ブービートラップ

@nikki-Capri

ブービートラップ

プロローグ

 雪は夜になって一層強く降り始めた。空を見上げると、夜だというのに都会の明かりとスモッグのせいで濁った灰色の空から、白い雪が顔に降り注ぐ。

目の前には新宿西口副都心に聳える高層ビル群。点滅する赤い航空障害灯が滲んで見え、眼下に広がる低層のマンション群のベランダや戸建住宅の窓からは、室内の明かりが漏れている。

 この冬一番の冷え込みである今夜、人々は、暖かい部屋で一家団欒の時を過ごし、恋人たちは素敵なホワイト・クリスマスの夜を過ごしているようだ。

なのに……私はこんな場所で何をしているのだろう。

余りにもショックな現実と向かい合うのが辛くて、ついふらふらと足が自然にこのマンションへと向いた。ところが此処には更に私を絶望の淵へ突き落とす程の仕打ちが待ち受けていた。そして混乱した頭を冷やそうと、自然に足が屋上へと向いたのだ。

雪がしんしんと降り続き、徐々に地面を白く覆う。クリスマス・イブの、しかも真夜中に戸外をうろつく人影も無く、辺りは静寂に包まれていた。

地上十二階のマンションの屋上は、風が強く吹き、煽られた雪が、横なぐりで顔に吹き付けるせいで、満足に目も開けられない。

 どれほどの時間、こうしていたのだろうか。冷たさを通り越して凍りつくような外気温で、手がかじかんでくる。


 そろそろ行動に移そう。いつまでもこうしていると、決心が鈍る。二人の男性に辱めを受け、その上誰の子供かもわからない命を身籠った、そんな汚れた身体は、生きている価値が無いのだ。愛される価値など無いのだ。


「ああ、どうしてこんな事に……もう人間なんて信じられない。こんな事になるなら、来なければ良かった。この場所だけが、傷ついた私を優しく癒してくれると思ったのに……それどころか、こんな仕打ちが待ち受けているなんて。お父さん、お母さんごめんなさい。そして、こんな時こそ信頼し、将来を誓った彼の胸に飛び込みたかった。でも、もう彼に甘える事は出来ない」 そう胸の中で呟く。

 静寂を破るようにパチンという金属音がする。

 屋上に張り巡らされた金網の柵を背に身体が反転し、頭からまっ逆さまに落ちていく。

身体が緩い曲線を描きどんどん落下スピードが加速する。長い髪だけが風にたゆたうように優雅に舞う。一瞬の出来事なのだろうが、地面までがとても長く、遠く感じる。次第に意識が薄れて行く。

 やがて肉体は凄まじい勢いで雪の積もるコンクリートの地面に叩きつけられる。ゆっくりと白い雪が赤く染まっていく。

 こうして、一人の若い女性が、この世界に別れを告げた。


              第一章

1998年6月28日

 初夏の日差しが眩しくきらめき、樹木の緑が一層鮮やかに映る。 強い日差しがアスファルトを焦がし、陰鬱な梅雨の合間、久々の心地良い青空に人々は来たりし夏を予感する。心なしか急に都会が活気を取り戻し、ざわめきがいや増すようだ。

 そんな都会の喧騒も、蔦の絡まる煉瓦塀に遮断され、K大学キャンパスの中は別世界のようである。

「トレンド研究会」サークルの会合を終えた学生たちが校舎から出てくる。 互いに次のスケジュールに向け三々五々散らばっていく。

「じゃ、僕もここで」

 よれよれのジーンズを履いた福井という学生が下校するメンバーに声を掛ける。

「これから用事が有るのか? 俺たちはアップルが発売したi‐MACを買いに行くんだけど、一緒に行かないか?」タケシが誘う。

「悪い、これから上野たちと囲むんだ」 福井が牌を並べる手つきをしながら、答える。

「麻雀か。カモられないよう精々頑張れよ。じゃあ、な」

 そう言って福井を見送ると、タケシは連れ立って歩くノラとチェリーに向かって話しかける。

「福井も懲りないな。あいつはギャンブルはからっきしで、カモにされるって自分でも判っているはずなのに……誘われれば断れないタイプだからな」

 そう言ってため息をつく。その様子が可笑しくてノラとチェリーは思わず微笑む。

「まるで福井の保護者みたいだな。ところでタケシ、ヨーロッパ旅行はどうだった」

 ノラの問いかけにタケシは得意そうに答えた。

「そうそう、その話をしたかったんだ。やはり掘り出し物が一杯見つかったよ。秋に開店する雑貨屋の品揃えが充実してきた。これもノラのアドバイスのお陰だ、礼を言わなきゃな」

 そう言いながらタケシは思い出したようにジーンズのポケットから何かを取り出す。

「ほら、見てよ。デュポンの漆塗りだぜ。しかもヴィンテージ」

 ノラがいつも煙草を吸うとき、火をつけ終わってダンヒルの蓋をパチンと閉じる。その仕草が格好良いと密かに感じていたタケシが、イギリスで見つけ奮発して買ってきたのだ。

タケシにとってノラは、同い年であるにも関わらず尊敬すべき師匠であった。学生起業家としてのノラの才覚のみならず、彼の思考、行動すべてが憧れであり、ことごとく彼の真似をしようとした。それでなくとも二人には共通点が多くあった。

まず、誕生日が同じ、そして血液型が同じB型、背丈、体つき、そして利き腕も左手と、似ている点が数多くあった。その上、タケシがノラの服装の趣味や髪型まで真似るので、二人を間違える人もいたほどであった。

 そんな二人を仲間たちは一卵性双生児と冷やかした。

「もし血液型が違っていたら、タケシは自分の血液をすべてノラと同じB型に入れ替えたんじゃ無いか」そう揶揄した連中もいた。

 だから高価なライターを手に入れたタケシは、少々自慢気であった。

「おっ、どれどれ。ちょっと貸して」

 ノラがタケシの左手からライターをもぎ取り、上蓋を跳ね上げる。デュポン特有のティンという小気味良い音がする。

「さすが、デュポン。良い音がする」ノラが呟き、二、三回火をつけてみる。

ライターなどには全く興味の無いチェリーが話を戻す。

「それで、開店準備は順調に進んでいるのね。楽しみだわ」店の開店を待ちかねたように言う。

  ノラが提唱して同士を募った「トレンド研究会」は、いち早くトレンドを掴み、学生でありながら起業家を目指すという趣旨で立ち上げたサークルであった。

ノラは、来るべきネット社会を予測し、検索サイトを立ち上げ、企業に売り込んでいた。彼と、ゲームソフト制作のT大の広瀬、それに携帯電話のサイトを立ち上げたH学院の桑名。この三名は学生起業家三羽烏と呼ばれ、マスコミにも注目されていた。

 研究会部長のタケシは骨董品やインテリア雑貨が好きで、しょっちゅう海外に出掛けては、現地の民族色の濃い品物を買ってきていた。それを知ったノラがタケシに商売のヒントを与えたのだった。今回の渡欧を進めたのもノラであり、タケシはノラのアドバイスどおりヨーロッパの雑貨や食器などを多数買い漁ってきたのだ。そして秋には小さいながら海外直輸入の雑貨屋を原宿に開こうとしていた。

「本当にノラには感謝している。やはりノラは俺の先生だ。これからも色々アドバイスを宜しく頼んます」

 おどけ気味にそう言ったが、その気持ちは嘘では無かった。タケシは心底ノラに心酔しているのであった。「トレンド研究会」の部長ではあるが、そもそも研究会のアイデアはノラが考案したものであるし、当然ノラが部長になるべきなのだが、彼は面倒見の良いタケシに部長の座を譲った。しかし、タケシは今でもノラの一番弟子を自認していた。

「ところで、アクも一緒に行ったんだろ。彼は何か収穫は有ったのか?」

 ノラの口からアクという名が出たことでタケシは顔を顰めた。

「駄目だよ、奴はただの物見遊山で海外に行きたかっただけなのさ。観光地巡りと土産物漁りに時間を費やしていたよ」

「そうか……だから言っただろ、連れて行くのは止せって。タケシ、面倒見のよさも大概にしたほうが良いぜ」 ノラは苦笑せざるを得なかった。                 

 アクとその仲間達は、元々トレンド研究会の会員では無かった。ノラとゼミが同じだったよしみでサークルに入れてくれと半ば強引に入会してきたのだが、トレンド研究会の趣旨を取り違えて遊び呆けている連中だった。

彼らの関心は、専ら若者がたむろするプレイスポットや、流行のブランドショップに向けられていた。それはそれで構わないと思う。そこでの体験や情報からヒントを得て新しいビジネスチャンスを探るのであれば……だが、彼らは単にお洒落や遊びのフィールドとしてそれらを利用することに終始していた。

 そんな連中ではあったが、タケシはアクに少し期待も有ったのだ。お坊ちゃん育ちの世間知らずではあるが、付き合う連中が悪いのだと考えていた。真面目な自分と行動を共にすることで、アクも変わるかと考えたのだが、甘かったようだ。

 ノラにはそれが判っていた。チェリーやタケシには話していないが、以前ノラは、一度だけ彼らと飲みに行った事が有ったのだ。彼等のアルコールの入った時の乱れ様は尋常ではなかった。他の客の迷惑も顧みず大騒ぎをする。一緒にいるのも恥ずかしく、トイレに立ってそのまま帰ろうとした時、仲間内の紅一点であるヒメが、トイレの前で待っていた。

 しなだれかかるように体を預けてくる。

「しっかりしなよ。大丈夫か」 ヒメを体から離し、席に連れ戻そうとした。

「いや、ノラって冷たいのね。そんなに私って魅力ない」

 もともと男好きのするコケティッシュなタイプのヒメが、しなをつくって挑発する。

「あの人達ったら、酔っ払って大騒ぎして馬鹿みたい。彼らの事は放っておいて、二人でどこかへ行かない。ノラとならどこへでもお付き合いするわ」

ちょっと待ってくれよ、ノラは心の中で叫ぶ。俺だって男だ、セクシーな女性から据え膳なんて願っても無いチャンスだし、このまま二人でしけこみたい気持ちは大いに有るが、それはまずい。

「ね、楽しもう」 そう言うなりヒメはノラにすがりつき、素早く唇を奪う。

 甘い体臭と柔らかな唇、おまけにヒメはボリュームのある胸を押し付けてくる。ノラは下半身が敏感に反応するのを感じ、慌てて彼女の体を引き剥がした。

「駄目だって。飲みすぎだぞ」 ノラが頑強に拒否するので、さすがにヒメもしらけたらしい。

「ノラってつまんない男ね。次はタケシにアプローチしちゃおうかな」

 そう罵られた事を今でもはっきりと覚えているノラであった。

「どうしたの?」 急に黙り込んだノラにチェリーが尋ねる。

 その声にノラは現実に引き戻され、慌てて思い出に封をする。

「いや、何でも無いさ。さ、行こう」

「今度はノラが出発だな」 タケシが話しかける。

「ああ、もうみんなともお別れだ。二年は向こうに行っているから、卒業式にも戻ってこないかも判らない」

「夏休みになればすぐに行くのか」

「ああ、MBA取得のために二年間は米国暮らしだ。と同時にコンピューター先進国の実態もこの目で確かめて来たいしね。お前の店の開店を見られないのが残念だけどな。サークルは頼んだぞ。タケシ」

「おう。まかせとけ」

「寂しくなるわ」チェリーがぽつりと漏らす。

「二年なんて、あっと言う間さ。戻ってきた時、タケシのショップがどの位繁盛しているか楽しみだ」

「よく言うよ。自分がいないでタケシの奴、上手くやっていけるのかって心配してるんじゃ無いのか」

「正直言うとそうなんだ。本当にタケシ一人で大丈夫かな……って」

「こいつ、良く言ってくれるぜ」

 そう言って三人で笑いあったのだった。              

 

 そんな三人の後ろ姿をアクがじっと見詰めていた。

「どうしたよ、アク。いつまでもチェリーの後ろ姿見詰めて」 ハルがひやかし半分でアクに声を掛ける。

「チェリーのこと、好きなのよ。いや、好きなんてもんじゃないわね。恋焦がれているのよ。ね、アク。でもチェリーの本命はノラかタケシ……どうにもならないのよね、可哀想なアク」 ヒメがそう言って慰める。

 私は、あの三人の仲睦まじい姿なんて見たくも無い。腹立たしくなるだけだ。私だって高校時代は、男子生徒の憧れの的としてチヤホヤされた。学園祭ともなると、私目当てに他校の男子生徒が大勢おしかけたものだ。

 ところがどうだ、大学では田崎さくらという強力なライバルが出現し、彼女が私の過去の栄光を上回る人気と支持を得ていた。 ミス・キャンパスにも選ばれ、あろうことか大学一の有名人で、学生起業家として将来を嘱望されているノラや、部長のタケシといった取り巻きを従えている。あの女はいつだってそうだ。私の狙った獲物を目の前で攫っていく……。

 いつかあの女を打ち負かしてやりたい。そうヒメは思うのだった。

「さあ俺たちも行こうぜ。今日は女の子も二人参加するから、盛り上がるぜ」

 アクがふっきるように言い、トロも同調する。

「そうだよ、今日はアクの会社の倉庫で誰憚る事無く騒げるんだし、楽しみだな」

 今まで居酒屋やパブでドンチャン騒ぎをしていたが、近頃では店の方から断わられるようになった。そこで、親が運送会社を経営しているアクが、今は使われて無い倉庫でパーティを開く事を提案した。

 現場にやってきた全員が歓声をあげた。倉庫というので薄暗くて汚いイメージを想像していたが、中は一世を風靡したジュリアナのようにロフトを改造した、居住空間そのものであった。義正がオーディオの電源を入れる。剥き出しの天井の梁から吊り下げられた、BOSEのスピーカーから、大音量のユーロビートが流れ出す。

 連れてきた女の子たちも興奮し盛り上がった。酒をあおり、音楽に合わせて踊る。アクが外国旅行で入手したマリワナをみんなで吸う。

最高にハッピーな気分になり、ヒメがステップを踏みながら、上着を脱ぎ始める。更に調子付いてブラジャーも脱ぎ捨てバストを露にする。

「ああ良い気持ち。誰か私をもっと良い気分にしてくれない?」 男連中に声を掛ける。

ハルが立ち上がり、ヒメに合わせて踊りだす。

 いつの間にか二人の身体が絡み合い、狂おしげに接吻を交わす。ハルの手がヒメのバストに触れる。どちらからとも無く、その場に崩れ落ち、ハルが覆い被さる。ヒメが甘い声を上げる。

 みんなが見ているにも関わらず、二人は下着も脱ぎ捨て激しく愛し合い始めた。

アクもトロもその痴態を目の当たりにし、我慢できなくなったのか、連れてきた女の子達に強引に迫った。

 最初は嫌がっていた女の子たちも、その場の雰囲気とマリワナのせいで、異様な昂ぶりを既に抑えきれなくなっていたのだろう、結局は受け入れる。

アクとトロは互いの相手を決め、それぞれがソファーや簡易ベッドで本能のままに求めあい、痴態の限りを尽くす。三組のペアが、奔放に乱れていく。乱行は明け方まで続いた。

 それからというもの、あの夜の刺激が忘れられず、女子学生を誘っては、倉庫での乱痴気騒ぎを繰り返した。中には身持ちの固い女の子もいたが、みんなで押さえつ、ハルが強引に犯した。その後、訴えられるかと心配もしたが、強姦された女の子たちは泣き寝入りしたのか、大きな騒ぎにならなかった。

 それが、彼らを一層大胆な行動に駆り立てた。ハルだけでは無く、アクもトロも、交代で輪姦する事に恐れを抱かなくなった。そしてアクのために、ある計画を立て学園祭の夜に実行する事にしたのだった。 


1998年10月10日

 K大の学園祭は著名人による討論会、タレントによるアトラクションが恒例となっており、今年もお笑い芸人や人気絶大のヴィジュアル系ロック・ミュージシャンが来校するというので話題を呼んでいた。

 特にロックコンサートは講堂ではとても観客を収容出来ないという理由で、キャンパスの西に位置するグラウンドでの野外コンサートになった。K大独特のコロシアム型のグラウンドは、すり鉢状の底辺に広場があり、周辺をぐるりとコンクリートの階段が取り巻いている。グラウンドの中心に幅二十メートル、高さ十メートルにも及ぶ櫓が組まれ、ステージが作られた。そのステージ上には所狭しとアンプ、スピーカー、シンセサイザーなどの機材が積み上げられている。開演前から押しかけた観客で既に階段は満席状態になっていた。

実行委員が最終確認に走り回り、バンドのスタッフが機材の準備を終える。バンドのメンバーたちがステージに姿を現す。同時に地鳴りのような歓声が上がる。メンバーが楽器のチューニングを手早く行う間、メイン・ヴォーカルであるヒデのMCが始まる。

「K大のみんな、元気か」

「元気」観客全員が応じる。

「俺たちを呼んでくれてサンキュー。しょっぱなからぶっ飛ばすぜ、用意は良いかー」

ウオーという歓声が上がる。

「一発目はこれだあ」ヒデの雄叫びに似た声を合図に、リードギターのイントロが流れる。サイドギターがスカのリズムを刻む。ブラスがそれに加わる。

 再度地鳴りのような歓声と共に、観客は総立ちになって縦ノリを始める。感激に泣

き出す女子学生もいる。もう既にダイブをおっぱじめる連中もいる。

 その興奮と熱気はキャンパス中を包み、遠く離れた図書館にまで届いていた。

「おっ、やばい。もうコンサートが始まったぜ。俺たちも行こうぜ」

 他の催し会場に居た学生たちも次々とコンサート会場に足を向けた。こうして、初日のロック・コンサートは大成功に終わった。

二日目のメインイベントは大講堂で開催される講演会であった。「来たるべきインターネット・ビジネス」と題し、基調講演にはコンピュータ・ソフト製作会社の社長を招聘して行われた。

 司会進行役を「トレンド研究会」の部長であるタケシが務めた。本来で有ればノラが行うべきであったが、彼は留学中であり代役をタケシが務めたのである。

検索サイトを立ち上げ、新しいビジネスモデルとして成功を収めているノラなら、居並ぶパネリストにも鋭い切り口で迫るのであろうが、当時の日本においてはまだインターネットは、マイクロソフトのウィンドウズ98が漸く普及した頃で、サイト数も多くなかった。

 その上当時は通信インフラも整ってなく、現在の光ケーブルやWI-FIによるブロードバンドなど思いもよらず、ISDNが始まったばかりの頃である。当然通信速度も遅く、まだまだ使い勝手は悪かったのだから堀田がピンと来ないのも無理は無かった。

だから、一般人が個人のサイトやブログを立ち上げるようになるというパネリストの発言を聞いても、タケシはただ感心するばかりであった。役者不足を感じながら冷や汗ものではあったが、それでもタケシは無事司会進行を何とかやり遂げた。

 そしていよいよ最終日には恒例の「ミス・キャンパス」コンテストが開催された。

このイベントはK大に連綿と続く歴史ある一大イベントであり、優勝者にはこれまで何人も芸能界やモデル事務所にスカウトされ、今や押しも押されぬスターとなっている人物も輩出していた。そのためかモデル事務所や芸能事務所のスカウトマンも押しかけていた。

 昨年のミス・キャンパスであったチェリーは、今年度の審査員の一員として、更にはミス・キャンパスに冠を手渡すプレゼンターとして、会場入りしていた。一度ミスに選出されると、以降参加資格が無くなるのがK大学祭のルールであった。

 髪をアップに結い、大きく肩口の開いた黒のドレスを身に纏ったチェリーは、ルールさえなければ、連続でミスの栄冠を勝ち取れるくらいに美しく輝いていた。

「チェリー、今いいかしら」

 ヒメが、舞台裏で待機している、チェリーの元にやってきた。

「ノラがいなくって寂しいでしょ。タケシも実行委員長で忙しそうだし。今夜は最終日だからみんなと打ち上げをするんだけど、一緒に来ない」

「どうしようかしら」

 その時、「チェリーさん、お願いします」とスタッフから声が掛かる。

「ねえ、いいじゃない。たまには私たちに付き合ってよ。後からタケシも参加するって」

「タケシも?」それなら安心だとチェリーは承諾するように頷く。

「じゃ、後で誘いに来るわね」

ステージに向かうチェリーに、それだけ言うとヒメは去って行った。


2007年12月13日

 その日、久留米義正は三代目社長として、関東の運送業者の会合に出席していた。本当はこんな会合に出席するのさえ煩わしかったのであるが、世話になっているセン

トラル運輸を始め業界トップへの顔つなぎもあり、渋々顔を出したのであった。

 有名私立大学を卒業後、暫くは現場を覚え、ゆっくりと経営の勉強をすればよいと考えていたのだが、父が急逝したために跡継ぎとして家業である久留米運送株式会社のトップに就任する羽目となった。

 義正の祖父が運送業を起こした当時、日本は高度成長真っ只中で好景気に沸いていた。全国への貨物輸送の需要に供給が追いつかない状態で、みるみる事業規模が拡大していった。

 そして二代目社長である義正の父、憲正が大番頭の伊藤と共にこれまでの個人事業から株式会社化し、都心近郊輸送の中堅業者へと成長させた。業績も順調に伸び、株式の店頭公開も果たし、そこで得た資金を新物流センターの用地買収に充てた。

 。憲正の事業拡大意欲は旺盛であったが、突然経済バブルがはじけた。買収した物流センター用地の資産価値は瞬く間に下落し、貨物の扱い数量も激減し始めた。

今となっては旧来のセンターで充分稼動するほどの扱い量に落ち込み、新物流センターは重い足枷となってしまい、多額の減価償却費と負債だけが残った。事業は拡大路線からリストラクチャリングへと、大きく舵を切らざるを得なくなったのだ。

更に追い討ちをかけるように、憲正はスキルス性の癌に冒されていることが判明した。その時点で既に癌が転移しており、憲正の体内を蝕んでいた。憲正は事業建て直しの志し半ばのまま、半年後に永遠の眠りに、ついてしまったのである。

 義正が後継者として社長の座に就いたが、時代の急激な変化を怨むばかりで、この苦境を乗り越える力量も才覚も持ち合わせてはいなかった。会長である母の裕子と大番頭である専務の伊藤。両名が必死で切り盛りしているのが実態であった。

 新たに宅配や引越し事業にも乗り出したが、大手が参入し子規模業者は次々と大手に吸収され、配送コストの上昇にも関わらず配送料金の値下げ競争が激化していった。

 久留米運輸も、一時は数百台の貨物トラックを擁していたが縮小を余儀なくされ、現在では登録貨物台数も半減している。それも大半は稼働率を上げるため、大手のセントラル運輸の下請けとして外注を請け負い、何とか経営を維持している状況である。義正が社長就任して以来、五年間の実情は以上のようなものであった。


 会合の前半は「郵政民営化後の信書取扱いの方向」と題し、会の幹事役である大手運輸会社の社長による講演であった。義正は話の途中で眠気を催し、壇上から自由化を訴える社長の話を子守唄に、居眠りをしてしまった。

 第二部の立食パーティーで、先ほどの講演を行った大手運輸会社の社長をはじめ並み居る業界のお歴々のテーブルを廻り、挨拶をする。その中には、仕事を回して貰っているセントラル運輸の社長もおり、挨拶方々日ごろ世話になっている礼を述べる。

漸く一通りの挨拶を終え、料理を取りにバイキング料理の並べられたテーブルに近づいた時だった。

「何か仰って頂ければ、テーブルまでお持ちしますわ」 脇から声を掛けられた。

振り返ると、パーティーのために呼ばれたコンパニオンが、微笑みながら義正に話し掛けているのだった。

「ああ、どうも。しかし、テーブルに戻ってお偉いさん方の相手をするのも疲れた。この辺で勝手に食べるから」

「まあ、そんな事仰って良いのかしら?」 コンパニオンが、飽きれながらも笑う。

 正面から向き合う形になって、あらためて彼女の顔を見詰める。

凛とした顔立ち。髪をアップに結い上げ、フリルの付いたスタンドカラーのブラウスからすらりと伸びた美しいうなじが見える。その透き通るような肌の白さが眩しい。ブラウスと黒いロングスカートは、ユニフォームなのだろう、コンパニオン全員が同じ服を身に着けている。それでも彼女の美しさがひときわ目立っていた。義正は彼女をじっと見続けていた。

 彼女は、そんな義正の視線を無視して、皿に料理を盛りつけ始めた。

「はい、どうぞ召し上がれ」そう言ってお皿を義正に渡すと、彼女は別の客の接待を始めた。

 皿を渡す時の彼女のくだけた言い方に、義正は自分に好感を持ってくれた事を確信した。悪い虫が疼き始めた。彼は、年寄り連中のご機嫌取りを放棄し、彼女と仲良くする算段を練る事にした。

 ここに居れば、又、彼女は料理を取りにやって来る。その時彼女は話し掛けてくるだろうか? そうすれば、脈有りだ。もし話し掛けて来なければ、こちらから何て言おうか? 義正はテーブルからナプキンを取り、ペンで何かを書き付けた。

 案の定、やや暫くして彼女が料理のテーブルに近づいて来た。義正は気づかないふりを装う。彼女がちらっとこちらを見る。

彼女が料理を選びながら移動し、徐々に二人の距離が縮まる。

「あら、まだこんな処にいらっしゃったの。ご機嫌伺いをなさらなくて良ろしいのかしら」小首を傾げて悪戯っぽく義正を睨む。

 良く言うぜ、ここに居る事を承知していた癖に……そう胸の中で呟きながらも、義正は素直に応じる。

「そうだね、料理も食べたし、又再開するか」

そう言い残して、彼は近くのテーブルを囲んでいる輪の中に、加わった。会話に適当に相槌を打ちながらも、彼女の動きを目で追う。

 別のテーブルに料理を運んだ彼女が、そのテーブルの年配の男性と話し始める。何やら親しげに見える。

義正は、何故か軽い嫉妬を覚えた。男性が何か冗談でも言ったのだろうか? 彼女が手で口元を押さえながら笑い、男性に言葉を返している。今度は男性が笑う。

と、その時彼女が急に、顔をこちらに向けた。見つめていた義正と、まともに視線がぶつかる。互いの視線と視線が、ねっとりと絡み付くようだ。

 一瞬の間の後、彼女が義正に向かってフッと謎めいた笑みを投げかけ、又すぐに年配の男性と話を続ける。

 しまった、彼女を見詰め続けている事に気づかれた。「私の事が、気になるのかしら?」とでも言いたげな笑いだった。総てを見透かされてしまっているのだろうか。彼女の方がうわてだな……義正は、苦笑するしかなかった。

 諦めて帰るか。ぼんやりそんな事を思い、水割りグラスを傾ける。グラスには氷のかけらが残っているだけで、空であった。

「はい、どうぞ」

目の前に、新しいグラスが差し出される。いつの間に近づいたのか、彼女が義正の傍に寄り添っていた。

「有難う。君、名前は?」

「沙(さ)紀(き)です。宜しくお願いします」恭しく言ってグラスを差し出す。

 義正はそのグラスを受け取りながら、彼女の耳元に小声で囁く。

「お歴々の方々に、充分ご機嫌伺いをしたよ。僕も逆にご機嫌伺いをされてみたいもんだな。君のような素敵な女性に」

そう言うと同時に、メモをしたナプキンをそっと彼女の掌に握らせる。

「最後までどうぞごゆっくり」

 周りの人間に気付かれぬ様に、さりげなくメモを受け取った彼女は、そういい残してテーブルを囲む人々に笑顔を振りまきながら離れて行った。


 会合がお開きとなり、義正は会場のホテル近くの喫茶店で彼女を待った。

 ナプキンにこの場所で待つ旨を走り書きしておいたのだ。はたして、彼女は来るだろうか? 半信半疑で待つ義正は、入り口が開く度に、そちらを振り返った。

 こんなに胸がときめくのは何年ぶりであろうか。中学生か高校生の頃の、無垢で純粋であった時代に逆戻りしたようだ。そんな事を思って苦笑する。

 入り口のドアが開く度、何気ない素振りでそちらを見る。一目でそれと判る男性や中年の女性だと落胆も大きい。厄介なのは、若くてスタイルの良い女性が入って来たときである。目を凝らし、彼女かどうかを見極める。違う、彼女じゃ無い。そんな行為を何十回、繰り返しただろうか。

 やはり来ないのかと諦めかけたその時、彼女がやって来た。

 そのくっきりとした目鼻立ち、抜けるような白い肌、スレンダーな体つきは、目を凝らさなくとも一目で彼女と判別できた。

 本当にやってきたという軽い驚きと、客観的に見ても他の誰よりも群を抜く美貌の女性が、自分の誘いに応じてくれたという喜びで、義正は胸が張り裂けんばかりであった。小一時間待った甲斐があったというものだ。

 結い上げていた髪をおろし濃い目のメイクを落とした彼女は、随分若く見える。パーティーの席上で既にその端整な顔立ちと、スタイルの良さは認識していた。しかし、義正が更に感動したのは、パーティーの時の派手な化粧とお仕着せのユニフォームでは無く、プライベートの何でもない服装にさりげないセンスと趣味の良さを感じたからだった。

サンドベージュのコート、インナーには淡いピンクのセーターと焦げ茶のスカート。同色のロングブーツを履いている。水商売風の派手な格好や、或は打って変わって野暮ったい服装を身にまとうでも無く、趣味の良いセンスが感じられた。

 義正は二年前に結婚をしている。既に妻を持つ身でありながら、心のときめきを抑えきれない自分を感じるのであった。常日頃母から尻を叩かれ、伊藤専務からの忠告を受けながら、義正は己の経営能力の低さを自覚せず、時代や環境のせいにしていた。俺だって親父の頃であれば、こんな苦労はしなくとも、事業を運営出来たさ。時代が変わったのだ。それを何かというと、あの二人は俺を子ども扱いする。そんな不満を持ち続けていた。

 そんな時、自分を一人前の男性として見てくれる女性が現れたのだと思った。

「本当に来てくれたんだね。下心見えみえで、相手にされないかと思ったけど」

「そうね、他の人だったら、無視していたかも知れない」

 言外に、義正が気に入ったのだと匂わせる。その一言が義正を舞い上がらせた。

彼女との会話は弾み、時間があっという間に経過する。彼女を待っていた長く切ない時とは比べ物にならない程短く、束の間の一時間であった。

 義正はまだ彼女を帰したくは無かったが、知り合ったばかりであり、もの欲しそうな態度は余りみっとも良いものでは無いと考え、次の約束を取り付けるだけで我慢をした。

時をあらためて初めてのデートに誘った。豊富な話題と、長けた会話術を備えた彼女の魅力に、義正は益々惹かれていくのであった。

 それからというもの、義正は自社の厳しい経営環境もそっちのけで、妊娠中の妻を案じる事さえ疎ましく、沙紀とのデートのために無理にでも時間を作るのであった。


2007年12月15日 

 昼下がりの裏原宿、キャット・ストリート。植え込み縁や猫の額ほどの小さな公園のベンチで、近くのオフィスやショップの従業員達が弁当を広げている。

明治通りに交差する辺りまで、カレーやナシゴレンを販売するミニ・バンが並び、近隣で働くサラリーマンや事務員、ブティックの販売員が行列を作っている。

 日曜日の歩行者天国ともなると、表参道のメイン・ストリートだけでなくこの辺りの路地まで買い物客でごった返すが、ウィークデイはのんびりしたムードが漂う。

 子供達が大声で叫びながらスケートボードを駆り、器用に歩行者を縫って滑っている。陽だまりでのんびり惰眠を貪っている猫に、OLが餌を与えたりしている。

 その通り沿いにあるマンションの一角に、全面ガラス貼りのショウルームを配した一軒のインテリア・雑貨ショップが有る。ウィンドウー越しに、キッチンやリビングに設えたショー・ルームがあり、様々な雑貨が並べられている。顔をくっつけるようにして、若い女の子達が「ネエネエ、チョー可愛い」「ホント、メチャかわ!」と、口々に言いながら見入っていた。

 ショップ・オーナーである堀田武史は輸入雑貨商として、今では渋谷、代官山、自由が丘にショップを持ち、若い女性や主婦の圧倒的支持を得ていた。

 代官山に二号店を出店してからは、半年足らずで次々店を出し、そのどれもが好調に営業成績を伸ばしている。片や、地方のSC(ショッピングセンター)などからも、出店の要請が相次いで来るようになった。

現在はリアルショップだけでなく、ネットでのショップ・サイトを立ち上げ、それが更に人気に拍車を駆けていた。

 従来は年に二、三度渡欧して目ぼしい雑貨を買い付けていたが、その時間も捻出出来なくなる程、多忙を極めるようになった。そして今では、フランスにバイヤーを常駐させるほどになっていた。

 順調に拡大しつつある事業。ショップの知名度とともに、堀田自身も今や時の人として注目されていた。

「社長、往復葉書が届いています。同窓会の通知ですって」

 郵便物を整理していた秘書の原島紀子が、堀田のデスクに葉書を置く。

「ああ、教授が退官されたんで、慰労を兼ねて同窓会を催すらしい。昔の仲間の顔も見たいが……原島君、この日のスケジュールはどうなっている? まだ空白かな」

「いいえ残念ですが、雑誌とテレビの取材が入っています。雑誌の取材は時間通りでしょうが、テレビの方はショップ紹介と共に社長のプロフィールやこれまでの経緯にも言及しますので、時間が相当押し気味になると思われますので……」

「そうか、判った。世間は成人の日で祝日だろうが、俺にとって今は仕事が最優先だからな、諦めよう。だが、一段落つけば久しぶりに買い付けを兼ねて北欧に骨休みに出かけようと思う。原島君も一緒にどうかな? 君にはこれまで長期休暇も与えず、気の毒に思っていたんだ。どうだい」

「本当ですか? 嬉しい。社長と海外に行けるなんて」

 目を輝かす原島紀子の前に堀田は歩み寄り、そのまま優しく抱きしめる。

彼女のつけているシャネルのアリュールが、微かに香り立つ。紀子の頤に手を当て、少し上を向かせる。ルージュで妖しく光り、誘惑するかのように少し開き気味の唇に自分の唇を重ねる。

「駄目、誰かに見られます」

 紀子は両手で堀田の体を押し退け、するりと身をかわした。頬が上気している。

「誰に見られようが、構いやしないさ。何なら部屋の鍵を閉めようか」

「何を仰っているんですか、仕方のない社長さんですこと」

 軽く睨む紀子の仕草に、益々欲情を刺激される堀田であった。

 原島紀子は、元々派遣社員として半年前に堀田の会社にやって来た。分刻みのスケジュール管理が必要となった堀田の日常を見るに見かねて、旧友のノラが紹介してくれたのだった。

 頭の回転が速く会話術にも長けた紀子は、対外折衝のスケジュールを総て取り仕切り、今や妻の千恵よりも堀田のプライベートまで熟知していた。そんな優秀な秘書ぶりに、ノラが推薦してくれただけの事は有ると大いに感心した。

 当然、堀田は紀子を重用し、公式の場やパーティーなどにも妻の千恵でなく、彼女を伴う機会が増えていった。

 そしてその能力を高く評価する堀田は、本人を口説き、正社員として破格の条件で迎え入れた。

 早朝から深夜に至るまで、常に行動を共にする紀子との濃密な時間が、二人の距離を近づける結果となった。ただでさえ自分好みの顔立ちとスタイルを備える紀子に堀田は急速に惹かれていったのだ。

 いったん堰を切った想いは激しく熱い感情となって、堀田をまるで少年の頃の心に戻した。紀子をもっと知りたい、総てを知りたいという渇望、自分だけのものにしたいという欲望。その焼け付くような感情をそのままストレートに紀子にぶつけ、彼女もそんな堀田を喜んで受け入れた。今ではほとんど家に帰らず、紀子のマンションに入り浸っている状態が続いていたのであった。

  堀田がしぶしぶ紀子の体から離れたとき、それを見透かしたかのように携帯電話の着信音が鳴る。妻の千恵からだ。

「どうしたんだ。会社には電話はするなと言ってあるだろう」不機嫌に電話に出る。

<だって、家にいつ帰ってくるか判らないのに、どうやって連絡を取るのよ>

「判った、判った。で、何の用だ」

<同窓会のお知らせが来てるんだけど行くの?>

「ああ、その事か。生憎、スケジュールの都合がつかない」

<そう、良かった。私は行くわよ。独身時代に戻った気分で羽根を伸ばしてくるわよ>

「勝手にすればいい」そう言い捨てて堀田は電話を切った。

全く……わざと電話して来たに決まっている。俺が家に帰らないものだから、当てつけに夜遊び宣言をしたつもりなのだろうと堀田は思った。

 ノラから妻の学生時代の行状を聞かされてから、もう半年が経った。一時期、堀田はショックと嫉妬心に襲われ、夜も眠れぬ程悩み苦しんだ。妻と正面から向き合い過去を問い質す事を恐れた堀田は、新店開店時期を理由に、逃げるように仕事に傾注した。そしてズルズルといたずらに時間だけが経過している。

 そんな時に、原島紀子が入社したのだった。

 堀田は彼女にマンションを買い与え、今ではその部屋に入り浸っている。妻の千恵も勝手気ままに連日夜遊びに耽っている。もう夫婦であるのは戸籍上だけの事実であり、実態は仮面夫婦であった。互いに干渉せず、勝手気ままな生活を送っている。

紀子と、もう一度人生をやり直したいと願う堀田は、千恵との離婚を真剣に考えるようになった。

 だがその前に、何も知らない自分を騙した妻や、あの連中にきっちり仕返しだけはしてやる。そう考えるのだった。

 もう既に計画は練ってある。実行に移すタイミングを計っていたのだが、絶好の機会がやってきたようだ。

 そう考えながら堀田は半年前のノラとの再会を思い起こした。


2007年5月12日

 堀田の経営する雑貨ショップは、順調に売上を伸ばしていた。

始まりは学生時代にこの裏原宿で今の半分も無い小さなマンションの一室を借り、蚤の市などで買ってきた食器や雑貨を半分趣味で売っていた事に端を発する。

 学生時代に入部していた「トレンド研究会」で、友人のノラからアドバイスを受け、この商売を始めたのであった。

 オープン当初は、サークルのメンバーや友人・知人が来店し、ご祝儀の買い物をしてくれる程度の売上であったが、徐々に女の子たちの間で可愛い雑貨屋が有ると口コミや携帯メールで広がり、タウン情報誌に紹介されたのを機に二十坪程度のワンルームに移転した。それが功を奏したのか、爆発的に人気が出て客が殺到するようになった。

そんな状況に対応すべく、堀田は品揃えの充実を行おうと考えた。しかし、現状の売り場面積では、既に手狭になりつつあり、これ以上商品が置き切れない状態であった。折角来店して頂いているお客様にも入場制限を行い、入替制を余儀なくされていた。

折り良く、直ぐ向かいのビルの一階が空くという情報が耳に入ったのは、そんな時であった。現店舗の倍以上の面積が有り、堀田の条件にうまく合致した。

 早速、堀田は不動産屋を通じ、物件を押さえに動いた。そして条件の交渉を行い、何とか後継テナントとして、入居まで漕ぎ着けたのである。現在の店舗を改装したところで、建物自体や空調設備が相当老朽化していたからであった。堀田は前々から考えていた理想の店を作ろうと決め、内装業者との打ち合わせに出来るだけ時間を割いた。

 今日も店舗奥の事務所で図面を広げながら、業者と検討をしていた。

「まだきれいな建物だから、外はピットサインだけでいいよ。内装は、ジプトンを剥がしてスケルトンにしたいんだが……店内の雰囲気を変えたいんだ」

 堀田の言葉に業者の男性が難色を示す。

「そうするとコストが上がりますよ。天井裏を這い回っているダクトや配管をすべて塗装する必要が有りますし、電気コードやその他のコード類も、配管を通して纏めてやる必要が出てきます」

「照明ラインはどうなる……」

「空調は今の位置で良いと思いますが、照明のラインは見直しが必要ですね」

「それはジプトンを貼ろうが、スケルトンにしようが必要な作業だろ。それに照明は全体を少し落とし気味にしたい。逆富士やウォールウォッシャーじゃ無くて、スポットを取り付けるための配ダクを回してくれ。スケルトンにすることでのコストアップは、塗装とコード類の配管だろ。壁も壁紙は貼らないで、コンクリートの剥き出しで良いよ」

「そうですか。でも今聞いている限りでは、店内のイメージは暗くて冷たくなるように思いますが……およそ雑貨屋らしく無いんじゃないですか」

「什器はすべて古い木材で統一する予定だし、俺が買い付けてきた骨董の箪笥やチェストも什器として配置するつもりだ。床はPタイルじゃなくて、フローリングにしたいんだが、とは言えコストは掛けられないから、木目の長尺物を探して欲しい。そうすれば、フランスの片田舎の雰囲気が醸し出されるだろう。照明を落とせば、天井に視線も行かないだろうし、壁はそれこそ雑貨で埋まっている状態だから、例え柄物の壁紙を貼ったところで見えやしないさ」

 店といえば明るくて綺麗なイメージだと、頑固に主張する業者を宥めすかし、堀田は結論を出す。

「それでGOしよう」 そう言い終えた時、電話が鳴る。

「お電話有難うございます。スタジオ・グランベリーでございます」

<相変わらず、生真面目な喋り方だな。タケシ>

相手は自分の名前も告げず、開口一番そんなセリフを言う。

「その声は、ノラか……本当にノラなのか。いつ日本に帰ってきたんだ」

<昨日さ。向こうでは少し名前も売れたし、実績もまあまあ残せたんでね。いよいよ日本で本格的にビジネスを開始しようと思ってな>

「何をするつもりなんだ」

<今アメリカではREITが盛んだ。日本でも一九九八年にSPC法が制定され、五年程前からこの手法が導入されだした。今後は企業もオフバランスを検討し始めるだろう。従来の資産運用の考え方を百八十度転換する必要がある。そんなアドバイスや、アメリカの大手ファンドによるM&Aのお手伝いが出来ればと考えている>

「ふーん。さすがにノラだな。相変わらず新しい事に、チャレンジしているんだ。留学を終えても日本に帰ってこないと思ったら、そんな事を考えていたのか」

 とは言ったものの、堀田には一気に捲くし立てるように喋る、ノラの話の半分も理解できない。つもる話は会った時に詳しく聞かせてくれと伝え、七時に渋谷で待ち合わせることにして電話を切った。

 ノラが日本に戻ってきた……堀田は込み上げる懐かしさと共に、ここまで事業を大きくした、自分の力を自慢したい衝動に駆られた。いや、自慢というのでは無いかもしれない、認めてもらいたい、誉めてもらいたいと思った。

 学生時代のノラは学生企業家として注目を浴び、マスコミにも取り上げられたことが有った。そんなノラを師匠と仰ぎ、彼のアドバイスで今の事業を起こしたのだった。 やはり彼は目の付け所が違うと、今更ながらノラに感謝し、アドバイスを受け入れて良かったと、納得する堀田ではあったが、反面、ここまで事業を成長させた自分の実力をノラに認めさせたいと思うのだった。


 堀田が待ち合わせ場所に少し遅れていくと、ノラはもう既に窓際のテーブル席を確保していた。形どおりの再会を祝して乾杯したあとは、旧交を温めるといより、堀田が一方的に自分の事業について語り始めた。

 テーブルを挟んで向かい合わせに座るノラは、そんな堀田の苦労話をにこやかに聴きながらも、セルリアンタワーの四十階にあるバーから、新宿西口の高層ビル群の夜景を眺めていた。

 日本を離れて十年。学生の頃、マンションの窓から毎日眺めた見馴れた風景は様変わりしている。以前にも増して、高層ビルが増えている西口の姿を見て、規模は小さいがニューヨークの摩天楼群に似ている、とノラは思った。新宿だけで無く、ここ渋谷や六本木、お台場など至るところにビルが林立していた。日本も一時の狂乱的なバブルが崩壊し、不況が続いた。が、それも徐々にでは有るが、立ち直ってきているのだろうか……。 

「おい、聞いているのか」

 その声にノラは思考を中断する。先刻から堀田が現在検討中である新店の構想を熱っぽく語り、ノラの意見を求めているのであった。

「悪い、悪い。それじゃ昔のよしみで、コンサルティングしてやるよ。ところで、お前はまだ独身なのか?」

話題は、堀田が一番触れて欲しくない内容に移った。

「どうした……まずい事を聞いてしまったか」

 それには答えず、堀田は煙草を口に咥え、ライターを取り出す。ティンという小気味良い音をたててデュポンの蓋を開け、火をつけた。

「おや、懐かしいな。そのデュポン、まだ大事に使っていたんだな」

 そのライターは堀田が学生時代にフランスで見つけた漆塗りのアンティーク品である。ノラが愛用するダンヒルに対抗して思い切って購入し、帰国してノラに見せびらかし

たのが昨日のように思い起こされる。

 だが、堀田はその話題に乗ることもなく、暫く無言のままデュポンの蓋を開け閉めしていた。気まずい沈黙の中で、ライターの蓋を開ける、ティンという音だけが響く。

 暫く話すかどうか躊躇っていた堀田であったが、相手は他ならぬ尊敬するノラである。正直に今の状況を話し出した。

 三年前に、田上千(たがみち)恵(え)と結婚した事、しかしその後の結婚生活はうまくいってない事などを愚痴り始めた。

                   

 千恵とは偶然街で再会して、付き合うようになった。大学時代の彼女はたまにしかゼミに出席しなかったが、いつの頃からかサークルにも顔を出さなくなった。その姿を見られなくなった寂寥感で、堀田は胸が疼くのを覚えていた。実は堀田は密かに千恵を好もしく思っていたのだ。

