五章(1) 接触


   五章



 海路で大陸東部を目指した調査隊は、予想外に早く一年ほどで帰還した。大陸東端の海岸に上陸はできたが、氷原を渡る手段がどうにもならず、装備人員を考え直して再挑戦、ということになったのだ。

 イルマーフは海上の旅と雪焼けとで、一段と濃い肌の色になって帰ってきた。そしてカチェラの予言通りシェリアイーダの前に跪いたが、その目的は求婚ではなかった。

「ぜひにも王女殿下のお力添えをお願い致したく、この通り!」

 ははーっ、などと大仰な芝居がかった仕草で頭を下げた青年に、シェリアイーダは困惑と可笑しさでややこしい表情をしながら、なんとか平静な対応をしようとした。

「よしてください、イルマーフ殿。あなたの軽やかな性質は好ましく思いますけれど、笑わずに相手をするのが難しいので困ります」

「いやいや、これはいたって真面目な、真剣なお願いでして」

「だったらなおさら、ちゃんと向かい合って話しましょう。……さて、それで、力添えと言われましても、現状わたくしにできることはかなり限られていますよ。東部平原では世界樹が活動していないので、ウルヴェーユを編んでも現地ではほとんど使えません。ほかに何かお役に立てることがありますか?」

 ワシュアールの世界樹に繋がっていれば、遠く隔たった東部でも多少の術は使える。それは今回の調査隊がもたらした成果のひとつだ。『世界樹の覆い』から外れた場所であっても、路を通じて繋がっていれば、いくらかは理力を導くことができる。とはいえ、それでどうにかなるほど、氷原はたやすい相手ではなかったわけだが。

「それなんですよねぇ」イルマーフは深刻ぶったしかめっ面で唸った。「連れてった彩術師がほんっっと応用の利かないやつで何度雪に埋めて捨てて帰りたいと思ったか! なので殿下には、極力少ない力の動きで世界樹の根に働きかけるような術を、いくつか組んでもらいたいんですよ」

「そうでしたか。……あの、もちろん皆、ちゃんと連れ帰ってきましたよね? なら良いのですが」

 思わず確かめてしまった王女に、イルマーフは真面目くさってうなずく。

「俺も一応はジャムヌ家の一員ですからね。名誉ってやつがべったり背後に張り付いて監視してるんで。というか埋めて帰ってもまた同じ場所に行かなきゃならないわけで、それはちょっと。コチコチに凍った顔なじみに迎えられちゃ、寒々しいでしょう」

 どこまで本気でどこから冗談なのやら、境目がわかりづらい。シェリアイーダが真顔を保つのに苦心していると、イルマーフは「笑っていいですよ」の合図にニヤリとして、王女の笑顔を引き出してから話を続けた。

「予想通り、海岸沿いには細長く、凍っていない土地がありましてね。数は少ないですが住民もいて、言葉も……どうやら元々ワシュアール北東部にいた部族と源流を同じくするらしく、そこそこ通じるところまでいきました。ひょっとしたら大昔は平原が凍っていなくて、ワシュアール側から移住していった集団もあったんじゃないですかね。その後で氷漬けになってしまったから、取り残されて孤立したとかいう……ともあれ友好的な関係は築けたので、今後も協力を当てにできると考えています。次回のための準備をあれこれ託してきました。彼ら、氷原を移動するのに犬橇を使うんですよ。あれは面白かったなぁ」

「まあ、東岸には大きな犬がいるのですね。それとも、橇が小さいのですか」

 思わず釣り込まれて目を輝かせた王女に、イルマーフも楽しげに土産話を披露する。

「大きさはワシュアールでも見かける程度ですが、寒さに耐えられるよう長い毛がみっしりふさふさでね! そのぶんもあって一回り大きく見えるかな。それを四頭とか六頭とか繋いで、橇を牽かせるんです。もちろん氷原の奥まで進むわけじゃなくて、端のほうをちょっと横切るぐらいですがね。そうやって移動するほうが、集落から集落への移動が楽で早いんですよ。そういう用途なので橇もあまり大きくはありません。人間ひとり乗ったらもう限界、なんてのもあります」

