六章(2) 夢の終わり

※グロ描写注意




 禁足を命じられたシェリアイーダは、都の外はもちろん六彩府も、大学にさえも行けなくなってしまった。日がな一日部屋にこもりきり、庭園を散歩するのがせいぜいとなれば、気分も塞ぎがちになる。

 外に出られないぶん、『路』を辿ってより深い知恵とわざを求めることに集中し、理の流れに触れて様子を確かめることも怠らなかったし、一人で数学に慰めを見出すこともできたが、やはり自由を奪われていると意欲も削がれた。

 幸い、来客は禁じられていなかったので、様々な人が有益な情報を携えて訪れてくれた。この頃には警士のほとんどがリゥディエンのおかげですっかりシェリアイーダ王女贔屓に傾いていたので、融通が利いたのだ。禁足であって謹慎ではないし、訪問者の制限や報告も命じられていないから、とばかり、まるで馴染みの常連客かのように通してくれたのである。

 そんな常連来訪者の一人、カチェラ=サーダッドが、ある日突然に別れを告げた。

「――え?」

 言われたことがすぐに飲み込めず、シェリアイーダは困惑して聞き返す。カチェラは落ち着いた表情のまま、静かに繰り返した。

「近いうち、私どもサーダッド一族はワシュアールを離れ故郷ワンジルへと向かいます。ですので、残念ながらもう殿下に何かをお教えすることもできません。共に取り組んでいたあの数列をめぐる命題の証明は、殿下にお任せするしかないようです」

「それは……もう、決まったことなのですか。いったいいつから、そんな話が」

「申し訳ありません。昨年から一族と支援者の間で交渉が進んでいたのですが、絶対に外部に漏らすわけにはいかなかったので。先祖の土地を取り戻す悲願、叶いますよう祈っていてください」

 カチェラは言って頭を下げた。シェリアイーダが言葉に詰まっていると、リゥディエンが問うた。

「支援者というのはワシュアールの? それとも、あちらに残してきた誰かが伝手を頼って兵を集めて、あなた方を待っているのですか」

「両方です。死と隣り合わせのワンジルで、数十年にわたり失地回復の足がかりを固めてくれた者達がいるのです。そしてワシュアールで新たに繋いだ関係により……どうにかして二国間に交易路を確立したいと望む、ある筋からの協力を得ました」

「可能だと思いますか」シェリアイーダは疑わしげに尋ねる。「国王陛下はもちろん、閣僚たちも誰一人としてワンジルとの国交を考えているようには見えません。あまりにも無謀な賭けでは?」

 地理的には、東部との往来よりもワンジルとのほうが容易であるのは確かだ。取引に値する商品があるのは確実だし、輸送費も日数も比較にならない。しかし現状、ワシュアール人がワンジルで支障なく経済活動を行うなど、夢のまた夢だ。サーダッド家が土地を取り返し、支配権を確立させて初めて可能になるが、それを当て込んで支援するというのは、返済を期待せず金を貸すに等しい――何かほかの部分で利を得られる見込みがあるのでもない限りは。

 先祖の土地を取り返すという悲願を、利用されているのではないか。シェリアイーダはそう懸念したのだ。だがカチェラは、むしろ逆にこちらを案じるような表情を浮かべた。

「公的な関係を樹立するのは、たとえ我が一族が帰還を果たせたとしても、難しいでしょうね。ですが、少なくともワンジルへの通用口にはなれます。シェリアイーダ様、私どもが決断したのは、ただ悲願であるというだけが理由ではありません。故郷の同胞からの、機は熟せりとの報せだけでもない。それらに加えて、ワシュアールの未来に影が差しているからです」

「――!」

 ぎくりと身を硬くした王女に、カチェラもまた声を低くしてささやく。

「先日の地震。人倫派が声高に叫ぶまでもなく、世界樹の悲鳴だ、国が滅びる、と終末を口にする人々が増えています。何の根拠も無い妄想でしょうが、それとて広まればある種の『事実』としての力を得てしまう。それに、お気付きかどうか存じませんが、労僕もおかしくなっています。あらゆる産業を支える労働力の供給が滞れば、どんな未来が訪れるか想像はつくでしょう」

「……ええ。わたしもそれを案じて、第三工廠へ調べに行きたかったのですが」

 シェリアイーダは唇を噛んだ。カチェラは壁際へ目をやって、不安顔の侍女とその傍らでぼんやり立っている労僕の様子を見てから続けた。

「多くの人はまだ深刻に捉えてはいませんが、明らかにワシュアールには衰退の兆しが見られます。これまでと同じように、何の問題もなく産業が栄え、豊かで安全な国を維持できるとは思われません。だからこそ、目端の利く人々がワンジルに活路を見出そうと、私どもに手を差し伸べたのですよ」

