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 王女シェリアイーダのひとつ前、五度目の生で、わたしは地方の役人になった。覚醒は遅く曖昧で、ずっと微睡まどろんでいるような状態だったから、彼もわたしを見付けられず、一人のままで長く過ごした。

 理由はわかっている。もうひとつ前、四度目の人生でわたしはいたからだ。もうこのまま目覚めなくても良いと、ぼんやり思いさえした。次は無くて良い、もう終わりにしたい。これ以上、あの人を巻き込むのもやめよう、と。

 それでもやはり、時折は気がかりを思い出すものだ。これまでの生で為した数々のこと、その結果について、積極的に知りたいとまではゆかなくとも、仕事の合間に噂話や書物、論文の類を漫然と探していた。

 時は彩紀六百年代。シェリアイーダの時代よりも随分昔だが、紙の書物は筆写ながら多く流通していたし、学問も日進月歩で、世の中は“知の時代”などと謳われていた。

 そして幸か不幸か、既に労僕がこの世に生み出されていた。

 まだ広汎に実用されるまでは至らず、人間が嫌がる労働の場に限って使われはじめていたけれど、初期の労僕は人間よりも脆弱なほどで、最も厳しく危険な仕事には役立たなかった。それでも、少しでもきつい仕事を肩代わりさせようとして次々に使い捨てられていて……わたしの仕事は、そうした労僕の流通に関するものだった。


 ――そう、だからシェリアイーダ王女も、労僕使役の現状を把握するのにどこを探せば良いかすぐにわかった、というわけだ。時代は隔たっていても、役所の基本的な仕組みは大きく変わらない。組織改編はさまざま行われても、部署名から察しがつくし、あとは親切な人にちょっとした伝手があれば良かった。これも因果のひとつ、ということだろう。


 日常の仕事としては、わたしはあくまで手続きをするだけだった。要請をとりまとめて書類を回して、裁決されたそれをもとに各所への『出荷』を手配する。労僕に直接かかわることはなかった。それが幸いしたと言うべきだろうか。

 わたしは仕事上の関心から、この奇妙な新しい生き物について記された資料をあれもこれも集め、読み漁った。第一工廠の成り立ち、歴史的な経緯を知りたかった。

 知って後悔した。

 百年余り前の、わたしの四度目の生に、これほど深く関わっているなんて。

 この頃にはまだ、地方役人でも事実を探り当てられる状態だった。シェリアイーダの時代に常識となっていた説明、「人手不足を補うために生み出された」という単純明快な理屈が建前ではあったけれど、その実態を暴く証言、記録、そして糾弾の言論も、まだ読むことが出来たのだ。


 すべてはひとりの『魔女』に端を発していた。

 その女が労僕を創ったのではない。魔女はただ、子を産みたくなかっただけ。最初は安全確実に胎児を堕ろす術を組み上げ、次いで子種が苗床に根付かぬようにしてしまう術を、あろうことか、大々的に世に知らしめたのだ。

 それがわたし、魔女と罵られたわたし自身。

 四度目の生で、貴族と呼べるそれなりの家柄に生まれたわたしは、たった八歳で婚約が取り決められていた。相手は父親よりも年上の男。既に子供どころか孫までいるくせに、自分の性欲と家の繁栄のために年若い嫁を求めたのだ。醜悪すぎる。

 幸いなことに覚醒した時はまだ、実際に結婚してはいなかったけれど、どんなに嫌がり抵抗しても聞き入れられる状況ではなかった。容姿がそれほど良くなかったために、お前のような不細工が選り好みするな、とも罵られた。

 初潮がきたらすぐにも子を産めるように着々と段取りを進められ、家出を試みたものの失敗して折檻され監禁され、意志も尊厳もなく家畜のように扱われて。

 わたしは怒り狂った。婚姻の名のもとに強姦されるなど断じて耐えられない、それぐらいなら何もかもめちゃくちゃにしてやる。憤激のままに、暴力的な音色と詞を紡いだ。

 そして、絶対に子を産んでなどやるものか、という決意を込めて――同じく不本意な人生を耐える女たちへの救いになれ、とばかり、付近一帯の者に無差別にその術を伝え知らせたのだ。