 学生時代にはいつもチェリーが、自分やノラと行動を共にしていたし、ノラが渡米した事で周りの連中は、堀田がチェリーのハートを射止めるだろうと噂していた。

たしかにチェリーは理知的で、ミス・キャンパスに選ばれる程の非のうちどころの無い美人であるが、お嬢様然とした雰囲気や態度に気後れして、堀田は友人関係以上の交際には踏み切れなかった。反面、屈託がなく少しコケティッシュな雰囲気とスタイルを持つ千恵に惹かれていたのだ。

 だがサークルが唯一の接点であった堀田には、それ以降千恵との関係を繋ぐ手立ても無いまま、事業に多忙なときを過ごし、気が付けば卒業を迎えていた。千恵との事は、学生時代の淡い片想いで終わるはずであった。それだけに、卒業後社会人となった彼女と偶然街で再会した時、彼は直ぐに彼女に心を奪われた。

もともと美人でスタイルも良く、同学年にチェリーがいなければ、彼女がミス・キャンパスに選ばれていただろう。そんな女性が社会に出て、一段と磨きのかかった大人の女性として彼の前に現れたのだ。二人が深く愛し合うまでに時間は掛からなかった。

 そして、堀田は千恵にプロポーズをした。最愛の女性を妻に迎え、仕事にも精が出た。いきおい、もっと事業を大きくして、彼女を幸せにしようと、寝食も忘れ仕事に打ち込んだ。

だが、それが裏目に出た。結婚をしてからは、そんな甘い関係は長くは続かなかったのである。彼が頑張って仕事に傾注するほどに、夫婦仲は冷めていった。妻は本質的に華やかなことを好み、大人しく家で夫の帰りを待つような女性ではなかったのだ。彼女は、そんな生活に耐えられなくなっていたようだ。

 それ以来、堀田はパーティーや会合など出来る限り妻を同伴し、社交の場に連れ出す努力もしたのだが……。今では好き勝手に遊びまわり、帰宅も堀田より遅い事が増えてきている。そんな時は決まって泥酔していた。

 仕事の成功に相反して、今や妻との関係はもう修復出来ない程、溝が深くなっていた。

別れ話も幾度か切り出したのだが、千恵は聞く耳を持たなかった。「成功した青年実業家の妻」の地位、高級ブランド品を買い、遊興に不自由しない財をみすみす手放す気は無いようだ。

「俺達は夫婦じゃ無い。俺はていのいいミツグ君って訳だ。こんな馬鹿ばかしい関係を一刻も早く断ち切りたいんだ」

 話を聞き終えたノラは、さもありなんと思った。堀田は知らないようだが、彼女には学生時代派手な噂がたっていた。

「まさか学生時代から真面目で、女っ気も無かったお前が、よりによって田上とねえ……」

 そんな口振りが妙に引っ掛かって、堀田は執拗にノラを問い質した。

「もう昔の独身時代の話だよ。女性の過去をほじくり返せば、どんな娘だって一つや二つ、他人に知られたくない秘密は有るものさ。それより本当に離婚したいと思うなら、そっちの方もコンサルティング出来るぜ」

 気を取り直した堀田は、ノラが話す内容に熱心に耳を傾けたのだった。


2008年 1月14日

 同窓会に少し遅れてやってきたS県庁職員の河合(かわい)隆史(たかし)は、近くにあるテーブルに近寄った。立食形式だから誰が何処にいるのか判らない。彼が加わったテーブルは教授の取り巻き連中ばかりで自分たちの出世話に花を咲かせている。

 しまった、こんな連中の中にうっかり紛れ込んでしまった。そう思いながら昔の仲間を探そうと各テーブルを見渡す。

 その時、奥のテーブルからこちらに向かって、しきりに手招きしている久留米の姿を見つけた。

 河合がテーブルに近づくと、久留米が声を掛けてきた。

「何をキョロキョロしてるんだ。俺たちの指定席は奥に決まってんだろ。大学時代も真面目に講義を受ける奴らが前方の席、俺たちはいつ講義を抜け出しても良いように奥の席だっただろうが」

「そうよ、なのにあんたったら手前のエリート連中のテーブルの周りをうろうろしているんだもの。あんたはいまだにとろいのね」

 千恵があきれたように言う。河合は口をモゴモゴさせて言い訳する。

「それよか、河合。お前,S県庁に勤務しているんだろ。どうして我社で受注する予定だったS県の新庁舎建設は大手ゼネコンに鞍替えされたんだ。何か知らないか」

地元の建設会社に勤務する村中(むらなか)春(はる)雄(お)が河合に尋ねる。

 それは、既に二年越しの案件であった。当初の計画では、老朽化した県庁を新庁舎に移転するのみであった。それが計画の見直しが図られ、いつのまにか新庁舎建設予定地の周辺を巻き込む大規模な再開発プロジェクトに姿を変えていた。

 そのため建設予算も数十倍に膨れ上がり、当初は地元の建設業者と進めていた計画も白紙に戻され、国内大手であるスーパーゼネコンの大島建設が指名された。その計画変更で、建築指導課を含め都市整備部全体が大騒ぎなのだ。

 もともと一時代前の「箱物行政」は、県民の顰蹙を買い、バブルの弾けた低成長の現在、県庁の移転だけでも県民の反発を受けている。そんな状況の中での大規模なプロジェクト案には、県庁内でも疑問視する声が多数を占めた。にも関わらず知事の鶴の一声で、強引に進められているのだ。当初計画に、国土交通省から横槍が入ったらしいと、専らの噂である。指定業者のゼネコンには、国土交通省OBが数名天下りしている事から、そんな噂を現実めいたものとしていた。

 河合には、そんな事はどうでも良かった。自分には関係のない話だ。自分は与えられた業務を粛々とこなしていれば良い。どうせ我々のような下っ端が騒いだ処でどうなるものでも無い。

「知らないよ、俺たちには何の情報も降りてこない。みんな上の連中が決めたことさ」

「いやあね、こんな席で仕事の話を持ち出さないでよ。楽しかった昔を思い出して騒ぎましょ」 千恵が宥める。

「そうだよ、先ずは再会を祝して乾杯しようぜ」 久留米が河合のグラスにビールを注ぎながら言った。


 同窓会の後、仲間たちとの二次会もお開きとなり、堀田千恵は帰宅の途につかず六本木に向かっていた。

 全くしけた連中だ。学生時代にはあんなに滅茶苦茶で羽目をはずして遊びまわっていた仲間なのに、今は全員牙を抜かれた狼のようだ。遊びではリーダー格だった村中も「できちゃった結婚」で、家庭を持って大人しくなったようだ。なんでも、奥さんの父親が国土交通省の重鎮で、謹厳実直を絵に描いたような人物らしい。さしもの村中も、そんな環境の中では好き勝手遊んではいられないのだろう。それにS県の新庁舎建設の受注の事で、県庁職員の河合に愚痴っていた。酒の席で仕事の話を持ち出すなんて、まるで中年の酔っ払いだ。

服装にしても、どう見ても量販店の既製服だし、履き古して型崩れした靴を履いていた。生気も無く、人生に疲れたように見えた。

 まだ宵の口だっていうのに、明日は仕事だからという理由で、そのままお流れとなってしまった。十年という歳月は、こんなにも人間を変えてしまうものなのか……タクシーで六本木に向かいながら、堀田千恵はそう思った。

でも自分は違う。盛り上がれば、久しぶりに彼等の内の誰かと一晩を共にしても良いと考えて、同窓会に出席したのだ。だからエミリオ・プッチのワンピースにルブタンのピン・ヒール・パンプスと、お洒落も決めて来たというのに……。まだまだ男性の目を釘付けにする自信は有る、そう思って何かを期待した私が馬鹿だった。

 唯一、育ちのいい久留米だけはイタリア製のオーダーのスーツを着こなし、靴はベルルッティ、腕にはロレックスのオイスター・パーペチュアルを嵌めていて、相変わらずのプレイボーイ風であった。彼となら一晩過ごしても良いかなと思ってそれとなく誘ってみたのだが先約があるからと体よく断られてしまった……そういえば、彼はどうしているのだろうか。

 千恵は、大学時代に交際していた相手の事を思い出す。あの頃は本当に楽しかった。彼には婚約者がいるというのに、彼女の目を盗み、私との逢瀬に溺れた。彼にとっては彼女に対して背徳行為を犯す危うさ、私にとっては奪う喜びがより二人の感情を燃え上がらせたのだった。逢えば必ず理性を振り捨てて、野獣のように愛し合った。そしてより深い歓びを追い求めて、互いの身体を貪りあった。

 当時を懐かしく思い起こすと、益々切なくなる。このまま帰ってもつまらない。淡い期待ではあったものの、何の刺激もないまま帰って眠るだけの生活など、耐えられない。私は常に恋をしていなければ、生きてはいけない。理性では抑えようのない、身悶えする程の激しい恋に、身を焦がす。いつもそんな状況に、自分自身を置いていたい。

どうせ、旦那は今夜も遅いだろう。この火照った身体を誰かに鎮めて欲しい。周りの皆は、私の事を玉の輿なんて羨ましがるけれども、ちっとも幸せではない。

 旦那は、私のことをパーティーやフォーマルな場へ同伴しても恥ずかしくない顔立ちと、K大学卒というブランドにしか私への価値を認めてはいないのだ。それ以外では、家政婦代わりにしか扱ってはくれないのだ。いつも忙しく立ち働き、私の事など構ってさえくれない。だから寂しくて、つい夜遊びをしてしまうのだ。

いつも遊び歩く女友達にそう愚痴ると、「良い場所が有るのよ、今度一緒に行こう」と誘われて連れていかれたのは、ホストクラブであった。

 ホストクラブなんて、倦怠期を迎えた中年女性か、ホステスなどの水商売の女性が行く処だと思っていた。そう感想を漏らすと、女友達はいつの時代の話よ、と大笑いした。今は若い独身女性が多いのだと教えてくれた。

 確かに、その夜の体験は素晴らしいものであった。その店のホスト達の飽きさせない会話や行き届いた気配りに、いつの間にか夢中になってしまったのだ。

本当ならそんな甘い幸せな時間は、結婚生活で求めたかったのだが、主人はまるで理解を示さない。彼にとっては、事業拡大が人生のすべてであり、妻というものを社会的信用と、社交の場でのお飾りとしか考えていない。

 私の事を一度でも愛しているとか、素敵だとか誉めたことがあるだろうか……記憶を辿ってみてもそんな覚えは無かった。

 ホスト達はそんな女心を理解し、摑んで放さない。最高の気分にさせてくれる。

「悪いのは主人だ」もう一度心の中で叫んだ。

今夜は行きつけのクラブにラストまでいて、お気に入りのホストである慎也を誘い出そう。そう決心した。

 そんな事を考えている間に、タクシーは溜池の交差点を左折し、六本木通りに入った。がその瞬間、渋滞で動かなくなる。ゴー・ストップを繰り返すタクシーの中で、じりじりしながらもやっと旧防衛庁近くまでたどり着いた。

 千恵はタクシーを降り、店まで歩くことにした。料金を払い足早に歩き始める。

キャバクラの女の子やクラブの黒服が客引きのため、通行人に懸命に声を掛けている。そんな連中を縫うように歩いている千恵に、歩調を合わせて傍に近寄る男性。

「お嬢さん、良い夢を見させてあげるよ、どう?」 脇から片言の日本語で声を掛けてくる。

見上げるような体格の黒人が、二ヤッと笑みを浮かべている。歯の白さが妙に浮き立って見える。周りを見渡すと、同じように目ぼしい女性に声を掛けている不良外人が、複数人たむろしている。

 千恵は無視して歩き続ける。尚もすがりつくように話しかける黒人を振りほどき、すり抜けるように歩きながら、やっと目的の店に入る。

「ようこそ、いらっしゃいませ」 黒服が出迎える。

 目ざとく彼女の来店を認め、オーナーが近づいて来る。

「ようこそ! 堀田様。さあ、慎也がお待ちかねです」

「オーナー、今夜は慎也をキープするわよ」

 金なら幾らでも積んでやる。その代わり今夜は、私の欲望を解消してもらう。堀田千恵は意気込みを隠しながら、慎也の待つボックスシートへと向かった。 

                 

 酔って火照った身体に、シーツの冷やりとした感触が心地良い。大理石を敷き詰めた浴室で先にシャワーを浴びた千恵は、広い間取りのベッドルームで慎也が来るのを待っていた。

あれから店では大盛り上がりをした。ドンペリニョンやヴーヴ・クリコのヴィンテージ・ロゼを何本空けただろうか。シャンパン・タワーもやって、歓声を浴びた。ラストまで馬鹿騒ぎをして、慎也を店外に連れ出した。まっすぐラブホテルに行こうとしたが、慎也が良い処を知っているというので、連れられてやってきた。

タクシーを降りたのは、麻布近くの高級マンションだった。確か大物歌手も住んでいる事で有名なマンションだ。

 大きなシャンデリアの下がったロビーは、右手が大きなウィンドーとなっており、中庭の植栽や小さな滝から流れ落ちる水を湛えた池が見える。そのウィンドーに沿って、来客用に洒落たデザインのテーブル・セットが三組並べられている。左手には二基のエレベーターが有る。

 エレベーターで九階に向かう。待ちきれなくなった千恵は、慎也にしなだれかかりキスをせがむ。最初は遠慮気味に応じていた慎也も、知恵の情熱的な態度に煽れらディープに舌を絡める。

 エレベーターの扉が開いても、二人は暫く抱き合って互いの唇を貪りあっていた。

漸く身体を離し、慎也が部屋のドアを開け千恵を招きいれる。入った正面に二十畳程のリビング・ルームが広がっている。

 大きな窓からは六本木ヒルズやミッドタウンが眺められ、右端には東京タワーが、オレンジの照明を浴びシルエットを浮かび上がらせている。ワンフロアーが、二世帯という贅沢な間取りのお陰で、百八十度の眺望がひろがっているのだ。

  ドアから慎也が顔を覗かせる。

「何してるの、早く私を抱いて」 待ちかねた千恵が催促する。

「千恵さん、残念だけど俺はウリはやらない。だから、お相手を手配したよ。千恵さんは女王様だ。彼らは誠心誠意尽くすよ」

「何よ、慎也は相手してくれないの?」

 千恵が文句を言おうとしたとき、どやどやと男たちがベッドルームに入って来た。

二人の外国人。一人は先刻声を掛けてきた黒人。もう一人は金髪の白人だ。ストリートでナンパしている不良外人達。

 二人ともニヤニヤしながら、素早く身に着けた服を脱ぎ始める。

「ちょ、ちょっと待ってよ。何なの、この男たちは誰よ……慎也」

 だが慎也の姿は何処にも見当たらない。

「俺たちがハッピーにしてあげるよ」

耳元で白人が囁き、そのまま千恵の背後に回りこみ、腕を取って羽交い絞めにする。身動きを封じ込められた千恵のうなじに強引に口づけをする。

 黒人男性が正面に対峙し、手早く千恵の衣服を脱がし始める。余りの手際の素早さに、千恵は戸惑う。だが、二人の男性は全く意にも介さず、淡々と自分たちのペースで行動する。

 今度は、白人が彼女を後ろから抱き上げる。目の前にいた黒人がさっと身を引くと、突然正面から、強烈なスポット照明を浴びせられ、目が眩む。

「一体何なの?」 しばらく視野が真っ白になり、何も見えぬまま叫ぶ。

漸く視野が戻った彼女の視線の先に捉えたのは、ビデオカメラを回し痴態を撮影するカメラマンの姿だった。カメラのレンズは、彼女の恥ずかしい部分をアップで狙っている。

「何をするの、やめて。一体あんたたちは何を考えているの……」

 白人男性を振り解こうにも、圧倒的な力と体格の差は如何ともし難い。まるで赤子のように扱われ、様々な恥ずかしい姿をカメラに向けさせられ、そして二人の男に弄ばれた。終わりが無いと思えるほど陵辱行為が延々と続き、その全てがビデオカメラに収められた。

 驚きと恐怖で頑なに拒絶していた千恵であったが、彼等二人がかりの執拗な前戯を受け徐々に体を開くと、いつの間にか自ら彼らを求めていた。身体の中で何かが弾け、自分で自分が判らなくなっていた。もう、どうなっても良い。今この瞬間が狂おしいほどに愛しくなる。

 それから数時間、千恵は汲めども溢れる情感の嵐に身を委ねながら、尚も貪欲に求めた。

 やっと男たちが体から離れ部屋から立ち去っても、彼女は起き上がる気力さえ無く、ベッドに突っ伏したままであった。

               

 エントランスのロビー隅の喫煙室では、慎也がイライラと落ち着き無く煙草を吸って待っていた。チラと時計を見る。オーディマ・ピゲのロイヤルオーク、誕生日に千恵からプレゼントされたものだ。

 もう二時間以上経過している。千恵は大丈夫だろうか? 慎也は内心不安に駆られていた。相手は不良外人だ、何をしでかすか判ったもんじゃない。

 そこへ外人と撮影クルーがエレベーターを降りて近寄ってくる。大きな声で黒人がエヘラ、エヘラ笑いながら白人に喋っている。白人のほうも話を聞きながらニヤッと卑猥な笑みを浮かべる。

 どうせ、先ほどまでの千恵との行為をあれやこれや面白おかしく喋っているのだろう。そんな様子を眺めていると、慎也は無性に腹がたった。飛び掛って殴り倒したい衝動に駆られたが、何とかその感情を押さえ込む。反面、彼らが戻って来たことに安堵した。これで終わりだ、嫌な役目であったがこれで任務は終わった。

 慎也は、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、立ち上がった。

「暫く腰が立たないくらいに可愛がってやったぜ」

 白人の男性が、卑猥な言葉と仕草で、再現して見せる。

 そんな様子をむっつりと黙って見詰めながら、慎也は二人の外人と、撮影スタッフに礼金の入った封筒を渡す。

「こんな仕事なら、いつでも大歓迎だ。又呼んでくれ」

 封筒の中を確かめながら、黒人の方が歯をむき出して笑いながら言う。

「ぐだぐだとうるせえ。金を持ってさっさと消え失せろ」

 そっと胸のうちで呟く。その気配を察したのか、撮影クルーのリーダーが慎也の肩をポンと叩く。

「お互い、余り後味は良くないな。ま、これも仕事と割り切るんだな。じゃ、俺たちはこれで退散する」そう言い残して、全員を引き連れて、マンションを出て行く。

 千恵が心配だ、戻って様子を見に行ったほうが良いだろうか……一瞬そんな考えが慎也の脳裏をかすめた。いや、止そう。どんな言葉で千恵と向き合えば良いのだろう。言い訳をぐだぐだ述べ立てても仕方ない。躊躇しながらも、結局慎也はそのままマンションを後にして、店へ戻ることにした。

 店に戻り、まっすぐ奥の事務所に向かう。

「言われたとおりにやりました。でもオーナー、良いんですか。彼女は上客だったのに」

慎也が不満気に報告するのを聞きながら、オーナーは頷く。

「良いんだ、慎也。おまえには埋め合わせに客を一人回してやる。今度の件は、恩の有る人の依頼でな。うちがここまで大きくなれたのも、その人のお陰でもあるんだ。こういう時にきっちり義理を通しておくのが、この世界で長生きするコツだよ」

 オーナーは、慎也を宥めるようにそう言うと、依頼者の男性に報告の電話を掛け始めた。


 その頃、最終電車からホームに降り立った河合隆は、顔にかかる雨粒に軽く舌打ちした。雨が降るとは思っていなかったので傘を持って出かけなかった。バスはとっくに最終便も出てしまっている。

 都心から電車で小一時間ほど離れた郊外の駅前は、さすがに今の時間、乗降客もまばらだ。それでも最終で帰ってくる客を期待して、駅前ロータリーにはタクシーが数台待機している。

 タクシー代を払うのも惜しくて、河合は酔ってふらつく足取りで、ゆっくり歩き出した。

 今夜の同窓会に出席した後、旧友達と二次会に付き合ったせいで随分遅くなってしまった。

 雨脚は強くも無いのだが、さすがに傘も差さずに二十分近く歩いていると、撥水加工のコートでも雨が染みてくる。ズボンの太腿あたりもずぶ濡れになっていた。水分を吸ったウールの生地が体温を奪う。風邪をひきそうだ。明日は月曜日だが役所には行きたくないな、休んじまおうか……考えるうちに、漸く中古で購入したマンションにたどり着いた。

 鍵を開け部屋に入る。真っ暗で火の気の無い部屋は寒々としている。こんな時、暖房

の効いた部屋で帰りを待ってくれる家人の存在が無性に欲しくなる。両親が亡くな

り、少しばかりの遺産分けで手にした現金を頭金に、このマンションを手に入れた。

 気楽な一人暮らしが良くて、今までやって来れたが、さすがにこの年齢になると侘

しさが募る。

 両親は他界したが、河合には身内として兄がいる。その兄も名古屋で所帯を持ち、遠く離れていることもあって完全に行き来は途絶えていた。実直な兄は将来設計もきちんと立て、その通りの生活を送っている。

 着実だが面白みの無い人生、隆はそんな生き方を軽蔑していたが、兄は折りに触れ弟の自堕落な生活を非難したものだ。

 だが、兄からは何を言われても仕方ないと思う。気に入らないのは兄嫁だ。あの女だけは、どうも好きになれない。つんと澄まして、いつも人を見下したような眼つきで、彼の存在自体が親類縁者の恥であるような態度を取るのだ。

 結局、兄の名古屋転勤を良い事に、自分の方から付き合いを途絶えさせたのだった。だから、天涯孤独は覚悟のうえであったが、やはり三十歳を過ぎると無性に寂しさを覚える。

 河合は熱いシャワーを浴びると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し一気に飲む。漸く暖房の熱が部屋の隅々にまでいき渡ってきた。テレビの深夜番組をぼんやり眺めながら、ビールをちびちびと啜る。身も心も温まった頃、睡魔が襲ってくる。

 それから何時間か経過して、河合はテレビの音声で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。時計を見ると三時過ぎであった。

 チッと舌打ちをして、河合は本格的に寝るために暖房の電源を切る。目覚まし時計をセットしテレビのリモコンを持つと、再びベッドに潜り込んだ。


2008年1月15日

 今朝は気温が低いものの、昨夜の雨も止み晴れわたった清々しい朝であった。

 テレビの音声で覚めた河合は、のろのろとベッドから起き上がった。あれからベッドに潜り込んでテレビを見ていたが、そのまま眠り込んでしまったらしい。夜中に一度目が覚めたのは覚えていた。布団も掛けずにうたた寝したからだろうか、少し頭が痛いし気分も最悪だ。風邪をひいたのかもしれない。

ゆうべは飲みすぎたと後悔する。いつもそうだ、なのにすぐに忘れてぞろ同じ事を繰り返す。自分には学習能力が無いのだろうか……歯磨きの途中で「ウエッ!」と吐き気を催す。

 朝食も摂らず、背広のうえにコートを羽織るとバス停へと急いだ。

 新年早々冷え込みが厳しい、この気温では初雪でも降るかな? そんな考えが頭をよぎる。

 私鉄の駅で電車に乗り込む。ラッシュアワーの混み方は尋常ではないうえに、冬はコートで更に着ぶくれしている。乗り込むのにも努力を要するのだ。

 目の前で開くドアから乗り込むと、車両の中ほどに見知った顔を見つける。県庁で同じ建築指導課に勤める大澤富美子である。

 河合より十歳以上年上のベテラン職員で、度の強い眼鏡をかけたオールドミス。職場では無駄口を一切叩かず、黙々と仕事に従事している。窓口にやってくる市民にも笑顔一つ向けず、無愛想な事このうえない。だが仕事は完璧にこなし、それだけに上司の信任も厚い。そんな彼女が河合は苦手で有った。

 建築指導課の仕事の大部分は、一般市民ではなく建設業者の申請届の受理に明け暮れる。相手もプロだから指導とはいっても形ばかりで、構造計算や面積、用途地域の条例違反がないかどうかのチェックだけで済む。

 だから河合は結構いい加減に受理し、仕事を捌いていた。課長もほとんど盲判を押すだけなのだが、大澤女史がそれを許さない。

「河合さん、この物件だけど、再建築不可の土地に隣接地を購入した事で、認可申請が通るのは判るけど、二種低層と一種中高層に跨っていて、面積比率からすると、この計画は違反のはずだわ。こんなものを受理しては駄目でしょ。業者に再提出させて」

 先週もそう指摘されたばかりだ。

 最近、特に課長と大澤女史はピリピリしている。河合にはその原因が判っている、県庁舎の新築工事の件だ。

 ただでさえ彼女が苦手であったが、近頃は顔を合わせるのも億劫であった。まるで天敵であるように思える。冷ややかに俺を見下したような、そのものの言い方。その態度が兄嫁と同じ種類の人間に感じる。

 大体、あの年齢になるまで独身で、何を楽しみに、毎日を過ごしているのだろうか? 恋愛経験も無さそうだし、海外旅行などに出かける訳でもない。化粧や服装も地味だ。お洒落などとは程遠い。趣味は何なのだろう。プライベートの話も聞いた事が無い。どんな生活を送っているのだろう、女性の一人暮らしで寂しくは無いのだろうか……そんな事を考えてしまう。

 幸いにも、大澤女史は河合に気づいていない様子だ。いつも同じ電車に乗り合わせるのだが、同じ車両の後方ドア付近なので、ばったり顔を合わせる事は無い。ひょっとして、大澤女史は自分も同じ路線で通勤している事さえ、知らないのでは無いだろうか。

さりげなく、彼女と反対方向の定位置に乗り込む。目の前には若くて髪の長いOLが吊り革につかまっている。ほぼ毎日、同じ時間の同じ電車、同じ車両に乗るだけに見知った顔ぶれが多いのだが、こんな女性はいたかな? と考える。

 朝シャンをしてきたのか髪から良い香りがする。河合は窓ガラスに映る彼女の顔を盗み見て、想像以上の美形であることを確認した。大澤女史と挨拶を交わし、当たり障りのない世間話を強いられるくらいなら、こちら側に乗ってラッキーだったと一人ほくそ笑んだ。

 車内は次の駅で更に混む。河合は強引に乗り込む乗客に押され、目の前の彼女に身体が密着する。

 電車が発車し大きくガタンと揺れたその時、目の前の彼女が大きな悲鳴を上げた。

「きゃあ、何するの。痴漢」叫ぶなり、河合の手を捕まえ思い切り上げる。

「あら、嫌だ。あなた、コートの後ろ切られてるわよ。おお、怖い男」

 彼女の横にいたおばさんが、河合を凶暴な野獣でも見るような眼つきをする。その大きな声が車内に響き渡り、他の乗客も一斉にこちらを見る。

「お前、何をしてるんだ」 横の男性が怒鳴り、河合の腕を捻り上げる。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。放せよ、俺は何もしちゃあいない」

 河合の弁解に耳を貸さず、後ろの男性も彼の反対側の腕を捕まえる。

 興味深げに見つめる多くの顔の中に、突き刺すような視線を感じた。大澤女史だ。まずい処を見られた。

「本当に違うんだ。放してくれ。放せよ!」

「うるさい、大人しくしろ。次の駅で降りるからな」

 右腕を捕まえている男性が、更に力を加える。その猛烈な痛さに河合は諦めて黙り込んだ。

 電車が次駅のホームに滑り込みドアが開くと同時に、河合はホームへと引きずり下

ろされた。乗客整理をしていた駅員に、右側の男性が事情を説明する。その駅員と両

側の男性に取り囲まれるように、駅の事務室まで連行された。

その物々しさと、引きずられるようにして歩かされる河合のみっともない格好を見て、他の乗客や通行人が、何事だろうと足を止める。

 河合は駅員事務所に連れて行かれた。女性は奥の椅子に座らされるが、河合には椅子も勧められない。

 間もなく警官が駆けつけてきた。

「ご苦労様です。痴漢ですか」駅員に向かって警官が尋ねる。

「ひどいんですよ、この女性が被害を受けたんですが……見てください、コートの背中。ヒップの辺りがパックリと切り裂かれているんです」

 駅員が、コートの切られた箇所を警官に見せる。

「こりゃあ、鋭利な刃物による切り口ですね。この男、何か持っていましたか」

 警官に尋ねられて、駅員は初めて気がついたのか、慌てて答える。

「あ、いや、そうか。身体検査や所持物の確認はしていません」

「そうだよ、俺は何も持っちゃいない。だから無実だって言ってるじゃないか」 この時とばかり河合が反論する。

「まあまあ、良かったらポケットの中身を出してもらえるかな。まだ貴方が犯人とは決めつけちゃいないし、ここは快く協力したほうが良いんじゃないかな」

 河合はスーツのポケットの中身をすべて、机の上にぶちまけた。

「コートは」 警官が促す。

 コートには何も入れてないと言おうとして、彼は自分の右手に何か触れる物を感じた。何だこれは……手触りで細長い形である事が判る。

 一瞬、躊躇する河合の様子を警官は見逃さなかった。

「早く出して」警官の言葉遣いが命令口調になる。

 河合は恐るおそる、手に掴んだ物を取り出す。

「ん、それは何だ」 警官が今までの柔和な表情から、一転して険しくなる。

 河合が手に持ってかざしたのは、安全カミソリだった。まさか……どうしてこんなモノが俺のポケットに入っているのだ。河合は呆然とした。

「何だ、これは。これで彼女のコートを切り裂いたんだろ」駅員が、やはりお前じゃないか、といった顔つきで怒鳴る。

「違う、俺はそんなモノ持ってない。誰かが入れたんだ」

 最早、彼のいう事を信用する者はいなかった。

河合は焦った、何とかして俺じゃない事を理解してもらわなければ……。

「そうだ、そのカミソリの指紋を調べてくれ。そうすれば判る」

 そう訴える彼の顔を警官が怪訝そうに見つめる。

「あんたねえ、自分以外の指紋が付いてるって言いたいのか。もし仮に誰かがあんたのポケットに入れたとして、そんな奴が指紋を残してると思うか」

 しまった、馬鹿な事を言ってしまった。余計怪しまれる。気が動転して脂汗を浮かべ

る河合の様子を観察していた警官は、その様子を逆の意味に解釈した。

「もし怪我でもさせていたら、痴漢行為だけでは済まんぞ、傷害罪なんだぞ。判っているのか。しかし、こんなモノを持ち歩いているようでは、暴行罪の適用要件になるかもな。このまま帰すわけにはいかん。今晩泊まってもらう事になりそうだな」

「そ、そんな」

「貴女はどうされます……訴えますか。あなたが穏便に済まされるなら……」 

 警官が、被害者の女性に尋ねる。

「穏便にって……このコートはどうしてくれるんです」

「それは、警察では何とも……それは我々の範疇じゃないんですよ。損害賠償請求をされるんですね」

「でも、許せない。訴えて罰して下さい」

「じゃあ、署のほうにご足労願えますか」

 結局、幾ら否定しても聞き入れてもらえず、河合は管轄の警察署まで連れて行かれた。

 

 その頃、大澤富美子から通勤途上の目撃談を聞かされていた、S県庁都市整備部建築指導課長の元に、一本の電話が入った。

「はい、建築指導課、課長の大石ですが」

「こちらは、毎朝新聞ですが、河合隆さんは、そちらの課にお勤めですよね」

「はい、河合は私共の課に在籍していますが、只今、席を外しております」

「席を外してしるのでは無くて、未だ登庁されていないのでしょう。今回の事件について上司としてのコメントを伺いたいんですが」

「は……一体何のコメントでしょうか」

 何故こんなに早く、マスコミが嗅ぎつけたのだろうと思いながらも、大石は反射的にとぼける。

「とぼけても無駄ですよ。上司としての管理責任をどうお考えなんですか」

「だから、何が有ったのですか」

「河合隆が、痴漢及び暴行未遂で逮捕されたんですよ。貴方の課長としての管理責任も問われますよ」

「河合君が、そんな事をするはずが無い。何か勘違いされているのじゃないですか。忙しいのでこれで……」

「嘘か本当かは、新宿署に問い合わせすれば直ぐに判りますよ」

まだ言い終わらないうちに乱暴に切られた電話のフックを指で押さえ、男はあらためて別の場所に電話を掛ける。

「毎朝新聞さんですか。今朝、山手線でS県庁の職員が、痴漢と暴行未遂事件を起こしたんです。ええ、そう私は偶然目撃した者です。そうなんです、公僕の不祥事ですよ。はい、いや名乗るほどの者じゃ有りませんので、それでは」

 男は、携帯電話をポケットにしまうと、煙草に火を点け一服する。ライターの蓋を

カチンと閉じ、今ごろS県庁中が大騒ぎになっている様子を想像して、唇を歪め薄く笑った。

                

 住所もはっきりしているし、逃亡や証拠隠滅の怖れも無いということで、河合隆が漸く解放されたのは夕方であった。後日簡易裁判の召喚通知が届くので、裁判所に出頭するようにとの事であった。

 署を出て、河合は真っ先に県庁に連絡をすることにした。大澤女史がどんな話をしているかが、気がかりだったのだ。電話を掛け、課長を呼び出してもらう。

<河合君、何て事をしでかしてくれたのかね> 第一声の怒鳴り声が受話器から響く。

<婦女暴行だと聞いたが、全く破廉恥な……。どこから聞きつけたのか、新聞記者が取材に来たぞ。大澤君も目撃していたそうだ。君は暫く自宅謹慎してもらう事に決まったよ。正式な処分は、決まり次第こちらから連絡する。いいな。それまでは役所の周りはおろか、外をうろつくことも厳禁だ>

 課長は一方的に捲くし立て、河合の弁明も聞かず乱暴に電話を切った。

河合は暫く受話器を握ったまま切ることも忘れ、その場に呆然と佇んでいた。

 一体、今日という日は何だったんだろう。あれよあれよという間に痴漢、いや婦女暴行の汚名を着せられ、その真偽も確認されぬまま、役所からも処罰を課せられてしまった。

俺が一体何をしたというのだ。俺の言い分を何故聞いてくれない。申し開きの機会も与えられないまま罰せられるのか……冗談じゃない。河合は今になって、余りの理不尽さに、怒りが込み上げてくるのだった。真直ぐ帰宅する気持ちにもなれず、駅近くの居酒屋に立ち寄る。

 焼き鳥の煙と煙草の紫煙が、朦々と立ち込める店内は、勤め帰りのサラリーマンで既に半分ほど席が埋まっていた。陽気に笑いながら、大声でお喋りに夢中になっている。

 一体、何がそれ程楽しいのだろうか。苦々しい思いで、そちらのテーブルを眺めていると、店員が注文を取りに来た。河合がオーダーすると、大きな声で復唱し「喜んで!」と付け加える。その耳障りな声に、苛立ちが益々募る。

 有線から流れる演歌が、嫌でも耳に入ってくる。そのマイナー・スケールの響きが、河合の陰鬱な気持ちに、輪を掛ける。

此処にも居場所は無い。堪らなくなって、河合は席を立つと、さっさと店を出た。

「お客さん、どうしたんです……ビール来ましたよ」

 慌てて声を掛ける店員に、思わず怒鳴る。「もういい。キャンセルだ」

「ちょっと、そりゃないよ。お客さん」

 先刻までの、愛想の良い笑顔が嘘のように、険しい表情で店員が詰め寄る。

「返事が違うだろ。喜んで、って言うんじゃ無いのか」

それだけ言うと、河合は歩き出す。

「ざけんじゃねえ。馬鹿野郎。二度と来るんじゃねえぞ」

 背中に罵声を浴びせられながら、しかし言い返す元気も無く、黙々と駅へと歩を進める河合であった。


2008年1月17日

 久留米運輸の常務取締役の伊藤(いとう)正和(まさかず)は、その日青山に事務所を構える中央経済研究所を訪れていた。東京メトロの表参道駅で地下鉄を下車した伊藤は、青山通りを南下し、骨董通りへと向かった。

 歩を進めながら、これから向かう中央経済研究所の所長と名乗る男性からの、昨日の電話での会話を思い起こしていた。

 これまでにも、その男性から再三に渡り電話が有った。いつも適当にあしらっていたが、昨日の電話では「貴社の今後についての重要な提案で、セントラル運輸の大塚社長の依頼だ」というので、伊藤自ら出向いて来たのだ。

 セントラル運輸の大塚社長が関わっているとなれば、いい加減な対応も出来ない。何しろ大塚社長には久留米運輸の先代社長が他界して以来、一方ならぬ世話になっている。一時は屋台骨が傾きかけた久留米運輸の窮状を見るに見かねて、支援の手を差し伸べてくれたのだ。セントラル運輸の下請けではあるが、宅配便業務の仕事を廻してもらい、お陰で久留米運輸は窮状を脱し立ち直ることが出来た。

現在、久留米運輸が無事営業を続けていられるのも、大塚社長の支援のお陰と言っても過言では無いのだ。

 大塚社長は、中央経済研究所に一体何を依頼したのだろうか。一抹の不安と嫌な予感を抱きながらも、伊藤は骨董通りを曲がって直ぐのビルへと入っていった。エントランスに掲示されている、フロア案内板で研究所の入居フロアを確認した伊藤は、静かにエレベーターに乗り込んだ。

 受付嬢に来意を告げると応接室に通され、待つほどの間も無くすぐに所長が現れた。

「やあ、どうもこんな処にまでお呼び立てして、申し訳ございません。初めてお目に掛かります、所長の野坂でございます。よろしくお願い致します」そう言って名刺を差し出す。

名刺を受け取りながら、伊藤は目の前の男性をさりげなく観察する。年齢は三代目と同じ位か? その立ち居振る舞いは、堂々として相手にある種の威圧感を与える半面、物腰の柔らかさと愛想の良さが、巧くそれを包み隠しているように思える。 三代目にもこれくらいの存在感が有れば良いのだが……ついそんな事を考えてしまう。

 伊藤は、久留米運輸創業時からの社員であり、先代の二代目社長、久留米憲正と共に苦労して事業を拡大させた功労者でもある、いわば大番頭的な存在である。それだけに二代目亡き後、事業を継いだ三代目の義正に、帝王学を教え込む責務を一身に背負っている。

 その彼から見て義正はまだまだひよっこであり、経営者としての自覚や能力といった面で、食い足りないものを普段から感じていたのだ。

 野坂はそんな伊藤の心中を察してか、次のように話し始めた。

「私も今まで種々の業種のコンサルを行っていますが、運輸業は初めてなものですから、セントラルの大塚社長に依頼された当初は、お断りしたんですが、是非にとお願いされまして……」

 そこまで話すと、野坂は煙草を取り出し、ライターで火をつけた。パチンと蓋を閉じ、美味そうに一服する。

「大塚社長から一体何を……」

大塚社長はこの男に何を依頼したのだろうか? 伊藤は訝りながらも男の話に耳を傾けた。

「ええ、それで色々勉強させてもらいました。この業界も宅配、或いは引越し専門といった細分化・専門化が進み、それぞれが独自サービスやノウハウで差別化を行っている。単に貨物輸送では厳しい時代になっているようですね。失礼ながら、久留米さんはその波に乗り遅れた感があります」

「仰るとおりです。ですから下請けとはいえ、大手のセントラルさんが運営されている宅配事業の西東京支部を任せてもらっています。弊社も今の宅配事業を足がかりに、古い体質を変革せねばなりません」

 伊藤の言葉に頷きながら、野坂はダンヒルを弄んでいた。左手で蓋を開けてはパチンと閉じる。

「伊藤さんもご苦労が耐えませんね。だが、あなたがた役員がいくら危機感を持って会社を立て直そうとしても、トップはどう考えられているんでしょうか」

「どういう意味でしょう」

 幾ら三代目の能力が低いとはいえ、初対面の男にそこまで言われる筋合いではない、伊藤はむっとして、思わず詰問口調になる。

「いや、これは失礼しました。ただですね、セントラルさんとしても全国配送網の整備を喫緊の課題として強化を図っているのです。ご存知のように地方の中小業者を傘下におさめたり、合併や提携を急いでいるのもそのためです」

 その状況は伊藤も知っている。セントラルと、その競合関係にある大日本運輸は、互いに全国制覇を競い、配送網の整備に血道をあげている。ただ、そのやり口が少々強引に過ぎ、業界のモラルをも逸脱していると、専らの風評である。

「お膝元の関東圏では、西東京エリアが弱い、その対策として久留米さんのご協力を頂いている訳です。が、ここへ来て大日本さんも、西東京エリアの抜本的建て直しを図りだして来ましてね、セントラルさんとしてもうかうかしてはおれなくなったんです」

「その点はご心配には及びません。西東京では我々が大半のシェアを握っていますし、その私どもが、恩義有る大塚社長を裏切る訳は無いです」

「そこです。先ほどは失礼な申し方を致しましたが、大塚社長は、義正社長に対して若干の不安をお持ちです。セントラルさんとしては、大日本さんに負けるわけにはいかない。ここは何としても押さえたいエリアですから。もっと基盤を強固なものにしたいとお考えのようです」

「と言うと、具体的にはどうなさろうと言うのですか」

 来る前の嫌な予感が的中しそうで、眉を顰めながらも伊藤が先を促した。

そんな様子を見つめ、野坂は何事かを言うのをためらう様子であった。左手でライターを弄んでいる。その開けたり閉じたりする音だけが部屋に響く。彼の癖なのだろうが、その音が伊藤の神経に触る。

 やがて決心したように、野坂が口を開いた。

「はっきり申し上げましょう。伊藤さん、貴方がお持ちの久留米運輸株をお譲り頂きたい」

 伊藤は一瞬、野坂の言った意味が理解できなかった。野坂が煙草を灰皿に押し付けるように消し、一呼吸おいて話を続ける。

「セントラル株との一対一の交換で如何でしょうか。時価では一桁違います。損の無い話だと思いますが」

 株の交換だって……自分の持っている自社株を取り上げようというのか。

「じょ、冗談じゃ無い。会社を裏切れと言うのか」伊藤は怒りで顔を真っ赤にして言い返す。 

 初代社長に仕え、同年代の二代目憲正と共に会社規模を大きくし上場を果たした。憲正が自分一人の力だけでは、ここまで成長は出来なかった。これも伊藤の協力があればこその事であったと、その労に報いる意味で、自分にも店頭公開前の自社株を分け与えてくれた。全発行株式数の三パーセントが、伊藤の持分であった。

 筆頭株主は二代目の妻、現在の会長である久留米裕子であり、十五パーセント、その息子で現在の社長の義正が、十パーセント、専務である義正の妻や、保険業務の子会社、裕子の所有する別法人、社員持ち株などでニ十三パーセント、役員、その他銀行や取引先との株の持ち合いが、十パーセント。当然、セントラルの大塚社長にも株を持って貰ってはいるが一パーセントである。密かに株を買い占めているのだろうか。一体いつから……どの位……こんな話を持ち出すからには勝算が有るということか。伊藤の頭脳が素早く回転する。

「勿論貴方のお気持ちは、重々理解しています。二代目と共にご苦労され、今の基礎を築かれた。今は常務とはいえ、実際に経営を担っているのは貴方だ。言わばご自身が育てた会社との思いがお有りでしょう」

「いや、そんな……公開したとはいえオーナーは久留米家です。そして私はそれを守るよう先代から仰せつかっています」

「良いですか、伊藤さん。大塚社長のやり方は業界でも話題になっているくらいだから、貴方もご存知でしょ。ご協力頂けなかった場合でも、既に二割を超える株式を取得出来るメドもたっています。五パーセントルールに従い、近々大量保有報告書を提出します。そうなれば株主総会でも経営に対し大いなる発言権を有します。役員改選の動議に他の株主も賛成してくれる約束も取り付けました。もしMBOや新株発行などの措置で対抗された場合は、大塚社長は本気で牙をむいてTOBで徹底抗戦されるでしょう。そんな事態は双方にとって、余り賢いやり方では無いと思います。まあ、そんな事態にはならないでしょうが……なにしろ他の役員さん達も、我々の考えに賛同して頂けましたからね」

 何だと、他の役員達がいつの間に。「どういう事だ、佐野や飯田が――」

「ええ、あと沼田さんと香川さんにも承諾頂きました。貴方が創業家側に回っても、役員会の決裁事項は今後総て我々の思い通りになるでしょう。役員の大口株式譲渡案もすんなり決まるでしょう。そうすれば創業家には代表取締役を退任してもらいます」

何て事だ。他の役員が……あれだけ先代に世話になっておきながら、何という恥知らずなのだ、馬鹿共が。伊藤は歯噛みしたい思いに駆られた。だがもう事ここに及んでは、手遅れの感は否めなかった。伊藤は急に脱力感に襲われるのだった。


2008年1月18日

 堀田武史はショー・ルームの奥の事務所で、女性週刊誌の取材を受けていた。このところ、取材が相次いでいる。先日のタレビ局の取材が放映されて以降、俄かに注目度が上昇している。そんな感触であった。自然と話にも力が入る。

「――ですから、成功の秘訣なんて大それた事では無くて、ただ、自分が良いと思うモノ、使っていて心地良いモノ、そんな雑貨を世界中から集めてきたのです。それが今の若い人たちの価値観と、合致しただけです」

