六章(1) 悪神


   六章



 新しい鞄の御用聞きとして王女のもとへ召し出されたラケシュは、初対面のあれは別人だったかと疑うほど丁寧かつ誠実な職人らしさを披露し、侍女の警戒を解いてくれた。

 以後ラケシュを通じて伝道者ナジムに、そしてさらに人倫派の中心的な人々へと、王女の意志は伝えられていった。ナジムは伝書鳩の業者にも顔が利き、やりとりは予想よりも早く進んだのだ。東部平原の第三次調査隊は滞りなく編成され、今度こそ世界樹を眠りから目覚めさせるべく出立した。

 朗報を心待ちにする間にも、シェリアイーダはいっそう精力的に活動した。とはいえ、あくまで王族の義務とみなされるぎりぎりの範疇で、ではあるが。

 既に幾度か都の外に出た経験があるという事実を足がかりに、大学や六彩府だけでなく近隣都市の様々な施設を訪れては、そこで働く人々を有径無径の別を問わず(むろん労僕も含めて)慰労し、訴えに耳を傾けた。

 そうした“王族らしい視察”の傍ら、訪れた土地に湧出点があれば必ず立ち寄り、理の力に向き合って異常がないかを慎重に確かめた。表向きは通常おこなわれる封印の手入れ――『巡り歌』で六色六音を巡らせて、湧き出る力を世界の根に還す――のためだ、と説明していたが、実際その場で王女がしていることを正確に知覚できる第三者がいたら、ぎょっとなっただろう。

 色にも音にも頼らず、静寂のうちに路を降りて理の流れを辿り、幻視の中で輝き滾る源の間際まで近付くのだ。そのやり方はもはや詞を彩る法ウルヴェーユとは呼べまい。かつて幾度か見出され、そのたびに歴史の底へ沈んで忘れ去られてきた術。

 幸いにも、王女と警士が湧出点を訪う時に居合わせた余人はおらず、その特殊性については何ら噂にならなかった。ただ、王女は彩理学にも造詣が深く、湧出点の封印についてはひとかどの腕前らしい、という認識が広まったのみだ。

 そうして二年ほどが経つ頃には、東部調査隊も充分な成果を挙げていた。そちらに関してもシェリアイーダ王女の関与があり、その知識とわざが役に立ったことをイルマーフが吹聴してくれたおかげで、彼女の名声はさらに高まっていった。――少しばかり、行き過ぎなほどに。


 ぐらり、と目眩のような感覚が突然降りかかった。それが何かと気付くより早く、続けてガタガタと室内の調度が騒ぎだす。

「地震……!?」

 咄嗟に何の反応もできず、シェリアイーダはその場で固まってしまった。侍女も燭台のほうを気にしたまま、半端な姿勢で動けずにいる。部屋の外からは泡を食った獣兵ふたりが飛び込んできた。

「姫様ー!!」

 王宮勤めにすっかり慣れて以来めったに獣じみた声を上げなくなっていたふたりが、キャンキャンクォゥクォゥと鳴いて涙目で転がるように駆け寄り、豹のヤルゥルは自分よりずっと小さい人間のあるじにひしっと縋り付いた。場所のなくなったイーヴァはそのまわりをぐるぐる二周した後、ちょうど駆けつけた青年警士のほうに飛びつく。身動き取れなくなった二人がどうにかせねばと焦る間も揺れは続き、机上の筆記具が床に転がり落ちた。

 ただひとり平然としているのは労僕だけだ。慌ても恐れもせず、何を考えてか天井を見上げ、じっとしている。

 幸い柱や天井が崩れるほどにはならず、揺れはほどなくおさまった。

 シェリアイーダは獣兵を抱いて座り込んだまま、茫然と室内を見回す。小さな物、軽い物があちこちに移動したり落ちたりして、部屋の空気全体が少し埃っぽくなったが、それだけだ。高価な磁器の花瓶が倒れることもなかった。一番被害を受けたのは獣兵二人の精神かもしれない。まだ全身の毛を膨らませて震えているヤルゥルを撫でて慰めながら、シェリアイーダは無意識に『路』を降りて理の音色を確かめていた。

(地震なんてめったに起きないのに……やっぱり何かがおかしくなっているのかしら)

