第三部 反転



   終



 かつての異変と同じく、それはほとんど誰にも気付かれないところで、少しずつ密かに進んでいた。やがて誰の目にも明らかになった時、それは急激かつ大規模なかたちをとって現れた。

 丘陵地帯に暮らす遊牧の民が、風に異様な気配を感じて西の空を仰ぎ見る。丘陵の陰になって禁忌の森は見えないが、その上空には不可解な現象が生じていた。

 雲は嵐の予兆のように渦巻き、虹のような色彩が瞬いては消え、光は歪み離散集合を繰り返す。異変は森の上に限られ、くっきりとした境の東側にはまったく平常の青空が広がっている。それだけに、不気味さがいや増した。

「今代様、これは……良くない事が起きるのでは」

 不安と恐れに顔をこわばらせ、誰からともなく継承者たる青年のもとへ集まる。答えと解決を求める視線に、しかし、イーラウ自身も応じるすべを持たなかった。

「私にもわからない。だがこの感覚は明らかに、理の力に異変が生じている」

「先の継承が失敗だったのでしょうか」

「否」イーラウはきっぱりと否定した。「これは女神に原因があるものではない。もっと大きな……」

 語尾を濁し、胸に手を当てる。ワシュアールの『世界樹』とつながっている『路』は今、その内を辿れる状態にない。彼は霊峰を振り仰ぎ、行かねば、とつぶやいた。


 同じ頃、国境の長城砦では兵士のみならず付近の住民までが城壁の上に登り、ざわめきながら目陰を差して西の彼方を見ていた。

「シン殿、ありゃあ一体なんですかね。どでかい嵐がこっちに来るんじゃ……」

「俺に訊くな! 知るかよ、どうせまたあいつのせいだろ。ええいクソ、ちょっと行って馬賊の若様をふんづかまえて来らぁ」

 舌打ちし、砦の司令官シンは慌ただしく動き出す。うろたえた兵士が後をついて来た。

「行くって、じゃあ俺たちどうすれば?」

「黙って留守番してろ! ああ、えぇとそうだ、念のために雨漏りの修繕したとこ確認しとけ。あと食糧庫、わけわからん噂に煽られて誰かが隠したり盗んだりしねえように、しっかり見張っとけよ」

 旅装をととのえ馬に鞍を乗せて、と忙しく走り回りながら、シンは矢継ぎ早に指示を出していく。

「そんで俺と入れ違いに馬賊の連中がこっちに逃げてきたら、言い分は一応確認して中に入れてやれ。あいつらのほうが、ああいうおかしな状況に対処する方法を知ってるはずだ。奴らに何とかさせろ。ああもう、なんだって俺の任期中にこんなことばっか起こるんだよクソ! 本当なら今頃とっくに郷里くにに戻って暇な村役人やってるはずだったのに! 全部あいつのせいだー!!」

 やけくそのように喚き散らしながら、彼は馬にまたがって丘陵へと駈けていった。


 異変は拡大することはなく、だが消えて無くなることもなく、ただ不気味に蠢き続けていた。森がざわめき、動き出そうと身じろぎしている気配が大地と風を通じて伝わってくる。

 守り人の里ヴァストゥシャでも、誰もが驚き恐れて西の空を見上げていた。女神の継承について伝え知っている神子や里長も、こんな事態については何も聞かされていない。

 先の継承に立ち会った医師スルギのもとに、何か知らないかと何人もがやって来たが、彼にも答えられることはなかった。結局、イウォルの若様に尋ねるしかない、となって使いが出されたが、予想よりもずいぶん早く帰ってきた。継承者イーラウ本人と、なぜか帝国の役人まで一緒に。

 出迎えた里長は、イーラウに対していささか剣呑な態度で接した。というのも、現在の里長はヤティハだったからだ。

 そもそも里長といっても権威権力がともなう人間的なものではないから、いつでも交代しておかしくはないのだが、こと今回に限っては先代の配慮ゆえだった。今、口伝を教えておけば、ミオがどういう役目を果たしたのかを知ることができるし、同時にヤティハが長の間にふたたびの継承はなかろうから、「そんなむごいことはできない」などと苦悶しなくて済む。

