・・・

 ※かなりきつい性被害の描写があります。閲覧注意。





 四度目の生は凄惨な終わり方をしたけれど、三度目の人生、すなわち二度目の覚醒は、始まりからして地獄だった。

 朦朧とした夢の淵から浮かび上がってきたその時まさに、わたしは犯されている最中だったのだ。額まで赤く上気させた中年男がわたしの身体に乗って、鼻息荒く、激しく腰を揺すっている。

 衝撃のあまり何の反応もできなかった。喉はこわばり身動きもできず、石になったように固まったきり。しかも、その男を“おとうさん”だと認識したせいで、さらに混乱し恐怖した。

 なんだこれは。こんな。やめて。嘘だ。嫌だ、いやいやいや……

 生きながら石臼に碾かれているようだった。何度も、何度も、碾き潰されていく。生きながら殺される。なのに悲鳴も出ない。

 誰か。誰か。助けて。

 耐えきれず、意識は身体を引き剥がして遊離する。早く終われ早く終われ早く……

 ――ようやく男がわたしの上からどいた後も、身体と心が痺れてすぐには動けなかった。男がどこかへ出て行く。わたしはのろのろと起き上がり、床にうち捨てられていた自分の服を拾った。そっと静かに様子を窺い、裸足のまま戸口の隙間をすりぬける。

 外はもう薄暗い。誰も見ていない。

 残照を頼りに、どこへという当てもなく逃げ出した。ひたひたと足音を忍ばせ、身を屈めて草藪に潜みながら、家々の間を抜けていく。村外れまで来て、身を隠せる茂みがなくなったところで、走り出した。

 途端に誰かがわたしを見付けた。外で用を足していたあの男かもしれない。わからない。

 おい、と怒鳴る声があまりに恐ろしくて、心臓が飛び出しそうになった。箍の外れた力で地面を蹴り、転びそうになりながら駆ける。足の裏に石が刺さっても、月が雲に隠されて何も見えなくなっても、かまわず走り続けた。そうするうち、凍り付いていた悲鳴が喉を破って溢れ出した。

 力尽きて膝が落ち、地べたに座り込んで。握りしめた拳を口に押し込むことで、舌を噛み切りたい衝動を堪え、そのまま惨めにうずくまって嗚咽した。

 ――なんて酷いことをしてしまったのか。

 かつてシャニカであったわたしが、魂の継承を望んだばかりに。器となる少女の人生を奪うばかりでなく、かほどの虐待に遭わせてしまった。

 魂に虚ろを持つがゆえに感情が希薄な娘を、両親は知恵遅れだと判断したのだ。何をしても、させても、理解できない、何も感じないのだと。だから好きに扱って良いのだ、と……。

 魂が馴染むにつれて今生の記憶が自分のものとなり、肉体の感覚もはっきりする。最前まで責め苛まれていた場所だけでなく、あちこちで痛みが疼いた。我が身を抱きしめて指を腕に食い込ませた途端、そこに鬱血した痣があるのを思い知らされる。

 わずか十年と少しの、虚ろで惨めな人生を送った少女のために泣き、目覚めと同時に決して落ちない穢れに冒された自分のために泣いた。

 もう逢えない。

 この穢れた身で、愛するあの人に逢いには行けない。

 罪を犯し、罪に穢されたこの身では――


 どうやって今生を終えようか。しばらくはそれしか考えられなかった。

 自ら命を断つ方法をいくつも考えたものの、下手をすれば魂の絆が切れてしまうかもしれず、実行はできなかった。あの人という存在がある限り、己一人が決めて良いことではなかったから。

 そうは言っても、今生をまっとうできる望みなど持てなかった。

 とりあえず、あの家から遠ざかろう。決して連れ戻されないために。飢えて倒れるならばそれでも良い。

 そう考えて、あてもなくただ歩き続けた末、道端に座り込んだきり動けなくなった。それを助けてくれたのが、彼――後に『無径の救い主』として救世教の祖となる、当時はただマーフという名の人だった。

 厳密には、わたしを見付けたのはマーフ本人ではなく、彼に従う信徒の一人だった。親切なその女性が、わたしのような身の上の者を迎え入れてくれる場所がある、と連れて行ってくれたのだ。