「話しながらで結構ですから、ちょっと顔をこちらに向けて下さい」

 カメラマンの注文に応じながら、写真映りはどうだろうかと気にしつつ、堀田はカメラ目線で笑顔を作る。

秘書の原島紀子が、コーヒーカップをトレーに載せ、姿を現す。その美貌とスタイルの良さに、女性レポーターとカメラマンが、目を奪われるのが判る。

「いらっしゃいませ」 紀子は笑顔で一礼して、客の前のガラステーブルに、コーヒーカップを差し出す。

 その整った横顔を見つめながら、堀田は昨夜の歓喜に震え飽くなき欲望に乱れた彼女の姿態を思い起こしていた。その隠微で奔放な夜の顔をおくびにも出さず、優美で知的な雰囲気を醸し出しながら澄まして佇む紀子の昼の顔とのギャップに、堀田は感嘆せずにはいられなかった。

 出来ることなら、この場で衣服を脱がし組み敷いてやりたい。そして昼の顔に隠された紀子の本当の姿をこの二人の眼前に晒してやりたい。そんな衝動に駆られる。そんな事を想像しただけで、下半身が疼きだす。又、今夜も家には帰らず、彼女のマンションに行くことになりそうだ。

 彼女に溺れてこのところ碌に家には帰っていないな、そんな思いがチラッと脳裏をよぎる。

「成る程。ところで、少し堀田社長の私生活も伺いたいのですが、ご自宅にも、さぞやお洒落な小物や雑貨が有るんでしょうね」

「いやいや、家の中の事は妻に任せているんで」

「K大出身の自慢の奥様ですね。ご自身が今話題の青年実業家というだけでなく、奥様も非常に素敵な方ですよね。もって生まれたルックスとスタイル。今や若い女性のカリスマ的存在ですが」

 紀子に聞かせたくない話題だなと、堀田は少し間をおく。

彼女には、妻がどんなに悪妻であるかをこぼし、何年も仲がしっくりいってないと告げてある。折を見て離婚するので、そうなったら一緒になろうとも言ってあるのだ。

「失礼して一服させてもらいます」 そう断って煙草を咥え、デュポンで火をつける。

肺一杯に煙を吸い込み吐き出す間、無意識にライターを弄んでいる。

「良い音ですね」

「えっ、ああこの音ですね。これが気に入って、学生時代に奮発して買ったんです」 そう答えながら、デュポンの蓋を跳ね上げる。ティンと小気味良い音が響く。

 そんな堀田の気持ちを頓着せずに、紀子は素知らぬ顔でトレーを持って、部屋を出て行く。

「お綺麗な方ですね。堀田社長の美意識は商品だけじゃ無くて、働いてらっしゃる方にまで徹底されているようですね」

 紀子が席を外した事にほっと安堵しながら、堀田は質問に応じた。

「ええ、まあ。ところで何の話でしたっけ、そう、妻のことでしたね。憧れだなんて……いや世間知らずの愚妻ですよ」

 そう返しながら、冷めた関係で有ってもやはり妻のことを誉められると悪い気持ちはしない。

 そんな堀田の顔を正面から見つめながら、レポーターが探るような目つきで、次の質問を投げつけた。

「ご謙遜でしょう。でも、人も羨むほどの境遇の奥様が、どうしてあんな事をされたんでしょね」

 どうして、あんな事……このレポーターは何を言っているのだ、質問の意味が判らない。堀田は訝った。「悪いが、君の質問の意図が判らない。何を聞きたいんだ」

「勿論この事です」そう言ってレポーターの女性が、本日発売の写真週刊誌を堀田に見せる。


 目下大ブレイク中の青年実業家の妻、その仰天すべき性癖

 和製パリス・ヒルトン登場! 外人男性との愛欲シーンをweb2.0に堂々公開 その見事な姿態


 見開き一面に、そんな大きな見出しが右ページ縦半分を占め、残りのスペースに写真が掲載されている。

 目の部分と下半身にモザイクがかけられているものの、堀田には黒人と白人の二人を相手に愉悦の表情を浮かべる女性が、我が妻である事が即座に判った。

「何だこれは、一体どういう事だ」

「ですから、それをお伺いしたいのです。ミーチューブではベッドシーンの動画も見られるというので、世間は大騒ぎですよ。近々DVDも発売されるとか」

 顔から火が出るような羞恥と怒りに震える手で、写真週刊誌が皺だらけになるほど強く握りしめる堀田を容赦なくカメラが捉えた。

                 

 バタンと大きく玄関のドアが閉まる音で、千恵は主人の帰宅に気づく。

「お帰りなさい、珍しい事もあるものね。もう家への帰り道なんて、忘れたのかと思っていたわ」

 妻のそんな棘のある皮肉に反応もせず、思い切り千恵の顔面を殴りつける。

「何をするの」

 突然の夫の暴力に、驚きとショックで睨みつける妻の言葉に耳を貸さず、怒りで顔を真っ赤にした堀田が凄い形相で一気にまくしたてる。

「おまえは俺に隠れて何をしている。折角事業が波に乗ってきて、今日も雑誌の取材を受けていたんだ。この大事な時期にお前は何をしてるんだ、大馬鹿野郎」

「一体何の話をしているの、ちっとも訳が判らないわ」

「そうか、それなら良く見ろ。こんな恥ずかしい写真を撮らせて、一体何を考えている。この売女、淫売、いやメス豚だ。汚らわしい。学生時代には、教授やワル仲間と寝たというじゃないか。懲りずに今もホストクラブに通い詰めてるらしいが、そんなに遊び狂いたいのか」

 そこまで言うと、週刊誌を千恵の顔めがけて叩きつけた。

 拾い上げて中を見る千恵の顔から、みるみる血の気が失せていく。

 どういう事……あれは慎也がお膳立てした、火遊びの類だと考えていた。

 最初は驚いたが、あんなシチュエーションに興奮し、久々に燃えてしまった。相手の二人の愛し方も抜群に巧く、癖になりそうだった。

 そんな秘密の遊びが、どうして写真週刊誌などに掲載されるのだろう。 慎也が売ったのか、いや大事な客に、そんな事をするはずが無い。では誰が……千恵は必死に頭を巡らす。堀田は、その様子を意地悪く見詰めている。

「何か言い訳出来るのか。出来る訳がないだろう」

 罵声を浴びせられながらも、千恵は一体誰が、何のために……と考え、一瞬ためらった。しかし、自分の方こそ好き勝手して、私を飾り物のように扱う夫にこんな事を言われる筋合いは無い。

「だから何よ。貴方の方こそ、そんな立派な事が言えるの。幾ら仕事が忙しいからといって、この一ヶ月まともに帰ってもこなかった癖に。私は貴方と結婚をしたのよ。妻なの。お飾りやお手伝いさんになるために嫁いで来た訳じゃないわ。それを何よ、多忙を言い訳にして自分こそ好き勝手してるじゃない」

 駄目だ、口論では負ける。焦った堀田は妻の反撃を遮る。

「うるさい、妻なら妻らしく家庭を守っていれば良いんだ。俺の言うことを大人しく聞いていれば間違いない」

「ふーん、それで自分は何をしても良い訳。判っているのよ、女がいる事くらい。ばれないとでも思っていた訳。あんたみたいに真面目を絵に描いたような男に隠し事は出来ないのよ、バレバレだわ。そのうち貴方も写真週刊誌にスクープされるわ、せいぜい気をつける事ね」

「うるさい。お前のせいで、せっかくのビジネスチャンスをふいにするかも判らないんだぞ。そんな事も判らないのか。出て行け、もうおまえなど夫婦では無い。後で離婚届を送るから、捺印さえすれば、おまえのしたいようにするが良い。アダルトビデオを出そうが、ゴシップネタをばら撒こうが文句は言わないし、芸能界入りでも何でも好きにするがいいさ」

 そう言い残して、堀田は奥の部屋に入った。乱暴にドアをしめる音が、家中に響いた。

 ドアを閉めて一人きりなった堀田は、今の怒りは我ながら迫真の演技だったと思った。そして計画がスムーズに進行していることに満足して、自然と笑みを漏らすのだった。


2008年2月1日

  河合隆は、罰金刑を言い渡された。温情有る判決なのであろうが、今の河合には明日からどうやって暮らせば良いのだろうかと、途方に暮れる思いであった。

結局、謹慎処分で自宅待機中に連絡が入り、県庁は解雇された。当然退職金も出ない。本当に痴漢行為を行った結果の処分であれば納得がいく。しかし誰も信用しては呉れないが、俺は本当に何もやっちゃいない。何故こんな目に遭わなければならないのだ。

 国選の弁護士にも訴えた。だが、弁護士は冷たくこう言った。

「普通の痴漢行為であれば、被害女性の勘違いの可能性も有ります。しかし河合さん、貴方の場合は実際にコートを切り裂き、しかもそれに使用したカミソリを隠し持っていたのです。そのカミソリに被害者のコートの繊維が付着していたとなれば、状況は相当不利です。凶器であるカミソリが、貴方の持ち物でない事を証明しなければならない。どこにでも売っていて誰でも自由に買える柄付きの安全カミソリです。誰が購入したか特定など出来やしません。それに唯一考えられる可能性は、誰かが犯行後、貴方のコートのポケットにこっそりとカミソリを忍ばせたという事ですが……その場合、気が付かなかったのか、という事です」

「満員電車で、あの女性の背中にぴったりくっつく位の状態だったんだ。横や周りの乗客とも、そんな状態だ。まさかコートのポケットに何か入れらるなんて考えもしない。だから、そんなことをされたって気が付かないさ」

「という事は、裏を返せば貴方の他にコートを切るなんて行為は不可能だって事の証明になります。それこそ貴方以外にそんな事出来るはずないですからね。状況は益々、貴方にとって不利になるばかりです。こうなれば、初犯ですから素直に認めて、略式起訴に持っていくのがベターなんじゃ無いでしょうか」

 頼みの綱の弁護士がそんな事を言う。河合は泣きたくなった。

結局、弁護士の勧める通り犯行を認め略式命令を受けたのだ。

  東京地方裁判所の建物を振り返り、一つため息をついてようやく重い足取りで歩き出す。霞ヶ関駅には向かわず、日比谷公園を抜けて日比谷方面にぶらぶら歩いていく。特に目的が有る訳ではない。

 冬特有のどんよりと曇った天気で、時折空っ風が強く吹く。枯葉が砂埃と一緒に舞い上がり、遊歩道の隅に吹き溜まりを作っている。河合はコートの襟を掻き合わせ、目を細めて埃が目に入るのを防いだ。

 ぽつんと置かれた、公園のベンチが目に入る。木枯らしが吹きぬける中、ベンチに座っているような酔狂な人間は見当たらない。

 どっかりとベンチに座り込み、煙草に火を付ける。大きく息を吸い込むとニコチンが肺に染み入るようだ。さて、どうしようかと考える。

 兎に角、職を見つけなければならない。役所の業務以外に何の経験も無い、三十過ぎの男に出来る仕事なんて、有るのだろうか。勿論、今の時代収入に高望みをしなければ職は幾らでも有るだろうけど。そうだ、久留米に連絡してみるか。どうせなら奴の会社に雇ってもらおう。総務や経理なら、何とかこなせそうだ。最悪ドライバーでも……それなら俺にでも出来るだろう。

 そう考えた末に、携帯電話を取り出す。半月前の同窓会で互いの連絡先を教えあって良かった。

 煙草を捨てようとして灰皿が見当たらない事に気がつく。全く、今はどこでも禁煙だ、公園には灰皿を設置すべきじゃないのか……そう毒づきながら、煙草を靴でもみ消す。通りすがりの女性がそれを見て咎めるような目つきで足早に去っていく。その視線を無視し、河合は早速久留米に電話を掛けた。

 捨てられたスポーツ新聞が木枯らしに吹かれて、足元に飛んでくる。何気なくそちらへ視線を落とした河合の目に、大きく書かれた見出しの文字が飛び込んできた。


堀田夫妻、遂に離婚か!


 驚いてその新聞を拾い上げ、写真を食い入るように見つめる。確かに千恵だ。慌てて本文に目を通す。

ホストクラブ通いが昂じて、不良外人男性との不純交際の果てに、夫に別れ話を持ち出された妻か……千恵なら、やりかねないなと河合は思った。

 それにしても、久留米は電話に出ない。河合は諦めて、ベンチから立ち上がり、帰途についた。

                     

 その日、久留米義正は女性との待ち合わせ場所へと、車を走らせていた。出かける処を大番頭格の伊藤常務に見つかり、たっぷりお説教を食らった。

「三代目、少しは事業に身を入れてもらわねば困りますぞ。接待だからといって日の高いうちはゴルフ、日が暮れれば銀座。いえね、銀座通いがいけないと言っている訳じゃありません。まっとうな人間で日の高いうちは仕事に精出し、その労働へのご褒美と明日への活力にって言うんなら、止めやしません」

「判った、判った。悪いが急ぐんだ」義正はそう言い捨てて、会社を飛び出した。

 伊藤の複雑な胸中など判りもしなかった。そんな事より彼の今の関心事は、年末の会合で知り合った女性にあった。

 今日こそ想いを遂げる事が出来るだろうか? それは一目惚れといっても良かった。話していても気品と知性が感じられ、義正は急速に彼女に惹かれていった。

勿論彼には妻がいたが、丁度身重で夜の営みも途絶えている。そんな事も義正の欲情を煽った。彼女を何としても自分のものにしたい、望むなら愛人にしても良いとさえ義正は考えていた。

 知り合ってから、今日が三度目のデートであった。これまでのデートでは、抱く事はおろか唇を奪う事さえ許してはくれない沙紀であった。

 今夜こそという思いが義正には有った。そのための準備も周到に用意してある。学生の頃に良く使った手口である。嫌がる女性には、あらかじめ用意した睡眠薬の力を借りるのだ。自分用には、MDMAと呼ばれる合成麻薬をポケットに忍ばせてある。服用すれば高揚感と共に神経が過敏になり、深い絶頂感が得られる。

 今日こそ絶対に思いを遂げる。そう義正は決心していた。

 そんな義正の悪巧みを何も知らずに、待ち合わせ場所に現れた沙紀を有名な割烹に案内した。コートとブーツを脱いだ沙紀の服装を見て、義正は彼女の服装のセンスに、あらためて感心する。

 ミンク加工の淡いラベンダーのセーター、ボトムはセーターより少し濃い紫のタイトのミニ・スカート。形の良い脚をさりげなく強調するようなスタイル。

座敷に案内され、向かい合わせで食事をする。卓の下のミニ・スカートから露わになるひざ小僧。思わず覗き込みたくなる情欲を義正は抑制する。もう少しの我慢だ。

 車に乗ってきたものの、食事の後、そのままシティホテルに連れ込むつもりなので日本酒を注文した。

 コンパニオンをしているだけあって、彼女は飲みっぷりが良かった。義正も少しのつもりが、彼女につられて杯を重ねた。酔いが回るにつれ、気分が高揚し、一刻も早く沙紀と二人きりになりたくなる。

 料理も出尽くし、食後のコーヒーが出された。

義正は沙紀がトイレに立った隙に彼女のカップに睡眠薬を入れ、ついでに勘定を済ませに帳場へ向かった。

 戻ってくると、彼女はデザートを口に運んでいるところであった。コーヒーカップが空になっているのを見届けると、義正は自分もコーヒーを飲んで少し酔いを醒ます。彼女がデザートを食べ終わり会話も途切れたのをきっかけに、義正が口を開く。

「そろそろ、行こうか」

「ええ、そうね」

「とりあえず車に乗ろう」

「大丈夫……随分お酒を召し上がっていたようだけど」

「平気さ、すぐそこまでだから」

「え……」

 最後の言葉に彼女は引っ掛かったが、それ以上何も言わなかった。義正は、それを都合の良いほうに解釈した。

 駐車場へと先に立って歩く。そんなに酔ってはいないつもりであったが、少しよろけそうになり慌てて踏ん張る。彼女の前で醜態は見せられない。

 シルバー・メタリックで塗装された車体が、駐車場の薄暗い照明を浴びて鈍く反射している。彼の自慢の愛車、ポルシェのボクスターである。

黒い幌をしてあるので判らなかったが、ドアを開けると内装の真っ赤なレザーが目に飛び込む。沙紀は思わず声を上げた。

「まあ、素敵な車。晴れた日にオープンでドライブしたくなるわね」

「沙紀のためならお安い御用さ。暖かくなったら箱根あたりまでドライブしよう」

 車に乗り込みキーを捻ると、独特の咆哮をたて3・4リッターの六気筒エンジンが目覚める。

 ボクサー(水平対向)エンジンを積んだロードスターということで、ボクスターと名付けられたハイパワーのミッドシップ・スポーツは、静かに路面へと滑り出し、次の角の交差点まで一気に走ると赤信号のために停車する。

 義正はすかさず体を助手席に向け沙紀の唇を盗もうとする。

 沙紀はするりと身をかわし、軽く睨む。

「駄目よ。貴方には奥様がいるでしょ」

 そんな沙紀の制止に耳を貸さず、義正は強引に迫る。

「部屋をリザーブしてあるんだ。俺も酔っているし、一緒に泊まろう」そう口説きながら両手を押さえつけ、尚も強引に迫る。

 後ろのタクシーがクラクションを鳴らす。信号が青に変わっていた。

 義正の押さえつけている腕の力が緩む。沙紀が腕を振りほどき、彼の顔を思い切り平手でぶつと、ドアを開け飛び降りた。

 タクシーが、いらついてクラクションを連続して鳴らし続ける。義正は仕方なく車を発進させる。

 ルームミラーに映る彼女の姿がどんどん小さくなっていく。

 広い通りに出て、ハザードランプを点滅させ、側道に寄せタクシーをやり過ごすと急いで車をUターンさせる。

 全速力で来た道を戻りかけると、後ろからサイレンと共に赤ランプを回転させパトカーが追いかけてきた。 

「チッ、こんな時に限って」義正は毒付きながら車を止めた。

 警官が近づき、ウィンドーを下げるよう合図する。

「ここはUターン禁止ですよ」

「すいません、気が付かなかった」

 答える義正の顔を警官が覗きこむ。

「それに運転がふらついてますよ。お酒を飲んでますね」

 しまった、ついそこまでと思って車に乗ったのがまずかった。

「いや、食事で少し飲んだだけだ」 

「何時頃ですか、量はどの位」

「夕方だよ、ちょこに二杯だけ。口を付けた程度だよ」そう答えながらも睡魔が襲ってくる。義正は必死で正常心を保とうと努力する。

 もう一人の警官が、疑わしそうに義正の顔を見る。

「ちょっと、車から降りてもらえますか。それと免許証見せて」

 しまった、やばい事になった。義正は心の動揺を抑えつつも、仕方なく車から出てスーツのポケットからパスケースを取り出す。手が震え、うまく取り出せない。やっとパスケースを掴み引き抜くと同時に、小さな紙包みがポケットから落ちる。

「何か落ちましたよ」

警官が目ざとく見つけ、それを拾い上げる。しまった、中身がばれるとまずい。 

「ん……」 手に取った紙包みをしげしげと眺め、もう一人の警官に見せる。

 義正は免許証を受け取っても尚、紙包みを真剣に見つめる二人の警官の異様な様子に言いようの無い不安を覚える。心臓の鼓動が自分の耳に届きそうなほど高鳴っているのを感じる。

「久留米さんか、ちょっと後ろの車に乗って」

 免許証を見て警官が指図する。二人で義正を囲むようにして、パトカーに乗せる。一人が無線で何か連絡をしている。良く聞き取れないが、本部と交信して身元照会を行うだけでなく、何か指示を仰いでいるようだ。 

 その間、もう一人が彼の脇に坐り、逃亡を警戒するように見張っている。やはりばれたか……飲酒運転にしては大げさ過ぎる。義正は緊張で酔いも吹き飛んでしまいそうだった。心なしか足が小刻みに震え、口の中がからからに乾く。そんな状態にも関わらず睡魔が襲う。

「久留米さん、署まで同行願えますか。ちょっとお伺いしたい事が有りまして。どのみち酔いを醒まさなくては、運転出来んでしょう」 

「ハイアットに泊まるつもりだったんだ。ちょっとの距離じゃないか、見逃してよ」

「酒気帯びなら、我々もそこまでしませんよ。問題はこれです。どこで手に入れました」

 警官が紙包みを見せる。

「それは何だ。俺のじゃない」咄嗟に言い訳が、口をついて出る。

「あなたが先程、ポケットから落としたんですよ。惚けるつもりですか」

「確かに、免許証を取り出す時に何か落とした。しかしそんな紙包みは、持っていない、レシートか何かを落としたと思っていたんだ」

「ポケットから落とした事は、認めるんですね。しかしご自身の持ち物じゃ無いと……。矛盾してますなあ」

 義正は警官のその言い方に、腹が立ってきた。つい大声で怒鳴る。

「知らないものは知らないんだ。どうしてそんな袋に……」

 語尾が明瞭でなく、呂律がまわっていないのが、自分でも判る。

「ほう、まだ惚けるのか。まさか風邪薬だなんて言うんじゃないだろうな。これはどう見ても、合成麻薬だろ。薬物所持は立派な犯罪なんだよ」

 だが、正義にその言葉は届いていなかった。襲ってくる睡魔に勝てず、パトカーの後部座席で大の字になり眠りに落ちていた。その様子を唖然と見つめていた警官は呆気にとられながらも、気を取り直しパトカーを署へと向けた。

                 

「何ですって、社長が……」思わず大きな声を上げた久留米運輸の常務である伊藤は、慌てて声を潜める。

「はい、はい……ええ、承知しました。直ぐに家族のものを向かわせます」

 残業で居残っていた事務員たちが、何が起きたのだろうと興味深げに見守る視線を感じながら、伊藤は三階の事務所を出てエレベーターで一階に降りると、奥の一軒家へと向かった。

 久留米運輸の本社は、五階建てのビルである。先代社長、義正の父である憲正が事業を拡大し上場をはたした成功の証として、このビルを建造した。

 その建物と背中合わせに社長宅が有り、社屋ビルから中庭を抜けて、裏から出入りが出来る構造になっている。

「大奥さん、真紀さん、大変だ。三代目が警察に……」

「何ですか、伊藤。騒々しい。義正がどうしたんですか」

 義正の母親である裕子が、奥座敷から顔を覗かせる。年齢は六十歳を過ぎているが未だ矍鑠としている。

 憲正亡き後会社を実質的に切り盛りしているのは、この裕子と初代から仕えている大番頭の伊藤常務であった。その伊藤が、慌てて屋敷に飛び込んできたのだ。普段は冷静沈着な伊藤の珍しく慌てた様子に、裕子は話を聞く前から相当大変な事が起きたのだと予感した。

「大変です。三代目が、いや社長が、警察に逮捕されたそうです。何でも酒気帯び運転と、道交法違反を犯したそうで……」

「まあ、今は酒気帯びでも逮捕されるのかい」

「いや、それでパトカーに止められて、免許証を出す時に、薬物を持っているのが見つかったそうで」

「薬物……麻薬とか覚せい剤って事かい」

「そこまで詳しい事は判りません。ただ、何日か泊まる事になるから、着替えなどを持ってくるようにと……家族にも事情を聞きたいからと」

「俺々詐欺じゃないのかい」

「馬鹿な、だったら電話を切らずに、金品を要求してきますでしょうが……」

ここに至って裕子は漸く事態の重要性に思い至り、慌てて台所で炊事をしている義正の妻である真紀を呼んだ。

 事情を聞いた真紀は顔面蒼白になりながらも、急いで義正の着替えを用意し、自

分の身支度を整えた。

 そんな慌ただしい様子を見詰めながら、伊藤は、やはりあの野坂という男の言うとおりかも知れない……と考え、大きくため息をついた。

                 

 都心近くの高層マンション。その一室に女性が入っていく。前をはだけたコートの下に、淡いラベンダーのセーターと紫のミニ・スカートを着込んでいる。

 部屋に入るなり、煙草を吸って待ち受けていた男性に話し掛ける。 

「上手くいったわ。本当に下心丸出しで、思ったとおり私に睡眠薬を飲ませようとしたみたい。彼が席を外した隙に、コーヒーカップを入れ替えて正解だったわ。それに、ポケットに薬物を忍ばせていた。計画では、酒酔い運転で捕まる程度を考えていたのに、免許証を取り出す時慌てて薬物を落としたものだから、警官に気付かれて自爆したわ。でも、あんな野獣が今まで野放しになっていたなんて……絶対に許せない」

 ライターの蓋をパチンと閉じながら、男が頷く。

「ああ、全くだ。これでやっと三人目だ。残るは――」

「大丈夫、次のターゲットにも、今の処、順調に食い込んでいるわ」

「でも、無茶はするなよ。奴がグループのリーダー格だったし、ある意味一番油断がならないからな」

「ええ、判っている」そう言いながら、リビングの飾り棚に有る写真立てに近寄る。

 それを手に取り、中に入れられた一人の若い女性の画像に見入った。

 素直に伸ばした艶やかな黒髪、世界中の幸せを独り占めしたかのような、はちきれんばかりの笑顔で収まる女性の姿が、そこには有った。


2008年 2月4日

 あれから何度も久留米の携帯電話を呼び出しているが、聞こえてくるのは、<お掛けになった電話番号は、電源が切られているか、電波の届かない場所にあります>という決り文句のアナウンスだった。こんな事なら自宅の電話番号も聞いておけば良かったと河合は思った。

 そうだ会社の電話番号なら、ネットのホームページで直ぐ調べられる。何故、直ぐに思いつかなかったのだろう。早速パソコンの電源を入れ、インターネットを立ち上げる。

 ブロバイダの初期画面で検索をしようとして、河合の目に画面右下に表示されるニュースコラムの文字が飛び込んできた。


『久留米運輸社長、薬物不法所持で逮捕』


 何だって、久留米運輸。確か義正の会社も久留米運輸だったな。まさか、同名他社に違いない。そう思いながらも隆史は見出しをクリックする。画面がリンクを張った詳細記事に飛ぶ。


久留米運輸社長、薬物不法所持で逮捕

18日午後8時30分頃、新宿区西新宿三丁目付近で久留米運輸社長、久留米義正(33)がUターン禁止区域で方向転換した処を警官に制止された。更に酒気帯び運転及び合成麻薬0.8mgを所持しており、その場で現行犯逮捕された。


 やはり義正だ。何て事だ、あいつはまだ薬から手を切ってなかったのか。しかしこれでもう、あいつを頼れない、困った。河合は頭を抱えた。

 テレビのワイドショーでも、義正の事件が取り上げられていた。どこから調べたのか、義正が事件直前に、女性と密会していたと、リポーターが報告している。どうやら義正の人間性を非難するため、関係の無い私生活まで、暴きだそうというのだろう。テレビ局の似非正義感が鼻につく。

 義正の事件報道が終わり、リモコンスイッチをオフにしようとした河合は、次のニュースを報道する画面に釘付けとなった。

 何とそこには千恵の顔が、大写しになっていた。周りをレポーターが取り囲んでいる。

「堀田さん、あんなプライベート映像を流された事について、どうお考えですか」

「告訴すると噂されていますが、本当のお気持ちをお聞かせ下さい」

「一説によると、芸能界にデビューするための、話題作りじゃないか、とも囁かれていますが」

 数十本のマイクが千恵の顔の前に突き出され、テレビカメラが行く手を阻む。完全に無視をしてその場を逃れようとする千恵に、リポーターは尚も執拗に追いすがる。

じっとテレビ画面を凝視していた河合は、リモコンのスイッチをオフにするとその場に寝転んだ。俺、久留米そして千恵。これは何かの偶然だろうか。それとも罰が当たったのだろうか。

 隆史は十年前の事件以後封印し既に忘れかけていた記憶をまざまざと思い出していた。

                   

 離婚届を突き付けられ半ば強引に邸宅から放り出された堀田千恵、いや旧姓に戻った田上千恵は、連日マスコミのインタビュー攻勢を受けていた。

これまで、玉の輿にのって自由気ままな生活をしている千恵を「セレブ」と持ち上げていたマスコミが、一転して格好の餌食とばかりに喰いついて来る。表面では同情を装いつつも、彼等の本音は三下り半を突き付けられた悪妻に、溜飲の下がる思いなのだろう。

勿論、火遊びが過ぎた結果だから仕方ないが、それにしてもあの夜は罠にはめられたとしか思えない。時間が経ち冷静になって考えてみると、あれは夫の策略に違いないと千恵は思うようになった。

 夫との仲は完全に冷え切っている。彼には愛人がいる事も、そのため自分との関係を断ちたがっている事にも、薄々感づいていた。だからあんな罠を仕掛けたのだろう。一方的に私を悪者に仕立て上げて……。

 千恵にとっては、離婚などどうでも良かった。あんな仮面夫婦でいる位なら、こちらから願い下げだ。ただどうしても、あのような汚い手口は許せなかった。今頃、夫は愛人とよろしくやっているのかと思うと、悔しさがこみ上げてくる。そして、まんまとその罠に掛かった自分の馬鹿さ加減に、腹が立つのであった。そんな事を思っていると、突然携帯電話が鳴り出した。河合からだ。

<さっきニュースで見たよ。大変な事になってるんだな>

「何よ、冷やかしで電話掛けてきたの。もう参っちゃうよ、さんざんレポーターに追いかけられちゃって。私は芸能人でも何でも無い、普通の人種だよ、なのに芸能プロダクションからはお誘いがかかるし、出版社からも、写真集を出さないかって。もう、どんだけ……って感じよ」

<仕方ないさ、旦那が今、話題の人だからね。でなけりゃ、こんな騒ぎにはならないさ。そんな事より千恵、もう少し詳しく話を聞かせてくれないか>

「どうして、ニュースで見たままだわよ、外人男性二人とのベッドインを盗撮されたの。それだけよ。火遊びが過ぎたわ」

<いいか、先日俺は身に覚えの無い婦女暴行で捕まったんだ。そして久留米は先週、薬物不法所持で現行犯逮捕された。今取り調べの真っ最中だ。次がお前だ。何か思い出さないか?>

「嘘でしょ、義正が……ちっとも知らなかった。まさか、みんなにもそんな事が起きていたなんて。あんたの言わんとする事も判るけど、もう十年も前の話だよ。私の映像流出騒ぎは、離婚を望んでいる旦那の仕業と思うんだけど……そう言えばあいつ、変な事を口走っていたわ。あんた達全員と寝ただろうとか何とか……。だから絶対そうよ。あんたたちに対しては、私との関係を疑っていたから、仕返しのつもりなのよ。ねえ、そう思わない」

<判らない、だけど村中にも声を掛けて、一度会わないか>

 河合は千恵への電話の後、続けて昔仲間の村中に連絡を取るのだった。

                 

 現行犯逮捕された久留米義正は、新宿署で厳しい取り調べを受けていた。

「いいか、MDMAの入手ルートを聞いているんだ。尿からはベンゾジアゼピン系の睡眠薬の反応が出ているしな。ハルシオンか何かを服用したのか? 現在、あんたの毛髪も検査している。常習かどうかの結果が出るのは、時間の問題だ。素直に答えたほうが身のためだぞ」

「何度言えば判ってくれる。本当に俺は知らない。いつの間にかポケットに入っていたんだ」

「ヤクが勝手に、あんたのポケットに入ったとでも言うのか」

「あのスーツは、クリーニングから戻ってきたばかりだったんだ。だからあの日に、誰かに入れられたとしか考えられない」

「それじゃあ、当日の行動を逐一、聞かせてもらおうか」

「あの日は午前中ずっと家にいた。夕方になって車で出かけたんだ」

「どこへ」

「渋谷近辺だよ」

「目的は?」

「それは……」

 言いよどむ義正の顔を見つめ、刑事が諭すように、こう言った。

「なあ、久留米さん。あんた、自分のおかれている状況が判っているのか。素直に何もかも吐いたほうが、あんたのためだよ」

「あの日は女性と会っていた」

「名前は……あんたとの関係は」

「名前は桜田沙紀。コンパニオンをしている。業界の会合で派遣された彼女と知り合ったんだ。今思えば、向こうから近づいて来たんだと思う」

「ん……どうしてあんたに近づく必要が有る」

「そんな事、俺が知るかよ。互いに好意を持ったんで、付き合ったとばかり思っていたんだ」

「そのコンパニオンの派遣会社の連絡先は?」

「さあ、組合に聞いてくれよ。いつも使ってる会社だと思う。そうだその女が怪しい。なあ、早くその女を捕まえてくれよ。そうしたら俺の無実ははっきりする」

「馬鹿野郎! もしそうだとしても、あんたは道路交通法違反と飲酒運転をしでかしているんだ。それだけでも立派な罪なんだよ」

 刑事から怒鳴られて、首をうな垂れる義正だった。


「それで、薬物については、彼がどこから入手したかのルートは全く判らない……まあ、彼については薬物所持で起訴出来たとして、久留米が会っていたと主張する例の女性の捜査は、どうなりました」

 津村検事正が尋ねる。津村は齢五十を過ぎても、頭髪は黒々としている。人懐っこそうな笑顔、丸メガネが余計愛敬の良さを強調しているが、その奥の眼光は鋭く決して悪事を許さない強固な意思が露われている。その正義感の強さと、カミソリのように切れる頭脳を兼ね備えており、検事たちに恐れられていた。

 久留米義正が薬物所持で現行犯逮捕されてから、一週間が経過していた。勾留されてからでも四日が経つというのに、女性の調査については、捗々しい成果は無かった。

 担当検事の西川が苦虫を噛み潰したような表情で答える。

「それが、コンパニオン派遣会社に問い合わせをしたところ、確かにその日の会合に、コンパニオンを派遣したという事ですが、その中に桜田沙紀という名前は見当たりませんでした。登録名簿も調べたのですが、そこにも存在しません。つまりそんなコンパニオは、いないのです」

「それじゃあ、久留米のでっちあげだと」

「いえ、他のコンパニオンの女性に聞いたんですが、余り見かけないコンパニオンが一人混じっていたと言うんです。新人さんかな、と思ったらしいです。でも派遣会社からそんな話が無かったし、紹介も無かったので、おかしいなと思ったそうです。大体の歳、格好を思い出してもらったんですが、年齢的には二十四、五。身長は百七十センチ近く有るそうで、スタイルの良い、抜けるような白い肌の美人。長い髪をアップに結っていたそうです。それで、事件当夜、彼が女性を連れて行った割烹に裏を取ったんですが、仲居の女性が証言した歳、格好と一致します」

「どうも、引っ掛かりますね。桜田沙紀と名乗る女性を何としても探す必要があります。今の処、その女性が、密売ルートの売人という可能性も考えられます」

「薬をその女が久留米に渡したとしたら、その線から密売ルートが解明できるかも判りませんね」

「まあ、それは女性を探し出してからです。ここで我々が想像していても仕方がありません」

 話し方こそ穏やかでは有るが、こんな処で油を売って無いで早く女を見つけて来い!と言われているようで、西川は急いで腰を上げた。

 部屋を退出する西川の後ろ姿を見送りながら、津村は思考を巡らした。多分、そんな複雑な事件では無いように思う。桜田沙紀と名乗る女性が売人だとすると、どうして常習者でもない久留米に近づく必要が有ったのだろうか、それも身分を偽ってまで。普通近づくのは薬を買いたい久留米の方だ。薬物と女性とは、関係が無いように思える。おそらく久留米が海外旅行などでこっそり持ち帰ったか、それともネットから入手したのだろう。今では、ネットからでも簡単に入手出来るようだ、やりにくい時代になったものだ……。 

 その時、津村の思考を中断するかのごとく、ドアをノックする音が聞こえた。

「はい、どうぞ」 津村が応えて、部屋のドアに顔を向けた。

「失礼します」 

 部屋に入ってきたのは、特捜部長の尾崎直之であった。

「検事正、例の公取委に届いた告発文書ですが、やっと人物の特定に漕ぎつけました」

「ふむ、調査に半年を掛けた甲斐が有りましたな。で、その人物は?」

「国土交通省の政務官である、丸山久雄氏です。なかなかの硬骨漢で、以前からS県知事と業者の癒着を怪しいと睨んでいたそうです」

「政務官……意外な線ですな」

「ええ、どうも国土交通省の人間や政治家も絡んでいる様子です。大島建設といえば、過去にも天下りの役員OBが、談合を取り仕切っていた前科が有りますからね。ここ暫くは鳴りを潜めていましたが、またぞろ、悪い虫が蠢き始めたようです。ただ現役の役人や議員が関わっているとなると事は重大です」

「そうですな。公取委とも緊密に連絡を取って、慎重に捜査を進めてください」 

 津村は、尾崎が退室して暫くは報告書に目を通していたが、ふと空腹感を覚える。時計を見ると、とっくに十二時を回っていた。

              

 官舎の食堂に行くと、青井検事補が同僚と喋りながら、食事をしていた。

「ほんと、被害者が行方をくらますなんて、どうなってるんだか」

 青井がそう話す声が聞こえた。津坂がそちらに近づく。

「ご一緒してもよろしいかな」

 声を掛けられて青井はびっくりして立ち上がり、直立不動の姿勢をとる。

「まあまあ、お食事を続けて。ところで、今ちらっと聞こえたのですが、何か面白そうな話ですな」

「いや、お恥ずかしい。検事正にお聞かせする程の話じゃ有りません。ちんけな婦女暴行未遂事件です。加害者が否認しててこずりましたが、結局罰金刑になったんです。初犯という事も有り実刑は免れたんですが、それでも奴っこさんは誰かが自分を陥れたんだとか、俺は潔白だとか言い張ってましたけど」

「ふむ。陥れた……ですか、穏やかじゃ有りませんね」

「判決が出て、審理も無事終了と行きたい処なんですが……」

「ん……何か問題でも有ったんですか?」蕎麦をすすりながら、津村が尋ねる。

「何と被害者の女性が見つからないんです。名前も住所も出鱈目でした」

「ほう、偽名を使ったんですか。一体どういう事でしょうかね。加害者ならともかく」

「そうなんですよ。事件直後には、切り裂かれたコートはどうしてくれるんですか、 弁償してもらいますって息巻いていたらしいんです。でも一向に民事の訴えが無いので、裁判所が通知を出そうとしたのですが、調書に記載された住所に、桜田沙紀なんて女性は住んでいな――」

 津村が箸を持つ手を休め、青井の言葉を遮るように問いかける。

「ちょっと待って下さい。今女性の名前を何と言いました」

「桜田沙紀ですが……何か?」

「西川検事の扱い事件にも、桜田沙紀と名乗る女性が、関係しています」

「何ですって」

「貴方の扱った事件と西川検事の事件は、何か関連があるかもしれないですねえ。食事が済んだら、西川検事とお二人で、私の部屋に来てください」


 二人の検事から、再度詳しく事件の概要を聞くに及んで、津村は二つの事件に共通する事実を掴んだ。

「一つは、桜田沙紀と名乗る女性が関わっている事。もうひとつは、河合隆史と久留米義正が、共にK大学同期生という事ですな。桜田沙紀と名乗る女性が住所を偽った事から、河合の事件が単純な婦女暴行未遂では無いと考えられます。河合が陥れられたと主張する裏には、彼にも何か心当たりが有りそうです。これは突っ込んだ捜査が必要ですな」

 津村は、一見何の関連も無い二つの事件の裏に潜む謎が、自分の危惧した厄介な方向に進展していきそうな嫌な予感がした。

「しかし、検事正。河合の件はもう審理も終了して、刑も確定しています。今更差し戻しは――」

「それに何か有りそうだという勘だけでは検察としても……」

 そう口々に訴える両検事に、津村は微笑を浮かべる。

「判っています。一時不再理の原則論を歪めようとも思ってはいません。ここは私のあくまでも私的な依頼として、ある人物に一肌脱いでもらいましょう」

 津村はそう言い終えると、やおら受話器を取り上げた。


第二章

 新宿署刑事部の近藤(こんどう)忠(ただ)弘(ひろ)巡査部長は、久々に事件の無い平和な時間を過ごしていた。

 そうだ、こんな時こそ来年の昇級試験の勉強でもするか。思えば七年前に女房を失って以来、出世欲も無くし、ただ忙しく事件を追っかける事で自分を追い込んでいた。暇が出来ると白血病で亡くした妻の事が思い出され、やりきれなくなるのだ。

 どうしてもっと傍に付いててやらなかったのだろう。どうしてもっと……。そんな後悔で自分を責める。だが俺は刑事だ、自分の妻より今追いかけている凶悪犯を一日も早く逮捕する事の方が何人もの命を救う事になる。当時はそう考え行動した。まさかそれほどまでに妻の体を病魔が蝕んでいるとは思いもしなかったのだ。

 妻が亡くなってからはがむしゃらに事件を追っかけた。事件を起こす輩を憎んだ。おまえたちが事件を起こす事が、妻を死に至らしめたのだとそう思いこんだ。

だが今年の春、コンビを組んだ坂上政夫という年下の相棒と仕事をするうち、少しずつ近藤の中で何かが変わり始めた。若く純粋に正義に燃える坂上を見るにつけ、自分の昔の姿をだぶらせていた。俺にもあんな時代が有った。いつの間にか犯罪の防止や撲滅への情熱は失せ、事件を起こす輩を憎み叩きのめす事に固執していた自分を恥じた。女房を亡くし自暴自棄になっていただけじゃ無かったか。そう気が付き、遅まきながら昇進試験を受けようと考えたのだ。

 勉強を始めだした時、自分の名前を呼ぶ声に気がついた。顔を上げると同僚が受話器をかざして近藤を呼んでいた。

「コンさん、津村検事正からお電話です」

 やれやれ、たまに勉強し始めるとこれだ。近藤は机の上の電話から受話器を取り上げる。

「おや、畏れ多くも、検事正直々のお電話ですか」

電話口で近藤が軽口を叩く。

<コンさん、冷やかしちゃいけない。実は、折り入ってお願いがあるんですが、今抱えている事件は有りますか>

「いえ、お陰さまで今の処、本店が乗り込んでくるような事件は有りません。ご存知のように場所柄ちょっとした傷害やら何やらは日常茶飯事ですが」

<コンさんの署の四課で扱かった事件が、こちらに回されているんですよ。それに絡んでちょっと調べてもらいたい事があるんですがね>

「うちの四課……組がらみの密入国外国人の売春行為か何かですか?」

<いえ、ハイアット近くで道路交通法違犯を犯した男性が、薬物所持で現行犯逮捕された件です>

「ああ、知ってますよ。女のケツを追っかけまわして、車をUターンした処を捕まったドジなお坊ちゃんですね」

<そうです、その女性が薬物の運び屋か売人の可能性もあるとみられてまして……ですが、その居所が全く掴めない。しかも同じ女性が別の痴漢事件の被害者なんですが、どうも加害者である男性は嵌められた可能性があるのです。どうしてそんな事を仕掛けたのか……何か事情がありそうに思うのです>

「検事正のいつもの勘ですか」

<お恥ずかしいけれど、そうなんです。うちの刑事部は今手一杯で私の勘に付き合わせる人手が割けないのが実情で……>

「例のゼネコンの談合やら耐震偽造やらの捜査ですか」

<ふむ。余り詳しい事は話せませんが、そんなとこですかな。だからコンさんにお願い出来ないかなと思いましてね>

「判りました。早速調査しましょう」


2008年 2月5日

 新宿署の捜査一課の巡査部長である近藤は、地検の津村からの私的な依頼を受け、この日S県庁建築指導課に出向き、大石課長に面会を求めていた。

 昨日、近藤は直ぐに河合と久留米の事件調書に目を通した。

 桜田沙紀と名乗る人物は、コンパニオン派遣会社に存在しない事、又、届けていた住所に存在しないとの報告書を読み、この女性に関する手掛かりが全く無い事を知った近藤は、もう片方の、河合の痴漢事件の再調査から着手しようと考えた。

 事件当初は、単純な痴漢事件との判断から、鑑取りもされていない。つまり最初から河合に対し予断を持ち、加害者と決めつけていた訳で、もし誤認逮捕ともなれば明らかに警察の失態である。河合の勤務状況や私生活の聞き取りをあらためて行う必要を感じた近藤は、先ず彼が勤務していたS県庁を訪れた。

 捜査一課の刑事がやって来たと聞いた建築指導課の課長である大石は、慌てて応接室に駆けつけた。

「いや、もう河合君がとんでもない事をしでかしたお陰で我々もえらい迷惑を蒙っていますよ。私も監督不行き届きで譴責処分をくらいました。彼は地元の一般採用でして……あんな輩を採用した人事部の責任じゃないかと言いたいですよ。それで無くとも新庁舎の大幅な計画変更でうちの課はてんてこ舞いだっていうのに全く……あ、いや……聞かなかった事にしてください。つい愚痴が出てしまいました。お恥ずかしい」

 「そういえば、新聞で読んだ覚えが有ります。計画見直しは『箱物行政』に逆戻りで、時代錯誤も甚だしいと住民の反対運動も起きているとか。さぞ、ご苦労されているんでしょうね」近藤が同情の意を表する。

「ところで、事件当日についてなんですが、新聞記者からの取材が来る前に、課長さんは河合が痴漢容疑で途中下車させられた事実をご存知だったと伺いましたが」

「ええ、課員に同じ路線で通勤している者がおりまして、その者が丁度目撃していたのです」

「ほう、良ければ是非その方からも詳しい事情を伺いたいのですが」

「判りました。今、ここへ呼びます」

 席を立った大石は、暫くして中年の女性を伴って応接室に戻ってきた。

薄化粧の顔に黒ぶち眼鏡を掛けたその女性は、大澤富美子と名乗った。近藤の質問に対し、正確に答えなければならないとばかりに、少し考えて慎重に言葉を選びながら語りだした。