 実際、女神の代替わりについて知ったヤティハは、丸い目が溶けて流れそうなぐらい泣いて泣いて、それはもう大変だったのだ。巻き込まれたスルギも、あの日の感情を呼び起こされてしまったし、危うく里の全員に秘密が知れ渡ってしまうところだった。

 そんなわけだったから、里の外れで継承者に相対したヤティハは、腕組みしたまま仁王立ちで素っ気ない挨拶をしただけで、館に招きもしなかった。イーラウは気を悪くした風もなく微苦笑し、里長と並んで立つ青年医師に呼びかける。

「久しいな、スルギ」

 いたわりの感じられる優しい声音だったが、スルギは不穏な唸りを漏らさぬよう堪えるのがやっとだった。

「そうでもない、たった二年です。……また誰かを?」

「いいや。此度の異変は女神の力が失われたのではなく、ことわりの――禁忌の森そのものに変化が生じたのだろう。もはや、女神と柩守ヴァステルシ、そしてそなたら関守ジルヴァスツという仕組みで持ちこたえられる事態ではない」

 淡々と告げられて、スルギは言葉を失った。たった二年でこんなことになるのなら、ミオは何のために身を捧げたのだ。あの水晶の中に吸い込まれて、消えてしまったミオ。怖い、と泣いて手を伸ばした彼女の苦しみは、いったい何のために。

 我知らず毛が逆立ち、膨れ上がる。イーラウの横にいた帝国役人が身を守るように後ずさったので、スルギは自分の反応に気付いて歯を食いしばった。彼がどうにか自制すると同時に、厳しい面持ちのヤティハが「ではどうする」と唸った。

 イーラウは正直に「わからない」と答え、霊峰を仰ぎ見た。つられて他の面々も、蒼穹を切り取る白い峰に目をやる。

「まずはとにかく行かねば。彼女の様子がわからないことには、我々に何ができるのかも決められない。里からも誰か代表して同行を頼む」

 誰か、と言いながら振り向いた視線は、やはりスルギに据えられていた。青年医師はうなずき、幼なじみの里長にも了承を得ると、すぐに支度にかかろうとした。そこへイーラウが声をかける。

「ああスルギ、この低地人のために防寒着を用意してやってくれ」

「えっ」

 驚いたスルギは、灰色の目を丸くして役人を凝視した。前回と違って一応の旅装はととのえているが、登山には到底備えが足りない。シンは決まり悪げに首を竦め、「頼む」と両手を合わせた。スルギは困惑し、イーラウとシンを交互に見る。

「つまり今回は……彼も『女神の喉』まで登るつもりだと?」

「そうだ。陽帝国を代表して、と言うにはまぁ、ほとんどの低地人が難色を示すだろうが、ほかにおらぬし、本人もその気で来たらしいのでな」

「うるせえな、いちいち嫌味な注釈を入れんじゃねえ」

 シンは忌々しげに唸ってから、改めてスルギに頭を下げた。

「ってわけで、すまんが道中も世話になる。おまえらと違って自前の毛皮もなけりゃ、怪しい妖術も使えない非力な凡人だが、だから関係ございませんと無視を決め込める状況じゃないんでね。砦からも丘陵の向こうに何だかわからん嵐みてえなもんが湧いてるのは見えてたし、どうしたらいいのか知りたいのは俺らも同じだ」

 真面目にそこまで言ってから、にやりと皮肉に笑って言い添える。

「女神様にも、せめてひとこと礼を言わなきゃだしな」

「……」

 継承者が素早く顔を伏せたが、シンの耳にはしっかり失笑が聞こえた。

「おい。鼻で笑いやがったな、今。小役人が女神様に拝謁賜りたいってのがそんなに面白いか」

「いいや。そなたなら気に入られるだろう、と思ったまでだ。……目覚めていれば、だが」

 付け足された一言に、シンも表情を改める。スルギは二年前に『柩』で見た光景を思い出し、小さく身震いした。また感情が暴れ出しそうになり、ごまかすように急いで歩き出す。倉庫に行って必要なものを見繕って、家のあれこれを片付けて……

