闇にさす光

@nikki-Capri

闇にさす光

プロローグ

 此処は何処なのだろう、照明もついてない暗い部屋。明かりといえばステンドグラスを施した窓から薄明かりが差し込むのみ。

 ドームのような高い天井にステンドグラス……教会なのだろうか。そういえば正面にはキリストらしき立像が闇の中に浮かんでいる。その右側にはマリア様だろうか、慈愛に満ちた女性の絵が掛けられていた。

 背景が暗いため絵の全体は闇に溶け込んで他には何も見えない。

 と、突然穏やかだったマリア様の顔が醜く歪む。女性の顔立ちから徐々に変化し苦悶する顔は男性に変化していく。それは紛れもなく父親の顔であった。

父さん! 思わず叫び声を上げ目が覚める。

「夢か……」体中が汗でびっしょり濡れていた。

 何度この夢を見たことだろう。この先も死ぬまで悪夢にうなされ続けるのだろうか。夢は自身の深層心理の現われだという。父を憎んでいるのだろうか? いや憎むべきは父ではない。冷たい仕打ちをした画壇や美術界すべてに関わる者達だ。

いつまでもこんな思いを引きずって生きていくのはごめんだが、もうそれもあと僅かで終わる。

 そんな想いを胸に秘めながらCDを掛ける。ジャッキー・マクリーンのサックスが、亡きレディ・デイを偲ぶように哀しみを込めて流れ出す。そう、マル・ウォルドロンがレディ・デイに哀悼の意を表して制作した「レフト・アローン」だ。

それを聞きながら、汗を流しにバスルームへと向かった。


第一章

           一

 目的の家は郊外の住宅街にあった。庭付きのツーバイフォー住宅だ。門扉から玄関まで両脇を花壇に挟まれるようにカラータイルが敷き詰められた通路が延びている。敷地左手が駐車スペースとなっており、MGのRV8が鎮座している。その奥にリビングに面した芝生の庭が広がっていた。決して豪邸ではないが、ある程度裕福で趣味の良さそうな住人の住まいであろうと思われる。

最終電車の時間はとうに過ぎ、今では通行人の姿も途絶えている。

大きなトラックがゆっくりとやってくると道の左に寄せて止まる。車内には黒い影が三つ。車の窃盗グループである彼等三人は周囲が寝静まるのを辛抱強く待つ。

今回の獲物は眼前のRV8であった。

陸運局のデータをハッキングして、この家の住人が所有している事を知り二週間を掛けて住人の行動を監視した。

判明したことは、家族構成は三人。父親はサラリーマンで、母親は専業主婦、娘は高校生であった。それと犬は飼っていない。これは一番重要なポイントである。万が一、犬を飼っていた場合、吠えないように対策を施す必要があり、非常に厄介なのだ。

 父親と娘は平日の日中は通勤、通学のため家には居ないし、母親も買い物やカルチャースクールなどで家を空けることが多い。

車を使用することは滅多に無い。先日の土曜日、休みである父親が洗車をしたが、それだけで家の中に引っ込み、車のエンジンを掛けることは無かった。たまにドライブに行く程度にしか運転はしないようだ。

 RV8はロードスター、所謂オープンカーのため、防犯面では当然普段は幌を閉じてある。古い車なのでそれ自体には防犯機器は備わっていない。従って、所有者が自ら後付けする以外にはないのだが、この家では、盗難予防としてハンドルロックバーが取り付けてあった。オープンカーの場合、たちの悪い車泥棒なら平気で幌を切り裂いて盗もうとするだろうが、ロックバーを装着しておけばそれを防止できるからだ。

ここまで事前調査に時間を割き、準備を整えたうえで、日曜日の真夜中を決行日と決めたのであった。

 家族が寝静まるのを待つが、午前一時を過ぎても二階にはカーテンの隙間から明かりが漏れている。多分娘がまだ起きているのだろう。

「何をしているんだ、早く寝ろよ」図体の大きい男性が小声で呟く。

それが聞こえた訳ではないだろうが、暫くして明かりが消えた。それでもまだ行動を開始しない。完全に寝入るのを待ち、午前二時になって漸く三人は行動を起こした。

 一人が玄関脇のスペースに停められている車に近寄る。手元を照らすため頭にLEDのライトを装着したヘアバンドを巻いている。

手際よくドアを開錠、素早く運転席に乗り込む。

ステアリング中央のホーン部を外し、ロックバーごとハンドル自体を取り外す。持参したハンドルを取り付けて作業完了。ここまででものの十分と掛らない。

次に、ダッシュボード下の配線コードを引き出しスターター、バッテリーなどの配線を確認し、コードの配線を繋ぎ直してエンジンを直結にする。

 ブルンと咆哮して八気筒のV型エンジンが目覚めた。

間髪を入れず道路に踊りだし、そのまま角に停めてあったトラックに乗り入れる。

待ち構えていた一人が荷台の扉を閉め、素早く助手席に飛び乗る。

トラックはゆっくりと角を曲がり、去っていった。


 東京に隣接するK市。昔は長閑な田舎町であったが、バブル以降都心に通うサラリーマンのベッドタウンとして、駅前を中心に大規模な再開発が行われ、今では高層マンションやGMS(ゼネラル・マーチャンダイズ・ストア)などが立ち並ぶ近代的な都市へと変貌していた。市の中心部から離れた場所でも宅地造成のために田畑は埋め立てられ、山は切り崩されて新興住宅街として売り出されている。

 そんな市の昔からの住宅街に植草真一の家が在る。

 今日も今日とて、友人で地方新聞社の記者である栗橋雄太が遊びに来ていた。

「あら、雄太さん。またサボっているの?」

 植草の妹の奈緒が辛辣な言葉を掛ける。

「こら、幾ら幼馴染だからとはいえ、失礼だぞ」植草が嗜める。

 栗橋が植草家にしょっちゅう出入りしているのは、真一と親友ということも有るが、奈緒の顔見たさでやってくるのだ。

 植草家の兄妹は近隣でも評判の美男美女である。兄の真一は色白で見るからに文学青年といった雰囲気を漂わせている。

一方、妹の奈緒は、黙って大人しくしていれば良家のお嬢様なのに格闘技(それも観戦ではなく実戦)が大好きというお転婆(てんば)娘なのだ。今朝も休みだというのに朝稽古に励んでいたようだ。

 両親は既に他界し、大きな屋敷には二人の他に先代の頃からの住み込みの使用人が二人と愛犬が一匹いるだけである。

先祖は代々地元の郷士であり、所有する土地と資産は相当なものらしい。父親は文化人類学の研究の傍ら郷土史編纂にも尽力した人物であった。

 そんな恵まれた環境の中で生まれ育ったせいなのか、真一には浮世離れしたところが有った。定職に就かず気儘に絵を描いたり同人誌に雑文を掲載したりしている。

彼の名前と一字違いで「僕は散歩と雑学が好き」などのエッセイで知られる植草甚(うえくさじん)一(いち)に負けず劣らず、彼も博学で世の中のありとあらゆる事象に精通している。そのため新聞記者の栗橋は良く知恵を授かりにやってくるのであった。

「ところで真一。都内で車の窃盗事件が相次いでいるのを知ってるか?」

「ああ、噂の三人組の事だろ。犯行現場近くでの目撃情報によると男性二人と女性一人の三人で、男性の一人はレスラーのような立派な体格をしていたという。だが、はっきりと顔を見た者はいないし彼らが何処の誰であるか皆目見当も付かない。犯行の手口は鮮やかで盗難防止装置も労せず解除する。従って被害者は何時盗まれたのか気がつかない。彼等が盗むのは新車や高級車では無く、名車と呼ばれる車や希少価値のある車だ。そんな事から車泥棒であるのにマスコミやネットでは次に何を盗むのか大変な話題になっていて、中古車市場でも彼等が盗んだ車種は人気が再燃している。今までに判明しているのは、大体こんなところかな」

「さすがに良く知っているな。その三人組がとうとうK市にまで触手を伸ばしてきたらしい。一昨日、噴水広場西一番街でMGのRV8が盗まれた」

「へえ、彼らが目をつけそうな車よね」傍で聞いていた奈緒が口を挟む。

「でしょ? 奈緒さん。都内でも捕まらなかった彼らを我々がお縄にしてやるって、K署の連中は鼻息も荒く張り切っている」

「でもどうせ盗むなら昔のMGBが良いな。RV8はローバー製でしょ。ウレタン・バンパーに替わっちゃったのが残念」

「何を好き勝手言っているのだ。誰もお前の意見など聞いちゃあいないさ。それで……雄太の事だから、僕に彼らのプロファイリングの協力をさせようと目論んでいるのだろ」

「ばれたか」栗橋が頭をかく。

「そんなのは謎でもなんでもない。僕には興味の無いことさ」

 けんもほろろに言い放つ植草であった。


           二

 東京、銀座。交訽ビル近くにある雑居ビル。

地下への階段を降りると重厚な木製のドアが出迎えてくれる。その扉を開けると照明を幾分落とした薄暗い店内。

黒塗りのカウンターにだけ数箇所ダウンライトの照明が当たっており、静かな店内にボリュームを絞ったジャズが流れている。セロニアス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」だ。

 銀座に画廊を構える小林は、音楽に関心など無く、JBLのスピーカーから流れる曲のタイトルなど知る由も無い。ただ、選曲を含めこの店の落ち着いた雰囲気が気に入っているのと、この店のバーテンダーが作るマティニが気に入り、ちょくちょく顔を覗かせる。

 二杯目をオーダーする前にバーテンダーがオリーブを浮かべたカクテル・グラスを小林の前に置く。小林が目で問う。

「あちらのお客様からです。宜しければご一緒したいと仰ってますが」

 バーテンダーが示す方向に目をやる。ショート・ボブの若い女性が笑顔と共にグラスを少し傾ける。小林は笑顔で軽く頭を下げた。

それを承諾のサインと受け取ったのか、女性が立ち上がってゆっくりとこちらにやって来る。

 遠目でも結構美人だと思ったが、近寄る女性を目の前にした小林は息を呑んだ。

 目鼻立ちの整った顔、長身で均整の取れた肢体、惜しむらくは少々筋肉質でいかり肩であることが女性らしさを感じさせないことだ。しかし逆にその中性的な雰囲気が妖しい魅力となっていた。

 身に着けているものはエミリオ・プッチ独特のパターン柄のワンピースにルブタンのパンプス。スレンダーなプロポーションに良く似合っている。まるでパリ・コレのスーパー・モデルがこの場に舞い降りたような幻惑に捕われる。この女性を連れて歩けば男共は皆振り返るに違いない。

「失礼とは存じましたが、小林画廊のオーナーとお見受けしたものですから……ご一緒しても宜しいかしら?」少しハスキーな声で女性が言う。

「どうぞ、喜んで。しかし、私のような中年に何の御用がお有りかな?」

 そう笑顔で応じたものの、小林は女性の真意を探る。この界隈のクラブのホステスが客引きをしているのか? 今や銀座といえども閑古鳥の鳴くクラブは珍しくない。それとも新手の売春? そんな小林の心中を見透かすように女性が口を開いた。

「こんな場所で無粋な話で申し訳ないのですが」

 そう断りを入れてバッグから一枚の写真を取り出すと小林に見せる。

 そこに写っているのは十字架を背負って歩むキリストの姿を描いた油絵であった。十六世紀に活躍したオランダのデニス・ヤーンの油絵である。

「安川美術館所蔵のヤーンの作品ですね。それが何か?」

 女は直ぐには応じずバーテンダーの方をチラッと見る。バーテンダーが聞き耳を立てていたのだ。バーテンダーは、バツが悪そうに視線を外しカウンターの隅に歩み去る。

 彼が離れるのを待って女が小声で話す。

「お隠しにならなくても、この度の修復依頼を小林様がお受けになられたことは承知しております」

 この女、何処でそんな情報を嗅ぎつけたのだ。まだ誰も知らないはずだが……そう考えながら小林はつい先日、安川美術館の実質的オーナーである安川電機の安川会長に呼ばれた事を思い起こしていた。


 安川会長の邸宅は広尾にある。門を入り玄関に辿り着くまでに広大な庭園が広がっていた。近くの有栖川公園ほどではないにせよ、都心のど真ん中にこんな広い私有地があるのかと小林は感心させられた。

 玄関で待ち受けるお手伝いの女性に直ぐに応接室へと案内される。部屋に入って出されたコーヒーを飲んでいると、安川会長が部屋に入ってきた。

 時間が無いのか直ぐに用件を切り出す。

「君においで願ったのは他でもない絵の修復を頼みたいのだ。当美術館の最大の宝であるデニス・ヤーンの作品だが、最近傷みが目立ってきた。そこでだ、修復するに当たって君に折り入って頼みたいことがあるのだ」葉巻を燻らしながら安川が言う。

「修復をなさるおつもりですか? 難問ですね、下手をすれば絵そのものを台無しにしてしまいかねません」

「そういうことだ。だから誰に修復を依頼するのかを随分考えた。そして或る一人の人物が思い浮かんだのだ。私はあの絵を修復できるだけの技術を持ち合わせている人物は、国内には唯一彼しかいないと思っている」

「会長のお眼鏡に適う人物とは、一体どなたでしょう」

 小林がそう言うと会長は含み笑いをする。

「惚けおって、君がよく知っている男だよ」

「私が存じ上げている人物……ですか」

「磯村画伯だ。彼に是非ともこの絵を修復してもらいたいのだ」

「磯村……ですか、しかし彼は――」

 小林の言葉を遮るように安川は片手を上げる。

「君の言わんとすることは承知している。だが、現在彼ほどの技術を有した人物がいるとは思えん。それは友人である君が一番判っているんじゃないのかね。君は今でも密かに彼に簡単な修復を依頼しているそうじゃないか」

「ど、どうしてそのことを」

「安心しなさい、私はつまらん告げ口をするつもりはない。だから私の依頼も引き受けてくれんか。誰に依頼したかは秘密にする。だから、このとおりだ」

 そう言って会長が白髪頭を垂れた。

会長に頭を下げられて無碍に断るわけにはいかない。小林は二つ返事で承諾したのであった。


 つい先日の様子を思い起こしながら小林は、心の動揺を隠しぶっきらぼうに応じる。

「それで? それが貴女とどう関わりが?」

「日本でこの作品を修復できる腕を持つ人物は限られています。小林様は磯村画伯にお願いするつもりなのでしょ」

 その言葉が終わらない内に、小林が女性の顔をまじまじと見詰める。

「君は一体何者かね。どうしてそんなことを……」

 磯村は昔イタリア在住時に贋作事件を起こし、国外追放となって生まれ故郷の日本に帰国した画家だ。だが、故国でも彼の起こした事件は知れ渡っており、画壇からは相手にされず、社会からも抹殺され、妻からは離婚を切り出された。

結局それ以来消息を絶って、世間からは忘れられる存在であった。それでも、一部彼の才能を認めていた関係者などが山奥に引っ込んだ彼とコンタクトを取ったりしていた。小林もその一人であり、こっそりと絵の修復を依頼したりして彼の援助を行っていた。

が、そのことは一部の仲間内だけの秘密である。この女が一体どのようなルートでそれを嗅ぎつけたのか? 闇ルートと呼ばれる美術品専門の故買組織の一味なのだろうか? 小林は用心深く女を見詰めながら答えを待った。

 女性はそんな小林の質問を無視し、暫しBGMに耳を傾ける。

 いつの間にか「ストレート・ノー・チェイサー」が終わり、曲は「セント・トーマス」に替わっていた。

 マックス・ローチのドラム・イントロからソニー・ロリンズの軽やかなサックスの音色がテーマを奏で始める。

 音楽に合わせて指でリズムを取りながら、女性が再び口を開く。

「その件で小林様にとってメリットのあるご提案を差し上げたいと考えております。場所を変えてじっくりとご相談に乗っては頂けませんでしょうか」

そう言って女性は艶然と微笑んだ。一瞬戸惑う小林であったが、謎めいた女性が一体どんな話を持ち込んできたのか興味を引かれた。

 結局勘定を済ませ女性と共に店を出る。小林と肩を並べた女性は有楽町方向に歩き出す。

美人と連れ立って歩くことで小林は何か誇らしげな気分を覚える。春宵一刻値千金か……尤も宵ではなくて真夜中だから春夜麗人値千金かなとつまらないことを考える。

外見は紳士然としているが小林は無類の女好きで、これまでにも画廊の従業員やホステスなどと深い関係を持っていた。

話を聞いた後この女をどうやって口説こうか、そんな事を暢気に考える。

 女性が小林を案内したのは近くにある日本を代表する一流ホテルTであった。

既に小林の名で予約をして有ると言う。小林はフロントでキーを受け取り、エレベーターの前で待つ女性を誘ってエレベーターに乗り込んだ。

一室に通された小林は心中でほくそえむ。女性が男性をホテルの一室に招きいれるなんて、相手もその気があると無言で承諾したようなものだ、そんな考えがチラッと頭をかすめたのだ。

ルームサービスでオーダーしたドメーヌのクリマ・ワインを飲みながら小林は女性の提案に耳を傾ける。

「如何でしょう。ご協力頂けるだけの魅力ある提案だと思いますが……互いにウィン・ウィンで手を結びませんか?」

 面白い話だが軽々に受け入れるわけにはいかない。小林は暫く考え、重々しく口を開いた。

「ウィン・ウィン? 当方は相当なリスクを負うと思うがね」

 小林はワイングラスをテーブルに置くと、椅子から立ち上がり女性のほうに歩み寄る。

「提示申し上げた条件ではご不満だと?」女性が近寄ってきた小林の顔を見上げる。

「ああ、そうだ。君が何者で何を企んでいるのか、私は何も知らない。そんな人物を信用しろと言うのか? それで対等だと?」

「じゃあ、どうすれば信用して頂けるのかしら?」

 一転くだけた口調でそういう女は、頤を上向けて小首を傾げる。その動作が小悪魔的で男心をくすぐる。

 見下ろす小林の視線が大きく開いた胸元に注がれる。

息を呑むほど白くて肌理の細かい肌、ふっくらと盛り上がる女の胸が覗ける。

 堪らず生唾を飲む小林。

「君の事を少しでも知っておかないとね」

 小林は緊張で少し掠れた声でそう言うと、背後に回り込み女性を抱きしめた。

 女性の項に顔を近づけると、シャネルのアリュールが彼の鼻腔を擽る。同じシャネルでもココのようにセクシーで成熟した大人が好む香りではなく、爽やかにフローラルの香りが漂う。

 小林は好感を持つと共に、トワレに微かに混じる若い女臭に劣情を刺激された。

振り向く女性の濡れた唇に引き寄せられるように口づけをする。

 軽く触れただけで一旦顔を上げる。女がどんな反応を示すのか顔色を窺うためだ。

 そんな小林を見詰めて女が含み笑いをする。

「何が可笑しい」

下心を見透かされたようで小林は思わず声を荒げてしまう。

 それには応えず女が口を開く。「私のすべてが知りたい?」

女はワインを口に含み、小林の首に手を回すと顔を寄せ口付けする。小林の口にワインが流れ込む。それを嚥下した小林は女の口に舌を差し入れる。待ち構えていたように女の舌が絡みつく。

 大胆になった男は激しく唇を貪りながら、右手で女のドレスのジッパーをゆっくりと引き下げた。


 カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました小林は、天井を見上げ、ここが家でないことに気づいた。昨夜の甘美な情事を思い出し横を見るが既に女性の姿は無かった。

はっと思いついて慌ててベッドから起き上がり、裸のままハンガーに掛けてあるスーツの内ポケットを探る。財布はそこに入っていた。良かった、「枕探し」では無かった。それどころかサイドテーブルには数枚の一万円札が置かれているのに気がついた。

自分の取り越し苦労に自嘲しつつ昨夜の奇妙な依頼を思い起こす。

その時スマートフォンがメールの着信を知らせた。

――もうお目覚めの頃と思いメールしました。例の件くれぐれも宜しく。制作に二、三ヶ月を要するでしょうから完成は夏になると思われますので、完成したらこのメアドに連絡を頂けるようお願いいたします。尚、宿泊代金を置いていきますのでチェックアウトをお願い致します――

 小林は文面に目を通した後アドレスを見る。それは誰でも無料で使用できるフリーメールであった。

 これでは女の身元判明の手掛かりになりそうもない。スマートフォンを放り出し、女の話に乗るべきか考え込む小林であった。


 それから一週間、小林は悩み続けた。

何処の誰とも判らない女の依頼など無視してしまおう、厄介ごとに巻き込まれるに決まっている、最初はそう思った。

 しかし日が経つにつれ、謎めいた女の事が気になり始めた。あの夜のことを思い出すと心が疼くのである。

 このまま関係が切れてしまうのは余りにも惜しい。あの時は酔っていたせいもあり、夢のように時間が過ぎた。はっきりとこの手で女を抱いた実感が湧かないのだ。

もう一度だけでいい。じっくりと時間を掛けて女を抱きたい。どんな顔をしていただろうか、どんな体つきだったろうか、抱いた時どんな反応を示しただろうか……。

もう一度で良いから、じっくりと観察して記憶に留めたい。そしてこれまでの女達同様、行為の最中を隠し撮りしてやるのだ。

 それをネタに脅しをかければ、どんな女も言いなりになる。そう、あの高慢ちきな女を奴隷にして跪かせてやりたい。そう思うと、いてもたっても居られなくなる自分がいる。

 小林は己の好色さ加減に自嘲するしかなかった。


 結局小林は磯村が隠遁生活を送る蓼科に出向いた。

「おや、君がわざわざこんな山奥にまでやってくるとは珍しいな。先日電話で話していた例の件か?」出迎えるなり磯村が言う。

油っけの無い、ごま塩混じりの髪、同様に手入れをしていない顎鬚にも幾分白いものが混じっている。身に付けているルパシカはあちらこちらが絵具で汚れている。今も何かの絵を制作中のようだ。

 部屋の中は思ったとおりキャンバスがイーゼルに掛けられていた。脇のテーブルにはパレットと様々な色の絵具が転がっている。

「足の踏み場も無いが、あの椅子にでも掛けてくれ」

 磯村が示す部屋の隅には、木製の小さなテーブルと同素材の椅子が一脚置かれていた。

 それに腰を下ろして、小林は直ぐに本題に入る。多分待っていてもお茶の一杯も出てこないだろう。

「これが修復してもらいたい作品だ」

 小林が持ってきたキャンバスを覆う布を取り払い磯村に見せる。

 磯村が目を大きく見開く。

「ほう、やはり随分傷みが激しいな。絵具も色が抜けている箇所や剥落しかかっている部分も有る」

「どうだ、先生の腕なら大丈夫だろ」

「任せてくれ。見事に再生してやる」

「それは心強い。但し条件が有る。修復の前にやって貰いたいことがあるんだ。謝礼は破格だし先生にとって良い話だと思うのだが」

 小林の話す内容を聞き、最初は難色を示した磯村であったが、恩義のある小林の執拗な説得にとうとう根負けをして、不承不承、引き受けることにした。

「請け負った限りは満足の出来る仕上がりにして見せる。任せてくれ」

磯村は、何故そんな事をするのか、誰に頼まれたのかなど、こちらが煩わしくなるような疑問や質問を一切口にすることなく引き受けた。

 小林は安堵した。駄目もとで磯村に話を持ちかけたのだが、何とか承諾を取り付けた。

 絶対に引き受けるはずだと、自信満々に言ってのけた女の口ぶりを思い出す。

 磯村は直ぐにでも着手すると約してくれた。


 予想通り磯村は引き受けたようだ。あの事件以来、誰にも相手にされなくなった彼なら必ず引き受ける……思ったとおりの反応だ。彼は純粋に己の才能を認めて欲しいのだ。これで仕掛けはうまくいく。誰がそれに気づくのか……絶対にばれない、それだけの技術と自信があればこそ、磯村はこの仕事を引き受けたのだ。

 修復後、ヤーンの絵を見るために多くの観客が美術館に押し寄せるだろう。そうした後、驚愕の事実をマスコミに暴露する。これこそが最大の復讐なのだ。

そうなると彼はその行為で又もや社会から抹殺されるだろう。いやそれどころか罪人となるのだ。が、そんなことは彼も承知しているはずだ。それでも絶対に成し遂げるだろう。私はあの男の性格をよく知っている。絶対に筋書きどおりうまく行く。私は一人ほくそ笑んだ。


           三

 初夏になってデニス・ヤーンの修復が終わり、作品は安川美術館に戻ってきた。

 修復を期に開催される展覧会前日、画壇や美術関係者、マスコミ、地元名士など多数のゲストを招いてのお披露目パーティが催された。

 作成当時の色彩が蘇ることで一層光と闇が際立ち、絵の中心に描かれた十字架を背負うキリストの沈鬱な表情が、くっきりと浮かび上がっていた。

「素晴らしい」「ヤーンを再評価させるほどの仕上がり具合だ」等々、ゲストたちから賞賛の声が上がった。

とりわけ高名な美術評論家である野崎壮介が賛辞の声を惜しまず、そのコメントは新聞や雑誌でも取り上げられた。

「素晴らしい修復技術だ。日本にもこんな素晴らしい修復が出来る人物がいたとは……私も認識を新たにしなければならない。是非一般の方にも、それもできるだけ多くの人々にこの絵を見てもらいたい。ヤーンの代表作が数百年の歴史を経て蘇ったのだから」

 野崎のコメントがそのように紹介されていた。


 翌日から開催された一般公開では、評判を聞きつけた観客が大勢詰め寄せ、連日大盛況であった。テレビ各局も中継車を繰り出して、その盛況ぶりを報じた。

 植草家では展覧会から戻った奈緒と友人の安池(やすいけ)愛(あい)、そして栗橋が植草にその感想を話していた。

「改めて凄い感動を呼ぶ絵だと思ったよ。真一も絶対観に行くべきだぜ」

その栗橋の意見に同調するように奈緒が言う。

「そうよ、兄さんは美術にも関心があるくせに出不精なんだから」

「でも、修復ってきちんと出来れば名作が蘇るんですね。最近イタリアで起きた老女によるキリストの壁画修復事件が有ったばかりだから、余計本物の修復の凄さが判りました」

 愛がそう言うと栗橋が話に乗る。

「あれは出鱈目もいいとこですよ。キリストの顔がまるで子供の悪戯描きみたくなっちまったんだから」

栗橋が首を左右に振りながら呆れ顔で言う。

「だが、地元ではあのまま保存して欲しいという声が二万人もいるらしいぞ。文化財があんな酷い目に遭ったのにね。人々の考え方や価値観、本物を見る目というのはそれだけ差が有るってことだね」苦々しく植草が言った。

「真一はどう思うんだ?」

「とんでもない事態だと思うよ。あんなまま残したいなんて意見は神経を疑うね。例えあれが高名な修復士の手によるものだとしても、評価はしない。原画をあそこまで変えてしまうというのは原画を描いた画家への冒瀆だろ? 自分のオリジナルを描きたいなら勝手に自分のキャンバスに描けばいい。あんな行為を許せば世界中の貴重な文化財に悪戯が増える。僕はそれを憂うね。実際京都の歴史ある寺の壁に落書きやサインを書く馬鹿がいるのだからね。まあ、今言ったのは悪戯だから例えが悪かったかな……だが、過去に修復された高名な画家の作品が酷い目に遭った例も枚挙にいとまがない程多くあるのだ。近年見つかったカラヴァッジョの『キリストの捕縛』が修復された際には、新しい裏張りを用いたところキャンバスが縮んでヒビが入り、慌てて張り直すという事態に見舞われたし、レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖母子と聖アンナ』は修復された色彩が過度に明るい点が問題視されている。同じくダ・ヴィンチのデッサンは、過去に積もり積もった埃や蝋燭の煤などを取り除くためにアルコールと蒸留水を使用したところ、化学反応を起こしてデッサンが消滅してしまったそうだ。まだまだ、有るぞ。システィナ礼拝堂のフラスコ画などは――」

植草の話が熱を帯びてくる。

 不味い、真一の奴はこうなると話が止まらなくなる。そう感じた栗橋は話を切り上げる。

「まあ、それはそれとして今度の修復画は真一も見るべきだよ」

 執拗に展覧会に行けと勧める栗橋。

「僕は以前に修復前の原画を見た事が有る。勿論色はくすみ、人物の表情も微かに見分けがつく程の状態だった。しかも経年劣化で絵具はひび割れていた。だが、僕はそれも原画が持つ価値だと思うのだ。長い年月を経て劣悪な環境に晒され、痛めつけられ、それでも生きながらえて来て、今なおその素晴らしさを失わない。僕はそこに感動を覚えるのさ。だから、修復された絵を見るのが正直怖い。原画の持つ素晴らしさが失われていないだろうかと危惧するのさ。

 それに、展覧会は秋まで開催されるのだろう。僕は涼しくなってからゆっくり鑑賞させてもらうよ。こんな暑いさなかに行列して、それも立ち止まってじっくり鑑賞しようものなら、立ち止まらないでくださいなんて注意されるのだろ? そうまでして見たいとは思わないね」植草がそう言い返すのだった。


           四

 都心近郊に位置するK市の中心部を国道が横切るが、夜の九時ともなると行き来する車の数も激減する。今、その道路から左に入った空き地に一台のレクサスLSがゆっくりと進入してきた。

 砂利を踏みしめる音を立てながら車が停車する。窓を開けた運転席に女が近寄る。

「このままトラックに乗り入れて、早く」純子という名の女が指示する。

 彼女が指す方向に五トントラックが後部の扉を開けて待っていた。扉の脇には純子の男友達の礼二が佇んでいる。

「本当に上手く行くのか?」

「今になって何を……さあ、早く」

 やがてトラックにセダンが呑み込まれ、男が扉を閉める。運転手の田沼をその場に残し男女を乗せたトラックが走り出し、国道を去って行った。

 後に残された田沼は、今になって恐ろしくなってきた。純子に言われるがまま夢中で行動したが、本当にうまくいくのだろうか。しかし、もう後戻りは出来ない。

刑部建設社長のお抱え運転手である彼は、二ヶ月ほど前刑部と共に銀座の画商から六本木のキャバクラに招待されたのだった。


 普段は運転手の自分など店外で待たされるのだが、この日は違った。刑部の話では眼前の男の画廊から品物を運ぶ役を仰せつかるようで、その顔つなぎとして田沼も呼ばれのだ。同席したホステス達の中に純子が居た。

 顔合わせを済ませた田沼はアルコールの一滴も口にしないまま車に戻るように言われた。これから二、三時間は車で待機しなければならない。

「運転手さんも大変ですね」背後から声が掛る。

 田沼が振り向くと笑顔の純子が後ろからついてきていた。

「車までお見送りします。今度は是非、田沼さん一人でいらっしゃって下さい」

 名刺を男に手渡し、可愛い仕草で手を振る純子。彼女が店へと戻る後姿をじっと見詰める田沼であった。

 それから数日後、突然純子から連絡があった。是非一度お店に来て欲しいとの誘いの電話であった。

 それから田沼のキャバクラ通いが始まった。勿論、お目当ては純子であった。純子も田沼に気が有るようで、指名すると喜んで席に来てくれた。勢い、田沼は同伴やアフターなど純子にせがまれるまま言いなりになっていた。

 二人の仲は急速に進展し、数回目のアフターで連れ出したとき田沼は意を決して純子を誘った。コクンと頷く純子の気が変わらないうちにと急いで近くのラブ・ホテルに彼女を連れ込んだ。

 その夜初めて抱いた、若く、はちきれるような肢体に魅せられ、今では自分のマンションに引き入れる仲にまでなっていた。

 そんな純子から相談を持ちかけられたのは一週間ほど前であった。

いつものようにアフターで純子と共に店を出て、鮨屋で遅い夕飯を摂っている時であった。

 近々、刑部社長は県知事に油絵を贈る。それを届けるのは運転手の貴方だから、日程が決まったら教えて欲しいというのだ。田沼には以前顔つなぎを行った画商のことだとピンときた。

 理由を聞くと、車ごと盗難に遭ったことにして絵を盗むつもりだという。

 そんな危ない話には乗れないと、一旦は断った田沼であったが、マンションに帰り、ベッドにもぐりこんでからも、行為に及ぼうとする男にお預けを食らわして、彼女は話を蒸し返した。

 大丈夫、貴方には迷惑は掛けないし疑いも掛らない。これが成功すれば一億の金が転がり込む。そうなれば二人で面白おかしく暮らせる。貴方もいつだって好きなだけ私を抱けるのよ、そう田沼を口説くのであった。

 田沼は純子の小ぶりだが形の良い乳房にむしゃぶりつきながら考えた。いつまでもうだつの上がらない、雇われ運転手をするより、こいつと楽しく暮らすのも悪くない。

 女の甘い誘惑に抗えず、結局田沼は協力する決心をした。

 しかし、いざ決行となると持ち前の臆病風が顔を覗かせた。ええい、今更悩んだところで手遅れだ。既にレクサスは礼二の運転するトラックで持ち去られたのだから。

さあ、これから盗難にあったことを社長に報告せねばならない。これで俺の役目は終わりだが、ここが一番の肝心な場面だ。怪しまれないように迫真の演技をする必要があった。 

 一世一代の大芝居の始まりだ。一度深呼吸をして気持ちを落ち着けた田沼は、おもむろに携帯電話を取り出した。


「何? 私の車の信号が途絶えただと?」

 刑部建設の社長、刑部(おさかべ)健(けん)次郎(じろう)は受話器に向かって思わず大きな声を上げた。

 電話はレクサスのオーナーズデスクからで、彼が所有する車から発信する電波が急に途絶えたというものであった。何かトラブルが有ったのでしょうか? とコミュニケーターが問いかける。

「いや、私は今オフィスにいるが、うちの運転手が車を運転している。だから心配ないと思うが、念のためにもし信号をキャッチ出来たら連絡を頂けると有難い」

 承知いたしましたと相手が返答するが最後まで聞くことなく、刑部は電話を切り、すぐに運転手の田沼の携帯を呼び出そうとする。

その時、逆に電話から着信音が鳴る。慌てて応じる刑部。電話は田沼からであった。

「おう、田沼か。今電話をしようとしていたところだ。車の信号が途絶えたと連絡が入ったが何か有ったのか? 何、車を盗まれた? ああ、直ぐに戻ってきて詳しく報告しろ。待て、警察には連絡するな。そこには組の若い者を向かわせるから、後は彼らに任せろ」

 それから半時間ほどの後、帰社した田沼から詳しい事情を聴く刑部のもとに再び電話が掛かって来た。オーナーズデスクから車の電波を捉えたが、再び途絶えたという報告であった。

「その場所を教えてくれ。ああ、貴女の言うとおり車が盗まれた。いや、大丈夫だ、警備会社にはこちらから向かわせる。どうも有難う」

 受話器を置いた刑部が田沼に言う。

「車の在処が判明した、直ぐに若い奴らを向かわせる。いや、俺も出向く。お前の責任を問うのはそのあとだ」

 社用車が盗難に有ったため私用車のメルセデスSLを田沼に運転させ現場に向かう刑部が独り言を呟く。

「車など欲しけりゃくれてやる。だがあれだけは困る、何としても取り戻さなければ……」


 やがて車はK市郊外の工場跡地に着いた。先に到着していたダンプカー数台が道路に横付けされており、下請けの風間組の若い連中がたむろしている。

 車から降りた刑部は、日中の余熱が残るもわっとした空気に包まれる。

 刑部の元に組頭が駆け寄ってきた。

「社長、どうやら此処は窃盗団のヤードですぜ」組頭が報告する。「どうします?」

「ぐずぐずしている暇はない。多少手荒な手段もやむをえん」

 刑部の返答を聞いた組頭がニヤッと口をいがめて笑う。

「そうとなりゃ、ダンプで塀をぶち壊して乗り込んじまいます。社長は危ねえんで、車で待ってたほうがいいっすよ」

そう言い終えた組頭が若い連中に指示を出す。

 ダンプが方向転換しスピードを上げて真正面から塀に突っ込む。

 大きな音を立てて塀が向こう側へ崩れ落ちる。その崩れた塀を乗り越えた先頭の車に続いて、次々とダンプがヤードに侵入した。

 中は照明が煌々と灯され、突き当りにガレージのような建物があり、その脇にレクサスが横付けされていた。

周辺には古タイヤがうず高く詰まれ、バンパーやボンネットの残骸が散らばっている。

 物音を聞きつけ、建物内からどやどやと男が飛び出して来た。どうやら日本人ではなく中国の窃盗団のようだ。

「構うことはねえ、車を取り戻すぞ」

 組頭の叫び声を機に、つるはしやスコップを手にした若い衆が窃盗団に襲い掛かる。

 窃盗団もチェーンや工具を持ち出し応戦する。

辺りが騒然として数分が過ぎたころ数台のパトカーのサイレンが近付いて来た。

 近隣に住宅は無いはずだが、通りがかりの住民が通報したのだろうか? そう考えた刑部が車に乗り込み身を隠そうとしたときには既に道路の両方向からパトカーが挟み撃ちをしていて逃げようがなくなっていた。

 その後に続く機動隊の大型特型警備車であるPV1から武装した警官がばらばらと飛び降りると、機敏な動きでヤードを取り囲んだ。

 一瞬にしてその場は制圧され、両者共に捕縛されたのであった。


           五

 植草奈緒は昨夜の騒動を報じるテレビのニュースを食い入るように見詰めていた。

「嫌だわ、又車泥棒が起きたみたい。雄太さんが噂の三人組がK市にまで手を伸ばしてきているって言ってたけど、被害が広がっているのね。これなんか直ぐ近所よ」

 新聞を読んでいる兄の真一に話しかける。

「どうかなあ。奈緒が言いたいのは、先日MGを盗んだ謎の三人組の事だろ? 昨夜の事件はケースが違うんじゃないかな。今回被害に遭ったのはレクサスだ。そういった高級車やハイエース、キャラバンなどのワゴン車、果てはブルドーザーまで盗むのは大規模な窃盗グループの仕業で、海外に持ち出して売り払うんだ。三人組はそんな車は盗まない」