「でしたら、氷原の中央まで行くかもしれない長旅に備えた大荷物なんて、運べないのでは? それで今回は諦められたのですか」

「それも一因です」

 話がそこまで来て、イルマーフはやっと本当に真面目な面持ちになった。

「労僕を連れて行ったのは当たりでしたよ、殿下。こうしてワシュアールにいると気が付かないものですが、我々有径者はやはり、世界樹の影響を強く受けています。東部に長く滞在していると、いろいろな面で不調をきたす者が多い。気分の問題では済まない、明らかに諸々の問題がね。路を閉ざせば良いのでしょうが、そうしてしまうと一切全く術が使えず、東部平原の世界樹について探ることができなくなるし、そもそも誰も進んで閉ざしたがらないし……その点、労僕はほとんど変わりません。まぁ元々彼らは何かあってもわかりにくいというか、顔に出さないし訴えてこないので、本当はどこか具合が悪いのかもしれませんが。少なくとも外から見る限り、動作や知能の働きが目立って悪くなることもなく、何より寒さにも強くて、いろいろと助かりました」

「良い知らせですね」

 微笑んでうなずいた王女に、イルマーフは恭しく一礼する。

「昔の労僕では、利点よりも使えない面が勝っていたかもしれないので、これはやはり殿下のおかげというべきでしょう。とはいえ労僕では少々、頼みとするには様々な面で不足があるのは否めません。……ですので、次の調査隊には無径者をそれなりの人数、採用したい」

 最後の一言はささやきのように低かった。シェリアイーダが警戒し、リゥディエンも素早く周囲の気配を確認する。途端にイルマーフはころりと雰囲気を明るくした。

「なぁに、そんなに大袈裟なことではありませんよ。無径者だっていろいろですからね、皆が人倫派とは限らない。王都ではそもそも無径者の数が少ないですが、このご時世じゃ自分が無径者ならそのことは極力隠して暮らすでしょう。俺だってそうする。だから採用したくても探し出すのにちょっと苦労しそうなんですが……殿下なら、伝手がおありですよね?」

 そう言ってこちらを見る目がきらりと悪戯っぽい光を浮かべる。知ってますよ、我々は仲間ですよね、という類のあれだ。シェリアイーダは用心深く答えた。

「なぜそう思われたのでしょう? わたくしは確かに、労僕の研究を通じて無径者のあり方にも関心を持っていますし、人倫派の要求に耳を傾ける気があると常々言っていますが、現状、彼らのために何もできていません。彼らのほうでも、わたくしには隔意があるようですし……」

「ですが心当たりはおありでしょう」

 すべて承知です、とばかりにイルマーフがするりと言葉を挟む。シェリアイーダはまじまじと青年を見つめた。

 まさか、サーダッド師は人倫派、という噂を信じているのだろうか。そのような態度には思えないが、軽率な推測は危険だ。シェリアイーダは首を傾げて見せた。

「わたくしの“心当たり”をご承知なら、ご自分で人材を探しに赴かれては?」

 王女の慎重さに対し、イルマーフは愉快げに胡散くさい口上を返す。

「やあやあ無径者諸君、うってつけの仕事があるんだよ、なんと地の果てで雪と氷にまみれながら世界樹を掘り出すんだ! ……という具合にですか? 信用されやしませんよ。要は流刑じゃないか、体よく人倫派を炙り出して東の海に捨てに行くつもりだろう、とか反感を買うだけです」

「今の言い方では、そう聞こえても仕方ないでしょうね」

 シェリアイーダは眉間を押さえて呻く。イルマーフは屈託なく笑った。

「もちろん、真面目にやってやれなくはないですよ。でも殿下が橋渡しをしてくださるほうが確実だし、彼らにしても安心でしょう。俺は何やってるんだか一般人にはよくわからない放蕩者ですが、殿下は長年、誠実に勤勉に学問に励み、労僕や無径者もより良く生きられるように心を砕いて来られた。一朝一夕には作れない信頼があります」

