五章(3) 交渉


「釣れそうですか」

 まめな警士は水筒から茶を注いで王女に渡しつつ、小声でささやく。シェリアイーダはしゃべり過ぎて渇いた喉を潤し、ほっと息をついた。

「あなたが用意してくれた餌のおかげで、たぶんね」

「釣り針を作ったのはあなたですよ」

 ご謙遜を、とリゥディエンは応じて微笑んだ。

 マヨーシャからこの外出の打診があった時、どうやったら無径者たちの協力を取り付けられるか、二人であれこれ相談したのだ。

 むろんひとまず誠実に頼みはする。罠でも詐欺でもなく、真実こちらが彼らの助力を必要としていると伝わるように。だがそれだけでは、今まで散々踏みつけにされてきた彼らが動く理由にならない。なぜ我々がおまえたちを助けなければならないのか、と憤慨されるだけだ。彼らにとっても「得になる」と示すことができなければ――そこで捻り出したのが「流刑に見せかけて土地を獲る」案だったのである。

「女王陛下のお手並み拝見ですね」

「あの頃ほどの権力があれば、もっと上の方で手際よく物事を動かしているわよ」

 シェリアイーダは苦笑し、ナジムを一瞥した。先ほど彼に示してみせた道筋など、自身が女王であったならたやすく実現できたはずだ。むろん政権中枢には反対者もいようが、圧倒的な力の差をもって人を動かせる王にとってさほどの障害にはならない。

 ということはすなわち、今の国王に目を付けられたらこちらが危うい、とも言える。

「……仕事をしない国王陛下で良かったのか悪かったのか」

 ふっとため息をついて頭を振る。シェリアイーダたちがこそこそ動き回っても、恐らく現王ジョファルは気付かないだろう。そもそも人倫派への対処も面倒がって西部の王子に任せきり、あるいは正統教会がなんとかしろ、と言うだけで自分は何もしない。東部の開拓も、「許可と金はやるから良きに計らえ」だ。恵まれた、豊かな時代の王。脅威となる外敵もなく、必死になって農地開拓や産業振興に取り組まずとも既に充分活気があり、税や貢ぎ物で国庫はいつも潤っている。その恩恵に浴せない人々のことや、いずれ衰退が来るとの予測を、共に無視してしまえば安心安泰。あとはもう遊ぶしかないのだろう。取り巻きを楽しませて、味方につけておくためにも。シェリアイーダは辛辣にそう考えた。

「国王陛下の目下の関心事は何だったかしら。いつもの騎馬大祭?」

「いいえ、次の大祭までしばらくあるので、演劇祭を催すつもりだとか」

 リゥディエンが答えたところへ、ラケシュが棗をかじりながら口を挟んだ。

「ああ、あれでしょ、皆で王様を褒め称えましょう、ってやつ。衣装作りに駆り出された知り合いから聞いた。筋書きとか演技とかどうでも良くて、とにかく王様役を豪華に飾り立てて褒めちぎって機嫌を取るのが肝要だってさ」

 聞いたシェリアイーダは呆れたのと情けないのとで天を仰いだが、ラケシュのほうは平然としていた。

「今の王様、ほんと遊び好きだね。あれやこれやの催し物を次々やって、まぁその度に皆で褒め称えなきゃなんないのは馬鹿らしいけどさ、少なくとも惨いことはしないからマシかな」

「そういうものなの? 市井の民の暮らしにはろくに関心を払わず、自分とお仲間だけで楽しむばかりなのに」

「人を殺さないからね」ラケシュは肩を竦めた。「王様が張り切ってなんかやろうとしたら、皺寄せくうのはいつもあたしら庶民。異常に怒りっぽい王様だと、ちょっと意見した臣下なんか片っ端から殺すし、街の普通の人でも謀反人だって捕らえて殺すじゃない。少なくとも、そういうことしないだけマシ。そりゃあシェイダール大王みたいなすごい王様が出てきたら、無径者の訴えをほっとかないだろうし、世の中ぐっと良くなるだろうけど……そんなのは夢物語。現実には、いい王様なんていやしない。非道でないなら良し、ってね」