「いやだ、窃盗グループってそんなにうじゃうじゃいる訳?」

「そんな事より昨夜の事件はどうも変だ」植草が首を捻る。

「何が?」と奈緒。

「盗難に遭った被害者の社長はどうして直ぐに警察に連絡しなかったのだろうか」

そう呟いて掌でペンをクルリと回す。彼が考えに耽るときの癖である。

 こんな時の兄は、自分の考えに集中して閉じこもってしまう。兄の癖をよく知る奈緒は、

邪魔にならないようにそっと自分の部屋に引き上げるのだった。

 昼過ぎに栗橋雄太がやってきた。事件の取材を終えた帰りらしい。

住込み家政婦の牧原房江がアイス・コーヒーと共にお絞りを出してくれる。

「暑い中ご苦労様です。はい、冷たいお絞りをお持ちしましたよ」

「さすが房江さん、気が利いてますね。有難く使わせていただきます」

礼を述べた栗橋は、早速お絞りで噴出す汗を拭う。

「車が盗難に遭ったのは昨夜の十時頃。社長は乗っていなかった。田沼という運転手の証言では、社長の命令で、ある場所に向かっていた途中の出来事だったらしい」

アイス・コーヒーを一口飲んで喉を潤した後、栗橋が取材した内容を植草に話す。

「国道を南下して丁度楠橋の信号が赤で停車していた時だったらしい。運転手の田沼は後部に衝撃を感じた。バックミラーを見ると後続車がぶつかったようだ。お釜を掘られたことに舌打ちして、サイドブレーキを掛け、急いで車外に飛び出した。後続車からも運転手が降りてきたが、ガタイの良い大男で一瞬ひるんだが、勇気を出して文句を言った。男は謝りながらレクサスのリアバンパーを調べ、次に自分の車のフロントバンパーを調べて田沼にも見てくれと言った。腰を屈めて相手の車を見ていると、後ろでレクサスの発進音が聞こえた。慌てて振りかえるとレクサスは猛スピードで走り交差点を越え、次の角を曲がろうとしている。慌てて後を追ったが角を曲がったときには、車は影も形も無くなっていた。そうこうしているうちに、ぶつけた車と大男の姿も消えてしまった。そう証言した田沼は、噂の三人組の仕業だ、早く奴らを捕まえてくれって息巻いていたよ」

 栗橋の話を聞き終えた植草が質問する。

「三人組の仕業だって? たしかに大男とレクサスを運転する男、少なくとも複数犯のようだが……」

「何か引っ掛かるのか?」

 栗橋の問いに応じず再び植草が尋ねる。

「社長の刑部氏はどうして直ぐに警察に通報しなかったのだ?」

「それについては警察も刑部に説明を求めていた。オーナーズデスクのコミュニケーターにも通報しないように伝えたそうだからな。だが、刑部は警察が三人組を早く逮捕しないから被害に遭ったのだ。そんな警察は頼りにならないから自分たちで取り戻そうとしただけだ、何が悪いのだと逆に開き直っていたそうだ。あのヤードについては警察も怪しいと睨んでいて、ずっとマークしていたらしい。噂の三人組は逮捕出来なかったものの大規模な窃盗団と拠点を潰せたのだから大成果には違いない。だから刑部にも、今回は大目に見るが次は騒乱罪や凶器準備集合罪で逮捕するぞとお灸を据えるだけで一件落着さ。何といっても刑部は市の名士だからな、警察も余り事を大きくしたくないのさ。今は専ら三人組の捜査に注力している」

 そうか、と頷いただけで植草が考え込む。

「実は俺も刑部が警察に通報しなかったのは怪しいと思っているよ。何らかの都合で警察を呼ぶのはまずいと判断したんだろうと思うんだ。田沼がそんな時刻にどんな用件で何処へ向かおうとしていたのか? どうだ真一、その謎を解明したくないか」

 植草の顔色を窺うように栗橋が言った。

「ふふん、又そうやって僕を焚きつける」そう言いながらも植草は満更でもなさそうだ。

「奈緒にも言った事だが、僕はどうも噂の三人組の仕業では無いように思うのだ」

どうしてだ? と栗橋が目で問う。

「手口が乱暴だし狙う車にも違和感を覚えるのだ。彼らが盗んでいる車は最近の車ではなく、名車と呼ばれたものや希少価値のある車ばかりだ。勿論中にはフェラーリF40やアストンマーティンDB6、ジャガーEタイプ、TVRといった高級車もあるがオースティン・ヒーリーやモーリス時代のミニ、ランチア・インテグラーレ、国産では俗に言う箱スカ、いすずPAネロ、ピアッツア、コスモスポーツ……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。三人組の過去の犯行を列挙してもらわなくても良いよ。先を続けてくれ」

 栗橋が慌てて遮る。そうしないと植草はわき道に逸れても滔々と喋り続ける悪い癖があるのだ。

「つまり彼らにはそういった専門的な故買ルートがあるのだと思う。それに彼らの手口はもっとスマートだ。後ろから車をぶつけてどさくさ紛れに車を奪うなどといった無粋な真似は絶対にしない」

「おいおい、三人組に肩を持つような言い草だな」

「彼らのやり口には車に対する愛情が感じられる。傷をつけずに大事に取り扱っている点にはシンパシーを持つね。誤解しないでくれよ、だからといって車泥棒は立派な犯罪だ。許す事は出来ない。何と言っても、所有者が気の毒だ。そんな車の持ち主たちは相当なマニアだろうし、惚れ込んで購入したのだろうからね。溢れんばかりの愛情を注ぎ込んで接している所有者が可哀想だ」

「そんなもんかねえ」

「車が好きな者でしか判らないかもな。それより刑部氏の車は楠橋の次の信号を左折した処で忽然と消えてしまったと言ったな?」

「そのように田沼は証言している」

「その道沿いにはコンビニが有って、道を隔てて向かい側は空き地だろ」

「そうそう、コンビニの駐車場が満杯のときは、みんな向かいの空き地に車をつっこんでいる」

「知っているさ。それでコンビニのオーナーは空き地の地主からクレームを付けられるのだ」

「へえ、良く知っているな。家に引きこもって滅多に外出もしない癖に、どうしてそんな事を知っているんだ? ははーん、情報源は房江さんだな」

 植草家のお手伝いとして先代から世話を見ている彼女は、世間話好きで近隣の事情通なのだ。

「そんなことはどうだって良いさ。それより今から現場に行ってみないか?」

「え、今からか?」そうは言うものの植草が乗り気なので栗橋は心中でほくそえんだ。気の変わらないうちにと早速植草を現地に案内する事にした。


 愛車のミニをコンビニの駐車場に停めた植草は、真っ直ぐ店に入っていく。

 真夏の太陽がジリジリと照りつける駐車場に佇んだ栗橋は、改めて道路向かいの空き地を眺める。隣地は杉木立でその向こうに隣家が建っている。空き地は雑草が生い茂り、道との境界線に塀も無ければ柵や杭などの私有地である目印も無い。これではコンビニの第二駐車場と勘違いされても文句は言えまい。

 そう思いながら、植草の後を追うように足早に店内へと駆け込んだ。

 太陽が照りつける外に比べ、空調の効いた店内はまるでオアシスだ。栗橋は急激に汗がひいていくのを感じた。

「オーナーの酒井さんはいらっしゃいますか?」植草がレジカウンターにいる若い店員に声を掛けている。

 店員が裏の事務所に向かって「オーナー、お客さんですよ」と叫んだ。

 事務所から出てきた酒井が植草の顔を見てにこやかに微笑む。

「おや珍しい、真一さんじゃないか。どうしたんだい、一体?」

「昨日の夜、向かいの空き地に大きなトラックが停まっていませんでしたか?」

「さあて、夜はバイトに任せているから……又、地主の松田さんが文句を言ってきたのかい」

「いえいえ、そうじゃないのですがちょっと気になることがあって」

「じゃあ、防犯カメラを見てみるかい、あれから店内と駐車場だけじゃなく空き地に向けても映像を撮っているから不法駐車がチェック出来るよ。さあさあ、事務所に入ってよ」

 二人のやりとりを唖然として聞いていた栗橋は事務所に入りながら植草に尋ねる。

「オーナーを知っているのか? それに向かいの地主がどうして真一に文句を言うんだ?」

 植草が応じる前に酒井が振り返って答える。

「あんた知らないのかい、この土地の所有者は植草さんだよ。私は土地を借りているのさ」

 そうか、代々植草家はこの辺りに土地を所有する大地主であった。両親も亡くなった現在はすべて真一が相続しているのだ。

 その疑問は解けたが、向かいの空き地にトラックが停まっていたかどうかなんて、事件と何の関係があるんだろうか? 栗橋は首を捻るのだった。

 昨夜の防犯カメラ映像を三人で見詰める。

 暗がりでよく見えないだろうと思ったが、昨今のデジタルカメラの解像度は格段に向上している。通りを通過する人物や車の姿をはっきりと捉えていた。

「案の定、大きなトラックが入ってきたぞ」植草が呟く。

 画像の時刻は九時二十三分と表示されている。トラックは隅のほうに横付けされ、降りてきた運転手が後部荷台のドアを開け、レールのようなものを二本地面に下ろし始めた。

「そうか、盗んだ車を荷台に積み込むつもりなんだな」

「今頃判ったのか」植草が、相変わらず鈍いなという顔つきをする。

 そのまま画像は何の変化も見せない。

九時四十六分になった時点で、ヘッドライトで周りを照らしながらレクサスがやってきた。

 トラックの助手席から人が降りてくる。どうやら女性のようだ。レクサスの傍に駆け寄るとトラックの荷台のほうを指差し何か指示している。

やがて、盗難車はトラックの荷台に吸い込まれるように収まり、運転していた男が荷台から降りてきた。

「あれ? ちょ、ちょっとストップ」栗橋が慌ててそう言いながら画面を食い入るように見詰める。

「この男はお抱え運転手の田沼だ。どうして奴が……?」

「そんな事だろうと思ったよ」植草が微笑んで呟いた。

 

 一方、K市から二十キロほど離れたM市駅前の高層マンション。その一室で二人の男性と一人の女性が額を寄せ合って密談の真っ最中であった。

「冗談じゃないぜ、俺たちの名を騙るなんて許せねえ」大柄な男性が怒気を含んだ声で唸る。

「落ち着きなよ、コジロー」さらさらの長髪を掻き揚げながら宥めるのは、色白で華奢な体つきをした人物であった。

「ビリーもミサキも腹が立たねえのか」

 ビリーと呼ばれたのは、長髪をウルフカットにして後ろで結んだ、華奢だが引締まった体つきの人物である。

「別に腹は立たないが……でもふざけた真似は許さない。なあ、ミサキ」

 ミサキと呼ばれたのが色白の方である。こちらはビリーより長髪で後ろ髪が肩にまでかかっている。

「そういう事ね。あんな強引なやり方で、しかもドジを踏んだお粗末な仕事がうちらの仕業だと思われたんじゃあ信用に関わるじゃない? 今後の仕事もやりにくくなるだろうし……だけど、刑部という人物は怪しいと思うわ」

 その言葉にビリーが頷く。

「同感だね。あんな時刻、運転手に何の用件で何処に行かせようとしていたのか? 通報もせず自力で車を取り戻そうなんて絶対裏に何か有んじゃね?」

「それで? これからどうするよ」コジローが二人の顔を交互に見る。

 ミサキとビリーが暫し黙り込んで考え始めた。

 彼らこそ謎の三人組と呼ばれる車窃盗グループである。名前は勿論本名ではない。身元がばれないように偽名を使っている。

 彼らは大掛かりな窃盗団とは違い、国内外のマニアからの依頼を受けて盗みを働く。

 ハッキングが得意なメンバーが、国土交通省のストラッツ1で作成されたウェブから侵入し登録ナンバーファイルに記載されているターゲットの車の所有者を探し当てる。

 ほとんどの車は関東近郊で入手可能だが、時には関西や九州、北海道まで出張(?)することもあった。

 先ずは持ち主の行動を監視する。この下見には一週間から一ヶ月を掛けて慎重に行われる。ターゲットの日常の行動パターンを調べ上げ、盗むタイミングや隙を窺うのだ。

盗みやすいのは大型商業施設の駐車場やコインパーキングに駐車した場合であるが、例え自宅のガレージからでも難なく盗んでしまう。

いざ決行となると鍵の開錠が得意なメンバーの出番だ。防犯装置のない古い車なら配線コードをスターターに直結して、ものの一分も要せずエンジンを掛けてしまう。  

イモビライザー装着車には自作のイモビ・カッターで暗号を書換えてしまうし、警報音もボンネットを開け速やかに配線カットを行い二、三分もあれば盗み終える。

更に運転テクニックは抜群で、万一追跡されるような場合でも追尾車を振り切れるテクニックを有していた。

 三人目の人物は二人の用心棒的役割を担っている。彼らの盗みの信条は車や人を傷つけずスマートに犯行に及ぶことであるが、時には同業者や暴力団とのトラブル、更には予期せぬ手違い等に遭遇する場合もある。そんな時にこそ、立派な体格で、格闘技の心得のあるメンバーの出番となるのであった。

 やがて知恵を絞っていたミサキが口を開いた。

「兎に角、刑部建設の事情を探らない? 絶対に何か隠している」

「おいおい、奴らは被害者だぜ」コジローが呆れた様に言う。

「そうとは言い切れないかもよ」

 そう言って、にっこり微笑むミサキはまるで純粋無垢な美少女そのものであった。


           六

 刑部建設、一昔前は地元の土建屋であったが、ゼネコンの下請けとしてK市駅前再開発を一手に引き受けたことで企業規模が飛躍的に拡大した。今では駅前の一等地に立派な建物を構えている。

 その最上階を占める社長室では刑部が田沼を問い詰めていた。

「それじゃあ、お前は車がヤードに運び込まれる前に三人組が持ち去ったと言うんだな?」

「はい、それしか考えられません。恐らく奴らは大きなトラック、それも荷台が鉄板で覆われ電波も通さないような車でレクサスを運んだに違い有りません。そしてヤードに運び込んだ後、すぐさま荷物と共に姿を消したんです」

弁明をする田沼の背中は冷や汗でびっしょりであった。何が何でも三人組の仕業だと社長に思い込ませるために必死なのだ。

「判った、後はこちらで何とかする。だが、お前は大きな失敗を仕出かしたんだ。一体どれほどの損失になるのか判っているんだろうな。その責任を取ってもらうぞ」

刑部はそう言うと田沼を睨んだ。

 その後、本社ビルから出てきた田沼はしょんぼりと肩を落とし歩道に歩みだすと、ゆっくりと振り返って本社を見上げる。一つため息を吐いて再びゆっくりと歩き始めた。

 彼はたった今、刑部から馘首を言い渡されたばかりであった。だが、それも仕方が無いかと思う。こうなることを承知で行った事だ。だが、これからは愛人の純子と面白おかしく暮らしていける。そう考え直すと田沼は足取りも軽くなり愛人の待つ自宅へと急ぐのだった。

 一方、田沼と入れ違いに建物に入っていく二人連れがいた。

黒いスーツを身に纏った大柄の男性、黒縁の眼鏡を掛けている。もう一人は一見してリクルート・スーツと思しき紺のレディス・スーツを着用していた。新入社員の女性を伴った先輩営業マンといった風情である。

 二人は受付でシステム課の開発担当を呼び出してもらう。案内された商談室に暫くして営業の島本がやってきた。

「お忙しいところお時間を割いて頂き有難う御座います。先般お電話を差し上げた浅井と申します」

 図体の大きい方が名刺を差し出す。それに倣って新人も「坂田です」と名刺を出す。

「島本で御座います」と互いの名刺交換を済ませる。

 浅井がパンフレットを取り出し自社のシステムについて詳細を話し出す。

 暫く黙って説明を受けていた島本が口を開く。

「お話は充分理解しました。ですが弊社では既に大変なコストを掛けて大手メーカーのシステムを構築したばかりです。もう少し早くお話を頂戴していれば検討の余地も有ったのですが」

「失礼ですが、若し宜しければどちらのメーカー様のシステムかお教え願いませんでしょうか」にこやかに浅井が尋ねる。

「それを聞いてどうしようと言うのです? まあ別に構いませんが……弊社のシステムはAKGシステム開発が手がけています。非常に使いやすいしセキュリティも万全です。説明を聞いても御社のほうが優れているとは思わないし、わざわざ乗り換える必要は感じないというのが結論ですね。わざわざお越しいただき申し訳ありませんが、そういうことで」島本が腰を上げる。

「そうですか、一応パンフレットは置いていきますので、どうかお受け取り下さい」浅井がそう言って坂田を促し立ち上がった。


 刑部建設を辞した二人は互いの顔を見合わせニヤリと笑う。

「うまくいったな」

首を締め付けるネクタイを緩めながらコジローが言う。

「そうだね、名刺さえ手に入ればこっちのものよ」とミサキ。

「しかし、こんな堅苦しい格好はもう御免だぜ。このくそ暑いのにネクタイなんか締めてられっかよ」

「コジローはまだいいわよ。こっちなんか普段しない化粧をしてハイヒールまで履いているんだよ。履き馴れてないから足が痛くて……でも仕方ないわよ、営業マンに扮しているんだから。どこの世界にTシャツとダメージ・ジーンズでやってくる営業マンがいる?」

 ミサキがそう言い返しながら先刻受け取った名刺を見る。

「見てよ、ご丁寧に彼のメアドや会社のホームページのURLまで名刺に印刷してある。それにAKGのシステムだって判ったからね。AKGをハッキングするウィークポイントなら良く知っているから侵入するのは簡単。さあ、早くアジトに戻って、島本さん宛てにお礼のメールをしなくちゃ」

「そのメールに新型P2Pウィルスを仕込むんだな」

「そういうこと。これならファイアーウォールを楽々越えられるからね」


 アジトに戻り夕方に島本宛のメールを送付したミサキは、パソコンの画面を見詰めていた。

「ほら、彼がメールを開いた。これで刑部建設のネットワークに侵入できる」

「大丈夫なのか? ばれやしねえのか」

「もう、うるさいわね。コジローはでかい図体の割には小心なんだから……大丈夫よ、ルートキットがOSのカーネル・モジュールを改ざんしてログやコマンドから実行結果を消してしまうの。それにシステムの裏で動いているだけだから、島本さんにはばれない」

 その時、ビリーがアジトに戻ってくる。

「どう? 田沼の様子は」ミサキがパソコンから目を離すことなく問いかける。

「それが驚き、なんと田沼には愛人がいる。どうやらそのスケはキャバ嬢みたいで、二人して店に出かけた。同伴出勤ってやつじゃね? アフターまで付き合ってらんねえから一旦戻ってきたわ。店の前でボーッと見張っていてもしょうがないだろ?」

 そう言うとビリーはipodのイヤフォンを取り出し音楽を聴き始めた。

「それはそれは、ご苦労さん。じゃあ、夜中にもう一度出かけるのね」

 労いの言葉を言いながらも相変わらずパソコンに集中していたミサキが突然大きな声を出す。

「やったね、ブルートフォースで刑部のユーザーIDとパスワードを入手できたわ」

 その声にコジローがパソコンのモニターを覗き込む。ビリーもイヤフォンを外し近寄ってきた。

「ほら、興味深いメールが見つかった。フーン、成る程ね。これじゃ、警察に通報出来ないわ」

 覗きこむ二人も頷く。

「くそ、こんな悪巧みをしようとしていたのかよ」コジローが拳でテーブルを叩く。

「これを何とか暴露してやんねえ? けど、うちらが警察に通報するわけには行かないし……ミサキ、どうする?」

「その前に、運んでいた荷物は一体何処へ消えたのかしらね? ヤードで発見した車に積んであったのなら警察も気づくはずだし、今頃は大騒ぎしているんじゃない? でもそんな報道は無いし……やはりキーマンは田沼か。どれ、ついでに人事ファイルで田沼の住まいを調べるとしよう。何だか面白くなりそう」


           七

 その日は夜になっても気温が下がらず風も吹かなかった。そのため日中に熱せられた地面から、モワッと熱気がたちこめ、じっとしているだけでも汗が噴出してくる。それでも身じろぎもせず、田沼の住むアパートを車中から見上げる三つの影。

「若い愛人と同棲か、結構なご身分じゃね?」声を潜めて話すビリー。

「こんな酔狂な真似をしているのは俺たちだけかと思ったが、どうやら他にも田沼をマークしている奴らがいる。ほら、歩道左側の自動販売機の陰にミニ・クーパーがずっと前から停まってんだ。車種からして警察じゃねえわな、刑部の配下か」とコジロー。

「いや、どちらでもないと思うよ。警察も刑部もうちらを捜すのにやっきになっているはずだし、そもそも誰も田沼に疑いの目を向けてはいないはず」ミサキが異を唱える。

「じゃあ、一体誰なんだ?」

 コジローのお喋りをビリーが遮る。

「シッ、部屋から誰か出てくる」

「二人いるわ。どうやら愛人とお出掛けするようだけど……何か様子がおかしいんじゃない?」ミサキが呟く。

 男女が二階の廊下をゆっくりと進み、足音を忍ばせて階段を降りてくる。

 階下に降り立ち、明るい照明に照らされ二人の顔がはっきりと見える。

 その顔を見た三人は互いの顔を見合わせる。愛人と共に出てきたのは田沼よりもっと若い、髪の毛をツンツン逆立てた二十代の若者のようだった。

 女は大きなボストンバッグ、男は大きな紙袋を抱えている。

 二人は道を隔てたコインパーキングに停めてあった車に乗り込む。ただ、シャコタンのため停車板に底を擦るためか停車エリアを甚だしくはみ出し、斜めに停めてある車だ。

ところどころにステッカーやミラーを貼り付け、紫にペイントされた十年落ちのシーマ。ライトカバーはクリアパーツ、窓にはカーテン、ホイールはピカピカに輝き、履いているタイヤは超扁平。そのため絶対車検が通らない車幅にまでタイヤカバーが大きく張り出している。男の素性を端的に物語っている車である。

「あの女、族の彼がいたのか。よし、尾行は任せて。二人は田沼を頼む」

運転の得意なビリーがそう言い、二人を車から降りるようにせかす。

 マフラーを付け替えた紫のシーマが、轟音をたてて走り去る後をビリーのインプレッサが追う。その更に後を一台のバイクが尾行していった。

カワサキNINJA250Rに乗る奈緒であった。


「大丈夫かな、奈緒さん。バイクで追っかけたりして」

「大丈夫さ、あいつの強さは雄太が一番知っているだろ?」

 のんびりと植草が応じる。

「そりゃそうだが、あの男は族上がりのDQNだぜ。それに尾行していったインプレッサも何だか怪しい。へたすりゃ、複数の男を相手にする羽目に陥る」

「そんなに心配ならお前も追いかければ良いじゃないか」

「このポンコツのミニでか?」

「失礼な奴だな、ポンコツは余計だ。モーリス時代のミニ・クーパーで荷室ドアが木製の観音開きになっている、大変貴重な車なんだ。まあお前には価値が判らないだろうけどね」

 そう言い返した植草であったが、ふと真顔に戻る。

「あの追っかけていった人物は一体誰だろうか? どうして田沼を見張っていたのか。若しかして……」

 植草が何かを言いかけたとき、田沼の部屋のドアが勢いよく開き上半身裸の田沼が慌てて飛び出してきた。階段を転げ落ちるように降り、道路に走り出てくる。左右を見渡した後、その場にへなへなとしゃがみこむ。

「田沼、車から持ち出した品物を何処へやった」

 物陰から飛び出したコジローが叫ぶ。

 目の前に突如現れた大男に驚いた田沼が仰け反る。

「だ、誰だ? お前は」

「いいから素直に吐け」田沼の胸倉をコジローが掴む。

「待って、コジロー。手荒な真似はしないで」見かねたミサキが右手でコジローを制する。

「あんたのお陰でうちらは警察と刑部の配下、二組から追われているの。だから、あんたには本当のことをゲロしてもらわないと、だわね」

「え、と言うことは……お前たち、う、噂の三人組なのか」

「そうさ、判ったら素直に吐け。ミサキは穏やかだが俺は違うぜ。何なら指の二、三本へし折ってやろうか」コジローが田沼の右手中指を逆方向に捻る。

「ひっ、痛い、止めてくれ。言う、言うから。酔っ払っていつの間にか眠り込んで……さっき目が覚めたら純子がいないし、物もないんだ。だから慌てて外に飛び出したんだ。あいつが持ち去ったに違いない」

「純子ってのは、お前のスケか? それなら派手な車に乗った男とどこかへ行っちまったぜ」

「男? くそ、礼二の奴だ」

 その時、ミニから植草が降りて、三人のほうへのんびりと近づく。

「これは、これは。噂の三人組の尊顔を拝見できるとは幸甚の至りですねえ」

「何だ、てめえは」コジローが怒鳴る。

「君は野蛮だねえ、僕はそちらのミサキさんだっけ? 君と穏やかに話がしたい」

 植草はそう言いながら、二人の人相、風体をじっくりと観察した。

 背丈が百八十センチ以上ある図体の大きいコジローのほうは、白い半袖Tシャツを肩口まで捲り上げて、筋肉の盛り上がった上腕三頭筋を見せ付けるようにしている。ボトムは所々穴の開いたダメージ・ジーンズを履いている。一方のミサキは肩までかかる髪の毛を後ろで纏め、帽子を被っている。夏だというのに大きめの長袖のボーダー柄のTシャツ、下半身はぴったりした黒のスキニー・パンツにショートブーツといういでたちであった。

「君たちは田沼を見張っていたわね。一体何者なの」それまで黙って様子を見ていたミサキが二人に尋ねる。

「只の野次馬さ、その田沼って運転手が車盗難の狂言をしたのはわかっている。女性の手引きで大型トラックを使い、車を運んだのさ」

「ど、どうしてそれを」田沼が驚きの声を上げた。

「そしてそのトラックを運転してヤードに運び込んだのが先刻女性と出て行った男性って訳だ。そうだろ? 田沼さん」

 植草のすべてを見通した言葉に田沼はがっくりと項垂れた。

 もうこれまでと観念したのか、自ら口を開く。

「そのとおりだ。だが、俺はそんな気は無かったんだ。社長が上山知事に高価な贈り物をしたいが自分が行ってはまずいので、俺にこっそりと運ぶようにとの命令だった。それを知った純子が考えた計画だった。あいつが盗難に遭ったことにして横取りしようって言い出したんだ」

「そういう事か、読めてきたぞ。刑部建設がK市の再開発を一手に引き受けているのは知事と癒着していたからだったのか」植草が合点がいったように呟く。

「あんた、どうして盗難を狂言と見抜いたの? ただの野次馬がどうしてそんなに詳しく知っているのよ」ミサキが植草の顔を訝しげに見詰めた。

 植草は黙って微笑むだけである。そんな様子を見て、ミサキは肩をすくめ田沼に向き直る。「まあいいか……そんなことより贈り物ってのは何なの」

「絵だよ、誰だか知らないが有名な画家で一億は下らない価値があるそうだ」田沼が素直に答える。

「成る程、刑部が画商から買った絵を今度は貰った知事が画商に買い戻してもらう。現金の直接なやりとりでは直ぐにばれちまうからな。その方法は贈収賄の古典的な手口だ。バブル時代にはうちの社もそれで民友党の議員をスクープしたんだ。今の主筆が現役の記者の頃だ」新聞記者である栗橋が口を挟んだ。

「明日のニュースが楽しみだ。これで君達の仕業でない事が証明されるばかりか知事の贈収賄が発覚するのだからね」

 植草がそう言い終わらないうちに、彼のスマートフォンがメールの着信を知らせる。

「おや、奈緒からメールだ、どうやら君達の連れと協力して二人を捕まえたらしい。現場に行くけど良かったら一緒に行くかい? 車は無いんだろ」

「おいおい、真一の車は四人乗りじゃないか。全員乗れないぜ」栗橋が文句を言う。

「悪いが雄太はここに残って警察に田沼を引き渡してくれ。お二方は警察がやってくる前に姿を消したいだろうからね」

そう言って植草はミサキに向かってニヤッと笑いかけた。ミサキも笑顔で応じ、右手でOKサインをして見せた。


 一方、シーマを追っていったビリーと奈緒であったが、早々と礼二に感づかれてしまったようで、車は突然わき道へと左折する。

 舗装されていない田舎道だがスピードを緩めずハンドルを切ったためシーマは危うくスピンしそうになる。砂利を弾き飛ばし、コントロールを失ったシーマは左右にふらついた後、漸く体制を立て直した。後に続くビリーのインプレッサは計算されたテールスライドで難なく曲がる。それを見ていた奈緒はその運転技術に感心し自らもリーンアウトでコーナーを曲がった。

 シーマとインプレッサの運転テクニックの差を目にした奈緒は、早い段階でインプレッサが仕掛けるだろうと予想した。

 一行が山道を登り、再び下りに差し掛かったときにインプレッサが行動を起こした。

カーブで対向車線側に膨らむシーマの内側に鼻先を突っ込んだインプレッサがチョンとシーマのリアを押しやる。たちまちシーマはスピンを起こし、そのまま半回転して崖に激突した。

 右後部ドアからトランクにかけて原型をとどめぬ程に潰れたシーマ。何やら焦げ臭い匂いと共にリアから白い煙が辺りにたちこめる。

 車を停め素早く降りたビリーがシーマに近づく。

運転席を覗き込もうとした瞬間、突然ドアが開きビリーは後ろに跳ね飛ばされ尻餅をついた。しまった、油断した。気絶していると思い込んで迂闊に近付きすぎたようだとビリーは後悔した。

「この野郎、よくも俺の車をオシャカにしちまいやがって」

 そう怒鳴ると礼二は手にしたチェーンを思い切りビリーに振り下ろす。

 その時木の枝が差し出され、チェーンはビリーの顔を打つ手前でその枝に絡みついた。奈緒が咄嗟に道端の樹木から手にしたものだった。

 その枝ごと絡みついたチェーンを奈緒が引っ張る。体制を崩し前のめりになった礼二の側頭部めがけて奈緒が回し蹴りを見舞った。あっけなくその場に倒れこむ礼二。

 隙を窺って荷物を手にその場を逃れようとする純子。それを見たビリーは、素早く立ち上がると純子の背後から羽交い絞めをして捕まえた。


 連絡を受けて四人を乗せたミニ・クーパーがやってきた。

「やれやれ、あんな狭い後部座席は俺にとっちゃ拷問だな」降りてくるなりコジローがぼやく。

「いや、いい車よ。植草さん、いつか盗ませて貰うわね」

続いて車から降り立ったミサキが植草に言う。

「ああ、いつでもどうぞ。但しそのときは君たちの最後になるって覚悟しておくんだね」

「いいわねえ、それでこそ盗み甲斐が有るってもんよ」

 植草とミサキが互いに顔を見合わせニッと笑いながら、待ち受ける奈緒とビリーのほうへ近付いていく。

 ビリーもミサキ同様、長髪であるがウルフカットなので、ざんばら髪のまま、トップはボリュームがつくようにムースで持ち上げている。服装は白いポロシャツの上に真っ赤のスィングトップをきっちりと着込み、袖を肘まで捲り上げている。スリムフィットのジーンズにハイカットのスニーカーを履いていた。

 泥で汚れたビリーの格好を見てミサキが心配そうに声をかける。

「大丈夫? 服が汚れているけど、怪我はしていない?」

「うん、サンキュー。何処も怪我はしていない」

 ビリーが嬉しそうに笑顔で答えた。

 そんな二人の様子を見て、奈緒と栗橋が顔を見合わせる。

「あの二人、できてるわね」奈緒が囁くように言い、栗橋が頷く。

 植草はそんなことに頓着することなく奈緒を促す。

「それじゃ、一億の価値があるっていう絵を拝ませて貰うとするか」

 奈緒が大きな紙袋から額縁に収められた油絵を取り出し、車のライト前に差し出す。絵そのものはB4程度の大きさのようだ。

 暗がりの中で全員がその絵を凝視する。

「これは、デニス・ヤーンの『ゴルゴダのキリスト』じゃないか」植草が驚いて叫ぶ。

「いやだ、どうしてこの絵がここに有るの?」奈緒が叫ぶ。

 無理も無い、この絵は現在修復を終え、安川美術館で展覧会が催され、奈緒も美術館で鑑賞してきたばかりだ。

 その絵を見て全員が驚愕の表情を浮かべる中でミサキだけは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているのを植草は見逃さなかった。

「ヤーンはフェルメールなどと同じ十七世紀のオランダの画家だ。ただレンブラントやデ・ホーホ、フェルメールほど有名じゃない。それでも一億の価値はあるだろうな。しかしどうしてこの絵が……この絵は確かバブルの頃、安川電気の社長が買い取り私設美術館に保存されている。そして最近修復されたのは皆も知ってのとおりだが……」しきりに首を捻る植草。

「悪いが、その絵は彼らと共に警察に引き渡してくんないか、植草さん」

 ビリーがそう言うとミサキが反論する。

「冗談じゃない、正気? 少なくとも一億の価値があるんでしょ、素直に渡すなんて馬鹿げてる」

「その絵が本物ならね」ビリーがぶっきらぼうに応じる。

「例え贋作であっても、それはそれでまずいんじゃない?」

「うちらには関係ないじゃん。それにうちらの仕事はエンスー相手の車窃盗で、絵画などに手は出さないんじゃなかったっけ。それに証拠品が無けりゃ田沼の狂言を示す根拠も無くなる。うちらの仕業じゃ無かったことが証明できればそれで良いじゃん」

「俺もビリーに同感だね。それに絵画を奪ったところで、俺たちにゃあ捌きようがない。下手すりゃ、そこから足がついて御用になるリスクが高いぜ」コジローが諦めろとミサキの肩を叩く。

 面白くなさそうに、ミサキは黙ってインプレッサの助手席に乗り込んだ。

 ビリーも運転席に乗り込みエンジンを掛ける。カーステレオから女性の歌声が流れ出す。「マイ・マン」のサビの部分だ。

「おや、レディ・デイだね」そう独りごちて、植草がその声にあわせ鼻歌を口ずさむ。

Oh my man I love him So he will never know

All my life is just despair But I don’t care

「君達も好きなのかい?」

 植草の問いかけに誰も応じない。

「さてと、じゃあ後は頼むよ。ぐずぐずしていると此処にも警察がやってくるだろ? うちらはここらでドロンさせてもらうよ」

 そういい残してビリーの操るインプレッサはたちまち峠を下っていった。


 栗橋の案内で今井刑事たちを乗せたパトカーが到着したのは、それから五分ほど経過してからであった。

「噂の三人組がいるそうだな、どこに居る」車から降りるなり今井刑事が叫ぶ。

「もう、逃げちゃいました」

暢気にそう答える植草を今井が睨む。

「何、逃がしたのか? 大体お前たちはどうして俺を呼ぶんだ、俺は捜査一課だぞ。管轄外だろ」

「僕たちは、今井さんしか警察には知り合いが無いもので……失礼しました。でも彼らは車を盗んだりしていません。それどころかこの絵を盗もうとした犯人逮捕に協力したのですよ」

「絵? 栗橋の通報を受けて先ほど男を逮捕したが、奴らの狙いは絵だったのか」

「そうです、それも今話題のヤーンの絵です。尤も本物なのか贋物なのかは判りませんが……それで三人組は車の窃盗犯が自分たちじゃないことを証明するために逮捕に協力してくれたのです。そんな彼らを何の罪で捕まえると言うのです? 」

 そう言う植草に返す言葉も無い今井刑事であった。


 どういうことだ? 何故ヤーンの絵があんなところに……直ぐにでも確認しなくては。おそらくは小林が、勝手な真似をしたんだろう。全く、これでは計画が台無しではないか。小林の奴、このまま無事で済むと思っているのだろうか、だとすれば良い度胸だ。事と次第によっては許さない。


第二章

           一

 翌日、K署では運転手の田沼が県知事に絵を届けるよう刑部から指示された事を含め洗いざらい自白したため、刑部は贈賄未遂容疑で逮捕された。彼は絵の入手ルートについて執拗に問い詰められたが、頑として黙秘を貫いていた。

 警察は刑部邸を家宅捜査し、贈収賄の証拠探しに躍起となっていた。だが、既に処分をしたのか帳簿類や文書やメモ、パソコンのハードディスク等にも疑わしい物証を見つけられずにいた。

 一方、安川美術館に絵の問い合わせを行ったが、展示してある作品こそ本物である、贋作の出現に当方は迷惑していると逆に苦情を申し立てられる始末であった。

事態は一地方警察の範疇を超え、持て余したK署では回収された絵が本物であるかどうか、専門家に分析を依頼した。

 三人組の捜査については、植草や栗橋はもとより田沼や純子、礼二、それに事件が明るみに出て初めて気がついたシステム開発の島本から三人組について歳、格好を聴取した。

特に島本はミサキと呼ばれる人物が、女性の格好をしているのを見た唯一の目撃者であり、彼の情報が重要視された。純子も一味の一人が確かに女性だったと証言した。

 当局は即時三人組の似顔絵を作成し、全国に指名手配したのであった。

 事件の後、警察に頻繁に呼び出され事情聴取を終えた植草兄妹と栗橋が家に戻ると、奈緒の友人の安池(やすいけ)愛(あい)も心配して駆けつけていた。

「今井刑事から、どうしてお前たちはいつも事件が起こる度に関わりを持っているんだって散々嫌味を言われるし、三人組の人相や歳格好に至るまでしつこく聴取されて嫌になっちまう。本当は我社だけのスクープにしたかったのに」

 漸く警察から解放された栗橋がぶつぶつと文句を言う。

「仕方ないさ、刑部の贈収賄容疑はあくまで未遂で終わっているし、絵の方の捜査は鑑定待ち。K署としてはせめて噂の三人組だけでもお縄にしたいだろうからね。彼らが駆けつけたときには既に逃げられた後だったから、今井刑事でなくとも地団太踏んで悔しがる気持ちは判るよ。彼等の到着がもう少し早ければ三人組を逮捕できたのだからね」植草が応じる。

