四章(1)彩理学者マヨーシャ


  四章



 それほどの難題とも思われなかったが、第三工廠を見学できたのは、六彩府で学長に依頼してから随分と経って東部調査隊も帰還した後のことで、その頃にはシェリアイーダは十六歳になっていた。他の王女であればそろそろ“嫁入り支度”の一環として大学の“王族席”に腰を下ろし、当たり障りの無い成績を得て婚約の段取りを進める頃である。王族や貴族の娘たちにとって大学とはそういう場であるから、選ぶ教室も“淑やかな”もの――夫に盾突いたり夫の自尊心を脅かしたりするほど賢しらな女ではありません――であるのが慣例なのだ。

 むろんシェリアイーダは違う。相変わらず数学に熱中し、非公式という建前ではあるが六彩府で研究に協力してさえいると知れ渡ったせいで、求婚者は無に等しかった。

 あの王女は冷血で男嫌いらしい、などと噂される一方で、つがいの鳥のごとく常に共にある青年警士との関係についての憶測もささやかれたが、後者の噂はじきに消えた。リゥディエンが決して許さなかったからだ。

 一度、警士の詰所で同僚が王女との関係を卑猥な冗談にして投げかけ――よおリゥ、『おつとめ』ご苦労さん、そろそろ姫様の畑も茂ってきたかい?――その場に失笑が漏れた時、彼は一言も返さず寸毫のためらいもなく、あと一息で首を刎ねるところまで相手を追い詰めた。

 あまりの素早さと強烈な殺意、加えて周囲を圧する重い音色の波に呑まれ、居合わせた誰もが止められなかった。

「二度とあの方の名誉を穢すな」

 普段の温厚ぶりからは想像もつかない、暗く深く凍てつく声で命じた彼は、室内にいた面々をも振り返って「笑うな」と視線で突き刺し、それから静かに剣をおさめた。

 軽い冗談じゃないか、だの、私闘は厳罰だぞ、だのと、言い訳や非難の言葉を口に出せる者は一人もいなかった。際どいところで命拾いした警士は、しかし完全に自分が「殺された」と認識してしまったせいで、理性の箍がおかしくなって、ほどなく職を辞した。

 騒動の顛末は瞬く間に王宮内に知れ渡り、以後はこの青年警士と王女に対し艶めいた噂を立てる者はいなくなった。辞職した同僚が、前からリゥディエンと不仲だったわけではなく普通に親しい相手だった、というのも、何か得体の知れない、触れてはならないものだ、という認識を強めたのだ。

 おかげでシェリアイーダは、より気兼ねなく堂々とリゥディエンを伴うことができるようになった。外へ出る時はもう一人ぐらい警護を、というのはより難しくなってしまったが、幸い既に実用に堪える獣兵がつくられている。工廠へ行く時も、お気に入りの二頭を連れて道中の安全を確保できた。

 工廠で気がかりを見付けてしまった後、サーヴィナ技官から聞いた彩理学者のもとを訪ねる時も、むろん狼と豹を伴っていたが、六彩府での二頭の行き先は王女とは別だった。彼らが生み出された場所、兵部省の研究施設である。


「イーヴァ、ヤルゥル、後で迎えに来るまで良い子でね」

 優しく言い聞かせて二頭を撫でてやり、施設へ向かうよう促す。シェリアイーダ自身は中に入れないので、レーシュ王子とエイムダールが外まで迎えに出てきていた。

 二頭は明らかに気が進まない様子で、しかし命令には逆らえず、尻尾と耳をしゅんと下げ気味にしてそちらへ歩いてゆく。思わず慰めてやりたくなる風情だが、残念ながらレーシュは獣兵をそうした愛玩の対象としては捉えていなかった。

 エイムダールが一礼して、二頭を中へ連れていく。それを見送ってから、レーシュは不機嫌を隠さず妹に向き直った。

「獣兵は女のままごと用の人形ではない。子供扱いして甘やかすな。貸し与えてやっているのは、外での行動を学ばせるためだ、という目的を忘れてはいないだろうな」

「もちろんです、兄上。人間だらけで刺激の多い環境での過ごし方について、あのふたりが学んだことが他の獣兵たちの役に立ちますように」

 シェリアイーダは素直に応じて頭を下げた。レーシュは妹の態度の裏に何が潜んでいるのかと探るように目を細めたが、背後に立っている噂の青年警士を気にしてか、何も言わずふいと踵を返して立ち去った。