 今ならその拙劣なやり方を嘆くこともできるけれど、当時はまったく余裕がなかったから、仕方ない。地位も名声も伝手もなく、時間もなく、心の強さもなかった。自分の行為の結果生じたすさまじい混乱を、捌いて御す力などむろん持たず、ただ翻弄され……

 最後には、生きたまま焼かれた。わたしの暴走に付き合ってくれた彼と共に。


 ありがたいことに、わたしには自分の『死』にまつわる記憶が無い。最初の生から次の覚醒も、そのまた次の覚醒も。すべて、いつの間にか意識が途切れて、眠りを経て目覚める繰り返し。なんとなく、最後はこうなって死んだのだろうな、という漠然とした認識があるだけだ。

 だから五度目の生で役人をしながら、前の時はろくな死に方をしなかったらしいと感じていたところへ、克明な記録を見せつけられて動揺した。

 しかも『魔女騒動』はわたしの死後も続き、その延長上に労僕の創生があったのだ。


 ――女が孕んだ子を勝手に堕ろす? それなら腹を裂いて胎児を取り出し、この『子宮』で育ててやれば良い。女が死ぬ? どうせ胎児殺しの罪人ではないか。無垢な命を救え。それこそが正義だ――


 実際に誰かがそう言ったのか、確かめようはない。だが五度目の生で読んだ告発の書には、そうした意図でもって事態が推し進められたことが記されていた。

 元々は、あまりに早産でそのままでは死ぬ赤子を保育するため、あるいは出産間近で妊婦が不慮の事故により死亡した場合に腹の子だけでも助けるために、研究開発が進められていた技術だったらしい。

 そんな善良な目的に携わる人々ならば良識も倫理観も信頼に足りそうなものだが、逸脱はそこ――後に第一工廠となった施設、六彩府の支所のひとつから、始まった。

 名のある学者とその出資者すなわち政治力のある貴族が、揃って『子宮』の新たな使い道を提唱すると、あっというまに賛同者が増えた。『魔女』が世に放った術を肯定し支持した者は次々に邪悪の徒と指弾され、責められ詰られ転向を迫られた。最初は言論だけだったその圧力が肉体的な暴力に変わるのに時間はかからず、ひとり殺されたら、もう後戻りはできなくなった。

 狂気がさらなる狂気を呼んだ、としか言いようがない。

 四度目のわたしは、既に世の人々の残酷さを痛感してきたはずなのに、まだ見通しが甘かったのだ。子を産まない女への憎悪がこれほど烈しく、たやすく燃え広がるものだとは。既に疫病や地震や水害で人口が減り、世情が不安になっている時に、産まないと公言することがいかに危険であるか。

 事態が沈静するまでに、各地で大勢が殺された、と記録は語る。堕胎の意図を疑われた妊婦だけでなく、不運にも妊娠しないだけの女も、ここぞとばかり標的にされた。まっとうに子を産むつもりの女でさえ、『邪悪の徒』とのかかわりがあれば憎悪の対象となり、理不尽で苛烈な尋問や拷問の末に死んだという。

 そうして、“救い出された赤子”たちは皆、『子宮』を経て無事に生み出され、恵まれた環境ですくすく育っている――という美談が、まことしやかに広められた。いずれワシュアールの未来を支える健やかな子供たちだ、と。

 現実には、知っての通り。『子宮』がまともな人間を育むものではないと暴露され、腹を裂いて取り出しまでした赤子が、醜く愚鈍なできそこないになってしまったことが知れ渡ると、常軌を逸した熱狂はあっけなく冷めた。執念深く罪人を見つけ出し糾弾していた人々が、揃って口を拭って知らぬ顔をし、何事もなかったように、犠牲者も遺族も奇怪な生き物のことも、全部無視して元の生活に戻っていった。もちろん、職や住まいを変えたり、親族付き合いをやめたりといった身の処し方をした人はいたろうが、公には誰も裁かれず罰せられもしなかった。

 そうして『子宮』は『大釜』に名を変え、支所は工廠となり、人間の赤子だったはずの生き物は『労僕』とされて。はじめから労働力の確保が目的だったかのように、記録はごまかされ歪曲され抹消されていったのだ。