 場所、というより、集団、と言うべきだろうか。当時マーフは出身地ファラフの周辺をゆっくりと旅して回っており、信徒の一団もそれに従って移動しながら、野に天幕を張って暮らしていたから。町や村の中に入ることはなく、マーフとごく身近な数人だけが広場や神殿に赴いて、神から授かったという福音を説いていた、らしい。

 一緒にいたのに、らしい、というのも妙だけれど、実際のところわたしは、後の世で盛んになったような形で彼が布教をしている姿を見る機会がなかったから。

 わたしから見ても、彼は不思議な存在だった。彼と呼びはしても、実際のところ男性らしさはほとんどなかった。無径の子を生さぬよう、親族の手で早々と去勢されてしまったからだ。恐らくそのことが、彼の信仰のひとつの源になったのだろうと思う。

 人となりは……一言で表すなら、変わり者。後光が射しているわけでも、見るだけで平伏したくなるほど威厳や神秘を感じさせるわけでもなく、そういう点ではお父様シェイダールのほうがよほど常人離れしていた。

 ただ彼は、異質だった。

 単に『路』を持たない無径者であるだけでなく、世界の常識を外れたところにいるというのが、言動の端々から感じられた。

 奇矯なふるまいをしたというわけではない。

 むしろ静かで穏やかで、いつも世界と人を、普通とは違う視点で見つめているような雰囲気だった。他の人の身の上や行いを話題にすることも滅多になくて、その時その場で相対している人だけが、彼にとってのすべてだと思わせる……そう、星空と対話しているような感覚。

 相手は大きくて遠くて、たぶん他の人々も同じ空を見上げて祈ったり願ったりしているのだろうけれど、それぞれが星空と心を交わす時、それは閉じた世界の孤立したやりとりになる。誰にも言えないことを語りかけ、完全に秘密が守られる関係。

 だからわたしも、彼にすべてを打ち明けた。

 自分がどんな目に遭って逃げ出したのか。その原因はそもそも、わたし――かつてシャニカと呼ばれた者が、魂の継承を行ったせいだということも。

 罪を犯し穢れに冒され、もはや愛する人にまみえることは叶わない……そう言って泣くわたしに、彼はただ微笑んで答えた。

「あなたは穢れてはいない。罪を犯したというなら、それは私が引き受けて死ぬから、安心しなさい」

 聞いた時は正直、頭は大丈夫かと心配した。彩紀千年の頃には、救済の教えは常識になっていたほどだが、当時はまったく異質な考えで、わたしも理解に手間取った。

 神々に犠牲を捧げてとりなしを乞うのは昔ながらの祭祀の作法ではあれど、彼が言うのはそういった性質のことではない。神々に対する不敬や冒瀆といった罪ではなく、かといって人の法で裁かれるべき罪でもない、言うなれば当時は“行き場のない罪”であったものを……他人のぶんまですべて引き受けるというのだ。さすがに理解しかねたし、とても信じられなかった。

 でも彼は本気だった。自分はあらゆる人の罪を背負って死ぬのが、天から下された使命なのだと信じていた。

「でも、あなたがすべての人の罪を引き受けるなんて、本当にできるの? あなたが死んでしまった後も、人間は生まれ続けるのよ」

 そう訊いたわたしに、彼はなんでもないことのようにうなずいた。

「ならば私も、何度でも生まれ、そして死のう」

 まさかわたしの身の上話を妄想だと思って、それに合わせているのだろうか。わたしは最初、そう疑った。疑惑が顔に出たのだろう、彼はそれを違うように受け取って滔々と語った。

「私は死を恐れていないんだよ。死ねば天におわす主のもとで幸福に満たされると知っているからね。人は皆、そうだ。己が負った罪を正しく理解した者は、赦されて主のもとへゆく。そこは素晴らしいさいわいの国だ。あなたは多分、あえてその手前で引き返してこの世に戻り続けているのだろうけれどね」

「……」

 わたしは何も言えなかった。先にも言ったように、ひとつの生を終えてから次に目覚めるまで、己の魂がどうなっていたのかは知らない。自分がどうやって死んだのかも覚えていないのだ。魂に『死』が刻まれてしまえば次の『生』に結び付けられないから、死後の世界があるとしてもわたしはそれを知らない。

