(3)

「話せたか?」

 喫煙所のベンチに座り、タバコを吹かし遠くを見つめる香澄に楢山が話しかける。香澄は「えぇ」と短く返事を返す。楢山は香澄の胸ポケットに入っているタバコを一本くすねて火をつけた。

「禁煙は完全に断念ですね」

「こんな仕事してて辞められるなんて考えた俺が馬鹿だった」

「だけど馬鹿で鈍感にでもならないと、こんな仕事長く続けられないでしょ」

「……まぁな。酒井の様子はどうだった?」

 楢山の問いかけに眉間にシワを寄せ深呼吸をしてから答える香澄。

「時折興奮することもありましたが、何処となく達観しているようにも見えました。本人も言っていましたが後悔はしていなさそうです」

「後悔していない、か。俺には後悔しかない。良かれと思って選んだ選択が巡り巡って、こんな結末を生み出してしまった。悪かったな。酒井の事、お前に黙っていて」

「楢山さん。誰でもない、あなたがそう判断したんならそうするべきだったんですよ。きっと。それに今回こんな事になってしまって、結果論だけで言えば別の選択があった。なんて考えが頭をよぎりますが、いつだってその時に選べる最善ってやつを目指して俺たちはやってきたじゃないですか」

「確かに。だが俺たちが選んだ最善はあくまでも俺たちにとっての最善だったのかもしれないな。俺たちは本来行うべき、行わなくてはいけなかったことを諦めてしまった。本当は妥協せず、諦めず。立ち向かい続けるべきだったんだろうか」

「昔はその手の議論を酒の肴に朝まで語り明しましたね。でも後悔なんてあなたらしくもない。俺たちはバランスをとりながら、助けられる人を助けていく道を選んだ。それが正しい事だったのか間違いだったのかは分かりませんがね」

 楢山は失笑しながら頬に刻まれた深いシワを指でなぞる。

「歳かね、俺も。今回ばかりは少し疲れた」

「弱音を吐くのは早いですよ。これから酒井がまともに裁判受けられる様にしなくちゃいけないんですよ。それに奈須文雄の件に関しても山ほど問題を片付けなきゃいけないですし、まだ頑張ってもらわないと」

「いつまで老体に鞭打ちゃ気が済むのかねお前は」

 楢山の返答に香澄は微笑んだ。その時2人のすぐ側を猛スピードの車が通り過ぎると、署の裏手にある非常口のすぐそばに停車した。

「警察署の敷地内で何て運転しやがる。指導してやらにゃあ気が済まん、ついて来い香澄」

 鼻息を荒くして車に向かう楢山の後を香澄はやれやれといった様子で付いて行く。すると突然勢いよく非常口が開けられ、中から男2人に抱えられた酒井が車に担ぎ込まれた。

「どうなってる?」

 驚き固まる楢山を押し除け香澄が車に駆け寄る。しかし香澄の呼びかけも虚しく車は急発進すると、そのまま猛スピードでその場を去った。香澄は神妙な面持ちで酒井が出てきた非常口に向かった。非常口周辺の地面には引きづられた大量の血痕が事の重大性を香澄に突きつける。

「どいつもこいつも余計な事ばかり。おかげでこっちの仕事が増えて困る。これだからカス共の世話は嫌なんだ」

 非常口から現れた血にまみれた服に身を包む従僕の男が、ため息を混じらせながら吐き捨てる様に言った。男を見た香澄は激昂し、男の胸ぐらを両手で掴みそのまま壁に勢いよく押し付けた。

「お前達あいつに一体なにをしたんだ?」

「何もしちゃいない。あいつが勝手に自分の首を切り裂いたんだ。おかげでこっちは予定外の仕事が増えた。お前達無能のせいでな」

 男は香澄を振り解き睨みつける。

「取調室に刃物を仕込まれていても気付かない間抜け共のおかげでこっちはいい迷惑だ。おかげでこれから俺がどれだけ調整に走らなきゃならんかわからんだろ。まさかお前が取調室に刃物持ち込んだんじゃないだろうな?」