 ふう、とシェリアイーダは息を吐き、リゥディエンを見上げる。

「あなたがいてくれて、本当に良かった」

 多くの記憶と感情を秘めたささやきに対し、青年警士は言葉にする必要の無い諒解を込めて一礼した。シェリアイーダもうなずきをひとつ返し、さて、と気持ちを切り替える。

「怖い兄上も無事にやり過ごせたことだし、わたしたちも行きましょう」

「はい」

 連れだって歩きながら、訪問先について再確認する。

「彩理学者マヨーシャ=ロダグ。学位は准博士だけれど、六彩府での存在感は薄いのね。エイムダール先生がすっかり忘れていたぐらいに」

 王女がエイムダールと初めて会った折、殿下の議論の相手がつとまる彩理学者はいない、と言っていたが、当時既にマヨーシャは在籍していたはずだ。各地を飛び回っている上級研究者とは違い、彼女の扱う分野は六彩府の研究室に籠もっていてもできる内容なので、紹介してくれても良かったようなものを。

 リゥディエンは同情的な声音で応じた。

「六彩府の学者といっても、世間で想像されるほど立派で権勢のある先生方ばかりではありませんね。助手や技官や労僕しもべを従えて、外部機関と共同研究をおこなうこともできるエイムダール殿のような者もいれば、労僕の一人さえついていない『一人研究室』の学者もいる」

「工廠のサーヴィナ技官は、日陰者の学者が話を大きくして出番をつくりたいだけだ、みたいに言っていたけれど、実際どうなのかしら。予算獲得や優先扱いに飢えているのだとしたら、好奇心のままに首を突っ込んできた王女なんて、いい獲物でしょうね」

 自分で言って面白そうに笑う王女に、警士は真面目ぶって答える。

「あなたを釣り上げるつもりで今日の面会を了承したのだとしたら、私としてはロダグ殿の無知を気の毒に思いますよ」

「あら、わたしだってたまには目の前の餌に惑わされて、釣り針にかかってしまうかもしれないわよ。その時は助けてもらわなくちゃ」

 シェリアイーダがおどけて言い、リゥディエンも笑みをこぼした。


 いざ当人と対面してみると、拍子抜けだった。王女に取り入ろうとする意気込みなどまるで無い、それどころか「まさか本当に来るなんて」とでも言うような、ぽかんとした態度で迎えられたのだ。

 公平に言って、マヨーシャ=ロダグは学者らしい風貌ではなかった。では何者に見えるかと問われても、さて、と皆が首を傾げて曖昧に口を濁すだろう。わかるのはただ二十代後半らしき女ということだけだ。職業や立場性格を推察させるような、際立った『らしさ』を何も纏っていない。

 何者でもない、凡庸で、強い意志も取り柄もない。ただそこにいて息をしているだけの人間。彼女自身、己をそのように認識していたから、まさか自分の研究室に王女を迎えることになろうとは夢にも思わず、いざ当日になっても普段着で呆然と突っ立ったまま賓客と相対することになってしまったのだ。

「あ……、ええ、その。王女殿下、この度はお目にかかれて光栄に……」

 もぐもぐと曖昧な口上を述べかけたマヨーシャを、シェリアイーダはちょっとした手の仕草で止めた。

「どうぞ気楽に。公式の訪問ではありませんし、王女といっても大勢いる中の一人にすぎませんから」

 それから彼女は改めて、興味深げに室内のあれこれを見回した。積み上げられた書物や古い巻物、走り書きした紙の切れ端、それらがピンで刺し留められている壁のタペストリーは『世界地図』だ。ワシュアールを中心とした、比較的最近の測量にもとづくもの。

 傍らでリゥディエンがふと一冊の本を手に取り、面白そうに少しページをめくって元の位置に戻した。シェリアイーダはその本の題名を一瞥し、含みのあるまなざしを彼と交わす。共にその著者を知っていたからだ。

 二人が無言のやりとりをするさまを、マヨーシャはそわそわと落ち着きなく見守るしかなかった。部屋の主のほうがいたたまれなくなっているのに気付き、シェリアイーダは安心させるように微笑んだ。

「無理を言って急におしかけたのに時間を割いてくださって、ありがとうございます」

「とんでもない。私など、特にこれといった予定もありませんし」

 マヨーシャはぽろりと実情を漏らし、羞恥に顔を赤らめた。まがりなりにも六彩府に籍を置く学者なら、調査に論文執筆や研究会と日々忙しくしているのが当然であるのに。まるで学府の隅に無断でこっそり住み着いた浮浪者かのごときざまではないか。