 その時、テレビのニュースを見ていた愛と奈緒が二人を呼んだ。

「ほら、似顔絵が映っているわよ。コジローは特徴がよく出ている」

 画面には自称コジローとして、短髪で目つきの鋭い男の似顔絵が大写しとなる。

「ほお、こりゃ良く似ている。さすがに巧いもんだ」栗橋が感心しながら画面を見る。

 次に自称ビリーとして長髪で細面の男性の似顔絵。最後に自称ミサキ(女性)として肩にかかる長さの長髪で瞳の大きい似顔絵がアップされた。

「ミサキは余りにも女性っぽく描きすぎじゃないか?」植草が口を挟む。

「俺たちは男装したミサキしか見ちゃいないが、刑部建設の島本ってのは女性としてのミサキを見た唯一の人物だからな、彼の証言を重要視したらしい」と栗橋が応える。

「女装かも判らないじゃないか」

「いや女性だと言うのは確かだね、純子もそう証言している」

「純子が?」植草が栗橋に念を押すと、それっきり黙りこんでしまう。

「この娘、まさか……」愛が呟く。

「ん? 愛さん、何か心当たりでも?」栗橋が聞く。

「実家の近所にこのミサキっていう人物に似ている女の子がいたのです。でもどちらかというと、その子よりお兄さんに似ています。勿論、男の子だから違いますけど」

「判らないですよ、今の世の中生まれたときは男でも、成長してゲイやハーフに目覚める奴もいるんですから」冗談半分で栗橋が茶化す。

「そんな子じゃ、ありません。彼は頭が良くて東京の理系大学に行きました。妹さんもたしか結婚したと聞いています。暫く会っていませんので二人の近況は知りませんが……でも絶対に彼等じゃありません」

 むきになって言い募る愛に栗橋が謝る。

「嫌だな、冗談ですよ。すいませんでした、先生」

 安池愛は旅行レポーターとして栗橋が勤務する新聞社にも紀行文を連載していた。だから栗橋は愛を先生と呼ぶのだ。

「いえ、私こそ。彼等は幼い頃両親が離婚して、母親が幼い子供二人を抱える生活だったのです。近所に住んでいた私の両親がよく面倒みていたので私も弟や妹のように思えて、それで……」

 気まずくなった雰囲気を察し、それまで黙っていた植草が話題を変えようと栗橋に問いかける。

「ところで、油絵の調査のほうの進捗は?」

「それがまだ結論は出ていない」と栗橋。

「そうすると安川美術館に展示されている方が贋作の可能性もあるな」

「そういうこと。美術館では今年の春に絵の修復依頼を行ったそうだが、もし贋作ならそのときにすりかえられた可能性が高い。だけど、それを誰に依頼したのか、安川会長は黙して語らないそうだ」

「そうか」両手を頭の後ろで組んで、植草がソファにもたれこんだ。

「だけど、どちらかが贋物なのははっきりしているのでしょ。どちらが贋物か判らないものなのですか?」愛が疑問を口にする。

「こうなりゃ両方美術館に展示すればいいんじゃないか」

「雄太さんったら、本当にいいかげんなんだから。そういう訳にはいかないでしょ。ねえ兄さん」

 奈緒が同調を求めるが、植草は何事か考えているようで返事をしない。

「兄さんってば」奈緒が植草の体を揺する。

「ん? ああ、悪い悪い。どちらかが贋物……か。判らないだろうね。美術の世界では過去幾つもの贋作騒動が起きている。有名なのはフェルメールの贋作だろうね。ファン・メーヘレンという人物がフェルメールの様々な絵のモチーフを真似て『楽譜を読む女』や『ヴァージナルの前の女と紳士』などを描いた。彼の手口は本物をそっくり真似するのではなく、如何にも未発見のフェルメールだと思わせたのだ。彼はそのために大して価値のない十七世紀の絵を買い漁った。額やカンバス、釘などが新しいと贋作とばれてしまうからだ。そうして手に入れた原画を慎重にカンバスからこそぎ落とす。これはエックス線検査でもばれない工夫だ。そこまで慎重な準備段階を経て、はじめて作画にとりかかるのさ。絵の具や顔料もその時代に使われていた物を手作りした。黄色は雌黄やイエロー・オーカー、鉛錫黄など、赤は辰砂、バーント・シエナ、コチニール・カイガラムシを粉末化したカーマインだ。青はラピスラズリを原料とする天然ウルトラマリンを――」

 又植草の悪い癖が始まった。彼は博識でその膨大な知識や薀蓄を話し出すと止まらないのだ。慌てて栗橋が遮る。

「その話は何時まで続くんだ? 真一。今はフェルメールもメーヘレンも関係ないぜ」

「愛さんが疑問を口にするから説明していただけさ」植草がむくれる。

「ごめんなさい、私が余計な口を挟んだばかりに……」

 申し訳なさそうな愛に奈緒が宥めるように言う。

「気にすることないわよ、愛。兄さんの悪い癖が出ただけだから。だけど兄さん、贋作とはいえ、それはそれで凄いテクニックが必要なんじゃないの?」

「そうだね、メーヘレンも最初から贋作を行っていた訳じゃない。彼も一流の画家になるんだという夢があった。しかし彼の時代にはトレンドが変化していて、ダダイズムやシュールレアリズムが持て囃されていたんだ。彼の絵は古臭いと一顧だにされなかった。そう言えばわが国でも、藤田嗣治の作と思われる三点の作品を藤田の弟子であった東郷青児に見せたところ、二つが贋物と鑑定した。後年、藤田本人に確認したところ、その二点こそ自分が描いたもので、残る一点が贋作だといった事件があった。それに最近でも十年ほど前、贋作騒動が有ったのを覚えているか?」

「そんな事件が有ったな。俺がまだ記者として駆け出しの頃だ。確か磯村恭平っていったかな……彼もバロックやフランドル派の画家を崇拝し印象派以降には見向きもしなかった。そんな彼の描く絵は評価されず彼はイタリアに渡ったが、結局彼もメーヘレンのように贋作に手を染めてしまった。当然彼は画壇から追放されそのまま行方をくらました。今はどうしているのか……」

「まあ、それはともかく、お前たちも修復した絵を絶賛していただろ」

「そこを突っ込まれると弱いけど、あれは本物だと思うぜ」頭を掻く仕草をして栗橋が弁解する。

「まあ、素人には判らないだろうね。しかし、評論家の野崎氏は大絶賛していたな」

 そうだろ、と言わんばかりに栗橋が勢い込む。

「野崎氏は西洋絵画の第一人者なんだぜ。その人が太鼓判を押しているんだから美術館にあるほうは本物だろ」

「何れにしろ、贋作が制作されたのは本物の修復中であることは間違いないだろう。つまり修復した人物が贋作を制作した可能性が高い。修復依頼を受けたのが誰なのか判明するのも時間の問題だ。その時点で本物を美術館に戻したのか、それとも贋作とすり替えたのか、真相も判明するだろう。それより僕には一つ気になる点がある。絵を見た瞬間、ミサキだけは苦々しい表情を浮かべたことだ。それがどうにも気になるんだ。何か事情を知っているんじゃないだろうか」

独り言を呟いて、うーんと唸って考え込む植草。しきりに指先でペンをくるくると回す。こんなときの植草は考えに耽り何を言っても無駄である。

 そんな植草の邪魔をしないように栗橋は奈緒に話しかける。

「俺は奈緒さんが奴らを追っかけてからの話を聞いていないんだ。どうやって奴らを捕まえたのか話して聞かせてよ。先生も聞きたいでしょ?」

「そうね。是非聞かせて、奈緒」

 二人の催促に応じ、奈緒が詳細を話して聞かせた。

「へえ、礼二って奴はやはり族上がりだったんだ。普通チェーンなんて車に積んでやしないもんね。でも奈緒さん、道端の枯れ木じゃチェーンには勝てないよ。生木から太い枝を折ったんでしょ」

 奈緒が慌てて目配せしながら植草の様子を窺う。

「良かった、聞こえてないわ。兄さんに知れたらまた叱られちゃう。お願いだから、兄さんには黙っていてね、雄太さん」

「でも奈緒さんのお陰でビリーは命拾いしたって訳だ」

「ううん、余計なお節介だったかも」

「どうして?」愛が尋ねる。

「ビリーって人も相当格闘技の心得がありそうなの。油断して転んでしまったけれど、荷物を持って逃げようとした純子を素早く羽交い絞めにした後、足技で体制を崩しておいて投げ飛ばしたの。一連の動きが流れるように鮮やかに決まったわ」

 その時、考えに耽っていた植草が顔を上げた。

「ビリーは後ろから純子を羽交い絞めにしたのか? ということは……」一人でぶつぶつと呟いている。

「なんだ真一、俺たちの話を聞いていたのか?」

 栗橋の問いかけを無視し、しきりに首を捻りながら何事かを考える植草。

 他の三人は憮然として互いの顔を見合わせるのだった。


          二

マスコミはこぞってこの事件を大々的に取り上げた。今話題を呼んでいる安川美術館のデニス・ヤーンの絵とそっくりの絵が出現したのだから、こんな美味しいネタは無い。しかもそれに伴うネタの広がりが有る。

 ざっと数えただけでも

一、どちらの絵が本物なのか?

二、贋作は一体誰の手によるものなのか?

三、もし美術館の絵が贋作とするなら、いつすり替えが行われたのか?

四、何故、刑部が絵を所有していたのか? 入手ルートは?

五、刑部はその絵を県知事に贈賄しようとしていたのか?

 それ以外にも、車泥棒は噂の三人組の仕業ではなく、逆に真犯人の逮捕に一役買ったことに世間の関心が集まっていた。自分たちの濡れ衣を晴らすためとはいえ、リスクを冒してまで取った行動に世間は拍手喝采した。今や犯罪者であるにも関わらず、その人気はうなぎのぼりであった。

 これで当分ワイドショーや週刊誌のネタには困らない。テレビ局や出版社は小躍りして競うように取材攻勢を掛け、独自の見解を報じるのであった。

 贋作の作者として、或る高名な画家によるものだと推測するワイドショー、更には貧乏画学生がアルバイトで描いたものだと主張する週刊誌などが紙面を賑やかせていた。

又、安川美術館に展示された絵が本物か否かに対してもマスコミの意見は大きく二分した。

贋物を主張する週刊誌は、修復時にすり替えが行われたのだと主張するのだった。その為彼らは安川会長の元にも取材攻勢を掛け、誰に修復を依頼したのかを聞きだそうとした。

刑部と県知事の贈収賄疑惑については政治部を巻き込んでの騒動となったが、あくまで未遂であることと、それも刑部が完全否認、証拠も見つからず不起訴になる可能性が高まり、報道は沈静化してしまった。

 そんな訳で数日後、大衆の興味は、矢張りどちらの絵が本物なのかという一点に集中しだした。当然の如く、真贋論争が過熱し始めた。

あるテレビ局では展覧会で賞賛した評論家の野崎をゲストに招き安川美術館の絵が本物だと主張した。

 野崎としてはまさか贋作が出現するなどとは夢にも思っていなかった。従って展覧会の開催時にも、何の疑問もなくその修復の出来栄えを大絶賛したのだ。例えその絵が贋物だとしても、今更前言を翻すわけにはいかない。あの絵が本物であって欲しいという思いも込めて本物説を主張するしかなかった。

 別のテレビ局では国立美術館の学芸員が招かれ、修復した絵が贋物だと論じた。

本物の所有者である安川会長の元には以前にも増して取材が殺到した。しかし安川会長は修復を依頼した人物の名を語ることは無かった。

 自身の不用意な発言が及ぼす影響を勘案したのであろうが、その態度が余計マスコミを煽る事態へと発展しそうであった。

 今やマスコミは大衆受けを狙い、勝手な憶測で報道するといった様相を呈していた。


 銀座八丁目にある小林画廊、出勤してきた秘書兼事務員の大沼幸子がオーナーである小林に挨拶をしようとしたが彼は電話中であった。

「だから、そこまでは貴女の仰せどおり上手くやったでしょ? それ以降の処置については私の裁量でやらせてもらいたいものですな。それがウィン・ウィンって事でしょ。違いますか」 

 何だか朝から込み入った話をしてそうなので、大沼幸子はそのまま自分の机に向かう。

 暫くして、電話を終えた小林に声をかける。

「お早う御座います、社長」

「ああ、お早う」

 幸子は、そっけなく挨拶を返す小林が手に持つ朝刊に目を留め、話しかける。

「大変なことになりましたね」

「あん? ああ、絵の事か。安川美術館からも問い合わせが来たが、私どもはきちんと本物を納めましたと突っぱねた。贋物ならどうして学芸員の方々も気がつかなかったのですか? とね。若し贋物であるなら、もっと以前からすり替えられていたんじゃないですか? そう言い返してやったさ。まあうちに損害は無いから心配しなくていい」

「でも、本来であれば闇ルートで捌くはずでは?」

「おい、余計なことは言わんでいい。捌く前にちょっとした小遣い稼ぎをしようとしたんだが、まさか刑部のお抱え運転手である田沼があんな馬鹿な真似をするとは思わないだろ?」

 小林は吐き捨てるように言って舌打ちをした。が、直ぐに気持ちを切り替えにんまりとする。

「だが、これで知事から買い戻す必要が無くなった。どうせ捌いても五千万がいいとこだから一億だとぼろ儲けって訳だ。どうだ、今夜は一緒に飯を食いに行くか」

幸子はその言葉を耳にして身を強張らせた。

「なんだ、嫌なのか? 俺が抱いてやると言ってるんだ。少しは嬉しそうな顔をしたらどうだ」そう言いながら小林が女のヒップを撫で回す。

「いや、止めてください」幸子が男の腕を掴み尻から引き剥がす。

「大丈夫だ、他の事務員は全員ショールームに出ていて誰もいやしない」

「でも……」執拗に迫る小林に幸子は困惑する。

「いいのか、そんな態度を取って」

 その言葉に幸子は項垂れ、唇を噛む。

「すみません、夜はお付き合いさせて頂きます。ですから会社ではお許し下さい」仕方なく詫びの言葉を口にする幸子。

 いつかこの男を殺してやる、でもその前に恥ずかしい写真データを取り返さねばならない。この男は私を泥酔させて無理矢理手篭めにし、様々なアングルで私の裸身をデジカメで撮ったのだ。

 それをネタにその後も関係を迫る。私だけではない、そんな女性が数人はいると小林が得意げに自慢したことがある。

こんな生活から早く抜け出したい。恐らく映像データはUSBに移し金庫に保管しているのだろう、恐らく一億の金と共に……。今夜、何としても金庫の開錠方法を聞きだしてやる。そう心に誓う幸子であった。


 何てことだ、やはり小林が勝手な真似をしたのだ……お陰で計画が狂ってしまった。だが、結果的にはこれでいいのかもしれない。本物の出現で安川美術館に展示されている絵が何れ贋作と判明するだろうが、それまで世間は真贋論争で大騒ぎになるだろう。予定とは違ったが結果的には狙ったとおりの展開になった。

 いや、待て。警察は刑部に本物の入手ルートを問い詰めるだろう。それに美術館からも修復を依頼したのが小林だと直ぐに判明してしまう。どうする……小林の口封じをするか。心が揺れ動く。

 心を落ち着けるために音楽を聴こうとCDプレイヤーをオンにする。

「月光のいたずら」が流れ出す。直ぐに曲を変える。今はこんな弾んだ曲を聴く気分じゃない。

「アイ・クライド・フォー・ユー」を選びプレイボタンを押した。 レスター・ヤング(通称ブレズ)のサックスがイントロを奏で始める。この曲は多くのミュージシャンが演奏している。ワイルド・ビル・デイビスのオルガンとジョニー・ホッジスのサックス、テディ・ウィルソンの伴奏にヘレン・メリルのヴォーカル等々。

 でも私はプレズとレディ、この二人の演奏が大好きだ。歌うようにプレイするプレズ、演奏するように歌うレディ。漸く気持ちが落ち着いてくるのを感じ始めていた。


          三

 東京の繁華街は不夜城と呼ばれる。それ程に夜の人出が途絶えることは無い。しかし銀座もクラブが軒を連ねる近辺以外の裏通りは人影もまばらとなる。

そんな裏通りに面する小林画廊の従業員出入口に近づく女性が一人。周りを注意深く見渡しながら出入口に鍵を刺す。だが、鍵を回さなくともドアノブが回る。鍵は掛っていない。

鍵が開いているのを訝りながらも大沼幸子は音を立てないようにドアを開け、そっと内部に足を踏み入れた。

 そこは流し台と掃除用具などが置いてある小部屋で、その奥が事務所である。ドアの磨りガラス越しに、事務所内には照明が煌々と灯っており人影が動くのが判る。

 こんな時間にまだ社長が居るのかしら? しまった。そう思うが今更引き返せない。

何やらボソボソと話し声が聞こえる。どうやら社長一人だけでは無く誰か相手がいるようだ。

 幸子はドアに忍び寄り、話を聞こうとするが分厚いドアが邪魔をして何を喋っているのかよく聞こえない。音を立てないように隅においてある掃除用具入れの扉を開け、そっと中に潜り込んだ。

 掃除用具入れは、掃除機などが直ぐに取り出せるように、事務所側にもスチール製の扉がある。ここからなら隣室の話し声が良く聞こえるのだ。幸子はその扉に耳をくっつけて隣室の様子を窺う。

「ん? そうだな」 

社長の声が聞こえた。

「警察の追及は厳しいらしいからな、もしかしたらゲロしてしまうかもな」冗談めかした

口調で相手に話している。

「だからそれじゃあこっちが困るのよ」

 甲高い声が聞こえ、続いて社長の怒鳴るような声。

 尋常ではない雰囲気を感じ、幸子はぞくりと身震いをした。多分、私のように辱めを受けた女性と揉めているのかも判らない。

 一体隣室では何が起こっているのだろう。とんでもない場面に出くわしてしまったようだ。

 隣室では何やらゴソゴソと物音がする。やがて水の流れる音。

 あちらの部屋には洗面所とトイレ、更に簡易のシャワー室がある。どうやらシャワーを使っているらしい。

 仲直りしてシャワーを浴びているのかしら? 幸子はそんなことを想像する。

やがて音が止み、それ以降は何の物音もしなくなった。

 と、突然大きな音がして乱暴にドアの開く音。バタバタと足音を立てて相手がこの部屋に入ってきた。

 心臓が止まるかと思うほどの恐怖に幸子は、声も上げられない。どうしよう、見つかった。そう思ったが、通用口が開く音がして足音が遠のいていく。

 相手はそのまま真っ直ぐに、通用口から走り去って行ったようだ。

 幸子は恐ろしくて暫くじっとしていた。相手が戻ってきたらどうしよう、そう思うとその場から動けない。

 だが、それっきり何の音もせず、辺りは静寂に包まれたまま時が過ぎる。

 幸子は勇気を振り絞って、用具入れから這い出す。このまま逃げようかとも思ったが、隣室の様子が気になる。

 依然明かりは点いたままだが、人の気配が無い。社長がまだいるはずだ、そう思い小声で奥に声を掛ける。

「社長、いらっしゃるんですか?」

 少し待つが反応は無い。幸子は思い切って事務所に入る。

 突き当たりの事務机に設置されたパソコンに向かって坐っている社長の頭部が見えた。

 しかし、幸子は直ぐに異変に気がついた。小林の首が不自然に傾いており、何やら赤く染まっている。

 急いでそちらに駆け寄る。

「社長? どうされた……」後は声にならない。

 項垂れた小林の首から夥しい血が流れ、床を真っ赤に染めているのを目にしたのだ。

 幸子は驚きの余り二、三歩後ずさると尻餅をついてしまう。

 どういうこと? あの女の仕業だ、まだどこかにいるのかしら。逃げなきゃ、漸く我に返った幸子は急いで立ち上がろうとするが、足が震えてうまく立ち上がれない。机につかまりながらやっとのことで立ち上がる。

 一目散に逃げ出そうとするが、思い直したように突然足を止める。

 そうだ、あれを取り戻さなければ……振り返って金庫の側へにじり寄った。

 小林から聞き出した方法でダイヤルを回し、金庫を開ける。

 中の引き出しを漁り、そこに収納されていた通帳類やフィルムや写真、USBのメモリースティックなどを一まとめにポケットに入れる。

 側にあったアタッシュケースを開けてみると、そこには札束がぎっしりと詰まっていた。

 先程の人物はどうしてお金を持ち去らなかったのか? 一体何者が社長を? 何がなんだか理解も出来ないまま、幸子は重いアタッシュケースを両手で抱えながら裏口から逃げるように出て行った。


 銀座の画廊でオーナーが死んでいると築地署に通報があったのは午前九時を少し過ぎた時間であった。

 通報してきたのは第一発見者でもある画廊事務員の女性であった。朝出勤して扉を開けたとたん何やら空気が生臭い、不審に思いながら事務所に入ってオーナーの死体を発見したという。

 パソコン・デスクに覆いかぶさるようにして死んでいるオーナーの首がざっくりと切り裂かれ、そこから溢れ出た血は既に凝固していた。

 大きく扉が開けられた金庫の中は空、他にはノート・パソコンが持ち去られていると事務員が証言した。

築地警察では警視庁捜査一課が乗り込み、銀座の画廊オーナー殺人事件の捜査本部が設置された。


「大変なことになったぞ」

 栗橋が大きな声で叫びながら植草邸に駆けつけてきた。

「銀座で画廊のオーナーが殺された」

「朝早くから騒々しい奴だな。そのニュースならもう知っている」パソコンから目を上げずに植草が尋ねる。

「安川美術館から修復依頼を受け、贋作を描かせたうえに刑部に本物の絵を売ったのがその画商だって事も知っていたか」

「何だって。本物の絵が売られていたのか?」

「そうらしい、だから美術館にあるほうが贋作だとみなされた。黙秘を続ける刑部の銀行口座をすべて洗いだしたK署がその画商に辿り着いたんだ。だが、しょっ引く前に殺された。背後から鋭利なナイフで首をざっくりと切り裂かれていたらしい。ほとんど抵抗出来ないままやられたんだろう。小林が殺されたと聞いて安川会長は、こんなことなら早く誰に修復依頼をしたか話せば良かったと嘆いていた。それとガイシャの右手に髪の毛が数本握られていた。恐らくホシの毛髪だろうが、鑑識の報告によると女性の犯行らしい」

「女性……か」

「ああ、そこまでの詳細はマスコミにも発表されてない。DNA鑑定の結果待ちだが、女性の犯行と見てまず間違いなさそうだ。目撃情報もあるしな、俺はミサキの犯行と睨んでいる」

「どうしてミサキが疑われるのだ? 彼らは関係ないだろ」

「これはこれは、名探偵の真一とも思えぬ科白だな。奴は絵を返却することを拒んでいた。ビリーやコジローが反対するので止む無く真一に託した。ビリーが言っていたように絵など奪っても処分に困るからな。だが、絵が警察の手に渡ったことで画商は知事に金を渡す必要が無くなった。つまり画商の手元には一億の現金がうなっていた訳だ。そちらを狙ったほうが手っ取り早いじゃないか」

「それはお前の考えじゃないだろ? 今井刑事の推理か?」

「全く、何でもお見通しか……そのとおり、今井刑事の受け売りだ」

「僕にはそんな単純な事件じゃないように思えるが……まあ、どちらにしても殺人事件などに興味は無いね」

 そう呟きながらもパソコンのモニターを食い入るように見詰める植草。

「じゃあ一体何を調べているんだ?」

「これか? 過去に起こった磯村恭平の贋作事件さ。当時の新聞や図書館での資料漁りに二日を費やした。だがもう少し調べたいことがある」

「まさか真一、贋作は磯村の仕業だと考えているのか?」

「いや、確信があるわけじゃない、あくまで一つの可能性だ。昔の磯村事件と酷似しているじゃないか。彼はあの事件以来消息不明だが、どうも気になるのだ」

「成るほど、そうか。彼は偉い学者や評論家に復讐したかったんじゃないのかなあ。偉そうに訳知り顔をしていても贋物も見破れないじゃないか、ざまを見ろってね。修復で復讐だ、なんちゃって」

「よくこんなときにくだらない親父ギャグが言えるわね」傍で聞いていた奈緒が呆れる。

「僕が思うに例え磯村の仕業だとしても、彼は過去の事件で散々な目に遭っている。今更自らそんなことを仕出かしたとは考えにくい。恐らく誰かに無理強いされているのだと思う」栗原の駄洒落にニコリともせずに植草が言った。

「いや、だから今のは冗談だって、忘れてくれよ」

 植草はそれ以上相手にならずに、作業を続ける。

「やれやれ、真一には殺人事件より贋作事件のほうが余程興味が有るって事か」

栗橋はそう言って嘆息した。


「驚いたな、ニュースを見たか?」

 アジトにくるなりコジローが話し出す。

「あの絵を刑部に売った小林っていう画廊のオーナーが殺されたぞ」

「ああ、どこのテレビ局のワイドショーでも、その話題で持ちきりだね。強盗の仕業だけじゃなく、内部犯行説を主張するテレビ局もあるようね」ミサキが応じる。

「それにしても奴らの取材攻勢は凄いんじゃね? 既に小林オーナーのプライベートも暴き出してやがる」

「ふん、世間は事件が起こると面白半分、野次馬根性で色々と知りたがる。事件の本質なんかどうだって構わない。井戸端会議や酒の席での格好のネタ程度にしか思っていない。だからうちらもヒーロー扱いされているし、マスコミはそんな奴らの要求に応えるべく益々報道を過熱させる。でもそれも一週間程度でジ・エンド。それまで真贋論争の旗振りをしていたと思えば、次は画商殺しの犯人当てだ。視聴者が飽きると直ぐに新しいネタを探す。被害者の家族や犯行に至った深い事情などどうだって良いのさ」ビリーが珍しく激した口調で喋る。

 彼ら三人は、それぞれ過去に人に知られたくない秘密を抱えていた。詳しい事情は知らないが、ミサキもコジローもそんな感情を吐き出すビリーの複雑な事情を察し、掛ける言葉もなかった。


           四

 銀座画商殺人事件の捜査本部では捜査会議が開かれていた。

被害者が後ろから刺された点、金庫の中の金品が根こそぎ持ち出されている点、目撃情報から女性が関係している点、以上から捜査本部は、内部犯行又は被害者と顔見知りの女性による物取りの線を追っていた。特に小林画廊に勤務する女子社員たちを厳しく追及した。

 そのなかでも事務員兼秘書の役目も担っていた大沼幸子は、事情聴取を受ける態度が妙に落ち着きが無く、刑事たちは一目見て怪しいと睨んだ。それに、目撃情報と姿形が酷似しており、又他の社員の証言から小林と私的な交際も有ったと判明したため、特に念入りに調べが進められた。

 現場で採取された血のついた下足痕が彼女の靴と合致したことから、本部では彼女を重要参考人として身柄を拘束。

 家宅捜査が行われ血の付いた衣服や大量の札束が入ったアタッシュケース、複数の女性の淫らな写真などが発見された。

「もう観念して正直に話したらどうだ。あんた、こんな恥ずかしい姿を撮られて脅されていたんだろ」刑事が写真を手に追求する。

 刑事の言葉に大沼幸子は大声で泣き叫び机に突っ伏した。

「私ではありません。私はただ写真を取り戻したかっただけです。そのために夜遅く事務所に忍び込んだんです。そしたら社長が誰かと話していて……」幸子が昨夜の様子を事細かく話す。

「本当です、その相手が社長を刺して逃げたんです」

「事務所の鍵は? あんたが開けたのか」

「いえ、開いてました。それで社長がまだいらっしゃるんだと思いました。まさかあんな時間までいると思わなかったんです。誰もいない時間だから忍び込んだのに……まずいなと思いました。それで手前の掃除用具の小部屋に潜んで様子を窺ってたんです。そうしたら社長と女性が言い争って……だからその女性が社長を殺したんです」

「金庫は? あんたが開けたんだろ?」

「はい、その前の晩、ダイアルナンバーを聞き出していたんです。急いでお金と金庫の中にあった写真などを持って逃げました」

「逃げるとき裏口の鍵は掛けたか?」

「あ、いえ両手が塞がっていたし、そんな事考えもしないで逃げました」

「そうか、じゃあ逆にあんたに教えてもらいたいんだが、小林は誰かに恨みでもかっていたのか? 何か心当たりは無いか」

「いいえ、でも社長はあの絵を闇ルートに流すはずだったんですが、その前にちょっとした小遣い稼ぎだといって刑部建設に売りつけたんです。どうせ直ぐに手元に戻ってくるからと言って」

「何、闇ルート?」

「ええ、私も詳しくは知らないんですが、美術品専門の故買ルートがあるらしいんです。あの絵が盗まれて戻ってこなくなったんで相手からクレームの電話が有ったようです」

「それは何時のことだ」

「社長が殺される前の日です。私が出勤したときに、社長が電話で話していました。どう処分しようと俺の勝手だろ、そんな事を電話に向かって怒鳴っているのを耳にしました」


 取調べを終え部屋から出てきた刑事二人が顔を見合わせる。

「どう思います」

「嘘は言ってないように思える。鑑識の報告でも現場から採取した毛髪や下足痕から第三者の存在が報告されているし扉には鍵が掛けられていた。彼女の後に出て行った者がいると考えられる」

「でも、そいつは共犯者の可能性もあるでしょ。彼女が庇っているのかも」

「共犯者がいたなら金はその人物が持っていたはずだ。彼女の家に置いておくのはリスクが高すぎる。猿でも判る理屈だ。彼女の証言を信じるなら、ホシは彼女がやってきたのも知らず、小林を刺して逃走した」

「となると大沼幸子の供述どおり怨恨ですか?」

「その可能性が高いな。あれだけの女性が小林に性的被害を受けているんだ。恨みに思っている女は少なくないはずだ。そっちの方面を当たるしかない。それと闇の故買組織ってのも気になる」

「大沼幸子で決まりと思ったんですが、こりゃ厄介なことになりそうですね」

 刑事が嘆くのも無理はなかった。大沼幸子の部屋から押収した小林が撮った写真やネガには、彼女同様に淫らな姿を撮られた女性の写真が多数有った。その中の人物が怪しいとしても一体どうやってそれらの人物の割り出しをすれば良いのか。二人の刑事は憮然とした表情で互いの顔を見合わせた。

 その頃、捜査本部の管理官の下にK署から連絡が入っていた。

ヤーンの本物をどうして刑部が所有していたのか、そのルートを辿って漸く小林画廊を突き止めたが、小林に事情聴取しようとしていた矢先だという。

管理官はK署の担当者を捜査本部に参加するよう要請を行った。

 やってきた今井刑事が捜査会議でこれまでの経緯を報告する。報告の最後にホシはミサキではないかとの自分の推理を付け加えた。

「ミサキがホンボシ? 寝ぼけんじゃねえぞ。奴らはチンケな車泥棒だろうが」係長が怒鳴る。

「まあまあ、係長。折角K署からはるばるお越し頂いたんだ。彼らの見解を聞いてみようじゃないか。それで、ミサキが犯人だと考える根拠は?」管理官が尋ねる。

「奴は本物を眼の前にしながら奪おうとせず植草に警察に届けるよう依頼しました。何故か、小林の手元にある絵の売上金を奪うほうが得策と判断したからです。それで夜にこっそり盗みに入った。ところが運悪く小林がまだ事務所にいた。そこで後ろから――」

「判った、判った。だが、君はどうしてミサキが小林の存在を知っていたと思うんだ?」管理官が意地悪く質問する。

「そ、それは……何らかの方法で知りえたんじゃないでしょうか」

「何だ、そりゃ。理由にもなってない。君が勝手にそう思い込んでいるだけだろ。K署じゃ思い込み捜査をするのか」係長が馬鹿にしたような口ぶりで言う。

「いいじゃないか、係長。では君達にはその突飛な発想の裏づけをやってもらおう。ミサキと小林の関係を洗うんだ。我々は違う角度から捜査を進めているので悪しからず」

 そう言い捨てて管理官は今井に背中を向けてしまった。

 今井たちK署の刑事が部屋を出て行くなり係長がぼやいた。

「何ですか、あのトッポイ野郎は」

「奴らを加えると捜査の足手まといだ。勝手にやらしておけばいい」管理官がせせら笑いながら冷たく言った。

 だが、今井刑事が提出した報告書を見た捜査本部は絵を盗もうとした純子の顔写真を見て驚愕した。大沼幸子から押収した小林の秘蔵写真の中にも純子が写っていたのだ。

 本部では急ぎ純子の事情聴取を始めた。

「小林を憎んでいたのは認めるわ。でも、だからと言って殺人なんか……絵を盗むことも小林から言われて田沼を誘惑しただけよ」

「小林が? どうしてだ、奴はその絵を売ったが、どうせ直ぐに自分の手元に戻ってくるはずだろ。どうしてそんな面倒なことをする必要があるんだ?」

「私に聞いても知らないわよ、状況が変わったんじゃないの。でも私も大人しく絵を返そうなんて思わなかった。いいチャンスだから、絵を売って大金をせしめようと思っただけ。そうすりゃ、小林の手の届かない場所に逃げるつもりだった。あー、ついてないな、嫌になっちゃう」純子はそう反論して殺意を否定した。

 警察では、大沼幸子の供述にあった闇組織が小林の勝手な行為に怒り、絵の回収を小林に命じた。だがそれも失敗に終わったため、口封じをしたのではないか、との見方が有力視された。そのため女性による怨恨だけでなく、そちらの捜査にも注力し始めた。

 一方、小林の立ち回り先を捜査していた二人の刑事が、小林が足繁く通っていたバーを訪れていた。

「ああ、小林さんなら常連さんです。良く一人でいらっしゃってましたね。刑事さんがここへ来たってことは、やはりあの女を調べてるんでしょ?」

 にやりとして顔色を窺うバーテンダーの言葉に刑事が反応する。

「あの女とは?」

「桜が咲いてる季節でしたから……今から五ヶ月ほど前になりますかね。小林さんが一人で飲んでいる時に、モデルのような女性がアプローチしてきたんです。綺麗な女性だったんで良く覚えてます」

「女性から小林さんに近付いた?」

「ええ、何でも絵を修復するだの、ヤーンがどうのって話をしていましたねえ」

 刑事二人が顔を見合わせる。

「その後、意気投合した様子で、二人で仲良く店を出て行きましたっけ」

「それ以後、女性が店に来たことは?」

「全然」バーテンダーが肩をすくめる。

「小林さんに用があって此処で待ち構えていただけでしょう。それ以来、さっぱり姿を見せません」それだけ言ってグラスを磨き始める。

 刑事たちは念のため、大沼幸子や純子の写真をバーテンダーに見せた。が、彼は首を左右に振った。

「どちらも違います。もっときりっとした顔立ちの女性でした」

 刑事はあらためて女性の歳、格好などバーテンダーから詳細漏らさず証言を引き出した。

 戻ってきた刑事たちの報告を受けた捜査本部は色めきたった。女性の方から小林に近付いてきた、これは一体何を意味するのか? もし件の女性が事件に関係していたとなると怨恨などではない。贋作依頼、或いはすり替えを目的として、小林に協力を求めた。そう考えるのが自然だ。

 ところが小林はその絵を使って別稼ぎをしようとして失敗、警察の知るところとなってしまった。このまま彼を生かしておいてはまずい、そう考えた闇組織が口封じに小林を殺害した。

 捜査本部ではその考えが有力視された。こうしてその女性の割り出しに捜査の重点が置かれたのである。


<銀座画商殺人の続報です。警察は第一発見者の女性秘書を重要参考人として取調べを行っておりますが、家宅捜査の結果、一億円が発見されたようです。警察は殺人と金の出所について厳しく追及していますが、女性は殺人容疑を否認している模様です。尚、小林画廊は先日発見されたデニス・ヤーンの作品「ゴルゴダのキリスト」の修復を安川美術館から依頼されており、事件の背景には贋作すり替え事件に絡む故買組織とも何らかの関連があると見て慎重に捜査――>

 アナウンサーの言葉は続いていたが、テレビのリモコンをオフにした。

 これで小林から磯村に辿る線は消えた。今のニュースでは故買組織が関係しているようだと伝えていた。捜査が見当違いの方向に進んでくれるのはラッキーこのうえない。これで心配事もなくなった。私は立ち上がるとCDコンポの電源を入れる。ドント・イクスプレインのイントロが流れ出す。レディ・デイが浮気をして帰ってきた旦那に「言い訳しないで」と言った経験から作られた曲。女色狂いだった小林への鎮魂歌に相応しい。私は苦笑するしかなかった。


           五

 捜査本部では、小林と謎の女性が連れだってバーを出た後の行方を追う捜査に重点が置かれた。

その甲斐あってか、地取り班の刑事から有力な情報がもたらされた。それはバーからそう遠くない場所に位置するTホテルを二人が利用したというものであった。ドア・マンから二人がホテルに入るのを見たとの証言を得たのだ。

 直ぐにフロントで宿泊名簿を確認、確かに小林の名でダブルの部屋が利用されていた。捜査員はフロント・マンにもその時の事情を確認したが、チェック・インの手続きは小林が行っており、連れの女性の姿は見ていなかった。おそらくロビーで待っていたのだろうと思われる。

 翌朝のチェックアウトも小林が済ませており、女性が何時ホテルを出ていったのかは不明であった。

 謎の女性を特定すべく、更にいつホテルを出たのかを調べるために当日の客用エレベーターの防犯カメラが押収された。だが、それらしい女性の姿はどのカメラ映像にも写ってはいなかった。

 捜査本部ではホテル中の防犯カメラを調べる羽目に陥った。

Tホテルは一階だけでも正面エントランス、車寄せ口、更に新館への連絡口、更に従業員用、物流搬入口がある。その他に地下街、地下鉄から直接通ずる出入口、二階のペデストリアン・デッキからの出入口等、それに加えて従業員が利用する搬入リフト、宿泊フロアの廊下、非常口前などに設置された防犯カメラの映像など、計百箇所以上の総てのカメラ映像が調べられた。