「何の話だ?本当に酒井は自分で首を切ったのか?」

「だからさっきからそう言ってるだろうが。何で俺たちがわざわざ白昼堂々とあいつの処理をするんだ?それもわざわざ首なんて切って血まみれにして物証の山を作る必要が何処にある?あのクソ野郎、椅子の底に柄のない包丁なんて貼り付けてやがった。本当に共犯じゃないんだろうなお前。もしそうなら覚悟しとけよ」

 従僕の男はそう言い残すと何処かに電話をかけながら署を後にした。

「大丈夫か?」

 呆然と立ち尽くす香澄の肩に楢山は手を置いて声をかけるが香澄からの返答はない。時が止まった様に動かない二人を、強い日差しが燦々と照らし続けた。


「——ねぇ、聞いた?」

 教室の自席で考え込んでいた珠紀は不意の質問に我に帰り「えっ?」と声を発した。自分の問いかけを聞いていなかった事に不満を感じた世奈は頬を膨らませ珠紀の目を見つめる。

「ごめんごめん。少し考え事。それで、なんて言ったの?」

「もうっ。ちゃんと聞いてよね。この間あたし達に説教してきた世界史の教師いたでしょ?あいつ休職したらしいよ」

「休職?どうして?」

「まっ。あたしも聞いた話なんだけど、何でもあいつの奥さんが浮気してたみたいでね。それに気づいたあいつが相手を呼び出して大暴れして警察まで来たんだってさ。笑えない?偉そうにあたし達に説教してきた人間が警察の世話になるなんて」

