第十九章
「あの、石黒くん……」
「どうしたの?」
食事を終え、口を拭いている石黒くんが顔を上げた。
「パ、パンケーキ食べたい……」
最初に目に留まったパンケーキに、私は心を奪われていた。
「いいよ」
彼は微笑みを浮かべて頷いた。
「俺も食べようかな」
二人でパンケーキの一覧が載ったページを開く。
ホイップバターパンケーキ、ブルーベリーパンケーキ、チョコ&バナナパンケーキ、イチゴパンケーキなどがある。どれも美味しそうだった。
穴が開く程メニューを見ていると、石黒くんが「決まった?」と声をかけてくる。
「ううん、まだ。石黒くんは?」
「俺は決まったよ」
「そうなんだ……」
悩む。
抹茶パンケーキも美味しそうだし、期間限定のかぼちゃパンケーキも美味しそう。ああでも、イチゴパンケーキも食べたい。
悩んで悩んで、やっと決まった。
「待たせてごめんね。私、抹茶パンケーキにする」
「全然大丈夫だよ」
彼は優しく笑って、「注文するね」と言い注文を始める。
「そういえば、今日天気良くてよかったね」
石黒くんが窓の外を眩しそうに見て言った。
「あ……そうだね。雨の予報だったもんね」
今日は雨と予報されていたのでバッグの中に折り畳み傘を忍ばせておいたが、使うことはなさそうだ。
「澄川さんは傘とか持ってきた?」
「うん。折り畳み傘をバッグに入れてる。石黒くんは?」
そう訊ねた途端、「ちょっとまって」と石黒くんが声を上げた。
「ど、どうしたの?」
「澄川さんが嫌なら断ってくれていいんだけど……」
石黒くんが少し緊張したような顔つきで口を開いた。
「苗字呼びってなんか余所余所しいから、名前呼びにしない?」
「えっ」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「あ、嫌なら断っていいから!」
石黒くんが慌てて手を横に振る。
「あ、あの、石黒くんがいいなら……」
「よかった」
彼がほっとしたような顔をする。
「えっと、石黒くんの名前ってなんだっけ?」
本当は覚えていたけど、鮮明に覚えていたけど、なんだか覚えていることが気恥ずかしくて、忘れているような発言をした。
「零夜」
れいや。
ああ、いい名前だ。
そう思った。
私は爆発してしまうのではないかと思うくらいドキドキと鳴る胸を押さえて、小さく息を吸ってから口を開いた。
「——零夜」
その瞬間、石黒くん——零夜が顔をほころばせて笑った。すごく嬉しそうだった。その笑顔に、胸が高鳴った。
「あっ、呼び捨てしてごめんね! 気分悪くした? くん付けくらいすればよかったかな?」
急激に後悔した。雰囲気で呼び捨てしてしまったが、失礼じゃなかっただろうか。慌てて謝っていると、「大丈夫だよ」と言ってくれた。
「嬉しい。ありがとう、は——」
「ストップ!」
零夜の声を遮って、声を上げた。彼が不思議そうな顔をする。
「ごめん、嫌だった?」
彼が慌てて謝ってくる。
「ううん、色々あって……名前呼びは、やめてほしい」
嫌だったわけじゃないよ!と付け加える。
私はもしかしたら千雪さんかもしれない。だから、名前呼びは私の名前がはっきりしてから呼んでほしい、と思った。もちろん名前呼びはしてほしかったけど。
「わかった。名前呼びができる日を楽しみにしてるね」
「うん……」
その時、ちょうどいいタイミングでパンケーキが運ばれてきた。
「あ、零夜はイチゴパンケーキにしたんだ」
「うん。甘いものが好きで……」
「意外かな」と彼が小さく笑う。
「全然意外じゃないよ。甘いものが好きな男の子もいるし、辛い物が好きな女の子もいる。人それぞれでいいんだよ」
「……そうだよね。ありがとう」
彼が嬉しそうに笑い、パンケーキを見た。
二人で「いただきます」と手を合わせてパンケーキを食べ始めた。
とても美味しそうな抹茶パンケーキ。
スマホで写真を撮る。
そしてナイフとフォークを手に持ち、食べ始める。
上に乗っている粒あんとバターとの相性が良く、とても美味しい。
「澄川さん、美味しい?」
零夜が首を傾げて訊ねてくる。
苗字呼びだということが、自分で苗字呼びでいいと言ったくせに、なんだか少し寂しかった。
「うん。零夜は?」
「美味しいよ」
「私、イチゴも悩んだんだよね……」
「なら一口食べる?」
「え……っ!?」
私は目を見開く。
それって、か、間接キスになるんじゃ……?
そんな私の思考は無視して、零夜がパンケーキを一口こっちに向けてくる。たくさんイチゴが載っていた。
「はい、あーん……」
「あ、あーん!?」
「うん」
彼が不思議そうに首を傾げた。
「あ、あーん……」
おずおずと口を開ける。パンケーキが口に入ってきた。
その瞬間、口に甘いイチゴとパンケーキの味が広がった。
少し酸っぱいイチゴと、甘いパンケーキと生クリーム。
「お、美味しい……」
「よかった」
彼は嬉しそうに笑って、パンケーキを食べる。
それ、私が口付けたフォーク、とは言えなかった。
そのあとのパンケーキは、恥ずかしくてドキドキして、味がよくわからなかった。
「あ、お会計……何円出せばいい?」
「え? 俺が払うけど?」
当然のことかのようにそう言った零夜に驚いた。
「ええ? そんな、私が食べたから!」
「ううん。俺が払う。そんなに払いたいなら、次どこか行ったときに払ってもらおうかな」
彼が意地悪な子供のような顔をして笑った。
あれ? もうまたどこか行くことが決まってる……?
そう思いながら、彼が速やかにお会計を済ませているのをぼーっと見ていた。
「じゃあ、帰ろうか」
「う、うん……」
一緒に店の外に出る。
「今日は楽しかったね」
「うん」
私は零夜の言葉にうなずく。
「一緒に帰る?」
「あっ、私、寄りたいところがあるから!」
私が愛彩さんの家に住んでいることを知られるとなんだかまずそうだったので、私は言い訳をして、彼と店の前で別れた。
私は歩きながらスマホを取り出し、連絡先一覧を開き、【石黒くん】と表示されている場所をタップして、名前を【零夜】に変えた。
そのことを、彼は知らない。でも、それでいい。
連絡先を見て心が温まるのがわかった。
やっぱり零夜が大好きだ。
日が暮れそうな空に向かって、そう叫びたかった。
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