「そうでしたか。そこまで考えられた上での……ならば、お引き留めすることも叶いませんね」

「お名残惜しゅうございますが」

 カチェラは言って、深く頭を下げた。そうして辞去する際、最後に暗く重い忠告を残していった。

「殿下も、どうぞご用心を。未来を望まれるなら、それはワシュアール以外のどこかにあるでしょう。手遅れにならないうちに見付けて、掴み取られますように」



 ――もう手遅れ。何もかも。

 すべてが手遅れになった後で、ただむなしく夢を見ている。わたしの記憶だけでなく、世界樹の記憶が見せる夢も。それともこれは本当に本物の……わたしが勝手に紡ぎ出した「夢」なのだろうか。わからない。区別をつけるすべはない。いずれにしても、終わったことだ。



 都にもっとも近い第三工廠に、レーシュ王子が度々訪れるようになったのはここ二年ほどだ。労僕研究には関わってこなかった彼が工廠に出入りするきっかけとなったのは、むろん、最初のウトゥがここへ廃棄回収された時。

 肉が裂けて骨が出るまで鞭打ち、へし折り叩き潰し抉り、切り刻んだ。しかもその末に、まだぴくぴく動くそれを別の労僕に運ばせて、自ら工廠へ入り再生工程の原料釜にぶち込んでやったのだ。あの憎い妹、出しゃばりの増長高慢王女が手塩にかけた労僕を台無しにし、二度と拾い集めて繕うこともできないようにしてやって、初めて少し気が晴れた。

 あれもこれも、何もかも、当てつけのように、あの女は。ちやほやされて自惚れて、いい気になって。思い知らせてやる。身の程をわきまえるがいい。

 呪詛の言葉をつぶやきながら、彼はその日も、分別作業台で労僕をいたぶっていた。

 指を潰し肘を折り、まだ再生するかもう終わりかとその生命力を眺めながら、脳裏にあるのはいつも、目の前の生き物ではなく輝かしい王女の姿だった。

 恵まれて、人に好かれて名声をものにし、いつだって自信満々に顔を上げて――何の支障もなく、まっすぐに歩く妹。元はと言えば、あれがいたから自分はこうなったのに。妄想の中では数え切れない回数、引きずり倒して犯して泣き叫ばせてやったが、現実には指一本触れられない。その代償を、あいつの所有物が支払うのは当然だ。

「さすがに勢いは衰えてきたな……こんなものか。いや、まだ生えてきた」

 たいしたものだ、とレーシュは鼻を鳴らして嘲笑し、腕の断面に組織が盛り上がってゆくさまを見下ろす。部屋に充満する腥い臭いにも、麻痺してしまったのか、まったく頓着しない。後ろでじっと我慢している虎の獣兵が、鼻面に険しい皺を刻んで唸った。

「殿下。もうそこまでにしたほうがいい」

 その横に並んでいた人間の警士も、さすがに顔面蒼白になってうなずく。レーシュはそちらを振り向き、せせら笑った。

「黙って待っていろ。おまえの爪が役立つところはもう確認した。どこまでこいつらの力が勝るのか、限界を見極めているのだ」

「引き時です、本当にもうやめてください。危険な臭いがする」

 虎が繰り返す。レーシュはちぎれた肉片を掴んで投げつけた。虎が避け、壁にビシャッと汚れがへばりつく。

「命令するな、獣の分際で!! 危険な臭いだと? 自慢の鼻もこの血溜まりでは役に立つまいが!」

 彼のほうこそが獣かのように、歯を剥いて怒鳴る。獣兵が口を引き結ぶと、警士が代わって抗議した。

「臭いはともかく、実際どうも様子が変です。一度ここは置いて、外へ」

 だがその忠言は、レーシュの歪んだ自尊心を逆撫でした。

「様子が変だと? どこかで警告音が鳴ったか? 蒸気漏れや爆発でもあったか?」

「殿下……」

「俺にはわからないと! そう言うんだな、ええ!?」

 壊れた『路』では知覚できないだろう、と暗に侮辱されたと受け取ったのだ。激昂したレーシュが警士に詰め寄る。その時だった。

 王子の肩越しに作業台を見た警士が、目を限界まで見開く。その反応にレーシュがさっと背後を振り向いた時には、半分あまり損壊した労僕が、のろのろとおぼつかない動きで起き上がっていた。

