三章 信頼を積む


  三章



 紅蓮の翼が窓を突き破って拡がり、青空めがけて羽ばたく。ゴォゥ、と轟く咆哮と共に細かな朱金が舞い上がった。吹きつける熱風に煽られて近隣の植木がしなる。

「放水車はまだか!? 水弾でもいい、急げ!」

「それより隣を崩せ、火が移るぞ!」

 怒鳴りながら走り回る男達を、住民と野次馬が遠巻きにして見守っている。隣接する建物の壁に描かれた紋様が炎に焦がされ、チリチリと音を立てて抗ったものの、弾けて消えた。

 人の集まるところ、火災はつきものである。

 ウルヴェーユの発展と浸透によって、煮炊きの竈や様々な工房の炉など、火を扱うところには必ず耐火紋が描かれるようになったため、件数は減った。だがそれでも事故は起きる。術を施していても抑えきれない火勢となれば、鎮めるのも容易ではない。

 都では住民らの有志による消防隊が組織されており、公金を受けて装備や道具を備えている。放水車は中でも欠かせない大型道具だ。市街には大河から引き込まれた水路が縦横に走っているため、そこで水を汲み上げ、火災現場へ移動して圧力をかけて放水する。むろんこれもウルヴェーユが組み込まれており、人力が必要なのは車の移動だけ、それも大人が二人いれば楽にできるほどに工夫されている――のだが。

「何もたついてるんだ、早くしろ!」

「さっきからやってる! けど水を吸い上げないんだ!」

「故障!? ええいもう、何でもいいから《詞》を繋げよ!」

「そんなこといきなり言われたって!」

「なんだよ無径か? 役立たず!」

「言いやがったな!? だったらてめえがやれ!」

 日頃その原理を知る必要もなく、あるモノをただ便利に使っているだけであれば、突然壊れても対応できない。それが普通だ。どこがどうおかしくなったのか、その見当さえもつけられない。

 技術が頼れなければ、原始的な方法で。罵り合いながら非常用の桶を掴んで水路に駆け寄り、人力で水槽に汲み入れていく。彼らが汗だくになって現場まで戻った時には、火の勢いはもう放水車一台ではどうにもならないほどになっていた。

「応援は!?」

「とっくに呼んだ! とにかく急げ、東側から……」

 大声でやりとりしていた消防隊長が、視界の端にあり得ないものを捉え、ぎょっとなった。野次馬の進入を阻止する隊員が、ひとりの少女を中へ通したのだ。

 おい馬鹿、と怒鳴りかけたところで、彼は久しくなかった感覚に貫かれて息を飲み、竦んだ。『路』が揺さぶられる。強い流れがすぐそばに生じたがゆえの共鳴。それは他の大勢も同じだったらしい。騒ぎ立てていた群衆が不意に静まり、誰もが少女を注視した。

 少女――シェリアイーダは、噴き上がる炎を見上げて歩を進め、安全な距離を保ったところで立ち止まった。内なる路を色彩の輝きが満たし、音が響く。正しい《詞》を結びつけ、澄み渡った六彩の声で解き放つ。

「《熱き翼よ 今や宵 眠りいざなう巣に帰れ》」

「《薔薇も盛りは過ぎた 色褪せ萎れ 散りそめよ》」

 後から進み出た青年が隣に並び、音と詞を繋いで続ける。二人の路が共に同じ音色を紡ぎひとつの流れを成してゆく。燃え盛っていた炎が明らかに勢いを減じ、吼え猛る声も力を失って。

「《風は閉じよ 此は岩戸の谷 入るも出るも能わず》」

「《時は凝れ 火と熱を抱き琥珀と成せ》」

 音色の波紋が拡がり、一帯を包み込む。行き場を失い空気も時間も止められた炎が、建物の中に縮こまってゆく。

「こんなことが……」

 誰かがつぶやいた。消防隊長も同じく呆然としたまま建物を見上げていた。

 ――こんなことが可能だったのか。

 ウルヴェーユは有径者ならば誰もが生まれながらに持つわざで、路を辿り標を読み解けばそれぞれに独自の術を生み出せるもの。そう知っていたはずなのに、いつしかウルヴェーユとは、世にある術と道具を使いこなすことだと勘違いしていた。