 そんな馬鹿げた話があるものか、と到底信じられないような、しかし事実が、歴史にはごまんとある。この労僕創生にまつわる出来事もそうした事柄のひとつだ。

 他人事であれば、わたしもただ呆れ、慨嘆の言葉をひとくさりつぶやいて頭を振り、自分の仕事に戻れただろう。歴史はどうあれ、今はもう労僕の生産と供給が社会の一部になっているのだから、わたしはただ仕事をするだけだ、などと割り切って。

 けれどそうはいかなかった。わたしは自分が引き起こした結果にうちのめされ、使い捨ての運命を負わされた労僕たちに、なんとかして償いをしなければと思った。

 強くその意志をもった時、わたしは本当に覚醒し――彼に見付けてもらうことができたのだ。



   ***



 五度目の生は、奇妙な感覚で始まった。今までは先に彼女が目覚めていて、その呼び声に引かれるように私が覚醒したのに、ふと気付くと自分だけが記憶と自我を取り戻していたのだ。

 困惑し、胸に宿る星のきらめきを探したものの、あまりにも遠く微かにしか感じ取れない。どこに行けば良いのか見当もつかなくて、取りあえず各地を旅して廻れるようにと、荷運びや護衛といった雑多な仕事を請け負うことにした。幸か不幸か、幼い頃に両親を亡くして路上で育ったから、そうした生き方に何の不自然もなかった。

 恐らくこちら、と予感が導くに任せて、町から町へ。

 そうして出会ったのが、ヤディン=ウパスタ――後にリゥディエンが彩理学者の部屋で著書を見つけることになる、あの学者だった。彼が提唱した『世界樹の端』について初めて聞いた日のことは、今も鮮やかに憶えている……



 石碑の前に立てて置かれた透明なガラス製円筒の中で、揺らめく炎のように色彩の花弁が踊る。明るい朱のひとひらがふわりと広がってから細く伸びて消え、かわりに深い蒼の雫がゆっくりと浮上してゆく。その後に従うのは黄金の星屑。

 筒の中でそれぞれの居場所を探して色が移ろうさまを、鋭い目がじっと観察していた。

 と言っても、こちらから見えるのは地べたに這いつくばった中年男の丸まった背中と、泥汚れのついた尻だけだ。

 作業が済むまで待っている間に、私は驢馬の背から荷物を下ろしてやった。早くも道端の草をもそもそ食んでいた驢馬は、何か用かと黒い瞳をこちらに向けたものの、すぐに関心を失って食事に戻る。

 思わず小さく笑いをこぼした。歳月が流れ町並みが様変わりし、次々と新しい道具が生み出されても、驢馬というやつはまるで変わらない。

 まあ、腹が減るのは人間も同じだ。

 革紐を解いて行李を開け、食糧を取り出す。堅焼きパンとチーズ、酢漬け野菜に干し棗、新鮮な柑橘。行李に布をかけて台にし、椰子の葉を皿にして野外の食卓を調える。さすがに葡萄酒と杯までは荷物に入れていないが、水筒の水がいつでも清浄なままだから衛生面での問題はない。便利になったものだ。愉しみを重んじるなら、酒はもちろん茶器の一揃えまで持ち歩く旅人もいるが、ありがたいことに今のあるじはそういう性質ではない。

 用意が出来てもまだ、彼は仕事に熱中していた。最初にいた石碑の前から移動して、別の所でまた理の流れを計測している。

 私も護衛としてのつとめを果たすべく、周囲に目を配り耳を澄ませた。

 ――が、ただでさえ地の果て同然の辺鄙な土地で、さらに街道を外れた場所とあって、まったく人影はない。初夏の爽やかな風が緑の梢を揺らして駆け抜け、鳥がさえずるばかりだ。

 私は気を緩めてうんと伸びをし、晴れた空を仰いだ。澄み渡った青い響きが心地よい。大地の上で紡がれる、休みない人の営みによる色と音も、天の彼方にまでは届かないのだろう。

