四章(2)東部調査隊長イルマーフ


 それから一年ほどは、平穏に過ぎていった。

 シェリアイーダは大学でさらに高度な数学を学び、その成果をも踏まえてエイムダールのもとで様々な術を編み、マヨーシャと共に理の本質について語り合った。

 大陸東部調査隊による二度目の遠征には、シェリアイーダもわずかながら準備に貢献することができた。マヨーシャとの語らいのなかで「いざとなれば東部に逃げる」話が出たのを受け、東部開拓の可能性を貴族や有力者の間に広めておいたのだ。

 氷漬けの不毛の地として一度は失望された東部平原が、再び希望に満ちた魅力をもって様々な欲を惹きつけた結果、資金も人員も潤沢に集まったのである。

 東部調査隊を率いるのは名門ジャヌム家出身の青年、イルマーフ。国土省に属する官僚ながら冒険心が旺盛で、出発が決まった時にはシェリアイーダのところにも礼を言いに来たほど喜んでいた。


「お初にお目にかかります、シェリアイーダ様。この度は殿下のお力添えのおかげで東部調査隊の第二次遠征が実現し、是非にも感謝の念をお伝えしたく参上いたしました」

 いささか芝居がかった口上を述べつつ、恭しく一礼したイルマーフ青年は、黒い巻毛と黒い瞳、よく日焼けした肌をしており、活動的な印象を与えた。

「はじめまして、御丁寧にありがとうございます。わたくしの影響力など微々たるもの、すべてはジャヌム家の皆様の熱意あればこそと存じております」

 優雅に応じたシェリアイーダの後ろから、リゥディエンが興味深げな様子で口を挟んだ。

「不躾ながら、ひとつ質問をお許しください。ジャヌム家といえば水利事業の一門、という印象だったのですが……イルマーフ様は、はじめから国土省に?」

 彼が何を思い出してそう訊いたのか、シェリアイーダにはわかってしまい、自然な表情を保つのに苦心した。同じ家門であっても人は様々、歴史の流れで変わりもする――そうわかっていても、遠い昔の陰気な水利長官の記憶が眼前の青年と噛み合わないのだ。

 幸いイルマーフは先祖と違って気難しいところなど無く、陽気に笑って答えた。

「千年続く伝統のお家芸は、確かにそうだが。私は子供の頃から、とにかく遠くへ行くのが大好きでね。国土省なら、仕事にかこつけてワシュアールを端から端まで旅することも叶うんじゃないかと、そんな魂胆で入ったんだ。大陸の端まで行けるなんて望外の喜びだよ。いや、それにしても……」

 そこまで言ってから、彼は王女に向き直り、獲物を見つけた猫のように目をきらめかせて続けた。

「噂の王女殿下がこんなにも美しい方だったとは驚きです。あなたがいれば、どれほど遠くまで旅しても、その輝きを頼りに家路を辿って帰り着けるでしょうね」

 あまりにすっ飛ばした発言に、王女と警士は呆気に取られて絶句した。世辞や追従という口調ではなく、さも当然のように、要約すれば「あなたが妻だったらいいのになぁ」との台詞を吐いたのである。求婚にはまず家長を通して交渉するという常識を無視し、無礼者は一撃必殺と噂の警士が控えている目の前で。

 咎めるべきなのだが、シェリアイーダは笑ってしまった。

「本当に冒険がお好きなのですね。東部に赴かれる際は、その胆力だけでなく緻密な計画と周到な備えをする冷静さを、十全に発揮なさいますように。同行する皆様のためにも」

 鮮やかに切り返されて、イルマーフは一本取られたというように照れ笑いし、首を竦めた。そして今更ながらに青年警士の様子を窺い、首に手を当てて無事を確かめるふりをする。リゥディエンは眉を上げただけで、敢えて何も言わなかった。

「そんなことより」とシェリアイーダは話の舵を取った。「東部について聞かせてください。前回は陸路で山脈を越えたところで、大峡谷と氷原に行く手を阻まれて引き返されたのでしたね。今度は海路で挑まれるとか」

