エピローグ

 平日の昼、駅の近くに設置された喫煙所。簡易的に囲われたその場所に天井はなく、香澄の口から吐き出されたタバコの煙は、空へと立ち上り囲いを離れると風に吹かれて飛散する。飛散した後のソレは目にこそ見えないが、確実に辺りを彷徨いタバコを吸わない敏感な鼻を刺激した。社会が健康被害と騒ぎ立て生み出した筒抜けの囲いに、一体どれほどの意味と価値があるのだろう。香澄は自分が吐き出した煙を眺めながらそんなことを考え黄昏ていた。

「悪い悪い。遅れちまったな」

 喫煙所の入り口から顔を覗かせた楢山が顔の前に手を合わせて謝る。

「仕事もひと段落したんで大丈夫ですよ。それより一本いりますか?」

「いや、いいよ。それより店に入って話そうや」

 香澄は貰いタバコを断った楢山に違和感を覚えつつも、共にその場を離れて喫茶店へと移動した。席に着くなり注文を取りに来た店員に香澄はホットコーヒーを二つ注文する。しかし楢山は「いや。今日俺はメロンクリームソーダにするよ」と言って自分の分の注文を訂正させた。その注文を聞いた香澄は目をまんまるくして楢山を凝視した。

「んっ。なんだその目は。俺みたいな年寄りはメロンクリームソーダを注文しちゃいかんのか」

「そういうわけじゃないですけど、今までそういった甘い飲み物を選んでいるの見たことがなかったんで。どういう風の吹き回しかと」

「酒を辞めた反動かもな」

「辞めたんですか?いつ」

「辞めたっていってもまだ一月やそこらだぞ」

「本当にどうしたんですか楢山さん。体調でも悪いんですか?」

「まぁそう焦るなよ。後でちゃんと話すから。それより奈須家の様子はどうだ?」

 話を変えられて渋い顔をする香澄だが、運ばれて来たコーヒーを一口すすってから答える。

「息子の勇雄の家庭は日常生活に戻っています。まぁ納得できていない部分も多いでしょうが、表向きには平静を保って暮らしている様に見えます。ですが文雄さんの方は……」

「やはりまだ塞ぎ込んでいるのか?」

「ええ。自分が復讐なんて始めなければ酒井……、奈須慎吾が死ぬ事はなかったと。それに自分は何の罪にも問われずに済んでいることが、納得できないと言ってずっと自宅に篭っています」

「そりゃあそうだろうな。納得なんて出来やしないだろ。だが今回の騒動で上の連中の首も幾つか飛ばされることになる。連中としてもこれ以上のいざこざは、更に自分たちの首を締めかねないから何もなかったことにして早急に全てを終わらせたかったんだ。そうじゃなきゃこう易々と全員の安全を確保できなかった。……納得はできないがな」

 眉間にシワを寄せてメロンクリームソーダのアイスを口に運ぶ楢山。香澄は窓から見える外の通行人を眺めながら話す。

「この結果は想定していた中で最良の部類。そんな風に考えてしまう私たちは随分と染まってしまっているんでしょうね」

「誰も彼もが純白のままで生きていけるほど、この世は澄んじゃいないだろ。白がありゃあ黒もある。白を守りたいなら灰色になる覚悟で白と黒に挟まれる存在も必要なんだよ。俺たちみたいにな。それに時と場合で白が黒になる事だってある。もちろんその逆も然り、世界はそう単純じゃない」

「それはこの世界にいて嫌というほど学びましたよ。見る角度によっても善悪なんて簡単に変わるってことも。だけど楢山さんも言っていましたけど、流石に今回の事件では俺も疲れました。柄にも無く家に飾ってる家族の遺影に「こんな結末で良かったんだろうか?」なんて一人問いかけてしまう程度には……疲れました」

「馬鹿野郎。お前にはまだまだ踏ん張ってもらうぞ」

 楢山はそう言って薄汚れた分厚い手帳を香澄の前に差し出した。

「これは?」

「上の連中と渡り合う為の秘密道具だ」

 察した香澄は差し出された手帳をペラペラとめくった。そこには複数の県警上層部のネタに始まり、警察庁のお偉方など個人の情報。それに留まらず果てには組織として隠蔽したであろう事件の詳細が事細かに書き込まれていた。