 段取りを考えながら、彼は無意識に何度も目元を拭っていた。



 北方の高地にも、夏と呼べる季節はある。山に登らない限り雪はなく、大地は緑の草に覆われる、短くも鮮やかな季節。

 里を出たイーラウとシン、スルギの三人が『女神の裳裾』まで辿り着いた時、空は茜に染まりつつもまだ明るく、蜂蜜色の光の中で花々が風に揺れていた。

「前はこの辺まで来たんだっけな」

 シンがつぶやいて、記憶を確かめるように景色を見渡した。スルギはぱちぱち瞬きしただけで何も言わず、山道の先へ鼻を向けて空気を嗅いだ。当たり前だが、二年前の気配など何も残っていない。胸を刺す痛みのほかは。

 イーラウは既に野営の準備を始めていた。気付いたシンが、決まり悪げに手伝いに行く。スルギも少し遅れて加わった。

 雨露をしのぐ天幕を張り、火を熾す。その時にイーラウは、手をかざして何かを口ずさみかけたものの、結局普通に火打ち石を使った。シンは不審げに眉を寄せる。

「なんだ、便利な妖術は使わねえのか」

「妖術ではない」

 イーラウは律儀に訂正し、熾した火を吹いて大きくしてから続けた。

「内なる『路』を通じ、音色と詞で理の力を引き出す術だ」

「おう、『彩詠術ウルヴェーユ』だとか言ってたな」

「覚えているじゃないか」

「緑綬正二位をなめんなつったろ。前の時はたしか、パッと火をつけてたのに、今日は何か都合が悪いのか?」

 太陽が山々の陰に沈んだ途端、空気が冷たくなってきた。シンは手を擦り合わせて火にかざす。イーラウはしばし炎を見つめ、それから残照の西空を仰いでつぶやくように答えた。

「理の力がおかしくなっている今、術を使えなくはないが、必要最小限にしておきたい。どんな影響が出るかわからない」

 ここから見える空の端にも、微かに暗い影がある。スルギは目を細めてそれを睨んだ。

 禁忌の森。邪鬼。霊峰の女神。彼が産まれてからずっと共に生きてきた存在、すべてが崩れ落ちようとしている予感――と同時に、そもそも自分は世界の何を知っていたというのか、と目が覚めたような気分になる。

 東の平原が実在していることさえ、自分で確かめて知ってはいなかった。それを証する事物に触れたことも。里と森と霊峰、その外の世界がどうなっているのか考えたこともなくて、ただ現実として日々の暮らしにあるものだけを見て、信じて。

(ミオ、君が来るまで俺は)

 当たり前に里で生きて、子を遺し、いずれ死ぬ。そう定まっているものと、何の疑いも持っていなかった。こんな風に、先が見えない、どうしたら良いのかわからない時が来るとは夢にも思わなかった。

「出来たぞ、スルギ。ほら」

 仄かに甘い香りの湯気が鼻をくすぐり、はっと物思いから醒めると、イーラウが黍粥の椀を差し出していた。こちらを見るまなざしは、やはり穏やかで優しい。スルギはいたたまれない気持ちで礼を言い、粥を受け取った。

 人間ふたりが熱い粥を食べている間、スルギはじっと冷めるのを待つ。狼の舌でも問題ない温度になっても、すぐには食べ始めず、匙でゆっくり混ぜ続けた。そうすることで心を定め、彼は顔を上げてイーラウに言った。

「俺たちが女神と信じていたあのヒトは、誰ですか。女神と柩守と関守、という仕組み――あなたはそう言った。仕組み、だと。いつ、誰が、なぜそんなふうに決めたのか、話してください」