「本当にそうなら、嬉しいのですが……」

「少なくとも“心当たり”の一人はあなたを高く買っていますよ」

 つまりそれがカチェラ=サーダッドだろう。ということは、彼はカチェラがどういう風に人倫派と関り合っているかを知っているし、ほかにも王女の身辺に接点となる人物がいることを把握しているのだ。シェリアイーダは素早く思案を巡らせた。

侍女ニンナル? いいえ、彼女は人倫派を恐れ嫌っている。エイムダール先生……そもそも正統救世教の司祭だから論外。シェイデ総長は恐らくサーダッド師と共通の仲間だし、あとは)

 誰がいたっけ、と考えていると、リゥディエンが「マヨーシャ?」とつぶやいた。王女が驚いて振り返ると、彼はイルマーフの反応を観察しながら小声で続けた。

「彼女はしばしば、世界の滅びを唱える人々について否定と警戒を口にしていますが、そうした主張に妙に詳しいという気はします。彼女自身は賛同していなくても、身近に人倫派がいて日頃からあれこれ聞かされているのではないかと」

「大体そんなところだ」

 よく出来ました、とばかりの声音でイルマーフは肯定し、王女に向き直って補足した。

「そっちのほうは、俺は直接のつながりが無いので、あくまで聞いた話です。サーダッド師のまわりにいるお行儀の良い人倫派よりも“ホンモノ”に繋がる筋だとか。なので無理に働きかけてくれとは頼みません。安全第一、保身優先で」

「なるほど。わたくしの冒険心が試されるというわけですね」

 シェリアイーダが挑戦的に応じる。焚きつけた張本人は、「幸運を祈ってますよ」などとおどけて祝福の手つきを真似たのだった。


 そんなわけで後日。シェリアイーダはもうすっかり常連の風情でマヨーシャ=ロダグの研究室を訪ねた。最初の会見で「いつでも予定は空いている」と言われはしたものの、むろん事前に訪問の連絡は入れる。だがその目的については必ずしも説明を必要とせず、それこそふらりと立ち寄ってみただけ、という時もあった。

 マヨーシャのほうもそうした気安さに慣れて、今日も特段身構えることなく「ようこそ、殿下」と和やかに出迎えてくれた。シェリアイーダもいつもと同じ、友好的な笑みで挨拶を返す。

「こんにちは。少し間が空きましたが、最近の様子はどうですか?」

「おかげさまで、問題なくやってます。一昨日、無事にひとつ論文を仕上げられたので、部の査読会を通れば久しぶりに業績が増えます」

「素晴らしいわ。ちょうど邪魔しなくて済む時に来られたのも良かった」

「殿下が興味を持ってくださったおかげですよ! 前は何回問い合わせても返事ひとつ寄越さなかったところから、ついに資料が送られて来たんです。ちょっと見てくださいほらこれ」

 一仕事上げた解放感から、マヨーシャは興奮気味に王女を研究室の奥へと誘い、紙束をあれもこれもと手渡してきた。シェリアイーダはひとまず自分の用件を後回しにし、喜びの爆発に付き合うことにして、まだインクの跡も新しいそれに目を通した。

「これは……第一工廠の?」

 問いかけた声がわずかに震える。マヨーシャは気付かず、嬉しそうにうなずいた。

「はい。労僕生産発祥の地です。つまり稼動期間が一番長いわけなので、異常や故障の発生状況やそれが無理でも近い湧出点への影響など、いろいろ知りたかったんですよ。ずっと無視されてたんですけど、ようやっと、一部とはいえ数字を送ってくれて!」

「なるほど。でもそれは、わたしがここに出入しているからというより、きっとあなたの仕事の意義が少しずつ浸透してきたからでしょう」

 シェリアイーダは平静を装い、あくまでもただの数字として、そこに書かれたものを読み取ろうと意識した。リゥディエンが背後から覗き込むようなそぶりで、さり気なく寄り添ってくれる。その体温の近さが、心を落ち着かせてくれた。

 工廠内の理力の流れ、回路ごとの変動。遮蔽の効率をあらわす敷地内の揺らぎ数値。近傍湧出点の……

 自身が数学を学んでいるおかげもあって、そうした数字がまるで生き物のように、躍動し並び連なり関りを結ぶように感じられる。数は音とも似ている、とかつて言ったが、音も色も、理の力そのものさえ、数式で表せる日が近付いているのかもしれない。不意に感慨が打ち寄せ、シェリアイーダはほうっと息を吐いてつぶやいた。