 放水車の故障に手も足も出なかった男もまた、衝撃を受けて立ち尽くしていた。道具を直せなくとも自分で音色と詞を紡げば、事態に対処はできたのだ。

「今のうちに水を」

 声をかけられて我に返り、彼は慌てて少女に向き直った。そこで初めて、相手が近年頻繁に街に現れる王女シェリアイーダであることに気付く。どう返事をすれば良いのか作法が分からないまま、しゃちほこばって敬礼し、放水車を火元に近付けた。

 吸い上げるほうは駄目だったが、ちゃんと水は出るだろうか。王女の前で失態を演じるはめになりはすまいか。男は不安に固唾を飲んで放水筒の角度を調整し、栓をひねって開けた。組み込まれた鉱石が弾かれて一連の音を生み、術が働いて勢いよく水が噴き出す。男は思わずほっと深い安堵のため息をついた。

 しばしの後、火が完全に消し止められると、消防隊長は改まって王女に感謝を述べた。

「シェリアイーダ様、この度はまことにありがとうございました。我々の不手際で被害が大きくなるところでしたが、殿下のお力でこの一棟だけにとどめられました。偶然近くにいらっしゃったのですか?」

「ええ。大学から出てきたところだったのですが、警鐘が聞こえて。それに……」

 答えながら、シェリアイーダはちらりと空に目をやった。煙が吹き流されてすっきりと澄んだ青空には、いつもと変わらず『御柱』が輝いている。だが彼女はそこに何か異変を見出したかのように、眉をひそめて声を低めた。

「少し、妙な気配がしたものですから」

「妙な気配……と言いますと?」

「些細なことです。遠くで何かが割れる音がしたような……実際に聞こえたわけではないのですが」

 自分の記憶に確信が持てず、シェリアイーダは小首を傾げて曖昧に言葉を濁した。パキン、とどこかで小さなものが砕けた感覚。微かな既視感。

「まさか、放水車の故障を察知されましたか」

 隊長が驚きの声を上げたので、シェリアイーダは目をしばたたいて「故障?」と繰り返す。隊長は件の放水車を手で示した。

「あれです。担当の隊員が言うには、水路まで運んだのに水を吸い上げなくて、仕方なく手作業で汲んでいたから遅くなったと」

「そうだったのですか」

 水を出すのは支障なくできていたようだが、とシェリアイーダは訝りながら放水車に歩み寄る。貯水槽の部分は十五歳の少女シェリアイーダの背丈と同じぐらい高さがあり、これを人力で満杯にするのは屈強な消防隊員でもさすがに手間取るだろう。取水口を見つけて、その周囲に刻まれた紋様や配置された鉱石を用心深く手でなぞったが、どこも欠けたり切れたりしてはいないようだ。顔を上げ、答えを待っている様子の隊長に向けて言う。

「見る限りでは、この放水車自体には何も問題はないようです。たまたま近くにあった何か別の術と、干渉してしまったのかもしれませんね。詳しく調べるのでしたら、ちょうどこれから六彩府へ行くところですから、誰か専門の方にお願いしておきましょう」

「畏れ入ります、そうして頂けたら大変ありがたく存じます。もちろん、こちらでも点検はいたしますが、なにぶんあまり高度なことは……」

 曖昧に口を濁し、力不足を恥じるように苦笑いする。それから彼は改めて焼け跡を見やり、表情を引き締めた。

「不測の事態に対処できるように、何らかの手を考えなければ。いやそれにしても、やはり王族の方は我々とは違いますな。あのようにウルヴェーユを使いこなされるとは、素晴らしい」

