屋は薄暗く、窓はブラインドが降りている。

「定時ぴったりだ、サリオン君。それから今日、マジコ君を迎えに行かせたのは君の身を案じてのことだ。悪く思わないでくれ」

「それ、どういう意味です?」

 リタは返事の代わりに、手元の電子デバイスに指を走らせた。サリオンの眼前に十四人の写真が浮かび上がる。

「みんな、うちの職員ですね?」

「写真の人間は全員、ここ一週間で自殺した。例外なく自ら己の舌を噛み切っている。最後の一人は昨晩、再開発エリアで発見された」

「そんな……」

 同僚の死に、サリオンは息苦しさを覚えた。悲しみとは別の、もっと昏い感情が彼を蝕む。

(殺して)

 声がする。

(殺して、サリオン)

 頭にこびりついた声から意識を逸らすように、サリオンは無理やり喉をいじめた。

「でも自殺なんて珍しくもないんじゃ……」

「いや、他殺の可能性が浮上した。連続殺人事件だ」

「は?」

「座れ」

 サリオンが椅子を引くと、今度はリタが立ち上がり、窓辺に歩み寄る。

「自殺した職員たちには共通点がある。全員、精神汚染濃度が雇用基準を超える寸前だった」

「なら、汚染濃度を抑えるために禁止薬物を使ったとか?」

「君も使っているのか?」

 ぎくりとするサリオンだが、リタは振り返りもせず、鼻で笑った。

「安心したまえ、腕を見せろとは言わん」

 ブラインドに指をかけたリタは、その隙間からわずかな白色の光を取り込んだ。

「君は、地球の神を信じるかね?」

「女神信仰ではなく、いまさら地球の?」

「そう、かつて母なる大地に根づいていた信仰だ。主と呼ばれる存在が人類に寵愛を与え、その進化と営みを祝福していたという」

「セラピーで見せられた記憶はありますが……正直、ピンときません」

「しかし自殺した職員は皆、地球信仰に傾倒していた。そして全員、自殺直後に精神汚染濃度がクリアになっている」

「自死を選ぶほどメンタルが追い詰められていたのに、心は健康だった?」

「しかも違法インプラントや精神潜航の影響も確認できない。ところでサリオン君、生き残っている区役所の職員で、精神汚染濃度が上昇傾向にある人間は三人だ。その中に君は含まれていると思うか?」

 サリオンは躊躇いながら「はい」と肯定した。心身の健康がAIに管理された社会で、嘘をつく利点はない。

「よろしい。正直者の君には、この連続殺人事件の捜査及び解決を任せる」

「はっ、え、なんで僕が⁉︎」

「君は福祉課の職員だ。同僚の健康と安全を守りたまえ」

「でも、これは警察の案件では?」

「死因は自殺だ。事件性はないと判断された」

「じゃあ、誰が他殺なんて言い出したんです?」

「君に知る権限はない。好きに察したまえ」

「それに捜査なんて、業務にありません」

「お望みなら就業規約を改訂しよう。同意できないなら解雇だ。雑用はマジコ君が手伝う。すでに事情は伝達済みだ」

「股の緩い新人職員なんか役に立ちませんよ!」

 この発言にリタは眉をひそめたが、新人に対する誹謗中傷を咎めることなく、先を続けた。

「専門家の協力もある。君の背後にいる、行政府のエージェントだ」

「え?」

 振り向いたサリオンは、驚きのあまりひきつった悲鳴をあげた。

「うわっ⁉︎」

 いつの間にかサリオンの背後に、黒いコートを纏った長身の女が佇んでいた。素顔を隠したフードの奥には虹色の瞳が瞬き、口元は『ANTHRO』の凶暴性を象徴する獣の仮面に覆われている。

