二章(2) 救世教人倫派


 シェリアイーダ姫は十三歳になった。とはいえ、祝宴らしきものは『薔薇の宮』でのささやかな晩餐だけだった。王の子は何人もいるし、男児ではなく女児で、しかも父王のお気に入りではないからだ。十三歳で資質秀逸となれば、誕生日の祝宴にかこつけて嫁ぎ先の候補となる貴族にお披露目されてもおかしくないのだが、父王はそれもしなかった。優れた資質を持ちながらも修養を怠って碌な術を詠わず、学問にばかりのめり込んでいる王女を誰が娶るのか、というわけだ。父王は親として娘たち皆を可愛がりはしたが、ここ数年とみに意志が強くさかしくなったシェリアイーダについては、懸念と嫌悪を隠さなくなっていた。

 そんな父王に対してシェリアイーダは、誕生日の贈り物として衣装や宝石をねだる代わりに、一風変わったものを望んだ。都にある救世教の大聖堂で、定例の礼拝の際、特別にシェリアイーダのために贖いの祈りを捧げてもらうことを願い、寄進をしたのである。

 本人が参列することはできなかったが、名代としてリゥディエンを行かせ、終了後に司教が一人、寄進の礼と報告を兼ねて姫のもとを訪れた。

「……といった内容で、間違いなくシェリアイーダ様がお望みのように取り計らいました」

「ありがとうございます」

 一礼した司教にあわせてシェリアイーダも合掌し、礼を返す。さすがにいきなり教皇との会談を取り付けられるとは思わなかったが、礼拝を執り行った大司教ではなく司教をよこす辺り、王女の身分も軽んじられたものだ。

(父上が寄進の額をけちったせいかしら。それとも王女がほんの子供だからという理由? 十二で大学に入ってもう論文を一本上げたのだけど、多分そのことも知らないのね。数学ではなく神学の論文でも書けば良かった。思いっ切り挑戦的で物議を醸しそうなのを)

 内心の不穏な考えは完璧に隠して、シェリアイーダは慎ましく微笑む。司教は出された葡萄酒と贅沢な酪の菓子を遠慮なく味わいつつ、興味深げなまなざしで王女を観察した。

「王族の方が、我らが救い主の教えに理解を示され、寛大に受け入れてくださるのはありがたいことです。もしやシェリアイーダ様は、ご自身が帰依したいとお望みですか?」

 慎重に探りを入れているつもりの質問だが、明らかに前のめりの熱を帯びている。シェリアイーダは穏やかながらも「いいえ」とはっきり否定して水を差した。

「わたくしは王女として、万能なる天空神アシャとその座に連なる神々を奉ずる立場にあります。そこを変えるつもりはありません」

 言いながら、皮肉な思いが胸をよぎる。かつては王こそが神殿を廃しようとしたというのに、歴史の変遷を経て王家が伝統宗教の守り手になろうとは。

 むろん、すんなり今の関係になったわけではない。

 彩紀元年、神官殺しを伴うシェイダール王の即位によって、神殿の力は大きく削がれた。学究派が実質的に神殿に取って代わるように思われさえしたほどだ。しかし時代につれ、王家の支配力は時々の情勢によって揺らいだ。災害、外敵や内乱、救世教の勃興。様々な勢力がそれぞれの思惑で結託あるいは離反し、存続と拡大をはかった。右に左に、行きつ戻りつ振れながら。

 変転の中で王家もまた、時には救世教と組みもした。だからこそ救世教が今ほど一般に浸透したのだ。しかし近代に至り、王家はいにしえの神々を『伝統』として掲げる方針を取った。これこそが正統、歴史の始まりから脈々と受け継がれる王権の源であるとして、求心力を取り戻そうとしたのである。

 思惑はそれなりに成功し、庶民の日常に根ざした救世教とはまた別の権威として、現王家は民の崇敬と服従を勝ち得ている。王女の一人が救世教に近付くそぶりを見せたぐらいでは揺るがない、だがしかし教会側からすれば確保したい味方と映る程度には。

 シェリアイーダは司教を牽制しておいて、話を進めた。

「ですがもちろん、あなた方の教えにも理解と関心はあるつもりです。人は皆弱きもの、ゆえに多かれ少なかれ罪を犯し、またその罪を償う力もない。しかし唯一の神を信じるならば、神は救い主をお遣わしになり、信徒の罪をすべてその身に引き受けてくださる。よって信徒の魂は清められ、死後は楽園で安らげる……心惹かれる教えです、ええ。だからこそ、このところ気に掛かることが」