「彩紀以前は神秘のなかの神秘、王を通じてもたらされる神の力とされてきたものが、今ではこんな姿になってしまったのね」

「神話の時代ですね」

 マヨーシャが笑う。王女は大げさに顔をしかめ、「不敬であるぞ」と芝居がかった低い声を使ってから、一緒になって少し笑った。

「そうね。もう遠い遠い昔だわ。神は去り、彩詠術と数学や天文学が世界を解き明かしつつある。もう世界に神秘は存在しないかしら?」

 むろんそうではないことは承知だ。解き明かせていない謎はまだ無限にある。己と伴侶を結ぶ魂の絆さえ、術をかけたはずの当人にも予測不能な強さを保っているのだから。しかし当節に生きていると、もはや世界のあらゆる事象は説明が可能か、今は無理でも必ず解析できるという気にさせられてしまう。

 マヨーシャは理知の時代に生まれ、さらにそれを推し進める立場にあるのだ。神々などというものは笑い話にすぎないだろう――シェリアイーダはそう思ったのだ。しかし返事は予想を違えた。

「そう言う人もいますね。でも私に言わせれば、この数字の羅列こそまさに神秘ですよ! 確かに理力を測ることは可能になったし、そもそも理の力とはいったい何であるのか正体を突き止めることさえ、いつかはできるのじゃないかと思えるところまで進んで来ました。でも。でもですよ、仮に理力の正体がわかって、そのほかの世界の仕組みもすごくきれいに簡潔に説明がつけられたとしても、それは――圧倒されるほどの奇蹟、ではありませんか? 世界がそんなありようであること、それ自体が神秘ですよ。紀元前の人々が考えたような、太陽の神や風の神やあれこれがいて自然現象を動かしている、なんていうお話は確かにただのつくり話になりますけど。創世の神秘は別だと思いますね」

 そこまで熱を込めて語り、はたと我に返ってマヨーシャは赤面し、「個人的には、ですけど」などともぐもぐ言い足した。

 シェリアイーダは驚きに打たれ、呆然としたまま無意識に傍らの青年を振り返った。目が合うと、相手も同じことを思い出したのだと解る。今や二人の記憶の中だけにある声が互いの心に響いた。

 不意に目頭が熱くなり、シェリアイーダは慌てて顔を伏せ、瞬きして堪えた。マヨーシャがどうしたのかとうろたえたので、安心させようと笑いかける。

「あなたの言葉を聞いて、昔ある人が言っていたことを思い出したの。ウルヴェーユは世界そのものだ、って何度もね……」

 まだウルヴェーユという言葉すら生まれたばかりだったあの頃、父シェイダールが力を込めて説いた言葉。当時は誰もその本当の意味を理解しなかった。娘である彼女さえ、わかっているつもりだったが、実際は違った。

 それがこれほどの歳月を経て、こんな形で“正しく”人々の中に現れてこようとは。

(聞かせたかった)

 叶わない願いに胸が詰まる。肩に置かれた手も、同じ思いに熱く震えていた。

 王女と警士の間に生じた繊細な空気を、マヨーシャはそっとしておいてくれた。何も言わず静かに離れ、ゆっくりと飲み物を用意することで時間を過ごす。

 しばらくして、マヨーシャが熱い茶を運んできた頃には、シェリアイーダも本来の目的を思い出し、気持ちを切り替えていた。

 どうぞ、と差し出された茶を受け取って、一口。シェリアイーダはしみじみと言った。

「ありがとう。美味しい……思えば、こうして手軽にお茶が飲めることさえウルヴェーユの恩恵なのよね。ずっと昔は、水を汲むのも火を熾すのも、何もかも人の手で一からしなければならなかった。そういうあまりに基本的な細々した事をこなしていくだけで一日一日が飛ぶように過ぎて、気付けば人生を使い果たしている……大勢にとってそれが当たり前の時代があった」