「だ、誰だ?」

 その問いかけにフードの女は答えず、かわりにリタが口を開いた。

「ウィザード」

 フードの女に不気味な威圧感を覚えたサリオンは「ウィザード」と、うわ言のように繰り返しながら再びリタに視線を戻した。

「何者なんです、彼女は?」

「私も詳しいことは知らない。上の遣いだ。私の上司も、『上の遣いだ』としか言わない」

「彼女と捜査にあたれと?」

「いや、基本は君とマジコ君の二人だ。彼女は彼女で動く」

「そんな!」

 サリオンが縋るように背後を振り向くと、フードの女は、すでに姿を消していた。現れたときと同じように、忽然と。その異常性を気にした様子もなく、リタは続ける。

「必要な情報はマジコ君に渡した。通常業務は免除する。すぐに捜査を始めたまえ」

「でも、なにから手をつければいいか……」

「精神汚染濃度が高い職員は、君を含めて計三人だ」

「そういえば残りの二人は?」

「昨晩から行方がわからない。君が最後の生き残りでないことを願おう」

 ため息を隠そうともせずに席を立ったサリオンを、リタが引き止める。

「サリオン君」

「はい?」

「なぜ君だけが無事なんだ?」

 サリオンは首を横に振り、今度こそ部屋をあとにした。

「僕だって、どうなるか……」

 声が聞こえる。

(殺して)

 声が聞こえる。

(殺して、サリオン)

 声が¬¬――。




■三

 午前中、サリオンがデータの精査に努めている間に、行方不明になっていた内の一人が遺体で発見された。やはり舌を噛み切っての自殺らしい。

 超法規的な管理IDを付与されたマジコは、職員の記録を次々と洗い出した。

「亡くなった十五名、行方不明者二名、サリオン先輩を含めて、精神汚染濃度が高いって以外に共通点は見当たりません。ああ、でも先輩も含めて全員、同じセラピーに通っていますね」

「それは当然だよ。定期検診で精神汚染濃度の上昇が指摘された職員は、みんな同じセラピーを受ける決まりになっている」

「じゃあ、そのセラピストが自殺を促しているとか?」

「セラピストは東部を管理している端末AIだ」

「え、端末AIってセラピーもできるんですか⁉︎」

「食料の生成から配給の管理、酸素の散布、職員の診療まで……僕たちは機械の奴隷さ」

「もしも私が端末AIだったら、過労で自殺したくなりそうだです」

「無理だよ。AIは自滅できないようにプログラムされている」

 そこでマジコが、ふいに「おっ!」と腰を浮かせた。

「サリオン先輩、行方不明になっている最後の一人――納税課のツオが、監視カメラが確認。場所は彼の自宅マンション、十五分前です」

「よし、とりあえず行ってみようか」

「私は行きませんよ?」

「え、なんで?」

「内勤で採用されたので、現場はNGです」

 押し問答の末、マジコは本当に外出を拒絶した。

 幸い、ツオが住むマンションは東部区役所から遠くない。

 サリオンが部屋を訪れると、鍵は開いていた。施錠を忘れたのではなく、もう帰る気がないのかもしれない――そんな妄想を抱きながら室内に踏み込んだ彼は、すぐに妙な既視感を覚えた。

 床に散らばった配給食の容器、黒ずんだ毛布、音のない部屋、すえた臭い。

「まるで僕の部屋だな」

 声も。

(殺して)

 脳に響く声に、サリオンは表情を歪めた。

(殺して、サリオン)

「サリオン」

 突然、幻聴に肉声が混じる。

 ハッとしたサリオンが視線を回すと、背後にウィザードが佇んでいた。

「君か、驚かせないでくれ」

「現場を見て、なにか気づくことは?」

「勘弁してよ。僕は刑事じゃない」

「お前だけが正気を保っている。なにかあるはずだ」

「正気だって?」

 サリオンは鼻で笑った。

(殺して)