「河合さんとは同じ私鉄沿線に居住していまして、私はいつも決まった車両に乗ります。その車両が改札に近くて便利だからです。彼が二つ先の駅から乗るのも良く存じております。ただ、私と顔を合わせるのが嫌なのでしょう、いつも彼は反対側に乗り込みます。駅に着くとさっさと降りて、県庁へと足早に向かい、私は毎日その背中を見ながらゆっくり歩いてきます。同じ職場の仲間なのに変な関係だとは思いますが、私は気軽に声を掛けられない性格ですし、仕事以外の話題も無いものですから……それで、あの事件の日もいつものように彼が乗り込むのを見ました。それも綺麗な女性を連れているようだったので、一瞬河合さんの彼女なのかなって思いました。でも女性が彼に背中を向けてつり革をつかむのを見て、なんだ私の早とちりかって思いました。次の駅を発車するときに河合さんの腕を摑んで痴漢だ! って叫んだのがその女性でしたから」

「ちょっと待ってください。女性は河合さんと同じ駅から乗り込んだのですか……」

 近藤はてっきり、もっと前の駅で乗り込んだものと思っていたのだ。

「で、どうして河合さんの彼女だと思われたんですか」

「彼の後ろから、ぴったり寄り添うように乗り込むのを見たものですから、つい彼の家に泊まって一緒に出勤してるのかなって勝手に思い込んでしまいました。下卑た想像をしてしまってお恥ずかしいです」

 そう言って少し頬を染める。その恥らう様子を見て、年齢のわりには初心な女性だなと近藤は思った。

「寄り添うようにねえ、そりゃ誰でも勘違いしますよ。ところで、その女性は今までにも見かけられた事はありましたか」

「いいえ、いつもは見かけない顔です。ですから、余計、彼の処に泊まったのかな、と思ったのです」

 まだ自分が、恥ずかしい想像をした事に拘っている。

「成る程。となると、見ず知らずの他人が河合さんと離れまいと、くっついて乗り込んだという可能性もあるわけですね」

「ああ、そう言われればそのような捉え方も出来ますね」

「で、登庁して直ぐに課長にご報告されたのですね。その女性の外見的な特徴か何かをもう少し、詳しくお教え願えませんか」

「そうですね、背丈は私より高かったと思います。混みあった車内でも男性の背中越しに顔が見えましたから。ですから百七十センチ近く有ったと思います。非常に綺麗な顔立ちで白い肌、ヘアスタイルはミディアム・レイヤーで……あ、判りますか」と二人の男性の顔を見る。「あの、つまり柔らかくウェーブして肩にまで届く長さでした。黒髪では無く少し栗色に染めていたようです。具体的に申しますと今ブレイクしているモデルのRに少し似ているなって思ったんです」

 そこまで言われてもモデルなんて詳しくは知らない。彼女がため息を吐く。徐々に声が尖って聞こえるのは気のせいだろうか。

「ファッション雑誌の表紙を飾っていて、若い娘の絶大なる支持を得ているSです。シャンプーのコマーシャルで『キューティー・キューティクル』ってキャッチコピーを言う女性、ご存知ないんですか」

 気のせいではなかった、完全に詰問口調だ。だがそこまで言われてやっと近藤にもモデルの顔が浮かんだ。

「ああ、やっと判りました。彼女に似ているとなると、なかなかの美人ですね。で、と……他に気付かれた事は有りませんか」

 それ以上特に申し添えることが無いという大澤富美子と大石課長に礼を述べて、近藤は県庁を後にした。

 おっかない女性だった、あの調子で河合もやりこめられているのだろうと思うと、彼に同情したくなる、そう近藤は思った。

 次に近藤は、四谷にあるコンパニオン派遣会社に向かった。だが、ここでも津村から聞いた以上の有益な情報は得られなかった。

続いてその足で桜田沙紀が現住所と偽った場所へと向かう。幸い四谷から新宿は中央線で一本である。新宿に降り立った近藤は、新宿駅西口地下街をハルク沿いに歩き地上に出る。青梅街道を成子坂方面に少し歩いて右に折れた処で近藤は足を止めた。この辺りが、当該住所のはずだ。

 桜田沙紀は実際に存在しない出鱈目の住所をでっちあげた訳ではなく、現実に存在する住所を書き記したのだ。直ぐにばれないための用心であろうか……。

 近藤の目の前には最近建てられたマンションが聳え立っていた。その建物を見上げて近藤は妙な感触に襲われた。おや、デジャブ……以前にも、同じような景色を見た記憶がある。勿論自分が所属する新宿署の管轄であり、署とは目と鼻の先だから馴染んだ風景ではあるのだが、近藤は何か記憶の糸に引っかかるものを覚えた。

 それが何だったのか思い出せないまま、近藤はマンションの玄関に足を踏み入れた。

オートロックで厳重に侵入者を拒むセキュリティが掛けられている。

「何かご用ですか」ホールの脇に管理人室の小窓があり、女性が訝しげにこちらを見ている。

 近藤は警察手帳を見せながら女性に話しかけた。

「このマンションはいつ頃建てられたものですか。まだ新しいんでしょ、見たところセキュリティも最新式の設備のようですし……」

「ええ、一昨年の秋です。あの……先日も住人の確認に刑事さんが来られましたが、何か事件でも」

「いやいや、ご心配には及びません。ところで、これが建てられる前も確かマンションだったと思うんですが?」

「私は以前の事は知らないんですが、前もマンションだった事は確かです。地権者だった方が今でも住んでらっしゃって、そのように聞いてます」

「その方の話を聞いてみたいんですが」

「生憎、今はお留守です。奥さんもパートで働かれているんですよ。六時過ぎでないと戻られません」

「そうですか、じゃあ又出直してくるとしましょう」

 管理人に礼を述べ、戸外へ出た近藤は、再度マンションを見上げる。

先ほど感じた奇妙な感触は襲ってこなかった。気のせいか……さて、これからどうするか。わざわざ出直してまで地権者の話を聞く必要性も感じられず、近藤は署へ戻ることにした。

 今日は桜田沙紀と名乗る女性について成果らしきものを得られなかった、だが彼女が、河合と同じ駅から乗り、しかも彼にくっつくように離れまいとしていたという目撃談は、近藤の興味を惹いた。

 やはり女性が仕掛けた罠だったのだろうか、何の目的で……河合や久留米を嵌める事に何のメリットが有るのだろうか。

 それにしても、桜田沙紀については、これ以上の手掛かりは得られそうも無い。明日は河合と久留米が大学の同窓だった点から聞き込みをして見るか……そう近藤は考えた。


2008年2月6日

 その日、久留米運輸の会長職にある裕子と常務の伊藤は、セントラル運輸本社に出向いていた。

 二人とも、ここ数日間の心労のためにげっそりとやつれていた。

 義正の逮捕が新聞やテレビで報じられ、毎日のように記者が会社や自宅に詰め掛けて来た。飲酒運転が大きな社会問題として取り上げられる昨今、事もあろうにドライバーを多く抱える企業のトップが法を犯し、更に法律で禁じられている薬物まで所持していたのだ。さして大きなニュースが無かった事もあってマスコミが一斉に飛びついた。

久留米運輸には顧客からの取引中止の連絡が相次ぎ、一般市民からのクレームや苦情が殺到した。真紀は心労からノイローゼ気味となり、流産も危ぶまれるため入院させられた。そんな混乱の中、社員も数名が辞めていった。

 こんな状態では仕事どころでは無い。久留米運輸は開店休業状態に陥った。しかも主要取引銀行の都銀からは、今後の融資をお断りしたい旨の連絡が来た。そんな最中、元請けのセントラル運輸社長、大塚芳蔵から直々に面会したい旨の電話が有ったのだ。

 セントラル運輸は国内全県に配送網を持ち、特に関東圏での小口貨物ではトップシェアを誇る大手企業である。二十二階建ての本社は品川に有り、線路を挟んで西側のホテル群と共に、近隣のランドマークとなっている。

 二人は応接室に通され、暫くそこで待たされる。部屋の窓からは青くきらめく東京湾上に架けられたレインボー・ブリッジや高速湾岸線が……その向こうにはディズニーランドのシンデレラ城の突端が冬の陽光を受けキラキラ反射している。今日は快晴で雲ひとつ無い澄んだ青空がどこまでも広がっている。普段ならその美しさに見とれる裕子で有ったが、今はそんな気持ちにもなれない。

 憲正が好景気の時流に乗って事業拡大を果たしたものの、宅配便に圧され、更にバブルが弾け事業縮小を余儀なくされた時に救ってくれたのが、セントラル運輸の大塚社長であった。

 業界での大塚社長の噂は余り芳しくなく「乗っ取り屋」と呼ばれていた。現在のセントラル運輸の規模は、中小の運送会社を次々買収し増殖拡大して成し遂げてきたからだ。その強引なやり口は裕子も知ってはいた。しかし、下請けでは有るものの宅配事業を扱わせてもらったお陰で今の久留米運輸が有るといっても過言ではない。いわば社にとっての大恩人なのだ。

 その大塚社長からの呼び出しである。用件は想像が付く。今回の事件の詳細な説明を求められるのだろう。横に並んで座る伊藤常務の目の下に隈が出来ている横顔を見て、裕子は「ごめんなさい、貴方には苦労ばかりかけて」と心の中で謝る。

 やや暫くして大塚が若い男性を連れて、部屋に入ってきた。

「どうも、お待たせしました。色々と取り込んでいらっしゃる中、お呼び立てして申し訳ありませんでしたな」

 その言葉が裕子の胸に突き刺さる。皮肉を言ったつもりでは無いのだろうが、取り込み中と言う表現が引っ掛かった。

「えっと、彼とは初対面でしたかな。我が社の経営方針のアドバイスを頂いている野坂先生です。先生が我が社の業容拡大の立役者でしてな。まあ今後とも宜しくお見知り置きください」

「野坂でございます。若輩者ですがよろしくお願い致します」

深々と腰を屈め、両手で名刺を裕子に差し出す。

 受け取った名刺には、中央経営研究所所長、野坂良太と印刷されていた。年齢的には我が子の義正と同年輩か? それにしても堂々とした立居振舞いや、いかにも仕事の出来そうな精悍な顔つき……どうしてこんなにも違うのだろう。つくづく我が子の無能さを思い知らされる。そんな思いを裕子は抱いた。

「いや、驚きましたな。ご子息があんな事件を起こされて……会長もご苦労される。心中お察ししますよ」

 そこまで喋って、大塚はドミニカの葉巻アシュトンを取り出した。野坂が自分のライターで火を差し出す。二度ほど大きく吸い込み火がついたのを確かめ、あらためて葉巻を大きく吹かす。紫煙と共に独特のフレーバーが部屋に充満していく。

「ところで、こんな状況では商売にならんでしょう。元請けの私共としてもですな、信用問題になって来よるんですわ。正直に申し上げて、もう久留米運輸の看板は下ろすしか無い状況だと判断しとるんです」

 裕子は胸を衝かれた。見通しが甘かった……義正の事件自体では無く、それを理由に乗っ取ろうと画策しているのだろうか。

「仰るとおりだと思います。ただ、弊社も三代続く歴史の中で常に順風満帆だった訳ではございません。それは血の滲み出るような苦労も厭わず、真面目にコツコツと商売に励んで、看板を守り続けて来たのです」

「皆まで仰いますな。同じ経営者としてそのご苦労は良く判ります。私もこんな話はしたくは無いんですが……しかし会長、このままでは何れ看板を下ろさざるを得なくなります。それからでは遅いんですわ。百人の従業員を路頭に迷わすおつもりですかな。先ず看板はどうあれ、事業を存続させる事が先決やないですか。悪い事は言いません。セントラルの看板を揚げなさい」

「待って下さい。伊藤、あんたも黙ってないで何とかお願いをしなさい」

「無理ですよ、会長。はっきり申し上げましょう。久留米運輸の創業者一族以外の株の大部分をセントラルが譲渡できるメドがたっております。どのみち次回の役員会や株主総会では、大塚社長が代表取締役に選任されます」野坂が口を挟む。

「株を……伊藤、まさか貴方」

「大奥さん、申し訳無い。だが、もうお仕舞いなんです。社長がこんな事になって……よしんば、こんな事件が起きなくても三代目にはもう付いて行けない」

「会長、伊藤常務さんを責めても詮無い事です。他の役員も彼と同じ気持ちです。全員、自社株とセントラル株の交換に応じてくれましてな。これで持ち株比率は逆転しよります。怨むんなら馬鹿な事をしでかした、ご子息を怨むんですな」

そんな大塚の言葉が、裕子にはどこか遠くから聞こえてくるような気がした。


2008年 2月7日

 冬特有の柔らかい日差しを浴びて、キャンパスに広がる芝生に寝そべる学生たち。暖かくて気持ちよさそうだ。フィールドでは防具を付け、肩をいからせ気味にしたアメフトの選手たちがパス練習をしているのが見える。

 久留米と河合の過去の調査に乗り出すことにした近藤は、先ずは彼らの出身であるK大学のキャンパスを訪れていた。本当なら昨日に来たかったのだが、本来の職務に忙殺され時間が取れなかった。津村からの依頼とはいえ、非公式である以上暇を見つけての捜査とならざるを得ない。

 

「えっ、経済学部の学生だけで二千人もいるんですか」

 応対に出た学生課の職員からそう言われて、近藤は今更ながら驚く。さすがはマンモス大学だ、これじゃあ一人ひとり当たっていたんじゃあ埒が明かない。

「全学部だとざっと三万人位になりますね」

 さも当然とばかりに職員が、パソコンのモニターを見ながらキーボードをせわしなく叩く。

「十年前か……今はこういう便利なものが有りますが、一昔前は名簿をひっくり返して大騒ぎしていたでしょうね。ほら、もう出ました」

 そう言ってモニターに現れた久留米と河合のデーターを照合する。

「二人とも、同じゼミを取っていますね。渡辺ゼミに在籍していました」

「ほう、そうですか。是非、渡辺という教授にお目に掛かりたいんですが、本日はいらっしゃいますか」

「それがもう教授を退任されました。それに院生なら兎も角、一般の学生の事など覚えてはいらっしゃらないでしょう」

「そんなもんですか……それじゃあ、他に何か共通点は無いですか」

「うーん、無さそうですね。詳しい事は此処じゃ判りかねます。なにしろ学生の私的な事まではねえ。友人関係に当たってもらうしかないでしょうね」

 そのとおりだろう。毎年千人以上もの学生が入学してくるのだ。一人一人の詳細まで判る訳がない。だが、そうなると何を手がかりに過去を辿れば良いのか雲を掴むような状態であるのは確かだった。

「待ってください。今彼たちとゼミが同じだった学生をソートしてみますから、それだと五十名程度に絞り込めます」

 応対したのが親切な職員で良かったと近藤は思った。やや暫くしてプリンターから出力した紙を持ち、職員が戻ってくる。

「こちらが名簿です。それと、今思い出したんですが、確か先月ゼミの同窓会が有ったと思います」

「同窓会ですか」

「ええ、渡辺教授が昨年退任されたので、それを期に教え子たちが催したようです。たしか幹事は上野君だったかな? 学生課にも通知が来ていたので……有った、これです。この幹事の上野君に話を聞かれればいかがです?」

 近藤は案内状に記載された上野の連絡先をメモすると、礼もそこそこに学生課を立ち去った。


 三時間後、近藤は中央線から総武線を乗り継いで、千葉駅に降り立った。

 大学を後にすると彼はすぐに上野に連絡を取ったのだ。千葉で不動産業を営む上野は、丁度お客を物件案内している最中であった。近藤が千葉に着く頃までには会社に戻れるというので、こうしてまっすぐ千葉へやってきた。

 電車に乗っている間の暇つぶしにとパズル雑誌を買ったが、既に三分の一は解いてしまった。帰りはゆっくりジャンボ・クロスワードに取り組むか……そんな事を考えながら、近藤は上野に教えられたとおり、駅を出ると北西方面に歩き出した。

 大通りを渡り左に折れた通り沿いの五階建てのビルディングに「上野不動産」の看板が見える。

 近藤は少なからず驚きを覚えた。もっと小さな駅前の不動産屋を想像していたのだ。一階が営業窓口になっている。

 近藤が入っていくとカウンターの中の事務の女性がにこやかな笑顔で出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ」そう言ってこちらに歩み寄ってくる。

「いや、客じゃないんです、上野さんにお会いしたいのですが。先刻電話を差し上げた近藤と申します」

「近藤様ですね。伺っております。どうぞ二階に御案内致します」

 先に立って案内する女子社員の後に続いてエレベーターに乗り込む。

 二階には営業の男性が数名おり、パソコンを操作したり電話を掛けたり忙しく仕事をしていたが、近藤を見ると一斉に元気良く「いらっしゃいませ」と大きな声で出迎えてくれた。

 営業のスペースと通路を挟んで右側にドアが有り、経理部のプレートが掲げられている。その奥にも部屋が有りそこには、社長室と表示されたプレートが掲げられていた。

 女子社員がドアをノックすると、応答の後ドアが中から開けられた。

「どうもわざわざ千葉まで、仕事とはいえ大変だ」

 少々肥満気味の体の割に機敏な動きで近藤を迎え入れる。太い猪首に窮屈そうにネクタイが巻きついている。

「あらためて、上野っす」

 名刺の交換を行い応接セットに腰を落ち着ける。

「社員の皆さん、元気に挨拶をされる。活気がお有りで、非常に感じが良いです。教育が行き届いていらっしゃる」

「いや、お恥ずかしい。元気だけが取り柄で」

 そうだろうな、あんたのぞんざいなものの言い方で、それは判るよ。近藤は胸のうちでそう呟いた。

 先程の女子社員がお茶を出すと、一礼して社長室から退席する。

「で、電話では大学時代の事を聞きたいとか言ってたけど、何が聞きたいの」

「確か上野さんは渡辺ゼミだったとか。同じクラスに久留米義正さんがいらっしゃったと思うのですが、おぼえていらっしゃいますか」

「久留米、ああ、アクの事」

「アク……それは綽名ですか?」

「そう、名前が正義の逆だし、悪さもしていたんでアクって呼ばれていた。学生時代、久留米義正は自由奔放に育てられたせいか、我がままで、何でも自分の思い通りにならなければ気がすまなかった。そのために度を過ぎる悪戯や法に触れるようなきわどい遊びをやらかしてたって噂もあったくらいさ」

「悪さですか、何をしていたんですか」

「さあ、俺はあまり仲良くなかったから。噂じゃ危ないクスリもやってたみたいだよ。奴等はトレンド研究会というサークル活動を行ってたんだが、真面目に研究などしていなかった。ほとんど女子学生を誘って遊びまわっていたんじゃないかな」

「奴等って言うと複数ですか? そのサークルのメンバーっていう事ですね。その中に河合っていう学生もいませんでしたか」

「河合ねえ……」と呟き、すぐに思い出したのか記憶を手繰るように話し出す。

「ああ、そういえばあいつもいたと思うよ。だけど、サークル自体は部長のノラ、タケシをはじめ皆真面目に活動してたよ。悪い奴はそん中の一部だよ」

「ノラ……それもあだ名ですか、名前にしては珍しい」

「ああ、そう。野坂良太、縮めて野良」

「あ、成るほどそれでノラですか。本名は野坂と仰るんですね。タケシと呼ばれた方が堀田武と……」 近藤が手帳にメモを取りながら質問を続ける。

「トレンド研究会っていうのは、どんな活動をしていたんでしょうか」

「当時のトレンドを調査し、次のトレンドを予測する。簡単に言うとそういう事かな。部長のタケシは学生時代から小さなショップのオーナーだったし、ノラは当時から企業に情報を売り込んだりしてたよ。凄い奴だってキャンパスでも有名人だったな」

「で、その中に不真面目な連中がいたというわけですか」

「俺も詳しくは知らないんだ、噂だけでね。その辺りの事情はサークルのメンバーに聞いた方が良いと思うよ」

「判りました、そうしましょう。、それともう一つだけ、お聞かせ願えませんか。先日同窓会が有ったらしいですね。その時の名簿を拝見出来ませんか」

「良いよ、でも学生課で調べたんだろ」

「住所の変わられている方はいませんか」

「ああ、成るほど。そう言えば俺も案内状を送るために苦労したんだよ。転送されたものも有ったし、あて先不明で戻ってきたものも有る。そういった連中の消息は連絡の取れる友人達に片っ端から聞いて回ったんだ。だから欠席したのは二名だけ。えらい苦労したんだぜ。今プリントアウトするんで、ちょっと待って」

 上野は話しながらもパソコンを立ち上げ、すぐに名簿をプリントアウトしてくれた。態度や口の利き方がぶっきらぼうな割には案外親切で面倒見が良さそうだ。

「これはどうも、助かります」

近藤は紙面を一瞥してふと疑問を口にした。

「ゼミには二十八名いらっしゃったはずですね。ここには二十七名しか記載がないですが……」

「一名足りないんだよ。チェリー、じゃなくて本名で言うと田崎さくら。このあだ名は判るだろ。さくらだから英語でチェリー。彼女は十年前に自殺をして、既に亡くなってるから」

「自殺ですか」

「ああ、何でも飛び降り自殺だったらしいよ」

「その件をもう少し詳しく教えていただけませんか」

「悪いけど俺も詳しくは知らないんだ。トレンド研究会の連中に聞いてもらえないかな。それで……と、同窓会に欠席したのは二名。内一人は野坂、米国に行き来していて無理だって返事が来たっけ。もう一人は堀田武史。大体同窓会を計画しようと言いだしたのは堀田なんだよ。そのくせ、面倒な現住所調査は俺に任せっきりだったし、肝心の同窓会にも欠席するし。まあ、出たくない気持ちも判るけどね」そう言ってにやっと意味ありげに笑う。

「言い出した当の本人が欠席ですか、ふーん、妙ですね。で、出たくない気持ちも判るっておっしゃいましたね。どういう事です?」

「知ってるでしょ、ほら、カミさんがミーチューブっていうインターネットサイトで、盗撮されたベッドシーンを流された一件。そりゃ恥ずかしくって同窓会なんかにゃノコノコ出て来れないわな。いい笑いもんだよ。だけどカミさんのほうは平気な顔で出席していたよ。どんな神経してんだかねえ。おっと、もうこんな時間か……刑事さん。さっきも言ったように俺も余り詳しい事は知らないんだ。多分この名簿に載っている連中もゼミのクラスが一緒なだけで、連中のことは詳しく知らないと思うよ。トレンド研究会のメンバーに当たった方が良いかも知んないね。 悪いんだけど、次の客を迎えに行く時間なんで……」

 これが潮時かなと近藤は素直に謝辞を述べ、上野不動産をあとにした。


 都心に向かう電車の中で近藤は、クロスワードには手を付けず先刻手に入れた学生名簿を取り出した。全てに目を通したが、<桜田>という苗字や<沙紀>という名前は存在しない。女性は結婚すれば姓が変わるのが通常であるが、名簿にはその事にも配慮して、既婚の女性には括弧で旧姓を記してあったが、その中にも見当たらない。

 名簿を眺めながらも近藤は、何故言いだしっぺの堀田が欠席したのかを考えていた。彼の女房がネットで浮気現場を流されたと上野が言っていた。しかし当の本人である女房は出席していたらしい。何だか訳有りの夫婦関係のようだ。

 事の起こりは河合隆史の痴漢行為。電車内での痴漢暴行行為をした事で逮捕。被害者が桜田沙紀。

 続いて久留米義正による酒酔い運転と薬物所持での逮捕。直前まで一緒に居た女性が同じく桜田沙紀。

 偶然にも河合と久留米はK大学の同期であり、仲の良い間柄だった。そして現在堀田の妻である旧姓田上千恵も、桜田沙紀は関係しているかどうかは別にして騒ぎを起こされている。

 どうやら一連の事件は、彼らの学生時代、特にトレンド研究会が関連しているのでは無いだろうか。それに女子学生が自殺しているというのも引っかかる。

 簡単に考えていたが、これは本腰を入れる必要が有りそうだ。

 本来なら、河合や田上に会って事情聴取出来れば良いのだが、河合は判決が出ており、今更話を聞きにも行けまい。

「だったらどうして判決前に自分の主張に耳を貸さなかったのだ」と怒るに決まっている。下手すると冤罪として騒ぎ立てられる恐れもある。

 やはり面倒でも周りから固めていくしかない。トレンド研究会のメンバー一人ひとりに当たってみるか。近藤はそう判断した。

 

 署に戻ると相棒の坂上がニヤニヤしながら話しかけてきた。

「どうでした、検事正殿直々の特命調査は。その顔では余り芳しく無い様子ですね」

「何を言いやがる。まあ、しかし安請け合いしたものの、結構厄介な事に首を突っ込みそうで後悔している」そう応じながら、近藤はふと坂上に尋ねてみる気になった。

「なあ、坂上。ミーチューブを見たことあるか」

「一体どうしたんですか、突然」

 坂上は近藤から予測もしない話題を聞かれて戸惑った。それには理由がある。

近藤は結構物知りで、署内でも雑学王として名を馳せている。だからクイズやパズルの類が大好きで、いつもパズル雑誌を持ち歩いている。坂上が携帯電話やゲーム機でも出来ると教えた事が有ったが「いい年をした大人が若い奴らみたいな真似が出来るか、みっともない」とけんもほろろで取り合わなかった。後で判ったのだが実際は全くの機械オンチで、携帯電話も電話以外の使い方が未だに判らないのだ。そんな近藤の口からインターネットサイトの話題が出るとは……。

「良いから教えてくれよ」黙って自分のノートパソコンのキーボードを打つ坂上に催促する。

「これですよ。ほら」坂上がノートパソコンの画面を近藤の方に向ける。

 画面には幾つかの映像が映し出されている。上のほうにチャンネルとかカテゴリーとかの分類が表示されている。

「コンさんは何が見たいんですか」

 そう問われても困ってしまう。

「雑貨商の堀田武史って知っているか。その奥方のベッドイン映像が有るんだそうだ」

「ああ、あのサイトはもう既に閉じられちゃいました」

 横目で近藤を見つめながら坂上がニヤッとする。

「馬鹿、何を考えている。俺は捜査のために関心が有るだけだ。お前は見たのか」

「もう、ばっちり。あれは法的にやばかったですね」

「そんなに凄いのか。良いのか、そんな映像を流して」

「そこがネット規制の難しい点でして……猥褻映像だけで無しに、例えば他人の映画や音楽作品を平気でコピーしたものも流されていて、著作権的にも大問題になっているんです」

「そうなのか。で、例の堀田千恵の映像は誰が投稿していたんだ」

 その質問に坂上はあきれた表情を浮かべる。

「だからそれが判れば苦労しません。このサイトには世界中の人間がアクセスしているんですよ。誰でも自由に好きなコンテンツを発信出来るんです。管理者なら投稿してきたアドレスが判るかも知れませんが、それも削除された今となっては調べようが無いでしょうね」

 クールに説明する坂上に返す言葉も無く近藤は低く唸った。

「そうだ、写真週刊誌にも掲載されましたよね。そちらの線から辿れませんかね」 思い出したように坂上が言う。

「その雑誌は、どこの出版社なんだ」

「ええと、T出版です」

「何、T出版」 近藤は先刻上野から貰ってきた名簿を取り出す。

確か勤務先欄にT出版という会社名を見た覚えが有る。上から順に目を走らす。有った、福井健介。T出版第一文芸部勤務。

「これだ」 言うが早いか近藤は電話機に飛びつく。

T出版の代表電話からは人間が応答せず、録音されたアナウンスが流れてきた。

「お電話有難うございます。豊かな文化を提供するT出版でございます。本日の業務は総て終了いたしました。誠に申し訳ございませんが、明日のご連絡をお待ち申し上げております」

 思わず舌打ちをして時計を見る。そうかもう八時を廻っているのか。 

「出版社でしょ、多分、社内ではまだほとんどの社員が、残業してますよ。ネットからダイヤルインの番号を調べてみましょうか」 坂上が横から声を掛けた。


2008年 2月8日

 T出版の第二雑誌部の応接室で近藤、坂上の両刑事は福井と、もう一人第二雑誌出版部編集部長である川崎と向き合っていた。

 昨晩、あれから電話で福井を捉まえ、アポを取ったのだが、編集部長が同席するとは思っても見なかった。来意を丁寧に説明する。

 黙って聞いていた川崎部長であったが、次第に不機嫌そうな表情に変化する。苦虫を噛み潰したような表情で、迷惑そうに話す。

「用件は判りました。判りましたが……うーん、困りましたね」

 川崎は、そこで一息入れて中断する。やや暫く考え込んでから口を開く。

「はっきりと申し上げます。そのご依頼については、お教え出来かねます。言論の自由、更に個人情報保護の観点からもニュースソースを明かすわけにはいかないでしょう」

「警察からの要請でも、ですか」 坂上が突っ込む。

「殺人が起きたとか、何か重大事件が起きた訳じゃ無いんでしょ。それに正式な捜査でもなさそうだ。そちらが国家権力を嵩にきてそういう仰り方をするので有れば、こちらは言論に対する不当な弾圧だと、真っ向から戦うしか有りません」

 川崎の言い方に、頭から湯気を吹きこぼしそうに興奮する坂上を押しとどめ、近藤は作戦を変更する。

「川崎さん。一方的に教えてくれとは言いません。こちらからも情報を提供しましょう。何故我々が投稿した人物を知りたいのかを話しますが、どうです?」

「内容にも拠りますね」

「田上千恵のネタに広がりが出ますよ。但し、まだ書かないで下さい。不確定要素が多すぎますので……だが、こちらサイドで良いと判断した際には、T出版さんに特ダネでスッパ抜いてもらって結構です」

 坂上が「そんな約束しても良いんですか」と小声で囁き、近藤の肘を突付く。

そんな様子を満更でもない様子で川崎が見つめる。

「判りました。それじゃあ、先にお伺いしましょうか。聞きたい事だけ聞いてドロンされては適わないですからね。ネタは福井がある友人から入手したんです。具体的な名前は、そちらの話を伺ってからですね」

 近藤は頷くと、これまでの河合、久留米、田上の事件のあらましを話して聞かせた。桜田沙紀の名は敢えて伏せておく。そこまで手札を晒す気は無かった。

「成程、非常に興味深い。おい、福井。ひょっとしてお前もそのお先棒を担がされたのかもな。一体誰があの写真の提供者なんだ、俺も興味が湧いてきたぞ」

 川崎は先刻までの表情とは打って変わって上機嫌な様子だ。田上のみならずK大OBの一大スキャンダルに発展しそうなネタを掴んだのだ。無理も無いだろう。

 川崎に催促されて福井が口を開く。

「堀田武史です。堀田が是非掲載してくれと、持ち込んできたんです。

「何ですって、ご主人の堀田さんがどうして」

「これをきっかけに離婚を進めると言って……。彼とはゼミもサークルでも一緒だったものですから断りきれなくて。ただ、私は部署が違うんで、雑誌の編集責任者である川崎部長に相談をしたんです」

「サークルが一緒……トレンド研究会ですか」

「ええ、そうです」

 有難い。トレンド研究会のメンバーを探す手間が省けた、と近藤は心の中で、ほくそえむ。

「離婚の口実にすると仰いましたね。そんなに夫婦仲は悪かったのですか」

「さあ、私にはそこまでは判りません。ただ、最近開催された同窓会で友人から聞いたのですが、堀田夫婦は別居状態らしいです」

「しかし堀田さんはどこからそんな写真を入手したんでしょうか。そもそもどうしてそんな秘め事を撮影出来たのでしょうか。もしかして、すべて堀田さんの仕組んだ事なんでしょうかねえ。どう思われます」

 横でやりとりを聞いていた川崎は、福井が聞かれた以上の事を話し始めそうなので、慌てて遮る。

「じゃあ、刑事さん知りたいことは聞かれたでしょ。我々も忙しいのでこの辺で……」

 追い立てるようにソファから腰を上げる。

 

  近藤は礼を述べると坂上と共にT出版を後にした。歩道を駅に向かってしばらく歩きながら考えた。

 どう考えても、堀田が妻の浮気現場の写真を持っていたのは不自然だ。浮気調査に興信所を使ったとしても、ホテルへの出入を盗撮されたのならまだしも、ベッドインの写真である。その疑問を坂上にぶつけてみる。

「盗撮したんじゃないですか。歌舞伎町周辺のビデオショップではラブホテルでの情事を盗撮したDVDが出回ってますし、ネットでもやばい映像が一杯投稿されてますからね」

 その返答を聞きながら近藤は昔読んだ小説を思い出した。そういえばイアン・フレミングの007シリーズ「ロシアより愛を込めて」で、ジェイムズ・ボンドとロシア側のスパイ、タチアナ・ロマノーヴァとのベッドインを大きなマジックミラー越しに盗撮するシーンが有った。同様の手口で堀田が仕掛けたのだろうか? 福井が言うように自分の妻の破廉恥な行為を世間に公表して、離婚を自分有利に持ち込もうとしているのか? 

そこまで考えて近藤は、はっと気がつく。先日の上野の言葉を思い出したのだ。

彼は、案内状を送るために苦労したと言っていた。転送されたものも有ったし、あて先不明で戻ってきたものも有る。そういった連中の消息は連絡の取れる友人達に片っ端から聞いて回ったんだと。

 何しろ十年も経過しているのだ、当然消息の途絶えたメンバーもいるだろう。

もしかして堀田は同窓会を口実にメンバーの現住所を確認したかったのではないか。今回の一連の事件を起こすために久留米や河合の近況を知る必要が有ったのだ。そう考えれば辻褄が合う。桜田沙紀なる女性は、堀田が雇った可能性が考えられる。しかし、そうだった場合、河合や久留米が自分自身の離婚騒動とどう関連するのだろうか。謎だらけで全貌が掴めない。

 その時だった。「待ってください」 そう呼び止める声に後ろを振り向くと、福井が追いかけて来ていた。

 駅までの道は緩やかな上り坂となっており、そこをよたよたと進んでくる。本人はそれでも一所懸命に駆けているつもりなのだろう。二人の刑事は見るに見かねて後戻りして福井を迎える。

 二人に追いつくと荒い息を吐きながら、福井が言った。

「刑事さん、改めて時間が取れますか。お伝えしておきたい事があるんです。あの場では部長の手前もあって……」

 近藤はピンと来た。福井は更に詳しい事情を知っている。だが、話したくとも情報を駆け引きの道具にしようとするあの川崎という部長に、口止めされていたのだろう。

「判りました。私の方も丁度研究会のメンバーの方に当時の詳しい話をお伺いしたかったんです。こちらはいつでも結構です。福井さんが時間と場所を指定してください」

「じゃあ、この次の日曜の四時にお茶の水にあるこの喫茶店で」

 そう言いながら近藤にブックマッチを渡す。

「もし判らなければ、マッチに記載されている電話番号に問い合わせしてください。それじゃあ、僕はこれで。貴方達と立ち話をしている処を部長に見られるとまずいので」

 そういい残して福井は、そそくさと来た道を引き返して行った。その後姿を見送る近藤は、帰りは下り坂で良かったなと福井に声をかけてやりたくなった。


2008年2月10日

 久々に休みが取れた日曜日、近藤は津村検事正の自宅を訪問すべく、井の頭公園の池に架かる橋の上を歩いていた。近藤の住まいは、五日市街道を入った成蹊大学近くなので、散策には適度な距離であった。

 真冬ではあるが天気が良いためか、園内は家族連れや男女のペアの姿が散見される。さすがにボートで池に漕ぎ出している人の姿は見当たらない。乗り場に繋留されたボートの脇を水鳥がのんびりと泳いでいる。

 橋を渡り、公園南側の石段を登りきると、目の前には宅街が広がっている。塀に取り囲まれた大きな邸宅が軒を連ね、この一帯が高級住宅地だと判る。

井の頭公園駅方向に歩いて三分程度の距離に目指す津村邸がある。明るいベージュのモルタルの壁に、部分的なレンガ使いと大きな窓枠がアクセントの瀟洒な一軒家である。

 玄関横のガレージにはシャッターが降ろされているが、ジャガー・マークⅡが鎮座ましましているはずだ。どうしてあんな古くてマイナートラブルの多い車を津村が気に入っているのか、近藤には理解できない。といっても自分の九年落ちのカローラよりましだが……そのマークⅡは一度フルレストアを行っており、それに掛けた金額を聞いて驚いたことがある。国産車ならそこそこのセダンが購入出来るだろう。

 そんな事を思いながら、玄関のドア脇に設置されたチャイムを鳴らし、送話口に向かって名前を告げた。

 暫くして玄関の扉が開かれ、津村の妻の加寿子が笑顔で出迎える。

「いらっしゃい、忠弘さん。久しぶりね、相変わらずお忙しいのでしょう」

「近くに住んでいるのに、たまにしか顔を見せないで申し訳ありません」

「本当、祥子の七回忌以来じゃないの。水臭いわ。遠慮しないで夕飯を召し上がりにいらっしゃれば良いのに。一人だと外食が多いのでしょうし、我が家も子供達が自立しちゃったから、二人きりで食卓を囲むのも寂しいのよ」

「おいおい、加寿子さん。そんな玄関先で立ち話をしていないで、早く上がって貰いなさい。コンさんは、お前さんの話し相手に来たんじゃないよ」

 妻に捉まる近藤に助け舟を出すように、津村が奥から声を掛ける。彼は妻を決し

て呼び捨てにせず、さん付けで呼ぶ。

 津村の妻である加寿子は、近藤を大層気に入ってくれていた。自分の姪にあたる祥子を近藤に紹介し、それが二人の縁を取り結ぶきっかけとなったので、いわば月下氷人を自認していた。だが、二人の幸せな結婚生活は長く続かず、祥子は病に倒れ早世してしまった。

 近藤はまだ三十代後半だ。再婚のチャンスはまだ充分に有る。それでもこの男の中では祥子はまだ生きている。それを知る加寿子は、近藤に対し申し訳ない思いを抱き続けており、何かと気遣いをしてくれるのだった。

 その温かくて優しい思いやりが、近藤には身に染みるほど有難かった。

 加寿子の案内で奥座敷に向かうと、津村が豆大福を頬張っているところであった。口

の周りを上新粉で真っ白にしながら、もごもごと口を動かしている。

「まあ、呆れた。貴方ったら、忠弘さんにお出しする前に、ご自分が召し上がってらっしゃるの」

「コンさんもどうですか。加寿子さんが銘店でわざわざ並んで買ってきたんですよ」

 甘いものに目が無い津村は、もう二つ目を手に取っている。そんな甘党の津村であるが、めっぽう酒も強い。

「私は、饅頭を肴に酒が飲めるんですよ」 と変な自慢をしたがる。

仕事を離れた普段の津村は、本当にけったいなオヤジである。近藤はといえば、甘味が苦手でも無いが、基本的には辛党である。

 二つ目を平らげた津村は、加寿子の淹れてくれた緑茶を一口啜ると、近藤に向き直る。

「さてと、報告を伺いましょうか」 顔つきが真剣になるが、まだ口の周りに粉を付けているのがご愛嬌だ。

 学生時代には全学連の闘士だったという面影など微塵も無い。ただ、そんな過去の経歴を津村本人はひた隠しにしている。現在の職務を考えると当然であろう。

 津村は彼らの活動の天王山となった東大占拠には加わっていない。その前の段階で学生運動から身を引いた。当時の言い方をすれば「日和った」のだ。幸い活動家リストにも入らず、思想的な問題も無いとの判断で司法試験合格後、スムーズにエリート検事の道を歩むことが出来たのであるが、津村本人は未だに仲間を見捨て体制側に日和った過去に後ろめたさを感じていた。その事もあって余計当時の話題は避けたいのかもしれない。

 そんな屈折した感情がこの人にもあるんだなと、津村を目の前にして近藤は思った。

「検事正のご依頼の趣旨は、桜田沙紀と名乗る女性と久留米、河合との接点を探る調査でしたが、どうも思わぬ方向に進展しそうです。久留米義正と河合隆史ですが、同じゼミ仲間で、他にも仲の良い連中がいて、学生時代はいつもつるんで遊んでいたようです。ところが、十年も経過した今頃になって彼らの身辺で妙な事が起こり始めたんです。ご存知のように、河合は痴漢事件、久留米は飲酒及び薬物不法所持です。そして仲間の紅一点である堀田千恵が、破廉恥な映像流出でマスコミ沙汰となっています。先ず最初の河合の痴漢事件は、検事正のお考えどおり仕込まれた可能性が大です」

 そう言って、県庁での大澤女史から聞き取った目撃談を話す。

「成る程、以前から河合の生活パターンを調べ上げ、出勤時はいつも同じ時刻の同じ電車、しかも乗り込む車両まで知っていたと考えられますな」

「そうです。相当、用意周到に計画したと思われます。久留米の一件についても、業界の総会が有る事や義正が出席する予定を調べ上げ、コンパニオンに扮して近づいています」

「ふむ、久留米に関しては新しい情報が入っています。彼の会社、久留米運輸ですが、どうやら大手の運送会社に買収されたようです。それを画策したのが野坂経済研究所です」

「野坂……K大のトレンド研究会にも野坂というメンバーがいます。MBA取得で米国に留学していたそうです」

「その野坂でしょう。彼は大学時代H大の早坂、T学院の根本と共に学生企業家三羽烏と呼ばれるほど有名だったようです。ご存知のように早坂氏は金融工学を武器に私設ファンドを立ち上げていますし、根本氏はネットビジネスで業界トップシェアの『楽園』を経営しています」

「ああ、あの早坂ファンドや楽園の社長ですね。野坂は彼等と肩を並べるほど優秀ってことですか」

「そのようです、彼は米国仕込みの経営手法で企業のコンサルタントを行っていると評判らしいですよ」

「野坂も関わっているとなると、役者が揃いました。やはり彼らの学生時代に何か原因が有ったんです。堀田千恵の映像流出の件ですが、情報を流したのは亭主の堀田武史だと判明しました。情報を持ち込んだ出版社に学生時代の友人が勤務しており、彼のコネを利用したとの事です。動機については、その友人によると、離婚を有利に進めるためだと堀田が言っていたそうです。が、それはどうも口実だと思われます。というのも同窓会を開こうと提案したのが堀田なんです。そのくせ同窓会を欠席しています。どうやら奴の目的は同窓会を開くことではなくて同級生の近況や現住所を知りたかったのだと思われます。先刻の話のように河合や久留米に罠を仕掛けるためでしょう。堀田が首謀者に間違いありません」

それには同調せず、津村は首を傾げる。「動機は」

「それは……」 一瞬、近藤は絶句する。そこを突かれると弱い、なにしろ自分にも動機の見当がつかないのだから。

「皆目見当が付きません。ですがトレンド研究会というサークルが関係していると思われます」

「桜田沙紀と名乗る女性との関係は」

「堀田と何らかの関係が有る女性とか……」

「私には引っ掛かる事が有るんです」

「何でしょう」

「どうして女性は、桜田沙紀という名前に拘っているのでしょうか」

 近藤は津村の言わんとする意味が読み取れなくて、次の言葉を待っている。

「久留米にも河合にも、同じ名前を使用しています。彼らは仲の良い友人関係ですから、ひょんな事から名前が出ないとも限りません。そうなれば彼らも怪しむのは目に見えています。どうせ偽名なんですからサクラダ・サキでもタチバナ・アトでも何でも良いじゃないですか」

 近藤は可笑しくなる。左近の桜に対比して右近の橘ってのは判るが、サキの逆でアトって名前は無いだろう。

「つまり桜田沙紀という偽名には、それなりの意味を有すると、そう仰りたいのですか」

「久留米や河合にとって、その名前から何かを連想させる、又は何かを示唆している……そんな気がするんです。それが判れば動機も見えてくるんじゃないですかね」

 そう言われてみれば確かに偽名など何でも良いはずだ。だが、複数の名前を使い分けると間違える危険性も有る。だから同じ名前を使っているに過ぎないのでは無いだろうか。津村が考えるように、同じ名前を使う事にそれほど深い意味など有るのだろうか? 