 いつしか目を閉じて己の路を辿っていたらしい。わざとらしい足音と咳払いで我に返ると、あるじが不機嫌そうなしかめ面で、自分の鞄を机代わりに手帳を広げていた。計測した数値を書き込む鉛筆の動きが止まるまで、こちらから話しかけはせずに待つ。

 この偏屈な男が、彩理学者ヤディンだ。都ではそれなりに名が知れており、六彩府に自分の研究室を持っていたらしい。書き込み終えた後も、彼はむっつりと記録を睨んで思案していたが、ややあってふっと息を吐いて手帳を閉じた。

「それも随分くたびれてきましたね」

 手元を視線で示しながら言う。彼は「長らく持ち歩いているからな」と愛想なく応じ、昼食にしようと腰を下ろした。私もその前に座り、水筒を手渡す。

 ヤディンは喉を潤してから、黙って食べ始めた。かつてのように豊穣の女神に感謝する祈りはない。救世教徒は今でも主の恵みに感謝してから食べるが、あるじは何の信心も持たなかった。強いて言うなら、学問が彼の神だ。

 神々はおろか娯楽快楽の類にもろくに関心がないため、今もすっかり乾いた堅パンをそのまま食いちぎっている。調査行に出たばかりの頃、気を利かせて火を熾しパンやチーズを温めて供したのに無駄だと一蹴されて、以来このざまだ。

 しばらく顎を動かした後で、彼は石碑を振り返ってため息をついた。

「まったく……六彩府も湧出点の管理にもっと予算と人員を回せば良いものを。測定条件が場所によってまちまちになってしまうのでは、調査の信頼性が担保できんというのに、いつまで経っても野ざらし放ったらかしで」

 ぶつくさぼやいている内容は、すっかり聞き飽きた愚痴だ。

 遙か昔は『神の指先が触れた場所』と呼ばれ、それから『禁域』と称された、いにしえの封印を施された土地は、今では『湧出点』という神秘のかけらもない名前になっている。理の力が湧き出ている所、というわけだ。

 封印が弱まって周囲に危険が及ばぬよう、各地に監視の彩学者が派遣されるようになりはしたものの、ワシュアールの領土が拡大すると禁域の数も増え、常時すべての地点を監視しているのは人員の無駄、というか実際問題不可能になった。

 ために、ここのように辺境の土地で人里から離れているような場合は、存在だけは報告され記録されるものの、それっきり放置されている。ヤディンはそうした場所も含めて、国内すべての湧出点をまわりその状態を測って記録しようとしているのだ。何年かかるやら、正直ちょっと気が遠くなる。

 現に、都を出た時は弟子の学生や雑役夫がお供していたらしいが、私が出会った時には全員が脱落していた。病気、事故、あとは単に仲違いなどで。

 一人になり、不慣れな土地で見知らぬ若造を雇ってまで調査を続けようとする彼が、何をそれほどまでに求めているのか。私は興味を抱きながらも、なかなか聞き出せずにいた。

「そろそろ王国の東半分をおよそ制覇したわけですが……成果は?」

 何気ない態度を装って水を向けると、彼は胡乱げな目つきでこちらを睨んだ後、膝に落ちたパン屑をはたいて時間稼ぎをした。そうして、ようやっと実のある回答をくれる。

「全体像が見えてきたというところだな。確信をもって断言するわけにはいかんが、やはり理の流れには『端』があるようだ」

「端……? つまり、理の力が働く範囲に限界があると?」

 私は思わず驚きの声を上げた。その可能性を漠然と意識してはいたものの、調べて明らかになった事実として告げられると重みが違う。私の反応に、ヤディンはやや得意げな面持ちになった。続ける声が熱を帯びる。

「彩紀のはじめ、大王がウルヴェーユなる神秘を解き明かし、ワシュアール人の目を開かせたことによって、『最初の人々』が都をエストゥナガル――すなわち『大いなる御柱の家』と呼んだ、その理由を我々は知った。いやはや、あの天地を結ぶ巨大な光がそれまで誰にも見えていなかったというのは、まったく、信じられんがな!」

 そこまで言って、はたと眼前にいるのが学生ではないと思い出したらしく、彼は興醒めした様子で口をつぐんだ。私は身を乗り出して先を促す。

「『世界の柱』が顕わになったのは大神殿基部を発掘し復元した後だとか。あなたの調査結果と照らし合わせると、その『柱』一本で支えられる天には限りがある、というわけですか」