「楢山さん。こんな情報持っててよく今まで処理されなかったですね」

「それを水戸黄門の印籠の様に、これ見よがしにかざしていたら今ここにはいないだろうな。それにこっちも随分と上の連中の為に融通を利かせた。忘れるなよ香澄。ソレは使い方と使い所を間違えなければこその秘密道具だってことを」

「何だか引継ぎの様に聞こえるのは気のせいですか?」

「いや、間違っちゃいない。引継ぎだ」

「全てを俺に押し付けて隠居ですか?」

「まぁそう言うな。何の責任も取らずに終わらせられる程、今回の件は軽くはなかった。まっ。俺一人のクビぐらいで話が済んだんだから良しとしとこうや。だから悪いな。あとは任せた」

 肩の荷が下りたからか、やり切ったという自負からか楢山の顔には何一つ曇りがない。その表情を見た香澄は諦めからか、覚悟からかため息を一つ吐き出し微笑んだ。

「隠居なんてしたらボケちゃいますよ。何か趣味でも見つけてください」

「確かにそうだな。釣りでも始めるか」

 笑い合う二人は会計を済ませ店の外に出る。

「悪いな払わせて」

 楢山が申し訳なさそうにいうと香澄が笑う。

「これから無職になる人間に払わせられないでしょう。それにしてもこれからは一人か。楢山さんのおかげで」

「そのことなら心配ないぞ。実はキャリア組のやつで一人使える男がいてな。近々連絡が来ると思うから仲良くやってけ」

「そんなところは最後までしっかりしてますね。そうだ。これ選別にどうぞ」

 香澄はポケットから取り出した新品のタバコを一箱楢山に差し出す。しかし楢山は手を横に振ってそれを断った。

「また禁煙始めたんですか?」

「いや。辞めた。もうそれは必要ないからな。……そろそろ行くとするか。元気にやれよ香澄」

 そう言って背を向け去り行く楢山を、香澄はその姿が見えなくなるまで見つめ続けた。


「もう。お父さんも珠紀も九時には出発するって言ったじゃない。早く出ないと渋滞するわよ」

 一人身支度を済ませた早江が玄関から大声を出して二人に呼びかける。そこに準備途中の勇雄がリビングの扉から申し訳なさそうに顔を覗かせる。

「すまんすまん。もう準備できるから先に車でまっててくれ」

「なら車で待ってるけどホントに早くしてよ。あと家の鍵はお父さんが最後にしっかりと確認してちょうだい」

「わかった」

 早江は勇雄の返事を聞くと家を出て一人車に向かった。勇雄は急ぎ洗面所に向かい慌てた様子でカミソリで髭を剃る。

「痛っ」

 慌てたあまり剃刀で切ってしまい、頬を一筋の血が伝いポツリポツリと滴り落ちた。勇雄は近くのタオルを手に取り傷を押さえつけた。傷口は浅い様でタオルを離すと血は傷口から滲む程度に収まっていた。

「どうかした?」

 玄関から聞こえる珠紀の呼びかけに勇雄は「なんでもない」と返す。そして急ぎ髭を剃り直す。髭剃りを終わらせた勇雄は早江に言われた通り家の戸締りを確認してから荷物を持って玄関に向かった。

「どうしたのよその傷」

 心配そうに勇雄の顔を覗く珠紀。そんな娘の胸元を顔を青くして凝視する勇雄。

「何?……あぁ、これ?可愛いでしょこのネックレス。貰い物なんだ」

 玄関のガラスから差し込んだ光が、小さな星型のトップが付いたネックレスを煌びやかに輝かせる。満面の笑みを浮かべて話す珠紀に勇雄は何も言えず立ち尽くす。その様子を見て珠紀の表情は満面の笑みから微笑みに変わった。

「ダメだよー。今回はちっちゃな切り傷で済んだけど、いつか大怪我に繋がるよ。これからは気つけてね。お父さん」

 珠紀はそう言い残し玄関の扉をゆっくりと開けて、一人母が待つ車へと向かった。一人玄関で立ち尽くす勇雄は、二人が出て行った扉を唯々見つめていた。

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