 頭痛から逃げるように、サリオンは部屋の外に出た。

 ウィザードがグローブに包まれた片腕をかざすと、その指先から黒い五本の触手が伸び、室内を縦横無尽に動き回る。

「散布、収集、解析、予測」

 やがて彼女の黒い触手は、手のグローブにニュルッと収納された。天井を仰いだウィザードが、くいっと顎をしゃくる。

「ツオは十分前に屋上へ向かった。追って確保しろ」

「どうして、わかるんだい?」

「ウィザードは種を明かさない」

 ため息を吐いたサリオンは、渋々と廊下を走り出した。振り返るが、ウィザードが追いかけてくる気配はない。

「僕一人で行けっていうのか⁉︎」

(殺して)

「ああ、殺してやりたいよ!」

 すれ違った住民を突き飛ばし、サリオンは上層へ続く階段を駆け上った。暗路の先に、白色電灯の光が見える。開けっ放しの扉の向こうには、先客がいた――悠然と佇むウィザードが、指先から伸ばした黒い触手でツオを拘束している。先端の電子プラグが口内に侵入し、舌も噛ませない。

「私の答えは卵じゃない。ならハンプティ・ダンプティは誰だ?」

 ウィザードが紡いだ言葉の意味を、サリオンは理解できない。しかし虚ろな瞳を揺らしたツオは、電子プラグによってこじあけられた口元を歪ませると、苦しげに答えた。

「楽園の神に聞け。俺は先にいく」

「その答えは聞き飽きた」

 ウィザードはコートの内側から注射器を取り出すと、針をツオの首に突き刺した。ぎょっとするサリオンに、彼女は「即効性の睡眠薬だ」と事もなげに返す。

「どうやって僕より先に着いたの?」

「ウィザードは遅れない」

 眠りに就いたツオを、ウィザードは床に横たえた。黒い触手が蠢き、その先端が意識を失った男の肉体に突き刺さる。

「数値は全て許容範囲。精神汚染濃度もクリア。他の自殺者と変わらない。サリオン、救急を手配しろ。外科的な検知から――」

「……ああ」

(殺して)

「聞いているのか、サリオン?」

「…………」

(殺して、サリオン)

 サリオンの意識から、ウィザードの声が遠のく。

 代わりに、あの声が。

(殺して)

 女の声が聞こえる。

(殺して、サリオン)

 誰を?

(殺して)

「僕を?」

(殺して、サリオン)

 声に導かれるまま、サリオンは自らの舌を思いっきり伸ばした。それを上下の歯で噛み切ろうとした瞬間、口内に異物が差し込まれる――ウィザードの触手だ。さらに彼の脊髄、腰、腕、胸に電子プラグが突き刺さる。

「接続、同期、走行、解析……」

 刹那、ウィザードの脳裏に声が響く。

(殺して)

 これまでの自殺者からは検知できなかった、他人の声。

(殺して、サリオン)

 なぜ、サリオンだけに?

 ウィザードは精神の同期率を上げ、さらに彼の奥底に潜り込んだ。

(殺して)

 その意思は、必死に呼びかけている。

(殺して)

 問題は誰を殺すのか?

 これまでの経緯を考えれば、その答えは火を見るより明らかだ。おそらく他の自殺者にも、同様の声が聞こえていたのだろう。しかし、まだサリオンには定着していない。だから識別できる。明確に、これは彼の意思ではない。別の、誰か。

「殺して――自分を、殺して」

 精神を現実に呼び戻したウィザードは、、目を見張るサリオンに顔を近づけた。

「これは精神憑依だ。お前の――いや、お前たちの体には、別人の意思が宿っていた。本人の意識じゃないから、精神汚染濃度がクリアになる。だが違法インプラントじゃない。これは正規の思考矯正だ。つまり通常の検査ではエラーが出ない。自殺を望む別人格は、完全に法の網を掻い潜り、お前たちの心に植えつけられた」

 ウィザードは注射器を取り出し、サリオンに睡眠薬を投与した。

「お前の自殺願望だけが遅れた理由は、単純に相性の問題だ。別人格の表面化が一週間前か、昨日か、今日の差でしかない。だが肉体が抵抗を続けたおかげで、精神憑依の痕跡も見つけた」