「そもそも『柱』ではなかったのだ」

 彼は私の説を払いのけるように手を振ると、石碑のほうを見やり、それからぐるりと空を見渡して、ひとつ息をついた。

「まぁ今でも世間一般ではあれを、理の柱で世界の中心、とみなしているがな。しかし彩学者の世界では、もうその呼び名は使わん。あれは……樹、樹木だ、そう呼ぶのが主流になっている。世界樹、だとか」

「樹木……なるほど。確かに、大樹を幻視することが」

 古い記憶がよみがえり、私は曖昧に言葉を切る。彼――我が友シェイダールが神殿の奥であの祭壇に触れた時。あるいは継承の儀式で。大いなる理の流れは時に黄金の大樹としてその姿を顕した。

「意外だな、おまえも知っていたか。視たのならわかるだろう、あの『柱』は確かに巨大だが不動のものではない。理が常に流れ移ろうように、いわば生き物のようなものだ。その根が張る大地も、梢が届く空も、どこかで端に達する。そも、世界というものが太古に考えられていたほど狭くはないと判ってきた頃には、あれが世界を支える柱であるなら一本では足りるまいという説が出ていた」

「領土の拡がりにつれて無径者が増えたことも、関係が?」

「結論を急ぐな。どうやら端があるらしいと見えてきただけで、それが実際我々人間にどうかかわっているかなど、まだ全く手つかずなのだからな。各地の湧出点を調べて分布図を作成するだけで一生かかりかねん。さらにはその範囲外の世界がどうなっているのかなど……どこまでやれば“成果”と言えるものか」

 珍しく心許ない気分になったのか、ヤディンは口ごもり、強引に矛先をこちらへ向けた。

「おまえのほうはどうなんだ。人を捜していると言ったが、進展したのか」

「いいえ。残念ながら、まだ何も」

 私は端的に答えて肩を竦めた。実は捜す相手の名前もわからない、などと言えば知性の所在を疑われかねないので、彼には具体的なことは話していない。今になって興味が湧いたのか、ヤディンは質問を重ねてきた。

「そもそも誰を捜している? 親の仇か、それとも借金を踏み倒して逃げた奴か」

「なぜそう殺伐とした発想をするんですか。違いますよ。……私の、最愛の人です」

「女か!」

 途端に彼は天を仰ぎ、大げさに呆れた仕草をした。

「はっ、この世で最もくだらん理由だな! 馬鹿馬鹿しいことに人生を費やすもんだ、愛だと? もう少し賢いかと思っていたが、おまえも所詮たわけか」

 散々にこき下ろして鬱憤を晴らした後、彼は寛大にも“愛に生きる若者”に慈悲をたまわった。憐れむ目つきで私を見つめてから頭を振り、食事の残りを片付けにかかる。片頬を膨らませたまま、彼は軽侮の声音で続けた。

「まあ良い、そうやって愛などという幻想に毒された馬鹿同士が番って子を生まなければ、人の世は続かんのだからな。せいぜい毒杯に酔いしれろ」

「あなたが人嫌いで愛に思い入れがないのは、前から察していましたが。男女の愛を下らないと言うあなたにも、別な愛はあるでしょう」

 私と彼女との間にあるものは、彼が唾棄するありふれた熱情の類ではない。が、それを説明することはできないし、そのつもりもないので、矛先をもう一度彼の方に向けてやった。

「あなたのような学者の努力によってウルヴェーユは進化し、付随して他の学問も発展してきた。そうして得られた知見は暮らしを変え、大勢の命を救い、つらく苦しい労働の重荷を軽くした。人々の幸福を願ったかつての……大王の意志を、あなたもまた受け継いでいる一人だ」

「寝言は寝て言え。儂は人間の幸福になんぞ興味は無い」

「これは手強い」

「慈愛の心がある聖人だとか持ち上げたら、儂が気を良くするとでも思ったか? ふん、くだらん。ああ、むろん六彩府の理念に弱者救済だの公正だのがあるのは承知だとも。だが現実を見ればわかるだろう、人間が――すべての人間が幸福になる世界など、絶対に不可能だとな。その実現に努力しても無駄だ」