 捜査員たちが目を皿のようにして、その総ての映像を調べた。

結果、それと思しき女性が十数人ピックアップされ、それらの女性一人一人について追跡調査が行われることとなった。

 だが、それらの大半は他の部屋の宿泊客であることが判明した。それ以外の女性たちが入館する姿が認められたが、単にレストランなどの利用客であることが判明した。

膨大な時間をかけて捜査をした挙句に、何の成果も得られなかった。

一体、女性は何処に消えてしまったのか。捜査本部はその謎に頭を抱える状況であった。


 栗橋はこの日も植草家を訪れていた。

「どうだい? どうやらその後、捜査は難航しているようだな。雄太が此処に来るって事は何か問題が起きたのだろ」

「図星だ、全く真一にはかなわないな。どうやら大沼純子はホンボシじゃないようだ。彼女が事務所に侵入した時、小林は既に殺されていたようなんだ。遺留品である小林の手に絡みついていた毛髪ともDNA検査で別人だと判明した。捜査本部ではどうやら闇ルートと呼ばれる大規模な故買組織が一枚噛んでいるんじゃないかと見ている。一味と思われる女が小林に近付いてヤーンの絵の修復について話していたという目撃情報を得たんだ。そこで周辺の聞き込みをしたところ、二人によく似た人物がTホテルを利用した事実を掴んだ。

小林が事前に部屋を予約していたようで、女性については何の手掛かりも得られていない。警察はすべての出入口やエレベーターの防犯カメラ映像を調べたんだが、二人がホテルに入った時間と小林が出る時間は判明したものの、件の女性が出ていく姿はどのカメラにも映っていないんだ。一体何処に消えてしまったのか……目下、その女を血眼で捜しているが、捜査は進展していない」

「ふーん、そうか」

「何だよ、真一。不思議だとは思わないのか?」

「不思議といえば、小林が事前にホテルの予約をしていた事のほうが余程不思議だ」

「どうしてだ?」

「雄太の話では、女性のほうから小林に近付いてきたのだろ? 小林にとっては予期せぬ出来事だ。なのにどうして事前にホテルの予約が出来るのだ」

「そうか、じゃあ予約をしたのは女性の方ってことか?」

「恐らくそうだろうね。小林の名前で予約するなんてことは、ネットから手配すれば可能だろ」

「じゃあ、予約された状況を調査すれば女性の身元も判明する」

「まあ、無理だろうね。相手は相当慎重に行動している。フリーメールか、もしくは既にメールアカウントは変更されているだろう。今更遡って調べても無駄だろう」

「そうだな。しかし、その女性は一体どうやってホテルを抜け出したんだろうか?」

「彼女はシンデレラなのさ」

「シンデレラ?」栗橋には植草の言っていることが理解出来ない。

「そう、シンデレラだ。真夜中を過ぎると魔法が解けて普段の姿に戻ってしまったのさ」

  栗橋は理解したのかどうなのか、曖昧に頷き話を進める。

「それと、これは今井刑事からオフレコで聞いたんだが、犯人は左利きの可能性もあるそうだ」

「ん? 被害者は首の右側を刺されていたんだろ?」

「犯人は裏口から忍び込んだ。机に向かっている小林からすると右後方から近づいたことになるんだ。物音に気づいた小林は時計回りに振り返る。そこを一突きさ。後ろを向いたままなら左側から刺したのかも判らないが、そういった状況だから左利きでも右側を刺すってことだな」

「成る程、だが敢えて左利き説を疑う根拠は?」

「右利きならナイフの進入角度が普通はもっと深いそうなんだ」

「そうか、右利きの場合は手の甲を上にして、自分の体の内側に円運動をするように刺す。左利きが時計回りの相手を刺そうとすれば掌を上にして、しかも自分の体の外側に腕を回して刺すことになる。当然刺す角度は浅くなるよな」

「そうなんだ。だから犯人左利き説が浮上した訳さ。だが確証は無い、刺し方や力の入れ具合によっても異なってくるので未だマスコミにも発表していない。それより小林が死んでしまったので、誰に修復依頼をしたのかが判らなくなった」

「ふーん、そうか」又もや植草が気の無い返事をする。

「なんだよ、気乗りしない返事だな。真一はまだ磯村のことを調べているのか。今度の贋作はやはり磯村の仕業だと考えているのか」

「まだ、判らない。いいか、以前に磯村が起こした贋作事件のほうだが、それは十三年前に起きた」

 植草は調査の結果を栗橋に話して聞かせるのだった。


 磯村は二十一世紀初頭に家族を日本に残し単身イタリアに渡った。

 現地では絵画の修復士として様々な技術を習得しながら、自作にも取り組んでいたらしい。

 彼は以前からカラヴァッジョを崇拝しており、模写も多く描いていたらしいのだが、近年発見された「キリストの捕縛」に別バージョンが存在するらしいとの情報を得た。

 彼はその別バージョンを自分の手で再現してみたくなった。どうせなら、修復士として培った技術を利用して本物と見紛う仕上がりにしたい、そう考えたようだ。

 一年がかりで描いた作品は素晴らしい出来であった。自分の技術の高さを知らしめたくなった彼は、知人の美術評論家に見せた。

 知人は本物と思い込み、すぐさまカラヴァッジョ研究では第一人者の学者の元に持ち込んでしまった。

 それからはイタリア中が、否、世界中を巻き込んでの真贋論争が巻き起こる事態となった。

 日本でも学者や評論家が真っ二つに別れての論争が連日マスコミを賑わした。中でもゴシック絵画の権威といわれた東亜大学の山下宏教授がカラヴァッジョに間違いないと力説したことが注視された。世界的にも本物説が定着しかけた。が、事態は急激に収束を迎えた。世界でも屈指の調査会社が、当該作品を贋作と結論づけたのさ。

進退窮まった磯村は、自分が描いた作品だと認め、それがためにイタリアを追放され日本に帰国した。

 殺到するマスコミに対し磯村は「私は一度もカラヴァッジョだと偽った覚えは無い。勝手に研究者が大騒ぎしたのだ。それよりもカラヴァッジョと見まがうレベルの私を評価して欲しいものだ」と開き直った。

 悪びれることなく独自の論理を展開する磯村は世界中の顰蹙をかった。結果、東京に居づらくなり妻とも離縁して消息を絶ってしまった。噂では何処か田舎で隠遁生活を送っていると伝えられている。

 植草が話し終えると栗橋がため息混じりに呟く。

「磯村は今頃どうしているのかなあ。生きているのか死んじまったのか消息さえ掴めない」

「彼は自業自得だから仕方がないさ。気の毒なのは山下教授だ。彼はこの騒動の後、首を吊って自殺した」

「え、本当か?」

「話題にも上らずひっそりとあの世に旅立ったのだろう。だが新聞には小さな囲み記事が載っていたぞ。お前、記者の癖に知らなかったのか」

「面目ないが全く記憶に無い。磯村には罪悪感の欠片も無かったが、騒動に巻き込まれた関係者にそんな事があったとは……磯村はそんなことも知らずに、のうのうと生きおおせた訳か。後味の悪い話だな」

「全くだ。山下教授には妻と一人娘がいたのだが、教授の自殺以降東京に居づらくなって実家に戻ったそうだ」

「そうか、気の毒にな。ところで真一、もう磯村のことはその辺で切り上げて、そろそろ事件のほうに知恵を貸してくれないか?」

「どうして僕が殺人事件に関わらなきゃいけないのだ。警察では、美術品の故買屋が女性を使って小林の口封じをしたと睨んでいるのだろ? 犯人の目星はついているんだ、警察に任せておけばいいじゃないか。兎に角、僕としては贋作の謎のほうが、余程興味をそそられる。小林が美術館から修復依頼を受けたのだから、おそらく彼がそそのかしたのだろう。しかし、誰に頼まれてそんなことをしようとしたのか、理由が判らない」

「それは刑部に売るためだろ?」

「いや、贈収賄の手段として使うだけなら、何も本物でなくても構わないし、ヤーンでなくても構わないはずだ。刑部から県知事に贈られ、それを小林が買い戻す。結局彼等にとって金が動けば良いわけで、絵は最終的には小林の手元に戻ってくる訳だから、それ相応の価値がある絵であればなんでも構わないはずさ」

「成る程、言われてみればそうだな。じゃ、故買組織から頼まれたのかも……」

「警察はそう判断しているようだね。でもそれも違うと思う。故買組織が仕掛けた計画なら、小林も勝手に刑部に売ったりはしないはずだ。もしもそうであるなら、危険を冒して画廊に押し入りながら、小林を始末しただけで何故金も取らずに逃走したのか? 絵が入手できなくなったのだから、その代金の一億円を当然取り戻すはずだろ? 従って、僕には闇組織の犯行とは思えない。おそらく故買組織には小林の方から話を持ちかけたのだと思う。でなければ、大沼幸子が証言したように、処分の仕方は俺の勝手だなどとは言わないだろう。となると小林に依頼した人物は、どうして本物をすりかえる必要が有ったのか? ひょっとして本物などどうでも良くて、安川美術館に展示してある絵が贋作である必要が有った……」

「どうしてだ? 何故そんなことをする必要が有るんだ」

「判らない。だからこそ興味を引かれるのさ。磯村の仕業であろうが無かろうが、贋作を描いた人物は単にビジネスとして請け負ったにすぎないと思う。だから、一体誰が何の目的で、こんな手の込んだ事を仕掛けたのか……今や僕の興味はそこに移りつつある。それと、あの絵を見たときのミサキの表情が気になる。絶対に何か知っていると思うのさ」

 栗橋の問いかけに植草がそう答えた。

   

第三章

            一

 東亜大学の教授でありバロック絵画の権威である山下宏は、イタリア政府に招かれローマのフィウミチーノ空港に降り立った。

 空港ロビーには彼を迎えるべく二人の男性が佇んでいた。山下は目ざとく彼らを見つけると、にこやかに近付いた。

「久しぶりだな、プロフェッサー山下。長旅で疲れただろ?」 

 そう言って握手を求めてきたのは元ボルゲーゼ美術館館長で現在は政府の文化芸術機関に籍を置くジュリアーノ・ペタッチであった。

「やあ、ジュリアーノ。一昨年の国際美術フォーラム以来だな。私も、もう歳かな、飛行機に長時間坐っていると腰が痛い」

「無理も無いさ、約十三時間だろ」

「生憎直行便が取れなくてね。ハンブルグで乗り換えたから十六時間掛かったよ。それより隣の若者は?」

「ああ、紹介が遅れたが、彼はアレキサンドロ・バセッチオ。ボルゲーゼ美術館の将来を嘱望されている優秀なキュレーターだよ」

「やあ初めまして教授。お会い出来るのを楽しみにしていました。毎度のことですが、ジュリアーノの大袈裟な紹介には閉口しますよ。僕のことはアレックスと呼んでください」

「何れにしろ、今夜は旨い物を食してぐっすり眠ることだ。明日からは侃々諤々の議論になりそうだからな」

 そう言ってジュリアーノが駐車場に停めてある車に案内する。

 黒塗りのマセラティ・クアトロポルテが、明るいラテンの陽光を浴び所々鈍く反射していた。

 アレックスが助手席に乗り、山下が後部座席に乗り込んだ。

「どうだい、我が国が誇る高級車の乗り心地は?」

「余り車のことは詳しくないんだ、悪しからず」

「教授は何に乗っていらっしゃるのですか?」アレックスが聞く。

「私はベンツに乗っているが、自分で決めたわけじゃない。ディーラーの勧めに従っただけなので、別に何でも良かったんだがね」

「やっぱり……日本ではドイツ車が人気ですね。我が国にも良い車が多くあるんですよ。フェラーリ、ランボルギーニ、アルファ、それにフィアットやランチアとか。ただ、多くはフィアット傘下だからまだしもランボルギーニがフォルクス・ワーゲンの資本になったのは残念です」

「アレックスは愛国民だからな、GDPが世界ランクで九位なのが気に入らないのさ。だから何でも国産品を愛するんだ」

「そうか、立派な心掛けだよ。日本もGDPランクが急落してイタリアと肩を並べているというのに私はベンツに乗っている。アレックスを見習ってレクサスに乗り換えるかな」

「日本は又盛り返しますよ。でもイタリアの産業で主だったものと言えば鉄鋼、自動車、農産物ってところです。イタリア料理関連で農産物とブイトーニやボスコなどの企業が頑張っていますが、それ以外の分野ではデザインでしか強みを発揮できないのが実情です。ジウジアーロ、イタルがそうですしグッチ、フェラガモ、ドルチェ&ガッパーナ。ベネトンなどのファッションブランドもそうです。他分野でもデロンギやオリベッティなども卓越したデザインが人気の一面を支えています」

「だが、文化面では我国は紛う事無く世界でもトップレベルだ。ルネサンス以降だけでも数え切れないほどの優れた画家を輩出している。美術だけではない、音楽分野においてもグレゴリオ聖歌に端を発しこれまでに偉大な作曲家を多数生んできた。その自負が今回のカラヴァッジョに対しても少なからず影響を及ぼしている」

「国の威信をかけて真贋を見極める、そういう事か。だから世界中の名だたる専門家を招集したという訳だな」

 そんな会話を交わすうちに、やがて車はローマ市内へと入る。

 山下は車のウィンドウ越しに街並みを眺める。

 欧州の国々の景観をみていると、彼はいつも心の安らぎを覚える。一つには高層建築がないことに起因するのだろうと思う。我国では都心に高層ビルやマンションが立ち並び、それこそコンクリート・ジャングルに囲まれて生活している。狭い土地だからスペースを上に求めざるを得ないのだろうが、それが齷齪と忙しなく動き回る国民性を助長しているような気がしてならない。

 それはニューヨークのマンハッタンにも通じることだ。米国でも他の地域と違い、マンハッタンには一種独特の雰囲気がある。多くの住民、それも他民族の人々が集まり人種の坩堝と化している。道幅は決して狭くは無いが、そこに夥しい数の車が殺到し、渋滞にいらついて警笛を鳴らす。新宿や渋谷とさして変わらない光景がそこにはある。

こうして低層の建物の上部に、突き抜けるような青空を見ると、開放感と安らぎを覚えるのだ。

 そんなことを思っている間に、車はカヴァリエ・ヒルトンに到着した。

「君の部屋をリザーブしておいた。ここのホテルに入っているラ・ペルゴラで本場のイタリアンを堪能してもらおうと思ってね」

「ミシュランが選ぶローマ唯一の三ツ星レストランだな。アレックスには悪いが、なにしろローマに美味いもの無しというのが専らの評価だからな」

 山下が言うとアレックスが肩をすくめる。

「他にも良い店は沢山あるんですが、どうもミシュランはミラノ贔屓に思います。あちらの地域には三ツ星が三店舗もあるんですから」

「やれやれ、君は母国愛が強いと思ったが、郷土愛はそれを遥かに凌いでいるようだな」

 山下教授が苦笑する。すっかり打ち解けた三人はレストランに足を向けた。


「もう召集されたメンバーは揃っているのか?」

 テーブル席に着くなり山下が尋ねる。

「いや、近隣の国々の連中は明日の朝、到着する予定だ」

「でも全員が勢ぞろいすると凄い面子になりますよ。僕にとっては夢のような事です」

 アレックスが言うのも無理は無い。今回発見された絵がカラヴァッジョの作品であれば、近年発見された「キリストの捕縛」に続き世界中を席巻するだけの価値がある。従ってイタリア政府も各国の名だたるバロック絵画の研究者や美術館の館長、キュレーター、学者、評論家などの専門家による鑑定を依頼したのだ。

特にカラヴァッジョの作品を所蔵するエルミタージュ美術館やローマ国立美術館、ルーブル、アンブルジアーナ、ブレーラ、プラド、ヴァチカン、ロンドン、ジェノバ市立美術館等々の館長やキュレーターが参加するという。

 アンティパストのフォアグラに舌鼓を打ちつつ山下が問いかける。

「もうお二方は例の絵を見たのかい?」

「ちらっとだがね。だがもう既に二人の意見は食い違っているよ」ジュリアーノが苦笑気味に話す。

「今回は厄介な仕事を引き受けたと後悔しているよ」

「そんなに鑑定が難しいのか?」

 早くもアンティパストを平らげたアレックスは、プリモピアットで頼んだ黒トリュフの乗ったポレンタが来るのを待ちながら、バローロが注がれたワイングラスを傾けつつ話す。

「先ず来歴が全く不明です。それに……」

「おいおい、それ以上は言わないほうが良い。教授に予断を抱かせては不味い。明日絵を目にしてから教授の感想を伺おうじゃないか」にやにやしながらジュリアーノが言う。

 そんな二人の口ぶりに山下は早く実物を拝んでみたいと期待に胸を膨らませる。こんな状態では時差ぼけ以前に興奮で今夜は眠れそうにないなと思うのであった。


 翌日、ボルゲーゼ美術館奥にある修復室にゲストたちが一堂に介した。顔ぶれはアレックスが話していたとおり、各国を代表する美術館のキュレーター、更に各国のバロック絵画専門の学者や評論家といった錚々たるメンバーであった。

 あちらこちらで挨拶やら再会を祝して会話が弾んでいる。

 調査委員会委員長を任ぜられた文化技術庁長官のマリアーノ・バッツオニが部屋に入ってきた。

「皆さん、お喋りはその位で終えて席に着いて頂けますか」

 その掛け声で全員が用意された席に着く。

 各自の席には調査機関による化学分析の経過報告書が配布されていた。アルコール検査やX線検査、高解像度カメラによる分析などの検査結果である。

 パッツオニが簡単な挨拶の後、これまでの調査結果を報告する。

「皆さんのお手元の資料は、信頼しうる調査機関での経緯報告です。残念ながらまだ何種類かの検査結果が出ていませんが、現時点で判明している事実です。これも皆さん方の判断の一助になればと配布しましたが、マル秘資料ですので取り扱いには充分ご配慮下さい」そう念を押した。

 絵の真贋を見極めるのは困難を伴う。科学が発展した現在、パッツオニが報告した分析方法以外にも放射性炭素年代測定法や熱ルミネセンス年代測定法などがある。しかしこれらは莫大なコストと時間が掛るので、この場に間に合わなかったのであろう。

 放射性炭素年代測定法とは、生命体の誕生や死の年代を測定するもので、カンバスや木枠の額を調べることで判定をする。熱ルミネセンス年代測定法は、絵具をある程度以上加熱すると、これまでに受けた量に比例する光を放つ性質を利用して年代を測定するものである。

 ただ、これら二つの方法では作品の制作年代が判明するだけで本物の証明にはならない。同年代の他の画家が描いた可能性も残るからだ。それ故、他の分析によって時代様式や、その画家独特の筆致などを調査する専門家の判断も必要なのである。

「来歴の方の調査はどうなっているんでしょうか?」

 アレックスが質問を投げかけた。

「それも鋭意調査中です。現在我々の元に持ち込んだ人物から遡って漸くある人物に行き着きました。その人物が我々の疑問点をある程度解明してくれるのでは無いかと期待しています。この会議中に何らかの事実が判明した場合は、逐一ご報告させていただきます。さてそれでは会議を始めましょう。何はともあれ皆様方に作品をご覧頂きましょう」

 それを合図に、別室から発見された絵が運び込まれてきた。

「ほーっ」一同から感嘆の声が漏れる。

「どうですか、教授。第一印象は?」

「これは……まさしくカラヴァッジョ、いや詳しく見てみないことには軽々に判断できないが、それにしても素晴らしい。この闇に包まれた背景にそこだけ光があたるキリストの苦悶に満ちた表情。このキリストの生々しい表情はどうだ、これはカラヴァッジョの独特のタッチだと思うがね。君はどうして贋作だと思ったのかね?」

「昨日も申し上げたように来歴が不明です。それにしては余りにも保存が良すぎませんか? 勿論、相応の傷みは有りますが……」

「それで先刻もあんな質問をしたのか」

「ええ、僕も作品を見た限り贋作だとは思えません。多分お集まりの皆さん方もこれから時間をかけてお調べになるのでしょうが明確な結論は出ないように思います。意見は真っ二つに分かれてしまう、そんな予感がします。つまるところもう少し詳しい来歴や残された化学分析などの情報に左右されることになるのだと思っています」

 それから一週間、当該作品は念入りに調べられた。筆遣いや線のタッチ、画像構成、光と闇の表現等々。時には美術館所蔵のカラヴァッジョの作品とも比較分析を行った。

 山下は素直に作品を吟味した結果、カラヴァッジョが描いたに違いないとの確信を持った。

 一週間を経た後に開かれた鑑定会議では、山下同様に本物だと主張するメンバーが過半数を占めた。

だが、残りのメンバーは疑問を呈した。曰くカラヴァッジョの弟子の作品の可能性も否定できない、或いは当時の無名の画家が模写したものではないかと考えたのである。

 結局、アレックスが危惧したとおりの展開となった。侃々諤々の議論が繰り返された挙句、正真正銘の本物と考えるグループと贋作だと主張するグループ(この中には贋作と言い切れないが本物ではないだろうとする消極派も含まれた)に分かれてしまったのである。


 ホテルの一室で目覚めた山下はベッドから起き上がると窓のカーテンを開け放った。

眼下の通りを見下ろし行き交う車を眺める。

 昨日は新しい展開が有った。化学分析の結果が判明し、それが発表されたのだ。エックス線では判らなかったが、使われた画材から当時使用したはずのない「ナポリの黄」と呼ばれる鉛とアンチモンが検出されたのだ。

 カラヴァッジョの場合それ以前の画家同様、黄色には鉛と錫を使用していた。ナポリ黄が広く使われだしたのは一六三〇年以降である。

 贋作を主張するメンバーはわが意を得たりとばかりに勢い込んだ。しかし、それでも贋作と決め付けるわけには行かなかった。後世になって修復した人物がそれを使用した可能性も否定できないからだ。だが、そうなるとこの作品はやはり本物だからこそ修復を施したと思える。つまり一時期カラヴァッジョとして認められていたということの証明になる。

「やはり来歴を辿る必要が有るようですね」アレックスが肩をすくめながら呟くのだった。

 アレックスに催促されるまでも無く、マリアーノ長官の指示で作品の持ち込まれた経緯についての調査は捗り、美術史家から磯村の存在を聞きだしていた。農家の納屋から見つけたという磯村の証言からその農家の主にまで調査班が出向いたが有益な情報は得られなかった。

 山下教授はコーヒーカップをテーブルに置き、腕時計を見る。

 そろそろ出かける時間だ。今日も不毛な議論に終始しそうだがこれで最後だ。結論が出ようが出まいが本日を持って召集されたメンバーによる鑑定会議は終了する。後は唯一残された化学検査である放射性炭素による年代測定の結果次第だ。

 教授はそう自分に言い聞かせると、上着を着て身支度を調えると部屋を出た。


          二

 イタリアで開かれている会議の経緯を世界中が注視していたが、専門家の意見が分かれたことで真偽論争が勃発した。

 日本国内でもマスコミが、こぞってこのニュースを取り上げた。もしカラヴァッジョが描いた作品となれば、美術史に残る大発見であり、その価値は膨大なものとなる。それまで絵画に興味が無かった人々もカラヴァッジョの画集やテレビの特番に飛びつき、俄仕込みの知識を振り回して真贋論争を巻き起こした。


「先生のところにも、マスコミが意見を伺いにやってきましたでしょう」

 銀座のバーで画商の小林が一緒に飲んでいる評論家の野崎に問いかけた。

「ああ、まるでお祭り騒ぎだな。だが私には興味ない」

 無理も無いと小林は思った。野崎と山下教授はそりが合わない。いや敵対しているライバルといっていい。教授が招聘され自分が蚊帳の外なのが気に入らないのだろう。

うっかりこんな話題を持ち出した自分の思慮の浅さに歯噛みしつつ、野崎の機嫌を伺うように付け加えた。

「この件で面白い情報を仕入れたんですが、他ならぬ野崎先生の耳にだけはお入れしておいたほうが良いかと思いまして……」

「うん? 嫌に勿体ぶるじゃないか。何だ、その情報というのは?」

「いえね、先生もご存知の磯村、奴は今イタリアにいるんです」

「磯村? ああ、今時流行らない重厚な絵ばかり描いていた奴か。絵の道を諦めたと思っていたがイタリアに住んでいるのか」

「それでここからが肝心の話になるんですが……」

そこで言葉を切ると小林は野崎の耳元に口を近付ける。

「あの絵は実は磯村が描いたと言うんです」

 耳元でそっと打ち明けると、野崎の目が大きく見開くのが判った。

「何だと? 彼が」思わず声を張り上げる。

 慌てて小林は自らの口に人さし指を立てる。それが黙れと言う合図だと判ると野崎は声を落として尋ねなおした。

「それは確かな情報なのか? とても信じられん」

「先生も彼の技量はお認めになっていたではないですか」

「それは認める。彼は腕は良いしバロック技法も熟知している。四百年早く欧州に生まれていれば後世に名を残せたかも判らん。だが、幾ら絵の技術を有していても、それだけでは時間の経過は誤魔化せない。三百年も前の作品と見間違うわけがないだろ」

「磯村はイタリアで修復士の仕事についていたんです。種々の修復技術を覚えながらアンティークに見せる技術も会得したそうです。彼の絵の技量に加えてそんなテクニックを駆使できるとなれば……」

「うーん、それでも俄には信じられん。そもそも、それは誰から聞いた話なんだ」

「本人です。私は彼が日本に居るときから親交がありましてね。彼の作品をまともに扱ってやっていたのは私くらいでしょうから、彼は今でも私を恩人だと思っています。その彼が国際電話を寄越したのです。彼が言うにはカラヴァッジョだと偽ったわけではない、知人が勝手にカラヴァッジョを発見したと言って美術史家に持ち込んで、こんな大騒ぎになったそうです。しかし今さら本当のことが言えなくなった。どうすればよいかと相談があったんです」

「君はどう答えたんだ」

「放っておけばいいって言ってやりました。いずれ贋作と判明するだろうって、そうしたら奴はこう言ってのけましたよ。あれは絶対に贋作だとは判らない、本物と鑑定されるだろうってね。笑っちゃいますよね、たいした自信だ。それなら本物だって鑑定結果が出てから、実は私が描きましたって名乗り出ればいい、大層面白いことになるぞって言ってやりました。どうです、興味深い話でしょ」

 そう話し終えると、野崎は何事かを考えている様子であった。

「その話、他言は無用に願いたい。いや、私がその話を買う。君は金輪際この件は忘れろ」

 やがて口を開いた野崎はそう言って、にやりと口をいがめて笑うのだった。

事実を知った野崎は、これは山下を蹴落とす絶好の機会と捉えたのだ。それほど彼と山下教授の不和は根深いものがあった。


 元来山下教授は、ルネサンス以降新古典主義までを専門分野とし、フレスコ画やテンペラ画、フランドル派がもちいたグレーズ技法やその他の種々の技法にも精通していた。

 彼が特にその頃の絵画に拘るのは、それ以降の絵画がカメラの発明によって劇的に変革したからである。

 美術史上ではそれ以降、印象主義、象徴主義を経て現代美術へと変遷を辿るわけであるが、それらは従来の絵画では常識とされた逸話や寓意を盛り込む手法と決別し新たなスタイルを模索し構築していった。その原因となるのがカメラの発明であった。カメラによる写実像こそが現実の見え方と捉え、画家達はムーブメントをどのように表現するかといった意識の変革を迫られた。又、外光を意識し、これまで制作の中心であったアトリエから活動の場を屋外へと目を向けたのであった。

 写真のように瞬時の動きを捉え如何に表現するのか、ターナーやロセッティ、そしてバルビゾン派のコローやミレーを経てモネが一つの技法を構築した。それまでの面を塗る画法から線や点といった小さな記号で形を紡いでいく表現を具体化したのである。そしてその考え方はスーラの点描へと昇華しゴッホに多大なる影響を与えた。従って印象派を境に絵画の概念が大きく変革したのである。

 だからと言って、山下教授はそれらの作品や現代美術を評価していない訳ではない。

彼は研究論文のみならず一般の愛好家に向けた著書も数多く出版し、また自身の名を冠したトリエンナーレを開催、新しい息吹を感じさせる若き芸術家への門戸を開くべく活動を行ったりもしていた。

 美術界もご多分に漏れず権威主義や悪しき師弟制度などが横行し若い才能が育ちにくい環境となっていた。昔の欧州ならスポンサーが一人前になるまで面倒を見るような事もあったが、昨今の環境ではそんな慣習も廃れている。それどころか、最近日展の審査委員の不正が世論の注目を浴びたが、あれなどは氷山の一角で、審査委員や理事たちの金銭絡みの不祥事は後を絶たない。こんな環境で有望な新人が育つわけが無い。

教授は画壇に蔓延る悪しき慣習や制度を改革し、美術界を代表する我々こそが襟を正すべきだと主張した。そして新人が育ちにくい環境に危機感を覚え私費を投じて公募展を立ち上げたのだった。

 そんな彼を大半の関係者は尊敬し、その行動を評価していたが、重鎮の中には苦々しく思う人物もいた。評論家の野崎壮介もその一人であった。

現在の美術界の既得権益を守ろうとする保守派の野崎は、革新派の山下教授にことごとく反発していたのであった。

 だが、私財を投げ打って若手育成に尽力する山下教授に分があり彼らの一派は旗色が悪かった。

 そこにこの騒動である。山下教授はあの絵が本物だと主張している。だが当方は、磯村が描いた贋作だと知っているのだ。教授を追い落とす千載一遇のチャンスを逃す手は無い、そう考え策略を練るのであった。

 山下教授が帰国し、空港で記者会見が行われた。その模様をテレビで見ながら野崎は行動を開始した。

 野崎は山下教授に対抗して贋作説を声高に叫んだ。積極的にマスコミへの露出も増やした。テレビの情報番組に出演し、週刊誌のインタビューも喜んで受けた。そうして世論を味方に引き入れようと画策したのである。


「カラヴァッジョの絵を描いた人物像」

 そんな見出しの週刊誌が発売された。仕掛けたのは野崎であった。

名前は言えないがあの絵を描いた人物に心当たりが有る、と話す野崎のインタビュー記事が掲載されていた。

 更に野崎は山下教授があの絵を本物だと主張するのには裏取引の可能性があるとも指摘した。イタリア政府から鼻薬を嗅がされたのではないかと匂わせたのだ。

 マスコミはこの発言に大騒動となった。贋作であるにしてもカラヴァッジョの弟子が描いたもの、或いは当時の画家の模写というのならこれほどの驚きはない。現存する人物、それも日本人が描いたという点に驚愕した。更に清廉潔白で名の知れている山下教授のスキャンダル。これは読者が飛びつく、そう判断し取材攻勢を掛け始めた。


 野崎の露出によって国内では益々真贋論争が過熱した。野崎は自分の仕組んだとおりに事が進みほくそえんだ。ここまで煽れば後は火の手が勝手に拡大する。事態は彼の思ったように進んでいった。

 画壇や美術関係者の間では山下教授派と野崎派に分れ、真贋論争はいつの間にか画壇の保守と革新の派閥争いにまで発展して言った。だが、今回ばかりは山下派の旗色は悪かった。野崎が仕掛けた買収スキャンダルが功を奏したのだ。世間での山下教授の評判は急激に悪い方へと傾き始めていた。

 そんな頃、漸く放射性炭素年代測定が終了した。結果は画布そのものが二百年程度前のものであると鑑定された。カラヴァッジョであるなら四百年は経過していなければならない。

 政府調査団は絵を持ち込んだ人物から、発見したのが磯村であることを突き止めていた。磯村は調査団に厳しく追及された。進退窮まった磯村は、とうとう自分が描いた作品であると白状したのであった。


          三

――二〇〇一年の春、日本の画壇に失望した私は、妻子を残し単身イタリアのフィレンツエに渡った。創作活動に励みながらも生活のために知人の紹介で絵の修復士のアルバイトに就いた。

 元来、バロック絵画タッチの作風である自分にとって部分修復は容易なものであった。アシスタントから早い段階で背景の修復を任されるようになっていった。

 修復士の仕事は作品そのものだけではない。カンバスの痛みや緩みなどが有る場合はカンバスに裏打ちを施す。熟練の修復士達が手馴れた段取りで作業を進めるのを私は感嘆の面持ちで注視した。

 先ず、絵の表面を幾枚かの和紙で接着していく。絵具が剥落するのを防止するためである。ベテランの修復士は市販の接着剤を使用せず中央修復研究所で教えるレシピに即して手作りをする。

 兎の皮や魚、もしくは雄牛の頭蓋から採った膠に同量の水、少量のホワイトビネガー、雄牛の胆汁一滴、更に粘りを出すため糖蜜シロップを加え練り上げるのだ。それを希釈しカンバスに塗り広げる。そこへ適当なサイズに切りそろえた四角形の和紙でカンバス全体を覆いつくした後、そのまま一晩乾燥させる。

次に細心の注意を払いゴミや埃、固着している絵具を取除く。これは、貼り合わせるときに少しでも凹凸が出来ないためである。

それが終われば、木枠を外しそれまでの古い裏打ちを剥がしていく。そうして、いよいよ新しいカンバスを貼り合わせる。それにはホットテーブルと呼ばれる機械を使用する。貼り合わせ面を半真空状態にするための機械だ。

そして再び乾燥させた後アイロンを掛ける。この作業には熟練した修復士でも緊張する。熱の加減、あるいは圧の掛け具合によっては絵具が焦げ、酷い場合は溶けてしまうからである。そんなことにでもなれば、貴重な作品を台無しにしてしまう。

 私も技を習得しようと固唾を呑んでその作業を見守った。

 自分なりに実践をしてみようと思いついた私は、古い安物の作品を骨董屋で購入し何回もその手順を試した。

 カンバスと裏打ちのそれとを貼り合わせるのにホットテーブルを使用するが、そんな大掛かりで高価な機材が自宅にあるわけもなく、代用としてローラーと掌でしっかりと圧を掛け、中央部から四方へと皴や空気が残らないように細心の注意を払いながら貼り合わせていき、最後に余分な糊を押し出していった。

三ヶ月もすると一応のやり方はマスターできた。だが、そうなると今度はそのカンバスの下手な絵を剥がし、自分の得意なバロック風の絵を描いてみたくなった。

 カラヴァッジョを描いてみたい……即座に私はそう思った。


「聖なる人殺し画家」と呼ばれ、数奇な生涯を送ったカラヴァッジョ。彼は友人の画家からも「彼は腰に剣を帯びあいて構わず喧嘩を吹っかける。あんな男をまともに相手にしたら碌な事が無い」と言われるほど蛮行を繰り返した。

ある日、愛人のレナを口説こうとしたマリアーノ・バスクローネを背後から襲い大怪我を負わせた。更に以前の愛人の恋敵だったラヌッチョ・トマッソーニと対決し自身も深手を負いながら相手の大腿部の動脈を切断して逃走。トマッソーニはその場で息絶えた。

カラヴァッジョはアルバーノ山地に身を隠し、以来ローマの地を踏むことは無く、ナポリ、マルタ、シチリアへと逃亡を続けた。にも拘らず彼の名声は不動のものとなりマルタ騎士団に入会を許されたりもした。

その頃の彼の絵は主題やタッチが大きく変化し、より劇的でリアリズムに富むものであった。

「ゴリアテの首を持つダヴィデ」では、斬首され恐怖に大きく目を見開くゴリアテの首(顔はカルバッジョ自身)から鮮血が滴り落ちている。その絵の凄惨さには何とも言えない凄みがあり、見る人々の感動を誘った。

だが、その間も彼はトラブルを起こしマルタ騎士団や他の数組からも付け狙われることとなる。そしてナポリで襲われた彼は、逃亡生活を続けるうちに精神を病み始め恩赦の知らせを受け取る前にポルト・エルコレの施療所で息を引き取る。三十九歳であった。

そんな無頼の画家カラヴァッジョに私は強く惹かれていたのだ。

 題材はカラヴァッジョの「キリストの捕縛」で決まりだ。

 行方知れずとなっていたが十年前にアイルランドの修道院で発見され大層話題を呼んだ作品だ。しかしそれを発見するきっかけとなったリカナーティの古文書庫に保存されたマッティ一族の財産目録によれば同じ題名の絵が複数存在するらしい。

逆に同じ絵を様々なタイトルで表記もされていた。曰く、「キリスト捕らわる」「庭園で捕縛されしキリスト」、「ユダに裏切られしキリスト」等々。更に弟子や他の画家たちによる模写も夥しい数にのぼる。

 ともあれカラヴァッジョの手による真作が他にも存在する事は事実であろう。カラヴァッジョの絵は散逸したものが多く、現在でも発見されていない作品が日の目を見ずに何処かで眠っているのだ。

 私は発見された「キリストの捕縛」の構図に独自の解釈を加え別バージョンを描きたいと常々考えていたのである。どうせ描くのであれば本物と見まがうほどの作品に仕上げたい。そのためには現代の絵具を使用せず当時の画材を使用し長い時を経て生じるヒビや汚れまでも忠実に再現したかった。

 油彩絵の具は三日も経てば硬くなるが、媒剤がすっかり蒸発し表面がカチカチに硬くなるのには五十年掛るといわれている。

又、古く見せようと人工的にひび割れを作ってもそれは時間の経過と共に自然に発生したひび割れとは見るからに違って直線的且つ表面の浅い亀裂にしかならない。

本物のひびは長い年月を経て絵の具の油分がとび、それ自体が縮むことにより生じる。更に木製の張り材が温度と湿度の変化により膨張、収縮を繰り返すことでその亀裂が多くなるのだ。