 知識としては、理力の変動にかかわりなく地震は地盤の都合で発生すると理解している。だが本当にいっさい何も関係が無い、と言い切るには、どうしても懸念が拭いきれない。日々の修養で『路』を辿って降りる度に、あるいは各地の湧出点を訪れてその封印に触れる度に、かつてマヨーシャが「自分の仕事にかこつけた感覚で」何かおかしいと気付いたのと同様の違和感が強まっていた。

 今もそうだ。天変地異を引き起こすような異常などはない、音色に乱れも変調もない。にも関わらず微かに不安な気配が漂ってくる。

「ほらイーヴァ、もうおさまった。大丈夫だから気を強く持て。おまえが逃げ惑ってどうする」

 リゥディエンの声でシェリアイーダは我に返り、ぼんやり撫で続けていた豹の様子を見た。逆立っていた毛はいつもの滑らかな手触りに戻っているが、まだ本人の気持ちは立ち直っていないようで、いかにも頼りない、恐る恐るの様子でちらりちらりと辺りに視線を走らせている。シェリアイーダが思わずふふっと笑うと、ヤルゥルは傷ついたのと面目ないのとで、丸い琥珀の目を潤ませた。

「あなたは初めてだものね、怖かったでしょう。大丈夫、世界が壊れるわけではないの。たまに大地が少しだけ身震いすることがあるのよ」

「すみませんでした、姫様。お怪我はありませんか? ……もう揺れませんか?」

 ヤルゥルはそっと身体を離し、自分が飛びついた勢いでどこか痛めてはいないかと心配しつつ、やはりまだ恐怖がおさまらずに質問を追加した。シェリアイーダは立ち上がって具合を確かめ、うん、とうなずいて見せる。

「わたしはどこも何ともないみたいね、安心して。揺れは……まぁ、絶対もうないとは言えないけど、そう頻繁にはないから。どっちみち、わたしたちには大地の震えを止めるだけの力はないもの。次に揺れたら、まずどこか安全な場所に避難なさいね」

 そこまで言って侍女のほうを振り返り、「ニンナル、大丈夫?」と声をかける。落ちた物を拾っていた侍女は、こわばった笑みを見せた。

「心臓が止まるかと思いましたが、どうやら無事でございます。久しくなかったもので、咄嗟にお守りできず……」

「それはお互い様よ。しばらくは、また揺れるかもしれないから、今落ちた物は置き場所を変えておいて。わたしは少し外の様子を見てくるわ」

「畏まりました。お気を付けて」


 王宮内の恐慌は、シェリアイーダがぐるりと見て回るだけの間にも収まっていったが、入れ替わりに次々と舞い込む各地の報告を受けて、にわかに慌ただしくなった。ウルヴェーユによる伝声連携が告げる非常事態、伝書鳩による救援要請。

 地震発生当日の夜が来る前には、シェリアイーダのもとにも一羽の鳩が飛んできた。ナジムの鳩だ。通信筒に入っていた知らせには、ある町の名が記されていた。甚大な被害を受けたそこに、我らが盟主も滞在している――と。

 明けて翌日、シェリアイーダは獣兵による救助支援と近傍湧出点の安全確保のため、必要最小限の支度ですぐに出立した。

 ――この時、築き上げた実績と名声のおかげですんなり許可が下りた反面、父王も以前よりはこの厄介な出しゃばり娘の動向に注意するようになっていたことに、彼女自身はまだ気付いていなかった。


「これはもったいない、王女殿下御自らお越しとは畏れ入ります」

 明らかに一睡もしていない顔で出迎えた役人に対面し、シェリアイーダは遠慮も応接も無用とのしるしに、簡単な握手だけで挨拶をすませた。

「獣兵二頭を預けます。鼻が利きますし、力も強いので、救助活動の助けになるでしょう。後から兵と驢馬が物資を運んできます。差し当たり、食糧と毛布を。配るのに人手が要るなら兵を使って下さい。わたくしは警士と共に湧出点へ向かい、封印石の状態を確認してきます」

 てきぱきと用件を告げ、獣兵ふたりを引き合わせる。

「狼がイーヴァ、豹がヤルゥルです。ふたりとも、よく注意して埋まっている人を捜すのよ。見付けられても焦らないで。瓦礫をどかす時には、崩れて自分が怪我をしないように、ほかの人を巻き込まないように慎重にね」

