第39話 一年投手をエースに育てるために②
■1回裏:ときめき学園の攻撃。
既に夏の甲子園本選まで、日は残っていない。この緊張の高まった時期に今まで隠してきた新情報を開示したとすれば、対応できる高校はほぼいないであろう。
そう判断した故に、今回の試合では隠し情報を一気に開示することになった。
(翠清学院高校は、れっきとした強豪校だ。だからこそ本命打線を試すのにちょうどいい)
少し遡ってスタートメンバーが発表された時、会場はわずかにざわついていた。今までと違うオーダーだったからである。
オーダー用紙を交換した瞬間の相手監督は「ふん?」と鼻を鳴らしただけだが、こちらの意図には気付かれただろう。
この試合から、ときめき学園の打順はいつもの打順から変わる。半ば奇襲のようなものだ。
1番、羽谷妹。
2番、蜜石。
3番、緒方。
4番、甲野。
5番、星上(俺)。
6番、森近。
クリーンアップ陣営の大幅変更。
俺と森近が大きく後ろに下がり、蜜石がなんと2番に抜擢されている。特に打点王森近の扱いが変わったことが大きい。
御存知の通り、蜜石のバッティングセンスには光るものがある。森近もかなり打てるピッチャー(打率3割5分)だが蜜石の方がやや上手い。
セイバーメトリクスに従うなら二番打者と四番打者に長打力のある打者を配置するのがベスト。なのだが、二番に緒方を配置すると、ほぼ確実に敬遠されることが目に見えている。
本来、前に走者二人を抱えた状態だと、フォースアウトの発生率が高くなるため、打撃を飛ばすエリアが限定されてしまい、内野へのヒッティングが難しくなる(その状態で打率3割5分を維持している森近もかなり非凡なのだが)。
それを加味して、蜜石の負担を減らすために二番にしたのだ。
「負担減ってないっす……」
「よしよし、気持ちはわかる」
虚無感たっぷりの顔になっていた蜜石の背中を撫でて励ます。
言っておくと、二番打者も難しいのだ。
長い事二番打者を務めてた俺にはよくわかる。一番打者が盗塁を狙うならアシストも考えるし、球数を引き出すためにカッティングは求められるし、場合によっては犠打狙いも考慮に入る。リードオフマンに近いポジションであるため、盗塁を仕掛ける妙味もある。技巧が試されるのだ。
なので蜜石が気苦労を感じているその心情はよく分かる、と発言したのだが。
「ホッシ先輩ドS過ぎます……」
「?」
周りから、お前が言うなという視線が突き刺さった。どの口で"よく分かる"だなどと言ったのかとばかりに。
しばらく沈黙が生まれ、妙な空気になった。
「……ホッシ先輩と一緒にいると、情緒滅茶苦茶にされますね」
「だろ? あいつ人を滅茶苦茶にする天才だからな」
蜜石と緒方が何だか失礼なことを耳打ちしていた。緒方のことを滅茶苦茶にしたつもりはないのだが。多分。そんなしょうもない話をしてる暇があるなら、さっさとネクストバッターズサークルに入ってほしい。
翠清学院高校の投手は、最速145km/hのストレートに加え、カーブとスライダーとフォークを操るいい投手である。
七色の変化球を持つ森近よりは少し球が速く、速球派の緒方よりも手数を持っている。
だが、最速151km/hの緒方よりは球が遅く、森近より制球が微妙で変化球にキレがない、とも言える。
緒方と森近の球筋に見慣れたときめき学園の打線にとって、打てない投手ではない。
(本当、悪くない投手なんだけどね。あれぐらいの球速と球種を持ってるんなら、甲子園でも通用する水準だと思うけどな)
相手が悪すぎた。
1番打者、羽谷が4球粘って5球目を軽く流して1塁進出。見慣れた光景である。
リードオフマンの入り方にも二つあって、相手先発ピッチャーの立ち上がりが悪いところを初球から叩いて精神的に揺さぶるか、球種を引き出して情報を集めるか、が考えられる。
現代的な野球の考え方では、見せ球を多用する時代と違って三球勝負が多くなる。ストライクカウントが悪くなるのを避けるため「球種を引き出す」という入り方はあまりない(そもそも相手投手の情報はデータ解析できる)のだが、この世界ではまだ後者の考えが根強い。
すなわち、相手投手の調子が良さそうかどうかを偵察する役目。球数消費も兼ねての仕事である。
羽谷は後者を選んでいた。『無理に長打を狙わないなら安打で進める』という確信があっての選択。選球眼が鋭く、カッティングが上手いからこそできる小技でもある。
(まあ、蜜石には『カウント悪くする方がしんどいと思うから浅いカウントでも打っていいよ』って言ってあるしなあ。球数消費させる役割は羽谷の仕事かな)
大切なのは、羽谷が出塁してしまった――という事実である。
強豪校相手に
◇◇◇
「盗塁があるねぇ、2球ぐらい牽制させな! 捕手にも前傾姿勢を取らせておくようサインをお出し!」
長年の勘。翠清学院高校の老監督は鋭く指示した。
スターティングオーダーを見たときからそんな予感がしていたのだ。
(はん!