「今時は皆、一から詞を紡いだりしませんもの」

 今度はシェリアイーダが苦笑する番だった。日常使うような簡便な術は、汎用性が高く安全な定型が知れ渡り、皆がそれを学んで当たり前に使っているし、そもそも自分で詠う必要もない道具が普及しているのだ。

 そんな環境で、いちいち『路』を辿り標を読み説き詞と音色を紡ぐという手間をかけられるほど、庶民の生活は暇ではない。子を産む予定の女は『路』を開き養わねばならないが、それとて最低限安全を確保するためであれば、さほど長い時間を費やさなくても済む。

「古いやり方を敢えて続けるなんてことは、王族だから許される贅沢のようなものです。それがたまたま実地の役に立ったのは幸いでした」

「ご謙遜を。優れた資質を守り継ぎ、探究と研鑽を怠らない貴き方々のもたらす知恵とわざがあればこそ、ワシュアールも安泰なのです。改めて、心よりの感謝を申し上げます」

 畏まって最敬礼した隊長に、シェリアイーダもそれ以上余計なことは言わず、そつのない笑顔で消防隊の労をねぎらってその場を離れたのだった。

 六彩府への道すがら、リゥディエンがやや皮肉めかしてささやいた。

「ある意味、結局いまだにウルヴェーユは『神秘のわざ』だというわけですね」

「生活の中で当たり前に便利に使っていても、その根源に降りて独自の使い方を編み出せるのは特別な人々だけ、と認識しているのでしょうね。王族か貴族か、きわめて優れた学者か。実際そうならざるを得ないにしても、だからといって崇め奉られるのはね……」

 やれやれ、と言葉を濁してため息をつく。本質的には誰であれ『路』を降りてゆけるのに、彩紀元年から長い歳月を経て、探究に値する資質の持ち主はある程度以上の身分に偏り、そしてまたその時間があるのもやはり高貴の者、という階級が固定されてしまった。身分出自の隔てから人を自由にするはずだったものが、結局は縛りを強めてしまったのだから、皮肉な気分にもなる。

「ともあれ、今はせいぜい特権を活用しましょう。わたしは先にエイムダール先生のところへ行くから、あなたは総務に寄って消防隊の件を頼んでおいてくれる?」

「畏まりました。……わずかな間とはいえ、王宮の外でおそばを離れるのは、やはり少々不安ですね。信頼できる護衛がせめてもう一人欲しいところですが」

 リゥディエンは応じて言いつつ、難しそうに眉を寄せる。シェリアイーダは同情的に首を振った。

「無理でしょうね。ただ身の安全を守るだけの人手なら、優秀な警士はいるでしょうけれど、信頼となればとても難しいわ」

 余人に明かせぬ秘密を共有する二人が、第三者と密に行動を共にすることは危険を伴う。詮索される程度ならまだしも、知り得た情報を敵意のある何者かに売られるかもしれないし、最悪の場合は武力行使をともなう裏切りの恐れさえある。

「いっそ労僕のほうが信じられるかもしれないわよ」

 ふふ、とシェリアイーダが冗談めかして笑い、リゥディエンはさすがに複雑な顔になるしかなかった。



「労僕のほうが信用できる、ですか。なるほど、一面の真実ではありますね」

 研究室に一人で現れた王女からかいつまんで話を聞き、エイムダールは面白そうにうなずいた。

「何しろ彼らは知能が低いだけでなく、他者への関心が極端に薄い。命令には従うものの、その理由や背景事情などにはまったく興味を示さない――どころか、ひょっとすると、そういうものがあるということさえ理解していないかもしれません。ですから気働きなどはまるで期待できませんが、余計なことをしない、というのは確実でしょうね。自分の利益のためにあるじを売る、などという計算もないし。そういう点は、獣兵の基としても良いところですよ。悪知恵のはたらく猛獣、となれば兵士として使えませんから」

