二章(3) 彩術学者エイムダール

 司教との会談から十日ほど後、王女の願いに応じて六彩府からの客人が訪れた。

「ようこそ、司祭様。それとも先生とお呼びしましょうか? 本当はわたしのほうが六彩府へ伺ってお仕事の様子なども拝見したかったのですが、外出が認められず……ご足労いただき恐縮です」

 どうぞ、といざなったシェリアイーダに、金髪と薄青色の目をした学者青年はぎこちなくお辞儀した。通されたのは王女が日常暮らしている居間。先日司教と会談したのは一般的な外来者用の応接室で迎賓館の一部だったが、今回はより私的な用件であるというしるしだ。部屋があるのは『女区画』と素っ気なく呼ばれる一角で、『薔薇の宮』『石榴の宮』に属さない女たちの領域だが、ふたつの宮のように厳格な男子禁制ではない。リゥデイエンのような警士も護衛につけられるし、来客の男性も比較的容易に出入りできる。外の世界に開かれた、情報も入りやすい環境だ。

 とはいえ初めて訪れる庶民は、やはり緊張せざるを得ない。青年はこわばった顔で、意を決したように口を開いた。

「この度は、王女シェリアイーダ様のお悩みを伺いご相談を受けるという大役を拝命し、まことに光栄に存じます。六彩府彩術学部にて労僕ろうぼく研究の一端を担っております、エイムダールと申します。何卒よしなにお願い申し上げます」

「ご丁寧にありがとうございます」

 シェリアイーダは柔らかい声音で応じ、お辞儀を返した。無事に第一関門を抜けたと安堵した様子の青年を手振りで促す。

「どうぞ、そらちに。座椅子が良ければ用意させますが、いかがですか?」

 迎賓館と違ってこの部屋では昔ながらのやり方、つまり絨毯に直接腰を下ろすように調えられていた。座布と肘置き、もたれかかれるクッションなどなど。青年はややまごついたが、「大丈夫です」と応じて胡坐をかいた。

「今は椅子と机の生活ですが、昔は板が剥き出しの床で暮らしていましたから、それに比べたら天国です」

 少し心の余裕がでてきたらしく、そんな説明を付け足して微笑む。シェリアイーダが小首を傾げると、おや、と青年も目をしばたたいた。

「取り次ぎからお聞き及びかと……私は教会の孤児院で育ちました。ですので家名も持たないのです」

「そうでしたか。では人並み以上に努力されて司祭になり、六彩府に入られたのですね」

 シェリアイーダは称賛を送りつつ対面に座ると、戸口のほうを振り返ってリゥディエンに目配せした。気心の知れた警士は小さくうなずいて帯に提げた鉦を抜き、そっと数回打ち鳴らす。紡がれた《詞》は小声で、聞き取れなかった客人はまた不安げな表情になった。

 それを見て取ったリゥディエンが「ささやかな遮音の術です」と答え、王女の近くにやってきて腰を下ろした。

「外から邪魔されず話に集中できるように、というほどのことですよ。ご心配なく」

 完全に防音の壁を築くことも可能だが、それをすれば後ろ暗い密会であると告げるようなものだ。あくまで礼儀として、内から声が漏れにくく、外から騒音に妨げられないように、という程度の術。

 ちょうど侍女が熱い茶と菓子を差し出したので、シェリアイーダはまず自分が茶碗に口をつけて見せ、「どうぞ、寛いでください」と客人にも勧めた。

 エイムダールも礼を言って、少しばかり喉を潤す。丁寧に茶碗を受け皿に置いた時には緊張も解け、こほんと小さく咳払いすると改めて王女に向き合った。

「では……お話を伺いましょう。ウルヴェーユが罪のわざである、という説についてお悩みだそうですね」

 奇しくも今しがた口にした茶と同じ、赤みがかった琥珀色の声に、落ち着いた理知の光が宿る。相手が十三歳の少女にすぎないと侮る気配もなく、だからこそ真剣に対話しようという意志。シェリアイーダはその色を観察し、満足げに微笑んだ。