「ええ、ワンジルを迂回して陸伝いに東の端へ、上陸できるところを探しに。まさか海岸ぎりぎりまで氷漬けということはないだろう、という予測なので。……あの、殿下。一応断っておきますが、お美しいと称えたのは本心ですよ」

 実は怒っているのかな、と探るようにイルマーフが弁解する。シェリアイーダは「そうですか」と素っ気なく応じた。

「称賛のつもりでおっしゃったのは理解します。ですがあいにく、わたくしは容貌を他人に評価されるのが好きではありません」

「ああいや、違う、そうじゃなくて」

 イルマーフが素早く遮った。口調がすっかり砕けてしまっているが、構っていられない心境らしい。シェリアイーダが露骨に、まだこの話をするのか、という顔をして見せると、彼は降参の仕草をした。

「どうも俺は軽口が過ぎて、大変申し訳ない。前人未踏の地に挑む仲間たちが緊張して深刻にならないように、何でも冗談にする癖がついているんですよ。殿下の輝きを辿って帰り着けるだろう、と申し上げたのは、顔かたちの話じゃありません。なんと言うか……もし本当にあなたが我々に同行してくださり、たとえば大陸東部の海岸で野営を張って、氷原を渡る調査隊の無事を祈ってくださったら、恐らくどんな吹雪に見舞われようと迷わず帰り着けるだろうと信じられる。そういう不思議な、強い力を感じると言いたかったんです。まあ、現実問題として、本当に殿下を調査行に引っ張り出すのは不可能ですが」

 惜しいなぁ、と難しい顔で唸って腕組みした青年に、嘘や悪気は感じられない。シェリアイーダは思わず苦笑してしまった。

「買いかぶりです。わたくしに、そこまでの力はありません」

「そうかな。殿下に呼ばれたら、人間どころか鳥も虫も、大地の果てから馳せ参じたっておかしくない。王族の優れた資質というやつなんでしょうが、今までお目にかかった王族の誰も、殿下ほどじゃなかった」

「イルマーフ殿。あなたが率直な方で、歪んだ悪意など持たないと信じた上でお願いします。どうかそのように引き比べる発言を、他の方々の前ではなさいませんように」

 厳しい面持ちになって釘を刺した王女に、冒険好きの青年も真顔になった。

「そのぐらいはむろん、承知していますよ。殿下を『出しゃばり』扱いしているのが誰か、ってこともね。本当に惜しいな。もしかすると冗談でなく、俺と結婚してうちに来られたほうが、今より自由に行動できるかもしれませんよ。どうですか」

「……正気でおっしゃってます?」

 堅苦しい礼儀を保つのが馬鹿らしくなって、シェリアイーダは不躾な返事をする。

 ちょうどそこへ、機を計っていたらしき侍女が咳払いして「失礼します」と割り込んでくれた。おやと振り返ったイルマーフがぎょっとして一瞬竦む。侍女だけでなく、労僕が一人、盆を持って立っていたからだ。

「用意が遅れまして申し訳ございません」

 深く一礼した侍女の横で、労僕もこっくり頭を下げる。手にした盆から菓子皿が滑り落ちそうになり、慌てて持ち直した。

 啞然としているイルマーフに構わず、侍女が客人用の茶と菓子を置き、労僕のほうは王女のところへ運んでいく。

「ありがとう、ウトゥ」

 シェリアイーダが礼を言って受け取ると、労僕は表情こそ変えないものの、ぱちぱちと瞬きしてぺこりと会釈した。

 侍女が牽制するまなざしをイルマーフに突き刺してから、労僕を促して退出する。もっとも、当のイルマーフは驚くばかりで侍女の視線に気付いていない様子だった。

「これは……いつものこと、なのですか?」

「ええ、そうです。もう四年前になりますが、エイムダール先生と会って労僕研究にかかわることになった後、側仕えに一人だけ加えたのですよ。彼らのことをもっとよく知りたかったので」