「ところで、今後の調査方針はどうします」

「それなんですが、出版社勤務の福井とこれから会う約束をしています。彼もトレンド研究会の会員ですので、学生時代に何が有ったのかを詳しく知っているようです。私に是非とも話をしたいとの事ですので、何か心当たりがある様子です。内容次第では動機が判明するかもしれません」

 二時間程で打ち合わせも終え、近藤は津村家を辞すために奥の部屋にいる加寿子に暇を告げた。

「あら、もうお帰り。夕飯ご一緒に戴こうと思ったのに」

「すみません、これから人と会う約束がありますので、これでおいとまします。今度ゆっくりお邪魔させて頂きます。そのときは手料理をご馳走してください」

 そう加寿子に告げ、近藤は表へ飛び出した。

                  

 御茶ノ水から小川町方面に下った、通り沿いの喫茶店で近藤は福井を待っていた。福井を待つ間、ナンクロ・パズルを解きながら近藤はいらつきを抑えられなかった。

全く近頃はどこもかしこも禁煙だらけだ。受動喫煙というのも理解できるが余りに神経質すぎないか? だったら煙草なんか販売しないでくれ。一方では、国の大事な収入源であるし、栽培業者の死活問題も絡む――非常に厄介な問題だとは思うが、どうして喫煙者だけが、目の敵にされなくちゃならないんだろうか――もう我慢できない。 外へ出て一服しようか、と思ったその時、ドアが開き小柄な男性が店内に入ってきた。

 キョロキョロと客席を見渡している。近藤は相手に向かって手を振る。福井が気づいてこちらにやってきた。

「いやあ申し訳ありません、すっかりお待たせしちゃって」 福井が恐縮して深々と頭を下げる。

「いえいえ、こちらこそ、お忙しい中をご協力して頂き感謝します」 近藤も慌てて頭を下げる。

 昨日の態度と打って変わって余裕が感じられる。それにしても、体よりひとまわり大きなサイズのツイードのアンコンジャケットによれよれのズボン。インナーはタートルネックのセーターといった服装は、自由業に見える。

「福井さんは、川崎部長と部署が違うと仰ってましたね」

「あちらは第二雑誌出版部です。例の写真週刊誌や週刊Tが主力商品です。僕は第一文芸部で、今だとそうですね、『そよ風の中で彼女が言ったこと』などを出しています」

「ほう、今ベストセラーの本ですね」

「ええ、そうです。おかげさまで増刷が決まりました。読まれましたか」

「いや、なかなか忙しくて、読む暇が無くて」

 慌てて近藤が言い訳する。勘弁してくれ、あんな甘ったるい恋愛小説を見るからに無骨なこの俺が読むとでも思っているのだろうか。尤も刑事になってから余り本を読まなくなった。学生時代には海外ミステリーをむさぼるように読んだものだ。コナン・ドイルやクリスティ、エラリー・クインは勿論の事、エド・マクベインの87分署シリーズ、ウィリアム・アイリッシュの「幻の女」、クロフツの「樽」、イーデン・フィルポッツの「赤毛のレドメインズ家」、ガストン・ルルーの「黄色い家の謎」、ルース・レンデルの「死が二人を分かつまで」……。

 そんな思いを振り払い、福井を促す。「それで、話というのは……」

「ああそうでした。そもそもトレンド研究会というのは、野坂がたちあげたんです。他にも在学中に起業家を目指すメンバーが三名程いました。今世間で話題の輸入雑貨商の堀田、彼が部長となって活動していました。そこへ同じゼミのアクやトロ、えっと久留米義正と河合隆史です。彼等が面白そうだから入れてくれって言って、半ば強引に参加したんです」話しながら福井が顔を顰める。

「その言い方では、彼らは余り歓迎されなかったようですね」

「そりゃそうです。彼らはトレンド研究というのをどう勘違いしたのか、遊びや風俗的なトレンドばかり追いかけて、真面目に取り組みなどしなかった。クラブで遊び、女の子をナンパする。それに久留米は海外旅行に行ってはマリワナやハッシッシなどを持ち帰っていたようで、それを使って女の子を篭絡していたみたいですし」

「その連中は何人位いたんですか」

「今言った二人に村中春雄、それと旧姓田上千恵の四人です。部長の堀田武史は真面目で優秀な学生でした。野坂が渡米してからも彼がサークルを取り仕切っていましたが、部長といっても実はナンバー・ツーでした。そもそも研究会を立ち上げたのは野坂だったので、彼が実質上のリーダーだったんです。ただ、野坂はトップに立って会を統率することを嫌って、堀田を部長に推薦したんです。彼は野坂に心酔していまして、一卵性双生児って言われるくらい髪形や服装まで真似てたもんです。だから部長職も喜んで引き受けました」

 近藤は福井の話を聞きながら違和感を覚えた。その疑問を福井にぶつけた。

「堀田さんは真面目な学生だったと仰いましたが、どうして悪童グループの田上千恵と結婚されたんですか」

「卒業してからひょんな処で出くわして、それがきっかけで交際を深め、結婚したそうです。堀田は学生時代にはチェリー、えっと田崎さくらが好きだったと思います。野坂とチェリーを奪い合ったなんて噂もあったくらいですから。堀田は学生時代の田上にまつわる噂を何も知らなかったようです。先日も話しましたが、つい最近同窓会が有りましてね、その時もそんな話題になりまして、最近彼と飲んだ奴がそんな愚痴をこぼされたって言っていましたから」

「どんな噂ですか。差し支えなければお教え願えませんか」

 福井は少し躊躇する様子であったが、あくまで噂ですと前置きをして口を開いた。

「単位欲しさに教授に色目を使っただの、ワル連中全員と関係しただの……そんな過去を知った堀田は結婚を後悔して離婚したいと漏らしていたようです。俺はあばずれ女に騙されたって愚痴っていたとか。当然でしょうね。容貌やスタイルは抜群で凄く男好きするタイプですが、性格が性悪でどうしようもないし、まるで女王気取りだったんです。で、連中は悪さを繰り返していたんですが、いつの間にかサークルには来なくなっちゃうし、悪さもしないで大人しくなりましたね」

「急に大人しくなったんですか。サークルに来なくなったのはいつの頃からですか」

「あれは確か三年の学園祭が終わってからだと思います。さすがにいつまでも遊んでいられ無くなったんじゃないでしょうか」

「そうですか……それと、田崎さくらさんが自殺されたと聞きましたが、ミス・キャンパスだった女性がどうして自殺などしたのかご存知ですか? その件についても、詳しく聞かせてもらえませんか」

「そう思って昔の新聞の切り抜きを持ってきました。この記事を読んでみて下さい」

そう言って福井はジャケットのポケットから小さな切抜きを取り出し、近藤に見せる。十年前の十二月二十五日付の朝刊である。


女子大生、ビルから飛び降り自殺

24日午後12時頃、新宿区西新宿のマンション裏庭で女性が血まみれで倒れているのを警備員が発見。110番通報した。新宿署の調べでは、女性はK大学の三年生、田崎さくらさん(21)。死因は屋上からの飛び降りによる全身打撲及び頭蓋骨骨折とみられる。現場建物の屋上は普段は人が立ち入らないよう施錠されているが、この時期はクリスマスのイルミネーションの取り付けが有り、鍵は掛けられていなかった模様。新宿署では投身自殺とみて、関係者、住民などから事情を詳しく聞いている。


 記事に目を通した近藤は、はっきりと思い出した。

そうだ、そうだったのだ。先日、桜田沙紀が偽った住所にあったマンションを見上げ、妙に引っかかるものを感じたのはこれだったのだ。どこかで見た覚えのある光景。自分が直接関わった訳では無いのですっかり忘れていたが、昔の調書に添えられていた現場写真が、同様のアングルで撮影されていたのだった。そして自殺したのは女子大生だった事も思い出した。あの学生が田崎さくらだったのか。桜田沙紀がわざとこの住所を偽ったという事は、それを暗示していたのだ。これで益々堀田への疑惑が濃厚になってきたなと近藤は思った。

「彼女はミス・キャンパスにも選ばれた位の才色兼備の女性で、それはもう男子学生の憧れの的だったんです。そして本命と目されていたのが堀田と野坂だったんですが、野坂は彼女より留学を選んだ、それで当然堀田が彼女を射止めたと思っていました」

「ミス・キャンパスですか、そんな才色兼備の女性がどうして自殺なんか」

「判りません。堀田も突然の事でショックを受けていました。ただ……」

「ただ、何ですか。何か気になる事でも?」

「え、いえ何でもありません。私の知っている事は全て話しました」

 そう答えると、福井はそれ以上詮索しないでくれと言わんばかりに席を立った。

  何か有ると近藤は直感で思ったが、又、日をあらためた方が良いと思い直し福井と別れた。

 どうやら今回の一連の事件は田崎さくらの自殺が関係しているように思える。これは是非とも堀田という男に会いに行かねばならない。


 近藤は新御茶の水駅から千代田線に乗り込み、明治神宮前駅で下車した。神宮前の交差点から表参道の緩やかな坂を歩く。

この通りもいつのまにか海外ブランドショップが立ち並び、小さなブティックやセレクトショップは、裏原宿のキャット・ストリートやフェスタ通りに追いやられているかに感じられる、近藤は歩きながら真新しいビルや向かい側の表参道ヒルズを目にしてそう思った。キディランドの角を右に曲がり、川を埋め立てたキャット・ストリートを数百メートル歩いた処に、目指す「スタジオ・グランベリー」が有った。

 店員に来意を告げ、奥の事務所のソファに腰を落ち着けるなり、堀田のほうから質問を投げかけてきた。

「千恵が何かやらかしましたか。ご存知でしょう、マスコミが面白おかしく記事にするもんだから、ほとほと迷惑しています」

 何を言ってやがる手前が仕組んだくせに良くもぬけぬけと。勿論そんな事はおくびにも出さない。

「え、いえ直接千恵さんに関わる事では無いんですが……堀田さんは、大学時代『トレンド研究会』というサークルで活動されていたそうですね。聞くところによるとその頃からこのショップを経営されていたとか」

「ええ、でもその当時はこの場所から三軒ほど先にあるビルの一階を間借りした小さな店でした。そこからこの向かいのビルに移り、ここが二度目の移転になります。ここに移転したのは昨年ですが、私が自ら設計や内装にも口出しする程こだわりました」

「ほう、そうですか。それはたいしたもんだ。ところで昨年というと確か渡米されていた野坂さんが帰国されましたね」

「そうです、良くご存知ですね。彼にも経営のアドバイスをしてもらっています」

 経営のアドバイスどころか、復讐の協力もさせているのだろ? 近藤は、危うく声に出してしまいそうになり言葉を飲み込んだ。

 その時、秘書の女性がコーヒーを載せたトレーを手に部屋へ入ってきた。端正な顔立ちにバランスの取れたスタイル。髪の毛を幾分栗色に染めている。

 近藤は女性を人目見るなり、久留米の調書や大澤富美子の証言から得た桜田沙紀の特徴を思い出していた。

「いらっしゃいませ」そう言って一礼する彼女の姿を堀田は柔和に見つめている。

 彼女のほうは堀田に見つめられているのを充分意識しながら、テーブルにトレーを置く。何やら二人の間に感じられる微妙な雰囲気。

 この二人、デキてるな。直感でそう思った。もしかして、彼女が桜田沙紀なのでは無いか? 彼女なら堀田の頼みとあらば、偽名を使ってでも協力するだろう。いや、ひょっとすると彼女が堀田を炊きつけて、離婚させ、あわよくば自分が妻の座に居座ろうと画策しているのかも判らない。

 一つカマを掛けてみるか……自分の前にコーヒーカップを置くのを機に、近藤は女性に話しかけた。

「これは、どうも有難うございます、えっと、貴女が桜田さんですか」

「はあ……私は原島ですが」

  訳がわからず、きょとんとした顔つきで近藤を見る。ハズレか、それともお芝居なのか。

「あ、これは失礼。てっきり桜田沙紀さんだと思っていました。勘違いしたようです。いや、申し訳ありません、原島さん」

 そう惚けて女性に謝罪する近藤だったが、視線は堀田に向けられていた。桜田沙紀と口にした瞬間、堀田がビクッと肩を強張らせたのを見逃さなかった。

 尚も怪訝そうな表情の原島紀子は、堀田の前にもコーヒーカップを置くと、トレーを下げて部屋を出て行った。

「いや、お恥ずかしい。勘違いをしてしまいました」

 近藤の言い訳を堀田がむっつりと黙って聞いている。左手は無意識にデュポンの蓋を開けたり閉じたりしている。そのたびにティンと音がする。

「てっきり堀田さんの秘書の方のお名前だと思っていました。お伺いしたかったのは、その桜田沙紀という女性についてなんです。堀田さんのお知り合いでいらっしゃるんでしょ」

「知り合いにそんな女性はいません。初めて聞く名前です。どうして私が知っているとお考えなのか、全く訳が判らない。その女性がどうかしたのですか」

 心の動揺を隠すように答える堀田だが、視線が定まらない。どうやらこの男は秘書と違って芝居が下手なようだ。

俺に聞くまでも無く、あんたの方が詳しいんじゃないのか。そう心の中で呟きながら近藤が久留米や河合の事件を話す。

「まあ、人を傷つけたとか殺人を犯した訳じゃないのですが……」 自嘲気味に近藤が言い添えた。

「彼等にそんな事があったんですか。それで私や原島が疑われているって事ですか」

「正直に話してくれませんか。貴方は千恵さんと離婚したいがため、写真週刊誌にネタを提供されたでしょ」

 みるみる堀田の顔が紅潮していく。

「そんな事を調べたのか。これは夫婦間の問題だ、放っといてくれ。尤も猥褻画像流布といった行為を犯した事実は認める。だが、その他の事は何も知らない」

「残念ながらネットの方は海外のサーバーを経由してますし既に削除されています。それに写真週刊誌の方は出版社が画像に修正をかけているので、その罪にはなりません。まあ、奥さんから名誉毀損で告訴される可能性はありますがね」

 堀田がふんと鼻を鳴らす。

「だったらもう警察の出る幕じゃないでしょ。お引取り願いましょうか」

 そう言って堀田は立ち上がり、さっさと出て行けとばかりに事務所のドアを開けた。


2008年 2月13日

 この日、近藤は野坂経済研究所を訪れていた。津村から大学で同期だった久留米の会社の乗っ取りを画策していると聞いた。その件も一連の事件と関連があるかもしれないと感じていたからだ。それに頭が切れて学生時代からベンチャービジネスを立ち上げ、大規模のM&Aを何件か成功させているという男の顔を、一度は拝んでおきたいと思った。従って表向きは、トレンド研究会の全員に話を伺っているのだと近藤は説明しながら野坂をじっくり観察した。

 精悍な顔つきにぴったり身体にフィットした仕立ての良い濃いグレーのスーツ。中にはオッドベストを着込んでいる。中々の洒落男ぶりである。それにしても先刻面会した堀田もそうだが、良くこんな金の掛かった身なりが出来るものだ。自分が今着ているスーツといえば五年前に量販店で買ったものだ。二人共、そんなに金回りが良いのだろうか。もう一度眼前の男性を凝視する。体型、服の趣味、堀田によく似ている。そういえば、編集者の福井が話していた。堀田は野坂に心酔して服装や趣味も真似たがるとか。

 近藤の話を聞き終えておもむろに野坂が口を開いた。

「お話の内容は理解しました。河合や久留米の身辺に妙な出来事が相次いでいると……単刀直入に話しましょう、時間が勿体無い。近藤さんが仰りたいのは、久留米の会社の件も関係しているのでは無いかと、そうお疑いな訳ですね」

 さも近藤と面談している時間が無駄だとばかり、ストレートに話をする。

「いやいや、そんな事は思っていません。ただ、見知らぬ他人じゃ無し、同期なら逆に窮状を助けてあげるのが普通かなと……」

言い訳しながらも、近藤は野坂が自分の事を名前で呼んだ事におやっ? と思う。大抵は名前などで呼ばず、刑事さん、刑事さんと言う。こんな言い方にも相手をきちんと名前で呼ぶビジネスマナーを徹底しているのだろうか?

「近藤さん、我々はビジネスを行っているのです。そりゃあ、私だって彼の会社を助けてあげたいし、今回の件だって喜んで実行した訳じゃない。良い気持ちはしないです。しかし、そんな温情を掛けていると次には私が潰されるのです。ビジネスに情は禁物です。刑事さんは同期の連中に聞き込みを行われているのでしょうから、もうご存知だと思いますが、久留米については随分私も面倒を見たし、雑貨の買い付けに渡仏した堀田に同行させて何かを感じ取ってくれればと考えた事も有りました。彼自身は能力も有るし資質も備わっていた。しかし取り巻きの連中が悪かったのです。結局彼は自分を高める方向に向かず怠惰な道を選んだ。祖父や父親が築いた運輸会社を大きくするどころか、このままでは身代を食い潰しかねない。それは断言してもいい。今回助けたところで彼のやり方では早晩違う企業に乗っ取られますよ。事実早坂の会社も食指を動かしているようです。ああいったファンドのやり口は、安く買い叩いて自ら経営を立て直して再生させ、それを他社に高く売りつけるのです。彼等にとって企業は一つの商品でしかありません。ならば、恩義あるセントラル運輸の傘下に入ったほうがいいでしょう。大塚社長は悪いようにはしません」

 そこまで一気に話すと野坂はポケットから煙草を取り出す。

「失礼して一服させてもらいます。近藤さんは吸われないのですか、宜しかったら」

「有難いです。私はヘビースモーカーでして。それじゃ、遠慮なく」

 野坂が左手でライターの火をつけ、近藤にも差し出す。

「ダンヒルですね」

「もう随分使い込んでいまして、学生時代からの愛用品です」

 野坂はライターの蓋をパチンと閉じ、暫く手でもてあそびつつ、話を続ける。

「今はもう国内だけで競争している状況じゃないのです。海外から力の有る企業がぞくぞくと日本のマーケットに乗り込んできている。対抗するためには国内企業も合併や提携などの自衛手段が不可欠な状況にあるのですよ。これは製造業も商業もサービス業もすべて同じです。例えば……そう、携帯電話を御覧なさい。日本独自の通信形態で世界標準になれないばかりか、メーカーも不必要な機能に膨大な開発コストを掛け国内競合対策に血眼になっている間に、世界シェアはノキアやサムスン、LG電子に大きく水をあけられているでは無いですか。その上、アップルやマイクロソフト、グーグルなども参入をしようと計画しています。もはや、自社のコア・コンピタンスを明確にし、それに基づいたグローバルな戦略を打って出る企業しか生き残れないのです」

 捲くし立てるように話す迫力に圧倒されそうだ。この程度の弁が立たなければ、企業のコンサルタントやM&Aなど出来ないのだろう、そう近藤は考えた。


 野坂研究所を辞した近藤は確信した。野坂は堀田に相談を受けた事は否定しなかったが、それ以上の深い関わりを持つほど馬鹿じゃない。クールに物事を割り切れるタイプだ。この男の考え方は充分すぎるほど理解できた。彼にとってビジネスがすべてであり、一文の得にもならない行為など愚の骨頂なのだ。


 都心から急行で二十分弱の近郊、多摩川沿いにある瀟洒な住宅街。その一角に村中邸が有った。今、若い女性が訪れ、ドアホンを鳴らしていた。

 ドアが開けられ、中から顔を出したのは愛くるしい顔立ちの女の子であった。

「沙紀先生、こんにちは」年齢の割にしっかりした話し方をする。

 K大学付属初等科を受験するだけの事はあるなと沙紀は思う。

「恵ちゃん、こんにちは。今日も先生と一緒に、お勉強しましょうね」

 奥のリビングから村中の妻である敏江が出迎える。

 敏江は両親に厳しく育てられ、都内でも有名なカトリック系の女子大を卒業していた。世間知らずな彼女は、合コンで知り合ったK大生と意気投合し、交際が始まった。そして半年後には、深い仲となり妊娠してしまったのだ。

 その事実を知ると父親は烈火のごとく怒り、子供を堕胎し、相手の男性とも別れるように迫った。

 敏江は、自分たちを理解しようとしない父親に生まれて初めて反抗した。そして家を出ると男性と同棲を始めた。母親のとりなしもあり、父親もしぶしぶ二人の仲を認めた。その相手が春雄だったのだ。

 だが、結婚生活をするうちに、敏江は父親の意見を素直に聞き入れるべきだったと後悔し始めた。子供が出来ても父親としての自覚も無く、仕事でもうだつのあがらない春雄は、一家の大黒柱の役割を負うには余りにも頼りなさ過ぎた。かといって能力が無いのではない。やる気が無いのだ。

 春雄の会社は公共事業やマンション建設ではゼネコンに次ぐ中堅の企業であり、県下ではトップクラスの地位を占める。同期の営業仲間の中には販売成績も優秀で、管理職として支店を任されている者もいるというのに、春雄はそんな状況でも焦りもせず未だにうだつのあがらない営業マンとしてセールスに走り回っている。

 地道な努力もせず日中はどこかで時間を潰しては夕方にタイムカードを押すため社に戻る。どうせそんな日常なのだろうと敏江は考える。

 先日もゼミの同窓会に出席したらしいが、出世を果たしている優秀な同期とはそりが合わず、結局昔の悪友と旧交を温めてきたらしい。

どうしてあんな連中とつるんでいるのだろう。社会人となり、結婚もしているというのに一人は覚せい剤所持で警察に逮捕され、もう一人の女性は不道徳な行状の末、マスコミに追い掛け回されている。いい加減あんな連中とは決別するようにと昨夜も話し、その事で口喧嘩になってしまった。

 結局、今日もその一人からの呼び出しを受け、帰りが遅くなると電話が入った。

敏江は、そんな春雄にとうの昔に愛想を尽かし、生きる希望を我が娘に託すことにした。娘を名門の学校に入学させ、どこに出しても恥ずかしくない女性に育てるのだ。

「桜田先生、いらっしゃいませ。さあ、どうぞお上がり下さい」

「有難うございます、いよいよ日曜日が迫ってきましたけれど、お父様は大丈夫でしょうか」

「本人は相当緊張しているみたいです。全く、まだ予行演習だというのにね」

 K大幼稚舎の受験日には両親を交えての面接が行われるため、今度の日曜日に、予行演習を行う旨を伝えていた。

「それと、明後日は総仕上げとして、恵ちゃんを連れて外出させて頂きます」

「外出ですか」 敏江が戸惑う。

 此処が重要な処だ、怪しまれず普段の調子で話を進めなければならない。

「ええ、少なくとも見ず知らずの他人との関わり方、つまり社会性の体験学習です。心配いりません、渋谷まで電車で往復するだけです。一時間程度で戻ってきます」

「判りました。宜しくお願いします」

 恵の部屋へと向かいながら、敏江の返事を背中で受け止めた沙紀は微笑を浮かべた。これで残る最後の作戦も上手く運びそうだ。


 その夜、河合と田上に呼び出された村中は退社後、渋谷にある居酒屋へと向かっていた。

 センター街近くにある雑居ビルの地下にある居酒屋は、ドアを開けるなり大勢の喋り声が襲ってきた。その声に負けじと従業員が「らっしゃい」と元気な声で出迎える。村中は河合の名前で予約している事を告げた。

「もうお見えになってます。奥の座敷ですので、どうぞこちらへ」 そう言って従業員が先にたって案内してくれる。

 サラリーマン達が囲むテーブル、若い男女の合コンのテーブル。そんなブースごとに区切ったテーブル席を縫うように歩きながら、奥へと向かう。さすがに奥座敷は今までの喧騒を遮断するように落ち着いた雰囲気であった。

「遅くなってすまん。待ったか」 そう言って席に着く村中に田上千恵が酌をする。「まあ、取り敢えず冷たいビールを一口どう」

コップに注がれたビールを軽く持ち上げ、形だけの乾杯をして村中は一気に喉に流し込んだ。

「ふーっ、本当に最初の一杯は旨い」 そう呟きながら村中は、今度は手酌で二杯目を注ぐ。「で、何だ。二人揃って話というのは」

「ちょっと長くなるが……」 そう前置きして河合が話し始める。

 自分の身に起きた、いわれの無い痴漢・暴行未遂事件、田上のプライベートなネット流出騒ぎ、そして久留米の薬物不法所持逮捕を話して聞かせた。

「そうそう、俺もお前の件は知ってるぜ千恵。あれだけ雑誌やテレビで取り上げられてるんだものな。で、離婚したって本当か」

「ちょっと、あんたまで取材するつもり。まあ良いけど。でも私は何だかリベンジされたって感じがしてないの。あの夜は最初はびっくりしちゃったけど、二人の外国男性は凄く優しく扱ってくれたもの。映像が流出した時は慌てたけれど、凄い反響のお陰で芸能界からも誘いがかかるし、旦那とも別れる潮時かなって……」

「げっ、マジかよ。ちっとも堪えてねえんだ。本当にお前は淫乱のあばずれだよ」

「何よ。あんただって昔はあたしと寝たじゃない」

「チェッ、たった一度だけじゃねえかよ。あれ以来、抱かせてもくれなかったくせに。新しい男に夢中になっていたんだろ」

「まあまあ、二人とも抑えて。それより村中は今の話を聞いてどう思うよ」

 千恵を茶化していた村中だったが、そう尋ねられて顔を引き締めて考える。

「うん、確かに奇妙だな。河合の場合は剃刀で衣服を切った、久留米は薬物所持……そして千恵、お前は秘事を世間に暴露された。手口が余りにも十年前に酷似しすぎている。誰かがそっくりそのまま復讐をしているんじゃねえかと言いたいんだな」

「そう思わないか」

「私はそうは思わない。やっぱり、うちの旦那の仕業よ。それ以外考えられない。先ずは私の暴露事件。私と離婚したがっている旦那の策略に決まっているよ。そして旦那はあんた達が全員私と関係を持ったって誰かに入れ知恵されたらしいのよ。だからその腹いせに仕返ししているんだわ」

「一度っきりで怨まれたんじゃあ割があわねえな」 と村中。

「そんな事言うなら俺や久留米はどうなるんだよ。千恵とエッチなんて一度もしてねえんだぜ。逆恨みもいいとこだよ」 口を尖らせて河合がブーたれる。

「だからさ、十年前のあの事とは関係無いと思う。考えすぎよ。だって、あの時の手口を詳しく知っているのは私たちと自殺したチェリーだけよ、そうでしょ」

 チェリー、十年前に記憶を封印した名前。その名前を口にすることで当時の記憶が千恵の脳裏に鮮明に甦ってくる。

 そう、あれはいつの頃だったろうか。千恵は学生時代の記憶を想いおこす。


2008年 2月13日

「おい、千恵。聞いてんのかよ」

 村中の声に千恵は、はっとわれに返る。十年前の過去を思い起こす千恵はある事を思い出していたのだ。我々四人のほかにもう一人真実を知る人間が存在する事を。そしてそれは自分だけが知っている秘密。まさか……。

 そんな千恵を怪訝そうに見つめて、村中が話しを続ける。

「いいか、 河合は前にいた女性のコートを切ったと疑われたんだったな。車内は混雑していたんだろ。どうやってコートを切ったかだな」

「そうなんだ、勿論誰かがやったんだろうし、俺も警官や弁護士にそう訴えたさ。だけどあの混雑じゃ後ろに立っていた俺以外、コートを切るなんて行為は無理なんだ。検証結果でもそう判断された」

「じゃ、お前がやったんだろ。本当のことを白状しちまえ!……って冗談だよ。お前にそんな事出来る度胸は無いさ。あの時だって俺の命令で止む無くさくらの衣服を引き裂いたんだからな……剃刀を握るお前の手がブルブル震えていたのを今でもはっきりと覚えているぜ。まあ、昔話はさておき話を戻そう。なあ河合、通勤ってのはさ、毎日まいにち三百六十五日、同じ道のり同じルートで飽きそうなもんだが不思議といつも同じ電車の同じ車両って事は無いか」

「ああ、そう言われれば決まっている。俺の場合は後ろから三両目の二つ目のドアから乗り込み、左側へ行く」

「へえ、良く覚えているわね。私なんか行き当たりばったりで、空いていればどこでも良いわ」

「ふふん、結構男性ってのはそういう傾向があるのさ。昼飯だって大体行きつけが決まっている。そうだろ、河合」

「そうだよな、うちでも若い女性職員は、良い店を見つけただの、明日は反対側の開拓をしようだの話しているようだけど、でもそれがどうしたって言うんだい」

 そう聞き返す河合の顔を見つめて村中がニヤッと笑う。

「お前を引っ掛けるのはチョロいって事さ。いつも乗る場所があらかじめ判っていれば、仕込む事だって可能だ。その被害者の女性に共犯者がいたとするといろんな手段が講じられる。何もその場でコートを切る危険を冒さなくたって、事前に仕込めば良いんだ」

「え、どうやって……」

「歌舞伎で『引き抜き』ってのがあるだろ? 一瞬で上に着ていた着物を取り払って違う衣装に早替わりする手法」

「ああ、歌舞伎は知らないけどジャニーズ系のアイドルも良くやるよね。しっとりとしたバラードを歌い終わって、次はアップテンポな曲に変わるって時に、タキシードを左右から引っ張ると、ダンス衣装をが現れるって奴ね」千恵が一人で納得している。

「だから俺が考えるに、例えばその被害者の女性が誰かとグルだとしたら? お前が電車に乗り込む前に既にコートは切ってあって、頃合いを見てコートを仮縫いしてあるしつけ糸を引っ張る。これなら協力者は男性でなくても女子供でも出来るぜ」

「そう言われれば……俺の横にいた中年女性が『貴女、コートを切られてるわよ』って大騒ぎしたんだ。くそ、あのババアもぐるだったのか」

 河合があの時の様子を思い出すと、村中は得意そうに鼻をピクピク動かして言う。

「真相は多分そういう事だろうよ。その被害者の女性を探し出して問い詰めるか。名前はなんだっけ」

「えっと、確か桜田……そうだ沙紀だ」

 その名前を聞き、一瞬村中が妙な表情を浮かべ河合を見つめる。

「桜田沙紀だって、どんな女だ」

「何だよ、どうしたんだ」

「どことなく人気モデルのSに似て無いか」

「ああ、似ている。ヘアスタイルも同じかな。どうして村中がそれを知っているんだ」

「うちの女房が娘をお受験させるために躍起になっているって前に話したよな。それで家庭教師を雇ったんだ。その女の名前が桜田沙紀というんだ……ん、そうか」

 何を思いついたのか突然声を上げる村中に、河合と千恵が驚きの表情で村中を見る。

「成程、やはり田崎さくらの亡霊による、昔のリベンジって訳だ。お前ら、桜田沙紀って聞いて気がつかないのか」

「桜田沙紀、桜田沙紀――」

 口の中で何度も呟きながら、突然千恵の脳裏に閃きが走る。

「そうか、成る程。桜……田沙紀ね。うちらに対する宣戦布告のメッセージだったんだわ」

「そうさ、そして今度は俺の番って事だな……探す手間が省けたぜ。面白い、気付かないふりをして逆に罠に嵌めてやろうぜ」

「判んないの。やっぱり、あんたはトロね」 未だピンと来ない河合に千恵が説明をする。

そんな二人を放っておいて、村中はしばらく何事かを考えた末、河合と千恵にある作戦を話して聞かせた。

 熱心に話す村中の言葉を千恵はほとんど聞いてはいなかった。

先刻ちらっと頭をよぎった過去の事実を知るもう一人の人物の事を考えていた。

もし後ろで糸を引いているのが、あの人物だとすると、さくらのリベンジなんかじゃ無い。そう言い切れる。それは自分だけが知っている秘密。でも、だったらどうして……。

そこまで考えて千恵はふと事件とは関係のない、ある恐ろしい考えに思い至った。

まさか……そんな事ってあるだろうか。いや。可能性はある。これはやはり本人に直接確かめずにはいられない。

「そうじゃ無かったのかも……」

「え、何の事だ?」

 ポツリと呟いた千恵の一言を聞きとがめて村中が尋ねる。

「やっぱり確かめるべきだわよね。よし、悪いけど後は二人に任せる。私は先に失礼するわ」

 一人で納得して千恵が席を立つ。

「ちょ、ちょっと。千恵、どうしたんだよ」

 訳が判らず河合が引き止めるが、千恵はそれに構わずさっさと出口へ向かいながら後ろを振り返る。

「確かめたい事があるの。私の考えが当たっていれば連絡する。じゃね」

 そういい残して千恵は店を出て行った。

「何だよ、あいつ」 去っていく千恵の後姿を見送りながら、村中もさすがにあきれ返るのだった。


2008年 2月14日

 翌日、勾留中の久留米義正のもとに、母親と弁護士が接見に訪れていた。

「久留米さん、私は本件の弁護依頼を受けた弁護士の坂本です。先ず最初に言っておきます。時間が限られていますので私を信じて、素直に話してください。調書には目を通しています。貴方は今まで薬物に手を染めた事は有りませんか」

「無いよ。あ、いや昔、学生時代にマリワナなどを少し、でもそれはほんのちょっとした悪戯心からで……」

「それは、もう警察に喋りましたか。そうですか、判りました。今後共、余り不利な事は喋らないようにして下さい。強要されたら私を呼んで下さい、いいですね。他には何か喋りましたか。無いですね。次にあの品物は知らぬ間にポケットに入っていたと主張されていますが」

「そうだよ。あんなもの俺は知らん。どうしてポケットなんかに入っていたのか」

「と言う事は誰かが入れたとしか考えられません。当日そんな可能性があったかどうか思い出してください」

「あのスーツはクリーニングから戻ってきたばかりで、当然ポケットには何も入ってなかったのは覚えている。ハンカチや財布を出かけるときに入れて……」

「それから、あの日は女性と会われたんですね。その時は」

「それが……」

 言い淀みながら、坂本弁護士の横に座っている母親の方を伺う。

「良いですか、久留米さん。先ほども申し上げましたように時間が限られています。事実を有りのまま隠さずに話して下さい」

「コンパニオンの女性と食事を済まして、そのままホテルに連れ込もうとしたんだ」

「まあ、お前って何て恥知らずな……女房も子供もいると言うのに。いいかい、良くお聞き。お前のお陰で会社の信用はガタ落ちだよ。そりゃそうさ、社長が酔払い運転しているような運送会社になんか、危なくって荷物を頼めやしない。銀行も融資を断ってくるし……昨日、緊急役員会でセントラル運輸に身売りする事が決まったよ」

「まあまあ、お母さん。その話は――」 弁護士が宥める。

「何を言ってるんですか、会社の一大事ですよ。昨年からセントラルさんの下請けをやらせて貰っていたけど、向こうさんはその間に、野坂っていう若いコンサルタントの入れ知恵で、うちの株を買い占めていたんだよ。はなから乗っ取るつもりだったんだ。そこへお前の馬鹿な事件だろ。うちの役員達も全員持ち株をセントラルの株に交換したのさ。今までの恩義を忘れて……番頭役として信頼していた伊藤までが裏切ったんだよ」

「野坂だって。まさか野坂良太って名前じゃ無いだろうな。そうなのか……何故、伊藤のおやっさんが野坂と」

「何よ、野坂って知り合いかい。そういえば、お前と同じような歳だと思ったよ。でも、お前と違って頭がきれそうな男だった。まあ、伊藤もお前の馬鹿さ加減に、ほとほと愛想が尽きたんだろ」

 義正が社長でありながらも気楽でいられるのも、父親の代から勤める伊藤常務が総てを取り仕切り、安心して任せていられるからだった。その伊藤が裏切りセントラル側に寝返るなんて。暫くは呆然としていた。弁護士が盛んに名前を呼んでいる。

「久留米さん、さぞショックでしょう。お気持ちは判りますが、今は先ずご自身の事が先決です。話を戻します、その女性が薬物を貴方のポケットに入れた可能性が有るんですね」

「そうとしか、考えられない」

「そうだとして、久留米さん、貴方にそんな事をする理由に心当たりは」

「判らない、心当たりなんか無いよ。取り調べでもそう言ったんだ。大体その女とは業界の会合で初めて会ったんだから」

「それからも何度か会われていたのでしょ。その女性とはどの程度のお付き合いをされてたのですか。何でも良いのです、その女性の手がかりとなる事を思い出して下さい」

「判らない。判らないよ。大体俺を狙ったんじゃ無くて、誰でも良かったのかも知れないじゃないか」

「ただの悪戯にしては手が込みすぎていますし、物が物です。誰がそんなリスクを冒してまで悪戯しますか。本当の事を仰って下さい。貴方が持っていたんでしょ」

「知らない、俺は知らないったら知らない」

 全くこの男は……まるで我儘な駄々っ子だ。育ちが良くって端正な顔立ちだから女性にはもてるのかも知らないが、オツムの中は小学生並だな。坂本弁護士は大きくため息をついた。

                   

 その頃、近藤は十年前の田崎さくらの事件調書を調べていた。今回の事件の背後には彼女の自殺が関連していると確信したからであり、再度その件を調べてみようと思い立ったのである。

 疑問に思うのは、何故自殺を図ったのか? それに自分の住まいでも無いマンションから飛び降りたのか? あのマンションを選んだ理由でも有るのだろうかということだ。

 最初の疑問は、調書を読むうちに解けた。彼女は妊娠しており、そのショックで自殺

を図ったようだ。

 一体誰の子供なのか、仲間だった内の一人、野坂は半年前から渡米しており彼で無い事は明白だ。堀田とはどうだったのだろう。妊娠が元で二人の間に諍いが生じたのだろうか。だとしても、それが久留米や河合の事件とどう繋がるのだろうか。まさか田崎さくらは彼等に……。新たに湧いた疑問点をメモしながら近藤は調書を読み進める。

おりしもその年のクリスマス・イブは大雪で、さくらが飛び降りたと思われる屋上も雪が降り積もっており、他殺の可能性を疑う手掛かりも見当たらず、自殺と断定されたと記されていた。

 関係者の証言も警備員やマンションの住民、友人関係のものが大半であったが、彼女らしき女性の出入りを目撃した証言がある。

それによると田崎さくらがマンションを訪れたのは午後九時から十一時の間とみられる。どうして二時間もの幅が有るのか近藤は疑問に思ったが、証言を読み進むうちその疑問が解けた。

 目撃者の一人である低層階に住む主婦は、九時頃に生ごみを捨てに出たときに見知らぬ女性と廊下ですれ違った。但しチラッとみただけなので、さくらであるか確信は無いと証言している。服装なども曖昧な記述に終始していた。別のサラリーマンの男性は、勤務後飲み会を経てから帰宅した十一時頃玄関で見たと証言している。こちらはロビーの明るい照明の下であった事に加え、綺麗な女性だったので異性としての興味も有り、人相だけでなく年、格好もはっきりと覚えていた。さくらがその辺りをうろついていたか、もしくは主婦の目撃証言は他人の可能性があると記録には認めてある。

 家族が遺体を引き取りに来た当時の聴取も記載されているが、全く事情が判らず逆に警察に説明を受ける程だったようだ。というのも彼女は郷里が兵庫県で、東京では一人暮らしのためであった。

 当局が自殺と断定した決定的事実として、後日、兵庫県に戻った家族から、さくら本人の遺書のメールが届いていた旨の連絡が有った為と記されている。どんな内容であったのかは記載されていない。

 家族の許に当局からさくらの死の連絡が入ったのが二十五日朝。取るものも取り敢えず家族はその日の内に上京したため、二十四日夜に着信したメールに気付かなかったらしい。

 そこまで読んで、近藤が興味を覚えた情報が一つ有った。メールの件を連絡してきたのはさくらの妹の田崎由里とある。田崎さくらには妹がいたのだ。そして彼女宛に遺書を残していたのだ。

 そこには何が書き記してあるのだろうか。彼女の自殺の理由も書かれているのだろうか、是非、家族に会って内容を確認したい。

 近藤は電話で連絡を取ったが、呼び出し音が鳴るだけで誰も応答しない。家族全員が出払っているのだろうか。こうしている間も惜しい。近藤はその足で関西へ行く決心をした。今から向かえば、最終で帰って来る事も可能だろう。だが、その前に福井にもう一度会って確かめておきたい事がある。

「いいか、これは津村さんからの非公式な調査依頼だ。出張費など出やしない。休日届けも出してきた。悪いが半日俺を自由にさせてくれ。何かわかり次第連絡する」

 そう坂上に言い残して近藤は署を飛び出した。

                

 東京駅に着いた近藤は発車間際の新幹線に飛び乗る。年末だからか車内は平日だというのに満席だった。自由席の喫煙車は一両しかない事もあり、大多数はビジネスマンであった。それが一斉に煙草を吸うものだから、さすがの近藤も、もうもうと立ちこめる白煙に眉を顰めた。座席に落ち着き、先刻会った福井の話を思い起こす。


 あれから署を出た近藤は、東京駅に向かう前に先日と同じ喫茶店で福井と会った。

「福井さん、今回の件はすべて十年前の田崎さくらの自殺に端を発していると思えるんです。そしてこのままでは取り返しのつかない事態にまで発展しそうな嫌な予感がする。先日貴方は、何かを言いかけて途中ではぐらかしてしまった。田崎さくらさんの投身自殺について何をご存知なんですか。すべてをお話願えませんか」

 近藤の勢いに圧され福井が重い口を開く。

「先日も言いましたように久留米たちは、女子学生をたぶらかしていたようです。

手口はこうです、まず田上千恵が女子学生を誘いこむんです。相手も女性がいる事で安心して来るでしょ? 誘いに乗ったが最後、後は三匹の狼の餌食です。リーダー格は村中です。彼は悪知恵が働くし度胸もあって仲間を統率していました。久留米は坊ちゃん育ちでグループのスポンサー的役割です。河合はみんなのパシリって感じかな。ま、それはともかく、被害にあった女子学生たちは誰も警察に訴えなかったので、奴等は益々エスカレートして悪さを繰り返していたんです。更に野坂が米国に留学し、お目付け役の堀田の目を盗んで、ついにミス・キャンパスの田崎さくらを毒牙にかけたんだと……いや、あくまで噂ですよ」

 やはりそうだったのかと近藤は思った。

この男はさすが出版に携わっているだけあって「毒牙にかける」などという婉曲的表現をするが、一人の女性を四人がかりで襲うなんて犬畜生にも劣る非道な行為である。

「つまり、みんなで強姦した、という事ですか」 怒りを抑えきれず、近藤が吐き捨てるように言う。

そのストレートなものの言い方に今度は福井が眉をひそめた。

「だから噂ですよ。無責任な想像ですから……田上の事もそうです。あくまで噂に過ぎません。刑事さん、僕は証人になどなれませんから……話すんじゃなかったなあ」

「いやいや、心配には及びません。貴方からお聞きしたことは口外しませんし、我々も事実関係を調査してからでないと迂闊には動けません。ただ、その噂はさっきからの話では、堀田さんは知らなかったようですね」

「そりゃそうです。まさかチェリーの恋人として本命視されていた彼の前でそんな噂話はできないでしょ。我々も出来るだけ彼の耳に入れないよう気も使いました」

「なるほど、では野坂さんはどうです? 彼もご存知じゃなかった?」

「野坂は当時留学中でしたから、葬儀に列席しただけで直ぐに米国に戻りました。その後も暫く米国に滞在していましたので全く知らないと思いますよ……というか野坂がいれば良かったのにと思います」

「ほう、それはまた、どうして」

「野坂は勘の鋭い男です。チェリーに何かが起こったとすれば、直ぐに感づいたはずです。そこが堀田と大きく異なる点です。堀田は面倒見の良い親分肌ですが、性格が大雑把と言うか、機微に疎い処があります。逆に野坂は、頭が良くって剃刀のような鋭さは有るんですが、薄情……あ、いや、情に流されない、つまりクールなんです」慌てて言い直す。

「ですから野坂は堀田を部長にしたんです。自分はサークルのブレーンとしてアイデアや方向性を考える。実際に部長として部員の面倒を見たり、運営全般の取り仕切りを行うのは堀田。各々得意分野での役割分担です」

「役割分担と言えば聞こえは良いが、面倒なことを押し付けられただけのように感じられます。何だか堀田さんは野坂さんに上手く祀り上げられたように思いますが」

「確かに口の悪い連中はそんな風に言ってましたね。堀田は野坂に操られるマリオネットだって。でも野坂を尊敬する堀田はそれでも気にしていなかったようです」

 本当にこの男は正直だ。こちらが尋ねるまでも無く、自ら様々な事を喋ってくれる。当時の事情を聞くに及んで、ますます堀田が怪しいと近藤は感じた。

 田崎さくらが強姦をされ自殺したという噂を堀田がどこかで耳にした可能性は充分考えられる。福井は堀田が噂を知らなかったというが、ひょんな処から耳にするのが噂という奴だ。現に千恵が学生時代派手に遊んでいたという噂も耳にしていたのだから。

これで何故今頃になって十年前の復讐をするのかも納得できる。おそらく最近になって堀田が噂を聞きつけたのだ。そのうえ、千恵もさくら強姦に一役かっていたとなると、何も知らずに結婚したことを後悔するのも頷ける。離婚したくなるのも当然だろう。

そしてさくらの妹である由里に桜田沙紀と名乗らせ野獣どもへの復讐に協力させたのだ。

 しかし、これはあくまで田崎さくらが強姦されたという噂に基づいた推論である。それを裏付ける証拠が欲しい。今から向かう田崎家の実家には何か残っているだろうか?