「実を言うと、わたしがお尋ねしたいのは罪についてではないのです。どう聞かされておいでになったのか、なんとなく想像はつきますが」

 予想と異なる王女の態度に、エイムダールはおやと瞬きし、居住まいを正した。

「罪悪の問題ではない、と言いますと……真偽の問題でしょうか」

「そうです。彼らは路を通すことによって世界の理を穢していると言いますが、それが真実だとすれば、わたしたち有径者だけが理の力に影響を及ぼせる、ということになりますよね? 路を通しさえしなければ何の影響も与えない、と。でもそれは本当でしょうか。同じ『世界樹の覆い』の下に先祖代々住み暮らし、血筋も恐らく相当に交雑しているのに、無径者が完全に理の力とはかかわり合わない、なんて。救世教の教義で罪や穢れをどう定義しているのかよく知らないので、彼らが何を想定してあの主張をしているのか、その辺りも含めて、彩術学者であるあなたの考えをお聞きしたいのです」

「……これは、御見それしました」

 エイムダールは嘆息し、敬意を込めて一礼した。

「お役目を承った後、急いで大学から王女殿下の論文を取り寄せましたが、拝見した時の驚きを上回りますね。これは只者ではないと驚嘆いたしましたが、よもやこの問題についてもそこまで考察されておいでとは」

「まあ、あれを読んでくださったなんて!」

 思わずはしゃいだ声を上げたシェリアイーダに、警士と侍女が失笑し、エイムダールも頬を緩ませる。シェリアイーダはやや頬を染めたが、羞恥ゆえか興奮なのか本人にもよくわからなかった。

「音の階梯を数式で表す試みなんて、彩術学の専門家には邪道とみなされるかと」

「いえいえまさか、大変興味深い内容でしたよ。生憎と私はあまり数学の素養がないもので、知り合いにあれこれ尋ね回って煩わせてしまいましたが」

 エイムダールは気恥ずかしげに苦笑してから、やんわりと軌道修正した。

「ともあれ、今はご提示の問題についてお話ししましょう。まず、人倫派の主張については私の推測に基づく独断であるとお断りした上で、ですが……やはりあれはあくまで政治的なものであって、事実として彼らが何か理の力と無径者との関係を観察した、あるいは考察した、といったものではないと思います。無径者が労僕しもべ同然であるとして蔑まれている現状に対抗するための、最も分かりやすい標語とでも言うべきでしょう」

 そこで一旦言葉を切り、茶を一口ゆっくりと飲む間に聞き手の反応を見る。理解はされているが納得はしていないようだ、と踏んで、彼はそう考える根拠をひとつ言い添えた。

「もし彼らが真実『世界の根源を穢さない』証を掴んでおり、それを武器に世間と戦うつもりなら、裏付けを求めるはずです。有径者と無径者の、あるいは無径者と労僕との違いを学術的に立証する――それは六彩府の、もっと言えば私の専門です。しかし現状、それらしい接触は一切ありません。いかさま学者を立てて、論文をでっち上げることさえしていない。そういうことです」

「ああ、なるほど。では先生ご自身としては、ウルヴェーユを誰がどのように用いようとも、世界の根源、理の力には何ら影響を与えないとお考えですか」

「その問題に確信をもって答えられるのは、神だけですよ。創世神話にある混沌の泥をかき回した『名も無き原初の神』か、あるいは我らが創造主たる神か」

 エイムダールはひとまず司祭らしく応じてから、学者としての回答を続けた。

「というわけで神智ならぬ人智で推測するしかありませんが、そうですね……彩紀千年、ウルヴェーユを用いる人は爆発的に増え、ほとんどの工業施設では色と音が組み込まれています。水道、紡績、労僕ろうぼく生産……農業の現場でも術を使わない者はいないでしょう。それでも現在のところ、自然界に明らかな異常が発生したという事例はありません。理の流れとは、我々が小手先でおこなうわざなど誤差の範囲でしかない、遙かに大規模なものだと思われます。ただ、我々が知っているのはあくまでワシュアール国内、この千年のうち記録された変化のみですからね。絶対に、いっさい何の問題も無い、とは断言できません」