 予期していたのか、イーラウは平静にその頼みを受け止める。ひとつうなずき、俺も俺もと言いたそうなシンを一瞥して、深い呼吸の後で重たげに口を開いた。

「そうだな。今となっては隠さず語らねばなるまい。『柩』に着くまでには、おおよそのところは伝えられるだろう。『禁忌の森』に呑まれた西の大地に栄えた国……その最後の王女が、何に直面し何を為したか」


 焚き火のそばで、風除けの岩陰で、継承者は滅んだ国の歴史を物語った。シェリアイーダ姫と警士リゥディエン、人のしもべとして働いていた生き物、そして――それを基に獣と掛け合わせて生み出された獣兵。ウルヴェーユという神秘のわざと、その源たる理の力。文明を支えるそれが狂い始めた時、何が起きたか。

 自らの源流を明かされたスルギは、さすがに動揺した。女神がかつて人間だったことは、滅びた国という神話の一部としてそれほど苦労せず受け入れられたが、まさか自分たちが『邪鬼』と基を一にするとは信じがたかった。

 さらに、人々を生き延びさせ東の平原を守るために、たった二人が決意し背負ったものを知った時には、すっかり萎れて目を潤ませながら継承者に頭を下げた。

「すみません。あんな、ことを……俺は、何も知らずに」

 ミオを失った衝撃のあまり、彼を殺しかけたことを、今更に詫びる。イーラウは微笑んで許し、狼の頭を軽く撫でた。

「詫びるのはそなたではなく、我々のほうだ。敢えて知らせず審判を委ねたのだから」

 子犬のように鼻を鳴らして泣くスルギとは対照的に、シンは苦り切った顔をしていた。ろくでもねえな、と独りごちて腕組みし、舌打ちひとつ。イーラウが視線をやると、彼はこれ以上ないほど渋い顔で唸った。

「偉いさんが雁首揃えてなんにも出来なかったのかよ、くだらねえ。高度で便利な技術があって、世界の仕組みを解き明かすほどの知識もあったのに、いざって時にはざまぁねえな」

「いかに優れた知恵とわざがあろうと、用いるのは人間だからな」

 イーラウが苦笑すると、シンもつまらなそうに肩を竦めて同意する。

「ま、そりゃそうだ。今の陽帝国だって、内輪揉めをおさめるのはそれなりに上手いことやれてるが、全土を巻き込む危機だとかでかい話になったら、まともに動けるとは期待できねえからな。……どうなるのかね、これから。禁忌の森がこっち側まで拡がってくるとか、邪鬼どもがわらわら湧いてくるとか、こっちの世界樹が――そんなもんがあるとはついぞ知らねえが、あるとして――そっちの樹に負けて枯れちまうとか、そういうのは勘弁だぞ」

「私に言われても、どうしようもないが」

「わかってんだよそんなこたぁ! こういう時は嘘でも気休めを言うもんだろうが!」

「それは悪かった。……霧が晴れてきた、そろそろ出発しよう」

 心配性の小役人を軽くいなし、イーラウは狼の肩をぽんと叩いて立ち上がる。一夜を明かした岩の洞は、前に来た時にも使った場所だった。

 岩と砂礫の間に生えていた植物がやがて消え、夏でも融けない雪が下界からの客を冷たく迎える。シンが足を滑らせたので、イーラウは前のように六色の紐で三人を繋いだ。

 太陽が中天にかかる頃、一行は湾曲して頭上にせり出す巨大な崖に辿り着いた。『女神の喉』だ。今、その岩肌は不可思議な色彩の揺らぎを映していた。イーラウが何も詠っていないうちから、入り口が現れていたのだ。

 シンが息切れしながらも、驚嘆の声を漏らす。だがイーラウは一言の説明もしなかった。厳しい表情で崖に向き合い、虹のような光に手を伸ばす。指先は岩肌に触れず光の向こうへ突き抜けた。やはり開いている。彼は奥歯を噛みしめ、意を決して光の門を通り抜けた。