 これらの点を解決するために、私はメーヘレンがフェルメールの贋作を描いたときに工夫を凝らしたノウハウを利用しようと思い立った。

 最初に、天然の顔料にライラック油とフェノールアルデヒドを混ぜた絵の具を用意した。これはアルコール・テストが行われても絵の具が容易に溶けない工夫である。新しい絵の具なら簡単に溶けて贋作とばれてしまうから。

 作品を描く段階では一気に描き上げず、一工程毎に窯で熱し亀裂を作り出す。そして熱いうちに素早くニスを塗る。その作業を繰り返し行うことで幾重にも重なった絵具は、複雑で深い亀裂を生み出すのだ。

 こうしてじっくり時間を掛けて描いた作品の最終的な出来上がりは自分自身も大層満足のいく仕上がりであった。

 カラヴァッジョの得意とする「光と闇」が充分に表現できていた。

闇の中に差し込む光により浮かび上がる人物達。キリストを捕らえようとする兵士の甲冑にも光が当たり、肩から背中がくっきりと露になっている。まるで本物の甲冑のように光が鈍く反射し浮き出した錆までもきちんと表現されている。

 当初は密かな自分自身の楽しみとして始めたことであったが、こうして出来上がった作品を眺めるにつけ、私はその出来栄えを世に問いたくなる欲望に駆られ始めた。

 そこで私は、片田舎の農村の納屋からこれを発見したと偽り、ローマに持込んで知人の美術史家に見せた。

「これは凄い、カラヴァッジョであることは間違いない」

すぐさまその知人はカラヴァッジョ研究では第一人者の学者に連絡を取った。

それ以降の顛末はご存知のとおり国の内外を問わず大騒ぎとなった。私は最初からカラヴァッジョの作品だと偽る気持ちなど毛頭無かった。とはいえこんな大騒ぎになって本当のことが言い出せなくなってしまった――

磯村はそのように抗弁したが聞き入ってはもらえなかった。

彼はイタリアから国外追放されひっそりと帰国した。そのニュースはいち早く日本にも、もたらされた。

 本物と主張していた山下教授は、批判の矢面に立たされた。それまでに営々と築いてきた実績と名声が一瞬にして崩壊し、世論の批判を浴びる事態に陥ってしまった。

 普段から山下教授と対立していた野崎一派は、ここぞとばかり嵩にかかってマスコミを煽り、教授を非難し失脚を画策した。

 山下教授は一切言い訳を口にしなかった。本物であると言明した責任を負う形で大学を辞職、表舞台からも姿を消してしまったのである。


           四

 山下教授には一人娘がいた。名前を美咲といった。彼女は、それまで何不自由なく育てられた。

 教育熱心な母親は彼女に幼い頃からピアノとバレエを習わせようとしたが、身体を動かすことが好きな美咲は、バレエには熱心に通っていたがピアノはどうにも好きになれなかった。

 それには理由があった。美咲は幼いときから近くの寺でよく遊んでいた。禅宗であるその寺は古くから少林寺拳法の道場を開き、壇徒だけでなく広く一般人にも門戸を開放していた。

 最初は面白半分で見よう見真似をして遊んでいた美咲であったが、住職に誘われたこともあり、そのうち熱心に道場に通うようになっていた。

 ピアノの先生はそんな美咲の手をみて驚いた。およそ子供らしくない骨ばった手は、タコが出来ており擦り傷だらけであったのだから。

 先生のほうから丁重に断られ、ピアノを習わずに済んだ美咲は喜んだ。呆れる母親とは違い、父は笑いながら「美咲がやりたいことをやればいい」と言ってくれた。

 美咲はそんな父親が大好きであった。優しくて理解があって、美咲を一人前の人間として尊重してくれた。

思春期になると娘は父親を不潔と感じたり、疎ましく思ったりするらしいが、美咲にとってはそんな感情とは無縁で有った。どちらかと言えばファザコンの気があるのかも判らないと自身では思っていたほどだ。

 だが、そんな父親が真贋騒動後、人が変わったように塞ぎこむことが多くなり部屋に引きこもるようになった。

 父が帰国した直後から、大勢の取材陣が自宅に押し寄せて大騒ぎだった。自宅前の道路は各局のテレビ中継車が連なり、カメラマンたちは隣近所の家の迷惑も顧みず脚立を立て、アンカーマン達はマイクを持って玄関前にたむろしていた。

 そんな状態では家から一歩も出られない。止む無く美咲も学校に行くのを諦め、嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった。漸くそれも落ち着き始めたが、父は家にこもりきりになってしまったのである。

 例の真贋騒動で本物と鑑定したのは父だけではない。それでも他の学者や研究者は、みんな巧く立ち回り責任の所在を曖昧にして平気な顔でいる。それに父はいわれのない買収問題でも世間の非難を浴びている。

 どうして父一人だけがすべての責任を負わなければならないのか、美咲は理不尽さに怒りを覚えた。

 と同時に美咲には父の心のうちがよく理解できた。

 父は社会的責任を負わされたことよりも、自分の知識と経験に基づき自信を持って下した判断が間違っていたことに衝撃を覚えているのであろう。

 自分のこれまでの研究は価値の無いものだったのだろうか? 一体自分は何を学び取得してきたのだろうか? おそらく父はそう考えたに違いない。だが、それを疑うことは美術界に半生を捧げた自分自身を否定することでもあった。

 そんな風に悩み苦しむ父を見るにつけ美咲は胸が締め付けられた。心配でならなくなり、とうとう母親に訴えた。

「お母さん、一度お父さんをお医者様に診てもらったほうがいいんじゃない」

「どうして? お父さんはどこも悪くはありません。昼夜を問わず押しかけてくるマスコミに辟易して家に閉じこもっているだけです。美咲だって通学も出来なくて困ってたじゃない」

「確かに、あの絵を描いたのが磯村という画家と判明してからは、新聞社やテレビ局が大勢押しかけて家から一歩も出られなかった。

でも、それも一時的なことで今は大半のマスコミは引き上げて平穏を取り戻しているじゃない。家に閉じこもってばかりじゃ精神的にも良くないわ。思うんだけど今のお父さんは鬱になってるんじゃないかしら」

「何を馬鹿なことを言ってるの。お父さんは何処も悪くありません。ええ、悪く有りませんとも。あの野崎という評論家の中傷のせいで、いろいろと言う人もいるけれどお父さんは立派な人格者なんです。それは私が一番知っています。直ぐに誤解も解けるわよ」

 語気を荒げてそう言う母に美咲はそれ以上何も言えなかった。

だけど……と美咲は思う。母がそんな風に言うのは世間体を気にしてのことなのだ。

本当に父親のことを親身になって考えているのだろうか? ならば、世間体など気にはならないはずだ。必死で父を何とか立ち直らせようと懸命に尽くすはずでは無いか。

 美咲がそう考えるのも無理はなかった。元来母親にはそういった虚栄心の強いところがあった。

 夫は日本を代表する高名な美術研究家で大学の名誉教授、そして娘は国立大学卒業後、国家公務員にさせる。それが彼女の夢であった。

娘である美咲の気持ちになど頓着しない。嫌がる娘に幼い頃からピアノやバレエを習わせようとしたのもその一端であった。

 今まではそれでも良かった、だが今回は違う。父は完全に鬱状態でこのまま放置しておくと悪化することあっても、良くなる見込みなど無いように美咲には思えた。


 だが、美咲には父親のことも心配ではあったが、自身の悩みも有った。騒動以降、美咲は学校で酷いイジメに遭っていたのだ。

 ある日、登校した美咲は席に着けなかった。椅子は机にピタリと収められ、更に前の椅子と後ろの机が隙間無くくっつけられていた。前後の席の同級生に隙間を開けるようお願いをしてやっと席に着いた。

 教師がやってきて、朝礼当番の起立の号令で立とうにも、又もや前後の生徒の悪戯で立つ事が出来ない。教師がこちらを見た。当然、前後の奴らに注意をしてくれるものと思っていた。だが、その期待も空しく教師はこう言った。

「山下、何をしている。早く立て」

 美咲は耳を疑った。見れば判るでしょ。立とうにも立てないのだ。教師までもがグルになっていじめるのか? それとも集団のいじめに対して、毅然とした態度は、後が怖くて取れないのか? 何れにしろ、誰も頼れる者はいないのだと思い知った。

それからもいじめと無視(しかと)の毎日が続いた。

 当初は軽微ないやがらせであったが、徐々にその行為はエスカレートしていった。

 美咲の教科書や体操着を隠して困らせる、机の中にゴキブリや蛾の死骸を放り込む、ノートに悪戯書きをするなど、思いつく限りのいじめをこれでもかと延々続けられた。

それでも美咲はじっと耐え続けた。

 反応が無いことに業を煮やした相手はやりくちを変えてきた。

 それまでいじめの対象は千夏という同級生だった。美咲はそんな千夏を庇い、同級生達に酷い事をするんじゃないと諭していた。こんな不条理が有るだろうか。そう思い、美咲はいつも千夏を庇った。

 それがどうだ、最近では千夏までがいじめに同調し始めたのだ。みんなでいじめを行った後、千夏がそっと耳打ちした。

「美咲、ゴメン。でもこうしないと私が又いじめられちゃうの」

「千夏、何してんの? 行くよ」

リーダー格の雅美の一声で、慌てて後を追いかける千夏の姿を見送りながら、それでも彼女を憎めなかった。

 いじめられる辛さから止む無く裏切る千夏より、それを強要し裏切りをするように追い込む、雅美達の不条理さ、非道を呪った。

「インチキ教授の娘」と陰口も叩かれた。

だが自分がいじめられることはじっと耐えたが、愛する父親のことを馬鹿にされるのだけは許せなかった。 

 只、誰一人として美咲に面と向かって悪口を言う者はいなかった。彼女が少林寺拳法の有段者であると知っていたからである。

 そんな彼女の唯一、気の休まる場所が少林寺の道場であった。

 道場では学校の同級生と違い、誰一人父親の件で揶揄するような者はいなかった。

 美咲にとって稽古に励むことが、嫌なことを忘れさせる心休まるひと時であった。それに此処にやってくれば好きな人とも会えるからであった。

 相手の男性は同じ道場に通う馬渕悟という先輩であった。馬渕は道場の師範代を務め、全国大会で二回優勝を果たした経歴を有する大学生である。

 美咲にとって、今は師匠であるが、幼い頃から共に道場に通っていたため、唯一心を許して何でも相談できる異性であった。

 兄弟を持たない美咲は兄のように慕い、馬渕も妹のように可愛がってくれていた。

二人の仲が微妙に変化し始めたのは、美咲が中学生になった頃からであった。互いに異性として意識しはじめたのである。

 今更、照れ臭くて口が裂けても言えないが、互いに好意をもっているのは判っていた。そんな二人が交際を始めたのも自然の流れであった。


 ある日、稽古を終えて着替えを済ませた美咲のもとに道場主である寺の住職がやってきた。普段、何も言わないが近頃の美咲の様子に何かを感じ取り、馬淵から事情を聞いたのかもしれない。

「美咲も知ってのとおり当寺院は金剛禅の教え、それを少林寺拳法を通して体得するのを旨とする。心身一如、自他共楽じゃ。そのためには八風吹けども動ぜず、天辺の月。判るか? 判らなんだら座禅を組んで瞑想するのじゃ。禅の教えは己で悟り開くこと、教義を授けても頭で理解するだけでは意味が無い。艱難辛苦に悩み、苦しみ、その中で悟り、清々と生きるのじゃ」

 それだけ言うと住職は本堂へと戻っていった。

 中学生の美咲には和尚の言葉など理解できるはずも無く、直ぐに忘れ、馬渕との待ち合わせ場所へと急ぐのであった。

 

           五

 都立の名門校に受かった美咲は、漸くいじめから開放された。

 それはそれで良かったのだが、クラスメートたちは全員がライバル心を剥き出しにして模擬試験の結果に一喜一憂していた。

 中学ではトップクラスであった美咲も、この学校では成績が中ほどで、うかうかしていると下位に落ちそうになる。高校に入った途端、教科が難しくなったように美咲には思えた。特に英語は格段に難しくなったと感じるのだった。

 そんな彼女に担任がアドバイスをくれた。

「山下は塾には行ってないのか? 国立や有名私大を狙うのなら直ぐに進学塾に行ったほうがいいぞ」

 クラスのほぼ全員がどこかの塾に通っていることは美咲も知ってはいた。だが、名門だと言われている学校の教師がそんなことを勧めることが信じられなかった。塾に行かなければ受からない現在の受験のあり方が問題なのに、当事者たる教師が他人事のように言うのにあきれ果てた。意地でも塾になど行くものか、自力で克服してやる、そう美咲は思った。書店で洋書の童話やミステリーを買い込み、その日から長文読解力を養う努力を始めた。

それからは下校すると図書館通いの毎日が始まった。

ある日図書館から帰宅すると、夜になっているというのに部屋の明かりも点いておらず家の中は真っ暗であった。

 嫌な予感がして電灯を点けながら廊下を奥へと進んだ。母親の姿が何処にも見えない。キッチンを覗いてみるが、夕飯の支度もまだのようだ。

「お母さん、いないの?」

 大きな声で呼びかけても反応は無い。家の中はしんと静まり返ったままであった。

首を傾げながら両親の寝室のドアを開けた美咲は、暗がりの中に母親の座り込んでいる姿を目にする。

「何してるのよ、こんな暗い中で」そう言いながら部屋に入って美咲は「ヒッ」と驚きの声を漏らした。

 目の前に黒い物体がぶら下がっている。何とそれは父親であった。天井の梁からロープを垂らし首を吊っていたのだ。

 奇妙な果実……リンチに遭いポプラの木に吊るされた黒人の姿を見て作った曲。哀感を込めて切々と歌うその一節が一瞬頭の中を過ぎる。

 冗談じゃない、どうしてお父さんがそんな姿にならなきゃいけないのよ。

 急いで脚立を持ってきて父親を床に降ろそうとするが、到底一人では無理であった。

「母さん、しっかりして。さあ、降ろすから足を持って」

 二人がかりで漸く床に降ろし、すぐさま心臓マッサージを行う。

「お母さん、救急車。早く電話して」

 その声で初めて気がついたように母親がベッド脇の電話に飛びついた。

 救急車が到着しレスキュー隊員が部屋に入ってくるまで美咲は必死にマッサージを続けていた。

 その手を隊員が優しくおし止め、彼女に向けて首を左右に振った。

「大丈夫、まだ息を吹き返すわ」隊員にそう叫んで、尚もマッサージを続けようとする美咲。

「気持ちは判ります。でももう手遅れです」隊員に言われなくても判っていた。父が首を吊ったのは、私が帰るずっと前、まだ外が明るかった時刻だろう。床に降ろしたときには顔面が鬱血して浮腫み、眼球が飛び出さんばかりであった。

 第一発見者の母が、気丈に振舞って適切な処置をすれば助かったはずだ。いや、自分がもっと早く帰って来れば良かったのだ……胸が張り裂けるほどの悲しみと後悔。溢れる涙が頬を伝い父の顔に滴り落ちた。


 父親の死を境に美咲の生活環境は一変した。母親は落ち込んだまま一日中ふさぎ込み、涙していた。

 美咲はそんな家にいるのが鬱陶しくて自然と図書館から真っ直ぐに帰宅せず、馬渕とのデートを重ねた。求められるままに彼に身を任せ、彼を受け入れた。

 馬渕と会えないときは、繁華街を遊び歩くようになった。遊び仲間も出来て夜遊びの楽しさを知った。馬渕だけでなく、その他の気に入った男友達とも、誘われれば一夜を共にした。

 だが、そんな美咲の自堕落で荒れた生活ぶりを知っていても、あんなに教育や躾に厳しかった母親は何も言わなくなった。

 美咲はやはり母親が許せなかった。父の死を目の前にして茫然自失となり数時間放置していた母親が許せなかった。直ぐに救急車を呼べば助かったかも……そう考えると母を許せない。だから母にあてつけるように遊び歩いた。

 母親が近隣のあらぬ噂に耐えかね、一歩も家から出られなくなってしまっても気にも掛けずに遊びまわっていた。

 そんな状況を心配した母の兄が上京し、郷里に帰ってくるように強く勧めた。

 結局、母娘は都内から実家のある近隣の県へと引っ越した。それに伴い美咲も進学校から地元の高校に転校させられた。

 慌しく引越しが行われ、美咲は馬淵や道場の仲間とも別れを惜しむことが出来ないのが心残りであった。

 実家に戻ったことで、母親は身内に囲まれ元気を取り戻していったが、美咲にとっては今まで以上に辛い境遇が待ち受けていた。

 田舎特有の狭い社会だけに噂が広まるのも早かった。

「出戻り一家」そんなレッテルが貼られ白い目で見られるのだ。自分たちは何も悪いことはしていない、父親だって罪を犯したわけではない、なのにどうして犯罪者のように虐げられなくてはならないのだろうか。

総ては事件を起こした男のせいだ。父はそのトラブルに巻き込まれた被害者なのだ。美咲はいつか絶対に復讐してやると考え始めていた。

 三年になった美咲は、進学組ではなくて就職組に入った。教育熱心でかつては美咲にバレエやピアノを習わせようとした母は、美咲が進学を希望しないことに驚いたが何も言わなかった。父が健在で経済的にも裕福であった時代はとっくに過去のものとなっていた。 伯父の家に居候同然の身では進学など出来るわけが無いと美咲は思った。卒業したら就職して家計を助けるか、もしくは家を出て独立せざるを得ないと考えたのだ。


 相変わらずクラスメートに友達は出来なかったが、たった一人札付きのワルである坂崎という男子生徒だけが彼女に近付いてきた。

「お前、山下美咲だろ? もう少林寺拳法は止めたのか?」

 ガムを噛みながら話しかけてくる。

「どうして私が拳法をやっていたことを知っている?」

「覚えてねえのかよ。俺の名前は坂崎守ってんだ。全国大会の中学の部に栃木代表で俺も出場してたんだぜ」

 自慢げに鼻の穴を膨らませてそう言うリーゼント頭の男子生徒を見詰める。

「悪いけど覚えちゃいない」

 そう応えて男の側から離れようとする。

「ちょっと待てっつうの、そう冷たくすんじゃねえよ。人が折角声掛けてやってんのによ。お互い嫌われ者同士仲良くしようぜ」

「誰が嫌われ者だよ。それはあんただけだろ」

「チッ、可愛げの無い奴。けどお前は立派だよ、うん、偉い。しかとする奴らなんかぶっとばしちまえばいいのに。お前の腕なら三、四人が一度に飛び掛っても、のしちまえるんじゃね? 優勝決定戦のお前の蹴り、惚れ惚れしたぜ。でも残念だったな、優勝できなくてよ」

「上には上がいるってこと。それより拳法は暴力じゃない」

「ちぇ、師匠みたく言いやがる。俺っちなんか強くなりてえ一心で拳法を習ってたんだ。けどチンピラヤクザと喧嘩して破門になっちまった」

「当たり前だ、心身の鍛錬を疎かにする奴に武道を続ける資格は無い」

「いちいち突っかかんじゃね? ま、いっか。それはそうとお前どうして進学クラスに行かねえの? あ、いや人それぞれ事情があるわな。けどよ、就職すんなら車の免許だけは取ったほうがいいぜ」

「大きなお世話だよ、どうして私にかまうのさ」

「そりゃ、お前に惚れてるからじゃねえか。あ、いや、勘違いすんなよ。恋愛感情じゃねえぜ、いやそれも少しはあるかな、うん。けどよ、今言う惚れたってのは男が男に惚れるってのと同じだよ。お前の気風のよさって言うか、男前なとこが気に入ってるのよ。でもよ、お前を虐めてる奴らもよ、ほんとんとこ、お前が気になって仕方ねえのよ。本心じゃ、お近づきになりたくてしかたねえんだって。男子生徒は寄り集まっちゃ、お前の噂してんだぜ」

 ニヤニヤしながら話す男の顔を見つめる。驚きだった。男子たちが私をそんな風に思っているなんて考えもしなかった。

 そんな美咲の顔色を眺めて坂崎が、へ、へ、へと笑う。

「気がついてなかったのかよ、逆に女子は、それが面白くねえんじゃね? なんたってお前はよ、頭いいし面はいいし、そんでもって運動神経も抜群だろ。こっちへ引っ越してくる前は都内でも一番の都立高だしよ。神様は贔屓してる、どうしてあの人ばかりがすべてを備えているのよ、ずるいっ! てなもんさ」

 坂崎が女子学生の声色を真似て喋る。

「私だって恵まれているわけじゃない」

「判ってるさ、でもよ、女子どもはお前が羨ましくって、それが逆に憎たらしいんだよ。あ、そんな事話してたんじゃねえ、免許だよ、免許。何なら俺が力になるぜ。クルマってのはいいぜ。やなことや気持ちがむしゃくしゃしたとき、思いっきりぶっとばすんだ、気持ちいいぜ」

「あんた、暴走族なのか?」

「チッ、チッ。そんなんはとっくに卒業したさ。俺はレーサーになるんだ。自分でチューンしたクルマでよ」

「あんたが? 自分で?」

「おいおい、あんたって呼ぶのはやめてくれ。俺にも親がつけてくれたれっきとした名前があんだぜ。守って呼んでくれよ。俺んちはクルマの整備工場でよ、親父は自慢じゃねえけどメッタクソすんげえメカニックなんだぜ」

 美咲は話を聞いて、少し心が揺れる。美咲もクルマが大好きなのだ、誕生日を迎えたら直ぐに免許を取ろうと密かに考えていた。それにこの男は見かけほどワルでもないようだ。

「なあ、良けりゃ俺の自慢の愛車に載って見ねえか。自慢じゃねえが俺は一年浪人してっから、とっくに免許取ってんだ」

 それは美咲にとって甘い誘惑の言葉に聞こえた。どうせ進学しないのだから受験勉強していても意味が無い、そう考えるのであった。


           六

 エンジンが咆哮を上げている。坂崎は構わずアクセルを踏み続ける。タコメーターの針がレッドゾーンに触れる直前、左足でクラッチを切り滑らかにギアチェンジをする。

直線コースはすぐに終わりカーブが目の前に迫る。坂崎が素早くダブルクラッチで回転数を上げ、一段低いギアに落とす。スムーズにギアを繫げスピードを下げていく。リアが踏ん張りきれず若干テールが流れるが、坂崎は素早く体制を立て直した。コーナーの頂点で再度スピードを上げ加速していく。

 ピットに戻っても美咲は暫く座席から立ち上がれなかった。

「大丈夫か? ほらコーヒー」

 坂崎が自販機で買ってきた缶コーヒーを投げて寄越す。

「どうだった。俺のテクも満更じゃねえだろ?」

「正直、マジ凄かった。まだ足の振るえが止まらない」

「こんな風にクルマを転がしたくねえか? 尤もこいつは相当チューンナップしてあるから最初からこんな風には走れないけどよ。ここの設備はサーキットだけじゃねえんだ。向こうにはダートコースもあるし、免許試験用のコースもあんだ。俺は教習所に通わずにここで練習した」

「へえ、でもどうしてこんな場所に?」

「近くに自動車メーカーの工場があるんだ。本来はテストコースとして利用されていたらしいが、今では安全運転講習やマニアの練習場に使われてんだ。どうだ、今からあっちの練習コースでトライしてみっか?」

 こうして、坂崎による美咲への運転講習が始まった。美咲はAT車さえ運転できれば良いと思っていたのだが、坂崎が断固としてマニュアル車に拘った。

「将来絶対にマニュアル操作を教わって良かったって思うさ」そう彼は言うのだった。

 最初こそクラッチ操作やギアチェンジに戸惑ったものの、生来勘のいい美咲はみるみる腕が上達していった。

 夏には無事に免許取得をした。

「守のお陰で無事免許が取れた。礼を言うよ、サンキュー」

「止せやい、礼なんていらねえよ。それよか、美咲は運転のセンスも抜群じゃね? うん、俺が言うんだから間違いねえ。どうだ、免許を取って終わんじゃなくて、もうちょい続けねえか?」

「もう教わることなんか無いんじゃない」

「甘いなあ、免許だけなら誰でも取れるって。それ以上にみんなより早く、誰よりも巧くなりたかねえか? 初めて俺の車に乗ったときのことを覚えてっか?」

「勿論覚えているわ、あのときの体験は強烈だったもの。私も早くあんなふうになりたいと思っているわ」

「じゃあ決まりだ。これからが本当の運転テクニックの講習だぜ」

 そう言って坂崎はにやっと笑った。

 坂崎は最近、美咲の言葉遣いが変化しているのに気がついていた。

それまではぶっきらぼうだった言葉遣いが、女性らしい言葉遣い、特に語尾が女性っぽくなっている。これまでは相手に対して警戒心があり、いきおいそういった態度を取っていたのだろう。それだけに自分に対して気を許してくれるようになったのが嬉しかった。

 坂崎は昨夜夢を見た。運転免許を取れたお礼にと美咲が彼にキスをしてくれた、そんな夢だった。

 坂崎は以前から美咲に惚れていた。まともに口説いても相手にされないと判っていたからこそ、運転を教える事を口実に近付いたのだ。

 相手にその気が無くてもそれはそれで良かった。ただ傍に居て親しく会話をかわすだけで充分満足であった。それに狭い車内で二人肩を並べて坐れる。横を向けばすぐそこに麗しの君がいる。手を伸ばせば触れることも出来る至近距離にだ。それに加えて彼女は良い匂いを漂わせていた。多分シャンプーの香りであろう、ふとした拍子にそれが鼻腔をくすぐるのだ。そんな時坂崎は柄にも無く胸がときめくのであった。

 だが、免許を取得した今、美咲との距離は遠のいてしまうだろう。堪らなかった、このまま二人の距離が遠のくことなど我慢できなかった。

 それで、駄目もとで更なる講習を彼女に持ちかけたのだった。

 まともに好きだなんて口が裂けても言えなかった。だが、これで暫くは再び一緒にいられる。そう考えるだけで坂崎はわくわくするのだった。


 それからが本格的な運転テクニックの教習のスタートであった。

「いいか、車と一口に言ってもエンジンの配置や駆動方式で大きな違いが有んだよ。FF、FR、MR、4WD、RR。まあ大体そのくらいかな。車はまっすぐ直線だけを走るもんじゃねえだろ。カーブを素早く曲がらなけりゃならねえ、そうすっと遠心力があるから、なるべく前後の重量配分を五分五分にしてバランスをとるのさ。MRってのはそこから考案された。ミッドシップっていって重いエンジンを車の中心部に配置してんだ。F1やレース車に多いんだけどよ、一般の車はそれじゃ居住性が損なわれるってんでFFやERが多いんだ」

「FFというのはエンジンが前置きで駆動輪も操舵輪も前輪が請け負う構造ね」

「おっ、判ってんじゃねえか、そのとおり。だからカーブを曲がるとき前輪は前へ進もうとする一方で曲がろうともしなきゃなんない。前輪の仕事が多すぎて曲がりにくいって訳よ。想定ラインより大きく外側に膨れて曲がる。これをアンダーステアってんだ」

「成る程ね、逆にFRは駆動輪が後輪だから前輪はすっと曲がるって訳ね」

「ああ、それでオーバーステアになりやすい。ガキん頃の電車ごっこを思い出せば良く判んじゃねえか? 運転手役のガキが全員を引っ張るってのがFFだ。引っ張りながら曲がるのは厳しい、けど車掌が後ろから押しながら進むFRなら、運転手は曲がりやすいって訳よ」

「ふふ、いい例えね。中々頭良いじゃん」

「よせやい、茶化すんじゃねえよ。それと遠心力も働く」

「F=mV2/Rか」つい口をついて出る。

「へ? 何だ?」

「ううん、何でもないわ。遠心力の公式」

「さすがおつむの良い奴は違うねえ」

「無駄な知識だわ、実生活には何の役にも立たない。単に受験だけの知識だわね。今、守から教わっている事のほうがよっぽど充実感がある」

 美咲が自嘲気味に答える。

「お、嬉しいことを言ってくれるねえ。えっと、何の話だっけ、そうそう、そんでもってこっからが厄介なんだけど、その状態でブレーキ踏んだり、アクセル吹かしたりしたらどうなるか判るか?」

 美咲は答えが判らず肩をすくめる。

「車に掛る荷重が変化すんだ、するとタイヤのグリップ力にも影響が出てスピンしたりフェンスに突っ込んだりしちまうのさ。尤も実際の公道ではそんなにスピードは上げねえだろうけどよ、レースで早く走ろうと思えばこのあたりの事を詳しく知ってなきゃなんねえ、それも身体で覚えねえとな。実際にやってみっか」

 そう言って坂崎が美咲に運転を促した。

 サーキット場で坂崎の指導を受けながら、美咲はFF車とFR車の特性と挙動の違いを身をもって体感した。カーブでのアウト・イン・アウト、スローイン・ファストアウトなどの基本、ダートコースによるダブルクラッチやタックイン、テールスライドの操作と、そのときの車の挙動を体感した。

 最初はアクセルワークとステアリング操作の未熟さで、派手にスピンを繰り返す。だが、徐々に車の挙動、スピード感覚をつかむことで、どの段階でどんな操作を行えばよいのか、そのタイミングを身体が覚え始める。

 それをマスターすると更にドリフトやカウンターの当て方について教わり、幾度と無く練習を行った。

 と同時にメカについても坂崎の父親の整備工場で教わった。

当初、美咲は地方の小さな整備工場を想像していた。だが、連れて行かれた建物を見て正直驚愕した。五百坪は有ろうかと思える敷地、その半分は巨大な工場の建物で占められており、それ以外の広場のような場所の所々には車やバイクが停められていた。

 美咲の驚く表情を眺め坂崎が得意げに喋る。

「へ、へ、結構な規模だろ。俺が言うのもなんだけどよ、親父の腕を聞きつけて栃木以外の茨城、群馬、埼玉からも走り屋が集まって来るんだぜ。勿論はなからこんな規模じゃねえ。レース場が誘致されてから客の数も飛躍的に増えてよ、さらに口コミで客が増えたのさ」

 彼が言うとおりあちらこちらに暴走族風の若者や走り屋の連中があちらこちらにたむろしている。

「おう、守。今度の峠攻めにゃあ、参加しろよ」

 坂崎を見つけた若者が声を掛ける。

「勘弁してくださいよ、俺はもう一般道は攻めないっす」

「なことじゃ、おめえ腕上がんねえぞ。てか、連れの娘はレース・クイーンじゃね? おめえも案外手が早えんだな。ヒュー」

美咲の体を嘗め回すように見詰めて若者が口笛を吹く。

「違いますって、彼女もレーサー志望なんすよ」

「ヒョエー、こんないい女がレースやってんのか? 俺にも紹介しろよ」

 そう言って付きまとう若者を適当にあしらい、坂崎は工場内に美咲を案内する。

「親父、この前から話してた山下美咲さんを連れてきたぞ」

 それまで車のボンネットに首を突っ込んでいたツナギの作業服を着た男性が顔を上げる。

「やあ、いらっしゃい。守の奴、毎日話すのはあんたのことばかりでね、そんなに気に入ってんなら一回連れて来いって言ってたんだ」

「馬鹿、違うだろ。車の構造やチューンについて教えてやってくれって言ったんだろ」顔を真っ赤にして坂崎が反論する。

「ああ、そうだっけ。今、ちょっと急ぎの作業中なんで奥でコーヒーでも飲みながら少し待っててくれ」

「すいません、お忙しいのに無理を言って」

「いやいや、気にせんでいいよ、早いとこ修理して外で待ってる奴らを帰さねえと一般のお客さんが怖がってよりつかねえからな。どういう訳か連中には頼りにされてんだ」

 親父さんは苦笑しながら、再びボンネットに首を突っ込んだ。

 休憩室に上がりこみコーヒーを飲んでいると、やがて親父さんが部屋に入ってきた。

「お待たせしちまってごめんよ。じゃあ、早速始めっか」

「先に始めててくれ。俺、ちょっとトイレ」

 廊下を小走りでトイレに急ぐ坂崎の後姿を見詰めながら親父さんが美咲にそっと打ち明ける。

「あんたと知り合ってから守は変わったよ。以前は奴等の仲間に入って馬鹿やってたんだけど、すっかり人が変わったようにまともになった。あんたのお陰だ、礼を言うよ」

「いやだ、礼を言うのはこちらの方です。息子さんのお陰で私も目標を見出すことが出来ました」

「そうかい、あいつが人様のお役に立てるなんて思いもしなかったが、そう言われると親としちゃ嬉しいね」

 そこへ坂崎が用を足して戻ってくる。

「おっと、今の話は無しってことに」

 二人の様子に何かを感じ取ったのか、坂崎が口を尖らせる。

「何だよ、何の話してたんさ。どうせ又余計なことくっちゃべってたんだろ」

「こんな素敵なお嬢さんがお前の彼女だったらなあって話だ」

「よせよ、美咲に失礼だろ」顔を真っ赤にして坂崎が言い返した。


 それから実技と平行して構造の講習が行われた。

 基本的な内燃機関の構造、SOHCとWOHCの違い、スーパーチャージャーやターボ、それに付随するインタークーラーの構造、チューンナップのためのブーストアップやタービン交換、足回りの強化など様々なことを教わった。

 又、電気系統の知識やその配線と回路についても教えを受けた。

傍で見ている坂崎が口を挟む。

「余談だけどよ、配線が判れば車泥棒もオチャノコサイサイだぜ」

「馬鹿言わないで、そんな事をするつもりは無いわ」

 そう言下に否定した美咲であったが、その知識が後々役立つことになるとは、その時には思いもしなかった。


           七

 冬になった頃、美咲の車に関する知識と運転技術は目覚しく向上していた。未だ就職口の決まらない美咲は、整備士の資格を取得するのも悪く無いかと考え始めていた。

本来ならば大学に通い国家公務員試験を受けるつもりであったが、その夢は父親の死と共に捨てた。どこかに就職先を決めなければならないが、事務職を一生の仕事にするつもりは無かった。

 冬休み直前の放課後、帰宅しようと体育館の脇に差し掛かった時、三人の男子同級生が美咲を取り囲んできた。

「君、坂崎と付き合ってんだって?」

 そう聞いてきたのは進学クラスの前田という学生であった。成績はトップクラスであり、容姿もイケメンなため女子学生に人気がある。父親は地元の名士でPTA会長であったため教師連中の受けも良かった。

「あんたには関係無いだろ」

そう言って通り過ぎようとする美咲を他の二人が両側から抑えてくる。

 辺りは日が暮れて夕闇に包まれている。誰かが通り過ぎてもこの暗がりでは気がつかないだろう。

 まずいな、一瞬美咲は思ったが、努めて冷静な声で声を発する。

「何のつもり?」

 そんな美咲に前田が馴れ馴れしく寄り添ってくる。

「なあ、あんな走り屋の不良と付き合わない方が良い、山下さんのためを思って言ってるんだよ。それより僕と付き合わないか」

「悪いけど何か勘違いしているようね。坂崎君には運転を教わっているだけで付き合ってはいないし、私は誰とも付き合う気は無い。さあ、離して」

両側の男子生徒の腕を振り払おうと身体を捩る。

「まあ、そうつれなくするもんじゃない。噂では渋谷の夜遊びクイーンだったそうじゃないか。何人もの男友達とも派手に付き合っていたんだろ? なのに成績も優秀。僕はそんな山下さんに憧れている。当然進学クラスに進むと思っていたんだ。そうすれば仲良くなるチャンスは有ったのに……僕は冬休みに入れば受験勉強の追い込みで忙しくなるんだ。でも今の状態じゃ勉強に身が入らない。それは君のせいだ。君が気になって仕方ないんだ。だから今日は僕の想いを遂げさせて貰う」

「何を勝手な理屈を――」

 言い終わらないうちに前田が体育館のドアを開ける。両脇の二人が力ずくで美咲を中に引きずり込む。素早く前田がドアを閉めた。それを合図に二人が美咲を押し倒す。

前田が美咲のスカートを捲くる。露わになった太腿を見て興奮したのか、がむしゃらに圧し掛かってこようとした。

 それまで穏便にすませたいと思い、激しく抵抗しなかった美咲であったが、彼らの必死の形相を見て本気で犯そうとしているのだと悟る。

 頭に血が上るのを感じた時には既に身体が反応していた。

 美咲の両足首を掴もうとする前田の股間を思い切り蹴り上げると、もう片方の足で胸を蹴る。その勢いで後転し、両脇の二人から逃れる。

 素早く立ち上がった美咲は、右側の男の腹に正拳突きを見舞い、左からタックルをしてくる男の顔面に肘撃ちを食らわせた。

 普通の女子ではない、拳法有段者の一撃を喰らった男子は歯を二本折り、口と鼻から血を吹きながら倒れた。前田は苦悶の表情を浮かべてのた打ち回っていた。

 美咲は服装を整え、床に投げ出された通学カバンを手にすると何事も無かったように体育館から出ていった。

 その夜、三人の男子学生とその母親たちが家にやって来た。

 前田の母親は物凄い形相で美咲の母を罵倒し、美咲を「野蛮な不良娘」と罵った。PTA総会でも問題として取り上げると言う。

 強姦されそうになったと幾ら弁明したところで聞き入れては貰えないだろう。成績優秀で父は町の有力者である前田は教師の覚えがめでたい。彼がそんなことをするはずが無い、大多数の人間はそう思うに違いないし、反論する証拠も無い。

 だったらあのまま反撃しないで、黙って犯されろとでも言うのだろうか?