 真実如何にかかわらず、彼の説く『天国』が多くの人々に救いと慰めを与えたのは事実だった。マーフ以前の一般常識では、死者の魂は風に乗って空へ還り、やがて世界の根に降る――それだけだったから、死後の安息を約束してくれる教えは魅力的だったのだ。


 いずれにしても、わたしには新しい教えを吸収する余裕はなかった。

 信徒集団の中に居場所を貰い、どうやらわたしはまだ死ねなくて、今後はここで暮らすらしい、と成り行きを受け入れた後、やってきたのは「妊娠していたらどうしよう」という恐怖だった。

 この身体が初潮を迎えた記憶はない。だがもしかして、単にもうあの男の種が胎に入ってしまったからではないのか。まさに今この時も身体の中でそれが芽吹き育ちつつあるのではと思うと、おぞましさのあまり錯乱し泣き叫んだ。

 かつては喜びと共に感じたあの小さな『路』の響きが今また現れたら、とても正気ではいられない。もっと恐ろしいのは、胎児の『路』が感じ取れないほど小さく弱くて、気付いた時には腹が大きくなっていたら。ああ、そんなことになるぐらいなら今すぐ身を投げよう、絆で結ばれたあの人のことも過去も未来も何もかも知るものか。

 狂ったように慟哭するわたしを、先人である女たちが慰めてくれた。大丈夫だ、子を堕ろす方法なら皆いろいろ知っているから。どれも上手くいかなくても皆でちゃんと面倒を見るし、赤子の始末だって一緒にしてあげる、とさえ言って。

 似た経験をした女同士、皆、あけすけに語り合った。実父や舅、あるいは兄弟や親類に犯されて身籠もった者。もう子供は産めない産みたくない、と言っても夫が聞き入れず孕まされた者。皆、伝え聞くあれこれの方法を片端から試していた。手に入る限りの薬、あるいは呪い。冷たい川に一日中浸かっていたり、わざと崖や階段を転げ落ちた者もいた。

 それでわたしは初めて、世の中にはこんなにも、確実に子を堕ろす方法を切実に求める女たちがいることを知ったのだ。

 不幸中の幸いでわたしは妊娠しておらず、それでやっとひとつ安心すると、皆と共に暮らしを営みながら、負った傷を癒やしていけるようになった。

 マーフの説く戒律を守り、必要な糧を得るためだけにこつこつと働く毎日。誰にも搾取されず、利益を生もうと躍起になる必要もなく、立場の優劣を決める駆け引きに神経をすり減らすこともない。

 そして誰も、ウルヴェーユを使わなかった。色と音はいつも静かで、詠うかわりに祈りを捧げる。わたしもまた彼らの崇める新しい神に対して、古い神々に対する信心とは別の漠然とした心持ちで、共に祈った。

 それは不思議な感覚だった。路に通う彩りに心を浸すことで得られた、めくるめく高揚や豊かな知識にともなう充足とは、まるで違う。

 無色無音の静寂のなかを、どこまでも深く潜ってゆくのだ。やがてさまざまな感情や記憶や思考がゆっくりと在るべき形をとりはじめる。あたかも、路に刻まれた螺旋の標が、ひとつひとつを選り分ける助けとなったかのように。

 自らの裡を整え、同じように虐げられて傷を負った女たちと語り合うことで、わたしの認識は次第に変化していった。

 わたしは――わたしたちは、傷つけられ辱められ、損なわれた。だが穢れてなどいないし、ましてや罪科などない。そう認めた時、マーフが背負うと言っている『罪』はこれなのだと理解した。強者によって押された烙印、卑しく穢れた者とされた人々の『罪』。贖うことも拭い去ることも許されず、「おまえは一生そこにいろ」と牢獄につながれた人々を、彼は解放すると言っていたのだ。