 さらりと当然のように言われ、シェリアイーダは内心やや怯んだのを隠すため表情を取り繕った。

「レーシュ兄上との共同研究は順調のようですね。労僕のほうはどうですか? 前にお話しした、損耗の早さ……少しは改善しているでしょうか」

「ええ、もちろん! それを先にお伝えすべきでしたね。殿下がご提案くださった術式をもとに第三工廠で工程の変更と調整をおこない、経過を注意深く観察していますが、問題ないようです。まだ流通の数字に顕著な違いは出ていませんが、成果が見えてくるのはこれからでしょう。傷つきにくくなり、治癒再生能力も格段に上がったという結果が上がってきています」

 エイムダールは上機嫌で早口にしゃべり、一人でうんうんと何度もうなずいた。

「つくづく殿下には畏れ入ります。実験室をご覧になるまでもなく、論文と種々の数字を見るだけで、これほどの改良を実現されるとは」

「そのことですが、そろそろ一度、現場を見学させてもらえませんか? できれば実験室ではなく、工廠を。わたくしの術式がどのように組み込まれているか、問題なくはたらいているか、自分でも確かめておきたいのですが」

「仰せはごもっともです。ただ私の一存では……あっ、と。これは」

 言葉半ばでエイムダールは王女の肩越しに新たな来訪者に気付き、慌てて立ち上がった。シェリアイーダが振り返りながら腰を浮かせたところで、相手が先んじて「ああ殿下、どうぞそのままで」と言う。赤茶色の髪をした、押し出しの良い壮年の男だ。すぐ後ろからリゥディエンが入って来た。

「シェリアイーダ様、こちらはシェイデ殿です。総務で話しているところへたまたま来られて、殿下がおいでならご挨拶をと」

 警士の紹介が終わらないうちから、男はにこやかに歩み寄り、胸に手を当てて恭しく一礼した。

「二年前からこちらにしばしばおいでになっているとは伺っておりましたが、お目にかかるのは初めてですな。ご挨拶が遅れましたこと、お詫び申し上げます。今のところ六彩府総長をやらされております、ヴァラーフ=シェイデと申します」

 おどけた物言いではあるが、こちらを軽んじているわけではないようだ。「これはご丁寧に」とシェリアイーダが結局やはり立ち上がってお辞儀を返すと、総長はよりいっそう深く頭を下げた。そして「どうぞお掛けに」と再度促し、王女が腰を下ろすと傍らの床に膝をつきまでした。慌てたのはエイムダールだ。

「総長、そんなところでなく、こちらに」

 あたふたと席を用意しようとしたものの、自分の椅子につまずいてガタガタ騒がせてしまう。来客用の応接室ではなく、研究室の片隅にある打ち合わせ用の狭い場所なので、すぐに移動できないのだ。総長はぞんざいに手を振って「かまわん、かまわん」と応じた。そしてそのまま、王女だけを見上げて話を続ける。

「本来なら初めてお越しになった時に、何らかの形でお会いすべきでしたが、当初はこちらにおいでになる理由が……いささか微妙な問題のように思われましたのでね。六彩府の学者にご用がおありというより、救世教の司祭であることのほうが重要であるように聞かされまして、それならば公にせぬほうが良かろうと、そう判断いたしました。まぁそれからずっとあちこち飛び回っていることが多くて、殿下のご関心の在処や得難い助力について知った後も、御礼ひとつ申し上げず今日まで来てしまったことは、ひとえに私の怠慢です。何卒ご寛恕を」

「とんでもない、六彩府に出入りする自由を認めて頂けただけでも充分です。むしろわたくしのほうが御礼に伺うべきでしたのに、お忙しかろうと勝手に遠慮して、かえって失礼をいたしました」

 お互いに長々と、身分立場に応じた儀礼的な言葉を交わす。そこで不意にリゥディエンが、失笑を堪え損なって小さな声を漏らし、身じろぎした。シェリアイーダが不審げなまなざしを向けると、彼はこほんと咳払いして真面目な顔を装った。