「なんとまぁ、畏れ入りました。殿下もたいがい冒険好きでいらっしゃるようで……しかも名前までつけて」

 ぽかんとして労僕の後ろ姿を見送っていたイルマーフは、そこでふと何か思いついた顔になり、シェリアイーダに向き直った。

「実際どうです、あれらは役に立ちますか。殿下の側仕えなどは、侍女の助けがあるようですが、それでも繊細な動きや複雑な手順も要求されるでしょう。人並にこなせますか」

「どの程度を想定したお尋ねなのか、わかりかねますけれども……最初はやはり、手順段取りを教えるのに手間取っていましたね。基本を応用して臨機応変に対処するというのは、労僕がもっとも苦手とする類の作業ですから。それでも、意外にウトゥはよく学びましたよ。丁寧に根気よく接してやれば、一年もかからずに随分人間らしくなります」

 雑な指示のみで単純作業ばかりやらせ、失敗すればとにかく怒鳴る叱る、といった一般的な扱い方をしている限り、労僕の能力はほとんど伸びない。だが、指示を丁寧に具体的に繰り返し教え、間違いや失敗があれば、どうすれば労僕が自然に働けるかを考えて改善する――といった、贅沢で悠長なことを続けていれば、労僕もいつしかそれに応えてくれるようになる。

 最初はいとわしげだった侍女も、今ではウトゥの扱いに慣れて、労僕も使いようで役に立つものですね、と評価するようになった。見た目の悪さはどうしようもないが、たまには可愛げを感じなくもない、とまで言ったほどである。

 イルマーフは労僕の容姿に対して忌避感などは無いらしく、ふむと真面目に考えつつ独り言のようにつぶやいた。

「調査隊に加えるのも、ありかな。今回は海路、世界樹の覆いから外れたところを行くことになるし、ウルヴェーユに頼れない状況が増えるかもしれない。東部平原の世界樹がどういう性質かもわからないし、理力に影響されない労僕なら安全……」

 彼の思案を聞くうち、シェリアイーダは自然と微笑んでいた。はたと顔を上げたイルマーフが、怪訝そうに瞬きして続ける。

「殿下のおかげで彼らもだいぶん丈夫になりましたしね。食糧や装備の問題も軽減できるかもしれない。まさか殿下、こういう活用法までお考えの上で労僕の改良を進められたんですか?」

「そんな予見の力はありませんよ。わたくしはただ、少しでも彼らの苦痛を減らしてやりたいと願っただけです。そうしていつか、粗略に使い潰されるものではなく、彼らの価値を認めた人間たちに頼られるような、そういう関係になれたらと夢見ているのです」

 予想外の答えを聞かされたイルマーフが言葉を失っているところへ、シェリアイーダは笑顔で追加の一撃を打ち込んだ。

「ですから、ありがとうございます。労僕のことを蔑むのでなく、危険な調査行に加えるに足るものとして公正に評価してくださったこと、嬉しく思いますよ」

「――」

 ぱか、とイルマーフは口を半開きにしたまま絶句した。シェリアイーダはにこにこと笑みを崩さず反応を見守る。

 感謝を述べたのはむろん本心だが、半分は牽制だ。まさか連れて行った労僕をあっさり捨て駒にしたりはしないでしょうね、という。王女の信念と性格を熟知しているリゥディエンが笑いを堪えて妙な顔をしている間に、イルマーフのほうもじんわりと理解が浸透したらしい。次第に表情が緩み、やがて苦笑になって、最後には大きく両手を挙げた。

「参りました! いや本当に、まったく――底知れない御方だなぁ殿下は。シェイデ総長からお噂は聞き及んでいましたが」

 参った参った、と首を振り、感嘆のまなざしを王女に注ぐ。それから彼は改まって最敬礼した。

「不肖イルマーフ、殿下の御心にかなうよう全力で励みましょう。願わくば、無事に使命を果たして帰還できるよう、日々の祈りにわたくしめの名を加えてくださいますように」

「あら、わたくしは救世教徒ではありませんよ。もちろん、調査の成功と皆様の無事を祈りはしますけれど。古き神々に」

「おっと……そうでした、失礼しました」

 わかりきったことを敢えて間違えたような白々しさ。思わせぶりな声音にシェリアイーダが眉をひそめると、イルマーフはそつのない愛想笑いを返し、丁寧に再度、支援への礼を述べて辞去したのだった。