 後の世では随分と変質してしまっていたけれど、当時そうした本来の意図を理解した時、間違いなくわたしは救われ、同時に強く確信した。

 わたしがこのような目に遭わされたことに、正当な理由など何ひとつ無い。

 忌むべき罪人は、わたしを凌辱したあの男こそ。

 理解し、納得すると、自責に代わって怒りが燃え上がった。怒って良いのだ、憤怒の叫びを上げ糾弾して当然の理だ。

 赦してはならぬ。許してはならぬ。決して、決して。


 地の底で滾る理の根源のごとく、怒りの熱はわずかとも冷めなかった。愛する人と再会した後も、肉体が朽ちた後までも。

 ――だから、次の生ではあれほどの苛烈な行いに踏み切ったのだ。



  ***



 覚醒を促したのは、悲しみの気配だった。

 随分遠くから微かに伝わるそれは、間違いなく私を呼んでいるのに、同時により遠くへ逃げていくように感じられ、私は焦った。

 幸いなことに家族には多くの兄弟がおり、救済を説く新たな宗教の噂も広まっていたから、なぜかいきなり信仰に目覚めた私が家を出て行くことにも大きな困難はなかった。

 救世教のことは口実にしただけのつもりだったが、彼女の気配を追って旅するうち、それが正しい選択だという確信が増していった。彼女もまたそこにいる、と。

 ――確かに、私は彼女を見付けた。

 ようやく信徒集団に追いつき、大勢の雑多な人々の間を歩き回って、絆の星が瞬くところへと足を急がせて。女ばかりの一団の中に彼女を見出した時、彼女も私に気付いて振り返った。

 目が合い、歓喜が響き合ったのも刹那、次の瞬間には砕け散った。

 予想もしなかった。愛する人が私を見て、これほど顔を歪めることがあろうとは。顔を背けられる前に見て取れたのは恐怖と嫌悪だったが、もっと様々な感情が渦巻いていることが感じられ、私は我を忘れて駆け寄った。彼女を失ってしまう、と直感したのだ。

 信じられないことに、彼女は逃げた。私に背を向けて。

 その時には成り行きを見たまわりの女たちが、杖や石を手に立ちふさがっていた。

「来るな! それ以上近付けば許さないよ」

 一人が声を張り上げたが、こちらを恐れているのは明らかだった。力ずくで押し通るのはたやすかったろうが、私は当惑して立ち止まり、彼女を見失いたくなくて人垣の向こうに視線を走らせながら頼んだ。

「何もしない。ただ……私はあの人を捜していたんだ。会わせてくれ、話がしたい」

「駄目よ、あの子は怯えている。あんたはあの子の何? なぜ追ってきたの」

 どう答えたものか。今生ではついさっきが初対面でお互い名前も知らないのに、必ず巡り会うべき相手だなどと、狂人の戯言にしか聞こえまい。

 厳しい敵意と警戒に囲まれて返答に窮している間に、彼女はどこかに隠れてしまった。私はため息をつき、女たちを見回して問いかけた。

「教えてくれ。彼女に何があったのか、なぜここにいるのか。私は……かつて彼女と再会を約束して別れたが、その時はあんな様子ではなかったんだ」

 女たちが顔を見合わせ、どうするかと小声で相談する。ややあって一人が用心深く答えた。

「ここにいるのは皆、逃げてきた女ばかり。男の暴力からね。あの子は、父親に犯されていたって」

 愕然とした。聞かされた言葉が信じられず、ただ相手を凝視する。

「あんたは何も知らずに、あの子を残してどこかに去ったわけ? 毎日のようにやられて、母親からは四六時中叩かれて、とうとう逃げ出したって言ってたのに」

 責める声音に痛みを感じる余裕さえない。まさかそんな醜悪な地獄がこの世にあるとは、三度目の人生でさえ想像しなかった。しかもそんなところに、誰より大切な、必ず守るべき人を……

 私があまりにも衝撃を受けた様子なので、女たちもさすがに警戒を緩めたようだった。構えていた杖を下ろし、石を捨てて、しかし誰も私に言葉をかけようとはせず、ただ去っていく。

 思い出を頼りに甘い夢を見て幼馴染を捜し出し、現実に打ちのめされた情けない若者。その時の私は、まさにそんな姿をしていただろう。

 だが私よりも遙かに酷く打ちのめされた彼女のほうが、立ち直る努力を先に進めていた。途方に暮れて立ち尽くすだけだった私に、内なる路を通じて微かな呼びかけが届く。導かれるままにふらふらと歩き、人気の無い木立へ入り込むと、彼女が一人で待っていた。