「ご無礼ご容赦を。また『まだるっこしい』と仰せになるかと思いまして」

 王女の性格を暴露してくれた警士に、総長とエイムダールがふきだす。シェリアイーダは赤面してリゥディエンを睨みつけたが、これ幸いとその流れに乗った。

「ええそうね、きちんと御礼やお詫びを伝えることも大切だけれど、あまり長く時間をかけてはいられません。総長、この機会にお願いしたいことがあります。第三工廠の内部を見学できるように手配して頂けませんか。恐らく、わたくしが王女として希望を伝えるよりも、六彩府が実際に稼働している術式の確認をしたいと言うほうが、受け入れられやすいと思うのです」

「ははあ、なるほど。確かに、それはそうでしょうなぁ」

 総長も砕けた雰囲気になり、率直な物言いで応じる。王族の、しかも女性が、工廠という機密の塊かつ『女が見るべきでない』場所に入りたいと言えば、渋られるのは目に見えている。学術的な目的であるとしたほうが、先方も都合が良い。

「殿下の組まれた術式をありがたく使っておきながら、現状の確認もさせないというのは恩知らずというもの。なるべく早く日程を調整するよう、こちらから働きかけるとしましょう」

「宜しくお願いします。それと……さきほどわたくしの警士が総務におりましたが、その用件については?」

 もう話したか、と目顔でリゥディエンに問いかける。青年警士がうなずき、総長が話題をつなげた。

「消防隊の備品の不具合、ということでしたな。しかし故障したわけではないようだった、と。その手の回路に詳しい者を行かせましょう」

「ありがとうございます。ただ、放水車自体の故障でなければ、あとは環境のほうに原因があると考えられますので、もしどなたか彩理学者の手が空いているなら、念のために同行してもらえたら安心なのですが」

 遠慮がちにシェリアイーダが希望を伝えると、総長は「ほう」とにわかに興味をそそられた様子になった。あっ、とエイムダールが物言いたげな顔をしたが、完全に無視される。

「確か殿下は、労僕の改良とは別に、究極的には彩理学の分野に関心をお持ちということでしたな。理の流れ、世界樹の在り方そのものに」

「ええ、はい。ただ今回はそれほど大袈裟なことでは……」

「いや素晴らしいですな! 私も実は元々彩理学をやりたくて六彩府に入ったのですが、諸々の事情に流されて結局かないませんで。彩術学の価値はそれとして認めるにしても、小手先の技術に終始して根源を見失っては学者としての本分が廃るというものです。なんと今、彩理学の主力の面々は大陸東部の調査に出向いておるのですよ。ワシュアールの『御柱』に直接触れるのはあまりにも危険が大きいため、全容の究明に至る道程は遙かに遠く歩みは遅々として進みませんが、『世界樹の覆い』の外を調べることで得られる知見もあろうかと」

「総長、総長」

 エイムダールが小声で手綱を引き、咳払いで我に返らせる。ようやく総長は言葉を切り、自分で自分に驚いたような顔をしてぱちぱち瞬きした。相槌さえ打てずただ聞いていたシェリアイーダは、思わず笑ってしまった。総長はさすがに気恥ずかしそうに苦笑し、ちょっと頭を掻く。

「失礼、つい脱線しましたな。つまり現在、彩理学者は――まぁ大体いつものことなのですが、ほぼ出払っていると申し上げたかったのです。ただ、問題が起きた場所で周囲との干渉や異常の痕跡がないか計測するぐらいであれば、助手や技官でも事足りましょう。適当な者に出番をやることにしましょう」

「ありがとうございます」

 シェリアイーダはひとまず礼を言うと、笑いを堪えながら続けた。

「ご専門の話題となると一気に熱っぽく語られるのは、エイムダール先生で慣れたつもりでしたけれど、総長もでしたか。大陸東部の調査については以前、ちらっと噂を聞いたような気がしますが、もう出発していたのですね。帰って来られたら、成果をわたくしにもお聞かせください」