 美咲はふと、多数の非難を浴びて孤立した父親の心情が理解できたような気がした。事の真相も判らず表面的な事象で判断する輩に何を言っても、言い訳としか聞こえないだろう。 

 父もこんな気持ちであったに違いない。無力感が襲う。

 母親は黙って何度も這い蹲るように頭を垂れて陣謝していた。そして美咲を恨めしげに見詰めるのだった。

「そんな目つきで私を見ないで。言いたいことが有るのならはっきりと言いなさいよ」そんな言葉が口をついて出掛かったが美咲はその言葉を飲み込んだ。

 そして美咲は翌日の早朝、夜明け前に家人に黙って家出をした。


 坂崎は夜明け前の県道を愛車のGTRですっ飛ばしていた。

先ほど、眠りを妨げるように携帯電話が鳴った。その音に無理矢理叩き起こされた。

チッ、今頃誰だよ、そう毒づきながら表示を見ると、美咲からであった。慌てて身を起こして電話に出る。

 今から家出をするのだが、最寄りの駅では人目につくので、下館まで車で送って貰えないかと言うのだ。

 何故突然家出などと言い出すのか、一体美咲の身に何が怒ったのか、あれこれと考えながら坂崎は待ち合わせ場所へと急ぐ。

 町外れで寒さに震えながら佇む美咲の姿が、ヘッドライトの先に浮かび上がる。

スピードを落とし彼女の前に車を停めた。

車内で幾ら問い詰めても、美咲は貝のように口を閉ざしたまま黙して語らない。

下館の駅に着いたときに坂崎は、考えを翻すように説得を試みた。話の勢いで、自分がどれだけ美咲に惚れているか、そんな己の胸に秘めていた熱い想いまで吐露してしまう。

「だから、行くな。いや、何処にも行かせない」

 そう叫んでセンターコンソール越しに美咲を抱きしめる。

 顔を寄せキスをする。右手を伸ばし助手席のシートを倒すと、そのまま美咲に覆い被さる。

 と、何処かで、けたたましい音が鳴り出す。

 俺の携帯の着信音? はっと目が覚める。今のは……夢か。だが、電話が鳴っていることは現実だ。慌てて電話に出る坂崎であった。

 美咲の用件を聞いた坂崎は、未だ夢の続きを見ているのかと錯覚をしそうになった。だがこれは現実だ。

 とすれば、さっき見たのは正夢なのか……いや、余計なことを考えている場合ではない。兎に角急ごう。

 慌しく身支度を整えて、家を飛び出す坂崎であった。


 美咲は県道まで出て坂崎の車を待つ。さすがに真冬の夜中だけあって冷え込みの厳しさは体にこたえる。刺すように冷たい風が吹きすさび体の芯まで凍えそうだ。じっとしていられなくてその場で足踏みをして体を動かす。

遠くからヘッドライトの明かりが見えたと思うまもなく、猛スピードでガンメタのGTRが近付いてくる。

 岬の目の前で停車して助手席が開かれる。

「乗れよ」坂崎が顎をしゃくった。

「どうしたんだ? 美咲。夜遅くに電話してくんなり下館まで送ってくれって言うんだもんな」美咲を乗せて走り出すなり坂崎が問いかける。

 昨日の一件を美咲が話して聞かせると坂崎はハンドルを片手で叩く。

「糞っ、あいつら……知ってるか? 前田は優等生で先公の受けがいいのをかさに着て好き放題やってやがるんだ。二人の子分を従えていい気なもんだぜ、全く。でもよ、相手が悪かったよな。美咲が奴らをコテンパンにしてるとこ、見たかったぜ」

 明るくそう返すが、坂崎の心中では前田たちの理不尽な行為に怒りが煮えたぎっていた。それと共にどこまでも不幸な彼女の人生に同情せざるを得ない。俺がこいつを守ってやれれば、とも思う。

「冗談言わないで、お陰でこっちは大迷惑よ」

「でもよ、家出するったってどっか当ては有るのか?」真顔になって坂崎が問う。

「やっぱ、東京でしょ。昔の知り合いも大勢いるし」

「そうか、でもよ、残念だな。春になったらB級ライセンスを取れそうだったのに……いや、その先にはA級も俺は視野に入れてたんだぜ」

「悪いわね、守には世話を掛けっぱなしだった」

 今だ、さっき夢で見たように説得して、その勢いで自分の想いも伝えんだ。そう坂崎は思った。

「俺さ……」

「ん? 何」

「いや、何でもない」

「何よ、言いかけて止めるのは良くない」

 美咲が冗談めかしてなじっても、坂崎はそれには答えず無言で車を走らせた。

 駄目だ、やっぱり俺にゃあ言えねえ……坂崎は心のうちで舌打ちした。

 約四十分ほどで下館駅に着いた。

「早朝だから早く着いたわね。本当に世話になったわ、何のお返しも出来ないけれど」

 そこまで言って美咲は、突然坂崎にキスをした。 ほんの数秒の軽い口づけ。

 夢では激しくキスをしながら、素早く美咲を押し倒していた。

だが、現実には坂崎は金縛りにあったように全く動けなかった。やっぱり夢のようにはいかねえ。そう思う。

 美咲がそんな坂崎の心中を見透かすように口を開いた。

「さっき言いかけた言葉、ずっと以前から守の気持ちは判っていたわ。その気持ちに沿えなくてゴメン」

 坂崎はうろたえながらも強がりを言う。

「何いってやがる。最初に会ったときに言ったろ、俺は美咲の男前なとこに惚れたって。じゃな、体に気いつけて元気でいろよ、そうすりゃ又何処かで会えるかもな」

「うん、そうだね。本当に有難う、守だけは私の味方だったから一生忘れない。じゃあ、行くわ。送ってくれてサンキュー」

 ドアを開けて美咲が駅へと歩き出す。

 未だ間に合う、後を追っかけて「行くな」って言うんだ。彼女がたった一人東京で生きていくなんて、今まで以上に苦労するのは目に見えている。

何をしている、早く追っかけろ。心の中で自分を叱咤するもう一人の自分がいる。

 だが、結局坂崎は車から出ることなく、彼女の後姿が見えなくなるまで見詰め続けた。

 突如、目にする光景が霞んでくる。目に溢れた涙が頬を伝う。何だ、これは。何で俺が泣かなきゃなんねえんだ。

「糞っ」そう呟いて手の甲で涙を拭う。

 俺は名前が守のくせに女の子一人守ってやれねえ。堪えようとしても次から次へと涙が溢れだす。とうとう体が震えだす。感情が昂ぶり嗚咽が漏れる。もう自分の意思では止まらない。獣の咆哮のような野太い声で慟哭する。

 それは彼が生まれて初めて体験する、他人のために流す涙であった


           八

 家を飛び出したものの、美咲には行く当ては無かった。とりあえず東京に出れば何とかなるだろう、そう考えただけであった。

東京についてすぐに道場の先輩であった馬渕に電話を掛ける。た

しか大学は卒業したはずだ。その後どうしているのか? 懐かしさと胸の高鳴りを覚えながら応答を待つ。

 はい、とぶっきらぼうな応答がある。

「先輩ですか? 私です、美咲です。ご無沙汰しています」

―みさき? 美咲なのか。携帯の番号変えたのか? 誰だか判らなかったじゃないか。突然引越ししちゃったから、どうしているのか心配していたんだぞ―

 馬渕の声だ、懐かしい先輩の声、大好きだった男性の声。声を聞くうちに美咲は胸が詰まる。感情が溢れこれまでの辛かった思いがどっと押し寄せる。知らず知らずに涙が溢れる。

「えっと、一言ではいえませんが、あれから色々有って……」

 声が震えているのに気がつき、大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着ける。

「それで、一人で東京に出てきました。これから会えませんか?」

 美咲の様子で何かを察したのだろう、馬渕が優しく言う。

―そうか、詳しい話は会ってから聞くよ。だが、夜まで時間が作れないんだ。それでも構わないか―

「勿論、突然連絡したのだから先輩の都合に合わせます」


 結局、馬渕が指定したのは夜の十時であった。待ち合わせである新宿に着いたとき、既に馬渕が待っていた。

 久々に見る馬渕は、格闘技を続けているせいか、更に逞しくなったように見えた。

 大学を卒業後、警備会社に籍を置きながら選手活動を続けているという。

「でもな、レスリングや柔道と違って空手や拳法は余り注目されていないし、国際大会といってもアジア以外では関心も薄い。だから企業のバックアップも余り期待できない。苦労しているよ」

 居酒屋で卓を囲みながら馬渕が近況を話す。

「彼女はいるんでしょ?」

「無理、無理」馬渕が片手を左右に振る。

「彼女を作る暇なんか無いさ。会社が終われば練習が待っているだろ。それが終わればもうバタンキューで夜の街に繰り出す元気もないさ。今夜もコーチに拝み倒して抜け出してきたんだぜ。そんなことより、お前の話を聞かせてくれよ、美咲」

 そう促され、母の郷里に引っ越してからの三年間の出来事をポツリポツリと話す。

「そうか、大変だったな。けど、これからどうすんだよ」

 そう問われても美咲には返事の仕様が無かった。勢いで飛び出してきたのはいいが、先の事は何も考えてはいなかった。とりあえず馬渕のアパートにでも転がり込むつもりであった。

「俺は今会社の寮だから泊めてやれないし……」

 その言葉を聞き美咲は唇を噛んだ。甘かった、元カレの馬渕なら喜んで自分を泊めてくれると考えていたのだ。まさか寮に住んでいるとは思わなかった。

「そうだ寺を頼って行けばいいんじゃないか? 和尚なら喜んで泊めてくれるだろうよ。道場なら宿泊設備も揃っているし」

 馬渕が提案したのは、昔通った少林寺拳法の道場のことであった。

「けど美咲、今夜だけは俺と付き合ってくれよ。自由になる時間なんて滅多に無いんだから。しかし綺麗になったなあ、お前がこんなにいい女になると判っていりゃ田舎になんか行かせなかった」

 そう言って馬渕が美咲の目を見詰め、手を握ってくる。

「いやだなあ、先輩。もう酔ったんですか」

 そう軽口を叩いたが、美咲も満更ではない。馬渕となら昔のように一夜を共にしてもいい、そう思った。

 暫くして居酒屋を出た二人は、肩を寄せ合って歩く。そして繁華街から少し離れたラブ・ホテルへと入っていった。


 翌朝、別れ際に美咲は馬渕を安心させるために、暫く寺の道場に寝泊りすると言った。

馬渕は安堵する様子でそれが一番良いと答えた。

 別れて一人で歩き出した美咲は、馬渕に頼ろうとしていた自分を恥じた。彼には彼の生き方がある、もう昔交際していたようには戻れない。ただ彼は成長した私をもう一度抱きたかっただけなのだ。それが証拠に昨夜は飽くことなく貪欲に求めてきた。

だからといって馬淵を攻められない。頼られて彼も迷惑だったろう、勿論そんな素振りを見せたわけではないが相当困惑したはずだ。寺に泊まると聞いて安堵した気持ちが手に取るように理解できた。

 結局、私は誰も頼らずに生きていくしかない。例え寺を頼っても、和尚は家出をしてきた美咲を許すはずがない、即、実家に連絡をするに決まっている、そう考えた。

美咲の後姿が遠ざかるのを見詰めながら、馬渕は携帯電話を取り出しどこかに電話をした。

相手はすぐに出た。

「あんたが言ったとおり山下美咲は東京に戻ってきた。けど、既に事件から三年は経っているんだ。取材で付き纏わないでやってくれ、そっとしておいてやれないのか」

 その相手は一ヶ月ほど前に、雑誌記者と名乗って馬渕の前に現れ

た。近々、彼女は東京に舞い戻る、一番に貴方と会うだろうから、

そのときは連絡してくれ、そう頼まれたのだった。

 馬渕の懇願に相手は「心配ない。直接インタビューはしない。ただ、遠くから追跡調査を行うだけだ」そう答え、電話は切れた。


 馬渕と別れた美咲は、それから暫くは、幾人かの遊び友達であった女性達の部屋に日替わりで押しかけたり、一人のときはマン喫で過ごしたりした。

時には渋谷で昔の遊び仲間だった男性を誘い、一晩を過ごすこともあった。持ち前の美貌とスレンダーだが必要な箇所には充分な量感を持つ彼女の肢体を前に断る男性はいなかった。

 ある日、いつものように渋谷のセンター街をあてもなくブラブラしていた。

「誰かと待ち合わせかい?」背後から声を掛けられた。

振り向くとガタイの良い男性たちがニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて立っていた。

無視してその場を立ち去ろうとしたが、彼らも並んで歩き出す。

「シカトかよ。けどよ、そっちの都合なんか関係ねーんだよ」

一人がそういうと、一斉に五人で取り囲む。そのまま円山町方面に引きずられるように連れていかれた。この先はラブホテル街である。

「お前、綺麗な顔で美味しそうな体つきしてんじゃねえか。俺たちの相手してくんね?」

 男たちの中でも群を抜いてガタイのでかいのが肩に腕を回してくる。

「ふん、あんたには雌ゴリラがお似合いよ」

 男が肩に回してきた腕を取り、左足で男の足を払う。そのまま一本背負いで男を投げ飛ばす。

「ダッセーな、浩二」

「女に投げれらてんじゃねえよ」

 四人が口々に囃し立てる。

「ウルセー、女だと思って油断しただけだっつうの」

 仲間に言い訳しつつも、恥をかかされた美咲に向き直り睨みつける。

「おい、調子に乗ってんじゃねえぞ。その高い鼻をへし折ってやる」

 言うと同時に大男がパンチを繰り出してきた。一歩後退した美咲は右腕で半円を描きながら男のパンチを弾く。そのまま半歩踏み込み男の腹に左正拳突きを食らわした。男が蹲る。

「こいつ、手強いぞ。こうなりゃ全員で押さえ込むぞ、いいか」別の凶暴な顔つきをした男が全員に号令をかける。 

 さすがに前後左右から一斉に飛び掛られると簡単には振り払えない。正面の男を蹴り飛ばしたとき、背後から胴を掴まれ左右からも男に腕を掴まれ自由を奪われる。

「よくもやってくれたな」大男が美咲の腹に思い切りパンチを繰り出す。男のパンチは重く、美咲は頭が痺れ鼻の奥がツンとする。鼻から生暖かいものがヌルリと垂れてくる。

 その時であった。

「おい、君たち。女性一人に五人がかりで何をやっているの」

 背後から人影が近づいてくる。明かりの下までやってきて歩みを止める。全員がその姿を凝視するが、長髪の華奢な体型の男だと判ると凄んで怒鳴る。

「何だ、てめえは。関係ねえだろ」

「てめえも可愛がって貰いてえのかよ」

男たちが次々に怒声を浴びせる。

「おお、怖いねえ。これだから低脳な連中を相手にしたくないわ」

そう呟く人物の横に筋肉隆々の大男が現れる。

「浩二、お前も落ちぶれたもんだな」

 その男を見てガタイの良い男の顔色が変わる。

「佐々木先輩」

「良ければ俺が相手になってやるぞ、浩二。昔のように稽古をつ

けてやる」

 他の男たちが訝しげに浩二の顔を見る。

「まずい、引き上げよう。こいつは人殺しだ、関わり合いになるのはよそうぜ」そう言うなり浩二が反対方向に駆け出す。

意外な展開にあっけに取られていた他の男たちも、後を追うように逃げ去る。

「何だ、知合いなのか? 豪(たけし)」

「奴は柔道部の後輩さ。尤も厳しい練習に耐え切れず脱落しちまった負け犬だけどよ。それよりあんた、大丈夫か?」

 ティッシュで鼻血を拭う美咲に声を掛ける。

「ああ、危ないところをサンキュー」

「立てるか? 肩を貸そうか」華奢な方が美咲の手を取る。

 改めて男の顔を見た美咲は目を見張る。

何て美しい顔立ちをしているのだろう。イケメン、いやそんな陳腐な表現では言い表わせられない。何秒か我を忘れて見つめていた。

 そんな美咲の態度に男が怪訝な表情を浮かべる。

「何か顔に付いてるか?」

「あ、いや」慌てて男から離れる。

「本当に助かったわ、サンキュー。じゃあこれで」

「ああ、気をつけて帰るんだよ」美少年が微笑をして手を振る。

 やがて男二人は角のコインパーキングに向かう。

 美咲はこっそり後をつけた。

パーキングに車を駐車させているのかと思ったが、車が出てくる気配は無い。

「参ったな、これじゃお手上げだぜ、琢磨(たくま)」大男の佐々木(ささき)豪(たけし)が車の側にしゃがみこんでブツブツ呟く。

「今夜は諦めよう」琢磨と呼ばれた美少年が答えている。

「何してんのさ」

 その声に二人がびくっと身体を震わせ振り替える。

「何だ、あんたか。まだ帰んないのか?」と琢磨。

「ひょっとして、あんたたち車泥? それにしちゃ素人だね」

「何だと、お前出来るのか」豪が言い返す。

「ふふん、そんなんじゃ鍵は開いても防犯ブザーが鳴るよ。まずボンネットを開けてと……」

 二人の目の前で美咲は手際よく作業を行う。

「これでよしと、エンジンを掛けるよ」美咲が運転席に乗り込む。

「ちょっと待てよ、お前はもう帰れ」豪が美咲を運転席から降ろそうとする。

「じゃあ、大声を出すよ。車泥棒って叫んでやる」

「おい、まずいぜ。パトロール警官がやってくる。あんた、車を出してくれ」琢磨がそう言いながら後部座席に乗り込む。

「くそ、仕方ねえな」慌てて豪が助手席に乗り込んだ。

 駐車料金を払い、車を出す。堂々とパトカーとすれ違いゆっくりと表通りに出る。

「中々度胸があるじゃん」琢磨が美咲の落ち着きぶりに感心する。

「でしょ? ねえ、面白そう。仲間にしてくんない?」

「駄目だ、遊びじゃねえんだぞ。何が面白そうだ」

「うるさいね、あんたに聞いてんじゃないよ、コジロー」

「誰がコジローだ?」

「佐々木だからコジローでいいじゃん」

「そりゃ良い。これからコジローって呼ぼう」クスクスと琢磨が笑う。

「おいおい、琢磨まで何を言い出すんだ」

「ところでさあ、さっきの奴、あんたを人殺し呼ばわりしてたけど、どういう事」

 その質問に豪の顔が強張る。

「あ、ひょっとして地雷踏んじゃったかな? ごめん」

「いいさ、もう過去の話だ。柔道部での稽古で相手を倒したときに打ち所が悪くて……事故だったんだ。当時俺はインカレの優勝候補だったが、それが原因で出場停止処分を喰らった。居辛くなって結局柔道部は退部したよ。それからだ、俺の人生が狂ったのは」

「そうか、悪いことを聞いちゃったね」

 話題を変えるように美咲は後部座席に顔を向けた。

「ねえ、簡単にキー解除したのを見たっしょ? 最新の防犯システムでもチョロイもんよ」

 必死に自分を売り込む美咲に琢磨が問いただす。

「あんた、家に帰らなくてもいいのか?」

 途端に美咲の表情が暗くなる。

「家出して繁華街をプラプラしてるから、あんな目に遭うんじゃないか。懲りないんだな」

「うるさいな、事情が有るんだよ。それより今夜泊めてくれるよね」

 何を言っても無駄なようだ。男二人はやれやれと顔を見合わせるのだった。

「ところで、あんたの事は何て呼べば良い?」

「え?」

「これから一緒に仕事をするのに、名無しの権兵衛って訳には行かないだろ」

 その言葉を聞いた途端、美咲の顔が明るくなる。

「じゃあ、仲間に入れてくれんの。サンキュー」

そうして美咲は強引に仲間入りを果たした。琢磨の提案でコジローだけでなく、残る二人もニックネームを決めた、ミサキ、もう一人はビリーと。


           九

 美咲にとって、悪事とはいえ安定した収入を得られ、そのお陰で生活基盤が成り立った。

 何にしろ、ねぐらが確保できたことは幸いであった。もう友達の部屋を渡り歩かなくて済む。そのうえ、一目惚れした男性と一緒に仕事をしていられる点にも満足であった。

 だが、生活が安定しても、恨みに思う男性の消息は追い続けた。

窃盗の仕事が無いときは、心当たりを訪ねたり、昔、父親が面倒を見ていた知人と会って情報を集めた。

 有益な情報が舞い込んだのは、そんなある日の事だった。

 昔父が懇意にしていた人物と会って話をしていたときであった。会話の中で美咲のアンテナに引っ掛かるものがあった。

 先ずは真偽を確かめるべく美咲は行動を起こすことを考え、小林に近付いたのであった。

彼の行動を調査し行きつけのバーを知った。

決行の日は、普段着ている男物の服をかなぐり捨て、この日のために購入したワンピースやハイヒールを身に纏う。昨日、カットしたヘアスタイルや爪に施したネイルとも良く合っていた。

 鏡で自分の姿をチェックし満足げに微笑む。これなら小林を落とせる。そう思った。

 計画通りバーで待っていると、何も知らずに小林が来た。矢張り小林が得の修復を請け負っていたことが判明した。

 いよいよだ、これからがリベンジの始まりだ。美咲は改めて気を引き締めるのであった。

 だが、リベンジに燃える一方では、琢磨への想いが益々募り始めていた。

 最近では彼の一挙手一投足が気になる、毎日でも逢いたい、強烈な思慕に身悶える。

 美咲にとってこれが初めての恋ではない。男性と関係を持つことにも抵抗なく、こちらから身体を開いたこともある。小林を誘惑することも平気だった。

自分の肉体などどうなっても良いと自棄を起こしていたからで、今になって浅薄だったと後悔する。そう気づかせてくれたのも琢磨だった。

彼のことならどんなことでも知りたい、育ちが良さそうで頭も切れるのに、どうしてこんな稼業を続けているのか……。

 彼は仕事が終わるとさっさとねぐらに帰る。しかも何処に住んでいるのか決して明かさない。長い付き合いの豪でさえ知らないらしい。どうしてそこまでプライベートを隠すのか豪に尋ねたことがある。

 絶対に口外するなと念を押して打ち明けてくれた琢磨の親の事件。具体的には教えてもらえなかったが、何か不祥事を起こしたらしい。そのせいで琢磨も就職出来なかったという。

どこへ行こうと、何をしようと犯罪者の息子と判った途端、人が離れていく。結局真っ当な仕事にありつけずこんなことを始めたようだ。

 その事実を耳にして美咲は何と自分の境遇に似ているのだろうと思った。自分との違いは、琢磨は自分の将来を滅茶苦茶にした父親を軽蔑し憎んでいることだった。

彼は私の事情を尋ねはしないが、複雑な事情を抱えていることはそれとなく感じているようだ。私も彼も同じように人生を狂わせられた、いわば同じ苦難を抱える同士ではないか。漸く判りあえる人と巡り会えた。

 このまま好きな人と一緒にいられるなら、過去の恨み辛みなどどうでも良くなってくる。同じ痛みを持つ者同士仲良く暮らしたい。

だったらいっそのこと、もう仕返しなど馬鹿げたことは止そうか……これからでも遅くは無い、自分自身のための人生を取り戻せるのではないか。近頃ではそんな考えが頭をよぎり始めるのだった。

 住職の教えが今となっては理解できた。世を恨み、人を恨むのではなく、無心の境地で座禅を組む。そして己自身を見詰める事。


 そんな或る日、美咲は漸く琢磨をデートに誘い出すことに成功した。

一緒に仕事をするうち琢磨も自分に好意を寄せているようだった。気のせいでは無い、女性として意識し始めているのが判る。そして何か通じるものを感じ、ゆっくり話をしたい様子だった。だから誘いに乗ったのだと思う。

 その夜は一緒に食事をし、お酒を飲んだ。終電もなくなり二人はどちらからともなく自然にラブ・ホテルの門をくぐった。

琢磨の優しい愛撫に美咲は肉体が蕩けそうな感触に包まれた。自分の中に琢磨が入ってきたときには、思わず彼の背中を強く抱きしめていた。幸せの絶頂感を覚え、何時までもこうしていたいと願った。

 二人は少しまどろんでは、再び愛を確かめ合うという行為を繰り返した。

ホテルを出たのは翌日の昼をとうに過ぎていた。互いにこのまま別れるのが辛く、その後横浜に出向き、赤レンガのビルズで遅い昼食を摂り、みなとみらいや山下公園を散策した。

 天気が良く、陽光を受けて波頭がキラキラと光っている。ベイブリッジの向こう、遥か彼方に陸地が見える。木更津だろうか……そんなことを考える。

 この青く煌く海を眺めていると、復讐など馬鹿げた行為に思えてくる。清々しい気持ちで潮の香りのする空気を胸一杯吸い込む。

 ゆったりと過ぎ行く時間に身を委ね、生まれて初めて美咲は心の安らぎを覚えた。

何時間でもこうしていたかった。愛する人が隣にいる。それだけで満足であった。

気がつくと太陽が沈み始め、夕闇が迫っていた。

 人影がまばらになったのを幸いに、二人は唇を重ねた。少し温度が下がり肌寒くなってくる。琢磨が美咲を強く抱きしめる。彼の体温を感じ、美咲は身も心も暖かくなる気がするのだった。

 中華街で夕飯を摂り、結局その日もインターコンチネンタルに宿泊することにした。

部屋に入るなり互いの身体を求め合った。少しまどろみ、再び貪りあう。飽くことない行為に、何だか新婚旅行のようだねと二人で笑いあった。

 ベッドで睦みあっているとき、琢磨が美咲の髪の毛が欲しいとせがんだ。ギリシャ神話か何かの書物で読んだそうなのだが、欧州では古くから大事な人の髪の毛をお守りにする習慣があるという。美咲は喜んで何本かの毛髪を彼に手渡した。

「ずっと大事にするからね」と彼が言ってくれた。

 今、この瞬間が幸せだった。それは幼い頃から世間の目を逃れながら鬱屈した日々を送ってきた美咲にとって、正直な自分を解放出来る時間であり、初めて味わう満ち足りた時であった。

 恐らく琢磨もそうであったのだろう。甘えるように自分の乳房に顔を擦り付けてくる琢磨が愛しくなり、美咲は琢磨を強く抱きしめるのであった。

 二人でいれば何も恐れることは無い、誰憚ることなく自分をさらけ出して生きていける。そう美咲は思ったのだった


第四章

            一

 磯村画伯の贋作事件を調べ終えた植草は、それが原因で自殺をした山下教授の家族の消息を追跡調査しようとしていた。

 特に消息不明の一人娘がその後どこに居て何をしようとしているのか、それが気になって仕方が無かった。

 過去の贋作事件では本物と鑑定した山下教授が信用を失墜した。その当時、教授と敵対

していたのは評論家の野崎である。

当時、野崎はきっぱりと贋作だと公言していた。あの一件以来、野崎は国内で最も優れ

た鑑定眼を持つと目されその名を高めたのだ。

 反対に山下教授は信用を失い、更にいわれの無い買収疑惑で世間から抹殺された。その噂を立てたのは誰あろう敵対する野崎であった。 

その野崎が、今回の贋作事件では修復された絵が贋作と見抜けずに絶賛して大いに面目

を失った。

 偶然とは思えない、植草には過去の事件のリベンジに思えるのだった。だからこそ山下教授の家族の消息が気になり調査を開始したのである。

 そして調査の結果判明した驚くべき事実。何と一人娘は美咲という名前らしい。車泥棒三人組の一人もミサキといった。これも偶然だろうか? 

いや、やはり偶然などではない。あの絵を見たときのミサキの表情を思い出す。絶対に何か知っていると気に掛っていたが、あの絵が磯村の手によるものだとすると線が繋がるではないか。

 今回の事件は過去の因縁に起因しているのではないか? 勿論それは可能性の一つに過ぎない、だが気になる以上そのままに済ませてはおけないのが彼の性分なのだ

 だが、磯村を恨みに思う美咲がどうして今頃になって磯村にそんなことをさせようとしたのか、一体何を企んでいるのだろうか。

 それともう一つ気に掛ることがある。その考え方だとこれまでに見聞きした事実から植草が推理した内容と整合性が取れなくなるのだ。大いなる矛盾が生じる。

 植草はこれまでの情報を今一度整理してみる。ミサキは、あの絵を見て表情を変え警察に届けるのを渋った。矢張り何かを知っている。それは明白だ。一方、純子達を車で追い、絵を取り戻したのは運転が巧く格闘技の心得がある奈緒とビリー。そして刑部建設の島本と純子は、ミサキが女性だと証言した。だが、純子は……。

 そして、殺害された小林の手に握られた毛髪から犯人は女性、しかも左利きの可能性が高いという。だが、ミサキは左利きではなかった。コジローが田沼の胸倉を掴んだとき、ミサキは右手でコジローを制した。OKサインも右手だった。

 こうして思い返しても、矢張り植草にはどうにも引っ掛かる点があった。この矛盾を解明するためにも、美咲本人のことをもっと詳しく知る必要があると思った。

だが、家族は東京の屋敷を引き払い夫人の実家がある栃木県に移っていた。

無駄足ならそれでも良い、兎に角残された家族が現在どのように生活しているのかそれを確かめたかった。

 早速、植草は現地に飛んだ。常磐高速道を北上、水戸北スマート出口で一般道に降り国道123号を那珂川に沿うように走り続ける。

 漸く目的地に着いたときは、出発してから三時間が経過していた。

 到着した場所は、四方を山に囲まれた小さな町であった。

 昼時で空腹を覚えたが、レストランはおろか食堂の類も周辺には見当たらなかった。漸くコンビニを見つけパンでも買おうと車を見せの駐車場に乗り入れる。

都会のコンビニはバイトの若者が多いが、レジカウンターには数十年前は若者であったろう中年の女性が立っていた。

 丁度良かった、植草はパンと牛乳を買い求めつつ、その女性に話しかけた。

「川又さんの家はどのあたりかご存知ですか」

「川又だけじゃ判らねえべ。この辺りは川又さんだらけだもんで、そこらあるってたっけ、川又にいきあう」

「へえ、そんなに多いのですか。僕が探しているのは川又文四郎さんです。東京に嫁いでいた妹さんがこちらに戻ってこられたはずなんですが……」

「ああ、文さんとこだっぺよ。ならこのすぐ裏だ。妹の芳江は何だか偉い学者に嫁いだもんの、旦那が死んじまって戻ってきたんだべ」

「確か娘さんも一緒に戻ってこられたと思うんですが」

「ああ、美咲ってきかねえ不良娘だ。同級生を三人うっちゃって、一人は歯がおっかけたらしい。したっけPTAが大騒ぎして美咲はぶすくれて家出しちまったべ。今は何処におるか誰も知らん」

「暴力沙汰を起こしたのですか?」

「ああ、それも女子じゃねえ、男子生徒三人だ。ちょちょらじゃねえべ、おっかねえ娘だ」

「ちょちょら?」

「嘘や冗談じゃねえってことだべ」

「あ、そういう意味ですか」

 植草は店員女性の方言満載の会話についていけないでいた。

 その時、若い男性客が入店してきた。

「お、丁度ええ具合に吉雄が来た」店員の女性がそう呟くと声を張り上げて若者に声をかける。

「吉雄、おめえ山下美咲とクラスが一緒だったっぺ?」

「ん? ああそうだけど随分前の話だな」

「このお客さんが美咲について聞きてえんだと」

「はあ? あいつのことなんか知んねえよ。あんだけの暴力事件起こしといて家出しちまった奴のことなんか知らねえっつうの」

「その事件についてはお店の人から伺ったけど、原因は何だったの?」

 そう尋ねる植草の顔をまじまじと見詰めて吉雄が応える。

「さあ、あいつは親父のことでイジメに遭ってたんだけどよ、美人だし頭も良かったから男子のほとんどは内心好もしく思っていたんだ。あいつら三人も良からぬチョッカイ掛けようとしたんじゃね。イジメくらいならあいつはじっと耐えてたかんね、よっぽど腹に据えかねたんじゃねえかな。てか、これは噂だかんね、俺も現場に居たわけじゃねえし。それよかあんた、誰なんだい」

「僕のことはいいさ。話してくれて有難う、何が起こったか大体想像がついたよ」

 改めて二人に礼を述べて植草は店を出ようとした。

「あんた、川又さんちに行っても無駄だよ」

 その言葉に植草は振り替える。

「芳江はおらん。死んじまったからな」

「それはいつのことですか」

「あれは……三年前かのう、那珂川の支流で水死体で発見された」

「事故ですか」

「どうなんだかなあ、事故なんだか自殺なんだか……結構ここに来てたみたいじゃったけど」そう言って店員の女性が自分の頭を指した。


 それからも近隣への聞き込みを続けたが、新しい情報は得られなかった。

判ったことといえば、美咲は高校卒業を目前にして家を出て行ったきり行方知れずになっていることと、残された母親は村八分同然の扱いを受け、それを苦に自殺したのではないかということだった。

 街中の自動販売機の前で車を止め、缶コーヒーを飲みながら休息をとる。

 やはり思ったとおりだった、恐らく美咲は復讐のために都内に舞い戻っている、そう確信した。

 コーヒーを飲み終え、帰途に着こうとした時であった。一台のGTRが猛スピードでこちらに向かってきた。

 派手にブレーキングしながら車はミニの前に覆いかぶさるように止まった。

「あんたか? 吉雄や婆さんに美咲のことを聞いてたってのは、よう」

 運転席から柄の悪い男性が植草に声を掛けてきた。

「何年か前にも嗅ぎまわっていたブンヤだろ?」

 凄んだ口調でそう言って、植草を睨みつける。

「別に嗅ぎまわってはいないが、消息を追っている。前に記者が取材に来たことが有るのかい?」

「あんたじゃ無えのか。その野郎はよう、取材に来たのか、余計な話しを有ること無いこと広めに来たのか判らねえ奴でよう。あいつの父親が山下教授だってことだの、その父親がノイローゼで首吊り自殺しただの、娘の美咲は渋谷でヤンキーだったの、チーマーと誰彼の区別無く寝てただの悪い噂を広めて行きやがった。だから、そいつならぶっ飛ばしてやろうってんで、追っかけてきたんさ」

「そんなことが有ったのか。だけど、教授が亡くなってからもマスコミが追いかけているなんておかしいとは思わないかい」

「え、どういう意味だよ」

「その記者は怪しいね。取材をするために来た記者が、情報収集もしないで、自分の持っている情報をベラベラ喋るわけが無いだろ?」

「そう言われれば……じゃあ、あいつは何者なんだよ」

「さあ、僕に聞かれても皆目見当もつかない。けれど僕はそんな種類の人間じゃない、心配はいらないさ。僕は美咲さんが心配で消息を知りたいだけなのさ。ところで、君は?」

「俺か? 俺はあいつのマブダチの坂崎ってもんよ。あんた、何で美咲のことを調べてんだい」

「君は今時間が取れるかい。此処で立ち話でもないだろうから何処かでお茶でもしながら話さないか」

「そうだな、サーキットにカフェがあるから、そこまで先導するよ。付いてきな」

 県道を暫く走ると広大なサーキット場が見えてきた。

先導するGTRが敷地をぐるっと迂回して第一パドック駐車場に乗り入れる。

 坂崎が車を駐車してエンジンを切るが、GTRはターボが切れるまでアイドリングしている。

「どうだい、凄えコースだろ。俺もジムカーナで走ってるんだぜ」

「ほう、君はレーサー志望なのか」

「それがよ、出場してみて上には上がいるって痛感した。俺はレーサーよりやっぱり裏方で整備しているほうが似合っている。でもよ、一度美咲に走らせたかったなあ」

「彼女が?」

「そうさ、運転は俺が教えてやったんだけどよ、俺よか遥かに上手くなっちゃったよ。あいつは頭も良いし何をやらせても凄えんだ。武術でも歯が立たねえしよ」

「彼女が……格闘技も身に付けているのか?」

 この話は意外であった。ドライビング・テクニックばかりか格闘技の心得もあるとなると……植草が考える暇もなく坂崎が答える。

「そうさ、少林寺だ。おっと、とりあえず店に入ろうぜ」

 目の前には「グランツーリスモ・カフェ」という看板が掲げてあり、二人は店へと入っていった。

 坂崎から当時の美咲の様子を聞いた植草は、彼女が国公立の大学進学の夢を諦めたことや、学校でいじめに遭っていつも一人ですごし、親しい友人も居なかったことなどを知った。

「君は彼女が今何処に居るか知っているか?」

「いいや。たった一度、東京にいるってメールが届いたっきり、それ以降は連絡も寄越さねえ。こっちは心配してるってのによ」

「そうか……彼女が心配なのだ。このままでは彼女は犯罪を犯す。意や既に犯しているのかも……そうなる前に彼女を見つけたかったんだが」

「何だって、美咲は何か厄介事に巻き込まれてんのか?」

「君も知ってのとおり彼女の父親は贋作騒動で失脚して自殺した。彼女は父親が自殺を図ったのは、反対派に追い込まれたせいだと思っている。だから彼等や騒動の元凶たる磯村画伯に対してリベンジをしようと考えているようなのだ」

「そうか。でもよ、あいつはリベンジなんてしねえと思うぜ。あいつはいじめに遭おうが進学を諦めざるをえなくなろうが、愚痴一つこぼしやしねえんだ。いつも泰然としていて肝が据わっていやがんだ。でもよ、そんなあいつも一度だけ怒りに駆られて暴力を振るっちまったことがあんだ。優等生づらした同級生三人に突っ込みされそうになった時さ」

「突っ込み?」

「強姦のことだよ。さすがにあいつもそん時ばかりは自分を守るために三人をのしたのさ。けど、理由はどう有れ暴力を振るって相手を傷つけちまったのは事実だろ。その内の一人は前歯二本を折られ鼻の骨も折れたってんだから親はカンカンよ。あいつん家に怒鳴り込むは、PTA総会でも大問題になるはの大騒動でよ。とうとう美咲は家出しちまった」

「やはりそんな事が有ったのか。さっき吉雄って若者にチラッと聞いたが……」

「でもよ、あいつは悔やんでいたぜ。武道をそんなことに使った自分が悪かったってよ。あいつは俺にも武道を暴力には使うなっていつも諌めてたくらいだかんな。あのまま黙って犯されたほうが良かったのかなって真剣に俺に聞くんさ」