考え込む近藤に福井が遠慮がちに言う。

「あの、僕の知っている事は全部話しました」

「最後にもう一つ。先日お伺いしましたが、もう一度連中のニックネームをお教え願えませんか」

「ああ、良いですよ。村中は名前が春雄だからハル、河合隆史は何をするのもとろいからトロ、久留米義正が正義の逆だからアク、そして田上千恵が女王気取りで君臨していたからヒメです」

「成る程、有難う御座います。又、何か聞きたいことが出てくるかも判りません。その時は宜しくお願いします。今日はお休みのところ、どうもご協力感謝します」

 そう礼を述べて福井とは喫茶店で別れたのだった。


 昼食は車中で弁当を食べる。名古屋を過ぎ、途中関ヶ原付近で雪のため若干京都に着くのが遅れたが、新大阪到着で遅れを取り戻していた。

流石に日本の鉄道だ、時刻には厳しいなと変な感心をする。

 新大阪に到着後、東海道本線に乗り換え西宮へと向かう。そこから一キロ強の道のりを歩き、阪急線の夙川駅に着いたのは、午後四時を回っていた。

 一度大阪駅に出て、阪急神戸線で梅田から夙川まで来た方が早かったかなと後悔する。大阪駅イコール私鉄の梅田駅だなんて思いもしなかった。同様に天王寺と阿倍野もJRと近鉄で駅名が違うだけで、場所は同じなのだと、路線図を見て近藤は納得した。大阪は判り辛い。だが、そういえば東京の池袋だって、東口に西武が有り、西口に東武が駅を構えている。どっちもどっちか……そんなとりとめのない事を考えている自分に苦笑しながら、近藤は駅舎を出て歩き出した。

 この辺りから芦屋にかけては全国的にも有名な高級住宅街である。その夙川の駅から「こほろぎ橋」を渡り西宮方面に五分も歩いたろうか。駅近くに立ち並ぶマンション群を抜けると、昔ながらの民家が立ち並ぶ町並みに出た。人通りも急に途絶えた。

 住所を確認しながら近藤はやっと田崎家を見つけ出す。

ぐるりと塀がめぐらされた和風建築の屋敷で、中庭の奥に母屋が有るらしく、屋根が外からでも覗ける。なかなか立派な構えである。

 玄関は固く閉ざされているし、人の気配も感じられない。

 仕方なく近藤は、近隣の住民に聞き取りを行おうと隣家の呼び鈴を押した。

「はーい」 と応えて、中から錠を開いて中年の主婦が顔を覗かせる。

「どちら様」

「東京新宿署の者です。ちょっとお隣の田崎さんの事をお聞かせ願えんでしょうか」

「まあ、東京から……ご苦労さんなことで。そやけど東京からわざわざ刑事さんが来るやなんて、由里ちゃんになんぞおましたんか」

「由里さんというのは下のお嬢さんの名前ですね」

「そうですがな。もうあの子しかここには住んでしまへんよって。田崎先生は長女のさくらさんが自殺してしもたショックで具合悪うしはって、奥さんは奥さんでちょっと精神的に……それで今は施設に入ったはるさかい、大きなお屋敷に由里ちゃん独りやったんやから、そら淋しかったやろなあ」

 まるで自分の事のように、喋りながら目が潤んでくる。

「しかし、現在はどなたも住んでらっしゃらないようですが」

「ええ、もう一年以上前になりますやろか。由里ちゃんが突然東京へ行く言うて、挨拶に来はりました」

「上京する理由などは言ってませんでしたか」

「何にも、ただ、留守中は駅前の不動産屋に管理を頼んで行くから、何かあったらそっちへ連絡して下さいって。そらしっかりした良う出来たお嬢さんでしたわ。ご両親が躾けに厳しかったし、勉強も良う出来はりましたし。死なはったさくらさんと二人、美人姉妹でご近所でも有名でしたんやで。それが、さくらちゃんがあんな事になってしもうて、あれからご難続きで可哀相に――」

 尚も隣人の不幸を嘆くお喋りで情の厚い主婦に礼を言って、漸くその場を立ち去った近藤は、駅前の不動産屋に向かった。

                

 渋る不動産屋の主人を引き連れ再び田崎家に戻った近藤は、不動産屋立会いのもと屋敷に上がりこんだ。

 以外にも一年以上人が生活していない家屋のわりには空気が淀んではいない。時々、家の中の空気を入れ替えるために窓を開けに来るのだと、不動産屋の主人が言う。

 玄関は大きな吹き抜けになっており、直ぐ左手に応接間、右手に二階への階段がある。階段の下は物置部屋でその隣がトイレであった。奥に進むと八畳程の和室があり、大きな仏壇が備えてある。

 右手はガラス障子の嵌めこまれた廊下となっており、中庭の枯山水が臨める。その廊下を回りこんで更に台所、食堂、風呂などの水回りが固めて配置されていた。

更にその奥に二部屋あり、それらは居間と夫婦の寝室として使われていたようだ。家具やタンスの中には何も無い。少しでも手がかりが欲しい近藤にとっては期待はずれであった。二階がどうやら姉妹の部屋らしい。

 二階には同じ間取りの部屋が仲良く並んでおり、南側に面した窓からは神戸湾が見える。その他はピアノ室、サンルームであった。姉妹の部屋も綺麗に片付けられ、ほとんど手がかりになりそうな物はなかった。有るのは大量の書籍とCD程度。無駄足だったかと落胆する近藤の目に机に置かれたパソコンが目に入った。

「ちょっと、このパソコンの電源を入れさせてください」

 それは困ると困惑する不動産屋の主人を尻目に、近藤はさっさとパソコンの電源を入れた。やや暫くしてモニター画面がデスクトップを表示する。

 しかしここからどう操作していいか解らない。ただ画面を見つめるばかりで、キーボードやマウスを触りもしない近藤を不動産屋の主人が怪訝そうに覗き込む。

「どないしはったんでっか」

「え、いや。ご主人、パソコンはお出来になりますか」

 不動産屋が、自分より若いのにパソコンも出来ないのかと目を丸くして飽きれる。

「へ? あんさん、わしより若いのに出来まへんのか」先ほどまでぶつぶつ文句を言っていた主人だったが、諦めたようにため息を吐く。

「もうしゃあないな。どれ、乗りかかった船や、どきなはれ。わしがやりましょ」

 近藤が一緒に覗き込む。パソコンのマイ・ドキュメント・フォルダのファイルに片っ端から目を通す。ほとんどが仕事関係のファイルであった。ひょっとしてと考えた主人が、ピクチャ・ファイルを開く。案の定、家族で写したスナップが有った。

「この女性が由里さんですか」

 主人が頷く。早速近藤はその写真をプリントアウトしてもらう。

 更に主人に頼んでアウトルックの受信トレイを開いてメールに目を通す。そこにも仕事関係の内容以外のメールは存在しなかった。

諦めかけた時、受信トレイの横にプラスマークが着いているのが近藤の目に留まった。主人に尋ねると、フォルダの下の階層に更にフォルダが存在する印だと言う。それも開いてもらう。プライベートと名づけられたフォルダが現れた。

そこには、一つだけメールが存在した。受信記録は十年前の十二月二十四日。近藤の心が躍る。

 近藤はメールに目が釘付けになった。これだ、とうとう見つけたぞ。これこそが十年前の真相なのだ。

                  

第三章 

 津村検事正の部屋では、特捜部長の尾崎直之が調査報告を行っていた。

「やはり、S県の上田知事と大島建設の間で収賄行為があったようです。知事の女房には弟がいます。その男性が経営する会社に、大島建設から多額の金銭が動いているようです。そしてその仲介を行った人物がいる模様です。上田知事と大島建設を贈収賄容疑で引っ張りますか」

「大島建設にガサ入れして帳簿をすべて押収しましょう。大島建設と上田知事の橋渡し役が誰なのか……多分その人物にも大島建設から多額の政治献金が行われているはずです。ルート解明に全力をあげるんです。公取委との連絡を頼みます。強制捜査に踏み切るまでは、くれぐれも慎重に事を運んでください」

「ええ、ここまで来て敵さんに感づかれて証拠隠滅をされては、総てが台無しですからね」

 尾崎はそう言って身を引き締めた時、机の電話が鳴った。

津村が受話器を耳にあてると、近藤の弾んだ声が聞こえてきた。夙川の田崎家近隣で得た情報、更に市役所での確認を終えたとの報告であった。

 尾崎が目礼をし退室していくのを見届けてから、津村はあらためて電話に向き直る。

<津村さん、新たな事実を掴みましたよ。田崎さくらの母親は、最愛の娘の自殺にショックを受け、精神に変調をきたし現在施設に入っています。そして父親は体調を崩し間もなく死亡しています。さくらの妹、由里という名前ですが、彼女は大阪に本社のある商社に勤務していましたが、二年前に退職しています。それ以降彼女は忽然と姿を消したという事です。近所の住人の話では上京するので、しばらく留守をすると言っていたそうです。それで、留守中の家の管理は駅前の不動産屋が任されていまして、無理を言って鍵を開けてもらいました>

「捜査令状も無しにですか」

<いえいえ、強制捜査はしていません。あくまで留守を預かっている不動産屋の親父が協力を申し出てくれたもので>

「判りましたよ。やれやれコンさんはこれだから……」

<そう言わないで下さい。そのお陰で重要な手がかりを掴んだんですから。パソコンのメールフォルダの中に、さくらから妹の由里宛に自殺直前メールが送られているのを発見しました>

 「何ですって! やはりそうでしたか」

 近藤はその遺書とも思える内容を手短に津村に報告した。津村の嘆息が近藤の耳にも受話器から漏れ聞こえる。

 本当に酷い話だ。近藤は最愛の妻に先立たれた経験を持つだけに、生涯を通じ互いに信頼し、愛しあった相手に先立たれる悲しみは嫌というほど理解できる。この俺でさえ、自暴自棄になったのだ。 娘の成長を喜びとしていた両親にとって、最愛の娘が野獣たちに強姦され、自から命を絶った現実は、到底受けいれ難かったであろう事は想像に難くない。

そのショックが元で父親が亡くなり、母親は精神に異常を来たした。家庭を滅茶苦茶にされた妹の由里の怒りと悲しみは、いかばかりであったろうか。 若い連中の無軌道な行為が、或る幸せな家庭を崩壊させたのだ。怒りと悲しみがないまぜになった感情を野獣たちにぶつけたくなる気持ちはよく判る。もし俺に娘がいたとして、そんな目に遭えば男たちをぶっ殺すかもしれないと近藤は思う。

 だが日本は法治国家なのだ、私恨を晴らすことは許されない。

 近藤は職業上、これまでに殺人事件や傷害事件を数多く扱ってきた。勿論、人を殺めることが一番犯してはならないことであるが、彼が最も憎む犯罪は非力な女子供に対するそれであり、人間の尊厳を踏みにじる類の犯罪であった。女性を複数人で輪姦し更にその様子を撮影するなど、彼が忌み嫌う最たるものである。

 電話の向こう側では、津村も憤りを覚えながら近藤の報告をメモしていた。

その文字を何気なく眺めながら津村は何か違和感を覚える。

何だ……今確かに引っ掛かるものを感じた。もう一度メモを見詰め、ハッとする。

 桜田沙紀 田崎さくら

 何かに閃いた津村は名前を平仮名にしてみる。

 さくらだ・さき、さくら・たさき・さくら……たざき・さくら

「コンさん、急いでこっちに戻ってきておくれ。これ以上不幸な人を出しちゃいけない」 津村は電話口で、そう叫んだ。

                

 近藤からの捜査進捗報告を津村が受けている頃、西川検事も別の角度から捜査を進めていた。

「久留米さん、貴方は桜田沙紀をご存じ無いとおっしゃってましたが、現在の付き合いじゃ無くてですね、学生時代にはいかがです? 知り合いに桜田という名前の人物はいませんでしたか」

「勿論、桜田という苗字だけなら、知り合いに一人いるけど、別に名前を知っている程度で、相手だって俺の事覚えてるかどうか……」

「まあ、それでも調べてみる必要は有ります。特に妹がいないかどうかを……。それはそうと、貴方は大学でトレンド研究会というサークル活動をされてたんでしょ。なんでも貴方たちが卒業されると同時に廃部になったと聞きましたが」

「トレンド研究会か……メンバーは十人程度だったし、別に新人を勧誘もしなかったからなあ。それに、ほとんど同期のメンバーばかりだったから」

「良かったら当時のメンバーの中で特に仲の良かった方の名前を教えて頂けますか」

「どうして。何か関係があるのか」

「さあ、それは判りません。しかし今は何でも手掛かりとしたいんです。いいですか、久留米さん。あなたが薬の事を本当に知らないと主張されるなら、それを証明する必要が有るんですよ。我々が躍起になって桜田沙紀の行方を追っているのは、貴方のためでも有るんです。このままだと貴方は三年以下の懲役ですよ」

「ああ、ああ判ったよ。喋れば良いんだろ。河合に村中、そして田上千恵だ」

「そうですか。我々としては、どうもサークルに関係しているように思えるんです。最初は河合。彼は婦女暴行容疑、そして次に貴方だ。貴方には薬物不法所持。どうです? それとも全員が同好会の設立メンバーというのはただの偶然ですかね」

「何だって、河合も」

 久留米はさすがに驚いた様子で黙りこんだ。

「もし我々の推理が当たっていれば、次は村中さんが狙われるでしょう。それでも貴方には心当たりが無いと」

 その時、取調室に津村が顔を出した。

「ちょっと良いかな」 そう断って久留米に話しかける。

「久留米さん、我々はどうも女性について勘違いをしていたようです。その女が薬物の売人かと考えていたのですが、そもそも薬物はあなた自身が海外で入手したんでしょ。学生時代にもそんな手口で女子学生を散々泣かせたそうじゃ無いですか。え、どうなんです」

 言葉遣いは穏やかだが、津村のその凛とした声音で問い詰められ、久留米は狼狽した。

「違う、今回は違うんだ」

「と言う事は少なくとも昔はやってたって事じゃないか。何て奴だ、最低な男だな、お前は」 西川検事が吐き捨てるように言う。

 津村は改めて久留米に話し掛けた。

「さて、久留米さん。貴方、桜田沙紀について詳しい事は知らないと仰る。そのとおりでしょう。では、田崎という名前は如何ですか。ご存知有りませんか。たった今、メールで送られてきた写真ですが、この女性は田崎さくらの妹の由里さんです」

 その名前を耳にした途端に久留米は青ざめ、顔を引きつらせた。写真を見て驚きの余り絶句する。

「どうなんです、心当たりが有るんでしょ。あなたが付き合おうとしていた桜田沙紀さんじゃありませんか」

「弁護士を呼んでくれ。それまでは何も話したく無い」

「いいでしょう。しかし、我々は今の貴方の言葉で、十年前に何が起きたのかを確信しました」

 津村はそう言って、顔面蒼白となって震える久留米義正の顔を見つめた。

                  

 近藤が東京に戻り中央線で吉祥寺に着いた時、時刻は午後十一時にならんとしていた。南口に出て駅に沿って暫く歩き、井の頭通り沿いの一軒の居酒屋に入る。

「いらっしゃい。もう先にお見えになってますよ」 

 店員が声を掛け、近藤を奥のボックス席に案内する。

「コンさん、ご苦労様でした。悪いと思ったけど先にやってますよ。もう料理はラストオーダーだっていうもんですから」 

 ぐい呑みを持つ右手を軽く近藤のほうに掲げて津村が言う。

 この店は、時折二人が利用する、お気に入りの店であった。何といっても日本酒と焼酎の品揃えが良い上に、肴も新鮮で旬の魚介類を提供してくれるのだ。津坂は日本酒を淡麗甘口から始め、純米、吟醸と銘柄を変え最後に久保田の万寿で締めるのが慣わしである。

 店内にはジャズが流れている。マイルス・デイビスの「So What」だ。ポール・チェンバースのベースに導かれるようにマイルスのソロが始まる。マイルスがビル・エバンスとモード奏法に取り組んだ歴史的名盤。彼の口癖「それで、それが何だって言うんだ」を題名にしたと言われる。

 BGMにモダンジャズをさりげなく流しているのが、近藤と津村がこの店を贔屓にしているもう一つの理由だ。近藤はモダンジャズが最高の音楽だと信じ込んでいるし、津村はジャズそのものが好きで陽気なビ・バップなども良く聞く。そういえば、津村はディジー・ガレスピーにどことなく風貌が似ている。俺は誰に似ているかな。アート・ペッパーはどうだろうか……それは良く言いすぎだろうか。近藤はそんなことをちらっと考える。

「彼には魔王をロックで」津村が従業員にオーダーする。

「いや、その前にハーフ&ハーフを一杯。喉が渇いた」

 ビールのグラスが運ばれて来ると、近藤はそれを一気に飲み干した。

「ふー、やはりこの一杯は何物にも代え難い。本日一日、仕事に疲れた自分へのささやかなご褒美です」

 どうして仕事を終えた後のビールはこれ程美味いのか。あらためて近藤は実感する。

「ふふふ、おかしなコンさんだ」

 満ち足りた表情でッグラスを置く近藤を見て、津村が笑う。

「それにしてもご苦労様でした。今夜は私がゴチします。何でも注文してください」

 そうは言っても入手困難な「魔王」や「天使の誘惑」、「百年の孤独」「森伊蔵」などは、総て一人一杯しか注文できない。

 オーダーを終えた近藤は、田崎由里の実家から持ち帰ったメールのコピーを津村に

渡す。受け取った津村は老眼鏡をかけ、文面に目を通した。

――由里、あなたがこのメールを読む頃には私はもうすでにこの世にはいないでしょう。突然の出来事でさぞ驚いている事と思います。どうして自殺したのか、そんなに思い詰める程の何事が有ったのか、きっと残された父や母、そしてあなたは疑問に思うでしょう。

実は私は妊娠したのです。それも誰が父親なのか判らない子を宿してしまったのです。堕ろす事も考えました、でも処置をしたからといって、この身体が汚れてしまった事に変わりは有りません。悩みました、でも結局私はこういった形でしか結論を出せなかったのです。

ことの起こりは学園祭の日でした。私はトレンドクラブのメンバーに打ち上げに誘われました。顔ぶれは久留米義正、河合隆史、村中春雄、田上千恵の四人です。久留米の親の会社が持っている倉庫でパーティは開かれましたが、卑劣にも久留米は私の飲み物に睡眠薬を入れ意識が朦朧としているうちに陵辱を加えたのです。村中が私の足を押さえ、河合は私が暴れないように首にナイフを突き付けていました。

ことが終わって、身繕いしているあいだ中、久留米はくどくどと、私の事をずっと好きで、なんとか想いを遂げたかったのだと言い訳をしました。それを聞いて激しい怒りを覚えました。そんな自分勝手な理屈で、しかも卑劣な手段で相手の人格を無視した行為を私は絶対許せない、そう思いました。

私は怒りに任せて、彼らに警察に訴えると口走ってしまいました。そのときは、まともな判断が出来なくなっていたのでしょう。馬鹿な事を言ってしまったと後になって、つくづく後悔しました。

彼らは私の言葉を聞くと余計逆上し、村中が私を襲って来たのです。そして彼は河合に命じて、折角身に付けた衣服をナイフで切り裂かせ、陵辱の一部始終を田上にカメラで撮らせたのです。村中の次は河合が私の身体を蹂躙してきました。三人の野獣に玩具にされた私は、暫く呆けたように横たわっていました。

そんな私に村中が言いました。

「もし警察に訴えた処で、合意であった証拠としてこの恥ずかしい写真を提出するが、それでも良いのか」と脅したのです。

私にはどうする事も出来ませんでした。もうこんな悪夢は早く忘れよう、そうする事が一番良い方法だと自分に言い聞かせました。それでも立ち直るまでには時間が掛かりました。

幸いだったのは、ノラは留学中だしタケシも自分の事業に忙しく、逢わずにいられた事。傍にいれば彼等は私の異変に気が付き、きっと私を問い詰めたでしょうから。

ノラが帰国するまでには立ち直って笑顔で彼を出迎えたい、そう考えられるようになってきたある日、私は自分の体の異変に気づきました。

まさか、そんな事は有って欲しくない。神様、まさかそんないじわるはなさらないでしょうね。私は本当にそう神様に訴えました。でも恐れていたことが事実となったのです。検査に訪れた産婦人科の医者が、おめでとうと私に言いました。私にはその祝福は、地獄へ突き落とされる言葉でしか有りませんでした。もう妊娠は、疑いの無い事実でした。それも父親が、久留米なのか村中や河合なのかも判りません。あんな獣たちの子供を宿すという事自体許せない。あんな汚らわしい男たちのDNAや血が自分の胎内に入り込んだのかと思うと耐えられません。胎児の成長と共に、徐々に体が毒に蝕まれて行くようです。こんな状態を絶つには、そしてこれ以上侵食されないために私は自らの命を絶つ事を選びます。

本当に父と母にはここまで育てて頂きながら、何にも孝行出来ませんでした。そして何にも知らずにいるノラやタケシの気持ちも考えずに結論を出してしまう私を許してください。両親や彼等にはあなたから話をしてください。事実をありのまま伝えるかどうかは、あなたの判断に委ねます。最期をあなたに託す身勝手な姉をお許しください――

 津村が読み終わるのを待って、近藤が話し始める。

「関西まで行った甲斐が有りました。これで、桜田沙紀と名乗っている女性の正体が、田崎由里だということがはっきりしました。そればかりじゃなく、動機についても、姉への仕打ちに対する四人組へのリベンジだと判りました。十年も経ってどうして今頃行動を起こしたのか疑問が残りますが、多分悪い噂を耳にし妻と離婚を望む堀田が、丁度帰国した野坂のアドバイスを受け田崎由里にも協力を求めた。そんなところじゃ無いですか」

「まあ、そうですね」相槌を打つ津村ではあるが、何か釈然としない口振りである。

「どうしたんです、先刻から様子がおかしいですよ。何か気に掛かる事でも」

「勿論私も、大事にならずこれで結末を迎えて欲しいと願っていますよ。ただ……」

「ただ」

「彼等の狙いは一体何なんでしょうか」

「そりゃ、当然彼らへの復讐でしょ」

「この程度で、ですか。こんな程度の仕返しをするために、わざわざ田崎由里は勤めを辞して上京、そして半年もの準備期間を費やしたのですか。姉の死、そしてそれが原因で家族も崩壊させられているのです。そんな原因を作った相手ですよ。普通なら八つ裂きにしてやりたいと思いませんか」

 醸造酒から純米酒に乗り換えた津村が、手酌をしながら説明する。

 そう言われればそんな気がしないでもない。俺だってぶっ殺してやりたいと思った程なのだから。

「けど、今回の手口はさくらが彼等から受けた行為を踏襲しています。河合はさくらの衣服をナイフで切り裂いた。だから電車で女性のコートを切り裂き痴漢行為を行ったように仕向けられた。結果、役所を馘首になった。久留米はさくらに薬物を使用して無理やり犯した。だから今回、薬物所持で逮捕されるように仕向けられたんです。今回の事件で社会的に抹殺されたも同然です。それに会社まで乗っ取られた」

 さっと表面を炙った程度の鶏のササミに山葵をのせて、口に入れながら近藤が言う。

「では、田上千恵はどうです。あんな破廉恥な映像を流され、それを口実に離婚されても、本人はケロッとしているそうじゃないですか。逆にタレント事務所からスカウトが殺到しているとか」

 関鯖の刺身を口に頬張りながら津村が返す。

「だからそれは、今の日本が平和すぎて、感覚が狂ってるんですよ。昔なら恥ずかしくて世間に顔向けできない事態なのに、一躍、時の人としてもてはやされるんですから。仕掛けたほうも狙いが外れたと、悔しがっているんじゃないでしょうか」

 その言葉が耳に届いていないのか、津村は鯖の刺身に夢中になって箸を動かしている。

「聞いてます? 津村さん」

「あ、悪い悪い。コンさんも食べなさいよ。さすが関鯖です。脂が乗っていて美味いこと」

 仕方なく近藤は一旦会話を中断し、飲み食いに集中する事にした。こんなときの津村は何を言っても無駄だ。生返事は打つものの、その実、食べ物に夢中で、人の話など聞いちゃあいないのだから。

 関鯖を津村にすべて平らげられる前に近藤も箸をつける。

「旨い、これは確かにうまいですね」

「でしょ、だから言ったじゃないですか。なにせ関鯖ですから」

 目尻を下げてそう言う津村は、まるで自分が鯖を釣って来たような口振りである。そんな津村がふと真顔に戻る。

「コンさんが主張するように確かに復讐に見えます。しかし私には、犯人が私恨を晴らす事を目的としていないように思われます。何と言えば良いのか……そう、まるで彼らの非道徳な行状を世間に訴えているように思えます」

 ポツリと洩らすように喋る津村の顔を思わず近藤は見詰める。

「だからといって、そんな事を仕向ける真意は測りかねますが……しかし何となくすっきりしないのです」そう言うと津村は杯をあおった。


2008年 2月15日

 この日近藤が自宅を出た時、携帯電話の着信音が鳴る。坂上刑事からだ。

<コンさん大変です。田上が死体で発見されました>

「何だと、遂に犠牲者が出てしまったか。それで犯行現場は」

<新宿西口のセンチュリーパークホテルです。通報を受けて我々も急行しています>

「判った、俺も直ぐに向かう」

 やはり危惧していた事が現実に起こってしまった。昨晩、津村は怨恨では無いように思うと話していたが、結局殺人事件に発展してしまったではないか。近藤は舌打ちせずにはいられなかった。

       

 急いで現場に駆けつけた近藤の姿を見つけた坂上が報告してくる。

「扼殺です。第一発見者はフロントマンと客室係の女性です」

目線の先には、ホテルの制服姿の中年の女性と若い男性が、到着したばかりの機捜(機動捜査隊)の連中に事情聴取されていた。二人とも顔面蒼白なのが離れていても判る。

「奴さん達、もう出張ってきたのか」

「ええ、一応所轄の顔は立ててくれていますが、彼等の指揮下に置かれているようなもんです。その前に判明している事実ですが……」坂上が要領よく報告する。

 チェック・アウト時間を過ぎても手続きがされていないので内線をしたが誰も出ない。不審に思ったフロントが客室係と様子を見るため部屋に向かった。ドアにドント・ディスターブが表示されていたが、マスター・キーで鍵を開け中に入った二人が見たのは、ベッドに突っ伏した女性の死体であった。

 予約は男性名でネットから申し込みがされており、チェック・インには本人と思われる男性が現れ鍵を受け取った。

 フロントマンの証言では、身長百八十センチ前後、服装は、茶のツイードジャケットにモスグリーンのタートルネックセーターといった英国紳士のようなスタイル。ハンチングを目深に被っていたため人相ははっきりと思い出せないとの事であった。

鑑識からは、死因は扼殺、厄痕から加害者は長身の男性と考えられる、但し手袋を嵌めていたのか指紋は検出されていない事、又、死後約十時間経過している事などが報告された。

「遺留品は」

「大半はガイシャの物なんです。装飾品はネックレス、ブレスレット、指輪、時計、アンクレット。ハンドバッグとその中には財布、手帳、化粧ポーチ……ただ身分を証明するものは見当たりません。おそらく身元判明を遅らせるためにホシが抜き取ったと思われます。物取りの犯行では有りません。財布の中には諭吉さんが十三枚残っていますし、バッグや装飾品は合計するとン百万、いや一千万は下らないかも。バッグはエルメスのバーキン、時計はカルティエのタンクアメリカン、アクセサリー類はティファニー、ブルガリ。いやはや高級ブランドの見本市って感じです。その他はテーブルに二つのグラス、灰皿には煙草の吸殻が残されていました。それと、毛髪数本、現場のベッドの下に小さな金属片が落ちていたそうです。直径ニミリ程度の円形の金属だということです。先程、部屋を予約した男性の足取りの手配がされたところです。この様子だと帳場が立つ気配です。そこで地取り班からの報告や、鑑識からも詳しい報告が有ると思います。現状ではこんな程度です」

「どうせホテルへの記帳は嘘っぱちだろうが名前は」

「富有汰仁人(ふゆうたにと)となっています。何だかヘンテコな名前ですね」

「くそ、ふざけた野郎だ」

「え……」

「フーダニット。犯人は誰だ、だろ。警察を舐めてやがる」近藤は苦々しく呟いた。

「兎に角、俺たちは堀田の事情聴取に行くぞ。本店(警視庁捜査一課)が乗り出す前でないと勝手には動けんからな」

 いつの間にか、顔見知りの機捜隊員が横で話を聞いている。松下というベテラン刑事だ。

「コンさん。ガイシャの心当たりが有るのか? どう見ても金持ちのお嬢様には見えねえが、相当リッチなお姉ちゃんだ。派手さから思いつくのは芸能関係、或いはお水か風俗ってとこか」

「いや、リッチな主婦だ。別件でちょいと関わりがあってな。まあ、そうでなくとも今マスコミを賑わせているちょっとした有名人だぜ。知らないか、名前は田上千恵、離婚した元の亭主が堀田という実業家だ。そっちは俺たちに任せてくれ。身元確認のついでに聞いてみたい事もあるんだ。後の割り振りは任せる」

 言い終わらないうちに近藤は現場を飛び出した。慌てて坂上が後を追う。

                 

  その日の夕刻に捜査本部会議が開かれた。最初は儀礼的な、警視庁捜査一課の係長から管理官及び主任の紹介から始まった。

続いて所轄刑事課長から、事件の概要の詳細説明がされる。ホワイトボードにはホテルの部屋の見取り図や被害者の名前、年齢等、これまでに判明した事項が記されており、係長がそれらを指し示しながら説明を行う。後方の席でそれらの報告に聞き耳をたてていたが、ほとんど坂上から聞いた内容だなと近藤は思った。

 新たに判った事は、解剖の結果死後十数時間が経過している事、被害者が抵抗したために衣服が乱れてはいたものの、暴行の跡は見られない事、栓を抜いたシャンパンとグラスが二つ残されていたが、片方は指紋が拭い去られている事、灰皿の吸殻は被害者が吸ったと思われる事。何れにしろホシは一緒に飲食を行う程度の親しい間柄と思われる。

 次に地取り班からの報告に移った。目撃者の聞き取りについてはホテルの従業員三名からの情報が発表された。

 最初にフロントマンからの証言である。午後七時半頃、背の高い男性が「予約をした富有だが」とだけ言って、鍵を受け取ると真直ぐエレベーターホールに向かったと言う。服装、背格好などは事前に伝え聞いたとおりであった。

 又被害者である田上千恵に関しては、ドアマンが証言を行っている。午後九時頃、女性がタクシーを乗りつけてホテルにやってきた。

 ドアマンがタクシーのドアを支え、女性を出迎えた。

 ハーフ丈の毛皮のコート、インナーには薄手の黒いスエット。下半身はミニスカートにピンヒールのパンプスといういでたちであった(これはガイシャの発見時と合致している)。顔には大きめのサングラスをかけていた。

 ドアマンはその服装や態度からお忍びの有名人か芸能人だろうと思ったという。だから記憶に強く残ったらしい。どこかで見たことが有ると感じたドアマンは、事件後被害者が田上千恵と知って、本人に間違いないと証言をした。

 三人目の証言はそのフロアを担当する客室係の女性であった。八時二十分に男性からルームサービスにシャンパンと二人分のグラス、チーズ、キャビアなどの料理のオーダーが入った。

 ボーイと共にオーダーの品を届けたのが八時五十分過ぎ。男性は料理ワゴンを室内に運ばせず、「後は自分でやるから」と告げ、ドア口で料理を受け取ったという。従って女性の顔は見ていない。その後午前零時過ぎに、男性が部屋を出て行く処を目撃している。煙草か何かを買いにでも行くのかなと思ったらしい。

 これは有力な証言である。死亡推定時刻から考えると、この時点で男性は逃走したと考えられる。犯行は女性が部屋に向かった午後九時から零時までの三時間の間に行われた事が明白であった。

 次の報告は被害者の交友関係についてである。亭主の堀田から家を追い出された被害者は、一時期友人の家に転がり込んだ。その友人である各務京子とは遊び仲間で、京子の行きつけのホストクラブに連れて行って以来、田上千恵も足繁く通うようになったという。お気に入りの慎也というホストをいつも指名していたらしい。大学の同窓会が行われた当日も、その後ホストクラブへ行った事やその後に例の映像に撮られた一件があったと話していたという。

 次に、元亭主の堀田武史に聞き込みを行った近藤が報告する。

身元確認を行い、被害者が千恵本人に間違い無い事。そして、千恵が他殺体で発見されたと聞かされ、一瞬さすがに驚いた様子だった事。千恵が家を出て行って以来、一度も会ったことが無ければ、連絡も無く、何処に住んでいるかさえ知らない。昨日の夜の所在についてはプライベートな事なので話したくないと答えた事。

但し、と断りながら近藤は河合や久留米の事件、更に田崎由里について調査し判明した事実を報告する。

「すると、田崎由里にとっては姉を自殺に追い込んだ彼等への復讐という訳か。堀田はそれに協力しつつ自身の目的である千恵との離婚に持ち込んだと……。そしてそれが仕組まれた事だったと気付いた千恵と堀田の間で諍いが有ったのでは無いか、そう言いたいのだな」

 係長が近藤に顔を向ける。

「そうです。そして次は村中が狙われるはずです。早く堀田と田崎由里の身柄を拘束しなければ……」

「まあ、待て。まだ堀田がホンボシと決まった訳ではないだろう」管理官はあくまで慎重だ。

「その通りです。田上殺しが堀田によるものだとは私も考えていません。しかし、このままでは村中に――」

「ちょっと待て。今は田上千恵殺しの捜査をしておるんだ。村中などという男は関係ないだろ。論点がずれている。次、鑑識。報告してくれ」係長が強引に遮る。所轄は余計な口を挟むなと言わんばかりだ。

 続いて行われた鑑識の報告で、鮮明な犯人像が浮かび上がってきた。

身長百八十センチ前後、扼痕から犯人は左利きに間違いないということが判明したのだ。又、現場に残された毛髪の分析を現在行っており、明日には結果が報告できるという。更に現場に落ちていた金属片と見られた円形の物質は、ライターの発火石と分析報告された。

 鑑識の報告が進むに連れて会議場がどよめきだした。犯人像が堀田に酷似していたからだ。

 鑑識の報告が終わっても係長は管理官、主任と顔を寄せ合い、ぼそぼそと打ち合わせをしている。暫くして意見が纏まったようだ。係長が全員の方に向き直る。

「皆も考えるように堀田がホンボシの線が濃厚だ。奴は左利きだ。その上体型も犯人像に酷似している」

「待って下さい、先刻も申し上げましたが堀田がホンボシとは思えません」

 近藤が口を挟んだ。

「君の意見を聞いてはいない、余計な口を挟むな。それでと……今後の方針だが、堀田を任意でしょっぴく。毛髪を採取し現場に残されたそれと合致するかDNA鑑定も依頼する。それでは今後の編成を発表する。一斑はホテルの従業員に堀田の面通しをしてもらえ。二班は慎也というホストにあごとり(聞き込み)三班は――」

 係長の声を聞きながら、坂上が隣で憮然としている近藤に囁く。

「田上千恵の殺害は、堀田がホンボシで決まったようなもんでしょ、コンさんは何が引っ掛かっているんです?」

 坂上の問いかけに近藤は唸った。

「何かすっきりしないものが残るんだ」

「というと」

「今までの事件は、間違いなく堀田と田崎由里による彼らへの仕返しだ。それは間違いないだろう。多分、姉を妊娠させ自殺へと追い込んだ奴らへのリベンジを画策する田崎由里と、有利に離婚を進めたい堀田が協力して事を起こしたと思う。だが、そこには奴らの人生を狂わせようという意図は見えても、命まで奪おうとはしていない」

「それにまだ村中も残っていますしね」

「その通りだ。一番怨みに思われているのはリーダー格の村中だろうからな。そいつに復讐を行わずに事件が終息する事は無い。次は村中を狙う可能性が高い。堀田は任意で引っ張って身柄を拘束できたとしても、未だに田崎由里の所在が掴めない。彼女が何を企んでいるのか? そいつが気がかりだ」

近藤が思案の後、決心したように言う。

「よし、いずれにしろ俺達は田崎由里の線を追う。そのために明日から村中家のシキテン(見張る)だ」

「我々は地取り班です。そんな勝手な行動はまずいんじゃ無いですか」

「いやならお前は来なくていい」

「誰も嫌だなんて……」ぶつくさ言いつつ坂上は近藤の後を追っかけた。


2008年 2月16日

 桜田沙紀は昼過ぎに村中家を訪れていた。今日は社会適応力の訓練という名目で村中家の一人娘である恵を外に連れ出す日であった。さあ、いよいよ最後の時が来た。玄関の前に立ち呼び鈴を押す。

「はい、先生お待ちしておりました」

 支度を終えた恵と、見送りのために母親の敏江が姿を現した。

「それじゃ一時間程度、恵ちゃんをお預りします」

 沙紀がそう声を掛けても敏江は不安げに我が娘を見詰める。

「大丈夫よ、ママ。大好きな沙紀先生が一緒だもの、恵は直に帰ってくるから、ね。じゃあ、行ってきます」

 沙紀に手を引かれながら恵は敏江にバイバイと手を振った。

「ねえ、恵ちゃん、渋谷で無くてどこか違う場所に行こうか」

「え、何処へ行くの」

「遊園地とかさ。この前、恵ちゃん言っていたでしょ。お友達は皆、パパやママとお出かけするのに、私は受験の勉強ばかりだって」

「先生、遊びに連れて行ってくれるの? わーい」

 二人仲良く手を繋ぎながら駅に向かって歩いていく。

暫くして村中家の玄関ドアが開き、春雄が顔を出す。遠ざかる沙紀と恵の姿を見失わないように距離をおいて尾行しだした。 更にその後方、覆面パトカーで張り込みをしていた近藤は、ハンドルを握る坂上に話し掛けた。

「おっ、村中が尾行を始めたぞ。奴は彼女の正体に気づいてたんだ。俺も歩いて尾行する。車は駅のほうへ先回りしてくれ。じゃあな、頼んだぞ」

 近藤は車から降り立ち、ゆっくりと歩き出した。

駅まで歩いて十五分程度の道のりで有る。目標の二人は駅前の商業地を抜ける処だ。その後ろを携帯で通話をしながら、村中がつけて行く。恐らく仲間と頻繁に連絡を取り合っているのだろう。と言う事は河合もどこかで待ち伏せしている可能性が高い。それにしても妙な成り行きになってきたものだと近藤は考える。

 目標の二人が駅前ロータリーに出た。コインパーキングに駐車してあった、白いレクサスLSに乗り込む。すぐに車はロータリーから玉川通りへと続く一般道へと走り去る。

「しまった」近藤は大急ぎでロータリーへと走りだす。村中が大慌てで黒いセダンに乗る姿を目の端で追いながら、先回りしていた覆面パトに飛び乗る。

「どうします、非常線を張りますか」

「いや、待て。彼等はまだ何もしちゃあいない。いいか、最初の白いレクサスを黒いグロリアが追いかけている。その後を追尾しろ。それと応援要請だけはしておこう」

 そう指示すると、近藤は無線連絡を始めた。

 レクサスLSは246号線に出ず、そのまま南下して行く。南武線の溝口付近で右折、住宅街に向かっていく。

「何処へ行くつもりでしょうか」

「さあな、このあたりにアジトを用意しているのかも知れん。或いは尾行に気が付き、撒こうとしているのか……」

「前の車には村中の他に運転手が乗っているようですね」

「間違いない、河合だ。そしてレクサスを運転している女性、桜田沙紀こそ田崎さくらの妹、田崎由里だ。十年前の役者が揃ったってことだな」

 そう話している間にも、レクサスは住宅街の狭い生活道路を右に、左に抜けていく。

「一体ここは何処なんだ。今何処を走っているか判るか」

 近藤が癇癪を起こす。新宿ならどんな抜け道も諳んじているが、どうも勝手が違う。その事が近藤を苛々させる。

「今、厚木街道と交差しました。宮崎台近辺でしょう」

「それって何処だ」

「田園都市線の駅です。おっ、又右折します」

 宮前平小学校、宮前平中学校を通過して、間もなく広い道路に出て、更に右折する。目の前には東名高速の川崎インターが出現した。

「東名に乗るつもりか」

「そのようですね。左にウインカーを出しましたから」

 レクサスはETCを装着しているのだろう。料金所もノンストップで通過していく。前のグロリアが一般ゲートへと向かう。

「どうします、グロリアに付きますか」

「いや、構わん。先に行こう。奴等はどうせ必死で追いかけてくるだろう。こんな事なら交機(交通機動隊)のGTRを手配しておけば良かったな。この年代物のセドリックじゃあ、追いつけなくなるからな。見ろ、もうレクサスは追い越し車線をすっ飛んでいく」

 相手はV8の4.6リッター、385psだ。敵いっこ無い。遅れをとったグロリアもターボ付きのV6のエンジンを積んでいる。確か280psは出るはずだ。

「そら見ろ、ぐんぐん追いついてきたぞ」

近藤が後ろを振り返りながら怒鳴る。

 セドリックにぴったりと張り付いたグロリアが二回、三回とパッシングをする。

「先に行かせてやれ」

「糞、こっちだって百五十キロは出ていますよ。こんな場合じゃ無かったら有無を言わせず、スピード違反で、とっ捕まてやる処なのに」

 左に寄ったセドリックの右後ろを掠めるように、グロリアがすっ飛んでいく。

               

「大丈夫かな、車酔いはしない」レクサスのハンドルを握る沙紀が恵に尋ねる。さすがに高級車だけあって、スピードを上げても車内は至って静かだ。

「うん、大丈夫。恵、ドライブ大好き。でも大丈夫かな……ママに怒られちゃうかな」

「先生が電話するから大丈夫よ、心配しないで」

「有難う、先生。うちのママも先生みたく優しいと良いんだけどな。いつもガミガミ言ってばかり」

「そんな事言ってはいけないわ。それは、恵ちゃんの事を思って言ってるのよ」

「ううん、違うの。ママやパパは、ちっとも私の事なんか考えてない。それで、近所の子供に勝つ事ばかり考えているの。本当はね、先生。私は裕ちゃんと同じ幼稚園に行きたいの」

「裕ちゃんって……お友達のこと」沙紀が尋ねる。

「そう、片桐裕子ちゃん。一番の仲良しなの」 にっこりと微笑む。

まだあどけない笑顔がたまらなく可愛い。その様子を見ながら、沙紀は思う。他人の子がこんなに可愛いのだ、若しさくらが生きていて、子供を産んでいればもっと愛しい感情で満ち溢れるのだろうか? 考えまいとしても、思考がやはり姉の思い出に向かう。


1998年12月25日

 警察からさくらの死を知らせる連絡を受け、思いもよらない突然の事に茫然自失となる両親を励まし、一緒に上京しようとした由里の元に電話が掛かってきた。

電話の主は渡米前にさくらと結婚の約束を交わした野坂からであった。

「やあ、しばらく。さくらがそちらに帰ってるかと思って……いくら電話しても繋がらないんだ」

 そう暢気に喋る野坂に由里は、たった今警察から連絡が入った事を告げた。

野坂は冬休みに入り、丁度帰国しようとしていた処だと言い、直ぐに帰国すると

電話を切った。

日本に降り立った野坂は、成田からその足で新宿へと直行して、兵庫から駆けつけ身元確認の後、事情聴取されていた両親と由里に合流したのだった。

 私立大学の教授であるさくらの父が、娘の婚約者の姿を認め椅子から腰を上げる。

「野坂君、さくらが……」後は言葉にならない。

その傍に寄り添っている母親はずっと顔をハンカチで覆いうなだれていた。

無理も無い、二十年余、才色兼備の自慢の姉に育て上げたのだ、しかも野坂との婚約も控えて幸せの絶頂のはずだった。

由里は野坂に近づいて、そっと囁いた。

「良太さん、ちょっといいですか」

 由里は、担当した警官から、ある事を聞かされていた。両親には聞かせたくない話だ。悲しみに沈む親をこれ以上苦しめたくは無かった。

 そっと両親の傍を離れ、野坂と共に廊下に出る。

「先程、遺体確認を済ませたの。間違い無く姉でした。遺体は検死の必要が有るというので、明日引き取りになるそうです」

「そうか、きょうは東京に泊まりだね。どこかアテは有るの?」

「ええ、大丈夫。父が学会で上京した際の常宿にしているホテルを手配したわ。それより良太さん、姉は妊娠していたらしいの」

「え、今何て言った。妊娠」

 野坂は務めて冷静な口調で話す由里に尋ね直す。

「ええ、そう。それも今詳しく調べられているの」

「どういう事だ、彼女には俺以外に付き合っている男性がいたとでも」

「私も驚いた、まさか姉が……そんなはずは無い。姉を信じて」

「勿論そんな事は絶対無いと信じている。妊娠は間違いじゃ無いのか?」

「両親には話して無いの、刑事さんから私が直接聞いたの。父も母もあんな状態でしょ。こんな話し出来無い……」 最後は声が震え大粒の涙が頬を伝う。

今まで気丈に振る舞っていたのだが、野坂が来てくれた安心感から、抑えていた感情が一気に溢れ出す。野坂はただ黙って由里の背中を抱いた。


 遺体確認を行った翌日、家族はさくらの亡骸と共に兵庫へと帰った。野坂は一旦自宅に戻り、腰を落ち着ける間もなく兵庫へ来た。

  告別式の準備などを手伝うため、田崎家で葬儀社の社員と打ち合わせを行ったり忙しく立ち働く野坂。一段落着いたのを見計らって由里は彼にパソコンのメールを見せた。

「家に帰ってきたら、私宛に姉からメールが来ていたの。日付は一昨日になっている。きっと自殺直前にメールしていたのね。三日に一度位しかメールチェックしない私が悪いんだわ。私がもっと早く気付いていれば止められたかもしれない。きっと悩み苦しむ胸のうちを私にだけは判って欲しかった、それなのに……私は何も気付かずにいた」

自分を責めながら、野坂にパソコンモニターを見せる。

「俺が読んでも良いの。じゃ、失礼するよ」

 メールの日付を見て野坂が由里に言う。

「由里ちゃん、気休めにもならないだろうけど、発信日時を見る限り、さくらがこのメールを送ったのは自殺を図る直前だ。由里ちゃんが直ぐに見ていたとしても間に合わなかったと思うよ」

そう慰め、メールを読む。読み進むうちに野坂の顔色が変わっていった。そこにはさくらが自殺に至る原因が書かれて有った。

 さくらがどうして自ら命を絶つほどに思い詰めていたのか、その真相を知り野坂は愕然とした様子だった。大切な恋人を一人残して米国に渡った自分の行動を悔やんだ。もし俺がいればこんな事にはならなかっただろう、かわいそうに彼女は誰にも相談出来なくて、一人悩み続けたのだ。畜生、どうしてこんな事になってしまったんだ。野坂は由里にそんな感情をぶつけた。

「由里ちゃん、俺は留学を中止する。奴らをこのままにはしておかない。告発してやる」

「駄目よ、良太さん、気持ちは判るわ。私だって同じ、凄く悔しい。でも両親をこれ以上辛い目にあわせたくない。そっとしておいて欲しいの。それに良太さんにとっても、MBAの資格取得が先決よ。でないとあんな奴らのために貴方の人生を棒に振る事になる」