 すっかり醒めた顔になり、彼は鼻を鳴らした。持論を強調するだけの熱意さえなく、嫌悪や憎悪も既に通り越してただ諦めた人間の顔。

「絶対に、とまで言い切る根拠は?」

「一人が、つかのま、安楽で満足した幸福を得ることは可能だろうよ。面倒な雑事、煩わしい思案、つらい汚れ仕事を全部他人にやらせておけばな。人の幸福は他人の犠牲なしには成り立たん。だから、皆が幸せに、などと考えるだけ無駄だと言うのだ。知恵と技で労苦を軽くすることはできても、労そのものはなくならん。まあ近頃は労僕しもべが人に代わって多くの場所で働いておるが」

「労働のすべてが責め苦であり犠牲である、というわけでもないでしょう。苦にならぬ程度の仕事もあれば、終われば幾倍にも報われる喜びを得ることもある」

「確かにな。儂のこの調査も苦労は多いが、他人に任せてしまおうとは思わん。だが仮にすべての人が、そうして自分のやりたい事だけをやって暮らせる世が実現したとしても、そこに幸福は約束されまい。別な理由で蹴落とし合うだけだ。人より愛されたい、褒められたい。ちやほやする側でなく、される側になりたい。他人を従わせたい。己が正しく、他は誤りだと認めさせたい。まことに人の欲は尽きることなし、というやつだ」

 捨て鉢にお手上げの仕草をした学者に、いつだったか目にした青年祭司の姿が重なった。ウルヴェーユによって暮らしが安楽になるのは結構だが、それが幸福と同義とは限るまい――そう言った彼も、今にして思えば、幸福というものを諦めていたのかもしれない。

 そんな記憶につられて、当時の我が君の不機嫌な顔がよみがえる。ふと口元が緩んだ。彼ならば、今の言葉を聞いて何と言うだろうか。

 きっと、悲観的な言い分を否定はしないだろう。最後まで聞いて、けれど同意も肯定もせず、眉間に皺を寄せて「だから? それで終わりか?」と言う。ああ、その声まで聞こえるようだ。


 つまらん奴だな。それだけ頭がいいのに、そこで終わるのか。人の欲に限りはなくとも、それを理由に他人を害することを禁じられたら、幸福は増えなくても不幸は減らせるじゃないか。その間にウルヴェーユを究めてゆけば、欲そのものだって制御できるかもしれないのに、諦めるのか?


 そんな事は不可能だ、と言い返されたら、「おまえにやれとは言ってない」と一蹴するだろう。おまえはおまえの仕事をしろ、それがわずかでも可能性を拓く道だ、と。いつだって彼は未来を諦めなかった。

「……気持ち悪い奴だな、何をにやにやしている」

 おっと、つい空想に耽ってしまった。私は現在に意識を引き戻し、かつての友とは別な方向に偏屈な今のあるじに答えた。

「古い知り合いを思い出していたのです。あなたに会わせたかったな。きっと面白かっただろうに」

「面白いとはなんだ、失敬な」

 ヤディンは苦々しく唸り、そしてふと不審げな表情になった。

「おまえはよくわからん。若いくせに、時たま妙に年寄りくさい。たいして学のある育ちとも見えんのに、賢しい物言いをする。……まぁどうでもいいがな」

 話は終わりだ、と切り上げる声音で言って、水を飲む。私は野外の食卓を片付けながら、軽く応じた。

「あなたも興味深い人ですよ。人間の幸福に興味はない、愛など馬鹿馬鹿しい、と言いながら、人の世の存続を願っているのだから」

「おかしくはなかろう。愛も幸福もどうでもいいが、世界の秘密は解き明かされるべきだ。その知能をもっているのは、今のところ人間だけなのだからな」

 思わず私が驚いた顔を振り向けると、彼は至極当然の風情で、地平の彼方に霞む山脈を見やったままつぶやいた。

「いつか誰かが、この世界のすべてを理解する。むろん儂が生きている間にはなかろうし、それが人間ですらなくともかまわんのだ」

 静かだが確固とした言葉が胸を打つ。ああ、同じ目だ。遙かな未来を、決して己の手は届かぬと承知でなお求め、渇望するまなざし。

 シェイダール、友よ。おぬしがここにいなくて本当に残念だ。



 ――この時、感慨に耽るばかりでなく、気付くべきだったのかもしれない。世界を支えるあれが『柱』ではなく『樹』であり、生き物のように流れ移ろうものだとすれば、すなわち……枯れることもあるのではないか、と。