 だが王女はそれで良かったとばかりにうなずいた。

「助かります。日の当たらない研究をこつこつと続けている方がいるおかげで、わたくしの求めている光が見いだせるかもしれません。サーヴィナ技官の話では、近年各地の工廠で頻発する不具合について独自の見解をお持ちだとか」

「いえ、あの、見解というほど大仰なものでは」

 事前に訪問の目的を伝えておいたにもかかわらず、マヨーシャはうろたえるばかりだった。こちらをご覧あれ、と開陳すべき自説や、論拠たり得る資料があるわけではないらしい。

「ただ、なんでも自分のやっている分野にかこつけてしまうというか、数字を確かめもせず感覚的な発言で……それよりともかく、こちらにおかけください。こんな椅子しかなくて恐縮ですが」

 あたふたと、直前に混沌の海から救い出した予備の机と椅子を示す。来客用ではなく、本来は研究室ごとに必ずいるはずの助手や従僕が使うためのものだ。敷物すらない木肌が剥き出しの座面に、王女は当たり前の態度で礼を言って腰を下ろした。

「その時は手元に何もお持ちでなかったのでしょう? ですから、こちらであなたの蓄えられた資料や論文を見せて頂きながら、ご指摘の可能性を検討したいと思って伺ったのです」

「そ、それがその」マヨーシャはさらに慌てる。「まさか真面目に取られるとは思っていなかったもので、何の準備も……申し訳ありません、取り急ぎこれと、それから……」

 頻繁に参照する本や論文を数点、自分の机から王女の前に移す。リゥディエンが「これも?」と先ほどの書物を取って尋ねた。マヨーシャは驚き、目をしばたたきながらうなずく。

「はい。理力分布について論じる古典の名著です。ご存じなんですか」

「読破はしていません。さわりだけ」

 青年は謙遜で応じ、王女に本を手渡した後は黙って見守った。

「ヤディン=ウパスタ」王女が著者の名を読み上げる。「彩紀六百年代の彩理学者ですね。王国各地の湧出点を調べて、理の力が覆う『世界樹』に『端』が存在することを初めて提唱した人物」

「はい。ただ当初は否定されたんです。ちょうどワシュアールの版図と一致する辺りに世界樹の端を想定したものだから、多方面から反発されて……ワシュアール一国のみが世界樹の覆いを得られるという選民思想のための妄言だとか、あるいは逆に、王国の限界を規定しようとする不敬不遜であるとか、政治的な思惑が強く作用してしまって」

 マヨーシャは苦笑いで語った。学問の世界も決して政治の綱引きや思想の天秤と無縁ではいられない。それは自身が属する分野の寂れ具合にもあらわれている。

「彼の残した測量結果を真面目に検討し、さらに調査範囲を広げようと言われたのは百年以上経ってからでしたね。しかも重い腰を上げたかと思えば、そもそも計測の標準条件を統一する段階で揉めてばかり……おかげでいまだに、好き勝手な基準で測られた膨大な数値をどうにかしてひとつの盤上に並べるという作業が続いていて、私のようなつまらない学者がそれで食べていけるというわけです」

 自虐的に締めくくった日陰学者に対し、王女は穏やかな微笑で応じた。

「世の中にある大半のことは、つまらないものです。むしろつまらないことこそ世界の本質ではありませんか? 塵芥の集まった不毛の山の頂にようやく一輪の花が咲けば、皆その奇蹟と美しさを称えますが、花が咲こうが咲くまいが、山の巨大さをこそ畏れ敬うべきであろうと、わたくしは思います」

 マヨーシャは慰められたのかたしなめられたのか分からず、曖昧な表情で、はっきりしない相槌を打った。山の頂に咲く花そのものであろう人物に、麓の砂粒に過ぎない身であるのかどういうことか、しょせん理解できようはずがない。

 しかし王女は、そんな彼女の考えまで見通したかのように言い添えた。

「もっとも、そうしたからといって、つまらないものが急に光り輝くわけでもありませんけれど。ともあれ、つまらなくて気の遠くなる作業のおかげで培われたあなたの感覚によれば……不具合の原因は施設側の問題でも、悪意ある者による妨害工作でもない。理の力そのものにある、そう仰ったとか」

 話が本題に入り、マヨーシャは怯んだのを隠して背筋を伸ばした。

「はい。あ、もちろんそれらの可能性を完全に否定はしません。装置の摩耗や褪色といった老朽化の問題もあるでしょうし、誰かが細工をしたか、杜撰あるいは怠慢による事例もあるだろうとは思います。ただ、近年これだけ件数が増えてきたことと、私の元に集められる数字が示す理力の……変調と言いますか、様子のおかしさは、無関係ではないと感じられるのです」