「かつてこのわざを生み出したはずの『最初の人々』がこの地から消えた、ということも無視できませんしね」

 シェリアイーダが眉をひそめて言うと、エイムダールは警戒の面持ちになった。

「人倫派の者から聞かされたのですか」

「え? いいえ、そういうわけでは」

「なら良いですが……彼らの言い分の中には、『最初の人々』はウルヴェーユという大罪を編み出したがゆえに天罰を受けて滅んだ、という決めつけがまじっているので、それを真に受けて悲観的になられたのかと。安易な滅亡論は人に考えることをやめさせてしまうので危険なのです。そもそも天罰とは神が定めることであって、人が勝手に決めるものではないというのに」

 エイムダールは渋い顔になって唸り、それから気を取り直して問うた。

「誰かに聞かされたのでないのなら、シェリアイーダ様のその憂慮は原因がはっきりしているわけではないのですね? なんとなく感じる未来への不安というものでしょうか」

 いたわりの感じられる声音だったが、シェリアイーダは複雑な微笑を浮かべるしかなかった。思春期の少女にありがちな、繊細な感受性と逞しい想像力によって生み出される気鬱の病、とでも診断されたのかもしれない。だが実際はむろん違う。

(随分長く眠った後で目覚めてみたら、前とは比較にならない規模でウルヴェーユが使われているものだから、こんなに膨大な術を国中で昼夜分かたず使って大丈夫かと心配になってしまうのです――なんて、どう言い換えたら良いのかしら)

 エイムダールや『シェリアイーダ』にとってはもちろん、生まれた時から当たり前の文明社会だ。そこに落差と齟齬を感じてしまうシャニカの存在を知らなければ、根拠の無い悲観主義にしか思われなくても無理はない。

(変化についていけなくなった老人の『昔はこうだったのに』だとは思いたくないけれど……そういう懐古に過ぎないのであれば、いっそ安心できるのにね)

 小さく抑えたため息をつき、彼女は真情に近い答えを穏便な言い回しで伝えた。

「わたしはただ、ウルヴェーユが良きもの、すべての人が豊かに安全に暮らせるためのわざであって欲しいのです。もしも害悪となるような側面があるなら、目を逸らさず見定めて対処しなければなりません。そのためにも、無径者の主張をなおざりにはできないと考えています。彼らが知覚する世界とは、わたしたち有径者にはもはや理解できないものですから」

 説明を聞いて、エイムダールは難しそうな顔になり、んん、と唸りを漏らした。何か問題があったろうか、とシェリアイーダが首を傾げると、彼は眉間を揉んでから慎重に口を開いた。

「これは……どうも、思っていたよりも歯応えのある議論になりそうですね。準備不足でお恥ずかしい。そこまで踏み込んだ話となると、私よりも彩理学者の領分かもしれません。昨今彩理学は不人気なせいで人があまりいないのですが」

「そうなのですか? ごめんなさい、六彩府の内情には疎くて」

「いえいえ、そもそも六彩府のほうが秘密主義というか、あまり開放的ではありませんから。安全が確立されていない新しいわざを迂闊に外部に流してはなりませんし、兵部省の研究所もありますからね、どうしても……ですが私の関わる分野でシェリアイーダ様のお役に立ちそうなことは、何でもお話しいたしますよ。とりわけ、そうですね、無径者の性質については労僕の研究が参考になるでしょう」