 だが当時の私はそこまで考え至らず、それよりも愛する人の行方を気にかけていた。

 ひとつ前、四度目の生が凄惨な終わり方だったから、傷つき疲れ果てて目覚める力も無く、独りで泣いているのかもしれない。早くそばに行きたいと焦っていた。

 だから、調査行がひとまず終了に近付いたある日、胸に宿る星の光がはっきりと強まった時には歓喜した。雇用契約をかなぐり捨てても駆けつけたくて、衝動を堪えるのに苦労したほどだ。

 ヤディンは私をそのまま助手にして都へ連れて行くつもりだったようで、別れを告げるとあからさまに不機嫌になったが、引き止めはしなかった。自分は愛だの幸福だのを捨て去っていても、他人がそれを拾いに走るのを邪魔しないのは、彼なりの信条があったのだろう。

 ようやく再会できた彼女は、予想通り傷つき疲れて見えたが、魂のきらめきはいっそう強まっていた。

 ごめんなさい、と彼女は詫びた。巻き添えにしてごめんなさい、ひどい死に方をさせてしまった、と。だから私は答えた。

「巻き添えではありません、私はあなたと共に生きることを自ら選んだのです。あなたの戦いを、私も支持し、共に力を尽くしました。……結果は残念でしたが、あなたのせいだとは全く思いません」

 彼女は瞑目し、黙ってしばらく私の言葉を噛みしめて、それからやっと少し微笑んだ。

「本当に、あなたは強い。……そばにいてくれて、ありがとう」

 その感謝を口にされるのは何度目だろうか。私は彼女の手をしっかりと握り、やはり同じ返事を繰り返した。

「私を振り払わずにいて下さって、ありがとうございます」

 互いの目を見つめ、こつんと額を合わせたら、あとはもう感謝も謝罪も必要なかった。私たちは今生も共に在る。そう確かめて、手を離す。

 すぐに彼女は表情を改め、話を切り出した。

「聞いて。わたし、知ってしまったの」

 真剣なまなざしで彼女は語った。前の生での行動の結果、どんな狂乱が世を襲ったかを、そして労僕が生み出された経緯を。

「もう取り返しはつかないけれど、少しでも償わなければ」

「それは違う。あなたの罪ではありません。女たちを殺したのも、労僕を生み出したのも、あなたではない。あなたの行いがきっかけを作ったとしても、それほどの惨劇を広めたのは世の人々だ。あなたが背負い、償う必要など」

「無い、でしょうね。ええ、理屈ではわかっているの」

 おざなりではなく深くうなずいて同意を示し、だが彼女は決然と続けた。

「それでもやりたいのよ。だから……一緒に考えてくれる? 彼らのために、何ができるかを」


 ――その時、私は改めてつくづく、この人が好きなのだと思った。

 幾度も生まれ変わり、多くの厳しく重い経験を経て、私も彼女も最初のありようとはかけ離れつつあるが、それでもなお変わらぬ魂がある。愛しく尊い魂が。


 ともあれ、その後の日々は穏やかに過ぎていった。二人で知恵を絞っても、できることはほとんど無かったからだ。私たちはあまりに無力だった。

 わずかでも頼れる伝手といえばヤディンだけ。人間嫌いの彼が我々のために骨折ってくれるとは思えなかったが、一縷の望みをかけて書簡を送ってみた。意外なことに、彼は労僕の人生や尊厳といった問題にいくらか興味を持ってくれて、後に『人間の定義』と題した論考を発表してくれたが、残念ながらあまり注目されず、数多の屍の山に埋もれていった。

 そうして、私たちの望みは次の生へと持ち越されることになったのだ。



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