 素っ気なく突き放すような本音をぶつけられ、王族としてシェリアイーダはなんとも複雑な顔になる。その表情を見て、ラケシュは一応、とりなすように付け足した。

「あとまぁ、ああやって次々いろいろやってると街の皆も気が紛れるし、なんだかんだで商売も活気づくし。大きな儲けは王宮と太い伝手のあるとこが全部取ってくけど、あたしら下々にも多少はおこぼれが回ってくるからさ。楽しみと、ちょっとばかりの儲けがある限りは、皆それなりに満足してるってこと」

「そうなのね……それじゃあ、あなたは人倫派といっても別に国王陛下や王宮に対して反感があるわけじゃなくて、ただ『ウルヴェーユは罪のわざだ』という主張に賛同しているだけ、なのかしら」

 シェリアイーダが首を傾げて問うと。ラケシュは答える前にナジムのほうへ窺うような視線を向けた。考え耽っているかに見えた伝道者は、鷹揚な微笑を返して言う。

「気にせず正直にどうぞ。あなたが有径者だからといって、無径者の権利をないがしろにしているなどとは思いませんよ。仲間といっても、それぞれ大事にするものは順番が違う。もちろん、あなたの考えを尊重しますとも」

 どうやらこちらの会話にもしっかり聞き耳を立てていたらしい。なかなか油断ならない人物だ、とシェリアイーダが気を引き締めたのとは対照的に、ラケシュはほっと安堵して肩の力を抜いた。

「うん、まぁそんなとこ。もちろん無径者だからって労僕しもべみたいに扱うのは駄目だと思うし、ウルヴェーユを使う必要の無い仕事だってたくさんあるんだからさ、そういうとこは公平にやらなきゃって思うよ。でもあたしが一番強く思うのはやっぱり、ウルヴェーユを使えるのが当たり前で、そうでなきゃ人間じゃない、みたいな思い上がりで理の力をばんばん使うのはやめろ、ってこと」

 語るうちに声に力がこもり、手は拳に握り固められる。ラケシュは異形の木立を振り返って、封印石のそばにしゃがんでいるマヨーシャの背を睨み、顔をしかめた。

「どんなに青々した草地だって、一年中羊を放して休む間もなく食い尽くさせたら、枯れ果ててしまう。水源だって、いつまでもあるとは限らない。自然がそういうものなら、世界樹だって同じのはずだ、って――ずっと言ってるのに、そういうこと全然調べようとしないんだから。彩理学者ってのは、なんにもしないでただ観察してるだけの人らしいね」

「それは誤解よ」シェリアイーダはやんわりと宥めた。「理の力そのものに少し注意すべき変化が起きていることは、マヨーシャも気付いているわ。ただ、そら見ろやっぱり世界樹がウルヴェーユのせいで毒されているんだ、と言われても、御柱そのものを調べるのはあまりにも危険だからできない。ああして湧出点で計測したり、あちこちの施設で記録されている数字を過去に遡って集めて突き合わせたり、地道で遠回りな調査をするしかないのよ。マヨーシャは実際にそういう仕事をしているわ」

「だからそれが観察してるだけだ、って……待って、今なんて? 注意すべき変化が起きている?」

 ラケシュは喧嘩腰に反論しかけ、ぎくりとして言葉を飲み込んだ。遠慮して会話を遠巻きに聞いていた他の無径者たちも、獣兵を撫でる手を止め、口へ運びかけた茶碗を置き、こちらの様子を窺う。ナジムが厳しい面持ちになってそばへやって来た。

「殿下。世界樹に異常が起きていることを把握されているのですか」

「あら、あなた方はもうとっくにご存じのことでは? だからこそウルヴェーユを罪のわざだと叫び続けてきたのでしょう」

 シェリアイーダはさらりと受け流す。ナジムは苦笑いになった。

「我々が六彩府の情報を盗み出せるほどの力を有していたら、それこそとっくに、ロダグ女史の論文を活動に利用していましたよ。ああいや、うん、彼女にはほとんど注目していなかったのは認めます。あなたが関りを持った後でやっと、存在を知ったざまなので。しかしそんな重大な内容を世に知らせず秘匿しているのは、なぜです?」