「変調、ですか」

 ふむとシェリアイーダは一考し、傍らの青年とまた視線を交わす。あなたは何か感じ取っている?――いいえ、取り立てては。そんな意思を確かめ、彼女は学者に向き直ると続けて質問した。

「もしその異変が『世界樹』全体にかかわるものであるなら、日常用いるウルヴェーユにも支障が出るだろうと思いますが、どうですか? 少なくともわたくしは、そうした兆候に覚えがありません」

「それについては専門外なので、ちょっと何とも……もちろん私も人並みには術を使いますし、それで特に気が付いたこともありません。なので憶測なんですが、理力の流れに変調があっても、路を通る時にいくらかは自然と調整されるんじゃないでしょうか。そもそも理の力は常に流れ移ろうものでしょう、だからこそ理力分布なんか調べようがない、一時一地点での数値を測っても意味はない、と言われてきたわけで」

「それを通すべく人にそなわった路は、当然、変化に対応できるはず。なるほど確かに。工廠などの施設では理力径路が固定されているから、許容範囲を超える変化があれば不具合を生じるわけですね」

 ふむふむ、とシェリアイーダは学生のような熱心さでうなずく。そして自分の言葉が導く結論に気付き、緊張に顔をこわばらせた。

「……それほどの異変が、測定結果にあらわれているのですか?」

 深刻になった王女に、マヨーシャは慌てて否定の仕草をした。

「さきほども申し上げたように、本当に感覚的なものなんです。そもそも計測値がここに届くまで日にちがかかるものですし、工廠や浄水施設のような場所でちょっとした異常や不具合があっても、ほとんど外には知らされませんから、湧出点での計測値に揺れがあっても、それと関連があるのかさえ判別できなくて」

「理力の揺らぎが原因で不具合が起きたのか、不具合があったから揺らぎとして影響が出たのか、区別がつかないというわけですか」

「そうです。計測がおこなわれるようになってからの歴史も、そう長くはありませんし、学者としては軽々に『理の力が乱れている、すべての異常はそのせいだ、世界が滅びるぞ』みたいな言説に加担するようなことは言えません。ただ……」

「それでも気になるから、あなたは懸念を口にされた」

「ええ、まぁ……はい。全然関係ない、という顔をしているというのも、やはり学者として不誠実だろうと思ったんです。あちこちで頻繁に事故や不具合が起きることについて、すべて人為的な問題あるいは短期的偶発的なものだと決め付けてしまったら、より大きな現象を見落としてしまうのじゃないかと」

 即断を避けて、多角的に問題を見ようとする慎重さだ。シェリアイーダはほっと吐息をもらす。マヨーシャが誤解し、身を竦めた。

「すみません、わざわざお越しいただいたのに、はっきりしないことしか申し上げられなくて」

「いいえ、まさか。失望したのではありません、むしろ安心しました」

「安心?」

「はい。恐れ騒ぐほどのことは起きていない、けれど見過ごせない兆候に気付いている人がちゃんとここにいて、注意深く監視してくれている。そう知って、安心しました」

 王女が敬意を込めてにっこりしたもので、マヨーシャは見る間に頬を紅潮させた。この仕事をしていて褒められたことなど、今まで一度もなかったのだ。感激のあまり目が潤んでしまい、彼女は慌てて「光栄です」と頭を下げて顔を隠した。

 シェリアイーダは立ち上がって歩み寄ると、評価されない地道な仕事をこつこつと続けてきた学者の手を取った。

「そんなに畏まらないでください。これからも宜しくお願いします」

「こ、これから?」

 王族が研究室に訪ねてくるなんて一生に一度のことだろう、と思っていたマヨーシャは、頓狂な声で聞き返してしまう。シェリアイーダは力強くうなずいた。

「また折々、こちらに立ち寄らせていただきますから、様子に変わりはないか聞かせてください。それに、彩理学全般についてのお話も。この部屋には興味深いものが沢山あって、許されるなら入り浸ってしまいたいぐらいですもの」

 無邪気な好奇心に瞳をきらめかせた王女に、マヨーシャもつられて笑みを広げた。かつては自分も、こういう知的関心と興奮をもって六彩府の扉を叩いたではないか。

「もちろん。いつでも歓迎します」

 ようやく緊張を解いて、王女の手を握り返す。もっとも、その後で、

「本当にいつでも予定は空いてますから……」

 などと自虐を付け足してしまったのは、悲しい習い性だったが。


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