 他人事として歴史を振り返るのではなく、経験した事実として語っているのだとは、さすがにマヨーシャには察せられる由もない。だが声音の重みに感じるところはあったらしく、表情を改めてうなずいた。シェリアイーダは自分の言葉がしっかり受け止められたことを見て取り、茶碗を置いて居住まいを正した。

「ウルヴェーユを否定するというのは、だから、すべての人に対して残酷なこと。ねえマヨーシャ、あなたのお友達にそういうことを言う人がいるなら、その点についてどう思うか訊いてみてくれない?」

「――!」

 マヨーシャは目に見えて動揺し、おろおろと視線をさまよわせた。隠し事にはまったく不向きな性質だ。すっかり青ざめて、しどろもどろに言う。

「そ、そそそれはその……あの、……ば、ばれたんですか。彼女、どうなりますか」

「ごめんなさい、今のはちょっと鎌をかけたの。あなたの身近には人倫派の誰かがいる、それもあなたに繰り返し世界の滅びを説いてうんざりさせるような類の熱心な人が。そう推理したのが当たっているか、確かめたくて」

「あ……そう、でしたか。あの、それじゃあ」

「あなたのお友達に危害を加えるつもりはありません。安心して。むしろ逆で、力を借りたいの。紹介してもらえないかしら」

「力を? いったい王宮では何が起きているんですか」

「王宮ではなくて、世界の果てでね」

 シェリアイーダはおどけて答え、困惑顔の相手に事情を説明してやった。話を聞くうちにマヨーシャも平静を取り戻し、難しそうに思案し始める。シェリアイーダは返答を急かさず、ゆっくり茶を飲んだ。

 ややあってマヨーシャは脳内の『お友達』と相談を終えたらしく、心を決めた様子で口を開いた。

「そういうお話でしたら、紹介しても大丈夫だと思います。ただ、どこまで頼れるかはわかりません。彼女自身はもちろんそんな旅には出られません、生活がありますから。そうなると彼女から、もっと広い伝手をもつ人に話を通すことになりますが……その相手というのが、王都に住んでいるわけではないんです。元々はラケシュ――あ、彼女の名前です――も、教会での礼拝の後で、人倫派のささやかな集まりに呼ばれたのが始まりで、それは各地の人倫派信徒の間を旅して回っている人が訪れた時にだけ開かれるのだとか」

「なるほど。王都には人倫派の拠点と言えるほどの組織は定着していない、ということね。普段はそれぞれの生活を営んでいて、本拠地である西部と王都を行き来する使者のような人が来た時だけ、活動めいたことをする。お金や物の受け渡しとか、皆で教義を確かめ合うようなことかしら?」

「数人ぐらいで集まって語らうのは、普段から時々、ちょっとした会食だとか公園での散歩に紛れてとか、やっているようですね。でも、そのぐらいです。その……西部の人たちがやっているような、物騒なことをするわけではなくて。王都でそんなことをすれば、少なくとも追放、悪くて死刑でしょうから。勧誘もおおっぴらにはしませんし」

「でもあなたは、さんざんご高説を聞かされて嫌気が差している」

 意地悪く笑ってシェリアイーダが指摘すると、マヨーシャはため息をついてうなだれた。

「ええもう、本当に……ウルヴェーユを使い続けたら世界が滅びるぞ、なんて、よりによって彩理学者に言うことですかね? 悪い人ではないんですよ。昔からちょっと正義感が強いというか、これと思い決めたら深みにはまる性質で。再従姉はとこなんですけど、たまたま家が近くて交流があったものですから、よく彼女の演説を浴びせられてました」

 マヨーシャはいかにもげんなりした様子で眉間をこすると、頭を振って気を取り直し、続けた。

「失礼、脱線しましたね。ともかく、ラケシュ自身には何かできるほどの力はありません。ですから、使者、と先ほどおっしゃいましたけど、そういう人が来て、西部かあるいはもう少し近くのどこか拠点に話を持ち帰って、それから――というわけで結構な日数がかかるんじゃないかと思います。それでも良ければ、今日明日にでも彼女と話してみますけれど」