「ひとつには、異常である、とはっきり断言できる根拠が不十分だから。あなた方が騒ぎ立てている時に、その混乱をより深めるような、迂闊なことは言えないでしょう。ウルヴェーユが関係しているのか単なる自然の現象なのか、そもそも異常と呼べるものなのかさえわからないのに。そしてふたつめ、これをわたしが言うのは失礼だけれど……あなたも彼女の存在を知らなかったように、ほんの最近まで彼女も彼女の研究も、まるで重視されてこなかったから。どうにか論文を形にしても、内部で放置されて埋もれていたみたいね。こんな危険で重大な発見は厳重に機密として守るべきだ、なんて陰謀があったわけではないの」

「そんな間の抜けた話が……ある、か。ありますね」

 ナジムが呻いて顔を覆った。シェリアイーダは同情的に苦笑する。結局のところ、学問の世界でさえ俗世のならいの内にあるということだ。「何を言っているか」ではなく「誰が言っているか」で扱いが変わる。無名学者はそもそも発言内容を見られもしないのだから。

 ああやれやれ、とナジムは天を仰いだ。

「まったく、『知らない』ことに気付くのは難しいものです。殿下が東部平原の調査にこれほど深く関わってこられるのは、それが理由だったわけですか。世界樹に異変があるかもしれない、だから東部を避難地として確保しておきたい、と」

「最優先の目的ではありません」シェリアイーダは話が飛躍しないよう牽制した。「マヨーシャは、いざとなったらワシュアールから逃げるという手がある、と冗談半分に言いましたが。現実になるかはさておき、あちらの世界樹について知ることが、ワシュアールの世界樹を理解する助けになるのは間違いないと思うのです。マヨーシャが気付いた“数字のおかしさ”が本当に異常であるのか、自然な変動にすぎないのか、判断する材料にもなるでしょう。わたしが東部開拓にかかわる一番の理由はそれなんです」

「ふむ、なるほど」

 ひとまずナジムは納得し、次いではたと思い出したように問いかけてきた。

「仮に、の話ですが。世界樹がどこかおかしくなれば、恐らく最初に変化が見られるのは湧出点ですよね。元からそこだけ、理の流れが御柱とは逆になっているところ。我々がその中に留まっていられることに、あなたは驚いていましたが……あなた方は本当にまったく駄目なんですか? 気分が悪くなるとか目眩がするとか、さまざまに聞きますが、実際の所どうなんでしょう。それでも無理を押して封印の内側に入れば、死んでしまうとか?」

 純粋な知的関心のような口ぶりにつられ、シェリアイーダは正直に答えそうになって直前で堪えた。彼女が警戒したのに気付き、ナジムは「おっと」とごまかし笑いを浮かべる。

「いやいや、有径者を片っ端から湧出点に引きずり込めば勝てるかも、なんて考えたわけじゃありませんよ。そんな戦術が使えるならとっくに――活動の初期、根城にした湧出点のまわりにまだ何もなかった頃に、実行しています。これは純然たる疑問ですよ。世界樹の異変によってウルヴェーユが働かなくなる、だけでなく、湧出点が増えるとか、湧出点以外の場所でも有径者の具合が悪くなるとか、そんな可能性があるのなら、将来的には『有径者が住める土地』の奪い合いになる。その時に我々が東部を押さえていれば……」

「あなた方にとっては強力な切り札になるでしょうね。うまく出し抜いて多くの土地を掌握していたらもちろん、そう運ばずに正当な報酬として得られた土地だけであったとしても」

 これで調査に協力する利点は間違いなくご理解いただけましたね、との含みを持たせて、シェリアイーダはにっこりした。そのうえで、伝道者の質問に対して先ほど引っ込めた答えを出す。