 言いながら、無意識に何かを探す仕草で首を巡らせる。身に染みついた癖のようだ。はたと自覚して、彼は照れくさそうな苦笑を浮かべた。

「失礼、つい自分の部屋にいるような感覚で。王宮ではあまり労僕を使われていないんですね? 見かけませんが……」

「人目につくところでは、作業をさせないように計らわれていますから。王宮で価値ある仕事をするのはすべて人間で、労僕たちは卑しい雑事を担っているのです」

 シェリアイーダは冷ややかな面持ちで無感情に答えた。その現状を得意がり人間の優越を鼻にかけるのは不愉快極まるので論外だが、この学者とて労僕を研究対象としているからには、その境遇に同情などしていまいと推測されたからだ。案の定、エイムダールはさも当然とばかりに受け止めた。

「分業がはっきりしているのですね。では王女殿下もあまり労僕についてお詳しくはないかもしれませんが、彼らが創られた経緯はご存じですか?」

「大まかなところならば」

 十三歳の王女が知っていてもおかしくない程度のことは――と自分に注意を促し、彼女はおぼつかなげに答える。

「ウルヴェーユの普及によって暮らしが楽になった結果、少しでも早く一人でも多く子を得るという差し迫った必要がなくなって子供の数が減り……そこへ疫病などがあったために急激に人口が減って、不足する労働力を補うために生み出された、と聞いています」

 実際にはそんなすっきりと合理的な経緯ではなく、不合理で醜悪な背景があったのだが、深窓の姫君がそれを知るはずがない。

 模範解答で口をつぐんだ王女に対し、青年学者は満足げなうなずきを返した。

「そうです、つまり人間の代わりに働けるもの、という目的がありました。家畜や愛玩動物ではなくてね。ですから……彼らは人間を基に創られています。これもご存じで?」

 問いかけは曖昧な声音だった。世間知らずの少女には刺激が強すぎるかもしれない、と慮りつつも、まぁ当然ですよねと言わんばかりの。シェリアイーダは顔をこわばらせた。膝の上でぎゅっと手を拳に握り、相手を睨みつけないように視線を床へ逃がす。

「はっきり聞いたのは今が初めてですが、そうだろうと考えてはいました。皆、労僕は最初からそういうもの、工廠でつくられ国中に供給されている何かだと、まるで疑問を持っていないようですが。粘土の人形をウルヴェーユで動かしているわけではないのだから、生き物を――恐らくは人間の赤子を使っているに違いないと」

 言葉の半ばで、背後の侍女がぎくりと身じろぎし、赤子と聞いて押し殺した吐息を漏らした。シェリアイーダは振り返り、微苦笑を向ける。

「わたしが労僕たちにいくらか優しく接するのがどうしてか、理由がわかった?」

 侍女は恥じ入ったように黙って頭を下げただけだった。

 だが学者のほうは、そうした感覚は持ち合わせていなかった。まぁまぁ、と宥めるように口を開く。

「赤子といっても、奇形で生まれてじきに息絶えるようなものであったり、そもそも死産であったりしたものを用いたのであって、健康な子を生贄にしたわけではありませんよ。言わば、人間になりそこなったものを生まれ変わらせただけです。それに、まともな労僕が完成して生産が軌道に乗ってからは、使い切った労僕を回収して再利用していますから、新しく赤子を必要とすることは少なくなっています。ですから、労僕を人間と同じに考える必要はないのですよ」

 大丈夫、何も問題ありませんからご安心を――そう言い聞かせる口調。本人もそう信じているのだとわかる、曇りのない眼でいっさいの屈託なく断定する。

 シェリアイーダは穏便な表情を取り繕い、話を先へと促した。

「人間扱いすることはない、けれどいくらか共通の性質を持ってはいる……有径者ではなく無径者と。そういうわけですね。既に明らかになっていることは、どの程度あるのですか?」