 拒まれたわけではなかったか、と私は安堵し、はやる気持ちを抑えて歩み寄る。だがあと五歩ばかりのところで、彼女が震えて後ずさり、私も立ち止まらざるを得なかった。

「だめ。来な、いで」

 初めてかけられた言葉がこれだ。その内容もさながら声があまりに痛々しくて、私は殴られたよりも酷い気分になった。かつて明るい夜明けを思わせる色だった声は今、ひび割れて、どす黒く濁った正体不明の色の欠片がぱらぱらと剥がれ落ちるばかり。

「わかっ、てる。あなた、のこと。でも、だめ。怖い」

 いつも聡明で、優しさと知的な閃きや楽しさを次々に紡いで淀みなく語ったあの姫君が、もはや見る影も無い。遙かに宇宙を望む澄んだ瞳も、今は狂おしい激情の渦巻く暗い虚ろだ。涙の形をとった苦悶が溢れだし、次々に頬を伝い落ちても、私はそれをただ見ていることしかできなかった。

 ゆっくりとひざまずき、頭を垂れる。

 愛する人がこれほどに変貌してしまうとは、夢にも思わなかった。私にはどうすることもできなかったのが、あまりにも無念だった。

 何よりも、己の認識の甘さを思い知らされたのが痛撃だった。

 生まれ変わるということは、必ずいつも恵まれた境遇を得るとは限らないこと。すぐそばで目覚められるとは限らないこと。そして彼女は、その性ゆえに私よりも遙かに危険な目に遭う可能性が高いこと。どれも、まるで考えていなかったのだ。

 犯される女、殴られる女がいることは分かっているつもりだった。愛する人がそんな目に遭わないよう守りたかったし、守れると思っていた。だが一方で、その実態をどこか他人事として軽んじていたことに気付かされた。女というのは……そういうものだ、という意識。むろん自分の大切な人には絶対にそんなことはしないしさせないが、その他大勢、世間の女というのは、そのように扱われるのも普通のことだ、と。

 それがこんなにも、『人』を壊してしまうものだとは、想像してもみなかったのだ。目の前の彼女は、私の愛するあの人と同じだと、もう信じられないほどに変わってしまった。

 彼女は泣きながら謝った。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し。

「謝るのは私のほうです。あなたは何も悪くないではありませんか」

 そう言いながら、私も泣いていた。

「ええ、わかってる。今生の、わたし、は、悪くない。ごめんなさい、は、あなたに」

 一語一語血を吐くように、懸命に押し出していく彼女は、壊れてしまっていてもやはりかつてと同じ魂を持っていた。狂気を孕んで危うくとも、彼女は自分が望んで魂を結びつけた私に、世の醜悪を見せつけ無力の絶望を味わわせたことを詫びようとしていたのだ。

 しばらくお互い、後悔と謝罪を繰り返した。巻き込んだこと、止めなかったこと、守れなかったこと……

 抱きしめて慰めたくとも触れられず、彼女から「聞くだけで幸せになれる」と喜ばれた黄金の声も失って、どうにもできない自分が心底呪わしかった。だが二人でそうして、取り返しのつかないことを嘆いているうちに、少しずつ感情はおさまっていった。

 私たちは何日もかけてゆっくりと話し合った。

 彼女がどこに生まれ、どんな親の元でどんな子供として育ったか。それゆえにどんな目に遭ったか。ここに辿り着いて、どのように心境が変化していったか。

 ――そうするうち、私の心にはひとつの決意が固まっていった。


 必ず戻ります、と強く約束して、私は愛する人のそばを離れた。不安はあったが、男である私が常に近くにいるよりも、今しばらくは女たちの互いをいたわる手に信頼を預けておくほうが良いと判断したのだ。

 そしてその間に、私は私で為すべきことを為した。

 ひと月ほどして帰ってきた時には、そうなればと望んでいたように、彼女の表情は以前よりも和らいで、双眸から溢れ落ちていた暗闇が瞳の奥にひっそりと小さくなっていた。

「どこに、行っていたの」

 なぜ離れたのかと詰りたくもあったろう。だがそれは鋭さを折り取った小さな棘ほどに抑えられていた。前のように感情を爆発させる予兆は、消えてはいないが、遠くへ退いていると感じられた。だから私は正直に告げた。