「シェリアイーダ様、これはちょっとした好奇心ゆえの話題ですが、東部調査隊の隊長から求婚されたのを、見事に一蹴されたそうですね」

 講義の後、カチェラ=サーダッドが面白そうに話しかけてきた。シェリアイーダは天を仰ぎ、「誰からお聞きに?」としかめっ面で聞き返す。カチェラは朗らかに笑って応じた。

「ご心配なく、誰からも何も当人からです。昨日はシェイデ総長がイルマーフ殿のために内輪の壮行会を開かれて、私も出席したのですよ。そこで彼が、私の教え子の才知について感嘆と称賛を伝えてくれた、というわけです」

「褒めるなら何もそんな事でなくとも良いでしょうに」

 論文の一本も読んでくれたほうがずっと嬉しい、とこぼした生徒の肩を、教師がぽんと叩いて励ました。

「数学や労僕研究における殿下の貢献については、当然高く評価されていますよ。それとは別に、ささやかな日常の機知をあらわす出来事としての話です。詮索する気はないので答えられなくとも結構ですが、殿下はイルマーフ殿を夫にふさわしくないと判断されたのですか? それとも、数学に夢中で結婚などしたくない、とお考えですか」

「先生のように?」

 鋭く切り返した王女に、カチェラは軽く肩を竦めた。

「私はいささか特殊な事情がございます。自分自身の望みよりも、立場と境遇の問題ですね。大学で教師として立ち続けるには、“女”であることを捨てる必要があります。幸か不幸か、私のこの容貌はワシュアールにおいて美女の評価からはほど遠いものですが、それでも学生や他の教師から言い寄られないように、不適切な関係を結ぶ恐れがないと信頼され続けるために、色恋からは離れていなければなりません」

「馬鹿げた話ですね。殿方なら、妻帯者だろうとなかろうと、教師になるのに何の関係もないのに。ですがもし、わたくしがこのまま学問の道を邁進するなら、先生と同様の『身持ちの堅さ』が要求されるのでしょうね」

 世間というやつは本当につまらないことで人の評価を変えるものだ。鼻を鳴らした王女に対し、教師はやんわりと話を戻した。

「私のことよりも殿下、イルマーフ殿の件です。彼のほうはそれなりに本気のようでしたよ。朗報を手土産に帰還して、もう一度あなたの前に跪くかもしれません。迷惑に思われるのでしたら、こちらから手を打っておきましょう。ああ、これは縁談とみれば食いつく親戚のおばさんのお節介、ではなくて、女学者ゆえの苦労を知る先達としての親切心、と受け取って欲しいのですが」

 おどけて注釈を添えたカチェラに、シェリアイーダは失笑した。一族挙げて避難してきたサーダッド家のなかにも、そういう親戚がいるのだろう。少ない血縁のなかでどう婚姻を結ぶのか、ワシュアール人と結婚するならどういう家柄がふさわしいか、独身とみればあれこれ気を回してやきもきする誰かが。

「正直なところ、わたしはもう結婚はいいかな、って」

 気が緩んでふっと本音をこぼしてしまい、肩を竦める。もう、も何も、『シェリアイーダ』は一度も結婚していないし、その実態を知るはずもないというのに。

「昔は憧れたりもしましたけれど、王宮内で見聞きする貴族の殿方の振る舞いや、嫁いだ姉上たちの様子からして、あまり魅力を感じなくなったんです。確かにわたしは王族で、可能ならば政治的に有利な婚姻関係を結ぶべきなのでしょうけれど、無理に結婚しても破綻したら逆効果ですものね? 大抵の殿方には、わたしの相手は難しいでしょうから」

 挑発するように言って、ちらりと傍らの警士を見やる。長い歳月を共にする青年は、愉快げな微笑を返したが、口は挟まず咳払いでごまかした。カチェラは二人の様子を眺めて何やら納得した顔つきになり、なるほど、というようにうなずいた。

 これでこの話題は切り上げられるだろう、とシェリアイーダは講義の内容に話を戻そうとしたが、ふと疑問が胸をよぎり、眉をひそめてささやいた。

「私生活の話を続けて恐縮ですけれど……先生は、ご自身の生き方をどうお考えなのでしょう。学者として在るためには独身でなければ、というようにおっしゃいましたけれど、さきほどのたとえのように、サーダッド家の親戚からは何かと圧力もかけられるのではありませんか? ご自身はもうワシュアール人のお気持ちかもしれませんが、……ワンジルに帰って名誉と土地を取り戻したい方々もいらっしゃるのでは?」