 命綱で繋がれた他の二人が引っ張られ、よろけるようにして中へ転がり込む。イーラウはそれを振り向いて確かめもせず、紐をほどいてその場に打ち捨てた。視線は『柩』の中央、女神が眠る水晶に釘付けになっていた。

 壁や床に描かれた術の紋様は、今もさまざまな色にきらめいていたが、その光り方はせわしなく瞬くようになっており、以前のように滑らかに流れてはいない。洞内に満ちていた音色の調和は失われ、水晶は霜のような白い光に覆われていた。

 イーラウがそちらへまっすぐに進んでゆく。スルギはその背を見送ることしかできなかった。あの白い光は、ミオを包みこみ、消し去って吸い込んだものと同じだ。足が竦む。

 壁の紋様がいっそう速く色を変え、瞬き、飛沫のように音を跳ね散らして流れる。だが継承者は怯まない。胸に宿る星の光が、いまやはっきりと彼を呼んでいた。

 水晶の中で祈るかつての王女が、身じろぎしたように見えた。黒髪の下で伏せられていた目がゆっくりと開き、宇宙の紫が光を宿す。イーラウが両手を差し伸べ、水晶ごと彼女を抱きとめようと踏み込む――と同時に透徹な一音が響き渡り、白い光が蝶の大群のように舞い上がった。

 眩しさと恐怖から、スルギは直視できず手をかざして視界を遮る。あの日と同じく、白光に包まれて継承者も女神も消えてしまうと思ったが、音が静まり光の乱舞がおさまって恐る恐る様子を確かめると、二人はまだそこに立っていた。声もなく、ただしっかりとかたく抱き合って。

 スルギは息をつめて様子を見守ったが、二人とも彫像のように動かない。名を呼び合ったり、身体をさすったり口付けしたりといった、久しく別たれていた男女がやりそうなことは何もせずに。とはいえ、わずかに身じろぎや震えが見られるから、動けないわけではないようだった。

 洞内の音色だけがさざめき流れてゆく、長い長い沈黙。

 そうしてついに、不躾な咳払いがそれを壊した。すっかり放心していたスルギが我に返って振り向くと、シンが何とも言えない顔で、両手を腰に当てていた。

「そろそろいいかい、お二人さん。見物人がいることを忘れないで欲しいんだがね」

 その言いように、スルギは動転して二人とシンとを交互に見た。あの物語を聞いていながら、二人の再会を茶化せる心境がわからなかったのだ。

 幸い、女神はまだ冗談を許容できるほどの人間性を残していた。面白そうに目を細め、小さく笑いをこぼすと、ゆっくり慎重に身体の向きを変える。イーラウが寄り添って支えたが、一歩、二歩ですぐに感覚が馴染んだらしく、危うげのない足取りで見物人のほうへ歩み寄ってきた。

 スルギの喉が震え、かすれた息が漏れる。正体のわからない懐かしさ、慕わしさと敬意とが胸を満たし、同時に畏れが身体の自由を縛る。紫の双眸に見つめられると、彼女を見下ろしているのが耐えられなくなって膝をついた。

 シンのほうも、スルギほどではないが得体の知れない畏怖を感じてはいた。が、こちらは“生意気な馬賊の若様”の前でぶざまを晒したくない、という意地が勝り、わざとらしいほど不遜に胸をそらして待ち受ける。虚勢を見て取った継承者が笑いたそうな顔をしたが、姫君から「駄目よ」と小声でたしなめられて取り繕った。

 しゃべった、とシンは無意識に口の中でつぶやいていた。もちろん相手は人間だ、人語を話して何もおかしくはない。『女神』の役割を長い年月背負ってきたとはいっても、元を辿れば人間なのだから。そう頭で理解していても、今まさに自分の目の前で、狼の傍らにしゃがんで優しく語りかけている者が普通に会話できる相手だというのが、どうにも違和感しかなかった。