「あなたが正直に無径者の感覚を教えてくださったのだから、わたしも答えましょう。とはいえ、共有しない感覚について言葉で説明するのは難しいですね……。湧出点は『路』に影響し、『路』は主に感覚を支配します。ですから、目眩のように視覚がおかしくなるだけでなく、時間や空間、自分の身体の認識などが不安定になってしまう、というところでしょうか。路の強さや広さ深さによって影響の度合いも変わるので、一概には言えませんが、人によっては湧出点に近付きすぎたら命にかかわりますね」

「感覚が狂うだけでは済まず、身体にも影響するわけですか」

「そうです。緊張しすぎて真っ青になったり、興奮しすぎて倒れたりする人がいますけど、あんなふうに」

「我々は目がおかしくなることはありませんが、奇妙な感覚はあります。それはあなた方には無いのですか。なんというか……身体にごく小さな虫がまとわりついているせいでムズムズするような、聞こえそうで聞こえない誰かの話し声が気になって仕方ないような」

「ああ、ぴったりの表現ですね。そうした感覚も確かにあります。ただそれ以上に、わたしたちは『路』の存在に強く支配されていますから」

 そこまで言い、シェリアイーダはふと思い出して湧出点を振り返った。マヨーシャが作業を終えたらしく、道具を片付けているのが見える。その向こう、封印石の奥はやはり闇だ。

「あの木立の中を見通せるわけではない、とあなたは言いましたね。視覚が正常なら、普通の木立のように見えるのかと思いましたが……」

「あの木立は普通じゃありませんよ」ナジムは苦笑し、少しばかり畏怖のこもった声音で続けた。「自然の木立ならもっと明るい。あなた方のように何も見えないということはありませんが、かなり暗くて樹木の形が判別できるぐらいです。木の幹に触れて本物かどうか確かめたこともありますが、あの感覚は……なんとも気味が悪い。平気なのは虫ぐらいですかね」

 冗談めかして付け足された最後の一言に、シェリアイーダは一拍置いて軽い驚きをおぼえた。有径者はもちろん無径者もできれば寄りつきたくない、獣兵も忌避こそしないが警戒している様子、鳥の鳴き声も聞こえない――そんな場所でも、虫ぐらいなら普通に生きて活動しているのか。

「あの中では何ものも生きられないのかと思っていました。光の無い地の底、根の国のように」

「うーん、生きられないことはないと思いますよ。有径者の皆さんは駄目かもしれませんが、鳥や野鼠なんかが、鷹や狐に追われて逃げ込むこともあります。我々があの物々しい封印石を越えていけると思いついたのも、そうした様子を目にしたからでしてね」

 ナジムは答え、次いでにやりと挑発するように笑った。

「中の様子が気になるのなら、ご自分で見てみようとは?」

 もちろん皮肉だろうが、実際気になって仕方ないシェリアイーダは渋面になる。できるわけがない、という前提をひとまず置いて、あらためて湧出点を見ようとしたところで、視界に入った警士の表情にふきだしてしまった。

「わたしよりもずっと好奇心や行動力が強い人なら、突撃したでしょうけれど。さすがにわたしは、冒険と蛮勇の違いをわきまえています。でないと止める誰かさんが大変だものね?」

 笑いを堪えて呼びかける。リゥディエンは珍しいほど沈痛深刻に瞑目し、「まことに」と同意したのだった。




 ――そう、理の力が地表を突き破ったあとも、そこは死の世界になりはしない。

 いっそ東部のようにすべてが凍り付いてしまったなら、野の獣も鳥も虫も草花も、もちろん労僕たちも、さすがに死に絶えていただろう。彼らを呼ぶ声も必要なく、関の守りも必要なく、――大勢の、器たちも……


 このささやかな外出は、幸せな思い出。

 優しい木陰で、有径者も無径者も獣人も、ともに和やかに語らった。だからその後、「西部の戦線で獣兵が叛徒を殺せなかった」と聞いて、わたしは心底良かったと安堵したのだ。イーヴァとヤルゥルのふたりを、恐ろしい獣ではなく慕わしい友のように受け入れてくれた彼らのためにも。

 けれど結果、わたしはウトゥを失った。


 ――ああ、ここは寒い。死者の魂が降りるという冥府は、もうすこし暖かいと良いのだけれど。可哀想なウトゥ。

 ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい……

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