 ニヤつく世奈とは違い珠紀は悲しげな表情で尋ねる。

「先生……、お子さんはいないのかな?」

「子供?さぁ。どうでもいいじゃん。そんなこと」

 世奈の返答に珠紀は「そうだね」と返すと、一度視線を床へと落とした。そして再び視線を上げると今は別の生徒が座る、生前の巳紀の席を見つめた。

「どんなに見つめても死んだ人は帰ってこないよ?」

 珠紀の様子を見て世奈が言うが「んー」と上の空で答える珠紀。世奈はため息を吐いて話を続ける。

「あの子パパ活なんてしてたんだよ?そんなことしてるからこんな事になるのよ。自業自得よ。それにあたし達は別に関係ないんだし気にすることないでしょ」

「気にしてなんていないわ。むしろどうも思っていないから自分に驚いているって言うのかな。あたしって本当は冷たい人間だったのかなって」

「そんなことないよ。珠紀はあたしが困ってたらいつも相談に乗ってくれるじゃない。それにあの子が居なくなってどうも思わないのは私も一緒だし、そんなモンだよみんな」

「そうか。そんなモンなのか。そっか……そうなんだね。ありがとう世奈」

 それまで曇った表情だった珠紀は、つきものでも落ちたかの様に晴れやかに微笑んだ。

「こんな事で感謝なんてしないでよ。だって私たち親友じゃない。ところで次の休みなんだけど、ちょっと欲しい物があって買い物付き合ってもらえない?」

「次の休みはダメなんだ」

「えー、どうして?」

「次の休みは家族でキャンプに行くの」

 世奈は眉間にシワを寄せて話す。

「キャンプ?しかも家族で?それって楽しいの?絶対私と出かけた方が楽しいのに」

「さぁ。楽しいかは分からないけどお母さんが発案してくれたんだ。それを断るのはちょっと可哀想かなって思って。それにたまには家族水入らずってやつも悪くないよきっと」

「私なら父親も一緒にキャンプに出かけるなんて考えられないけどな。臭いし見た目も冴えないおっさんだし、何だか顔も油でテカテカしてて気持ち悪い」

「言い過ぎだよ世奈。私たちの為に一生懸命働いてくれてるんだからそこまで言わない。それよりそろそろ移動しないと授業始まるよ?早く行こ」

 咎められた世奈は不満気な態度を取ってこそいたが、珠紀に囃し立てられ一緒に教室を出た。

 廊下を歩く珠紀は急に足を止めてゆっくりと振り返り、喜怒哀楽その全てを含まない淡とした表情で廊下の先を見つめる。

「何してるの?早く行かないと授業始まるんでしょ?」

「何もないよ。ただ振り返っただけ」

 向き直った珠紀は綺麗な微笑みを浮かべ世奈に答えた。


「おいっ、どうなってんだ」

 早朝の現場。一人で仕事の準備を進める勇雄を見つけるなり、鼻息を荒くした係長が怒鳴りつけた。

「どうかしたんですか?」

「どうかしたじゃないんだよ。お前のところに入れてた派遣社員いただろ」

「三川君のことですか?彼がどうかしましたか」

「そうそう。そんな名前の派遣社員だ。今朝会社に来たらそいつに寝取られた旦那ってやつから何件も留守番電話が入ってたぞ。そいつはまだ会社に来てないのか?来てないなら連絡して早急に呼び出せ」

「呼び出せと言われましても彼の連絡先を知らないので。派遣元に連絡してみるので少し待ってください」

 勇雄は興奮する係長を宥めつつ、三川の派遣元に連絡を入れて事情を説明した。派遣元は至急本人に連絡を取ると言って一度電話を切った。そして数分後かかってきた電話での派遣元の説明は本人と連絡が取れないというものだった。本来ならここで電話を切りそうなものだが、勇雄は側で腕組みをして待つ係長がいる手前簡単には電話を切れない。その為、勇雄は三川に関する住所等の情報を無理と分かりつつも聞いてみた。しかし案の定相手方は個人情報ですので、と頑なに明かすことはなかった。その様子を見ていた係長が業を煮やして勇雄から電話を奪い取り、荒い口調で電話相手を問い詰めるが事は好転しない。怒りに震える係長は最後には「お前の会社は今後出入り禁止だ」と吐き捨て電話を切った。未だ興奮冷めやらぬ係長に勇雄は恐る恐る声をかける。

「まだ。来ないと決まった訳じゃないですし。もしかしたらこれから会社に来るかも知れないので来たら話を聞いて——」

「黙れっ。電話をかけてきた男はすぐにでも会社にまで来るって言ってんだ。そんな事になったら人事を管理している俺の査定に響くんだよ。もういいから、もしも派遣の奴が来たらすぐ俺のところに来る様に言っとけ」

 係長は近くのゴミ箱を蹴り飛ばした後、その場から離れた。辺りにはゴミ箱の中身が散乱しており勇雄はそれを手際よく片付けてから仕事の準備に戻った。

 その後従業員達が続々と出勤するが、終業時間を過ぎても三川が姿を表すことはなかった。

 勇雄は一人残り現場の片付けと翌日の仕事の準備をしていると、係長が朝の勢いそのままで現れた。

「おいっ。結局あいつは来なかったのか?」

「来ませんでした。派遣元から何か連絡はありましたか?」

「夕方に一度電話をよこしたが本人と連絡が取れないの一点張りだ。それよりもお前のところ仕事遅れてるぞ。どうすんだ?」

「仕事の方は来週から残業して間に合わせるつもりです」

「そんなんで間に合うのか?来週からなんて悠長なこと言ってないで明日から休日出勤した方がいいんじゃないのか?」

「来週からでも十分間に合います。それにこの休みは用事があるので出勤はできません」

「あのな、用事なんて誰にでもあるんだよ。それでも仕事するのが社会人じゃないのか?あまり仕事を蔑ろにしてるようならクビにするぞ。お前の代わりなんていくらでもいるんだからな」

 これまでの勇雄なら素直に頭を下げて謝罪する場面だ。係長もそれを知っているから勇雄に対して酷い物言いをする。しかしこの日の勇雄はこれまでとは違い、軽く首を傾げて係長の目を真っ直ぐに見つめると落ち着いた口調で話した。