「もちろんです。ぜひ報告会にご参加ください」

 総長は意気込んで応じた。社交辞令ではなく本気で喜んでいるらしい。そこまで歓迎されるとは、と王女が当惑の気配を浮かべると、総長はにこにこ語りだした。

「いや嬉しいものですなぁ、こんなにお若い方が彩理学に関心をもち、積極的に踏み込んで来られるというのは! もう長らく彩理学は不人気分野で、ウルヴェーユの伝統を守る王族の方々でさえ、世界の神秘に近付くよりも、新たなわざを読み解き使うことにばかりご熱心です。新しい産業、便利で優れた設備、あれこれあれこれ。むろんそれも大切なことでしょう。優れた資質を受け継いでいるからには、そこに眠る宝を取り出して人々に恩恵をもたらさなければ、血統の輝きもくすんでしまう。しかし私としてはやはり、王族という特別な地位にあられる方々には、我々庶民のように否応なく実利を追わずとも生活に困るわけではないのだから、純然たる学問の追究を大切にしていただきたいと思うのです。そういう点で、実はもう前々から殿下には勝手に期待しておるのですよ」

 お若い方、と言われてシェリアイーダは苦笑を堪えていたが、意外な話の流れに、おや、と目をしばたたいた。王族とはいえ第五妃の娘、せっせと実績を積んではいるものの、さほど注目されていまいと思っていたのだが。

「前々、とはもしや、わたくしがエイムダール先生とお会いするよりも前から、ですか?」

「さようです。大学に入られた折、サーダッド師の教室を選ばれたでしょう。彼女とは多少の親交がありまして、お噂を耳にしたのです。その時に、これは面白いお姫様が現れたぞ、などと失敬にもわくわくしたものですが、最初に書かれた論文を拝見して、面白がっている場合ではない、と認識を改めました」

「教会を通じて私に殿下からのお呼びがかかった時は、総長も判断に苦慮されたのですよ」とエイムダールが補足する。「先ほどはさらっとおっしゃいましたが、なにぶんサーダッド師については、一部界隈で良くない噂がさも真実かのように定着してしまっていますから。その門下生である殿下が、六彩府の中にいる救世教の司祭と会った、ということが知れてしまうと、事実がどうあれ火の粉が降りかかるのは避けられません」

「ああ……人倫派であるという、例の。それについては配慮が足りませんでしたね」

 シェリアイーダが眉をひそめると、総長が悪気なく笑った。

「向学心に燃える若者に、薄汚れた大人の政治的配慮など無用ですぞ。殿下は存分に学問に打ち込んでくださればよろしい!」

「頼もしいお言葉、痛み入ります。では今後とも、ご指導宜しくお願いしますね」

 シェリアイーダは微笑み、総長とエイムダールにそれぞれ頭を下げた。

 それだけ話して総長も満足したらしく、ようやく立ち上がってエイムダールをほっとさせた。

「こちらこそ、宜しくお願い申し上げます。東部調査隊が帰還すればまた次の段階に進めるでしょう、殿下のお力添えを頂けたら心強い限りですよ。これは私一人の思いではなく、六彩府全体の意向と受け取ってください」

「光栄です。ご期待に応えられるよう、微力を尽くしましょう」

 シェリアイーダも立ち上がり、慎ましい言葉を返しつつも、堂々とした様子で握手を交わした。

(随分かかったけれど、ようやく一歩前進したかしら。世界の神秘に近づく夢。子供のわがまま、無謀な妄想と一蹴される心配をせずに、やりたいこと知りたいことを求めていける)

 こつこつと努力し、人脈をつないできた成果が、“王族の末席にいるだけの王女”をひとつ上の地位に押し上げてくれたと実感する。どこまで登り、どれほどのことを成せるだろうか。

(まだまだ、これから)

 これが最後かもしれない生で、これほど恵まれた境遇を得たのだ。できる限りのことをしよう。それが『シェリアイーダ』へのはなむけであり、そして――これまでの幾度の生で為したことの、償いだから。



 ――ああ、これは夢だ。すべて夢。

 積み上げた実績、勝ち得た信頼、すべて消えてしまった。

 暗くて寒くて誰もいない。

 ああ、誰か……

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