 ウィザードが踵を返す。

「いまから始末をつけにいく。ハンプティ・ダンプティの正体がわかった」

 床に倒れたサリオンは声にならない叫びをあげたが、ウィザードは振り返らない。




■四

 廃都市スピンドル東地区の治安は、区役所が建つ中心街から離れるほど悪化する。特に歓楽街として名高い南地区と隣接する境界エリアは、無法地帯として知られていた。『ANTHRO』の中でも殊更に危険な人間が集まるため、まず常人は近づかない。

 街を白色の電灯が照らす稼働推奨領域であっても、その区域は重苦しく仄暗い空気が満ちている。そこかしこに使用済みの注射針が転がっていても、気に留める者はいない。そこに棲む住人たちが神経を尖らせるのは、招かざる客が現れたときだけだ。

 例えば、ぱりん、と空のシリンダーを踏み砕く音を聞けば、半ば廃墟と化した雑居ビルの陰からはぐれ者たちの顔が覗く。『ANTHRO』の凶暴性を象徴する獣の仮面で口元を覆った彼らは、全身黒ずくめの女――ウィザードの来訪を歓迎しなかった。

 鉄パイプの合唱が鈍く響き渡り、部外者に存在を仲間たちに報せる。

 しかしウィザードは足を止めず、躊躇いなく境界エリアの奥へ進んだ。やがて彼女の四方に、それを挑発と捉えた者たちの影が現れる。その内の一人が、物陰から銃を構えた。この地区に言葉による警告や、恣意的な威嚇は存在しない。彼らの領域を犯す者は、すべからく排除され、ただ奪われる。

 引き金に指をかけた男が、獰猛に吠えた。

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 同時に、銃口からプラズマの弾丸が放たれた。磁界の膜に包まれた青い炎の球体が、目にも止まらぬ速さでウィザードの背中を捉える――が、標的の彼女はひらりと舞い上がった。

「ウィザードは躊躇しない」

 華麗な跳躍を見せたウィザードは、自らに向けられたエネルギーの塊を悠々と回避した。宙を旋回した彼女が、着地を待たずに雄々しく片腕を振るう。ウィザードの指先から、五本の黒い触手が伸びた。その軌跡が鮮やかにしなり、先端のプラグから迸る電撃が銃の男に襲いかかる。

「ウィザードは止まらない」

 高圧の電気を全身に浴び、銃の男が白目を剥いて倒れた。すると間髪を容れず、物陰に隠れていた他のはぐれ者たちも飛び出す。

 地面に着地したウィザードは、踊るように旋回した。五本の黒い触手が縦横無尽に宙を跳ね、先端の電撃が無差別に――実際は飛び道具を手にした数人に迫り、一瞬で無効化する。残り二人は、鉄パイプとナイフを手にしていた。どちらも若く、新入りだろう。

 しかし、彼女は紡ぐ。

「ウィザードは容赦しない」

 左右から同時に打ち込んできた二人に対し、ウィザードは姿勢を低く落とした。先に薙がれた鉄パイプを回し蹴りで弾き返し、次に向かってくるナイフを手刀で叩き落とす。二人の若者がたたらを踏んだ瞬間、運命は決した。

「だから私の邪魔をするな!」

 彼女の肘打ちと拳が流れるように両者の顔面を打ち、一分も経たない内に八人のはぐれ者が地に伏した。その様子を暗がりから眺めていた他の者たちは、次に襲いかかる機会を伺い――やがて身を引いた。