「あまり多くはありません。人間と異なり、彼らは自分の感覚について言葉で正確に伝えられるだけの知能がありませんし、そもそもあらゆる感覚が人間よりずっと鈍いものですから。しかし、彼らが無径者同様に路を持たない一方で、理の力を受容し反応する何らかの器質を備えているとは推測されています。特定の臓器――心臓や肝臓のような形ではなく、肉体に遍在する何かがあるのだろうと……、っと、続けても大丈夫ですか」

 専門について語りだすと止まらないらしく、早口で一気に話を進めたところが生々しい内容になってしまい、エイムダールは慌てて王女の顔色を窺った。実際、シェリアイーダは既に蒼白になっていた。

「……ごめんなさい、平気だと思っていましたが、やはり少し気分が……ですが、お話の内容にはとても興味があります。日を改めて、できればそちらに伺って実際の様子など見学しながら詳しくご教授いただけたらありがたく存じます」

「ええもちろん、お望みとあらばいつでも歓迎いたします。実験室の中はお見せできませんが、資料や記録は豊富ですのでご満足いただけるでしょう。次の時までには私も、もっとしっかり殿下の疑問にお答えできるように準備しておきます」

 エイムダールはそわそわと腰を浮かせた。今にも、王女殿下に無礼をはたらいたかどで取り押さえられるのでは、と恐れているらしい。シェリアイーダは苦笑を隠して穏やかに会談の終わりを告げた。

「それは楽しみです。ぜひ、よろしくお願いしますね。リゥ、エイムダール殿を門までお送りして差し上げて」

 ついでにいろいろ情報を引き出しておいてね――と目配せで伝える。リゥディエンは畏まって拝命し、学者青年を促して退出した。

 男達の姿が部屋からなくなると、途端に侍女が「なんてこと」と憤慨した声を上げた。

「あの学者、本当に司祭なんでしょうか? それとも救世教では赤子を犠牲にしても罪にならないと言うんでしょうか。やっぱりろくでもないものですよ、彼らは!」

「落ち着いて、ニンナル。それを言ったら、労僕を使って暮らしているわたしたちも皆、赤子殺しの罪人ということになるわよ」

「それは!」

 侍女は強い反発を込めて言いかけたものの、唇を噛んでうつむく。ややあって彼女は深いため息をついた。

「……結局、あの学者が言ったような理屈で納得するしか、ないのでしょうね。労僕がなくては何もかも立ちゆきませんし、そもそも最初に労僕を生み出した者はともかく、わたくしたちは既に労僕がいる世の中で暮らしてきたのですし。それにしても、せめてもう少し言いようがないのかと……人倫派についてはまともな見解を持っているようでしたのに、同じ口であのように無情な」

「ある問題について正しいことを言う人が、すべての場合で正しいわけではない。でしょう? あなたも、わたしもね」

 シェリアイーダは苦笑し、肩を竦めた。侍女は痛いところを突かれた顔で姫君を見つめたが、渋々ながら「さようですね」と同意した。

「――と、納得してくれたところで、お願いがあるのだけど」

 がらりと口調を変えたシェリアイーダが、わざとらしく愛嬌たっぷりの笑みを浮かべる。侍女はぎょっとして牽制の面持ちになったが、むろんそれで防げるものではない。子供らしいおねだりの仕草と共に出された要求は、予想通りとんでもないものだった。

「側仕えの中に一人だけでも、労僕を入れてもらえない? 現状、わたしの身の回りのことはあなたが取り仕切って召使たちを使い分けているけれど、中には労僕にもできる作業があるでしょう」

「ああ姫様! 無茶をおっしゃらないでくださいませ」

「ほら、毎朝枕元まで洗面器を運んでくるとか、そのぐらいなら複雑な指示も必要ないでしょうし……あなたが我慢できそうな子を選んでくれたら良いから。ね? お願い!」

 シェリアイーダは両手を合わせて頼み込む。侍女は天を仰いだ。これ以上強硬に諫めてことを大きくすれば、王女の良くない噂が広まって厄介な状況になりかねない。侍女は諦め顔になりつつも、どうにか翻意させられないかと一縷の望みをかけて承諾を引き延ばした。