 そのために、一族の女であるカチェラを異国の者の嫁に出すな、血族の結束を固めろ、という要求があるかもしれない。あるいは逆に、ワシュアールの名家と婚姻を結んでその軍事力を利用すべきだ、とか。

 尋ねながらシェリアイーダの頭にあったのは、先日のマヨーシャとの会話だった。世界樹に異常があるなら「逃げる」という選択肢がある――そう言った時、マヨーシャは東部平原を意識していたが、恐らくそれよりは現実的にワンジルを考える者のほうが多いだろう。少なくともワンジルなら、既に人が住み暮らしている土地だ。何もかも無い状態から始めなくても、行って、乗っ取ってしまえばそのまま生活を繋ぐことができる。

 もし将来、理由が世界樹であれ他の災害や政治的混乱であれ、ワシュアールから逃げることを真剣に考える人が増えたなら、サーダッド家は格好の突破口として狙われるだろう。

 複雑な憂慮を湛えた目で返事を待つ王女に、教師もまた真意を探るまなざしを返し、しばし沈黙する。それから彼女は用心深く答えた。

「そうですね。故郷奪還の願いは根強く残っていると言えるでしょう。私はほとんどワシュアール人のようなものですが、それでもワンジル人の一家として育ち、今もなおその血族意識に支配されています。ご賢察のように、私が独身のままであるのは、学者としての地位と信頼を守るためであると同時に……ワンジル人であり続けるためでもある、と言えるかもしれません」

 やはりそうですか、との思いをこめてシェリアイーダが相槌を打つ。カチェラは苦笑を浮かべて軽い雰囲気を装った。

「そういう、ぎりぎりワシュアールに帰化せず踏みとどまろうという気持ちがどこかにあることを、一部界隈の人は鋭く嗅ぎつけるのでしょうね。相も変わらず、やれ人倫派だ叛徒だとか言われます。まぁ最近はさすがに、私の論文や評論を貶すための常套句に成り下がった感がありますけれども、何も知らない部外者が信じてしまっているようで、困りものです」

「それはかなり危うい状況なのでは? 深刻な事態に陥る前に、どうにかお力になりたいところですが……」

 シェリアイーダは言い淀み、口惜しさに唇を噛む。何年も前から人倫派と対話するための布石を打ってきたのに、いまだ接点を作れずにいるのだ。王女を人倫派に近付けまいとする者がいるのか、あるいはやはり相手側から警戒されているのか、伸ばした手は何も掴めないまま。カチェラに関わる悪い噂を払拭したくとも、この都での人倫派の活動実態さえ把握できないのでは、打つ手がない。

 現状、人倫派は最初に占拠した湧出点を拠点として地盤を固めてしまい、もはや存在して当たり前の勢力になっている。それだけ長期間活動を続けられているのは、西方を中心とした貴族らの物資援助があるだけでなく、正統救世教の陰で全土に支持者が広がってもいるからだ。

 正統の教会に通いながら家にも三本釘を掲げ、しかし実は人倫派に与している信徒がじわじわと増えているという。そうした一般家庭から少しずつ金や物が拠点へと送られ、人が行き来して、活動を支えているのだ。王都からさえも。とすれば、噂を信じた者が勝手にカチェラを敵視したり、逆に仲間だとみなして、面倒事に巻き込むこともありえる。

「王女殿下が私の身の上を案じてくださるのは、ありがたく存じます。いざという時には頼りにさせて頂きますが、現状、何も実害は被っていませんから大丈夫ですよ」

 カチェラは頼もしく応じ、次いで声を落として秘密めかした微笑を見せた。

「実は私も何人か人倫派だという人を知っていますが、案外まともでおとなしい人たちです。むしろ人倫派とみれば糾弾にかかる人たちの方が攻撃的ですね。もちろん、今でも人倫派の中に昔ながらの過激な方法で教会と社会全体に対抗しようとする人はいますが、支持者が増えたぶん、穏健で無難なあり方を選ぶようになったと言えるでしょう」