「しかし――」

「裁判となると、姉の恥をさらす事にもなるし」

 言うとおりかも知れないと思い始めたのだろう、漸く野坂は落ち着きを取り戻した。今の感情で動く事は得策ではない。冷静に考える必要は有るかもしれないと……しかし傍目に見ても、怒りと悔しさを抑えきれずにいる様子がありありと見られた。

 思っても見ない娘の自殺。そんな現実を目の当たりにした両親のショックは大きかった。私立大学の教授を定年で退職した父親は生きる気力を失い、娘の結婚を心待ちにしていた母親は悲嘆にくれる毎日であった。

時間が経過すれば悲しみもある程度癒されると思っていたが、実際は逆であった。気持ちの整理と裏腹に、ふとした瞬間姉の死が抑えようのない悲しみとなって突

然溢れ出す。自分でさえそうなのだから、両親の悲しみはいかばかりであろうかと由里は思った。

 そして彼女が大学を卒業し商社に勤務し始めた頃から、母親は痴呆の兆しが見え始めた。

由里を姉と間違えたり、食事を四人分用意したりするのだ。娘の死を受け入れられずに、精神が現実逃避を始めたのだ。症状は急激に進行し、娘を捜して夜の街を徘徊するようになった。

 由里が日中勤めに出ている間は母の面倒を父が見ていたが、そうこうするうちに、今度は父が過労で倒れた。

 姉の死がじわじわと残された家族の人生を狂わせていった。

会社勤めを続けながら父の看病を行い、更に母の面倒を見る事は不可能であった。悩みぬいた末、由里は母を施設に預ける事にした。

 他人の世話にならず、自分ひとりで頑張る。そんな気持ちだけでは、もうどうにも出来ない限界に来ていた。その時点で、会社を退職する事も考えた。しかし、現在の唯一の収入源を断つ訳にはいかなかった。どう考えても、女手一つで勤めながら両親の面倒を見る事は、到底無理であった。そして昨年、父は肺炎を併発してあっけなく黄泉へと旅立ってしまった。

 由里は父の死を期に、上京をする決心をした。それはずっと思いつめていた事を自分の手で解決するためであった。そして、翌日会社に退職願を提出したのだった。


2007年9月29日

 残暑厳しい大阪では、昨夜から雨が降り続いていた。

 関東地方は雨が降ると気温が下がるが、関西では逆に蒸し暑さが増し、不快指数も急激に上昇する。

 中ノ島近くに聳え立つ総合商社AK商事の最上階に位置する支社長室で、由里は、眼下の雨に煙る御堂筋に整然と並ぶ銀杏並木をしばし見つめていた。真直ぐに伸びた南方面への一方通行道路をタクシーや商用車が水しぶきを上げて走っていく。

支社長の安藤とデスクを挟んで向かい合ったまま、先刻からずっと沈黙が続いている。ここが我慢だ、この気まずい雰囲気に耐え切れなくなった方が、妥協を口にしなければならなくなる。

「では、どうあっても決心は固いと言うのだね。今ならまだ撤回出来るが……」 とうとう根負けした安藤が困惑気味に尋ねる。

国立の外語大学を卒業後、AK商事に入社した由里は、その持ち前の語学力と明敏な判断力で、支社長秘書としてめきめき頭角を現した。英文契約書の草案を作成させても完璧に成し遂げる。

「国内の商法のみならず、英米の法律もこっそり勉強しているらしい」そんな噂が安藤の耳にも届いていた。普通は中々そこまではしない。基本案は法務部が作成し、秘書はワープロに起こすだけだ。従って、契約内容まで精通していないがためのミスや抜けが起こるものなのであるが、由里に限ってはそんなことは一度も無かった。

外国の取引先のトップが来日する際には、その人となりを事前調査し、宿泊先から夜の接待場所の設定まで、細かな気配りの行き届いたスケジューリングを立案した。感激した得意先のトップから、自分の息子の嫁にしたいと申し出をされた事も、一度や二度では無い。

そんな仕事振りに、三年経った今では秘書課の筆頭として、無くてはならない存在となっている。

 それだけに、三ヶ月前家庭の都合で、退職したいと彼女が辞表を提出してきた時、安藤は慰留に努め懐柔を試みた。

 こちらからは、余り触れたくない話題でもあり、そのまま素っ呆けていたのだが、さすがに本人も痺れを切らしたのか、今月でけじめを付けたいと申し出てきたのであった。

「支社長や部長のお心遣いには大変感謝しております。ただ、三ヶ月前に辞表は提出しておりますし、引継ぎも済ませました。これ以上甘えるわけにも行きません。誠に勝手を申しますが本日を持ちまして出社は最後とさせて頂きます。有給休暇が少し残っておりますがそれは返上させて頂きます。本当に有難うございました」

 それでも尚、支社長は未練を残しこう言った。

「おいおい、有給休暇はきちんと消化すれば良い。出社は本日限りでも、退職日は来月末日で処理するよう人事には伝えてある。君に有給休暇も取らせずに、退職させる訳には行かない。そんな仕打ちをAK商事として出来る訳が無いじゃないか。それと……お母さんの事が落ち着いたら、戻って来ないか。いつでも、迎え入れるようにしておくが」

 由里は、そんな上司に微笑で答えた。

「有難うございます。お心遣いに感謝いたします。その節はどうか宜しくお願いいたします。本当にいろいろとお世話になりました。支社長や部長と一緒にお仕事が出来た事を光栄に思っております。どうか健康に留意されて、いつまでもお元気でご活躍される事をお祈りしております。それでは、失礼いたします」 そう言って由里は支社長室を辞した。

自分のデスクに戻り、あらかた整理を終えたダンボールに封をしながら、由里は自分に言い聞かせるように気持ちの整理をする。これで今までの私とは決別だ。明日には上京をして、計画を実行に移す。目的を完遂するまでは関西には戻って来ないつもりであった。

 会社を退職した翌日、由里は駅前の不動産屋を訪れた。懇意にしている不動産屋の主人に、自宅の管理を頼むためであった。

「無理を言いますが、宜しくお願いいたします」

「何を言いはりますねん。田崎先生には、随分とお世話になりよりました。そのお嬢さんの頼みやさかい、お安い御用でおます。そやけど勿体無いねえ。あのお屋敷やったら、借りたいいう人は仰山おりますで。どないだす、貸す気はおまへんか」

「ええ、私にとっても思い出が多く残る家ですから。東京での用事さえ済めば、又帰ってくるつもりですので」

「さよか。ほな、その話はこれでおしまい。気にせんとって下さい。お嬢さんが留守の間、あんじょうしときまっさかい」

 気の良い不動産屋の主人に幾度も頭を下げ、由里はその足で母に別れを告げるため、介護施設へと向かった。 

 母を預けている施設は、六甲の中腹、小高い丘に建てられている。各部屋の窓からは、神戸の港が見下ろせ、その煌く海面と真っ青な空が、素晴らしい眺望を提供していた。又、施設の庭も広く、温暖な季節には種々の草花が色とりどりに咲きほこり、その世話や散歩にと時を過ごせる。

 そんな環境が気に入り、由里はこの施設に母を預ける決心をしたのだった。

「ここ一週間ばかりは、按配がええみたいですわ。気持ちも穏やかで、こちらの言う事も判って貰えてるみたいですし。夜も用足しに起きられる程度で、良う眠れるようです」

 ケア・マネージャーの女性が、最近の状態を報告してくれる。

 廊下を母がヘルパーさんに支えられながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。何やら大きな人形を抱きかかえている。

「あれは」 眉をひそめて由里が尋ねる。

「あの人形を自分の娘やて言うの。最初は現実を認識させようとしたんやけど、そうすればするほど暴れたり徘徊もひどうなって、私たちもどうしてええものか、悩んでいたんやけど……。あの人形を与えてからは、精神的にも落ち着きだして、徘徊もしやへんようなったんですよ」

 由里は母に近づいて話しかける。

「お母さん、私は今から東京に行くわ。当分ここにも来られないけど、元気でね。ヘルパーさんの言うことを良く聞くのよ」

 一瞬、人形を取り上げられるのではないかと、身を硬くして怯える様子を見せた母は、由里の話を理解したのかどうなのか、人形を強く抱きしめながら笑顔で大きく頷いた。

 そんな母の様子に、由里は胸が締め付けられる思いがした。

「お母さん、一人にさせて悪いけど、私にはどうしてもやらなければならないことがあるの。そして真実を暴き出してやる。それだけは絶対にやり遂げたいの。だからそれまで待っていてね。お母さん」 そう胸の中で呟く。

 そうして決意を新たにした由里は、最後に母の手を強く握り締めて施設を後にしたのだった。


2008年2月16日

 由里がステアリングを握るレクサスは、東名高速道をひた走る。海老名を過ぎ足柄を通過、車は御殿場で高速道路を離れ、国道13号線を千石原へと向かう。

「どこへ行くつもりなのかな?」 いい加減追跡劇にも飽き始めた様子の河合が、村中に話しかける。

「さあな、だが高速を降りたんだ。目的地はもうすぐだろう」 前方の車から目を放さずに村中が答える。

 山側へとつながる県道を二十分も走っただろうか。突然車は右折し細い道へと入っていく。未舗装のジャリ道ではあるが、多くの車に踏みしめられデコボコも無く平坦な道である。余り近づくと感づかれると考え、河合はスピードを落として前方の車と距離をおく。

暫くすると一群の建物が現れた。案内板にはリゾートヴィラと書かれている。その中の一角に車が停車した。河合はアクセルを踏みつけレクサス目掛けて突進する。

 LSのドアが開き、運転席から沙紀が、そして助手席から恵が降りる。その一瞬の隙を逃さず、グロリアが助手席側に突っ込んでくる。

河合が飛び降りるなり、恵を抱きかかえるように保護する。助手席からも村中が降り、沙紀目掛けて突進してくる。村中と沙紀が暫く揉みあっていたが、遂に村中が沙紀の腕を捻りあげる。

「恵をこんな場所まで連れ出して、一体どういうつもりだ」

「村中、止せよ。ここじゃまずい」

「そうだな。部屋でたっぷりお仕置きをしてやる。さあ、部屋に案内してもらおうか」

「パパ、先生をいじめちゃ駄目」

 それまで何が起こったのか判らず、ただ目前で起きることに目を丸くして唖然と見送っていた恵が村中に訴える。

「大丈夫だよ、メグ。疲れたろう、お部屋で一休みしよう」

  恵を抱きかかえた河合に村中が目で合図を送る。河合が建物の中へ入り、後に続けと村中が沙紀の背中を乱暴に突いた。 

 部屋に入るなり村中は恵を寝室に連れて行き、大人しくテレビを見ているように言いつけた。

 村中がリビングに戻ると、河合が沙紀を後ろ手に紐で縛っている処であった。

「さあ、ゆっくり聞かせてもらおうか? お前は桜田沙紀なんて名前じゃない。田崎さくらの妹の由里だろ。こいつは役所勤務なんだ。直ぐに西宮市役所の戸籍課に問い合わせて判明したのさ」 村中が河合のほうに顎をしゃくりながら話す。

「お前のために俺の一生は台無しだ。濡れ衣を着せられ、県庁もクビになってしまった。どうしてくれんだよ」

 由里の顔を見て怒りが込み上げてきたのだろう。河合が彼女の胸倉を摑み強引に揺さぶる。

「何よ、あんたたちこそ姉を玩具にして……お陰で私たち家族は滅茶苦茶にされたのよ」

 言い返す由里の内部に不意に熱いものが込み上げてくる。こんな連中の前で涙を見せまい、そう思っても声が震えるのを抑えられない。

「お前一人の仕業じゃないだろ。後ろで糸を引いているのは誰だ。堀田か、奴が千恵を殺したんだろ。任意とはいえ警察にしょっぴかれたんだからな」

「何を言ってるのか判らないわ。堀田って誰よ」

「とぼけるな。千恵は何か感づいた様子だった。それを確かめるために誰かに会いに行ったんだ。そして殺された。考えられるのは堀田しかいない。奴は離婚したがっていたし、田崎さくらの復讐を考えたとしてもおかしくは無い。そしてお前と強力して俺たちにリベンジをした。俺の娘を誘拐して、これからどうするつもりだったんだ。まさか年端も行かぬ子を殺そうってのか」

「そんな貴方達のような卑劣な事、出来る訳ないでしょ。本気で誘拐するつもりは無いわ。もうすぐマスコミがやってくる。福井さんのツテで何社かに過去の貴方達の悪行と姉の死の真相を綴った文書を送りつけてあるわ。ここで記者会見を開く手はずになっている。観念しなさい」

「こんな状態で何を偉そうに捲くし立てているんだよ。お前も姉貴と同じ目にあわせて二度とそんな口をきけなくしてやる」

 目をぎらつかせた村中が由里の胸元に手をかけ、両手で思い切りブラウスを左右に引きちぎる。   

「やめて」

「喚け。どうせ今はシーズンオフで周りには誰もいないぜ。さあ、覚悟するんだな。おい、河合。足を開いて押さえつけろ」

 河合にそう指示をして、村中は由里の身体の上にのしかかる。

 ああ、もう駄目。許して、姉さん! 仇を取れないうえに、私まで同じ目に……悔しい。思い切りスカートをたくし上げられ、ショーツが引きちぎられる。

抵抗しようにも両手は縛られ、太腿は村中の両膝が全体重をかけて押さえつけている。間接が外れそうな程の激痛。両足首も河合の手により思い切り拡げられている。

 その時、ガタンと大きい音がしたかと思うと、数人の男性が部屋に雪崩れ込んできた。管理人からマスター・キーを借りてきた近藤が大声で怒鳴る。

「警察だ。止めろ、そこまでだ。全員大人しくしなさい」

「警察……違うんだ。この女がうちの娘を誘拐しようとしたんだ」

 村中が叫ぶ。その訴えを無視し、近藤は無線で協力を要請して駆けつけた地元の警官に、恵の保護と由里の身柄拘束を指示する。

「村中春雄に河合隆史だな。あんた達も同行してもらうよ」

 近藤の言葉に、警官に取り押さえられながらも、村中が噛み付くように怒鳴って反論する。

「何をする。俺はその娘の父親だ。何を勘違いしている」

「そうだよ、俺たちが何をしたんだ?」河合もがなりたてる。

「何をしたかって……今のはどう見ても婦女暴行未遂だ。それと田崎さくらに対する集団暴行容疑だ。勿論もう既に時効は成立しているだろうが、その事が今回の事件の引き金になっている事はあんた達も判っているだろ。だからこそ、こうして後をつけてきたんじゃないのか」近藤が一喝する。 

 別荘の玄関を出て近藤は驚いた。いつの間にやってきたのか、車寄せには新聞社やテレビ局の取材陣が大挙して押し寄せており、一斉にフラッシュを浴びせられたのである。


 その頃、東京地検特捜部は、大島建設に強制執行を行い、立ち入り検査及び、大量の帳簿類の押収を実施した。

 こちらでも新聞記者を筆頭に各テレビ局や報道陣が押しかけ、大島建設本社前はさながら、戦場のような殺気立った空気に覆われた。 居並ぶ報道陣のカメラや煌々と照らし出すライトの放列の中を、特捜部捜査班の面々が、粛々と書類や帳簿が詰まったダンボールを運び出す。 

 津村は、テレビの速報でその様子を見つめていた。

押収した膨大な資料や帳簿の中に、確実に上田知事の義弟の会社にリベートが渡った証拠が見つかるだろう。

 問題は与党の大物議員への贈賄の証拠だ。その人物は、これまでにも黒い噂が幾度も囁かれ、特捜部でもマークしていたが、確たる証拠が掴めず、逮捕に至っていない。それだけに、今度こそという思いが、特捜部全員に満ち溢れていた。

そんな雰囲気の中、テレビから視線を外した津村は窓際にゆっくりと歩を進めた。そして下界を見下ろしながら何事かを熱心に考え始めるのだった。


「新宿高層ホテル殺人事件」の捜査本部は、参考人として堀田武史やホストクラブのオーナーの事情聴取を行っていた。

 部屋には毛髪を茶褐色に染め、真っ白のスーツに紫のシャツを身につけた、ホスト・クラブのオーナーである新田剛志が、椅子に浅く腰を掛けて待っていた。

「やあ、わざわざお呼びたてして、申し訳ないです。新田さんですね? オーナーというんでもう少し年配の方を想像していたんですが……今お幾つになられます?」

「三十二歳。俺の身上調査じゃ無いんでしょ? お互い忙しいんだ。ストレートに行きましょうよ」

「じゃあ、単刀直入にお伺いしますか。田上千恵さんは店に良く来られていたんですか?」

「そう、もう半年位かなあ。最初はお京さんに連れられてやって来たんだ」

「お京というのは?」

「各務京子、古くからの常連さん。最近は千恵さんのほうが通いつめてたなあ」

「一月十五日も店に来てましたよね。慎也さんを指名してラストまでいたと聞いてますが?」

「あの夜は特にハイテンションだったなあ。それで慎也を持ち帰るって言い出して。勿論そんな事は出来ないんで慎也がお相手を見繕ったと聞いたけど」

「街にたむろしている不良外人だな。まあ、奴らはその辺で調達出来るだろう。しかし、撮影スタッフはそういう訳にはいかんだろう。前もって用意周到に準備していたんだろ? 何故だ?」

「千恵さんの趣味さ。女王様になって、男を侍らして遊ぶんだろ。近頃は、それだけじゃあ満足出来なくて、その行為を撮影して欲しいって言うから……」

「与太話もたいがいにしろ。じゃあ、どうしてそのプリントがT出版に流れたんだ? 元亭主の堀田が、出版社に持ち込んでいる事は調査済みだ。堀田はどこからそんなモノを手に入れたんだ? 説明してもらおうか」

「チッ! そこまで調べがついてんなら、俺に聞くまでもねえだろ」 

「そうはいかない。はっきりと証言してもらおう。誰が田上千恵と外人との行為を撮影しろと依頼したんだ?」

「判ったよ。言えば良いんだろ。堀田だよ。田上千恵の元旦那の堀田武史が仕組んだ事さ。これでいいんだろ、なあもう帰してくれよ。昨晩から一睡もしてねえんだぜ、よー、おい」

「そうかい、今夜はブタ箱でゆっくり休んでいけばいいさ」

「おい、ちょっと待てよ。糞ったれ!」

 喚く新田を警官に預け、溝口刑事は取り調べ室を飛び出した。


「もう一度聞くぞ、十四日の夜だ。堀田さんあんたどこに居たんだね? 正直に言わないとあんた、非常にまずい状況になるよ」

 ホストクラブ・オーナーである新田の証言を溝口から伝えられた刑事が、今までより一段と厳しい口調で堀田を問い詰める。

 そんな事は言われなくとも、充分判っている。アリバイが無いと言いたいんだろ? だが、それを言う訳にはいかない。

あの日は横浜のシティホテルに愛人の原島紀子と宿泊していた。バレンタインの甘美な夜を二人で思い切り愛し合っていたのだ。そんな事がマスコミに知れればまたもやスキャンダルにされてしまう。

俺の信用もガタ落ちとなり、順調に発展してきたビジネスもお仕舞いだ。堀田は心のうちでそう毒づいた。

「又だんまりかね。あんたには原島紀子という秘書がいるね。どうやら彼女を愛人にしているらしいじゃないか? あんたは妻と別れて愛人と一緒になりたかった。それで離婚の口実に被害者の映像を自らばら撒いた。それを知って逆上した被害者と言い争いになり遂には殺してしまった。そうじゃないのか?」

 刑事のその言葉に堀田はうろたえた。

 何だって、既に警察は俺と紀子の関係まで調べ上げたのか。ちょっと待てよ、だったら状況は変わる。もう隠す必要なんて無い。

「違う、違うんだ。あの夜、俺は原島紀子と横浜のホテルに泊まっていた。調べれば判る。支払いもカードで済ましたから直ぐに判るはずだ」

 その言葉を言い終わらないうちに、詰問していた刑事が、傍の若い刑事に顎をしゃくる。若い刑事は脱兎のごとく取調室から飛び出していった。おそらく裏を取るため横浜のホテルに向かったのだろう。


 時同じくして同様にテレビのニュースを食い入るように見詰める初老の男性がいた。

 男は目の前のデスクに電話が設置されているにも関わらず、それを使わず携帯電話を取り出した。

 呼び出し音一回で直ぐに相手が出た、

「ニュースは見たか?」

<ええ、とうとう動き出しましたね。ですが心配はありません。証拠になるような帳簿や覚書、いえメモに至るまで処分させました。押収書類からは何も出ては来ません>

「私が聞きたいのは物ではなく人の方だ」

<そちらも計画通り推移しています。仕掛けにまんまと嵌った男が、もうすぐ地雷を踏みます。そうすれば一気に形勢は逆転します。ご安心下さい、三――>

「おい、名前で呼ぶのは止せ。それより本当に報酬は要らないんだな」

<お伝えしたとおり成功報酬は不要です。そのかわり今回の総務省による電波割り当ての件をくれぐれも宜しく願います>

「ああ、判っている。君の事は大池のオヤジからも面倒みるように言われていたからな」

<大先生には本当に感謝しています。お陰でまがりなりにもコンサルタント業で独立できました。私としては当時の恩返しがしたいのです>

「ふふん、良く言うよ。君は恩返しと言うがこれもビジネスの一環に過ぎんのだろ?」

<これは手厳しい。先生にもほんのお礼を差し上げたく、今夜お約束のものをお届け致しますのでどうぞご賞味下さい>

 そういい終えると相手から電話を切ってしまった。

 面白い男だ、今度のクライアントはどうやら通信業界のようだが……果てさて、あの男は一体何を企んでいるのやら……男は苦笑とともに携帯電話をポケットに仕舞い、今夜の楽しみに密かに胸を躍らせるのだった。

 

 その日の深夜、赤坂にある一軒の料亭の奥座敷。行為を終えた初老の男性が荒い息を吐きながら女体から離れる。体中に噴出した汗を女性が甲斐甲斐しくバスタオルで拭う。

「タバコをくれ」 女に身を委ねながら男が言った。

 女性は頷くと煙草に火を点け男に咥えさせてやる。男が深々と一服し紫煙を吐き出したとき彼の携帯電話の呼び出し音が鳴る。

 今頃、誰だ? 訝しく思いながら枕もとの電話を取り上げる。

<ご無沙汰してますな、私が誰だか判りますか?>

「これはこれは……君が連絡をくれるなんて、一体どういう風の吹き回しかな。三十年ぶりだろ」

<その三十年前の償いをしたくて連絡しました>

「償い? 一体何の償いだ」

<私は君を裏切った。君は忘れているかもしれませんが、そのことはずっと私の胸にトゲとなって残っています。漸くそれが償える機会が来ました。君が雇った男の計画はわかっています。見てみぬふりをしようと思いましたが彼は殺人を犯したようです。そうなると私も立場上見逃せません>

「君の言っている事はさっぱり判らん」

 男が電話に出ているのに構わず女性が男の背中を撫で、もう片方の手で下半身を構いだす。男は顔をしかめ女に止せと合図するが、女は益々大胆な行動に移る。男の下半身に顔を埋めジュニアを口に含む。

 男はそちらに気を取られ会話どころではなくなる。

「用件は何だ。もう切るぞ」

<待ってください。とりあえず私の話を聞いても損はしません。いいですか、彼が逮捕されると君もお困りでしょう? この件は私の方で処理します。これで借りを返すことが出来ます。君に連絡するのはこれが最初で最後、今後一切連絡することはありません。それでは>

それだけ言うと電話は切れた。

「もう電話はお済み?」

「原島君って言ったかな。君は悪い娘だ、悪戯をするものだから危うく声を漏らしそうになってしまった」

 男の文句に女が含み笑いをする。

「だってこんなときに電話を寄越すなんて無粋な方。それと私のことは紀子と呼んで下さい」

「紀子か、どうせ源氏名だろうが……まあ名前など何でも良い、記号と同じだ」

「ふふ、そんなこと仰らないでもう一度私の身体をご賞味下さいな、幹事長さん。野坂さんからも一杯可愛がって貰いなさいといい遣ってますので」

「君はあの男とも寝たのか?」

「いやだ、嫉妬されてるのですか? 野坂さんとはビジネス上の付き合いだけ。さあ、もう余計なことは考えずに私を抱いて」

 そう言いながら男の首に手を回した女は、その体勢のまま男を押し倒すように布団の上に横たわるのだった。

             

2008年 2月17日

 堀田武史は釈放された。DNA分析の結果、現場に残されていた毛髪と合致しなかったのだ。更にライターの発火石の擦り跡が、彼の使用しているデュポンのヤスリ形状と違う事が判明した。アリバイについても確認できた。従ってこれ以上の拘束は出来なかった。

但し、田上千恵を二人の男性に襲わせ、その行為を撮影させた事実は消えない。とはいえ、被害にあった後に、田上千恵本人から訴えが無かった以上堀田を罪には問えない。内容が親告罪の適用要件だからである。

それでも刑事からは「当面、旅行などには出かけないで、いつでも連絡の取れるようにしておいて下さい」と念押しをされた。

 その様子に堀田は、自分の身の潔白が完全に証明されたのでは無い事を悟った。ふと後ろを振り返ると、刑事が二人尾行をしていた。身を隠すでもなく、堂々とマークしている。

 堀田は無性に原島紀子の顔が見たくなった。携帯で相手を呼び出す。

<この電話番号は現在使われておりません。番号を良くお確かめのうえ、もう一度お掛け直し下さい>

 耳にあてた携帯電話からは、機械的なトーキー案内の応答が繰り返されるばかりであった。堀田は、地下鉄の駅に向かい、急いで紀子のマンションへと向かう。二人の刑事も追ってくる。赤坂見附で乗り換え、東京メトロと相互乗り入れしている郊外の駅へと向かう。

 電車を降り、目的のマンションまでの道のりが普段より遠く思える。駆け出したいが刑事に怪しまれそうで、その衝動を思いとどまる。

 二人の刑事が堀田の背後に近づいて来た。

「堀田さん、原島紀子のマンションに行くつもりかね」年配の刑事が話しかけてくる。

「残念だが、あそこにはもう彼女はいないよ。彼女は引越したよ」

 思いがけない言葉に、堀田はその刑事に向き直る。

「どうして? 俺に黙ってどうして?」

「さあ、我々に聞かれてもねえ。勿論我々には連絡先を教えたが、貴方には絶対教えないでくれと念を押されてね。多分、今回の事件に巻き込まれるのが嫌なのかも知れん。あんたには気の毒だが……」

 尚も喋り続ける刑事の言葉をどこか遠くで認識しながら、堀田は紀子が姿を消したという事実を一所懸命受け入れようとしていた。

 結局、他に何処行くあても無く、堀田は我が家へと戻り始めた。

 

「捜査のやり直しだ。全く所轄のバカが変な報告をするものだから、捜査方針が誤った方向に誘導された。いいか、もう一度徹底的に洗い直すんだ」

 捜査本部では係長が全員に怒鳴り散らすように指示を飛ばす。

「全くいい恥さらしだ。記者会見をやる身にもなってみろ。こんな失態を演じてマスコミは厳しく責任追及してくるぞ」主任も近藤を睨みつけて言う。

 管理官は終始無言だが苦虫を噛み潰したような表情だ。

 「地取り」「鑑」「証拠品」の班編成とメンバーが発表される。近藤の名前は最後まで呼ばれなかった。刑事たちが次々と部屋を飛び出していき、取り残された近藤は係長に呼ばれた。

 正面の机には管理官と係長が座っている。

「君には捜査を外れて貰う。捜査を誤った方向に導いた責任は重大だ。しかも指示に背いて勝手な行動を取った。誘拐事件を未然で防いだつもりだろうが、結局は田崎由里に踊らされただけじゃないのかね」厳かに管理官が言う。

「管理官のおっしゃるとおりだ、当然だろ? 今回の失態の全責任は貴様に取ってもらう。後日処分を決める。それまでは大人しく身辺整理でもしておくんだな。以上だ」

 係長が吐き捨てるように言った。

 近藤は無言で目礼し部屋を出た。廊下には坂上が待ち受けていた。

「どうなったんですか?」

「俺は捜査から外された。今回の失態の全責任は俺にあるそうだ」

「そんな……上の連中が勝手に堀田だと確信したんじゃないですか。コンさんは違うと主張したのに聞き入れなかった癖に……」

「愚痴っていても仕方ない。それよりお前も早く出掛けろ。相棒を待たせているんだろ」

そう言って坂上を追いたて近藤は休憩室へ足を向けた。

 コーヒーを飲み煙草を吸っているところへ、科学捜査係の西山がやってきた。

「コンさん、聞いたぜ。今回の全責任をおっ被されたんだってな。しかし、正直コンさんは堀田がホンボシとは考えてなかったんだろ」

「状況証拠はあったが、堀田では無いような気がしていた。だがみんなをミスリードさせる報告をしたのは確かに俺だ。それに、理由はどうあれ堀田の身柄は拘束していたかったしな」

「今更なんだが、俺は、はなから堀田じゃ無いと考えていた。奴のライターはデュポンだろ。現場に残されたフリントは違う。ヤスリの断面を分析するまでもない」

「どうして判っていたんだ?」

「まあ、型番にもよるんだが、デュポンの多くはフリントを取り出すのに脇のリリースボタンを押し下げてから、スライドカバーを上げて取り出すんだ。自然に落とすことなど考えられない。可能性で言うとダンヒルのほうがフリントが飛び出しやすい」

「ダンヒルだと? もう少し詳しく教えてくれ」

「言葉で説明するより百聞は一見にしかずだ。俺もダンヒルを持っているから」

 そういってポケットからライターを取り出す。

「凄いね、ニシさん。ダンヒルを持っているんだ」

「冷やかすんじゃない。娘が誕生日にプレゼントしてくれたんだ。それより、良く見てろ」

 西山がダンヒルの蓋を開け、上部の小さなレバーを後方にずらす。その下部の先が左に回転してポンと小さく黒い物体が飛び出した。西山は左の掌でそれを受け止め近藤に差し出す。

「ほら、今飛び出した物体がフリントさ。何かの拍子にレバーが外れれば、フリントは飛び出しちまう。それにフリントが磨耗して最後のかけら位になると、何もしなくてもこの隙間からポロッと落っこちるんだ。俺も良く不用意に操作してフリントを失くしちまうんだ。この事は係長にも報告しておいたんだが真剣に取り上げてくれなかった」

「成程、もう一つ聞かせてくれ。同じダンヒルの機種でもヤスリの擦り跡の違いは見極めがつくものなのか」

「当たり前さ。現在の科捜課の技術なら指紋同様に鑑定出来るぜ」

「そうか、サンキュー」 礼を言って近藤は休憩室を後にした。

                   

 捜査本部から外された近藤は、田崎由里の取調べに顔を覗かせた。

これまでの処、村中、河合の両名は黙秘権を主張し、弁護士を呼ぶまで一切尋問を拒否していた。その点、田崎由里は素直に事情聴取に応じてはいたが、あくまで共犯者のいない単独の犯行だと言い張った。

「判った。田上千恵の一件以外の事は認めるのだね。河合に痴漢の濡れ衣を着せ、久留米には飲酒運転を仕向けた。そして村中の娘を誘拐しようとした。これらは総て貴女の犯行だと認めるのだね。以上の要件では余りたいした罪にはならない。誘拐もマスコミの注目を集める狂言だった訳だし、村中もそれを察知していながら逆に襲おうとした訳だからね。だが、田上千恵の殺害についてはそういう訳にはいかない。勿論、男性の犯行だから、貴女では無いだろう。だが何か知っている事はないか?」

「本当に何も知らないんです。田上さんが殺された夜は、恵ちゃんを連れ出す前日ですから、レンタカーの予約をして、箱根の目的地であるリゾート地へのルートを調べたりしていました」

 じっと由里の表情を観察していた近藤は、その言葉を信じても良いと考えた。質問の矛先を変える。

「そうか判った。じゃあ、事件とは少し離れるが、お姉さんの事で未だ判らない点があるんだ。どうしてお姉さんは、あのマンションから自殺したんだろう? 自分が住んでいた訳でも無いのに」

 由里が、呆気にとられたような表情で答えた。

「ご存じじゃ無かったんですか? そうか、二人は友人たちにも話してはいなかったのですね」

「何をです?」 と近藤。

「姉が身を投げたマンションには野坂さんが住んでいたのです。姉と野坂さんは婚約をしていました。彼が留学を終えて日本に帰ってくれば、結婚する約束だったんです」

 何と! そうだったのか、野坂と田崎さくらはそんな関係だったのか。

「しかし、その頃野坂さんはまだ渡米中で、そこには住んでなかったのですよね?」

「そうです、ですから勿論、彼に会いに行ったのでは無く、死の覚悟を決めた時に、彼への贖罪のつもりであのマンションに足が向いたのじゃないかなと思います」

 近藤は思わず唸った。今まで野坂については全く疑いもしなかった。さくらを好もしく思っていた堀田の仕業だとばかり思いこみ、捜査の方向を誤ってしまった。今の話しでは野坂にこそ復讐という強い動機が存在する。自分の留守中に事もあろうに婚約者が複数の男性に無理矢理弄ばれたのだ。

 近藤は野坂研究所を訪れた時の事を思い起こす。あの時、近藤の煙草に野坂が火をつけてくれた。確か左手だった。もう随分使い込んでいて、学生時代からの愛用品だと言っていたライターは……。

「野坂さんは、たしか左利きだったね?」近藤は由里にさりげなく尋ねる。

由里が近藤の真意を探ろうと、不安そうな目で見つめている。

「ええ、良太さんは左利きですけど、それが?」

「ライターはたしかダンヒルだったね。学生時代から使っている」

「そうです、いつもダンヒルを使っていました。手持ち無沙汰だと、すぐに蓋をパチンパチン開け閉めして……それが何か? 田上さんの事件と関係有るのですか」

「いや、いいんだ。有難う」

そうか、もっと早く気付くべきだった。これで田上千恵殺害に関しては、野坂への容疑が濃くなった。早く彼を重要参考人として引っ張り、DNA鑑定をしてみたい。動かぬ証拠となるだろう。

しかし……と近藤は思う。今までは堀田と田崎由里を手足として操り、自らは手を汚していない。福井の話にもあったように野坂は頭脳の役割だ。何故、田上千恵に限って危険を冒すような馬鹿な真似をしたのか? そこまで確実に突き止めたい。係長や班長もこの程度の材料では耳を貸さないだろうし、今度は誤認では済まされない。

 近藤は刑事部屋に戻り、調書を再度見直す。

何かが有る。見逃している何かが……野坂と村中、河合との接点、学生時代の研究会だけなのだろうか? 

 そう言えば……河合はS県庁の建築指導課だった。新庁舎の当初計画案は、村中の勤務する中堅の建設会社ではなかったか? 今検察が捜査中のS県上田知事と大島建設の増収賄事件に両名とも絡んでいるではないか。

 近藤は更に調書の村中に関する項目にじっくり目を通す。

 村中春雄、妻敏江、長女恵の三人家族……村中は本籍が神奈川県横浜市、父親は既に他界し母親は長女夫婦と暮らしている。妻の敏江は旧姓丸山敏江……父親は国土交通省政務官。

「まさか……」近藤は調書から顔を上げると、電話の受話器を掴んだ。

                

 恵ちゃん、無事保護! 犯行は十年前のリベンジ

元K大生、呆れた行状 被害者の自殺と家族の崩壊、残された妹の怨念


 そして同じ特集記事、第二弾として殺人事件の記事が掲載されていた。


新宿高層ホテル殺人  警察の大失態

元夫、危うく冤罪を免れる 真犯人は?


 そんな見出しの写真週刊誌を机に投げ出し、津村は近藤の報告を受けた。

「流石コンさん、丸山氏の存在に気がつきましたか。しかし彼の娘婿が村中だったとは……仕方が無い。これから話すことはくれぐれも他言は無用に願います。お陰さまで、S県知事との癒着の証拠物件も見つかりました。これで知事と大島建設については立件出来ます。しかし、我々はもう一人、大物の首も狙っているのですよ」

<大物? ……ですか>

「そう、今までにも何回か、尻尾を摑みかけては逃げられている政界の大物です。しかし残念ながら押収した資料や書類の中には、その人物が関係していると証明する物は見当たりませんでした。我々は最後の切り札を切るしかない状況に有ります。そしてその切り札こそ丸山政務官なのです。彼の娘婿が、今マスコミを騒がしている村中春雄となると……」

 その時、ドアをノックして特捜部長の尾崎が血相を変えて部屋に飛び込んできた。

「検事正、大変な事態になりました」

「ひょっとして、村中の事ですか?」

「ご存知でしたか。野党がその件を持ち出して丸山氏の辞任要求を突きつけました。今開かれている臨時国会には、与党としても通すべき法案が有りますから、ここは要求を呑むようです。先日の押収資料に贈収賄を立件出来る証拠が見つからない以上、我々にとって丸山氏の証言が頼みの綱だというのに」

「というか、そうなる事は与党側の誰かにとっても渡りに船って事です。牧田議員に地検の手が伸びてきている事は三浦幹事長も感じているでしょう。そうなると、国会でも丸山氏の証人喚問という事態になりかねない。それを危惧して先手を打ったという訳ですな。野党がまんまとその計略に嵌って、自ら大事な証人の役人生命を断ち切ってしまうとは……うーむ、まんまとやられましたな。我々だけじゃない、マスコミや野党の国会議員、そして世論……日本中がまんまと引っ掛かってしまったという訳です」

 津村はうめくように言うと、自分の額を掌でピシャリと叩いた。

「コンさん、お聞きのとおりです。気付くのが遅かった。私たちの完敗です」

そうか、野坂の本当の狙いは、村中だったのだ。いや、彼の義父である丸山氏を失脚させ証人喚問を阻止することだったのだ。

それにしても回りくどい方法を考え付いたものだ、河合や久留米の事件が先に起きたため、てっきり堀田や田崎由里による復讐だと思い込んでしまった。あれは野坂が仕掛けたブービー・トラップだったのだ。

 勿論、堀田や由里も野坂の真の狙いなど知らずに単純に復讐を行っていたのだろう。野坂は彼等に知恵を授けつつ、どうすれば悪友連中の過去の行状を世間に知らしめることが出来るかを考えていたに違いない。そして彼が書いた最後の筋書きが村中の娘の狂言誘拐だった。

 案の定、駆けつけたマスコミは誘拐よりも、十年前の事件に関心を示した。

各社、各局の論調は、田崎由里を姉の敵を討つ健気なヒロインとして扱い、殊更四人組の悪行を弾劾し記事にした。

 当然、世論の彼等に対する非難は高まり、その勢いは村中の義父である丸山政務官にまで飛び火した。村中の義父は丸山氏、こんなスキャンダルを見逃すマスコミではない。そこまで想定した上での野坂の計画だったのだ。

 彼は何も手を汚すことなくまんまと狙い通りの結果を得たのだ。法を犯さず証拠も残さず計画を遂行したのだ。馬鹿な俺は、奴が仕掛けたブービー・トラップとも気づかずに、まんまと地雷を踏んでしまった。俺が丸山政務官を失脚させてしまったようなものだ。

「くそっ」 近藤は恥辱と怒りに震えた。

 一方、受話器を置いた津村は、再度受話器を取りどこかへ電話を掛けるのだった。

               

 その頃、野坂は成田空港からのニューヨーク便に乗り込んでいた。

飛行機のビジネスクラスの座席に身を委ね、窓から機がゆっくりと滑走路に向かう様子を眺める。

 最後まで見届ける事が出来ないのは残念だが致し方ない。完璧な計画であったはずなのに、思わぬ処で邪魔が入ったのだ。暫くは身を潜めていたほうが得策だろうと判断し、急な出張と称し国外脱出を図らざるを得なくなった。

 窓の外の夕暮れに光る灯りを見つめるうち、野坂は幼少の頃の自分を思い出していた。


 俺は東京の白金台で生を受けた。立派な豪邸に母親と家事を手伝う女性との三人暮らし。父はたまに帰ってくるだけでほとんど姿を見せない。世の中の父親とはそういうものだと子供心に思っていた。幼稚園の帰り道、近所の主婦たちが立ち話している場に出くわした。

 俺の姿をみとめてその中の一人が慌てて口をつぐんだ。だがその言葉ははっきりと聞こえた。

「野坂さんはお妾さんだから……」 その後に続く言葉を飲み込んだのでそれ以上の内容は判らない。

 そのころの俺には妾という言葉の意味は理解できる訳も無く、しかし余り良い噂で無い事は雰囲気で感じた。その意味がはっきりと理解出来たのは、小学校に進学してからの事であった。

 俺は小学生に進学してから酷いイジメに遭った。

「やーい、やい愛人の子! どうして父親と苗字が違うのさ?」 

そう言って同級生に囃子たてられ、何かをするにつけ「やっぱり片親で育てられた奴は、やることが違うな」などとからかわれた。

 一度母親に自分の家庭は他所とは違うのか? 何故父親がいつも不在なのか? を問いただしたことが有った。そのときの母親の困惑した表情は今もはっきりと覚えている。その一件以来、俺は二度とその種の話題を口にしなくなった。愛すべき母を困らせたくなかったのだ。

 父親は国内屈指の実業家で経連協理事も務める高橋幸一郎という人物で、鉄道事業から運輸、建設、不動産など複数の事業を手広く経営していた。

 たまに家を訪れる父は、直に母親と奥の部屋へ引き篭ってしまう。一体二人で何をしているのだろうか? 幼い俺には男女の営みなど未だ知る由も無かった。そんな時俺は家庭教師や手伝いの女性を相手に過ごした。

俺は父が家にいる事の嬉しさより、母を独占できない悔しい気持ち、まるで母を父に取られたような悲しさの感情の方が強く、従って父を余り歓迎する気持ちにはなれなかった。

 酒を飲んで上機嫌の時に、父は嫌がる俺を無理矢理自分の胡座を組んだ膝に乗せ、いつも口癖のようにこう言った。

「いいか、良太。人を使う側の人間になれ。決して使われる側になるなよ。それは負け犬だ」

 幼心にその意図する意味は判らなくとも、その父の語る一語一句は嫌でも脳裏に染み付いた。酒を飲んで上機嫌の時に、父は嫌がる俺を無理矢理自分の胡座を組んだ膝に乗せ、いつも口癖のようにこう言った。

「いいか、良太。人を使う側の人間になれ。決して使われる側になるなよ。それは負け犬だ。自分が動くのではなく、他人を意のままに動かす、いや操るのだ。この言葉を良く覚えておくんだぞ」

 幼心にその意図する意味は判らなくとも、その父の語る一語一句は嫌でも脳裏に染み付いた。

 父の記憶はそれ以外には無かった。遊園地はおろか、海やプールにも連れて行って貰った記憶は無い。常に母親と二人きりであった。

 ある日、校庭で体育の授業中、転がるボールを追いかけて草むらに入った女子生徒が怪我をした鳩を見つけた。担任教師をはじめ全員が駆け寄る。

 教師が診たところ羽を痛めているようだった。動物病院で手当てを受けた鳩は傷が治癒するまでクラスで面倒を見ることに決まった。早速、日直当番が世話をすることになり、「クウ」と名づけられた鳩はみんなの人気者となった。しかし俺だけは日直の日でも世話をさせてもらえなかった。人間である俺より鳩のほうが大事に扱われる様子に俺は猛烈に腹が立った。何時まで経っても快復の兆しさえ見せない「クウ」の様子を見て俺はある計画を思いついた。

 前もって腹をすかせた野良猫を捕まえると、深夜の校庭に忍び込み鳩小屋にそっと近付いた。猫を小屋の中に投げ入れると、急いで金網の扉を閉めた。小屋から離れる俺の耳に、猫の唸り声と羽をばたつかせながら鳴く「クウ」の断末魔が聞こえた。

 翌日、クラスは大騒ぎであった。

 昨日の日直当番であった、誠が鍵を掛け忘れたために野良猫に襲われたと結論づけられ、いつも俺をいじめているリーダー格の誠がクラス全員から吊るし上げられた。それを横目に見ながら俺は内心ほくそえんだ。

 その日を境にクラスの勢力図が一変した。誠が新たな虐めの対象となり、俺は虐められなくなった。そればかりか、みんなが今までの仕返しをしてやれよと、俺をそそのかすのだった。それはクラス中の全員が、何時自分も誠のような立場になるとも限らないとの恐怖に駆られたゆえの行動であり、俺を虐めに加担させることで同じ立場に引きずり込みたいとの浅知恵だった。しかし俺はその手には乗らなかった。

 あんなに威勢の良かった誠は、俺に許しを請うように弱弱しい目つきで懇願するのである。おれは勝ったと思った。

 もう虐めなど止すようにクラス全員に訴えた。全員が俺の言葉に安堵したように従順に従うのだった。完全に俺はみんなの上に立った。

 鳩の死に心が痛むことも無かった。飛べなくなった鳩など何の価値もない、そう思った。

 そして俺の仕業であるのに、みんなから文句を言われる、いじめっ子の姿に満足を覚えるのであった。自身が犯した悪行を他人のせいにする、それも常にいじめる悪童へのリベンジが……そんな悪巧みを考え付いた自分の頭の良さに酔ったものだ。

 おれはこの事件で立ち回り方を学んだ。弱者が正論を述べても誰も聞く耳を持たないが、立場が上であれば言うことを聞かせられる。生前、父がことあるごとに言い聞かせてくれた言葉の意味が漸く理解できたのだった。