「前々から思ってたんですけど、あなた何か勘違いしてませんか。こっちはバカと話す時間が勿体無いから大抵のことはハイハイ言って済ませてるんですよ。それに私はあなたじゃなくて会社に雇われているんです。そんなに私が気に入らないのなら、指示なり指導、決定なんでもいいんで会社としての意見をください。そうじゃないなら今回の件も含めて全て上に話して然るべき対応をとりますよ?」

 起伏なく淡々と話す勇雄の言葉には何ら感情は絡んでいない。だからこそ側から見ればより冷たい物言いに聞こえるだろう。しかしそれはこの言葉を投げかけられた係長も例外ではなかった。これまでなら間髪入れずに怒号を上げて勇雄を叱責していたであろうこの場面だが、係長は目を泳がせ口をモゴモゴと動かし動揺を隠さずにいる。ようやく言葉を発し「じょ、上司にその言葉使いはダメだと思うぞ」と言うとそそくさと勇雄の前から姿を消した。

 勇雄は係長が去る後ろ姿を冷ややかな目で見送ると早々に仕事を済ませて帰路についた。


『——警察の発表によりますと、半年前に死亡した殺人事件の容疑者として取り調べを受けていた男が拘置所で首を吊っているのが発見された事件に関しまして。病理解剖の結果、事件性はなく自死であることが確認されたとのことです。警察の発表では死亡時の詳しい状況等は依然として捜査中で、早急に原因を究明し今後このような事が起きない様に対策をこうじるとのことです。……それでは次のニュースです』

 誰もいないリビング。誰も見ていないテレビでは次々とニュースが読み上げられている。部屋に両手いっぱいに荷物を抱えた早江が姿を現したのは、ちょうど早江が見ている今日の料理コーナーにさしかかった頃だ。

「あー重たかった。やっぱり買い過ぎたかな」

 息を切らして独り言を呟く早江。ちょうどそこに学校から帰宅した珠紀がリビングに入ってきた。

「ちょっとお母さん。どうしたのこの荷物」

「あらっ。今日は早かったのねお帰りなさい」

「お帰りじゃないわよ。これ全部キャンプ用品?一体何泊するつもりなのよこの量」

 大量に広げられたキャンプ用品を指さして聞く珠紀。

「一泊って言ったでしょ」

「一泊にしては多すぎるでしょ。数週間は生活できそうな荷物じゃない」

「そんな事ないわよ。もしも何かあっても困らない様に準備したらこうなったの」

「何もない所で野宿するんじゃないんだから。明日はキャンプ場でキャンプするんだよ?トイレもあれば炊事場もあるしコンセントだって用意されてる。それに夕方までなら売店で飲み物も食べ物も買えるってパンフレットに書いてたじゃない」

「まぁそうなんだけど。キャンプって事前準備が九割五分って言うじゃない?だからしっかり備えないとと思ったのよ」

「何よそれ。今まで聞いた事ないよそんなの。それにしたってさすがにそれ全部運ぶのは大変だから荷物減らしてよ。あとお父さんはまだ帰ってないの?今日は早く帰るって言ってなかったっけ」

「あー。お父さんならちょっとおじいちゃんのところに寄ってから帰るって。それよりもやっぱり減らさないとダメかな荷物」

 キャンプ用品を手に持つ早江を、呆れ顔で珠紀が見つめていると帰宅した勇雄がリビングに現れた。

「何してるんだお前達」

「キャンプの準備らしいんだけど、お母さんこの荷物全部持っていくつもりらしいから荷物減らしてって言ってるところ」

「確かにちょっと多過ぎるな」

 苦笑いを浮かべながら話す勇雄。その様子を見た早江はあからさまに不機嫌になった。勇雄はそれに気がつくと慌てた様子で言う。

「まぁでもせっかく母さんが準備してくれたんだし、それに何が起こるか分からないんだから持っていこう。使わないなら車に積んでおけばいいんだから」

「本当。お父さんってなんだかんだ言ってもお母さんに甘いよね」

「そ、そんな事は……」

 耳を赤くして言葉を詰まらせた勇雄を見て、珠紀は更に茶化す。そんな二人の様子を早江は優しく見つめていた。

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