「お願いします。その時に、これはあくまで東部調査隊に限る話であって、王宮のほうではその決定に関与していないことは強調しておいて。つまり、無径者との協力を公にはできないの。無径者が公正な扱いを受けられるようになった、これで日の当たるところを堂々と歩ける、とは……少なくとも今すぐには無理だと思うわ」

「えっ、でも、東部調査は国土省の裁量ですよね? 長官や、ひいては国王陛下が承認なさった事業なわけで」

「それはそうなんだけど、人員の選定については隊長と隊員たちの間で話し合っているみたいなの。大丈夫だと彼らが判断したなら、その時は公にされるでしょうけれど、当面はこっそり動くのがお互いにとって安全ではないかしら」

 シェリアイーダは改めて状況を整理し、厳しい面持ちになった。

「国土省の長官ぐらいまでならイルマーフ殿の意向を了承しているかもしれないけれど、兵部省がどう受け取るかわからないから。国王陛下はまず論外。それに人倫派のほうでも、きっといろいろな考え方があるでしょう。無径者としての仲間意識はあれど教義のすべてには賛同していない人もいるでしょうし、一方で、世界樹を穢すなんて許せないと本気で信じている人なら、わざと調査隊に志願して東部に着く前に船を沈めてやる、ぐらい目論んでもおかしくない。だから、それぞれの立場で確実に信頼できる人、理性と良識をもって対話できる人だけでことを進めたほうが良いわ」

 挙げられた可能性を聞いてマヨーシャが顔をひきつらせる。

「私には随分と危険な賭けのように思われますけど……同じ船に乗っているのが安全な仲間なのか、寝首を掻きに来た敵なのかわからないなんて、やめたほうが良いのでは?」

「隊長さんは冒険が大好きなの」

 シェリアイーダは笑って応じ、おっと、と首を竦めた。

「失礼、彼の冗談癖がうつってしまったみたい。実際問題、それでも無径者を起用しないとどうにもならないと判断したんでしょう。東部で暮らすうちに有径者は様々な不調をきたした、と言っていたから。路を閉ざすか、無径者を頼るか。もしかしたら、向こうでは今のワシュアールにおける無径者と有径者の力関係が逆転するかもしれないわね」

「だったら本当に、間違いなく信頼できる人を選ばないと。でも、いますかね? 無径者だけど、有径者を恨まず憎まず協力してくれるお人好しなんて」

「最初からそんな関係になれると期待してはいけないでしょうね」シェリアイーダは苦笑した。「恨んでいても憎んでいても、それを堪えて明日の世界のために協力できる人。そういう人に対し、イルマーフ殿や他の隊員たちが正しく誠実に応じることで、希望が見えてくると信じましょう。ともあれ、まずはあなたのお友達……ラケシュという女性から始めなければね」

 話が身近に戻ってきて、マヨーシャはそうだったと思い出した顔をする。

「それじゃ、今日の帰りにでも寄って話をしておきます。返事がもらえたら、私から殿下にお知らせしましょう。……もし、仮にですが、彼女かあるいは人倫派の上のほうの人が、殿下と直接お話ししたいと言ったら、受けられますか?」

「もちろん」

 王女は即答し、その後で背後の警士を振り返った。リゥディエンは先刻承知というような微笑を返してうなずく。頼もしい援護を受けてシェリアイーダも笑顔になった。

「わたしが出向いたほうが信用されるかとは思うけれど、警護の面からして、王宮での私的な会見になるでしょうね。ラケシュさんは女性だから、女区画にも入りやすいでしょうし。来て下さるというのなら、大歓迎です」


「なりません」

 低い声音でびしりと禁じられ、王女は眉を下げて目をしばたたいた。侍女はいかめしい表情を崩さない。

「ねえニンナル、そう……」

「なりません。なりませんなりません、今度ばかりは姫様の『お願い』といえども、断固、なりません!」

「そう言わないで、決して怖い相手ではないのよ? 普通の市井の女性だし、雑貨屋を営んでいるのですって。だからね、大学で使っている鞄をそろそろ新調したいと思っていたところだし、どうせならいろいろ自分流の工夫を」