 はい、と二頭は敬礼し、姫様もお気を付けて、と見送ってくれる。あるじにべったりだった頃を思えば、こうして別行動もしっかり出来るようになったのは頼もしい限りだ。

 特に今回は、目立つ獣兵を連れて行くのは得策でない。町の人々は自分たちのことで手一杯だが、それでも彼らが王女と一緒にいれば、どこへ行くのかと視線で追いはするだろう。子供が好奇心からついてくることもあり得る。

 地震で封印が崩れたかもしれない湧出点に余人を近付けたくなかったし、何より、そこで誰に会っているのかを見られるわけにはいかなかった。

 シェリアイーダとリゥディエンは二人だけで崩れた町並みを抜け、郊外の道を辿っていった。灌漑水路を巡らせた果樹園は、塀や支柱などが倒れていたが、樹木自体はほとんど無事に立っている。水路が所々瓦礫でふさがれて、溢れた水が道を濡らしていた。

 果樹園を抜けた先は、荒涼とした荒れ地だった。牧草地や畑地として利用されていない土地は、相変わらず厳しい自然そのままだ。剥き出しの砂地に棘の多い灌木がぽつぽつ生えているほかは、注意深く観察しない限り生き物の気配が無い。砂地の上を往来した人馬の足跡が、うっすらと道を残しているだけ。

 そんな景色の中に、例によって唐突に、こんもりとした木立がうずくまっていた。シェリアイーダはチリチリと灼けつくような感覚を煩わしげに振り払い、足を止めて地面を見る。大地の下に脈打つ理の力を意識すると、遠くから《ナラヌ》と禁じる詞が聞こえた。

 小さな色の欠片が漂っていく。あの木立の奥で地表を食い破り湧き出た力の、こぼれ落ちた残響。シェリアイーダは辺りを見回し、眉をひそめた。

「封印は壊れていないようだけれど……やっぱりちょっとおかしいわね」

「確かに、流れに歪なところが残っていますね」リゥディエンも同意する。「地震のせいなのか、こちらが先で地震が起きたのか、時間まではわかりませんが」

「あんなに大きな揺れが理力だけで引き起こされたのなら、相当な異変が大勢に察知されるはず。だからたぶん……偶然、地盤の揺れと同時に湧出点でも何かが起きていて、影響が重なった結果こうなったのじゃないかしら」

 慎重に歩みを再開し、封印石に近付く。そこまで来て、まだ新しい足跡がいくつも付近に残っていることに気が付いた。同時に隣でリゥディエンがすっと自然に身構える。あからさまな警戒を表しはせず、しかし素早く対応できるように。シェリアイーダはその頼もしさに微笑み、何も気付いていない態度を装って封印石に触れた。いずれにせよ、こちらも重要な仕事ではあるのだ。

「ひび割れた場所は……ない。彩石も全部ちゃんと嵌まっているし、溝も……問題なし。さすがに丈夫なものね、『最初の人々』はどうやってこれを造ったのかしら」

 改めて感嘆し、つくづくと灰色の石柱を見上げる。それから彼女は、その奥の暗がりに向けて声をかけた。

「中の様子はどうですか、そこにいる方々?」

 しばし沈黙が返る。それからゆっくりと足音が近付き、暗がりの中から王女にも見えるところまで人影が現れた。一人はナジムだ。そして先頭にいるのは……

(この人が人倫派の盟主『悪神ズラーク』……なるほど)

 シェリアイーダは相手を見つめて納得した。年齢は四十をとうに越えているだろう。暗い色味の金髪をうんと短く刈っており、体型がわかりにくい服を着込んでいるため、性別は判然としないが、恐らく男。何より印象的なのは、海のように青い双眸が放つ気迫だ。

(少しお父様を思い出すわね)

 思わず口元がほころぶ。こうした人間に特有の空気には覚えがある。神秘の力だとか威厳だとかいうよりも、とにかく関わるとただでは済まないという確信を与える力だ。何かを為し続け、そこに人を引き込む力。魂の炉に火を入れる、と言ったのは誰だったか。

 シェリアイーダの反応に、ズラークはやや意外そうな顔をした。今まで出会った大勢の人間とは違うことに、相手も気付いたのだろう。二人はどちらからともなく歩み寄り、緊張も警戒もなく、そうするのが当然のように握手した。