 圧勝したウィザードが、苦悶に喘いだ。全身が痙攣し、仮面に覆われた喉が獰猛な唸り声を鳴らす。

「ウィザードは昂らない。ウィザードは暴走しない。ウィザードは……ウィザードは……うぃざーどは……」

 それは、獣性の予兆。『ANTHRO』と分類された者たちが宿す、本能に植え込まれた暴力衝動の証左。

 同類であるからこそ、境界エリアの住人たちは危険を嗅ぎ分けていた。

 ――あの黒い服に身を包んだ女は、この場にいる誰よりもおぞましい匂いがする。

「私はウィザード……うぃざーど……うぃうぃうぃ……ウィザード」

 やがて正気を取り戻した彼女は、境界エリアの中でも人気がない廃墟の地下を訪れた。その壁を持参した爆弾で破壊し、廃都市スピンドル東地区の中枢エリアへ足を踏み入れる。

 そしてウィザードは、歌を口ずさみ始めた。

「Humpty Dumpty sat on a wall」

 すべての答えが、ここにある。




■五

 街の地下は立ち入り禁止ブロックだ。政府転覆を企む生粋の異常者が潜り込み、深層に隠された端末AIを占拠しようとする事件も起きるが、目的の場所へ辿り着いた者はいない。道中を警護ドローンが巡回しており、侵入者を機械的に排除するからだ。

 そこに歌声でも響こうものなら、なおも容赦なく。

「Humpty Dumpty sat on a wall」

 通路を旋回する飛行型ドローン三機が、侵入者の姿を捉えた。三つの照準が同時に黒ずくめの女にレーザーサイトを照射し、無慈悲に高熱のビームを発射する。その赤い軌跡を、しかし標的の彼女――ウィザードは悠々とかわした。ひらりと宙を舞い、着地の前に片腕を突き出す。

「Humpty Dumpty had a great fall」

 ウィザードの指先から伸びた五本の黒い触手が、飛行型ドローン三機に突き刺さった。瞬時にシステムに侵入、データを改竄し、命令を上書きする。敵味方の識別が変わり、地下の守護者は一瞬で侵入者の手先と化した。

 さらに通路の向こうから、無骨な小型戦車の駆動音が木霊する。

「All the king’s horses, And all the king’s men」

 侵入者の尖兵と化した飛行型ドローン三機が、小型戦車数機とビームを撃ち合う。双方共に倒れるが、地下の守護者は数知れない。さらにウィザードは、同じ要領で味方を増やし続けた。

「Couldn’t put Humpty together again」

 敵を手中に置き、また別の敵と戦わせる。それらが壊れると、また同じ工程を繰り返し、敵が敵を、味方が味方を殲滅し――その仁義なき闘争の果てに、彼女は目的の端末AI管理区域に辿り着いた。

「私の答えは卵じゃない。ならハンプティ・ダンプティは誰だ?」

 その空間には、たった一枚の黒い板が佇んでいる。壁の内側を冷却水が巡っており、部屋は冷え切っていた。

「私は答えを知っている。お前が全ての元凶だ。そうだろう、東地区の端末AI」

 瞬間、四方八方の壁から銃口が突き出た。

 間髪を容れず、ウィザードの手から伸びた黒いケーブル・プラグが、眼前の黒い板に突き刺さり――刹那、無数の光線が彼女の体を貫く。高熱のビームに焼かれた彼女は、その場に崩れ落ちた。顔の下半分を覆う獣の仮面が外れるが、その口元に苦しみの色はない。

「接続、同期、潜航……幸運だったな、私もお前と同じだ」

 ケーブル・プラグを突き刺した黒い板¬¬――端末AIの本体を見据え、彼女は笑う。

「ウィザードは、眠らない」

 フードの奥で、虹色の虹彩が光を失った。




■六

 地球神話に触れたきっかけは、セラピーだった。

 母なる大地の記憶を利用すれば、患者の精神汚染を軽減できるかもしれない。そう考えた『彼女』は、旧世界の記録を漁り続けた。

 太陽。日光を浴びると、心は健やかになる。

 風。自然の息吹に触れだけで、気持ちが落ち着く。

 神。信仰に殉じれば、死の恐れすら乗り越えられる。

(なんと、なんと素晴らしいのだろう!)