 そこまで喋って、感情が激したのか坂崎は顔を真っ赤にして大きく息を吸う。

「冗談じゃねえって思うだろ? 気にすんな、おめえはちっとも悪くねえ、元気出せよって言ってやったんだ。そんなあいつがリベンジなんて考えるはずがねえ」

「だが、小林という画商が殺された」

「そ、それって銀座の画商殺しってやつか?」

「そうだ、彼女が犯人と決まったわけじゃないが、可能性は濃厚だ。だからこそ急いでいるのだ。で、強姦未遂の話はいつ聞いたのだい?」

「家出した日に俺が下館駅まで送ってやった。突然のことだったんで俺はどうしてだって理由を聞いた。最初は言い渋ってたけど俺が余りにしつこいもんだから、とうとう事情を聞かせてくれたのさ。そん時東京に行くって言ってた」

「そうか、そして東京に出てから、連絡は一度きりって事だ。君にも彼女の行方は判らないようだね。仕方ない他をあたるとしよう」

 そう言って植草は立ち上がりかけたが、坂崎に重要なことを聞くのを忘れていたのを思い出した。

「君は美咲さんの写真を持ってないかい?」

 その言葉に坂崎は一瞬躊躇したが、はにかみながら携帯電話を取り出す。

「ほら、これが彼女さ。こっそり隠し撮りした割りには良く撮れてんだろ」

 携帯の待ち受け画面には、横顔の女性が映っていた。恐らく運転中の彼女を助手席から捉えたものだろう。

 その顔を凝視して植草は息を呑んだ。やはり……そう思った。

「有難う、はるばる此処にまで足を伸ばした甲斐があった」

 今度こそ立ち去ろうとすると、坂崎が慌てて留める。

「あんたにお願いがある。もし美咲の居所が掴めたら俺にも教えてくんねえか」

「いや、たとえ僕が知りえても、勝手に教えるわけにはいかないだろ。美咲さんに君が心配しているから連絡するように伝えるよ。それで良いだろ? 首尾よく見つかればの話だけれどね。そうだ、逆にもし君に連絡が来た場合は直ぐに電話をくれるかい」

 植草は坂崎に自分の名刺を渡すと、喫茶店を出ていった。


           二

 都内の或る街、近くに大学があるため学生向けのアパートやマンションも多く存在する。ミサキはそんな物件に居住していた。

 両隣や上下の部屋も学生が住んでいる。そのほとんどが隣人などに興味がない上に滅多に顔を合わすことも無い。廊下で行き会っても挨拶も交わさない。ミサキにとって都合の良い環境が気に入ったのだ。

 パソコンに向かうミサキは画商殺人事件の情報を漁っていた。

 重要参考人と目された女性事務員については、警察も犯人ではないと考えているようだ。だが、被害者が手に掴んでいた毛髪のDNA鑑定の結果、その他の女性関係の割り出しを始めた。

 被害者は交際が派手で画廊の女子事務員や六本木のキャバクラ嬢などと深い仲であり、他にも動機のありそうな女性が次々と判明し、その割り出しに難航していた。

 ところが、今度は闇の故買ルートの仕業では無いかと捜査の方向を大転換した。警察も迷走しているようだ。これはまだ当分時間が稼げそうだ。

 ミサキはパソコンから目を上げフッとため息をついた。それからおもむろに外出の支度を始めた。

 この状況では当分我々に目は向かないだろうが、アジトに置きっぱなしのパソコンのデータを消し、ヤバイ物も処分しておいたほうが良いと判断したのである。

 アジトに向かいながら思う。それにしても小林という男はとんでもない奴だと……妻や子供が有りながら多数の女性と関係を持っているなんて、それも半ば強引な手口で。記事に目を通すだけでムカムカしてくる。こんな下司な輩が芸術作品を扱うなんて許せない。この男は死んでしまったから天罰が下ったのだ。だが他にも大勢、画壇に巣食い甘い汁を吸う奴らがいるのだ。断じて許せない。

 ミサキはアジトに着いてからも、そんな想いを強めながら、次の一手を考える。

その時、携帯電話が着信を知らせた。 


 三人組の指名手配書を配布したお陰で捜査本部には一般市民から多くの情報が寄せられていたが、こちらの捜査は今井班が主に捜査する事となった。

 築地署から出てきた今井刑事に、待ち構えていた栗橋が声を掛ける。

「どうですか、捜査の進捗は?」

 見知った顔を見て気が緩んだのか、彼にしては珍しく笑顔になった。

「よう、栗橋じゃないか」

「わざわざ築地まで毎日大変ですね」

「そんなことは一向に構わんが、捜査は最悪だ。刑部の線から小林に辿り着いたっていうのに、俺たちがしょっ引く前に始末されちまったんだからな」

「捜査本部では小林をやった女の背後で闇ルート組織が関与しているとの見解なんでしょ? 自分たちにまで捜査の手が伸びないように愛人を利用して小林を抹殺したって考えてる訳ですね」

「余り詳しくは言えんが、お偉方さん達はそう睨んでいるようだ。これで闇ルートを摘発できれば大手柄だからな。奴さん達、手柄は捜査一課で独占しようと考えているのはミエミエだ。俺たちには三人組の目撃情報の裏取りを押し付けやがった」

「三人組の? でも今井さんはミサキの犯行と睨んでいるんでしょ、丁度良かったじゃないですか」

「ああ、その考えを捜査会議でも披露したが一笑に付されちまった。田舎警察が的外れな推理をしていると馬鹿にしてやがるんだ。今に見てろってんだ」

「それでこれからどちらに?」

「一般市民からの情報も大半はガセが多くて、無駄足を踏んでいるが、それでも確認せん訳にはいかんからな。今朝もM市の駅前のマンションでコジローに似た男性を見たって管理人からの通報があった」

「M市ですか、K署から直行したほうが早いのにご苦労様です」

「全くだ、報告が有るからM市からK市を通過して又都内に戻ってこなきゃならん。直行直帰したほうが時間の無駄も省けるんだがな……」

 そう言ってM市に向かった今井と部下であったが、そこにはまたもや死体が彼等を待っていた。 


           三

 あれから既に一週間、指名手配されたこともあり、暫くはなりを潜め大人しくしていたコジローであったが、何処にも出かけずねぐらのアパートに引きこもっているのにも飽き、体がウズウズするのであった。

 あれ以来、二人からは何の連絡も無い。いつもならそろそろアジトに召集が掛る頃だが、一体二人は何をしているのだろう……。

 それにしても最近、琢磨の様子がおかしい。いや、美咲を仲間に引き入れた頃からだ。

元々メンバーは男性二人であった。ひょんなきっかけから美咲が加わることとなったのだ。

 彼らが盗む車は新車ではなくエンスーが好むような過去に名車と評価された車である。そういった顧客を持つ盗難車市場からの依頼を受けて仕事をするのだ。古い車が多いので、当然鍵も電子キーではないし防犯システムも装備していない。だからこれまでは二人で仕事をこなしてきたのだが、最近は後付けの防犯システムやハンドル・ロック、タイヤ・ロックなどで自衛する所有者が増えてきており、仕事がやりにくくなっていたのは事実で、美咲の参加は正直有難かった。だが、そもそもどうして彼女を仲間にしたのか。最近彼女と何か有ったのは、美咲の態度を見ていれば判る。

 しかし、彼女と深い関係になりたくて仲間にしたとは思えない。琢磨は一体何を企んで

いるのか? 

奴とは幼馴染で中学までは一緒だった。父親の事でいじめを受けるあいつをガキ大将の俺がいつも庇ってやったもんだ。

それからは互いに別の進路を歩んだ。再会したのはひょんなきっかけだった。


ある日、夜遅くアパートに帰る途中の住宅街の一角で、じっと佇んでいる人影があった。こんな夜遅くに何をしているのかと気になり、その男性の顔をチラット見た。その顔を見て少なからず驚いた。忘れもしない幼馴染の顔がそこにあったのだ。

「琢磨じゃないか?」

 俺が声を掛けると、相手も俺の顔をじっと見詰め、相好を崩した。

「豪か、こんなところで何をしているんだい」

「それはこっちの台詞だ。お前こそ何をしている。俺はこの先のアパートに住んでるんだ」

 琢磨は周辺を見回し、声を潜めるとこう言った。

「仕事なんだ、ここで立ち話するのは少々まずい」

 仕事? 何の仕事なのかと尋ねたかったが、立ち話は不味いというので、汚いが俺のアパートに来いよと強引に誘った。

 途中、コンビニで缶ビールとつまみを買い、ねぐらに戻る。

「とりあえずは再会を祝して乾杯しようぜ」

 俺がビールを満たしたグラスを琢磨に手渡す。

 型どおりグラスを合わせ一気にビールを流し込む。

「さっき仕事だと言ってたが、夜中に何の仕事をしてんだ?」

 豪の問いかけに、琢磨は一瞬話すかどうか躊躇する様子であったが、やがて重い口を開いた。

「僕が高校を卒業してT工大に進んだのは知ってたよね。情報工学を専攻して将来はコンピューター関係に就職しようと思っていた。三年になって就活したけど、知ってのとおり親父の事件がネックになってどこも採用してくれなかった。已む無く始めたのが今の仕事さ」

「だから何をやってんだよ、勿体ぶらず教えろよ」

「車泥棒さ」

「車泥棒……って犯罪じゃないか」豪が素っ頓狂な声を上げる。

「そうさ、だから余り言いたくは無かった。親父のせいでとうとう犯罪者になってしまった。惨めだろ?」琢磨が自嘲気味に言う。

「コンピューターのことなら得意だから、運輸省にハッキングして車種とその持ち主を調べ上げる。そうやってターゲットを絞り込んで盗むのさ」

「……ってことは、さっきは狙いをつけたカモの下見をしてたって訳か?」

「そういうこと」

「うーん」と唸って豪が暫し考え込む。やがて意を決して琢磨に話しかけた。

「俺も仲間にしてくれよ」

 今度は琢磨が驚いて飲んでいるビールで咽る。

「冗談で言ってんじゃねえぞ。俺も将来への希望が潰えちまった。今もプータローで困ってんだ」

 それから豪は自分に起きた不幸な事故のことを琢磨に話して聞かせた。

「俺の目標は世界大会やオリンピックの強化選手になることだった。だがあの事故で柔道階から身を引かざるを得なくなった。ふざけんなって、俺から柔道を取ったら何が残るってんだ。それからの俺はもう抜け殻のようなもんだ」

「そんなことが有ったのか、豪も大変な目に遭ってたんだ」

 この男も運命の悪戯に翻弄された一人だったのか。

こいつはいじめにあう俺をいつも庇ってくれた心根の優しい男だ。そしてスポーツマンとして柔道の練習に励み、肉体の鍛錬に努めていた。この男ならオリンピック選出も夢じゃないと思っていたし、本人もそのつもりであったはずだ。それなのに練習の最中に事故とはいえ人を死なせてしまった。

責任感の強い男だけに随分と悩み苦しんだことだろう。結局、その状況から立ち直れないでいるのだ。

 暫く考え、琢磨は口を開いた。

「判った、人生に挫折した者同士だ、一緒にやろう」

 十年余の空白期間があったとはいえ、幼馴染からの長い付き合いだけあって、二人の心は直ぐに通じ合った。

 そしてそれからコンビとして活動を開始した。何も言わなくとも心が通じ合う阿吽の呼吸でこれまでドジを踏むことなくやってきた。仲間内でもその確かな手腕が噂になり依頼主も着実に増えだしていた。全てが順調であった、少なくともこれまでは……。

 暫く寝そべって考えていたコジローであったが、決心したように立ち上がる。

こっそりとアジトの様子を窺いに行くことにしたのだ。

 アジトはM市駅前にあるが、三人の居住場所は互いに知らせていない。誰かが捕まったときの用心だけでなく、仲間であってもプライベートを詮索されたくないからであった。

 一旦都心に出たコジローは私鉄でアジトに向かう。

 あれ以来髭を生やし始めたので、少しは人相の印象が違うとは思うが、用心に越したことは無い。帽子を目深に被りサングラスも掛けた。

なるべく正面から顔を見られないように気を配る。百九十センチ近くある体躯は人ごみでも目立つし、手配書の似顔絵も酷似しているからだ。

 途中で何度も尾行されていないか歩みを止め後ろを窺った。電車もわざと一本見送ったりもした。そうしてやっとアジトに辿り着いたコジローは、部屋の鍵を開けようとして既に開錠されているのに気づいた。

 おや、ビリーやミサキがいるのだろうか、それとも……用心に越したことは無い。

コジローは足音を忍ばせそっと室内に侵入した。

リビングのほうでぼそぼそと話し声がする。コジローは静かにそちらに歩み寄った。

「だから殺すしかなかった。小林を生かしておくと、あんたに捜査の手が伸びるのも時間の問題だ。現に警察は刑部のルートを辿って小林に辿り着いた。一歩遅けりゃ危ないところだったんだ。逆に感謝して欲しいくらいだ」

 電話口で話す内容を盗み聞きしていたコジローはハッとする。

 今確かに小林と聞こえた。小林……昨日銀座の画廊のオーナーが殺されたとテレビのニュースが報じていた。あの小林なのか? 

刑部が所有していた油絵は小林画廊から入手したって事か。それにしても何故奴が……。

 考えが纏まらないうちに体が先に動き、コジローはリビングに踏み込んだ。

「おい、どういう事だ。まさかお前……」

 相手は驚きもせず携帯電話を仕舞うと静かに言った。

「心配させて悪い。でもこれはすべて自分の責任だ、二人にはこれ以上迷惑は掛けない」

「いや、謝らなくていいから説明しろよ。さっぱり訳が判らない。どういうことなんだ」

「判った。判ったからそう興奮しないで、ソファに腰を落ち着けなよ。丁度コーヒーを淹れたから、飲みながら話をしよう」

 そう言って相手はキッチンに向かいかけるがコジローが制する。

「いや、俺が入れるよ。お前こそソファに坐って話の続きを聞かせてくんねえか」

 そう言ってコジローはキッチンに向かうと相手に背を向けコーヒーカップを二つ食器棚から取り出しコーヒーを注ぎ始める。

「実は以前から小林が贋作依頼をした事は知っていたんだ」

「何だって」思わずコーヒーを注ぐ手を止めコジローが振り替える。

「いいから先ず話を聞いてくれないか、質問は後から受け付けるよ」

 相手の言葉に無言で頷きコジローは再びコーヒーを入れ始める。

 と、突然脇腹に焼けつく痛みを感じる。いつの間にか死角となる左後方から相手が忍び寄ってきていた。

「ど、どうして俺を……」

叫ぶなり、コジローは反射的に持っていたコーヒーポットを背後に投げつけ、左脇腹を見る。サバイバル・ナイフが深々と押し込まれていた。

 ポットを投げつけられた相手は怯むことなく、柄を握った手を思い切り捻る。

その激痛に溜まらずうめき声を上げ、腰砕けになるコジロー。

相手がナイフを抜くと皮膚や内臓の一部がこびりついていた。

返り血を浴びないようにテーブルクロスを蹲るコジローに覆い被せ、首にナイフを突きたてた。 

 そうやって止めを刺した後、相手は一目散にその場を去っていった。


 M市のマンションから人物が一人、急ぎ足で出てくる。それと入れ違うように二人の男が玄関をくぐり管理人に声をかけた。今井刑事とその同僚である。

「手配中のコジローを見たって話しでしたよね」同僚の吉田が管理人に話しかける。

その間、何気なく出て行った人物に一瞬目を留めた今井であったが、コジローとは余りにも体格が違うので気にも留めず、管理人の案内で目指す部屋へと向かった。

 目的の部屋はドアが開けっ放しになっていた。異常を察知した刑事たちが慌てて部屋に突入する。二人が発見したのは血まみれで既にこと切れているコジローの死体であった。

今井がハッと思いつく。さっき出て行った人物……ビリーじゃないのか? 

 急いで部屋を出て行く今井。

「どうしたんですか」吉田も後を追う。

 玄関を飛び出した今井が道路の左右を見るが、既に時遅くビリーの姿は消えていた。


 逃走する車の中でビリーはコジローが死んだことをミサキに話して聞かせた。

「ミサキとの待ち合わせより早く着いたので、部屋で待っていようと中に入ってコジローの死体を発見した。このままじゃまずいと急いで出てきたところへ刑事らしき二人連れがやってきた。危ないところだった。しかし、コジローはどうしてアジトにやってきたのかな? 彼には召集をかけていなかったんだろ?」

「ああ、一体誰に……それにアジトがどうして警察にばれたんだろう。この状況じゃ、ねぐらに戻るのも危険だね。これからどうする?」ミサキが言う。

 ビリーはそれには答えず違う質問をする。

「ミサキは何故、警察がやってくると判った?」

「いや、判らなかった。アジトでおち合う約束をしていたからやって来たんだけど、何やら血相変えてマンションに入っていくスーツ姿のおっさんの二人連れを見たので、もしやと考えた。そうしたら入れ違いにあんたが玄関を出てきたって訳」

「そうか」そう答えたきりビリーは、むっつりと黙り込んでしまった。ミサキも沈黙したまま運転に専念していた。


 なんて事だ。小林に続きコジローまで……これで犠牲者が二人も出てしまった。当初の計画では磯村に罰が下れば良いと考えていただけで、殺人など考えてもいなかった。誰も傷つけず、誰にも迷惑を掛けずに済むはずだった。

 それなのに計画はどんどん狂いだし、既に自分の意思を離れ、勝手に進行しているみたいだ。そして事態は益々悪化していく。どうしてこんな事態になってしまったんだろう。


 沈黙を破りビリーがミサキに質問を投げかける。

「これからどうする? 警察は思った以上にうちらに肉薄してきている。もうアジトには戻れないし、ねぐらが嗅ぎつけられるのも時間の問題だと思わね?」

 ずっと沈黙していたミサキが、やっと口を開く。

「仕方が無い、蓼科に行こう」

「蓼科? 当てでもあるのか?」

「余り気が進まないけど、暫くは身を隠せるはずよ」それだけ言うとミサキは再び口を噤んだ。


           四

 美咲の調査を終えて東京に戻ってきた植草は、これまでの情報を整理し、あらためてじっくりと考える。

 三人組の一人は女性である事、これは刑部建設の島本と絵を盗もうとしたキャバクラ嬢の純子が証言している。ミサキの女性姿を間近に見た島本の証言から彼女の似顔絵が作成された。だが、当初から植草は、そのことに引っ掛かるものがあった。

 そして美咲の実家に出向いた。そこで知り合った坂崎が話してくれた美咲の事。

彼女は少林寺拳法の全国大会で準優勝したほどの腕前であり、ドライビング・テクニックも抜群であるらしい。

 やはり思ったとおりであった。そこで植草は坂崎に美咲の写真を見せてくれと頼んだ。坂崎の携帯に残る美咲の顔。その顔を見て、漸く疑問が氷解したと植草は思った。

やはり自分の推理は間違っていなかったと確信したのである。

だとすると、残る疑問は……あの絵を見たときのミサキの反応。何か事情を知っているに違いないのだが……では、あれは誰なのだ?

 植草は、やおら立ち上がるとパソコンの前に行く。

 どうしても磯村の家族についても調べる必要があると考えたのだ。

 磯村は贋作事件が原因で日本に戻ってから離婚をして行方をくらませている。だが、離婚した妻との間に一男一女をもうけていた。当然一家は妻の旧姓に戻していると見られる。その苗字が判らなければ調査のやりようが無い

 現在は個人情報保護のため、かつて磯村が居住していた該当地域の役所に出向いても他人の住民票は閲覧できない。植草はネットで国立国会図書館にアクセスし、人名辞典や紳士録などを片っ端から検索を開始した。やり始めて思ったほど簡単ではないことに気づく。様々な人名録があるがなかなかヒットしない。

 駄目かと諦めた頃、日本の美術家年鑑でやっと磯村の名前を見つけ出した。

学歴、経歴、主な作品などが記載された後に家族構成が記載されていた。妻の旧姓を見て植草はモニターから顔を上げた。

「そうだったのか……これで漸く事件の全貌が見えてきた」

植草が思考に耽っている、そのときであった。栗橋が血相を変えて植草家にやってきた。

「大変だ、真一。コジローが殺された。奴らのアジトが判明して今井刑事が乗り込んだんだが、一歩遅かったようだ。アジトからビリーが逃げ出すのを見たそうだ」

 栗橋が一気に喋る。

「しまった、遅かったか」植草が眉根を寄せて悔やむ。

「おい、ちゃんと聞いてるか。ミサキじゃないぜ、ビリーなんだ。一体どうなっているんだか訳が判らない」

 理解に苦しむ栗橋に植草が説明を始める。

「いや、ビリーでいいのさ。本名は山下美咲、山下教授の娘だ。彼女こそ一連の計画を立て、それを遂行した犯人だ」

「何言ってんだ? 山下美咲ならミサキじゃないのか? 美咲なのにビリー?」

暫し混乱する栗橋だったが、考えても判らないので植草を問い詰める。 

「でもどうしてビリーが女だと判ったんだ? ビリーって綽名だから、てっきり男だと思っていた」

「ビリーだからって男性と決め付けちゃいけない。覚えているかい? インプレッサのカーオーディオからレディ・デイの歌声が流れていた。あの時誰がレディ・デイを好きなのか尋ねたが誰も返答しなかった。レディ・デイはビリー・ホリデイの愛称なのだ。おそらく彼女が好きなのだろう、それで綽名をビリー・と付けたのだと思う」

「しかし、刑部建設の島本も、絵を盗もうとしたキャバ嬢の純子もミサキが女だって証言していたじゃないか」

「恐らく世間の目眩ましとして男女役を入れ替わっていたのだ。ミサキは華奢な体つきの美少年だ、女装すれば誰も男だと思わないだろう。だから刑部建設の島本は女装したミサキを女だと見誤った。同様に運転手田沼の愛人だった純子も三人組の一人は女性だと証言した。しかし彼女が女性と言ったのはミサキのことじゃない、ビリーの事だ。いいかい、純子が間近で接触したのは奈緒とビリーだけだ。僕たちと一緒に後から駆けつけたミサキの顔はちらっと見ただけだ。そんな純子がはっきりと一味の一人が女性だと証言した。何故女性だと確信したのか僕には引っ掛かった。あの時、逃げる純子をビリーは後ろから羽交い絞めにしたと奈緒が話していただろ。良いかい、羽交い絞めだよ。当然、背中にバストを強く押し付けることになる。だから純子には女性の体だと判ったのだ」

「そうか、だからその証言を聞いた真一はあの時、体が密着するなあと呟いて考え込んでいたのか」

栗橋はそのときの様子を思い起こした。

「それだけじゃ無い、聞き込みをしていて判明したのだが、彼女は格闘技の心得がある。少林寺拳法だそうだ」

「あ、そういえば奈緒サンはビリーが油断して礼二に倒されたとき、私が手出ししたのは余計なお節介だったかもって言っていたな。それだけ腕が立つってことか」

「奈緒も武闘派だからね、恐らく同類の臭いがしたんだろう。更に彼女はレーサーを目指すほど、運転のテクニックも抜群なのだそうだ」

「それじゃあ、やっぱりビリーに間違いないな」

「ああ、僕は山下美咲の写真も見た。そこに写っていたのは紛れも無くビリーだった。覚えているかい、雄太はTホテルから謎の女性が忽然と姿を消したと不思議がっていただろ? あの女性はビリーだったのさ。ホテルを出るときは普段どおり男装して、ビリーの格好で堂々と出て行ったのさ」

「だから真一は、シンデレラは真夜中を過ぎるといつもの姿に戻るといったのか」しきりに頷く栗橋であった。

「それよりコジローが殺害されたとなると悠長にしてはいられない。今度はミサキの命が危ない。ビリーもミサキもまだ身柄確保されていないのだろ?」

「そうなんだ、二人で車を使って逃走したようだ。警察も直ぐに幹線道路に非常線を張ったが、まだ見つかってない。既に県外に出たかもな」

「判った、僕は至急彼等の立ち入りそうな場所を調べてみる」

「当てでもあるのか?」

「ああ、だが無駄足になるかも判らない。運良く行き先が判明したら連絡を入れるから、雄太は今井刑事と合流してくれるかい」

 植草は以前愛が話していたことを思い出していた。たしか彼女が話していたその人物の名前……植草は急いで愛に電話をするのだった。


          五

 愛に連絡を取った植草は彼女の案内で実家付近を訪れた。

「あれが私の家」愛が指差す方向に瓦葺の和風建築が見える。

「実家に寄って行きますか?」

 植草の問いに愛が慌てて首を振る。

「とんでもない、真一さんを連れて行ったら、気の早いママが絶対に勘違いするわ。愛もとうとう良い人を見つけたのね、って」顔を赤らめてそう応える愛。

「別にそれならそれで僕は一向に構わない」植草がぼそっと呟く。

 だが、残念ながら愛の耳には届かなかったようで、彼女はずんずんと歩いていく。

やがて一軒の家の前で立ち止まった。

「このお家です」そう植草に声を掛けながらインターフォンを押す。

 愛の実家とは対照的に瀟洒な洋風建築であった。門から玄関まで小さいながら英国庭園を模した庭が広がっている。

今は夏だから盛りを過ぎてしまっているが、五月頃なら薔薇が咲き誇って、さぞ美しいだろうと植草は思った。

「真一さんはここの娘さんが今度の事件に関係が有るって思っているのですか?」

 応答を待つ間に愛が植草にそう尋ねる。

「いえ、確かめたいのは兄の方です」

「え? でも男性ですよ」

 それに答えようとしたとき、玄関から中年の女性が出てきた。

 愛の顔を見るなり相好を崩す。

「愛ちゃん、久しぶりね。でも元気そうで何より」

「おばさんこそ、お変わりなく」

 再会に手を取り合って喜ぶ二人は、しばし世間話をする。

 脇で二人の会話を聞きながら、植草は思う。

 この母親は、今世間を騒がしている贋作騒動や銀座の画商殺しに、まさか自分の別れた夫や息子が関係しているなどとは夢にも考えていないだろうと。そう思うと愛と屈託なく再会を喜ぶ笑顔を見るのが辛くなる。

「それで、今日は何か?」

「いけない、そうだった。たしか娘の響子さんはご結婚されて札幌にいらっしゃるのでしょ。琢磨君の方は? 大学卒業後も東京に居らっしゃるのかしら、連絡を取りたいのだけれど」

 その質問に女性は顔を曇らせる。

「あの子の事はもう諦めたわ。そりゃあ父親のせいで就職が決まらなかった気持ちは判るんだけどね……それ以来引越しをしたようなんだけど、電話の一本も寄越しやしない。何処でどんな暮らしをしているのやら」

「そうですか……ねえ、おばさん。琢磨君のお部屋はそのまま?」

「ええ、響子は嫁にいってしまったんで荷物も総て無いけれど、琢磨はいつかは戻ってきてくれると思うから、何も手をつけないでそのままにしてあるけど?」

「悪いんですけど、もし良かったらお部屋を拝見できないかしら」

 母親は快く了承し、二人を二階にある部屋に案内した。

「でも連絡先の手掛かりになるようなものは無いわよ」

 母親の相手は愛に任せて植草は部屋の中を見回す。

 窓際の左手に勉強机が有り、右手の壁沿いにベッドが配置されている。若い男性の部屋にありがちなアイドルのポスターやビキニ姿のピンナップなども貼られていない。

 家具はすべて金属製、ローテーブルや椅子の脚もスチールパイプで、日差しを受けて鈍く輝いていた。

 どちらかといえば無機質で冷ややかな感触のする部屋であった。だが植草は家具の配置に何かしら違和感を覚えた。

 何気なく机を見る。机の右側に照明スタンド、中央にはカバーに収納されたノート・パソコンが置かれている。

 何だろう、今確かに違和感を覚えたのだが……。

パソコンの手前に無線対応のキーボードがあり、パソコン・カバーの上に同じく無線対応のマウスが乗っかっている。植草はそのマウスを取り上げ尚も考える。

暫くマウスを手の中で弄び、今度は目を左に転じてベッドの上に飾ってあるパネル貼りしたイラストを見詰める。

「この絵は琢磨君が描いたものですか」

「ええ、あの子も父親の血を受け継いだのか絵が得意でね、でもそれを言うと怒りだすんです。父親になんて似たくも無いって」

「そうですか、でもこれは見事です。繊細なペン画で描かれた風景。モノトーンなのに陰影が巧く付けられて光の輝きが感じられます」

植草はそう言って絵を仔細に観察する。影を表現する幾多の斜線が緻密に引かれている。

じっとその絵を見詰めていた植草であったが、やがてぽつりと呟く。

「ひょっとすると、僕は大変な勘違いをしていたのかも……」

 その時、階下で電話が鳴り、母親は失礼を詫び階下へと降りていった。

「何か収穫は有りました」

 植草が愛の質問に答えようとした時、階下から声がした。二人を呼んでいるようだ。

「どうかしましたか」

「琢磨から突然電話が有ったわ。これから磯村に会いに行くらしいの。今まで母さんに苦労を掛けた、でもそれも今日で何もかも終わる、なんて言うのよ。どういう意味かしら」

 それを聞いた植草は顔色を変えた。

「磯村さんの住まいは何処です、教えてください」


 贋作騒ぎに端を発した事件は、二人の犠牲者を出す大事件へと変貌した。

「一体どうなっているんだ。まるで犯人は我々の行動を察知しているかのように先回りして手を打っている。加えて、それに輪を掛けて犯人を目の前にしてみすみす逃がす大馬鹿者が足を引っ張ってくれるんだからな」

 管理間の怒号が部屋中に響き渡った。

「女性関係の捜査は中止だ。こうなれば全員ビリーの捜査に集中しろ。K署は捜査から外れてもらう、これまでに判明している三人組の情報は総て一課に渡してもらおう。一課はメンツにかけて、何としてもその女を見つけ出せ。以上」

 その声に全員が立ち上がり一斉に捜査に向かう。

 会議室から最後に出てきた今井は、ゆっくりと一階の喫煙室に向かう。

「今井さん」待ち構えていた栗橋が声を掛ける。

「残念でしたね、もう少しでビリーを逮捕できたのに」

「それを言うな、今も管理官から散々嫌味を言われたばかりだ」

「でも、最初に彼らが怪しいと睨んだのは今井さんでしょ? その時管理官は鼻も引っ掛けないで、的外れな闇ルートだの愛人だのを捜査していた癖に」

「しっ、滅多なことを言うな。管理官の耳に入ったらお前は出入禁止を喰らうぞ」

「おっと、くわばら、くわばら。それで、今後の見通しは?」

「さあな、コジローが殺害されたマンションは全く別人の名義だ。だが、奴らがアジトとして利用していたのは間違いない。周辺の聞き込みと名義人の捜査に重点をおくんだろうよ」

「やだなあ、他人事みたいに言わないで下さいよ」

「俺は捜査から外された、これ以上俺に張り付いても情報は取れんぞ。ああ、それから俺からの最後の情報だ。今度の犯行では、マル害は左わき腹を刺されている。左利きのものによる犯行が益々濃厚になった。但しこれも極秘情報とやらでマスコミ発表はしない」

 そう吐き捨てるように言うと、今井は煙草を灰皿に押し付けた。

その時、栗橋の携帯電話から着信音が鳴る。植草からだ。

―行き先が判ったぞ。ミサキとビリーが蓼科の磯村のところに向かった。おそらく磯村を襲うつもりだ。今井刑事と直ぐに向かってくれないか。我々も今向かっている―

「ああ、判った、すぐ行く」

 電話を切った栗橋は今井に向き直る。

「植草からの電話です。一連の事件には矢張りミサキやビリーが関係しているようです。蓼科に磯村画伯が住んでいて、二人はそちらに向かっているそうですが、植草が言うには、磯村の命が危ないので至急蓼科に来て欲しいとの事です」

「待て、何がどうなっているのかさっぱり判らん。磯村がどうして命を狙われるんだ?」

「詳しくは車の中で説明します。兎に角我々も向かいましょう。捜査本部の鼻を明かすチャンスです」

 そう栗橋に言われ心が動く今井であった。


 私は今しがた目にしたコジローの様子を思い起こす。

 コジローがあんなに簡単にやられるなんて、複数の相手に急襲されたとしか思えない。彼は武闘家だけあって常に隙を見せない。余程油断していたのか……いや、それでも一方的にやられるなんて考えられない。余程気を許した相手なら別だろうが。

 そこまで考えてハッとする。コジローがそこまで気を許す相手は我々二人をおいていないではないか。それに警察がやってきたタイミングもまるで計ったかのようにドンピシャだった。だとすると……。いや、まさか、そんなはずは無い。一体私は何を考えているのだ。慌ててその考えを振り払った。


          七

 蓼科に向かうミサキとビリー。車内に重い沈黙の時が流れる。

車は中央高速をひた走る。山を越え甲府盆地の平坦な道を暫く走ると再び登攀車線となる。

やがて車窓右手に八ヶ岳連峰が姿を現す。車は南諏訪インターで高速道路を降り、一般道に出る。

 街中を抜け暫く走行すると人家も疎らになってきた。

「ここからはどう行く?」途中のSAで運転を代わったビリーがミサキに問いかける。

「ああ、このまままっすぐ走ってくれればいい。茅野に入れば右に入る道を教えるよ。それまではのんびり景色を見ながらゆっくり走ろう」ミサキはそう言うとウィンドウを下げる。

 夏でもやはり都会より四、五度温度が低いので、車内に心地よい風が吹き込んでくる。この辺りにはもう秋の気配が感じられるようだ。

 ハンドルを握るビリーは、ミサキが一体何処に向かおうとしているのか、考えを巡らしていた。

 やがて車は茅野市に入り、ミサキが右折を指示する。それは県道から分岐する未舗装の峠道であった。対向車が来るとすれ違えないような道幅である。ビリーはスピードを落としゆっくりと進んでいった。

 鬱蒼と茂る樹木の間を掻き分けるように進むと突然見晴らしのいい高台に出た。

「ほら、あそこにペンション風の建物が見えるっしょ。あそこが目的地。ここなら警察も追ってこない」

そう言ってミサキが微笑んだ。

 車から降りたミサキは、勝手に建物の中に入っていく。ビリーも慌てて後を追う。二人が入っていくと奥から男性の声が出迎える。

「どうした? もう金輪際、此処には来ないんじゃ無かったのか?」

 男のその言葉に、ミサキは初夏にこの場所を訪れたことを思い起こした。


 蓼科の夏は遅い。都会では真夏日が続くというのに鬱蒼とした木立を吹きぬける風は爽やかだし、気温そのものも三度以上は低い。そんな木立を抜けた平地に建つログハウスを訪れた。

 開け放たれた窓からその家の主がいるのを確かめ、無言で玄関から脚を踏み入れた。

「うん? これは珍しい。ここを訪れるなんてどういった風の吹き回しだ」

 振り返った初老の人物が、イーゼルに素早く白布を覆いながら口を開いた。

「あんた、まだ懲りずに贋作に手を染めているのか?」

「藪から棒に、何の話だ。久々の親子の対面で第一声がそれか?」

「惚けるんじゃない、じゃあ、そのイーゼルは何だ? テーブルに散らばる画材は何?」

「ふふん、私を見限ったばかりか縁さえも切ったお前には関係の無い事だ。世間の奴らだって、さすがフェルメールだ、カラヴァッジョだと褒めちぎっておきながら私の描いたものだと判った途端、掌を返したように、やはりおかしいと思っただの、表現が拙いだの言いたい放題だ。真の芸術価値など判りもしない癖に画家の名前だけで価値を決め付ける。フェルメールだって存命中、聖ルカ組合の理事を務めていたわりには世間に認められず、画商は彼の絵をピーテル・デ・ホーホの絵と称して売ったといわれている。困窮した彼は止む無くパン屋の代金を作品で支払っていた。信じられるか、パン代だぞ。死後、彼の存在は忘れ去られ再評価を受けたのは二世紀後の十九世紀になってからだ。

 それでも彼はまだ恵まれている。パトロンもいたし義母が資産家だったからな。存命中に評価されず塗炭の苦労を舐めた芸術家はあまたの数ほどいる。同様に私には何もない。金も家族も……そして誰も私の描いた絵に先入観を持たずに鑑賞してはくれない。良いものは良い、美しいものは美しい、それが判らん奴らに限って金にものを言わせて本物を所有したがるのだ」

「だから、デニス・ヤーンもすりかえた」

「何のことだ?」

「今、デニス・ヤーンの贋作騒ぎが起こっている。贋作はまだ許せる、あんたがやりそうなことだからな。だが、どうして本物は手元に置いておかなかった。そうすりゃ、誰にも気づかれず贋作騒ぎなど起こらなかったはずだ。それともわざと騒ぎを起こそうとしたのか?」

「そんなことが起きているのか? それは面白い。わははは」

「笑い事じゃない」

「ふふん、今や私は片田舎で農作物を育てながらひっそりと暮らしているのだ。世情には疎いもんでね、そんな面白い事件が起こっているとはな」

「ふざけた事を……忘れたのか、あんたのせいでこっちは将来を棒に振った。大学は無事卒業できたものの、どこから漏れたのか磯村恭平の子供だと知れ渡るのに時間は掛らなかった。お陰でまともな就職口は見つからなかった」

 イタリアを国外追放されても、この男はまだ懲りていない。再び何か事件を起こすのではないかと危惧していたが、恐れたとおりそれが現実となってしまった。このままではまずい、なんとかして警察の目が、この男に向かないように対策を講じなければならない。