「あの男を殺してきました」

「……」

 一瞬、様々な感情が虚ろな仮面の裏側を通り過ぎていった。瞬きもせず、彼女はじっと私を見つめるばかりだったが――ややあって、あらゆる判断を決めかねている声音で問うてきた。

「わたしのために?」

「いいえ。あなたに成り代わって復讐を、などとおこがましい考えではありません。ただ、結果としてあなたの心が少しでも……もうあの獣はいないのだと、決して害されることはないのだと安心できるのなら、喜ばしく思います」

 私はひとまずそう言って頭を下げた。それから訥々と、道中ずっと自問自答していた考えを語る。

「実の娘を犯すような男は、間違いなくまた同じことをする。妻や娘、たまさか手の届くところにいた子供が、犠牲になる。それを見過ごすことはできなかった。あなたに対して犯した罪の報いを受けさせずにおくことも」

 正直なところ、私にそうさせた衝動はあまりに強くて、なぜ、何のために、と考えるのが難しかった。とにかくあれは殺さねばならないと、使命感に突き動かされていた。

 為された悪には裁きと報いを。正しい報復は、傷つけられた身体や損なわれた心の再生に役立つだろうとは思ったが、たとえそうでなくとも糺さねばならぬ。

 復讐? 否だ。復讐というなら彼女自身が手を下し、あの男を気の済むように処して初めて成るものだ。では私が、私の愛するものを傷つけられたことに対しておこなう復讐か。むろんそれはそうだ。しかし決してそれだけではない。大切な人でなければ傷つけられ毀たれても放っておいて構わない、という道理にはならない。

 何を裁き、何を糺すために行くのか、私は問い続け――ようやく結論に辿り着く。

「私の行いは……次の犠牲者を出さないためであり、また同じ男の、そして『父親』の、名誉と尊厳を守るためでもあったのです」

 正しいか否かは判じられぬにせよ、それが答えだ。

 彼女は揺れ動く感情を抑え込み、無言のままじっと私を見つめ続ける。長い沈黙の末に、ふと視線を外してつぶやいた。

「あなたは良いわね。名誉とか、尊厳を、守るために戦えて」

 声が震え、背けられた横顔に涙がひとすじ伝う。だが彼女は取り乱さなかった。

「わたしたち女には、そんなもの、無い」

「――」

 違う、あなたには名誉も尊厳もある、ひどく傷つけられはしたが――と、否定したい気持ちが喉元まで迫り上がったが、飲み込んだ。本人が『無い』と言うのなら、それが実感であり経験であるのだろう。……そも、女の名誉とは何なのか。

 男の名誉ならばわかる。戦や狩猟での武勲、賢明な裁きや政治、といった具体例がすぐに思い浮かぶし、それらを煎じ詰めればすなわち『公明正大であり物事を成し遂げる力があると認められること』だ。そのようにして人々を、国を、守り育ててきたことが我々男の誇りであり、だからこそ弱者を虐げたあの男は名誉を汚した罰を受けて当然だった。

 だが女の名誉は? 女王のような地位に関係なく認められるものとは何だろう。美貌や貞潔か。優れた子を産み育てたこと、あるいは夫の勲功を助け支えたことか。……そんなものが名誉?

 否。そもそも、尊厳も名誉も認められていないからこそ、彼女は犯されたのではないか。

 その時になって初めて、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。

 大切な姫君、愛する妻であり崇敬する女王でもあったこの人にさえ、私は――人としての名誉と尊厳を、認めていなかったのだ。愛し敬いながらも、常にうっすらと『彼の君の娘』という見方を当然のものとしていた。すなわち、その他大勢の女に対するのと同じ、主体は男であり女はその子や妻、あるいは母といった形で従属するものである、と。

 私が動転したことに気付いたのか、彼女はこちらを見て、儚く悲しげな微笑を浮かべた。

「もしもまた『次』があれば、そういうものを得るために、戦えるかしら」

 私はただ黙って頭を垂れることしかできなかった。

 次の生では、彼女の戦いを必ず共に戦おう、と固く心に決めて。

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