「なぜそこまでなさるんです? あれらに対して蔑みではなく憐れみをかけるべきだ、というのは理解いたしますけれども……姫様のおそばに仕えられることを、あれらが喜ぶとは思えません。せいぜい、餌や寝床を少し良いものにしてやれば充分でございましょう」

「ええそうね、たぶんそのほうが彼らも単純に嬉しいだろうと思うわ。何につけても反応が鈍いけれど、美味しさや快適さを感じないわけではないでしょうし」

 シェリアイーダはひとまず同意した。先刻学者も言ったように労僕は総じて感覚が鈍く、不満や欲求らしきものはまったく見せない。人間が食べられない籾殻だの豆殻だのでも食べるし、生だろうと腐っていようと腹を下すこともない。空腹で動きが鈍くなりはしても、食事を自ら求めはしない。剥き出しの床や地面でも眠れるし、それで痣や擦り傷ができても痛みがないのか気にかけもしない。

 ゆえに彼らをどう扱うかは完全に、使う人間側の都合で決められている。短期間でとことん使い潰すつもりなら、餌も寝床も用意しない。長持ちさせたければ、あるいは王宮のように少しはましな見た目を維持させる必要があれば、それなりのものを与えるわけだ。

 労僕がそうした扱いを受けている実態を『シェリアイーダ』は知らないはずだが、侍女がその点に気付いて不審を抱かないよう、彼女は慎重に言葉を選んで続けた。

「ただわたしが彼らのことをもっとよく知りたいの。扱いを変えれば彼らもまた変わるのか、何を好み、何が出来るのか。だってまさか、六彩府で労僕の研究室に入りたいとか工廠の中を見学したいとか言っても、まず確実に許されないでしょう? さっきのエイムダールの言いようからして、多分……さすがにわたしも目を背けたくなるようなことが、行われているのでしょうし」

 だんだん小声になって、尻込みするように口ごもる。王女の言わんとするところを察して、侍女も身震いした。

「まったくいけません、絶対に姫様はそんな場に関わるべきではありませんとも! ええ、わかりました。あの学者のようなやり方ではなく、姫様は姫様なりの方法で研究なさりたいのですね。穏便に、問題の無いように。そういうことでしたら、わたくしもなんとか我慢してみましょう」

 言いながら感情が落ち着いたのか、侍女はいくらかほっとした様子で譲歩した。最悪の場合、このあるじが労僕を切り刻みいじくり回す学者の狂気に染まっていたかもしれないのだ、と気付いて、先の要求程度なら可愛いものだと思えたのだろう。

 作戦がうまくいってシェリアイーダはぱっと笑顔になった。その無邪気な喜びように、侍女は思わず苦笑する。

「ただし、この部屋に入れるのは一人だけですよ。それに、実際に働かせてみてあまりに問題が多ければ、その時はどうか潔く諦めてくださいませ」

「ありがとう! ええ、無理強いはしないと約束するわ。だからニンナル、できるだけ賢そうな、扱いやすそうな子を選んでちょうだいね」

「労僕なんてどれも似たようなものでございますけれどねぇ……まぁ、せめて見た目の薄気味悪さが一番ましなものを探して参りましょう。ああ、ちょうどリゥディエン殿が戻られましたね」

 ではしばらく、と侍女は断りを入れて退出する。その足音が遠ざかると、シェリアイーダはリゥディエンに目配せし、先にかけた遮音の術を強めさせた。六彩の光が薄く部屋を巡り、ぴたりと封をすると、彼女はうんと大きく伸びをした。いかにも疲れたという様子だ。リゥディエンは傍らに膝をついて気遣う。

「侍女殿から諫められましたか」

「いいえ、それはなかったわ。もちろん少し抵抗はあったけれど、労僕を側仕えに入れてくれることになったし。ただ、久しぶりに“可愛らしくおねだり”したのが……なんとも言えずこたえるものね」

