第40話 一年投手をエースに育てるために③
蜜石が意表を突くバスターを決めたとき、翠清学院高校のベンチは苦悶の声に溢れた。
落ち着きが急になくなったと言っても過言ではなかった。
ただ一人、老いた監督のみが、ふてぶてしくも動揺を見せなかった。
「ああー! そんな!? 監督、どうすればいいんですか!? こんなの逆転されちゃいますよ!?」
「緒方と甲野に、勝負だね」
「えっ」
「方針転換だ。分が悪いが緒方か甲野かどこかでアウトを取っとかないといかん。女なら腹くくって
老監督の指示は簡単だった。
「お前らァ、あいつらにビビって敬遠しようとしたんじゃないだろうね?」
「ですけど緒方と甲野ですよ!? 打率5割超え、打たれたらほぼ長打確実みたいな化け物――」
「馬鹿言ってんじゃないよ、寝ぼけるのも大概にしな! 星上と森近も打率4割と3割5分だろうが!」
「本塁打の割合が違います! 星上と森近なら併殺率も高いですし、ここは満塁にして、ゴロ狙いの配球で併殺狙いのほうが……」
ベンチがざわつくのも無理はない。
緒方と甲野に挑むのは愚策中の愚策と思われていた。4回に1回ホームランで走者一掃されてしまうような化け物なのだ。25%以上の確率で、2点〜3点失点が確定する。二人連続となればなおのことである。
それならばむしろ、満塁にして星上と森近で勝負するほうが賢いように思われた。
長打を防ぐ配球でゴロ中心にさせればほぼ単打。4割の確率で1点失点、3割5分の確率で1点失点、のほうが堅実に見える。
だが。
「緒方と甲野にゴロを打たせな。長打を防ぐ配球なんて偉そうなこと言ってんなら、それで長打が怖い打者を殺すのが野球ってもんなんだよ!」
「……!」
「緒方と甲野は怖いけど、星上と森近ならいける、なんて中途半端な侮りの方が間違ってんだ! ええ!? 星上と森近なら長打も本塁打もないなんて言葉、そんなのは確実に4割打者を仕留められる奴だけが口にしな!」
老監督はこの段階で既に直感していた。
この場面、敬遠を選びたくなるのはむしろ罠なのだと。敬遠を選んでも厳しい勝負を強要されるなら、敬遠の意味がほとんどないのだ。
厳密に言えば、『(淡い希望ではあるものの)星上と森近で併殺を狙う』という話はまだかすかに残っている。ワンアウトあるのとないのとで全然動き方が違うのだ。ワンアウトあればゲッツーで即終了になるので、ゲッツーを作りやすいよう塁を埋める旨味がある(=緒方甲野を敬遠する旨味がある)が、ノーアウトは失点リスクが増えすぎている。
蜜石の番でワンアウトを取れなかった以上、ここで緒方甲野を敬遠して塁を埋める意味が薄くなった。
……というのが、監督の判断である。
このさじ加減は勘としか言いようがないが、勝負にまぎれを起こすならこのあたりが攻めどころ。相手も試合運びの構想を練ってきているに違いないが、その前提になってそうな「緒方甲野の敬遠」をあえて崩すことで泥仕合に近づける。
「『緒方と甲野相手に併殺を願うのは無謀で、星上と森近相手に併殺を願うのが現実的、だから満塁をタダでプレゼントします』……ってのがおふざけなんだよガキ共! 満塁は極力回避するのが当たり前だろうが! 単打に抑えられるって豪語するならなァ、緒方と甲野にゴロ打たれて、戦って満塁になるほうが百倍マシなんだよ!」
「でも、緒方と甲野ならゴロ狙いでも無理矢理長打にされるかもしれませんよ!?」
「そらオメー、お見事じゃねえか。そういうので負けたら納得いくだろーが」
だがまだ負けてない、と老監督は言葉を続けた。
「ガキ共よーく聞け。十中八九負ける試合ってのはな、堅実そうな戦い方をしても負けるんだ。丁寧に手を打っても負ける。辛抱強く粘っても負ける。ワシらはそういうのを受け入れるしかねえんだ」
だがね、と一言。
「せめて、せめて十回に一回の勝利が欲しいならね、どこで勝負するかをこっちから選ぶのさ。相手に選ばせるんじゃなくて、こっちが選ぶ。世代最強のスラッガーと言われてる
それが泥仕合にする秘訣である。