「はじめまして、ズラーク殿。本名を存じ上げませんので、通称で失礼します」

「こちらこそ、こんな場所で捧げ物もなくご挨拶する無礼、お許しを。王女殿下」

 低い声で応じ、ズラークは自然に一礼した。王族だからとことさら慇懃にふるまうでもなく、小娘だからと侮り威圧することも、利用価値を値踏みする様子もない。

(長年『盟主』を続けられるだけはある)

 シェリアイーダがそう評価すると同時に、相手もこちらの人物を判断したようだった。目を細め、ちらりとナジムを振り返ってうなずく。

「殿下のご提案は我らにとって大きな転機となりました。感謝します。ナジムから話を聞いて、いずれ直にお会いしたいと願っていました」

「わたくしも、幼い頃に人倫派について噂を聞いて以来、いつか直接あなたの話を伺いたいと願ってきました。災害がきっかけというのは喜べませんが、こうしてお会いできたことは嬉しく思います。ご無事で何よりでした。皆さんにも、お怪我はありませんか」

「かたじけない、全員無事です。軽い怪我をした者はいますが、たまたま屋外にいたのが幸いしました」

 ズラークは言い、次いで王女がわずかに首を傾げたのに答えて補足する。

「この町には、資材の買い付け交渉で滞在していました。東部への船を建造するために」

 船、と聞いてシェリアイーダは目を瞠った。東部への入植船は現在、南岸のほか大河沿いの大都市から出ている。公的な事業として、元々軍船だったものを利用したり商船を買い上げたり、民間の運輸業者に委託している場合もあるが、いずれも大規模な船団ではなく、単独あるいは数隻での航行だ。移住希望者が殺到しているわけではないので、それでこと足りている。しかしズラークは、それとは別に自前の船を用意するつもりであるらしい。

「船の便数が足りませんか?」

「有径者の集団にまじって少しずつ、というのは効率が悪い。それに、“流刑者”集団には専用の移送船が必要でしょう」

 ズラークはにやりとした。シェリアイーダは得心顔になる。

「わたくしの提案がお役に立ったようで嬉しく思います。が……人倫派の方々は、王宮で把握されているよりもお金持ちなのですね」

 疑問と皮肉が半分ずつの声音で言った王女に、叛徒の盟主は苦笑いする。

「我々自身の懐はいつもお寒い状況ですよ、殿下。寄付や援助を集めてはいるが、無径者は概して貧しい。活動を続けていられるのは、富裕な協力者のおかげです」

「アヴァーサム家に反感をもつ貴族とか」

「かつてはそれが頼りでした」ズラークは認め、うなずいた。「今は様相が違ってきています。我々自身がいくらか穏当な活動に切り替えたというのも理由ですが、東部開拓による影響が大きい。新天地で一山当てて儲けを夢見る人々が、我々に接触してくるようになりました。……我々は元々、西部で湧出点を拠点に無径者だけの町をつくり、それらの同盟による独立を目指していました。実際その路線で、長らく着実に進められていたのです」

「そうですね。教会の内輪もめに過ぎないと楽観した王が介入を面倒がっている間に、あなた方は勢力を拡大していった。あなた方が活動を始めて、もう十年余り。そんなに長く続くなんて、誰が予想していたでしょうか」

「我々の方では、今頃はもう独立を祝っている予定でしたがね」ズラークは嫌味なく笑った。「しかし、人が増え町が大きくなり、鎮圧軍が本気で攻撃を仕掛けてくるようになれば、我々も戦いに明け暮れざるを得ず、皆が求める『無径者の国』を造るどころではなくなってきた。このままでは、どれほど金や物資を集めて力を増したところで、戦を止められない。我々に物資兵力を提供してくれた貴族は、我々が王を悩ませ続けることを願っているだけだ、と気付き……倦み疲れた者が増えていたのです」

「だから、イルマーフ殿からの協力要請に応じてくださったのですね」

 時機を得た、まさに渡りに船という状況だったわけだ。シェリアイーダが納得すると、ズラークは真顔で訂正した。

「お間違えなきよう。ジャヌム家のイルマーフではなく、シェリアイーダ王女殿下からの要請だったからです。同じ提案、同じ要請であっても、差し出す者の過去の行状によって信頼は変わる。むろんそれが分かっていたから、調査隊長はあなたを介して我々に接触したのでしょうがね。あくまでも『我らが故郷』で戦い続ける、と主張する者達とは袂を分かつことになりましたが、それでも、彼らとてあなたの描く『流刑者の国』を疑って拒んだのではない。今後も我々は、あなたが相手であれば一定の信頼をもって交渉の席に着くでしょう」