となると全力で
煙草を吸いたい気分である。
(まあ、ワシには前のオーダーの方が嫌だったけどねえ。羽谷、星上、森近で2アウト取らないと緒方、甲野を敬遠したとしても1点失点が確定するんだからね)
状況はさほど変わっていない。
が、今回の打順では蜜石一人をアウトにするだけで、無失点で終われる可能性が残る(星上と森近をアウトにすることが絶対条件になるが)。
厳しいことに変わりはないが、三人中二人を絶対にアウトにしないといけない緊張感と、二人中一人を絶対にアウトにしないといけない緊張感では、まだ後者の方が比較的マシと言える。
とはいえ、今まさに羽谷に塁に出られてしまった訳なのだが。
牽制球ごときで塁死してくれるような甘い走者ではない。とはいえ、羽谷の離塁距離は少しだけ狭くなったので、それで十分。
(ま、いいさ。盗塁を警戒している姿勢だけでも見せときゃあ十分さね。走られるのを警戒して、カーブは封印して、直球とスライダー中心で料理するかねえ)
これでも盗塁してくるなら二塁で刺す絶好の機会である。
そう考えた刹那のことだった。
◇◇◇
【頑張れ】近江県高校野球スレ118【湖国球児】
581:やきうのお姉さん@名無し
近江県の打者、すっかり貧打になったな
こんなフィルのひょろひょろ球を打てないなんて
582:やきうのお姉さん@名無し
だから1年生のこといつまでもぐちぐち言うんじゃねえ
これから成長してくれたらいいんだから
584:やきうのお姉さん@名無し
おっと
585:やきうのお姉さん@名無し
盗塁!?
586:やきうのお姉さん@名無し
序盤から攻めるねえ
587:やきうのお姉さん@名無し
羽谷とまらん
588:やきうのお姉さん@名無し
いきなり盗塁かあ
普通盗塁って一死や二死から狙うものだと思うけど、羽谷ぐらい足早かったらいきなり狙うのもありなのかね
589:やきうのお姉さん@名無し
>>588
せっかくの無死からのランナーをリスク承知で盗塁させる必要性が乏しいのでは?
590:やきうのお姉さん@名無し
え、今の凄くない?
牽制球も投げてたし、翠清学院のバッテリー明らかに盗塁警戒してたやんけ
それで盗塁成功させる羽谷のクソ度胸と足の速さよ
591:やきうのお姉さん@名無し
やり過ぎだと思うけどな
羽谷じゃなかったらアウトになってたと思うが
593:やきうのお姉さん@名無し
えっ三塁!?
594:やきうのお姉さん@名無し
うおおおおお
596:やきうのお姉さん@名無し
ハイリスク過ぎて草
597:やきうのお姉さん@名無し
グロい
599:やきうのお姉さん@名無し
やり過ぎやろwww
601:やきうのお姉さん@名無し
これにはホッシももっこり
602:やきうのお姉さん@名無し
ホッシ「盗塁の価値は0.17点、仮に企画数からみた成功率が70%だとすると、統計的にはあまり有効な戦術ではない」
603:やきうのお姉さん@名無し
翠清学院のバッテリー明らかに盗塁警戒してたのにこれはええんか?