「いつの間に」

 レーシュの口から声が漏れ出た瞬間、労僕が崩れ落ちるようにしてのしかかってきた。

「殿下!」

 虎が飛び出し、労僕の身体を腕で薙ぎ払う。だが、胸から下がちぎれて飛んだだけで、労僕の頭は王子の首に喰らいついていた。

 レーシュの絶叫。虎が労僕の頭に爪を立て、王子から引き剥がす。

「殿下、殿下! なんてことだ、くそっ」

 警士が早くも泣き出しそうになりながら、王子の身体を支えて手当てしようとする。だが《詞》を紡ぐ猶予はなかった。

 わぁん、と不協和音が響く。『路』を内から揺さぶられ、警士が前のめりに倒れ込む。床石の隙間から、細い光の種子が次々に芽生え、双葉を広げていく。

 作業に従事していた人間たちは慌てふためき、避難しようと走り出す。労僕たちは皆、非常事態に何の反応も判断もできず、呆然としていた。そのうちの何人かが、ふと腹に手を当て、きょろりと左右を見る。

 足リナイ。

 鈍い思考が意識に流れ込む。

 足リナイ。血ガ、肉ガ、足リナイ……早ク……

 潰れた身体の再生を助けるために、餌を欲する労僕の求め。これまでに何体もの労僕が、再生槽へと落とされる最後の瞬間まで切実に求めていた、いまや多くの労僕の中に埋め込まれた欲求の種が、理の異変に刺激されて目を覚ます。

 ――喰ラエ

 求めのままに、数体の労僕が手近な仲間に喰らいつく。だがすぐに、これではない、と気付いて吐き出した。

 床から萌え出る理の芽生えがみるみる育ってゆく。その隙間に這いつくばって虫を探し、わずかな苔を舐め、より幸運なものは逃げ惑う人間を見付けて飛びかかった。

 レーシュと警士、獣兵さえも、その猛攻の前に膝を折り、倒れ伏す。

 理の樹木が生い茂り、喰うもの、喰われるもの、すべてを等しく呑み込んでゆく――



 ――手遅れ。何もかも、もう取り返しがつかない。

 ただ繰り返し夢を見る。

 拡がる異変、止められない変化、手の施しようが無い人間たち。

 そして滅びがやって来る。

 すべてが理の樹海に呑まれてゆく……


 ………。


 海。ああ、これは潮騒だ。結局わたしは一度も直に耳にすることがなかった、波の音。

 海辺に立つと潮の匂いがするという。どんなものだろう、それは。

 砂浜を背にして立っている、あなたは海をどう感じているのかしら。

「姫様」

 ぽつりと声が落ちる。遠く地平線の向こう、広大な平原の彼方に霞む山々を眺めて立ち尽くす、年配の女性――ニンナル。無事だったのね。良かった。

 いつの間にかあなたも、こんなに歳を取っていたのね。それとも、あの最後の日々の恐怖と混乱が、あなたの時を進めてしまったのかしら。すっかり白髪になって、皺も増えて。子供時代からずっとそばにいてくれたから、変化を意識していなかったけれど。

「……っ、ごめんなさい」

 微かな嗚咽が喉を震わせる。顔を覆った両手の下から、涙の雫が伝い落ちる。

 泣かないで。謝らないで。

 地震があった時、咄嗟にお守りできず、とあなたは詫びた。お互い様だ、と言ったでしょう? 生きるか死ぬかの時に、他人を守れる人間なんてそうはいない。反射的に自分の生存をはかるのは、ごく当たり前のこと。

 最後の日、わたしもあなたを捜さなかった。リゥに助けられ、獣兵や警士たちと合流して、一通り王宮を見て回りはしたけれど。あなただけを、助けようとは考えつかなかった。なすべきことを為す、それだけしか頭になかった。

 あなたが逃げ出したのも、何も悪くない。どうか自分を責めないで。

「姫様……姫様」

 繰り返される、小さくも痛切な呼びかけ。わたしがそこにいないことを、無念に思ってくれて、ありがとう。

 でも、こうすることを決めたのはわたし自身。あなたが無事でいたなら、それで良かった。

 ――良かった? どうかしら。本当に?

 命は助かったけれど、東部平原で生きていくのはきっと、とても大変だったでしょうね。かつてあなたが恐れた、ウルヴェーユの存在しない生活で。それとも、労僕や無径者への認識を改めてゆけたあなただから、じきに慣れて心穏やかに過ごせたかしら。

 あなたが幸せだったかどうかまではわからないけれど……あなたの無事を知れて、わたしは少しだけ、嬉しい。たとえそれが夢であっても。


 ねえニンナル。きっとあなたのおかげね。遠く離れた土地の出来事を、こうして夢につないで見られたのも、あなたがわたしを想って、呼んでくれたから。

 寄せては返す、波の音。

 わたしの呼び声は、まだ誰かに届いているのだろうか。

 潮騒が遠ざかる。暗闇が降りて夢が終わる。

 そしてもう一度、また目覚めから……

 

 

(第二部・了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る