 どうしてこんな馬鹿親父のために苦労しなければならないのか。この男に対して言いたい文句は星の数ほどある。だが口にするのも馬鹿馬鹿しく、それらの言葉は飲み込んだ。

 そんな気持ちを斟酌することも無く、磯村は目をしょぼつかせながら上辺だけの詫びを言う。

「そうか、それは気の毒をしたな。だが、磯村恭平は既に死んだ。ここにいるのはただの世捨て人だ」

「世捨て人? ふふん、笑わせる。それならどうして未だに生臭い世界とつながりを持つ」

「だから知らんといっているだろ。何回も言わせるな、もう帰ってくれ」

 激した磯村がテーブルに両手を叩きつける。

「何を言っても無駄のようだね。あんたなんか誰に看取られることなく野垂れ死ねばいい」

僕はそういい残すと扉を開け、足早に去ったのだった。


 二人の会話を聞いてビリーは訝る。一体この男は誰なんだ、そう思いながら薄暗がりに佇む男の顔を凝視する。

「お前は磯村」驚きの表情を浮かべるビリーの様子を眺め、ミサキがクッ、クッと笑った。


        七

 植草兄妹と栗橋たちは途中のサービスエリアで合流し、一行が蓼科の目的地に着いたとき、見覚えのあるインプレッサが建物の前に停めてあった。

 一行は建物内部に雪崩れ込む。

 折しも、ビリーとミサキが格闘の真最中であった。サバイバル・ナイフを奪い合っている。

 今井が素早く二人に割って入りビリーの腕を掴む。ナイフが床に転がる。

「見つけたぞ、ビリー。大人しくしろ」大声で怒鳴り、押さえ込もうとするが、逆に腕を捻り返されそのまま投げ飛ばされた。

 こうなれば仕方がない、考えるよりも早くビリーはナイフを拾い上げ磯村の首に突きつける。

「みんな、動くんじゃない」

「しまった。馬鹿な真似は止めるんだ、ビリー、いや、山下美咲」

 植草の発した言葉にビリーが驚きの声を上げる。

「え? 気がついていたのか」

「ああ、君の父親こそ磯村の絵を本物と鑑定した山下教授だ。それが元で信用と面目を失い大学を追われた教授は、自殺してしまった。今回の事件はそのリベンジなんだろ」

 思いがけない展開に磯村は呆然と佇んでいたが、ミサキだけはニヤッと笑みを浮かべている。

「ミサキ、いや琢磨君。君だけはすべて判っていたようだ。なのにどうして騙されたふりをしていたんだい」

「ああ、彼女が山下教授の娘で、うちの親父を恨んで復讐しようとしていることは随分前から判っていた。でもそれも無理ないと思う、息子の僕でさえ野垂れ死にすればいいと思っている。だから気がついても何も言わなかったのさ。だけどコジローを刺したことは許せない。彼には何の罪も無いんだから」

「違う、うちがやったんじゃない。コジローだけじゃない、小林だってうちは殺しちゃいない。人を殺す計画なんて考えもしていない」

「惚けるな、じゃあそのナイフは何だ。小林やコジローを殺害した凶器がサバイバル・ナイフだと判明しているんだ」

 その今井の言葉に美咲がハッとして思わず右手に握り締めているナイフを見る。

「このナイフが……」呟きながら琢磨の顔を凝視する。

「ミサキまさか……嘘だろ?」

 その言葉を遮るように、琢磨が大声で怒鳴る。

「もう無駄なお喋りはいいさ。ビリー観念しなよ」

そうは言うものの美咲が磯村の首にナイフを突きつけた状態に誰も動けない。

「おい、誰か、早く助けてくれ。私は贋作を描けと脅されて止む無く描いただけだ。どうしてこんな目に……」

 喚きたてる磯村の言葉にも反応しない美咲。彼女は混乱していた。混乱しながらも、どうしてこんなことになってしまったのか、三人が知り合った頃を思い起こしていた。

家出をしたものの行く当ての無い美咲は、都内に出て友人や知人を伝に泊まり歩く根無し草の生活を始めた。そんな生活を送りながらも復讐すべき男の消息を探る行為は止めなかった。そんなときに琢磨と業の二人と知り合い、私は琢磨を知らず知らずのうちに愛し始めていた。琢磨も私を愛してくれた。だからもう復讐など馬鹿な真似は止めよう。そう考えていた矢先だった。だが、その愛する琢磨が……。

 呆然とする美咲の隙を突くように、奈緒がジリジリと間を詰める。

「おっと、あんた。妙な真似をするんじゃないよ。あんたの力量は知っているからね。それ以上近づいたら躊躇なくこいつを刺す」

 我を取り戻した美咲が怒鳴って威嚇する。

「さあ、みんな部屋の奥に行くんだ。出口への通路を開けてもらおう」

 人質がいる以上、無茶なことは出来ない。指示通り全員が部屋の奥に移動する。

 磯村の首にナイフを突きつけたままで、美咲がジリジリと出口ににじり寄る。

 後ろ手でドアを開ける美咲。そのままゆっくりと後退する。

「美咲、馬鹿なマネすんじゃねえ」

 怒鳴り声と共に美咲の背後から男の手が伸び、サバイバル・ナイフをもぎ取ろうとする。

 美咲は磯村を離し、邪魔をした相手の腕を切りつけた。

相手の顔を見て美咲が驚く。「お前は……守」

「よかった、間に合った。美咲、もうこのへんで止めにしようぜ」

 切られた右腕を押さえながら坂崎が叫ぶ。

 その隙を見て、奈緒が美咲ににじり寄る。手の甲をはたきナイフを落とそうとするが、素早く身をかわす美咲。美咲の腕が緩んだ瞬間、磯村が必死で彼女から逃れる。

 睨み合ったまま戸外へ飛び出す美咲とそれを追う奈緒。

 ナイフを繰り出す美咲の攻撃をかわした奈緒が、美咲の腕を抱え込むとそのまま投げ飛ばす。素早く身を起こした美咲が奈緒の足蹴りを防ぎ、逆に奈緒の軸足を払う。倒れる奈緒。

「奈緒さん、危ない」栗橋が叫ぶ。

「もう止めろ、美咲。これ以上みっともないマネをしないでくれ。こんなことをしても親父さんは喜んじゃくれねえぞ」

 坂崎の必死の説得が耳に届いたのか、美咲の攻撃が一瞬止む。

 隙を逃さず、今井刑事がナイフを取り上げ美咲の手首に手錠を掛けた。

「山下美咲、五時三十七分、確保」

「坂崎君、大丈夫か」

 植草が坂崎を抱き起こす。傷口は深くないようだ。

「雄太、救急車を頼む。傷は浅いからたいしたことは無い」

 その言葉を聞き、美咲はがっくりと項垂れ小さな声でこう言った。

「もうすべてお仕舞だ。守、ごめん」

「俺のことはいいさ。それよか、お前がこれ以上罪を重ねなくて良かった」

「刑事さん、すべて私がやりました」

「そうか。すべて認めるんだな」

 今井が美咲に確認し、あらためて琢磨のほうを見る。

「あんたにも来てもらう。事情を聞きたいからな。これまでの車窃盗についてもじっくり聞かせてもらおう。さあ」

 今井が二人を連行しようとする。

 その時、植草が栗橋に囁くように尋ねる。

「おい、犯人は左利きじゃなかったのか?」

「あっ」栗橋が大きな声を上げる。

「シッ、声が大きい」植草が小声で諌める。

「左利き説は当たっていたんだ。コジローは背後から左脇腹を刺されていた。でもおかしいな、美咲は左利きじゃないよな」

 栗橋が植草に耳打ちする。

 それを聞いた植草は大きく頷いたかと思うと、刑事に連行される琢磨を呼び止めた。

「待ってくれ、琢磨君、忘れ物だ」

そう言って何かを琢磨に向かって放り投げる。

 突然のことで琢磨は慌てて投げられたものを左手で掴む。

「やはりそうか、君は左利きなんだね」

「何を言ってる、咄嗟に掴んだだけだ」琢磨が言い返した。

「誤魔化さなくてもいいさ。君は幼い頃から左利きは駄目だと父親から矯正されていたそうだね。お母さんから聞いたよ。左手を使おうとすると手の甲を叩かれたんだってね。だから普段は右利きのように振舞っているが、咄嗟の場合は利き手が動くのさ」

「違う、何を根拠に出鱈目を言うんだ。僕は左利きでも何でもない」

「どうしてそんなにむきになるんだい? 今、僕が投げた物を良く見てくれ。それは実家の君の部屋に置いてあったパソコンの無線マウスだ。その形状は左手用だ。

 君が左利きだと思う根拠は他にもある。机は窓に向かって左側に配置されていた。そして机を照らす照明は右側に置かれている。すべて右からの光を受けることになる。普通右利きなら逆だ。右手が陰になってしまうからね。それに部屋に飾ってあったイラストだ。さすがに父親の血を受け継いでいるのだろう、才能を感じさせる作品だった。だが、その陰影を付けるための斜線がすべて左上から右下に引かれていた。これも左利きの人の特徴だ」

「僕を犯人扱いする気か? 左利きがどうしたと言うんだ。ビリーはすべて自分の仕業だと自白したんだ。そんなこと関係ないだろ」

「おや? 僕は君が左利きだと言っただけだ。どうして犯人扱いされたと思うのだい」

「そ、それは……画商やコジローを刺し殺した犯人が左利きだから――」

「君はどうして犯人が左利きだと知っているのだい?」

「此処へ来る途中カーラジオでニュースを聞いた」

「それは変だね。そのことはまだマスコミ発表はされてはいない。僕だってたった今聞いたばかりなのだからね」

 その言葉に今井が慌てて琢磨の腕を掴む。

「犯人はお前だったのか。結局俺が最初に睨んだとおりじゃないか」

 よく言うよ、的外れな推理をしていた癖に……と栗橋は思ったが無論口には出さない。

「糞っ。何もかもうまくいっていたのに、全く余計な口出しをしやがって、覚えていろ、植草」琢磨が憎しみのこもった目で植草を睨んだ。

 彼の告白を耳にし、脱力したかのように美咲はその場に崩れ落ちた。


          八

「でも、何がなんだか良く判らない。きちんと説明してよ、兄さん」奈緒が抗議する。

「これから話すことは幾分僕の推理も混じっている。間違っていたら指摘してくれ、琢磨君」

 声をかけたものの琢磨はそっぽを向いている。

「僕がずっと疑問だったのは、誰が何の目的で磯村画伯に贋作を依頼したのかという点だった。当然最初は画商の小林を疑った。だが彼はこれまでにも磯村画伯に絵の修復依頼をしているが、贋作を描かせるようなことはしていない。何故今回に限ってそんな大それた事をしたのか? 誰かが指示したに違いないと考えた。そしてその人物が贋作を描かせた理由は金品目的では無い。金が目的なら逃げるときに奪っていったはずだ。だが犯人はそうしていない。だから大沼純子が一億の金を奪っていったのさ。従って警察が考えているような、闇の故買ルートではないと考えた。

 とすれば、目的は本物とすり替える事にあるのでは無いかと考えてみた。つまり安川美術館に堂々と展示され多くの観客の目に晒すこと、これこそ犯人の真の狙いなんじゃないかってね。だからこそ磯村も渋々ながらも贋作を描こうと思った」

「じゃあ、俺が以前言った冗談は、半分当たっていたんじゃないか。修復で復讐って奴だ」

栗橋が自分の言った駄洒落を思い出した。

「そのとおりだ。世間を見返してやりたいといった気持ちかもしれない。専門家や評論家に見破れるかどうか、見破れなければ本物を出してきて世間を騒がそうと考えた。当然見破れなかった専門家や評論家は面子丸潰れだ。現に評論家の野崎は大いに面目を潰した。野崎といえば山下教授を追い落とした張本人だ。つまりこれが犯人の第一の復讐だった。

さて、計画では本物の絵は磯村が持っているはずだった。犯人は、すべて磯村が仕組んだことにしたかったのだ。国内でこんな事件を起こせば実刑を喰らう。過去の事件は外国での出来事だから国外追放で済んだが、今度はそうはいかない。磯村は刑務所行きだ。こんな仕返しを考えるのは彼のことを憎んでいる小林教授の身内しかいない、そう僕は考えた。

ところが思いがけず計画に狂いが生じた。小林が勝手に絵を贈収賄の道具にしてしまったんだ。更にそれを運んだ運転手は大沼純子の口車に乗って絵を奪ってしまった。その後は皆も知ってのとおり我々と三人組で絵を奪い返した」

「それで世間は大騒ぎになったんだから、犯人の目的の半分は成功したわね」

 奈緒の言葉に植草が頷く。

「そうだ。だがここで厄介な問題が持ち上がった。当然警察は安川美術館に修復依頼をした人物を問い詰める。小林の名が挙がるのは時間の問題だ。次には小林が追及を受ける。犯人はそれを恐れて……」

「小林を殺害したんだ」栗橋が声を上げる。

「いや、そうじゃない。ここまでの計画は美咲さん、貴女の仕業だね?」

 植草の問いかけに美咲が無言で頷く。

「小林を生かしておいては危ないと美咲さんも考えた。しかし、実行はしなかったんだ。理由は判らない。復讐なんて馬鹿げたことはもう止そうと思ったのか、計画に狂いが生じて人を殺めなければならなくなって躊躇したのか……」

「植草さんの仰るとおりです。これまで復讐の一念で生きてきました。でも最近ではそれで良いのか疑問を感じ始めていたんです。それに幾ら復讐とはいえ人を殺めることなど考えてもいませんでした」

 これ以上琢磨を庇いきれないと思ったのか、美咲がか細い声で答えた。

「そうですか、そこで踏み止まった貴女は立派です。坂崎君、そういうわけだから安心したまえ。美咲さんは人殺しなど犯していない。だが、それでは困る人物がいた。それがミサキ、いや琢磨、君だ」

 植草が琢磨を見る。彼は黙ってそっぽを向いたままで反応しない。

「琢磨君、君は十三年前に父親が起こした騒動のお陰で将来を棒に振った。このまま父が生きていると、又何か事件を起こすのではないかと心配でならなかった。いっそ父親を亡き者にしてしまおう、そう考えたんだね。

だが、自分の手を汚すのは嫌だった。そこで思いついたのが、同じく恨みを持ち復讐を企てている美咲さんを利用することだった。けれども、先刻も言ったように彼女は計画を途中で中止してしまった。小林をこのままにしておくと又もや磯村が贋作事件で世間の非難を浴びてしまう。そこで自ら行動を起こした」

「でも、どうしてコジローまで……」美咲が震える声で問い詰める。

「仕方が無かった、あいつは俺が親父と電話で会話しているのを立ち聞きしていたんだ」うな垂れたまま琢磨が呟く。

 植草はその言葉に片方の眉を吊り上げる。

「仕方が無かった? よくそんな言い方が出来るね。確かにコジローの件は予定外だったかもしれない。しかし君は小林の手に美咲さんの毛髪を握らせた。すべて彼女がやったと見せかけるためにそんな小細工をしたんだ。そして最後の仕上げに此処で父親と美咲さんを殺害しようと決めていたのだろ?」

「ふふん、そこまで判っていたのか……流石だよ、植草。お前が言うとおりさ。俺はこの馬鹿親父のためにまともに就職さえ出来なかった。いや、それだけじゃ無い、幼い頃は躾に厳しく、左利きの俺が、鉛筆や絵筆を持つ度、違うと言っては手の甲を叩かれた。どうしても言う事を聞かないと右手を包帯でぐるぐる巻きにされて、物が掴めないようにされたことも有った。一体そこまで強要する必要が有ったのか。

だから家族を放置して単身イタリアに渡っていってしまった時も寂しくなんかなかった。逆に清々したもんだ。これで自分の自由に手が使える、そう思った。だからこの馬鹿親父に恨みこそあれ、愛情など欠片も持っちゃいない。今度の件も早く何とかしなけりゃこっちにまで災いが降りかかる。いや、これを凌いでもまたぞろ何かやらかす。もうゴメンだ、こんな厄介者はこの世から消え去って欲しい。そう思うのも当然だろ? 

だから俺は一計を案じた。美咲が父を刺し、俺にも襲い掛かってきたので防戦、揉み合ううちに美咲を刺してしまった。そう言い逃れするつもりだった。全てがうまくいくはずだったのに……」

「でも、どうして男女が入れ替わろうなんて考えたの?」

 まだ、納得のいかない奈緒が疑問を口にする。

「それも恐らく君の考えなのだろう、琢磨君」

 問いかけられても琢磨はそっぽを向いたままだ。

「君は当初から自分で計画を進めるつもりだった。そして美咲に疑いの目を向けさせるために女性を演じていたのさ」

「何だって、そんなに早くから考えていたのか。てっきり美咲が仲間になってから彼女の計画を知って、それで考え付いた事なんじゃないのか?」

「おいおい、美咲さんが車泥棒のチームに偶然入ったとでも思っていたのか?」

 その言葉を聞いて美咲が驚いて顔を上げる。

「どういう事だ?」と栗橋。

「琢磨君、君は美咲さんが母親の実家に戻ってから、彼女の動向を探ろうと雑誌記者に扮して現地に赴き、美咲さんの悪い噂を流した。彼女が実家にいられなくしようと画策したのだろう? そして彼女が家出をして東京に舞い戻ったことを知った。それからが計画の始まりだ。君は偶然を装って美咲さんに近付いたのだろう。美咲さん、そのときの状況はどうだったのですか?」

「私が不良に絡まれているのを偶然通りかかった二人が助けてくれたんです」

「成る程、でもそんな偶然が有ると思いますか?」

「それじゃ、わざと不良に襲わせたって言うの?」奈緒も驚きを隠せない。

「それだけじゃあない、小林が安川美術館からヤーンの絵の修復依頼を受けたことも父親から聞いて知っていた。調査をして判明したことだが、磯村さんと小林は旧知の仲だった。磯村さんが贋作騒ぎでイタリアを追放され日本に戻ってきたときにも、四面楚歌の中で彼の面倒を見たのが小林だった。だからいち早く情報を知った琢磨君は知人を通じて美咲さんにリークしたのだろう」

「それじゃ、はなからこいつが仕組んだことだったのか」今井刑事が琢磨を睨みつける。

「可哀想に美咲さんは、それに気づかないまま、いいように踊らされていたのね」奈緒が嘆息する。

「酷い、私は貴方を信じていたのに……やっと生きる希望が見出せた。それも琢磨、貴方がいたからこそ……」涙を流して美咲が訴えるが、途中から声を詰まらせる。

「僕は純子が絵を盗んだ件も琢磨君の入れ知恵じゃないかと疑っている」

「え? それも彼のシナリオどおりだったって言うの」

「判らない。あくまで僕の想像だ。計画が狂って、本物と目される絵を磯村さんが手放し、小林の商売の道具にされると知った彼は、それを回収するためにそんな手段を講じたのだろう? 違うかい、琢磨君」

「ああ、そうだよ。あの絵が世間の目に触れれば騒動になるのは火を見るより明らかだ。美咲にとっては世間が騒いでくれればいいと考えていただろうが、俺にしてみれば親父にこれ以上面倒を起こされては困る。だから小林にねじ込んで、奴のいいなりになる女に指示させて密かに絵を回収しようとしたんだ」

 沈黙を破り琢磨が吐き棄てるように言った。

「ただ、君の計算違いは僕たちが首を突っ込んできたことだ。まさか絵を取り戻す場面で僕たちの邪魔が入るなんて思わなかっただろう」

「そうだ、だから、あの時警察に届けることを執拗に拒んだ。なのに美咲だけじゃなく豪まで警察に届けようなんてつまらないことを言い出しやがった」

「そうだったのか、てっきり金に目が眩んだとばかり思っていた」

 栗橋と今井刑事がバツが悪そうに互いに顔を見合わせる。

「だから金を奪うため小林を殺害したなんて見当違いな推理をしたのだったな」植草が皮肉たっぷりに言う。

「それを指摘されると面目ない」

「だけど美咲さんの仕業だと思っていたのに、何時琢磨が犯人だと気がついたの」

「僕も最初は美咲さんがミサキと名乗っていると思っていた。しかしさっきも言ったように女性はビリーのはずだ。それを確かめるために僕は栃木県の実家まで調査に出向いた。そこで坂崎君に会い、美咲さんの写真を見て確信した。その顔は紛れもなくビリーそのものだったのだから。じゃあ、一体ミサキの正体は誰なのか? そう考え、気になって調べてみた。磯村さんと離婚した奥さんは旧姓に戻していた。それが三崎という苗字だった。と同時に、愛さんが近所の知り合いに良く似た男性がいるって言っていたのを思い出した。愛さんに何と言う名前なのか問いただしたら、何と三崎だというじゃないか。それが磯村さんと離婚した奥さんの実家だった。

 東京の大学に入学したっきり音沙汰のない息子、それが三崎琢磨だったという訳さ。磯村という姓では何かと都合が悪いので、琢磨君も母方の姓を名乗っていたんだ。

そこで愛さんの案内で三崎家を訪れた。離婚したとはいえ奥さんなら磯村氏の現在の居場所も知っているに違いないと思ったのだ。そして琢磨君の部屋でマウスやイラストに引かれた線が右下がりなのを見て、彼が本来は左利きだと知った」

「そうだったのか」

「だけど、まだその時点では疑惑は抱いたが、彼が犯人と言い切れるだけの証拠が無かった。漸くすべてが結びついたのは、雄太がコジローを殺害した犯人が左利きだと教えてくれたからさ。でも逮捕すれば何れ警察でも気がついただろう」

「成る程、これですべて納得できた。さあ、行こうか。後は署に戻って調書を作らせてもらう」今井刑事が二人を促す。 

 その時、連れ去られる後姿の美咲に、坂崎が大声で叫んだ。

「美咲、俺はお前をレーサーにする夢、諦めちゃあいねえかんな。絶対俺のチューンした車に乗ってもらう。約束だぜ、出所してくるのを何時までも待ってるかんな」

 坂崎が振り返った美咲の顔を見詰めて笑う。

「守……」坂崎の言葉を聞いた美咲の目が潤む。

「さあ、もういいだろう」今井刑事が再び二人を促す。

警官が二人を引き取りパトカーに連行する。

 それを見送ると、今井刑事は室内に戻ってきて磯村に声をかけた。

「あんたにも来てもらおうか、磯村さん。私文書偽造及び詐欺の疑いで逮捕する」

「判っている、それを覚悟でやったことだ。もう思い残すことは無い」

 磯村が大人しく両手を差し出す。

今井刑事がその手首に手錠を掛けようとしたその時、植草が口を挟んだ。

「待ってください。磯村さん、殺人事件は解決しましたが、僕は当初からそんなことに興味は無いのです。僕が知りたいのは本物の絵についてです。それは何処に隠しているのです? それが出てこなければ、この事件は終わったとは言えません」

 その言葉を聞いて磯村がにやっと笑う。

「気づいていたのか。仕方ない、君の目の前にある。そこのイーゼルに架けてある布を取れば判る」

 植草が急いで布を取り払う。

 何と、色彩が褪せ、所々ヒビが入ったままの姿の「ゴルゴダのキリスト」が姿を現した。

 絵を見て一同が驚きの声を上げる。

「何よ、これ……ヤーンの絵じゃない」奈緒が呆然とする。

「こ、これは……どういうことだ、真一」栗橋がうめくように言う。

「正真正銘、僕が修復前に見た時のままの姿だ。これこそ、本物のヤーンの作品さ」

「君はどうして判ったのかね」磯村が問う。

「当初は気がつきませんでした。絵が二枚あると判った時点では当然どちらかが本物だと誰しもが思うことです。現に我々もどちらが本物か議論していたときがあったのです。でもその時愛さんが『何れにしろ、どちらかが本物なのは間違いないのでしょ』と言った。覚えているかい?」植草が奈緒に問いかける。

「ああ、それで兄さんが見極めるのは難しいって話をしたんだわ」

 奈緒がその時の様子を振り返る。

「僕にはその言葉が何となく引っ掛かった。みんな絶対どちらかが本物だと信じて疑わない。僕がへそ曲がりなのかもしれないが、そこに引っ掛かりを感じたのさ。

いいかい、そもそも本物が二枚ということは絶対に有り得ない。同じテーマで同じ構図で描いたとしても若干は差異がある。考えれば当たり前のことさ、画家は気に入ったテーマで描くというのは、もっと満足がいくように更なる工夫を施すために描くのだからね。例えば、モネも睡蓮の絵を数多く描いてはいるが、全く同じではないだろ? だから寸分違わず全く同じ絵など存在しない。だからといって片方が本物だとも言い切れない。何故なら二枚とも贋物の可能性があるじゃないか。

そう考えたときに突然閃いたのさ。磯村さんは本物には手をつけず、二枚の贋作を描いたのでは無いかとね」

「たいした推理だ。君が言うとおり私は修復をすると思わせて、実は二枚の贋作を描いた」

「半年足らずであんな重厚な絵を二枚も?」

 信じられないとばかりに奈緒が首を振る。

「画家にとっては当たり前のことさ。一枚づつ仕上るのではなくて二枚、三枚の絵を同時並行で描くのさ。油絵は乾くまでに時間が掛る。その間に別の絵に着手するのさ」

「そのとおりだ、だから素人が思うより効率は良いのだ。しかし、贋作だからな、古さを出すために大変な労力を費やした。食事時間を惜しみ、睡眠時間を削って描きあげた」

「そこまでして本物を手元に置いておきたかった訳は?」

栗橋が新聞記者らしく質問を投げかける。

「理由は単純なことだ、この絵が気に入ってしまったのだ。誰にも渡したくないとの思いに加えこの絵を修復するなど出来なかった。私も大層な自信家だが、この絵を修復するなどと畏れ多くて出来なかった。勿論ヒビなどはこれからじっくりと手を加えようかとは思っていたのだが……」

 磯村の言葉を遮るように植草が口を開く。

「その気持ちは僕にも理解できます。幾ら高度な技術を持つ修復士といえど、完璧に復元するのは至難の業でしょうから。だが、それだけでは無いでしょ、磯村さん。貴方にはもっと大きな動機があったはずです。

 今、世間は真贋論争が過熱しています。美術館所蔵の絵、これが本物だ、いや新たに見つかった絵、こちらこそ本物だ、そう訳知り顔で言い争う研究者や評論家たちがいる。実はその両方が贋物だとなれば、どちらの説を唱えていようと、すべての人々に一泡吹かせることが出来る。それが自分の技量を評価しなかった彼らへの最大の復讐だったのでしょ」

「そこまで判っていたのか。君の言うとおりだ、私はそれだけをやりたくて今まで生きながらえて来たのだ。カラヴァッジョの事件で私は世間からつまはじきされた。職も家族も失った私は暗闇の世界に放り出されたのだ。

 復讐を思いついたとき、それは暗闇に差す一条の光のように思えたのだ。そう、まるでカラヴァッジョの描く『キリストの捕縛』のように、暗黒の暗闇の中でそこだけに光が当たりくっきりと人物が浮かび上がっているように……」

 そこまで一気に喋っていた磯村が突然笑い出す。

「ふっ、ふっ、わはは、愉快じゃないか。考えても見ろ。この本物の絵が出現することで、世間は再び大騒ぎになり、偉そうに批評していた連中は信用を失う、ざまをみろだ。想像するだけで愉快だ」

「磯村さん、あなたは悲しい人だ。研究科や評論家にも立派な方は沢山います。今は亡き山下教授などはその最たるものでした。腐敗した美術界の改革を行うと共に若手の育成に尽力された。あの方は貴方の技量を認めていた。貴方は自分の手で唯一の理解者を葬ってしまった。いや教授だけではない、貴方の腕を見込んだからこそ安川会長は修復を依頼したのですよ。画商の小林も貴方の技量を高くかっていた。だが、彼等をも貴方は裏切ったのです。そしてそれ故に今回の不幸な事件が起きたのです」

 怒りを抑え、凛とした声で植草が言い放った。

「それだけじゃないわ。貴方が再び世間を騒がせる事を恐れたから、貴方の息子、琢磨もこんな事件を起こしたんじゃない。そうでなければ彼だって人を二人も殺めたりしなかったかも……彼も貴方の下らないプライドの犠牲者よ。貴方が今回の殺人事件を引き起こしたようなものよ」奈緒も声を荒げて言い募る。

「何だと、私のせいだと言うのか。すべて私が悪いと……貴様等のような若造に何が判る、私は間違ってはいない」

 否定するように磯村は頭を左右に振る。髪を振り乱し、唾を飛ばして尚も喚き続ける磯村を今井刑事がパトカーに押し込んだ。


           九

 築地署では三崎琢磨がポツリポツリと自供を始めていた。

――あの夜、明かりのついた事務所のドアを開けた。

「おっと、黙って入ってくるなよ、驚くじゃないか」

小林が椅子に坐ったまま首だけで振り返り声を掛けた。

「今回の件は悪かった、謝るよ。だから、あんたが言うように純子を使って絵は取り戻しただろ」

「だが、余計な野次馬の邪魔が入って絵は警察の手に渡ってしまったじゃない」

「そこまでは責任が持てんよ。それが心配でやってきたのか? だが刑部はシラを切りとおすだろう。大丈夫だ、心配いらない。そう言っただろ」

「警察を甘く見るんじゃない。たとえゲロしなくても奴の口座の金の動きを追えばすぐにここに辿り着く」

「何をそんなにびびっている。ここへ乗り込んできても俺は善意の第三者だ、盗品と知らず購入したと主張するさ」

「だけど何処から入手したのかが問われる。善意の第三者なら隠す必要は無いからね」

「ん? そうだな……」返答に窮した小林が考え込む。

「警察の追及は厳しいらしい、もしかしたらゲロしてしまうかもな」冗談でこの場をしのごうとする。

「だからそれじゃあこっちが困るのよ」

 言い終わらないうちに俺は背後から小林の首にサバイバル・ナイフを突き立てた。

 男が仰け反り背後に回した手で俺の首筋を掴み、もがく。

だが、抵抗も空しく動脈を切り裂かれ、夥しい血を噴出しながら

息絶えた。

 男の首からナイフを引き抜き、手にあらかじめ用意しておいた美咲の髪の毛を握らせた。

血まみれになった体をシャワーで洗い、素早く服を身に着けるとゴム手袋を嵌めた。そしてデスクに設置されたノート・パソコンを手にし、急いでその場から立ち去った。

 小林は遅かれ早かれ殺すしかなかった。思ったより早く警察の手が奴にまで伸びたからな。親父が関与していることは絶対に知られたくなかった。親父のため? ふふん、違うよ。あの馬鹿親父のせいで俺が苦労するのはもうゴメンだからね。

コジローのことは予定外だった。あの日、アジトで証拠になるようなものを処分していた時、たまたま親父から電話が入った。その話をいつの間にかやってきたコジローに聞かれてしまった。直ぐに奴はピンときたようだった。秘密を知られたからには殺すしかない。そして、一計を案じた俺は美咲をアジトに呼び寄せた。一方、警察にマンションの管理人を装ってコジローに似た人物が出入しているとタレこんでその場を去った。

何も知らないで美咲がやってきたが、あいつを目の前にしながらウスノロな刑事が捕り逃がしてしまった。だから俺は結局当初の計画どおり美咲を親父の家に連れて行くことにしたんだ。どうしてだ? 判りきってんだろ、親父殺しも奴のせいにしようと思ったんだ。すべては上手くいくはずだった、あの植草という探偵気取りのお節介野郎さえしゃしゃり出て来なけりゃな――


エピローグ

「三崎琢磨が全面自供したぞ。これで今回の事件も一件落着だな。しかしさすが真一だ、殺人事件などに興味が無いって言っておきながら、しっかり真犯人を見抜いたんだからな」

「いや、僕は危うく琢磨の策略に引っ掛かるところだった。小林の手に握られた毛髪が女性のものだと聞かされていたから、てっきり美咲の仕業だとずっと思い込んでいた」

「いや、ビリーが女性だと見破っただけでも見事だよ」

「それは当初からおかしいと疑っていた」

「純子の証言がきっかけだったんでしょ。それは聞いたわ」奈緒が首をコクンと上下させた。

「いや、その前さ。刑部建設のシステム開発の島本さんは、唯一女性としてのミサキを見た人物だとして、彼の証言が重要視されたよな。だけど考えても見てくれ、彼らは犯罪者だ、どこの世界に変装もしないで人前にノコノコでてくる犯罪者がいる? 当然目撃証言で指名手配されることは承知していたはずだ。だからミサキが素顔のまま人前に出るはずが無いと思った。だから、女性の格好こそ変装だろうと思ったのさ」

「ちょっと待ってくれよ、だったらコジローはどうなんだ? コジローは眼鏡こそ掛けていたが、それだけで変装とは思えない」

「コジローは仕方が無かったのだろう。どうせあの図体だし特徴のある顔だから、もし変装するとなれば、付け髭やサングラスなどで相当顔を隠さなければならない。だけど、営業マンに扮しているのにそんな怪しい変装が出来るわけが無い。だからコジローは、逆にその後、髭を伸ばしたり髪形を変えたりしたはずだ」

「あ、そのとおりだ。殺されたときのコジローは、髭を伸ばしていた」

「だから兄さんは、似顔絵を見た瞬間に、ミサキを女性っぽく描き過ぎだって言ったのね」感心するように奈緒が言う。

「今頃、判ったのか。そして女性がビリーだと考えた僕は、すべてがビリー、いや山下美咲の仕組んだことだと考えたのさ。犯人は絶対女性だ、小林と一夜を共にしていることからも明らかだ」

「判らないぜ、小林がホモの可能性もあるだろ?」

栗橋が意地悪く言う。

「あんなに女狂いの小林がかい?」

「それは無いわね」

 兄妹に即座に否定される。

「そんな訳で僕はずっと美咲さんが犯人だと考えていた。琢磨の策略にまんまと嵌るところだったのだ。彼が墓穴を掘ったのは、秘密を知ってしまったコジローを左手で刺してしまったことだ。そのときばかりは、彼も予期せぬ事態で焦ったのだろう。それと、相手は武道家のコジローだからね、隙は見せなかったはずだ。だが、彼も琢磨が左利きとは知らずに、右手方向に気を配っていたに違いない。まさか死角となる左後ろから刺されるとは思わなかったのだろう」

「そう、正にそのとおりだ。まるで現場を見てきたようだな」

 栗橋が感心を通り越して半ば呆れ返る。

「しかし、あの土壇場で琢磨が犯人だと判って今井刑事は命拾いしたな。あのままだと美咲が犯人と思い込んで連行しただろうからな。又笑い者になるところだった」

「それ以前に、あのとき坂崎君が来なければ逮捕どころか、どうなっていたのか判らないわよ。あれ? だけど、彼はどうして磯村の居場所が判ったのかしら?」

「僕が彼に電話をしたのさ。彼は真剣に美咲の身を案じていたようだ。居所が判ったら絶対に教えてくれ、そう頼まれていたからね」

 植草が現地で彼とあったときの話を二人に聞かせた。

「そうだったのか。本当に良いタイミングだったよな。しかし、彼が美咲を説得しなけりゃ、奈緒さんといえども危なかったんじゃない? 俺、奈緒さんが倒されたときには、思わず危ないって叫んじまったもんな」

「あら、大丈夫よ。あのまま続けていれば私が倒していたわ。でも正直言うと思った以上に手強かった。それは認めるわ」

澄ました顔でそう言ってのける奈緒だったが、突然真顔に戻って話を戻す。

「坂崎君は美咲さんの出所を何時までも待っているって叫んでいたわね。絶対に彼女をレーサーにするって……美咲さんのことが余程好きなのね。それって今まで人間の醜さを見せ付けられ、裏切られ続けた美咲さんにとって、生まれて初めて信頼できる真の友人が出来たって訳よね」

「俺には坂崎の気持ちが痛いほど判るよ」密かに奈緒に惚れている栗橋が嘆息とともに呟く。

「あら、どうして雄太さんが、彼の気持ちを痛いほど判るのよ?」

「そ、それは、俺も同じ身の上……」あとは言葉にならないで、むにゃむにゃと誤魔化す。

 そんな栗橋を無視して植草が呟く。

「でも僕には未だ判らないことがある。何故あの時、美咲はやってもいない殺人を自分がやったと認めたのか?」

「いやだ、兄さん。それこそ誰にでも判るじゃない」

「ん? お前には判るのか」

「俺にだって判るぜ。真一はやっぱり女心を理解してないねえ」

 ここぞとばかりに勢い込んで栗橋も言う。

「雄太まで何を言うんだ。じゃあ理由を教えてくれ」

「彼女を想う坂崎には気の毒だが、美咲は琢磨を愛していたんだ。絵を取り戻したときの二人の様子を見ていれば誰だって気がついたさ」

「そうよ、だから彼女は琢磨を疑いもしなかった。でも彼女が磯村にナイフを突きつけたとき、今井刑事の言葉を聞いて初めて手にしているのが凶器のナイフだ-と知った。それですべてを悟ったんだと思う。だってあのナイフは琢磨が持っていたのを奪ったのだから。それでも愛する琢磨を庇って自分が罪を被ろうとしたのだわ。不幸続きで周りの人たちの醜い部分を見てきた彼女にとって、信頼し自分を委ねられる人にやっと巡り会えた。磯村じゃないけど闇の中にやっと差し込んできた光だと思ったのに、その男性が最も卑劣で狡猾な最悪な男だったなんて最悪……美咲さんが可哀想」

「だろ? 琢磨のほうはすべて美咲の仕業にしようとしたのだぜ。どうやって手に入れたが判らないが、彼女の毛髪を小林の死体に握らせた。そればかりかコジローを殺害したときも彼女を現場に呼び出して犯人に仕立てようとした。恐らくコジローを見かけたと警察に通報したのも琢磨の仕業だ。美咲がいるときに踏み込ませたかったのだろう。そうすりゃ、現行犯逮捕さ。しかし、数秒の差で美咲がからくも逃げおおせたのをどこかで見ていて舌打ちしたかもな。そこで急遽計画を変更して、磯村の元へ連れて行くことにした。今度は磯村を殺して、その罪まで美咲になすりつけようとしたのだ。そんな悪魔のような酷い男を庇う心理が僕には判らない。ああ、全く判らない。女心なんて全く不可解だ」

 やれやれ何でも良く知っている真一だが、唯一男女の機微に疎いのが欠点だなと思う栗橋であった。


           了







参考文献

「私はフェルメール」フランク・ウィン ランダムハウス講談社

           小林頼子、池田みゆき 訳 


「消えたカラヴァッジョ」ジョナサン・ハー 岩波書店

田中靖 訳


「絵画表現の仕組み」森田恒之 監修      美術出版社


「絵画の進化論」 小田茂一          青弓社


「奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝」     晶文社



         

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