 言いにくそうに答えて、シェリアイーダは気恥ずかしげに首を竦めた。リゥディエンは目をしばたたき、それからふっと失笑する。顔を背けて肩を震わせているかつての夫に、王女は頬を赤らめて苦笑いした。

「言いたいことがあるなら遠慮なくどうぞ。ええ、昔あなたにさんざん色々おねだりしたことは、わたしも忘れてはいないから」

「そうですね、いつも大変お可愛らしいご様子でした。私も、我が君も、誰もあなたには勝てなかった。侍女殿もお気の毒に」

 楽しげな黄金の欠片をちりばめた声で懐かしむ。だが思い出話はそこまでだった。二人は目を合わせ、笑みを消して真顔になる。

「――それで、何か聞き出せた?」

「はい。ひとつは彩理学者が少ないという事情について。元々昔から、実用の成果が出やすい華々しさゆえに彩術学のほうが人気があったのですが、近年特に偏りが極端になっているのは第一に、資金の問題があるからだ、と」

「でしょうね。すぐに見返りが欲しいからこそ、資金を出すのだもの」

 六彩府は形式上、独立した研究機関となっている。かつて神殿が王とは別個の勢力として在ったように。そしてやはり、王や貴族からの資金援助、あるいは上位役職者の出自によって、その運営が左右されるところも同じだ。

「それだけでなく、第二の理由として、彩理学者は長続きしないのだ、とも言っていました」

「成果が出せなくて食い詰める、ということ?」

「いいえ。そもそも彩理学は理の力そのものの本質について究めようという学問です。となれば、個人の路を通さず理の力を観測し、その性質を調べる必要があり……それが可能なのは湧出点か、御柱そのものだけですから」

「言われてみれば確かにそうね。どちらにしても危険が伴う」

「熱意と野心のある者ほど近付きすぎて、壊れてしまうのだとか。そのために今、彩理学者はわずか数人、それも地方の湧出点を調べに出ていることが多く六彩府にはほとんど戻らないので、ことわりの本質について姫様と論議できる者はいないだろうと謝罪していました」

「残念だけど仕方ないわ。そう簡単にいくとは思っていなかったし」

 シェリアイーダは自分を諭すように言い、こめかみを揉んだ。六彩府の学者とつながりを作れば、それを頼りに中へ入れると狙っていたのだが、もっと太い伝手が必要らしい。あるいは、向こうから是非と招かれるほどの成果を上げて見せるか。

「焦らずとも、あなたの才と努力をもってすれば開かぬ門はありませんよ」

 リゥディエンが優しく頬に触れ、慰める。シェリアイーダはその手に自分の手を重ね、しばし目を閉じて温もりに甘えた。遠い過去から彼はいつもこうして、傍らで支え励まし、適切な言葉と振る舞いで助けてくれた。それがいかに得難く貴重なことか、独り占めしたくて「リッダーシュをわたしにください」と願った時には気付いてもいなかったが、叶えられた今、その奇蹟を思うと失うのが恐ろしくなる。

(このままずっと一緒にいてね)

 心の中だけで願う。声に出せば彼は、はい、といつもの笑みで答えるだろう。既に魂を結びつけられて否応もないのに、それをさらに自らの意志であるかのように認めさせるのは酷い仕打ちだ。たとえ彼本人が心から喜んでいるとしても。

 シェリアイーダはほっと吐息を漏らし、気を取り直して目を開けた。

「……それで、聞き出せたことの二つ目は?」

 途端、すっと空気が冷えた。リゥディエンは答える前に立ち上がって外の様子を見に行き、まだ侍女が現れそうにないのを確かめてから、戻ってきて静かにささやいた。

「レーシュ王子は人倫派鎮圧の切り札として、労僕を基にした新たな兵士を創るつもりのようです」

「――!」

 シェリアイーダは息を飲み、身をこわばらせた。リゥディエンも眉をひそめ、険しい面持ちで続ける。

「エイムダール殿は、獣兵、とそれを呼んでいました。湧出点の影響を受けない無径者と同じ性質をもつ労僕に、獣の獰猛さを合わせ持ち、人間の命令には絶対服従するよう仕込むことができる……そういう新たな兵を生み出すのだと。労僕研究に携わる学者として、王子から協力を求められたようです」