 それ以来、俺は立ち回り方、そして他人の使い方をさらに研究し実践しようとした。

 そんな時に父が急死した。激務続きの身体に自覚の無いまま、病魔が巣くっていたのだ。

 父が亡くなったと聞いて、俺は単純に喜んだ。これで母は誰にも取られない、自分だけのものだ。そう思った。

 だが、父の死後、生活環境は一変した。それは、今までとはうってかわり、手の平を返したような周りの大人たちの態度であり、待遇であった。

 先ず、住んでいた屋敷は会社の資産であるという理由で追い出された。更に生前、艶福家として名を馳せていた幸一郎の複数を数える愛人の存在を以前から苦々しく思っていた正妻と嫡子達は、特に溺愛されていた母親と俺を認めず追い出しにかかったのである。

結局、遺産はおろか一円の手切れ金さえも貰えず二人は路頭に迷う事となった。俺はその余りに酷い仕打ちに憤りを覚えたが、母は何も言わず幼い俺の手を引いて屋敷を後にした。

 古い木造のアパートを借り、母親が働きに出た。か細い身体に鞭打ち馴れない仕事のパートタイマーで働きに出る母親の姿は見るに耐えなかった。

俺も新聞配達や様々なアルバイトを行い家計を助けた。勉学と同時に、生きていく術である「仕事をして金を稼ぐ」事を余儀なくされ、そのために相当数の時間を割かなければならなかった。同級生達が呑気に遊んでいる姿を横目に見ながらアルバイトに励み、寝る間を惜しんで勉学に励んだ。

 俺が高校生の時、突然母親が過労で倒れた。

 連絡を受け、学校を早退し病院に駆けつけた俺が見たのは、頭部に包帯を巻かれ、天井から吊るされた点滴の管を腕に差し、人工呼吸器(マスク)で顔を覆われた母親の姿であった。麻酔のせいで死んだように眠っている。

 医者が別室に俺を呼び、母親の病状を説明してくれた。

「君のお母さんは、くも膜下出血を起こして、一刻を争う程の危険な状態だったんだ。だから緊急手術を行った。具体的にはクリッピングと呼ばれる措置で、判りやすく説明すると、破裂した動脈瘤の根元を挟んで止める処置だ。あくまで再出血の防止のための措置で、これは治療では無いんだ。しばらくは、様子を見る必要があるので、入院してもらう事になる。細かい事は看護師さんに聞いて。それじゃ、お大事に」

必要なことだけを告げて医者は去っていった。

 看護師に、入院手続きの方法を尋ねると、親切に当面の着替えや諸々の準備をする物についても事細かに教えてくれた。そして、今は麻酔が効いているので、一旦家に帰って必要な物の準備をしたほうが良いとアドバイスをしてくれた。

 その日以降、俺は、毎日学校が終わると、まっすぐ病院に駆けつけた。しかし、麻酔が切れても母親は昏睡状態が続き、危険な状態が続いた。脳圧降下剤の点滴を続ける母親の眠る顔を見つめる以外、俺に出来ることは無かった。

 早く楽にさせてやりたい、そう思う反面これまでの自分たち親子の生活に思いを馳せたとき、母親に対し恨みも持った。

これまでの母親の生き方、日陰の身で父親に慎ましく仕え、何の見返りも要求しない。利用されるだけ利用され、それでも尚、父に尽くし、挙句の果て父の死と共に、本妻からの陰湿な意趣返しに遭い遂には放り出されたのだ。

 何て損で馬鹿な人生だ。それで母は幸せだったのだろうか? 一生を日陰の身で過ごし、晩年は更に辛く、生きていくのが精一杯だったでは無いか。

 最愛の母にそんな人生を歩んで欲しく無かった。もっと幸せに満ち溢れ、溌溂と生きていて欲しかった。そんな理想の母親で居て欲しかった。

なのに、今のこの姿はどうだ。いつ覚めるかも判らない昏睡状態に陥り、話しかけたり、微笑んだりすることも無い。ベッドに伏せて居るのはいつもの綺麗で優しく微笑む母親ではない。そんな変わり果てた母親の姿を見ていたくなかった。

 もう母親の手を握る事さえ汚らわしく思えた。目の前に横たわるのは、ただの醜い物体だ。母親とは認めたくない。そんな拒絶反応が湧き上がることに俺は愕然とした。母親を愛するが故の屈折した感情が、いつしか恐ろしい行動へと駆り立てた。

 ある日、俺は母親の腕に刺してある点滴の管を引き抜いた。

暫くすると母親の身体が小刻みに震え、変調をきたした様子であったが構わずそのまま母親を放置し、そっと病院を抜け出した。

 あくる日、病院から母が死んだと連絡が入った。

医者は手を尽くしたが残念な結果に終わった事、ここ何日が峠であったが体力が持ちきれなかった事などを理由にし、医療過誤を疑われては困るとの思いなのか点滴の件には一切触れなかった。

 俺は、ただ黙って話を聞いていた。涙が溢れ、止まらなかった。

 医者は母の死に直面し、悲しくて泣いていると解釈したのだろう。だが違う。あの時俺にははっきりと殺意が有った。

 自分が母親を殺したのだ。だから悲しくて泣いたのでは無い。余りにもあっけない人間の死に、馬鹿ばかしさや悔しさや様々な感情に襲われ泣いたのだ。その時の感情を俺は今でもはっきり思い起こすことが出来る。


 天涯孤独の身となった俺は、奨学金を受け、大学へと進む事が出来た。大学生になってから「トレンド研究部」を創設し、本格的にビジネスに取り組み始めた。

 俺にとって今や成績よりも金儲けが重要だったのだ。そして目をつけた優秀な学生を三人ほど仲間に引き入れた。

 父親の会社から独立して成功を収めているコンピューター・ソフトの会社社長や父の友人だった大池宏代議士が俺の才能を高く評価し、後押ししてくれた事も幸いした。

 俺は来るべきネット社会を的確に予想していた。未だ日本国内では、ウィンドウズ95がやっとインターネット・エクスプローラーを搭載し、大多数の国民がネットというものを初体験するといった段階であった。そんな最中、将来のネット社会を見据えた俺の事業提案を受け入れる会社が三社ばかり出来ていた。

 そして同じ頃、さくらと知り合ったのだ。知的で美しい女性、俺はそんな印象を抱き、さくらは俺を優秀で皆から一目置かれる切れ者の男性と受け止めていた。

そして当然のように二人は密かに交際を始めたのだった。


「お客様、お客様」

 声を掛けられた野坂は、過去の思い出から現実に引き戻された。

脇を見上げるとフライト・アテンダントが笑顔を浮かべながらこう告げた。「シートベルトをお締め下さい」

 前方のパネルにも警告が出ている。いよいよ離陸するのだ。

 野坂はベルトを締めながら、この一週間で何もかも自分の立てた計画通りに事態が

進行するように願った。そしてそれまではニューヨークに滞在しているつもりであった。

毎年頻繁に商用でニューヨークに来るためペントハウスを借りているのだが、こんな形で役に立つ事になろうとは考えもしなかった。

 良い機会だ、少しのんびりするか……予定外の心配事も有るが、もう考えるのは止そう。千恵から取り上げたプリクラの写真は直ぐに燃やした。証拠は無いのだ。

 機はぐんぐんと高度を上げ、水平飛行に移っていた。

何も考えず、ぐっすりと休もう。そう決めると、野坂はシートを倒して眠りに就くのだった。


 広いリビングにポツンと一人座り、堀田は俄かにこみあげてくる寂しさに浸っていた。たまに帰ってくると、嫌みな言葉を投げつけてきた千恵は、もういない。

 そういえば、あいつ……最低限の身の回りの物を持って、家を飛び出したっきりで、服や荷物などは未だ部屋に置きっぱなしになっているはずだ。

 堀田は重い腰を上げると、生前彼女が使っていた部屋のドアを開けた。

室内は千恵が出て行ったままの状態だ。ウォーク・イン・クロゼットのドアも開きっぱなしになって、空のハンガーが四、五本掛かっているのが見えている。

ふとベッドに目をやって堀田は不審に思った。ベッドに何かアルバムのような物が放り投げてある。そんな物はベッドの上には無かったはずだが……。俺が勾留されている間に千恵が戻ってきたのか? 

 ベッドに近寄る。やはりそれはアルバムであった。ページが開いたままになっており、堀田はそれを手にとって見る。とはいえ普通のカメラで撮った写真が貼ってあるのでは無く、切手程のサイズの写真が一杯並んでいる。プリクラだ。本当にいい年をして、あいつは夜遊びの最中に、ゲームセンターなどでこんなモノを撮っていたのか。

その一つ一つを見る。随分若い頃の写真だ。大学生の時代に撮ったモノらしい。そういえば、当時プリクラが世に出現して大ブームになったのだった。そんな懐かしさと共に堀田は写真に見入った。

 アルバムはグループ毎に、しかも日付順に並べてあるらしい事にも気付く。

女友達だけのページ、昔の仲間たちのページ、サークルの仲間のページもある。

アクやトロ、ハルといった面々と、悪ふざけしながら納まっている千恵の写真を眺めていて、堀田は急に胸にこみ上げてくるものを感じた。不意に目頭が熱くなる。

どうしようもない悪妻だった千恵。もうとうに愛など冷め切ってしまっているはずと思っていたが、どうして涙が出るのだ。

 堪らなくなってアルバムを閉じようとして、最後の方がセロテープで封をした痕があるのに気付く。しかもその封が開けられている。

 そのページを開き、千恵と一緒に写っている相手の顔を見て、堀田は目を疑った。

千恵と一緒にキスをしたり、抱きつかれている相手の男性……堀田にとって、最も尊敬し信頼している男性であった。そしてもっと驚くべき事実が……96年クリスマス・イブと書き添えられた箇所のプリクラが剥がされていたのであった。その頃、あいつは日本にはいなかったはずだが? どういうことだろうか。

 その時、突然居間の方から電話のベルの音がした。警察に拘留されていて携帯電話も繋がらなかったため、心配した仕事関係の取引先からだろうと考え表示ディスプレーを覗く。たが、ディスプレーには公衆電話と表示されている。

訝りつつも堀田は受話器を取った。

<堀田さんだね? 取調べは大変だったろ。その上彼女にも逃げられて。それもこれも野坂のせいだ> 機械的なくぐもった声。

「誰だ、あんた誰なんだ?」 そんな堀田の問いかけを無視したように喋り続けている。あらかじめ肉声で録音したものをデジタル加工して再生しているようだ。

一方的に話し終えると電話は切れた。

堀田は、暫く受話器を握り締めたままで呆然としていた。気を取り直し受話器を置く。

 今の話は本当なのだろうか? そうであれば、プリクラの写真も納得がいく。 

 その時、ある考えが堀田の脳裏に閃いた。恐ろしい考えだが、その仮説を当て嵌めるとすべての事が明確に見えてくる。堀田はそのままベッドに寝転び、尚も考え続けた。


2008年2月19日

 昨日からマスコミは緊急特番を組み、丸山氏更迭のニュースを流している。今朝の新聞でも一面のトップ記事扱いで報じられていた。更に関連記事として、県庁の新庁舎建設について、地元建設会社からゼネコンに変更したのは、建設会社と県庁職員の癒着体質を断ち切るためだ、との大臣の談話が掲載されている。その当事者たちが建設会社の村中と県庁職員の河合であったと論じている。

「あろう事かその当事者二人が大学生時代にも一人の女子学生を暴行し、死に追いやった。断じて許される行為ではないし、そんな輩を使って私腹を肥やす建設会社と県職員は断罪すべきである――」

そんな強い口調でコメントを述べる三浦幹事長の談話が、今もテレビニュースで流れている。

三浦裕樹。東大法学部卒。保守本流の首領と呼ばれた元首相、大池宏の鞄持ちから頭角を現し第一秘書となり、大池の地盤を武器に参議院議員に立候補。二回の当選後衆議院に鞍替え。歴代の首相に目を掛けられ今の地位を不動のものとした。そんな苦労人であるプロフィールが大衆受けし人気が有る。

「大衆に人気のある三浦幹事長にここまで世論を煽られると、誰も丸山氏や村中、河合の声には耳を貸さないでしょう。真実を知る証人だというのに……逆に彼らが癒着していたと世間はみなすでしょう。何とかならないんですか?」 坂上が画面を凝視しながら言う。

「今回の件は我々の完敗だ。それにしても……」

近藤が言い終わらないうちに坂上が口を開く。「田上殺害の動機ですか?」

「そう、それが判らん。どうして田上千恵は殺されたのか。いや、殺されなければならなかったのか。野坂という男は自らは手を汚さず、堀田や田崎由里を操っていた。操り人形師は表舞台には出ない。しかも我々を出し抜く程、用意周到に計画している。しかし、田上千恵の殺害に関しては、計画的犯行とは到底思えない。何か予期しない出来事が起こったのでは無いかと思える。とすれば、その何かを露見するのを恐れた野坂が口封じのために……とは考えられんか?」

「ガイシャが一連の事件とは別の何かを知っていたと仰るんですね」

 その時、近藤の脳裏にふっと或る疑念が生じた。さくらの遺書、あれは本当にさくらが書いたのだろうか? 自筆ならともかくパソコンで書かれていた。まさかこんな事件に発展するとも思わず、遺書に何の疑いも持たなかったが今にして思えば怪しい。

 だが、あのメールは確かにさくらのアドレスから送られていたし時間も彼女が自殺する三時間前に送られていた。

「なあ、坂上。パソコン・メールってのは送り主のアドレスや送付時間を改竄出来ないだろ?」

「突然どうしたんですか?」

「いいから教えてくれ」

「パソコンは中に独自の時計を持っています。メールの受信や送信時にはその時刻が記録されます。アドレスも同様に登録しているアドレスがメールに表示されます」

「だろうな。じゃあ、やはり無理か……」

「何の話です?」

「さくらの遺書だよ。自筆ではない遺書だから偽造されたものかとも考えるんだが、、送り主や送信日時は確かに本人のパソコンからだったんだ」

「田崎さくらの遺書ってパソコン・メールだったんですか? 嫌だなあコンさん、そんなの幾らでも偽造できますよ。信頼出来る訳ないでしょ」

「さっきは出来ないといったじゃないか」

「いえ、先ほどのは基本の説明です。パソコン内の時計は自由に変更できますしアドレスも差出人を変更できます。パソコンから携帯アドレスで送りたい時などに便利だから俺もちょくちょく利用しますよ」

「何だ、出来るのか。それを早く言え。それなら田崎さくらの遺書は本人のパソコンから送信日時の表示どおり送られたものとは限らない訳だ」

 坂上を怒鳴るが、本当に腹立たしいのは自分自身だ。自分の機械オンチぶりが嫌になる。それでも気を取り直して近藤は黙って考え込む。

 遺書が本人の書いたものでないとなると、誰が何のためにそんなことをする必要があるのか? さくらの死について自殺かどうかも怪しくなってくる。

 そう言えば……さくらが身を投げた時の事件調書には、見知らぬ女性がマンションを入る処を目撃した住人が二人いると記載されていた。

 主婦の証言があやふやなため、深くは考えなかった。他の住人を訪問する別人なのだろうと考えていた。だが、田崎さくらが訪れる前に、別の女性がそれより二時間も早く野坂のマンションを訪れたとすると……。

「本当に野坂は渡米中で留守だったのだろうか?」 思わず呟く。

 突飛な発想だろうか? まるでコリン・デクスターの描くモース警部ばりの大胆な仮説だが……彼なら得意のクロスワードパズルになぞらえて、一つひとつの事実をはめ込んでいく。

「コンさん、冴えてますね。その仮説がもし事実だとすると、女性が何の目的でマンションを訪れたのかは明白です」

坂上が何を言わんとしているのか近藤には判らない。

「いやだなあ、コンさん。その日は東京中のシティ・ホテルが恋人たちで満室になるほどの特別な日です。だってクリスマス・イブですもん」

 はっとして近藤が顔を上げる。坂上がニッと意味ありげに笑っている。黙って二人は頷いた。


 近藤は事実を検証すべく、当時野坂が住んでいた事件の有ったマンションに出向いた。目撃者二人のうちサラリーマンの男性は旧マンションが取り壊された際に転居して

いたが、低層階に住む中年の主婦は、十年経った現在でもそこに居住していた。何と地権者夫婦だったのだ。

 以前現場を訪れた際、留守だったので管理人と話を済ませただけで署に戻った事が今更ながら悔やまれた。あの時、労を惜しまず再度出直して話を聞いていれば……だが、あの時点では事件の概要さえ判らなかった。

 近藤はさくらの実家で入手した写真を主婦に見せた。

「もう十年も前の事ですので、記憶は曖昧になっています。でも、こんな女性じゃ無かったと思います。この人は清楚な雰囲気が有りますでしょ? もっと色気のあるお嬢さんだったです。あの当時もそう証言したんですけどねえ」

「こんな感じじゃ無かったと仰るんですね、例えばどんな感じでしたか?」

「イメージで言うと……そうそう、今世間を騒がしているあの人。何て言いましたっけ」

 主婦が暫く考えた後に口にした名前を聞いて、近藤は愕然とした。

 やはり当時このマンション、しかも野坂を訪れた女性は、一人だけではなかった。二人の女性が数時間のズレで訪れている。主人のいない部屋に二人もの女性が訪れるなどと、普通では考えられない。田崎さくらの事情は理解出来る。だが、彼女が訪れる二時間前にやってきた、もう一人の女性。彼女は、一体どんな理由でこのマンションを訪れたのか。どう考えても導き出される答えは一つしかない。坂上の考えがビンゴだ。

 急いで近藤は坂上に連絡を取った。

「思ったとおりだ。十年前のクリスマス・イブに二人の女性が野坂のマンションを訪れている。そっちはどうだった?」

<出入国管理事務所に問い合わせました。野坂は十二月二十三日に日本に入国、そして、二十五日午前中に再び出国しています。野坂のアリバイは崩れました>

「そうか、やはり野坂は田上千恵と密会をしていたのだ。そこへ何も知らずに田崎さくらがやってきた。当然女性二人が鉢合わせだ。坂上、お前ならこの修羅場をどう切り抜ける?」

<そんな恐ろしいこと想像もしたくないですが、田崎さくらはその直ぐ後に投身自殺をしている。三人の間で諍いが起きたとすれば……コンさんの推理どおり屋上から突き落とされた可能性もありえますね。それが野坂と田上だけが知っている秘密って事ですかね? だから野坂は秘密を知る田上を殺害した。コンさん、至急野坂を引っ張りましょう>

 坂上の弾んだ声を聞きながら、野坂はきっと俺の手でワッパを掛けてやると近藤は誓うのだった。


2008年 2月20日

  野坂の住まいや研究所に刑事が駆けつけたときには、彼の姿は忽然と消えていた。国外逃亡の形跡も見当たらなかった。偽造パスポートを使って出国した可能性も有り、警視庁はFBIやインターポールにも捜査協力を要請していた。

 そして野坂と接点を持つ可能性のある堀田には、引き続き張り込み班がマークしていた。

堀田が動き出したという連絡が、捜査本部に入ったのは午前十時を少し過ぎた頃であった。張り込みを続けていた一課の牧刑事からだ。

 自家用車であるメルセデスのCLKを運転してニ四六号を南下しているとの情報だ。本人かどうかは、ツードアでガラス面が小さい事、その上スモークガラスのため未だ確認出来ていないという。

「牧、並走して運転席を至急確認しろ。くれぐれも相手に気付かれるな。何処へ行くのか突き止めるまで尾行するんだ」係長の声がいらつきを帯びている。

 その後、逐次入る連絡に耳を傾ける。車は急に表参道に右折し、ハナエ・モリビルを過ぎたあたりで細い道に入り込む。青山病院沿いに左折し、直ぐに右折、そのまま直進して明治通りに出ると、大きく右折して宮下公園下のガードをくぐり、更に右折、少し走って左に折れ、ファイアー通りの坂を上がって行く。

「くそ、細い道を走って、並走させないつもりだな」 牧が呟く。

 尚も車はNHKを過ぎ参宮橋を抜け、首都高に入った。

首都高四号線を環状方面にひた走る。三宅坂ジャンクションで車が渋滞し、漸く並走できた牧刑事が運転席を確認する。

「違います。堀田じゃ有りません」 無線に叫ぶ。

<停めろ。直ちに車を緊急停車させて、確認しろ>

 牧は、メルセデスの前に車を被せ、北の丸の出口まで先導し、車を停めさせた。

 メルセデスの運転席を覗き込む。

「どうしたんですか? 僕、スピード違反でもしましたっけ」

 のんびりした口調で運転席から、牧に話しかけたのはT出版の福井であった。


 その頃、堀田は千葉で不動産業を営む上野の車に乗り込み、成田空港へ向かっていた。

上野の運転するクラウン・アスリートは、レインボー・ブリッジを渡り、途中の有明、辰巳のジャンクションで渋滞に巻き込まれたものの、葛西臨海公園の観覧車を右手に、そして前方にTDLのシンデレラ城が見える辺りから順調な流れに乗り、現在は習志野ICを越えた辺りを疾走していた。

「余り飛ばさないでくれ。こんな処でスピード違反で捕まったんじゃ洒落にならない」

「心配ねえよ、ビビんなって。この車だけがすっ飛ばしているならマークされっけどよお、流れ全体が高速移動してる分にゃ、大丈夫だって。それに新しい追尾システムもこいつが感知してくれる」

 ハンドルを握りながら、上野がダッシュボードに設置されたコムテックのレーダー探知機に顎をしゃくる。

「だけど、この機械、さっきからヘリの音を拾っているぜ。画面にヘリ・パトなんて出てるし」

「毎度のことさ。ここいらに差し掛かるとうるさくって仕方ねえ。まあ、のんびり一服してろよ」

 左手で煙草を取り出し、堀田にも勧める。

「けど、あのノラがねえ。お前の話でなけりゃ、俄かには信じがたいぜ」

 煙草の煙を吐き出しながら、上野が喋る。

「俺だって、未だに信じられない。間違いであってくれと思っているさ。しかし千恵との写真が残っているし、電話が有ったんだ」

「電話? 誰から」

「判らない。だが、事情を良く知っている人物だ。話の内容も信じていいと俺は思う。兎に角ニューヨークで野坂を探し出すのが先決だ。会って真相を確かめる」

「ニューヨークにいるったって、どうやって探す? 当ては有んのか?」

「ああ、多分奴は留学当時に住んでいた処が気に入って、それ以降もビジネスで使っているはずだ。まずはそこを当たる」

「そうか。お前は何回も海外に行って土地鑑があるし、英語もペラペラだしな」

話をしている間にも、アスリートは湾岸習志野を過ぎ、宮野木ジャンクションに差し掛かる。

車の量が極端に減ってきた。四街道から佐倉に向かう辺りでは、前後に走る車の姿は見られなかった。

車はあっという間に酒々井SAに差し掛かっていた。成田空港はもう目の前である。

「ほれ、もうすぐ成田だぜ」

「恩に着るよ、上野」

「止せよ、困ったときはお互い様って奴よ。けど、くれぐれも気をつけてな。無茶すんなよ」

「判っている。奴を見つけたら後は警察に任せる」

 そう答えはしたが、堀田には心中期するものがあった。


2008年2月22日

「計画どおり進んでいます。丸山さえ潰しておけばもう、大丈夫でしょう。ええ、勿論気を抜いたりはしませんが、幹事長にはご安心して頂くようお伝えください。あ、それと秘書官。道路運送法案の一部改正の凍結ですが……はい、はい。セントラルの大塚社長から改めて先生にはお礼を……え? 先日の女性ともう一度逢わせろ……ですか。幹事長は原島紀子が余程お気に召しましたか? 判りました、すぐに秘書官に連絡させます。その代わりと申し上げては失礼ですが、電波割り当ての件も何卒宜しくお願いします。では、失礼します」

 ニューヨークの晴れた空を眺め、ペントハウスのソファに寛ぎながら、日本への国際電話

を終えた野坂は、自然に笑みがこぼれるのを禁じえなかった。我ながら上々の出来だ。さくらの復讐劇と見せかけ、世間の同情を引く。由里には気の毒だったが、まあ情

状酌量で深刻な事態にはならないだろう。

しかし、本当に職を辞してまで由里が上京してきた時には正直驚いた。大体俺は奴等に対し復讐しようなどと端から考えてやしなかった。だが、由里の話を聞くうちに、俺の中で巧く仕事に利用出来る名案を思いついたのだ。

 堀田にしても巧く操れた。千恵の過去の行状を大袈裟に話して聞かせれば、易々

と信じきった。そして俺の差配とも知らず、高級娼婦の原島紀子に熱を上げ、夫婦

間の亀裂は益々深まり離婚を決定的なものにした。奴を意のままに操縦するなどチ

ョロイもんだ。元々俺に憧れ、服装や髪型まで俺の真似をする堀田という男が正直

俺は疎ましかった。本人は俺と見間違えられる度に喜んでいたと言うが、こちらにと

ってはいい迷惑だ。だがそんなおめでたい奴だからこそ、うまく離婚する方法が有ると

言うと飛びついてきたのだ。

ホストクラブのオーナーや撮影クルーに実際に依頼したのは堀田であるが、裏で根

回しを行い堀田に紹介したのはこの俺だ。

 尤も、周到に練った計画以外に思わぬ事態になってしまった。千恵が十年前の秘密

に気がつき、俺を脅迫しようとしたのだ。これには、少々慌てて計画外の殺人を犯し

てしまった。だが俺に嫌疑が掛ることは無いだろう。多分今頃は堀田が警察にマーク

されているだろう。

それにしても一番底抜けの馬鹿は奴ら三人だ。さくらへの集団暴行について世間から非難を浴びている。いくら否定しても、誰も彼等のいう事に耳は貸すまい。

一度でも色眼鏡で見られた人間は、幾ら努力しようが、弁明を行おうが、お仕舞いなのだ。世間とはそういうものだ。俺は子供の頃に嫌というほど味わったから判る。

 何れにしろこれで、大臣、ゼネコン、大手運送会社のそれぞれに貸しを作る事が出来たし、次の計画も着々と進行している。米国企業の依頼で日本の通信業界に殴り込みをかけるのだ。

父親がいつも俺を膝に乗せながら、言い聞かせていた言葉を思い出す。

「いいか、使われる人間になるな。使う側の人間になれ」

 そうとも、俺は勝ち組になるんだ。もっともっと力を付け、日本を牛耳れる程に、のし上がってやる。

 日本を離れて十日が経過している。ほとぼりも冷めた頃だろう。今夜は一人、祝杯でもあげるとするか。野坂は外出のため地下駐車場へとエレベーターで降りていった。


地下独特の冷やりとした空気。深閑とした中で野坂の靴音だけが響く。

 ふと、背後に気配を感じ振り向こうとした野坂は、脇腹に焼け火箸を当てられたような感覚に見舞われた。 やがて熱さは猛烈な痛みとなって野坂を襲う。

「お、お前は……タケシ」喘ぎながらも相手の顔を見て思わず叫ぶ。

「ノラ! 漸く真相が判ったぜ。俺はどうして千恵が殺害されなきゃならないのか、理由が判らなかった。それに気が付いたのはあいつが残したプリクラ・アルバムだ。お前はチェリーという婚約者が居ながら、千恵とも深い仲だったんだ。十年前のクリスマス・イブにお前は密かに日本に帰っていた。その夜に千恵と仲良く撮ったプリクラが残っていたんだろ? 千恵はそれをお前に突きつけ真相を聞きだそうとしたんじゃないのか? チェリーは自殺じゃなく、お前が屋上から突き落としたんじゃ無いかってな。田崎由里の証言によると、さくらの死の翌日、米国にいると称してお前から電話が来たそうだな。それに遺書が電子メールで送られてきた。送信日時など、幾らでも細工出来る。パソコンのリアルタイム・クロックを遅らせれば可能だろ。何故そんな工作をする必要が有る? 自分が日本にいたとバレると不味いからだ。そしてチェリーの死を自殺と思わせたいからだ。そこから導き出される答えは一つ。その真相に気が付いた千恵を……お前は、殺害したんだ」

 そう話す堀田の声を激痛に堪えながら聞く野坂は、十年前の事を思い出していた。


1998年12月24日

 俺は二人きりのクリスマス・イブを祝おうとの田上千恵の願いを聞き入れ、この日こっそりと帰国していた。

  千恵とは学生時代、居酒屋で誘いを受けた。一度は拒んだものの千恵から「つまんない男」と罵られた。そこまで言われて据え膳を食わない訳にいかない。結局誘惑に応じ、それ以来深い仲となっていたのだ。

いつまでも身体を許さないさくらと違い、彼女は己の欲望に正直だった。本能のままに行動し、快楽を貪欲に求めた。その肉体に俺は溺れたのだ。

 その日もクリスマスを祝う食事を済ませた後、頬を寄せると、千恵の方から濃厚なキスで俺を迎え入れた。

俺をベッドに誘うと自ら身に纏っている服を脱ぎ捨てる。すらりと均整の取れた伸びやかな肢体だが、その割にボリュームのある乳房、余分な脂肪をそぎ落としたようなヴィーナスの丘、男の視線を充分意識してポーズを取る。

たまらなくなった俺は女性を抱きしめ、そのままベッドに倒れこむ。もどかしく服を脱ぐのを千恵が手伝う。互いに一糸纏わぬ姿となり、互いの肉体を貪りあう。

と、突然頭上から声がした。

「ノラ、どういう事? どうしてヒメなんかと?」

 いつのまに玄関が開いたのか、田崎さくらが驚愕の表情をしてその場に佇み二人を見詰めていた。

 慌てて身を起こした千恵が口をいがめて言い返した。

「ヒメなんかと……随分な言われ方だわね。ノラはね、誰からもちやほやされて、お高くとまって体を許さない、お嬢様のあんたなんかより、私の体に魅力を感じたのよ。ぶっちゃけ、私を抱きたかっただけ。私もノラに抱かれたかったし……割り切った関係だから大丈夫よ。ノラを横取りしようなんて思ってもいない」

「信じられない。貴方たちはそんな関係だったの! けだもの、犬畜生以下だわ」

「何よ、あんただってノラの知らない処で、複数の男たちに散々抱かれたくせに、綺麗事言うんじゃ無いわよ」

 そう言い残して千恵は悪びれる風でも無く、服を身に付けさっさと部屋から出ていった。

「複数の男性に抱かれた?一体何の話だ」 

俺は今の千恵の言葉が引っ掛かり、さくらに尋ねる。

「そんな話を今しないで」

残された二人の間の醜い言い争いの末、さくらは俺を罵りプイと外へ飛び出した。 慌てて後を追う。八階から下に降りようとする彼女をおし止め、建物の中で更に話

し合いをするが、住人の目を気にしてエレベーターで屋上に上がる。

  田崎さくらにもプライドが有る。学年トップの成績で、しかも学生でありながら起業家としての才能を有する俺は自慢の恋人であった。その彼氏が事もあろうにプレイガールとして名高い田上千恵と同衾している姿を目撃してしまったのだ。

「どうしてあんな節操のない女と……そんなにセックスがしたいの? 汚らわしい」

「君だって奴らにオモチャにされながら俺に黙っていたじゃないか! 何事も無かったように振る舞って俺との付き合いを続けるつもりだったのか?」

「酷い、あなたって私の気持ちを何も判ってはいないのね。私はあの事件以来どれほど苦しんだか……どれほど悩んだか判ってるの? 挙句の果てに妊娠させられて……あなたを選んだ私が馬鹿だった。あなたは、やはり妾の子ね。薄汚い性を武器に男性を篭絡した母親の血が流れているのだわ」

 さくらは言ってはならない言葉を投げつけた。

 俺にとって母親は神聖犯さざるべき女神であり、なんびとたりとも彼女への中傷、罵倒は許せなかった。それに絶対に言ってはならない単語をさくらは口にした。

幼少の頃、その言葉と共に、どれほど辛い目に遭ったか計り知れない、その忌むべき「妾」という単語を口にした。

それまで何とかさくらの気持ちを落ち着かせようとしていた俺の心に殺意が生まれた。それでも暫くは理性が感情をコントロールしていたのだが……。

どれほどの時間、こうしていたのだろうか。冷たさを通り越して凍りつくような外気温で、手がかじかんでくる。

 そろそろ行動に移そう。いつまでもこうしていると、決心が鈍る。二人の男性に辱めを受け、その上誰の子供かもわからない命を身籠った、そんな汚れた身体は、生きている価値が無いのだ。愛される価値など無いのだ。

 漸く決心した俺はライターの蓋をカチンと閉じると、すぐに行動を起こした。

「こんな悲しい事はない、もう死んでしまいたい」

 そう嘆く彼女を俺は屋上の壁に突き飛ばしていた。

「そんなに死にたいなら死ね。誰の子供かも判らない子を身籠った女なんか死んでしまえ」

 気が付いたときには彼女が凄い勢いで落下していた。

 俺は慌ててその場を逃れた。そして必死でアリバイ工作を考えた。

すぐに部屋に戻りパソコンで遺書を偽造し、さくらの妹の由里宛にメールを送りつけた。勿論、発信先をさくらのアドレスにして、更に送信日時を細工した。大雪だったのも幸いした。屋上に残る形跡もすべて降り積もる雪が隠してくれるだろう。

 その後、何食わぬ顔で千恵の後を追っかけた。

「あら、さくらはどうしたの? 放っておいて良いの?」

 そう訊ねる千恵に、こう答えた。

「さくらは腹を立てて出て行った。今夜は何を言っても無駄だと思う。それより良い処で邪魔が入ったから、もう一回やり直さないか?」

 そう水を向けると、千恵は嬉しそうに擦り寄ってきた。

ラブホテルで二人は野獣と化し、一晩中愛欲に溺れた。

翌日、俺は何食わぬ顔でさくらの実家に連絡をして、米国から慌てて帰国したような態度を装った。彼女は自分が殺したというのに……。


 ところが、その事に今頃になって気づいた千恵が俺をゆすってきた。俺は彼女をホテルに呼び出しそこで話し合おうと伝えた。


2008年2月14日

 千恵には、指定された新宿西口にあるホテルに来るのに、マスコミに気付かれないようにサングラスをかけ、タクシーも二度乗り換えるように言い含めた。

目的のホテルに着くとさっさとロビーを横切りエレベーターに乗る事、二十一階で降り目的の部屋のドアを三度ノックしろとも伝えた。

「ヒメ、久しぶりだな。さあ、入れよ」 俺は笑顔で迎え千恵を部屋の中に招く。

「突然電話なんかしてごめんね」

そう言う千恵を抱え込むようにして、抱きしめる。

「良いさ。今日はバレンタインだ。愛の告白をするために来てくれたんだろ?」

俺の右手が千恵の頤を上向ける。瞼を閉じ待ち受ける千恵の唇に軽く一回、次は強く押しつけ舌を差し入れる。互いに舌を絡ませあい強く吸う。俺の手が千恵のバストを愛撫し、もう片方の手が背中に回りスカートのファスナーを下ろそうとする。

「待って、今夜はある重要な事を確かめに来たの」

 俺の手を振り切り、千恵はリビングのソファに腰を下ろす。

「どうしたんだい? 怖い顔をして」

自分も座りながら煙草を取り出し、ライターで火をつける。

「さあ、先ずは乾杯しよう。千恵のためにシャンパンも用意しておいたんだ」

 俺はシャンパンの栓を抜き、グラスに注ぐ。その間、千恵も昂ぶった気持ちを落ち着かせようと煙草を吹かす。

 無理矢理、千恵にグラスを持たせ、自分のグラスとカチンと合わせる。

 千恵は形だけグラスを傾け、本題に入る。

「トロが剃刀で衣服を切る、アクは薬物を一服盛る、私は不倫映像。次はハルの番よね? 一体どういう形でリベンジするつもり?」

「おいおい、藪から棒に一体何を言ってるんだ」

「とぼけないで! 最初はうちの旦那の仕業だと考えた。それぞれの事件は全てあの事件のリベンジよね。とすれば、あの時の状況を知る者の仕業って事。うちの旦那がそんな詳しい事を知っている訳が無い。知る可能性が有るのは貴方しかいない。でも判らないのは、貴方はリベンジなんかするつもりは無い。そうでしょ?」

同意を求めるように言うと千恵は意味ありげに微笑む。

「そこで思い至ったのは、これはリベンジと見せかけて別の狙いがあるってこと。それが何なのかは私にも判らないわ。でも十年前の記憶を思い起こしているうちに、私しか知らない秘密を思い出したの。そうしたらとんでもない考えが浮かんだ――」

 千恵がバッグから何かを取り出し、俺に見せる。

 それは、千恵と男がクリスマス・イブに、ゲームセンターで撮ったプリクラであった。写真自体をハートの縁で囲み、96・12・24と日付が刻印されていた。

 俺はチラとそれを見た。千恵の話を黙って聞きながら後ろ手でそっと手袋を嵌める。

「どうなのよ? この写真、価値が有るとは思わない? 幾らなら買ってくれる?」

 計画通りうまく行っているというのに、昔の余計なことを思い出しやがって……こうなれば仕方が無い。

 決心した俺は、素早く立ち上がり千恵に襲いかかったのだった。

                

2008年2月22日

「よくも俺を騙したな。利用するだけ利用して……千恵に対してもお前は身体目当てだった。玩具にしただけだろ。俺は千恵を亡くして気がついた。やはり俺は千恵を愛していたんだって事を。死ね! もがき苦しみながら死んでしまえ」

 堀田はそう叫びながら、力任せに何度も出刃包丁を野坂の腹に突き立てた。

 腹が切り裂かれ腸が飛び出す。血まみれになった両手で堀田は尚も包丁を突き立てる。

「オー、ノー」エレベーターから降りてきた住人の女性が、目の前の惨劇に悲鳴を上げた。

 遠のく意識の中で、野坂は尚も考えていた。

あれから十年。もうすでに忘れ去られた事件だと思っていたが、真相に勘付いた千恵が脅迫をしてきたのだ。このまま生かしてはおけない。予定外の殺害だった。

すべてはそこから崩れていった。いや、違う。すべてが狂いだしたのは、あの十年前のクリスマス・イブだったのかも知れない。それとも母に殺意を抱いたあの時既に……。

 糞、俺はこんな処で野垂れ死にするわけには行かない! しっかりするんだ、立て、立つんだ。

両足を踏ん張ろうとしても力が入らず、野坂は膝から崩れ落ちた。そして再び起き上がる事は無かった。

 そんな野坂を茫然自失となった堀田武史が、微動だにせず見下ろしていた。


エピローグ

2008年3月26日

 いつまでも寒い日や雨模様の天気が多かった三月前半から一転して、後半は晴天が続き気温もぐんぐん上昇し漸く春らしい天候となった。井の頭公園の桜もいつの間にか八分咲きとなり来週辺りには満開となりそうだ。気の早い花見客がブルーのシートを所狭しと広げ、車座になって盛り上がっている。そんな連中を横目で見やりながら近藤は津坂邸へと向かった。

 今まで幾度も加寿子の手料理を食しに津村邸を訪れている近藤ではあったが、本日はいささかの緊張を伴う強い決意があった。どう切り出したものか、出たとこ勝負でぶつかるしかないか……そんな考えを巡らしながら歩を進める。

 加寿子の案内で奥の座敷へと通される。津村は寛いだ和服姿で近藤を迎えた。

既にテーブルの上には配膳がしてあり近藤の到着を待ち受けていた。

「やあコンさん、待っていましたよ。どうぞ楽にして下さい」

 自分とテーブルを挟んだ向かいの席を勧める。

「しかし、残念な幕切れとなりましたね。目下、堀田は米国で公判中です。政府が身柄引き渡しを要求したのですが、どうも望み薄です」

「しかし、堀田に殺される前に野坂をこの手で捕まえたかった。田上千恵を殺めたのは野坂でしょうが、例の贈収賄について誰の依頼で動いたのか。証言が取れれば今度こそ黒幕を逮捕できたでしょうに……すっかり二つの殺人事件ではぐらかされた感があります」

「その通りですな。まあ、悔やんでも仕方が無い。過ぎた事件は忘れて今日はゆっくり英気を養いましょう」

 そう言って津村は独活と筍の天麩羅に抹茶塩を付け頬張る。

「そうなんでしょうが……総てが終わって振り返ってみると今回の事件は一体何だったんでしょうか?」

「何だったのかとは、どういう意味です?」

「事の発端は、そもそも事件と呼べるような事では無かった。ただの痴漢未遂と飲酒運転です」

「そうですな。だがその二件に正体不明の女性が絡んでいたのです」

「そこです。そもそも津坂さん、あなたが私に依頼などしなければ、何事も起こらなかったはずだ。村中の娘を誘拐した田崎由里も子供を返すつもりで危害を加えるつもりは無かった。追跡した村中と河合にしても子供を取り返し田崎由里にお灸を据えただけで終わったはずだ。それなのに我々警察が動いたために、彼らの昔の悪行がマスコミに大々的に取り上げられる結果となり、野党もここぞとばかりに村中の義父である丸山氏の更迭を政府に突きつける結果となった。すべては私が野坂の仕掛けたブービー・トラップの地雷を踏んでしまったことがきっかけです」

「おやおや、これはコンさん、手厳しい。それじゃ、まるで私がコンさんに地雷を踏ませたみたいじゃないですか」

「すいません、今のは愚痴です。だが津村さん、貴方は捜査の進展とともに野坂の計画にうすうす気がつかれたんじゃ有りませんか? それがどの段階だったのか私には判りません。しかし、あなたは端から復讐という考えに懐疑的だった。当初は私にもトラップに引っ掛からないようにアドバイスを下さっていたはずだ。それがある時点であなたにはこの騒動の狙いに気がついてしまった。さくらの遺書にしても偽造だと感じていたんじゃないですか? しかしあなたはそれを私には告げず、野坂の計画が成功するよう黙認した」

「私がそんな事をして何のメリットがあると言うのです?」

 津村が溜息をつきながら、それでも今度はふきのとうの和え物に箸を伸ばす。

「そこが判らなかった……津村さん、あなた方検察がマークしていたのは牧田代議士なんじゃ有りませんか? 彼は国土交通省次官から衆議院議員となった。所謂、建設の族議員です。彼が属している派閥の領袖、三浦幹事長は次期総裁レースの本命と噂されている。この時期にスキャンダルはまずいでしょう」

 近藤はそこまで言うと、津村の顔色を伺う。津坂は聞いているのか、いないのか料理を食べ続けている。

「三浦幹事長はあなたと同窓だ、つまり日本最高学府の法学部を卒業している。だが、彼は学生時代にひた隠しにしている過去がある。調べてみて面白い事実にぶち当たりました。あなた方の学生時代は学生運動が盛んだった。所謂全共闘世代だ。ご他聞に漏れず、あなた方両名も母校の講堂を占拠していた同志だったんですね。だが、津村さん、あなたは仲間を裏切り、日和ったんです。そのため大量の逮捕者が出たが、あなただけは無傷で逃れた。三浦はリーダー格と見なされ実刑判決を受けた。そこから三浦の人生は狂った。司法試験に合格したものの法曹関係への道は閉ざされ、不遇な時期を過ごしたようです。片やあなたは、検察庁に登用され順風満帆、エリートコースを歩んだのです」

 そこまで一気に喋り、近藤は津村の表情を見つめる。津村は相変わらず箸を止めることなく料理をつついている。

「その後、三浦は保守本流の首領と呼ばれた元首相、大池宏の鞄持ちの職にありついた。そのうち頭角を現し第一秘書となり、大池の地盤を武器に立候補した。最初は参議院、二回の当選後衆議院に鞍替え。歴代の首相に目を掛けられ今の地位を不動のものとしたんです。そこまで漕ぎ着けるのは並大抵の苦労じゃなかったでしょう」

 いつの間にか津村は箸を下ろしていた。

「さすがはコンさん。良くそこまで調べあげたものですな」

 近藤が更に続ける。

「そんな彼の姿を見るにつけ、あなたは常に自分が日和った事に後ろめたさを感じていたんでしょう。そこへ今回の事件です。野坂の意図を悟ったあなたは、彼の計画が巧くいけば見て見ぬ振りをしようとしたんです。だが、奴は田上千恵を殺害してしまった。こうなれば、あなたも立場上見逃すわけには行かない。しかし、野坂が逮捕されれば黒幕が明らかになる。運命のいたずらなんでしょうか、またもやあなたは三浦の進路を妨害する立場に立たされた。そこで堀田を炊きつけ野坂を消すことで証拠隠滅を図った。どうです、これが私の導いた結論です」

 黙って話を聞いていた津村が、突然乾いた笑い声をたてる。

「フッ、フッ……大胆な発想ですな。堀田や田崎由里という操り人形を操っていた野坂も実は誰かの操り人形だったという訳ですな。ですが、コンさん、もし仮に私がそれを認めればどうするつもりですか?」

「津村さん、まさか……そうであるなら理由はどうあれ、私は貴方を許せない」

「私は認めるとは言ってませんよ。仮定の話です。それにコンさんの推理を裏付ける証拠が何も無い以上、どうしようも出来ないでしょう?」

「堀田が、謎の人物から十年前の真相を暴露する電話があったと上野に話したそうです。私は諦めません。時間が掛かろうが単独でコツコツ捜査してでも必ず尻尾を掴んで見せます」 そう言って津村の顔を凝視する。

 津坂も目を逸らすことなく近藤を見詰める。一瞬の沈黙が訪れる。

「あらあら、どうしたんです? 二人とも怖い顔をなさって」

 汁椀を運んできた加寿子が、屈託無く喋る。

 まだ睨みつけている近藤から視線を外し津村が応じる。

「いや、コンさんが余り荒唐無稽な事を言い出すもんだから、つい……冗談が過ぎました」

 そうはぐらかすと、津村は声を上げて笑うのであった。


                 了

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