「姫様」

「ニンナル……」

「悲しそうな上目遣いをされても、駄目なものは駄目です」

「危なくないわよ、本当に。だってリゥもイーヴァもヤルゥルもいるのよ? わたしが出向くよりずっと安心安全でしょう」

「それでも危のうございます! ああした手合いが敵の懐に送り込むのは、判りやすく屈強な男ばかりではないのですよ」

「心配してくれるのは嬉しいけれど、マヨーシャの話では、ラケシュは穏便に暮らしている人よ。街で地道に生活を営んで、その生活が大事だから東部になんて行けないし、仲間と寄り集まって公共施設の前で抗議活動をすることもない。そんなおとなしい人。そもそも王都の人倫派がわたしを殺したければ、しょっちゅう大学や六彩府へ行くために街へ出ているのだもの、その機会を狙うほうが簡単だし、やりおおせるか仕損じるかいずれにしても逃げやすいでしょう」

「姫様が理詰めで納得されて、わたくしをも説得できるとお考えなのはよく解ります。ですがそのように予測できるのは、同じことわりが通じる相手だけでございますよ。まさかというような突拍子も無い理屈で予想外のことをする者は、世間には大勢いるのですから」

 ニンナルは切々と訴え、そこでひとつため息をついて口調を変えた。

「百歩譲って、仮にその人倫派のかたが本当に安全な人物であったとしてもですよ。わたくしは反対です。これ以上、姫様の身辺におかしな者を増やすのは侍女として看過できません!」

「おかしな、って」

 目を丸くして思わず聞き返したシェリアイーダに、侍女は大袈裟に憤慨して見せた。

「最初は救世教の司祭を呼び、次は労僕、さらには獣、ついに叛徒の仲間まで! ここはいったい何なのです? 六彩輝けるワシュアールの誉れ高き王女殿下のお部屋であるはずが、まるで見世物小屋ではありませんか!」

 嘆かわしい、とばかり天を仰いだニンナルに、シェリアイーダは束の間ぽかんとし、次いで笑い出してしまった。ニンナルは「笑い事ではございませんよ」と渋面になったが、効果はなかった。

「そんな風に考えたことはなかったけれど、言われてみれば確かに愉快なことになっているわね! イルマーフ殿だって充分“おかしな”部類の人だし、これからもっといろんな人がここに集まるようになったら楽しいわ。リゥもそう思わない?」

 悪戯っぽく振り返り、目配せを交わす。奇妙というなら、まさに自分たち二人がその筆頭だ。リゥディエンは何か答えかけたものの、ニンナルに目をやり、真顔を取り繕った。

「侍女殿の心の安寧のために、返答は差し控えましょう。この場の品格についてはともかく、警備の面では騒ぎにならないよう私が手配いたしますゆえ、侍女殿はどうぞご安心を」

 深々と一礼した青年警士に、侍女はさらに顔をしかめ、シェリアイーダもやや懸念顔になった。

「それはつまり、警士の数を増やすとか、万一人倫派だと気付いても無用に騒がないよう話を通しておく、ということ? それは助かるけれど、あなたは……あの一件以来、他の警士に距離を置かれているのではなくて?」

 同僚を殺しかけた事件のことだ。二年ほど経つが、その影響はまだ消えていない。だがリゥディエンは微笑んで応じた。

「私のことを、人の懐に入る稀有な才能がある、とお褒め下さったのをお忘れですか? ご心配なく。むしろあの件がきっかけになり、一部の警士はあなたに対する認識を変えました。大勢いる王女と同じく『嫁ぐまでの間だけ守れば良い相手』ではない、一警士にここまでさせる御方なのだ、とね。以来あなたの動向を気にするようになった者たちに、お考えや目指すところについて少しずつ話し、味方に引き込んであります」

「周到ね! それならラケシュだけでなく人倫派の伝道者がここへ来たとしても、大騒動にはならずに済みそう……」

「なりません」

 またしてもニンナルが低い声で遮った。が、今度はとうとう、王女の悲しそうな上目遣いに負けて沈鬱に唸った。

「と言いたいところですが、ええ、もうそこまでリゥディエン殿が仕込まれているのなら、お止めしても無駄でしょう」

「――!」

 ぱあっ、とシェリアイーダが喜びに顔を輝かせる。ニンナルは完敗のしるしに両手を広げた。

「ありがとう、ニンナル!」

「わたくしに感謝される必要などございませんでしょう。どうしてもとなれば、姫様はわたくしを追い出してしまうこともおできになるのですから。……まだ幼かった姫様の大きな野心を知った時には、どこまで進まれるのか見届ける気持ちでおりましたが、自分が巻き込まれるとなると、そう大らかにしてもいられないものですね」