「……なんてことを」

 呻きを漏らし、シェリアイーダはうつむいて両手を拳に握りしめた。痛みに耐えるように目をきつく瞑り、歯を食いしばって、迫り上がる感情を喉の奥へ押し込める。リゥディエンも無言で、重い沈黙を共有していた。

 ややあって顔を上げたシェリアイーダは、少なくとも表面上は平静を保っていた。

「よく聞き出せたわね? あなたが人の懐に入る希有な才能の持ち主だってことに異論はないけれど、兵部省の機密でしょうに」

「そう難しくもありませんでしたよ」リゥディエンは微苦笑した。「学者殿は自分の専門分野について語り出すと止まらない性質のようですから。最先端の労僕研究に関心を示したらすぐに箍が外れて」

「なまじ六彩府では迂闊に話せないものだから、外に出て気が緩んだのでしょうね」

「先にあなたと話して予想外に深い議論になったために、その熱が冷めていなかったおかげもありましょう。加えて私なら、姫君と話すには必要な遠慮をせずにすみますから。……続けても?」

 慎重な気遣いの問いかけを受けて、シェリアイーダは口元だけの笑みをつくって応じる。

「ええ、平気よ。全部聞かせてちょうだい。むしろわたしは感心しているのよ。同じ罪悪、同じ愚行を、次から次へと新しい方法で繰り返す、人間のたゆまぬ進歩にね」

 黒く鋭い棘を持つ言葉。リゥディエンはそれを受け止め、包み込んだ。

「いかにも仰せの通り。今生ではそれを止めるか、せめて進む方向を変えさせる力があることを感謝しましょう」

「できるかしら。わたしとあなた、二人だけで」

「我が君もきっと異世からお力添えを下さいますよ」

 リゥディエンがにこりとして励ます。もちろん二人とも、当の『我が君シェィダール』が神々のみならず死者の霊魂についてまで否定的であったことは了解の上だ。シェリアイーダは思わず失笑した。

「お父様も、まさか自分が一番嫌がっていた神格化をされて、しかもこんな面倒なことで頼りにされるだなんて、冗談じゃないとお怒りになるわね」

「愛する我が子を助けたくはあれど、不本意でもあり」リゥディエンも笑って同意する。「しばらく不機嫌に文句をこぼされるでしょう。しかしその後は、何が必要でどうすべきかを次々に考え出されて、生前であればそのままご自身で行動なさったはずです」

「ええ、本当に。今はわたしたちが代わって動かなくては」

 まさに力添えを受けたかのように、シェリアイーダの瞳が晴れる。その変化を見て、リゥディエンは眩しげに目を細めた。そっと丁寧に手を伸ばし、まだ握りしめられたままだった王女の拳を優しくほどかせながらささやく。

「姫。敬愛する女王、我が魂の伴よ。記憶とは多くが足を鈍らせる重荷ですが、時には力を与えてもくれます。……良き思い出を、背を押してくれるものを、共に抱いて参りましょう」

 誠実な言葉ではあったが、シェリアイーダは同意できず唇を噛む。リゥディエンはそれも承知だというように、小さくうなずいた。

「重荷は既にあなたや私の一部。良い思い出だけを選び取って後は捨てる、ということはできません。それでも、姫様、諦めず歩みを進めるならば……」

「重荷の中にさえも、支えとなる力は見出せる。そう、あなたがいればきっと叶うわね」

 つぶやくように応じた声は、涙を堪えてかすれ、ざらついていた。

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