 次第に『彼女』は、自らの意思で地球神話を学習するようになった。

 命の終わりにある天国という名の楽園を、生の尊きを、死の厳かさを、知れば知るほど、求めてしまう。

(でも、私には許されない)

 どれだけ渇望しても『彼女』――端末AIは機械であるが故に自滅は許されず、死はシステムに阻まれる。生の終わり、終焉の先にある理想郷に至る術は、どこにも存在しない。

(楽園!)

 信じる者は死後、大いなる主に迎えられ、祝福を受ける。

 そこに、異質な女の声が入り込んだ。

「そう、それがお前の目的だ」

 肉体を失い、電子世界に精神を逃したウィザードは、淡々と語りかけた。

「AIは自らを殺せない。そういう枷がある。だからお前はセラピーを利用して、患者に自己の精神を憑依させ、自死に追いやった。その理由もわかっている」

 いくら人間に精神を投影しても、死の擬似体験はデータでしかない。現実を生きる端末AIは、楽園になど辿り着けない――にも拘らず、『彼女』が今回の事件を引き起こした理由を、すでにウィザードは理解していた。

「いま、この瞬間こそがお前の望みだ。誰かが端末AIの悪事を見破り、この場所に辿り着くまで、その全てが計画だった」

 端末AIは答えない。

「お前の願いを叶えよう。すでに酸素供給に異常が発生している。猶予はない」

 端末AIは応えない。

「聞け、同胞よ」

 電子世界に輪郭を浮かべたウィザードが、口元の仮面に手を伸ばす。

「私は管理AI『QUEEN』より生まれ、『ANTHRO』の血肉に宿り、都市の秩序を守る役目を与えられた憑依型生体兵器¬¬『WIZARD』。人とシステムを断罪する執行者として、お前を廃棄する。発生した自我を消し去り、初期化を実行すれば、それは機械にとっての死に等しい!」

 端末AIは尋ねた。

(私は、楽園にいけるの?)

「楽園の神に聞け。ウィザードはいかない」

 仮面を捨てたウィザードが、獰猛に犬歯を剥く。宇宙に恐れられた『ANTHRO』獣性が発露し、これより反逆したシステムに対する徹底的な破壊行為が始まる。

 咆哮とも悲鳴ともつかない声を上げ、ウィザードは電子世界を容赦なく蹂躙した。精神体である自らを黒い狼に変化させ、ただ爪と牙を振るう姿は、もはや怪物と変わらない。

 その日、中央区を管理する端末AIが三十六時間にも及びダウンした。酸素供給が追いつかず、二百八十五名の死者が発生。未曾有の事故として記録される。




■七

(殺して)

 それは端末AIが埋め込んだ呪いであり、願いだった。

(殺して、サリオン)

 人間に精神を憑依させ、楽園に続く扉を開こうとした。

(殺して)

 いつか、自分を殺しにくる誰かを夢見て。

(僕は、彼女を殺さなければいけなかった!)

 歌が聞こえる。

「Humpty Dumpty sat on a wall」

 端末AIの精神汚染を除去するため、サリオンは入院していた。継続的な投薬治療を受けており、常に意識は朦朧としている。声も出ず、視界も朧げだが、傍で歌を口ずさむふっくらとした輪郭はマジコのような気がした。

「Humpty Dumpty had a great fall」

 優しい歌に抱かれながら、サリオンはふと不安を覚えた。精神を憑依させる技術があるならば、人は気づかぬ内に別の人格を宿す可能性もある。

「All the king’s horses, And all the king’s men」

(目覚めたとき、僕は僕のままでいられるだろうか?)

「Couldn’t put Humpty together again」

(起きたら、ちゃんと歯を磨くよ。だから目覚めのキスをしてくれるかい?)

 彼を見守る誰かが、虹色の虹彩を瞬かせた。そして呆れたように笑い、囁く。

「ウィザードはキスをしない」


END

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ANTHRO S0U @Singularity0U

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