「――!」

 シェリアイーダは目を瞠り、息を飲む。続けて口を開きかけた王女を、カチェラは手振りで制した。

「堪えてください。今はまだ、殿下への信頼が固まっていない状況です。私自身は人倫派に与していませんし――そもそも私は救世教徒でさえないので――あくまで知り合いから伝わる世間話、という程度のこととしてお聞き下さい。彼らのほうでも、殿下の動向は注視しています。西部で武力衝突の仲裁や調停に自ら乗り出せるだけの力はお持ちでない、けれど人倫派……というか無径者全般が現在被っている不利益に対して、正すべきだという認識がおありの王族。そのように見られてはいますが、労僕の改良研究の次は無径者のことも『改良』するつもりではないか、といった不信感もあります」

「そんな、まさか。確かにわたしは有径者と無径者の違いについて関心を持っていますが、それをいじろうだなんて」

「殿下ご自身はそうかもしれません。私も、殿下はそのように鈍感で傲慢な人ではない、と伝えてはおりますよ。ですが殿下が協力しているエイムダール殿は、レーシュ王子の共同研究者でもあります。無径者を憎み人倫派討伐に執念を燃やす、殿下の兄君」

「ああ……」

 嘆息が漏れた。兄王子がどれほど妹を憎んでいるか、外部に噂ぐらいは漏れたとしても、身内は身内だ。二人の仲が悪くても、間にいるエイムダールが研究成果を兄王子に流すことは充分に考えられるし、結局のところ王族は王族の利益になることしかしない、とみなされるのも無理はない。獣兵にしても、シェリアイーダの『細工』を知っているのは彼女自身とリゥディエンだけだ。

 肩を落とした王女を、カチェラは温かい声音で励ました。

「人倫派もやはり一枚岩ではありません。殿下が交渉をもつことを急がれたら、それを受けようとする者と反発する者とで対立が生じるでしょう。ですから、機が熟すのをお待ちください。殿下が誠実にあられる限り、いずれ合意は得られましょうから」

「そうですね。人倫派のほうからわたしを必要として求め、わたしたちもまた彼らの力を必要とする、そんなふうにうまく噛み合う時が来るのを待ちましょう。……わたしなりに努力してきたつもりですが、王女といっても無力なものですね。厄介なことになれば先生をお助けしますと言いながら、むしろ先生に助けて頂いていたなんて」

 シェリアイーダが聞き分けよく引き下がったので、カチェラは安心したように笑った。

「それはそうです、いくら殿下の身分が高くても、今は私のほうが人脈も実績もございます。何より、殿下はまだ子供なのですよ。時々私たち周囲の者のみならずご自身も年齢をお忘れのようですが、十七歳は到底、大人とは言えません」

 悪気のない揶揄を受けて、シェリアイーダは赤面し、首を竦める。背後でリゥディエンが小さく苦笑し、こっそり背に触れて慰めてくれた。




 ――これは夢。取り返しのつかない夢。

 ごめんなさいと謝っても、もう誰にも届かない。

 人倫派の警戒もまったくの的外れではなかった。この時は知る由もなかったけれど、労僕たちを少しでも健やかにしてやりたいというわたしの願いは、結果として労僕の生体内での理力に対する反応について、詳細を明らかにした。エイムダールが最初に会った時、特定の臓器ではなく体内に遍在する何か、と言っていたあれだ。さもあろう、労僕の治癒再生力を高めるというのは「元気になぁれ」とまじないをかけつつ草花に水をやるのとはわけが違う。雛形になる術を考えたわたし自身、数々の論文に当たり、時に吐き気を催すような実験結果を読みもして、そのうえで詞と音色の組み合わせを試行錯誤した。それを実用の域に持っていった学者が、労僕の身体について理解を深めない筈がない。

 のちにエイムダールとレーシュはその知見をもとにして、労僕と無径者に特異的に有効な攻撃を考え出し……

 そうして、獣たちはずっと先の時代まで『邪鬼』を狩り続けるさだめを負ったのだ。

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