「わたくしが直接、公に、あなた方と交渉できる見込みは薄いですが……」

「表に立つのが誰であっても、あなたが背後にいるとわかっていれば」

 王宮の事情は承知している、とばかり寛容にズラークは言ったが、続けて問うた声音は鋭い厳しさを含んでいた。

「その為にひとつ、確かめておきたい。あなたが我々に手を差し伸べる、その根底にある動機は何なのか。あなたが我々の仲間に語った言葉は、私も聞いている。だがこうして直に話していても、あなたの真の狙いがどういった類のことなのか、いまひとつわからない。慈悲や憐れみなのか、正義や公正、理想のためなのか。古い神々を奉じウルヴェーユを権威の拠り所とする王族でありながら、救世教のなかでも無径者ばかりの我々に歩み寄って、あなたは何を得られる?」

 半端な答えを許さない問いかけだった。返答如何によっては決裂も辞さない、と強いまなざしが告げる。シェリアイーダは背筋を伸ばしてそれを受け止め、しばし黙考した。

 答えを耳にする人間は、多くはない。だが。

 瞑目し、ゆっくりと深呼吸をひとつ。それから彼女は、どうか伝わるようにと願いながら、真実を口にした。

「無径の救い主マーフに、わたしはひとつ、借りがあるのです」

 予想を外れた答えだったらしい。ズラークは真顔のまま王女を見つめ、背後のナジムや数人の仲間達も当惑を隠せない表情になる。シェリアイーダはしかし、それ以上の説明はしなかった。

 長い沈黙の後、どうやら王女は本当にそれだけしか言わないつもりだと察し、ズラークは目を伏せ、考えを整理するようにつぶやいた。

「はじめに我々が疑問を持ったのは、そもそも救い主マーフが無径者であったのに、今の教会の在り方はそれをまるで意図的に無視しているように思えたからだ。無径者のための教えであっても良いはずなのに、そうなっていないのは、どこかで歪められたからに違いない。有径者が自分達の『罪』をごまかし、救い主がすべて清算してくれると勝手に解釈しているのだ、と」

 そこまで言って目を上げ、王女を見据える。

「あなたが『借りがある』と言うのは、後者のような救い主か。それとも、無径者たるマーフなのか」

「わたくしの言動を御承知なら、答えもおわかりのはず」

 シェリアイーダは遠回しに応じ、やはり説明はしない。ズラークは眉を寄せて微かに唸ったが、王女はまったく動じない。ややあって、悪神のほうが折れた。

「いいでしょう。どういう意味か、何があったのか、あれこれ尋ねるのは諦めます。事情はどうあれ、あなたが借りを返すために動いているのであれば……慈悲や正義や公正のためであるよりも、我らにとって悪いことにはなるまいから。今後とも、当てにさせてもらいましょう」

「わたくしも、微力を尽くす所存です」

 シェリアイーダは穏やかに応じて微笑む。ズラークは複雑な表情でそんな彼女を見つめ、それからふと、自分で言う前に可笑しくなってしまったのか、笑いを噛み殺しながら念を押した。

「一応訊いておきますが、その『借りがある』は、物騒な意味合いの婉曲な言い回し、というやつではないでしょうね?」


 ――我ながら、どうして「借り」という言葉を選んだのか、今でも少し不思議に思う。素直に考えたなら「恩義がある」と言うのがふさわしいはずなのに、口をついたのは「借り」だった。

 かつてわたしは、無径の救い主マーフに、恩を受けた。

 その事実は間違いなく認識しているのだが、なぜか、ただ恩義とだけ言うのでは正確ではないように思われたのだ。受けた恩が後々結んだ因果を無視できなかった、ということかもしれない。

 ズラークと言葉を交わしたのは、この時一度限りだ。もっといろいろなことを話したかった。彼らが望む『無径者の国』がどのようなものか、無径者にとってウルヴェーユはどう評価されているのか。ほかにもたくさん。

 秘密の会談が露見しないうちにと急いで立ち去ったけれど、結局、王宮に戻った途端に禁足令で閉じ込められると知っていたら、心ゆくまで語り合ったのに。


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