 付き合いの長い侍女が珍しく僻んだようなことを言ったので、シェリアイーダはいたわる表情になって相手の肩をさすった。

「あなたを追い出すなんて、とんでもないわ。ねえ、あなたは昔、労僕を厭わしいものとみなして、わたしの目から隠そうとさえしたわね。でも今は、ウトゥをほかの召使と同じようにちゃんとした扱いをして、そこまでの働きができるように教育したあなた自身の忍耐と手腕を誇りに思っている。あなたがそんな風に変わってくれて、わたしは本当に嬉しいの」

「姫様にお仕えしておりますと、様々な事柄に対して今までとは見る目が変わらざるを得ませんのでねぇ……とはいえ、やはりわたくしとしましては、王家伝来のウルヴェーユを否定するような者たちとは関わり合いになりとうございません」

 最後の抵抗とばかり渋ったニンナルに、シェリアイーダはうなずいて譲歩した。

「ウルヴェーユを否定されたくないのは、わたしも同じよ。とても大切なもの、人の未来を拓く知恵とわざだもの。だからあなたの気持ちもわかるし、実際に人倫派がこれまでおこなったと言われている出来事を聞けば、警戒せざるを得ない。全体として見れば無径者と有径者の関係は良くないし、あなたに無径者への嫌悪感を克服しろだなんて命令もできない」

「ご理解かたじけのうござまいます」

 侍女は少し気持ちのおさまった様子で目礼し、諦めまじりの苦笑を見せた。

「でも、と続くのでございましょう? わたくしも、頭では理解しております。全員が邪悪なのではない、協力できる事柄もある。彼らが無径であるのは自然がそう定めただけのことで、罪深く卑しい生き物である証なのではない……ええ、その通りですとも。ですがわたくしは姫様のように、平然とはしておれません。近頃は少し、姫様の影響で理の力や御柱について考えることも増えまして、つらつら思いますに、きっとわたくしは恐ろしい――いいえ、認めたくないのでしょうね。この『路』が存在せず、理の力に触れるどころか感じ取ることさえなくとも、普通に生きてゆけるということを。そんな人生は絶対に空虚で劣ったものであるに違いない、だから無径のものは我々とは異なる卑しいものなのだ、と」

 語る声は次第に独り言のように小さくなり、最後は曖昧にぼやけて消える。急に寒気がしたように、ニンナルはぶるっと震えて口をつぐんだ。シェリアイーダはそっと手を伸ばし、優しく抱擁してやった。

「大丈夫よ、ニンナル。彩紀のはじめより前は、誰もウルヴェーユを知らなかったけれど、それでも人は生きてきたわ。色と音の結びつきを感じ取れる人はほとんどいなかったし、都に住む人の誰一人として御柱が見えていなかった。それでも皆、暮らしを営みワシュアールという国を築いて、その末に今のわたしたちがある。決して虚しくはないのよ」

「……はい。姫様が仰せなら、その通りなのでございましょう」

 ニンナルは自分に言い聞かせるようにつぶやいて、こくりとひとつうなずく。それからはたと我に返ったように瞬きし、恐縮そうに恥じ入りつつ抱擁から逃れて姿勢を正した。

「畏れ入ります、取り乱して失礼しました。姫様とリゥディエン殿にならって、わたくしも次の客人を迎える覚悟をいたしましょう」

「よろしくね、頼りにしているわ」

 シェリアイーダは心からそう言ったが、侍女は何やら胡乱げな目つきを返してくれた。そしてしみじみと一言。

「姫様の信頼は、おねだりと紙一重でございますからねぇ……」

 堪えきれずリゥディエンが盛大にふきだし、シェリアイーダは目を丸くして赤面したのだった。


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