分が悪い勝負でも、分が悪いなりに、勝負の図式を単純にして腹を括れば、存外良い結果がついてくるのだ。それを老監督は熟知していた。
◇◇◇
「今回の打順の良さはだな、蜜石がゲッツーを取られない限り、『1点加点』か『満塁で星上・森近』が高い確率で確定するところだ。蜜石が羽谷を帰すことに成功すれば『1点加点』、蜜石が三振か凡打で討ち取られても『満塁で星上』だからな」
1番、羽谷妹。
2番、蜜石。
3番、緒方。
4番、甲野。
5番、星上(俺)。
6番、森近。
何度見返しても、我ながら惚れ惚れする采配である。特に何が素晴らしいかというと、俺と森近のやることが単純化されているところである。
『1点加点』か『満塁で星上・森近』。
満塁ということは内野前進守備の可能性が高く、『内野ゴロ→ゲッツー』が最悪のシナリオになる。
だが一方で、「最悪犠牲フライでもいいや」で遠く飛ばせば、ほぼ確実に1点入る。羽谷も蜜石も緒方も足が速い。犠牲フライからのタッグアップで1点もぎ取れる。
つまり実質、『1打順回れば何がどうあっても1点は確実にもぎ取れる打線』である。1番羽谷、3番緒方、4番甲野は高い確率でノーアウト進塁なので、最低でも2イニングで1サイクルは回る。4サイクル回るので、5サイクル目の前半まで無事回せたら、5点は確実に取れる。
問題は、俺と森近が犠牲フライをきちんと打てるかどうかなのだが――犠牲フライさえ中々打てないような圧倒的エース投手なんて、大沢木投手ぐらいしか思いつかない。
それでも5サイクル全部失敗とはならないはずなので、ときめき学園が1点も入らずに負ける、なんてことはこれでほぼなくなったと考えても過言ではない。
「というか、『羽谷3塁→蜜石犠牲フライ』、『緒方3塁→星上犠牲フライ』で1サイクル2点でもいいなこれ。そしたら何も考えずに10点も見えるな」
羽谷に次いで、緒方もやたらと足が速い。丸一年かけて徹底的なトレーニングでスプリント力を伸ばしたので、高校一年の時に比べたら、飛躍的に走塁力が伸びているはずである。
三塁への盗塁がもし出来れば、1サイクル2点にすることも出来るだろう。
足の速さは馬鹿にならない。野球において足の要素を軽視しすぎると、こんな馬鹿げた話を見落とすことになる。
これからどんどんシステマチックに『クイック+スローイングが規定秒数以上のバッテリーは盗塁』をすれば、相手チームによっては最初から『10点獲得』が確定するゲームになる。
無法にもほどがある。
投手のクイックモーションの研究が遅れているこのご時世、甲子園まであと一ヶ月というこの時期まで、こんな重要情報を隠し通すことができた。
それだけでときめき学園は極めて有利な立ち位置にある。
「まあ……絶対に盗塁が成功して、絶対に蜜石・星上の犠牲フライが成功するっていう仮定がそもそもおかしいんたけどな」
幾分か穴はありそうだが、いやはや本当にいい打順を思いついたものだ、と我ながら鼻高々である。
采配はシステマチックに。野球は頭脳競技なのだから、こうでないといけない。
そう思っていた矢先である。
緒方が泳がされて、苦しい単打を打ったとき、俺は思わず目を疑った。
「え? 敬遠じゃないの?」
緒方が敬遠されていない。
あの打率5割2分、OPS2.2という化物みたいなスラッガーと正面勝負を選んでくるなんて想定外である。ここはほぼ確実に敬遠を選んでくると思っていたが。
「……今のは危なかったな、足で無理やりセーフにした単打って感じだったが」
重ね重ね言うと、確かに相手投手は甲子園でも通用しそうな、いい投手である。
だが緒方を制圧するにはやや役不足というべきか。ここで勝負するのは、分の悪いリスクのある選択だと思う。
「……」
相手バッテリーが無意味にリスクを取って、緒方と勝負を選んだ――と考えるのは楽観的すぎるだろう。
勝負はまだまだ始まったばかり。打線1巡目から早速、考えさせられる展開になっていた。
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