こんなの成功したらどないしようもないやんけ
605:やきうのお姉さん@名無し
羽谷すげー
これ成功するんなら、もう羽谷出塁したら三塁は覚悟しろってことよね
607:やきうのお姉さん@名無し
いやいやいや
無駄なリスクを取り過ぎでしょ
後の打線が強力なんだからそこまで無理しなくてもいいのに、何をやってるんだか
◇◇◇
結論から言うと、ノーリスクに近い盗塁というものは存在する。
それは、プロ野球ほどの水準でクイック・スローイングを実現できるチームがほぼ存在しないためである。
具体的な理屈としては、クイックに何秒かかって、スローイングに何秒かかって、という計算をしたときに盗塁の時間がそれより短かったら、理論上盗塁を防ぐのは不可能になる[1]というお話だ。これは去年から考え続けていた構想の一つである。
参考[1]:https://kakuyomu.jp/works/16817330658631073996/episodes/16817330659326621348
羽谷の速度は、俺の解析では50m走で6秒2。
手動測定では5秒8を記録したこともあったが、流石にそれは測定側のミスであろう[2]。
参考[2]:https://bunshun.jp/articles/-/8621
とはいえ、羽谷の足が速いことに変わりはない。羽谷の盗塁タイムは平均3.2~3.3秒。もう少し速ければNPBでも活躍できる数値である。
そしてその足の速さがゆえに、盗塁がほぼ無条件で成立してしまうようなバッテリーが存在する。強豪とされる翠清学院高校のバッテリーでさえも、その例外ではなかった。
(条件を満たさないバッテリーに、強制的に二塁走者ないしは三塁走者がいる状態を押し付けられる。先頭打者羽谷の本領発揮だな)
他の高校が走り込みやタイヤ引きやらを練習している間、羽谷には淡々とスプリントを鍛えてもらっていたわけで。元から足の速いやつが合理的にトレーニングを積み重ねていれば、こんな極端な化け物も誕生する。
先頭打者の羽谷の出塁率は7割近い。
ランナー1塁とランナー3塁では(アウトカウントによるが概ね)得点期待値は倍近く違う[3]。
参考[3]:https://baseball-datapark.skr.jp/arekore/run-expectancy/
こんなやつが7割出塁するとなれば、やりたい放題と言っても過言ではない。
今までは盗塁を意図的に控えめにしていた。なので他の高校も『羽谷って足が速いんだな』ぐらいにしか認識してなかったはずである。こんな無茶苦茶に足が速いと、まあ打たれてもいいか、なんて悠長に言ってられないだろう。
甲子園本戦まで残り一ヶ月もないこの時期に、計算外の大きな情報を開示することで、相手高校の作戦を根本から壊すのだ。
「もう蜜石はスクイズ狙いでもヒッティング狙いでも何でもいいな」
羽谷が三塁についたら、もう蜜石は何をしてもいい。2ストライク取られているが、十分蜜石は仕事をしたと言える。
蜜石の選択はバントの構え。いかにも高校野球っぽい、堅実なスクイズだ。140km/h超えのストレートを持っていようが、これで関係なくなる。最速153km/hの大沢木選手みたいな化け物相手でも同じだ。
いい投手が相手であればあるほど、スクイズは光る。
実際、今1アウト同点になれば有利。確実性を求めるならスクイズの選択肢も十分あり得る。
だが――。
(お、ときめき学園流をよく分かってるな、流石は蜜石)
蜜石は、バスターを選んで三塁側に飛ばした。
あわよくばノーアウト一塁を作り出したかったのだろう。注文通り、打球は三塁に跳ねた。
これは相手バッテリーが素直すぎた。スクイズを嫌ってウエスト気味に外したボール球を投げればこんなことにはなっていなかった。
多分、スクイズを甘んじて受け入れようとして、裏をかかれたに違いない。
(まあ、そりゃそうか。今の場面は、どこに転がしてもほぼ1点獲得みたいな状況だったからな。失点はもう仕方ないと考えたら、確実に1アウト取らせてくれるうちに取りたくなる。さっきのは蜜石の読み勝ちだな)
相手バッテリーは堅実に行こうとしたのだろう。スクイズなら、ほぼ確実に1点失点するが1アウトもぎ取れる。それをやむなしと考えた。
そして裏をかかれた。こういうことがあるから野球は面白い。
得点は1−1。ノーアウトランナー1塁。
次の打者は緒方。
普通に見れば、相手バッテリーはもう窮地に立たされているも同然だった。
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