「つらい思いをさせて、ごめんなさい」

 話しかけられたスルギは顔を上げて、女神のかんばせを見つめた。そこにミオの面影はいっさい窺えない。彼は黙ってうなだれ、ただ小さく首を振った。

 と、そこで不意にシンが叫んだ。

「そうか、言葉だ!」

 出し抜けに発せられた頓狂な声に、他の三人が揃って驚き、振り返る。シンは一瞬怯んだ様子を見せたものの、すぐに気を取り直して続けた。

「あんたがどういう経緯で女神様になったのかは、そいつから聞いたよ。だから妙だと思ったんだ、なんで言葉が通じる? 継承者殿はイーラウってぇ今時の若造の人生を持ってるが、あんた自身は大昔の姫様なんだろう」

 仮にも『女神様で姫様』と認識しているなら、もう少し遠慮しても良さそうなものだが、萎縮していると思われたくないあまり、そこまで気が回っていない。

 シェリアイーダは興味深げにシンを見つめ、それからふっと微笑んだ。

「あなたがいてくれて良かった。おかげで『今、ここ』に意識を寄せられます」

「お……おう?」

 まともに笑いかけられると虚勢も持ち堪えられず、シンは曖昧な顔で意味不明な相槌を打つ。そんな反応にもシェリアイーダは眉ひとつ動かさなかった。穏やかな微笑のまま、足元にうずくまるスルギに目を落とし、その耳元を撫でてやりながら続ける。

「柩守をつとめる継承者が代々の魂を受け継いできたように、わたしも女神の器たる者の魂を、自らのものにしてきました。言葉が通じるのはそれゆえです」

 気遣いの声音でそこまで言い、ふと顔を上げて少しばかり挑発的な目つきをシンに向けた。

「そもそも陽帝国の人々も、元はワシュアールの民。歳月を経て変化しているとはいえ、同じ言語を源としているのですから、通じやすくても不思議はありません。いにしえの言葉に興味がありますか?」

「あー、いや、そりゃまぁ興味無くもないが……それより今は、禁忌の森をどうすんのかって問題だろうよ。あんたが抑えてくれてたことには感謝するが、残念ながら時の果てまで続けられる仕組みじゃなかった」

 苦い顔でシンが唸り、シェリアイーダも笑みを消して真顔になった。スルギを撫でる手を止め、イーラウと目を合わせてうなずき合う。ゆるりと立ち上がり、

「こちらへ」

 短く招いて、水晶のあったほうへ、イーラウと共に戻って行く。まさかまたやり直すつもりではなかろうな、とシンは嫌な予想に顔をしかめつつ、スルギを促して歩み寄った。

 水晶――すなわち『柩』の跡は洞の中央に位置しており、床の紋様をよく見ると、巨大な樹木めいた形の幹にあたる部分だった。シェリアイーダとイーラウは、そこに並んで座った。

「どうぞ、あなたがたも好きなところに座って。敷物もなくて申し訳ないけれど、そんなに冷たくは感じないはずです」

 促され、シンとスルギはおずおずと腰を下ろした。言われた通り、不思議と石床に直接座っている感触はしない。硬いのは確かだが、なぜか痛みや冷えが生じないのだ。

 二人が落ち着くと、シェリアイーダは安心させるようにそれぞれに笑みを向けてから口を開いた。

「理の力がどう変わろうとしているのか、わたしにもまだわかりません。ただ、滅びの時に生じた異変と違うところは、世界樹にわたしという存在が作用していること。東の世界樹に影響を及ぼさないように、すべての『路』を切り離して、わたしだけに――わたしと彼の二人だけに結びつけた。恐らくそれがゆえに、あるべき姿をとれずにいるのだと感じられます」

 静かな声が語るにつれて、洞内の色彩と音が気配を変えてゆく。理の流れが二人のもとへ集まろうとしているのだ。

「ですから、語りましょう。シェリアイーダとリゥディエンの魂はもう語られたのであれば、そこから過去へ、遡って。ふたつの魂が本来あった姿に戻るよう、そして世界樹もまた、そのように」

 目を瞑り、ゆっくりと深く呼吸をひとつ。歳月の水底まで潜るために。




 

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