 眉をひそめて不安な表情をつくり、声を抑えて続ける。

「教会の一部で、ウルヴェーユは罪だ、と言われているそうですね。もしそれが真実であるなら、わたくしたち王族はワシュアールで最も罪深い一族になります。信じたくはありませんが……ただ、その可能性について考えると、恐らくわたくしも自覚のないまま罪を犯しているに違いないと思われて、この機会に贖いをと願ったのです」

「おお……! そのような心労をおかけしていたとは、誠に申し訳ない限り。人倫派を名乗る者どもには我々も手を焼いております」

 司教は非常に遺憾であると示すように大仰な身振りで謝罪し、それから居住まいを正して弁明にかかった。

「王女殿下におかれましては、どうぞお心を安んじられますように。人倫派は罪だ穢れだと申しておりますが、実際のところ彼らのあれは単に、無径者に地位権力をよこせという活動にすぎません。教会が築いてきた礎に便乗し、救い主の教えにかこつけて、己らに利得利権を引き込もうというだけのもの。教会よりも利用しやすい組織があったなら、そちらで名乗りを上げていたでしょう。つまり彼らに、罪を論じる資格などありはしないのです」

 そこまで言ってから、司教はこほんと咳払いして説教師の顔つきになった。

「ですから、どうぞ彼らの主張を真に受けてお心を痛められませんように。むろん我々は皆、あらゆる罪を犯さずに生きられるものではありません。しかしそれはウルヴェーユとは関わりの無いこと。仰せられたように、誰しも気付かぬ間に何かを掠め取り、あるいは他者の不幸を見過ごしにしているものです。よって罪を清め赦しを乞うことは必要であり……シェリアイーダ様は善い行いをなされました」

 年少者を褒めてやっているつもりの尊大な司教を前にして、シェリアイーダは苦心しながら真顔を保った。

(そうでしょうとも。皆が『わたしは悪い子です、ごめんなさい』としおらしく頭を垂れて贖いの寄進に励めば、あなたたちは偉そうにふんぞり返っていられるし、懐も潤うものね)

 棘が出かかっているのに気付いたリゥディエンが、背後でそれとなく身じろぎして注意を促す。シェリアイーダは気持ちを切り替えて司教への対応に集中した。

「そう伺って安心しました。人倫派の活動は本質的に、神や信心の問題ではないのですね。とはいえ彼らが教会を通じて世界に訴えかけている限り、あなた方としても無関係だと切り捨てるわけにはいかないでしょう。彼らは日に日に数を増して、もう武力で簡単に追い散らせないほどだと聞きます。対立ではなく対話を試みる時ではないでしょうか」

「むろん我々は平和的な解決を望んでおります」司教は渋い顔になった。「しかし彼らにその気がないのでは、手を差し伸べても無駄というものですよ。何しろ彼らの指導者は自ら悪神ズラークなどと名乗り、不法に占拠した土地で王を気取っているのですから」

「王、ですか。ならばそれこそ、正式な申し入れに基づく使者とは接見するものでは? わたくしは、彼らの言い分が――神や信心の問題ではないのならなおさら、どれほどの正当性をもつのかを知りたいのです。すべての民の訴えに耳に傾けることが王族の使命なのですから」

「そのお志は気高く立派なことです。しかし相手は暴徒、それも無径者の集団ですぞ」

「湧出点を生活の場に変えてしまうほどの集団を、ただの暴徒というのは侮りすぎでしょう。それに、無径者であろうと有径者であろうと、ワシュアールの民に変わりはありません」

 シェリアイーダは強い口調で言い切ったが、司教は子供の理想論と取ったようだった。やれやれと言いたげな気配をぎりぎり取り繕っているのが、表情に滲み出ている。

(ああまったく、いつもいつも女児というのは軽んじられること! 同じ言葉が王子の口から出てもその顔をしたかしらね? まぁいいわ、それならそれでやりようがある)

 内心で舌打ちしつつ表面は無垢な王女を装い、シェリアイーダは悲しげに目を伏せて胸に手を当てた。

「わたくしがこんなことを言っても、実際には何の役にも立たないと承知しています。でもどうか、ここに一人は聞く耳を持った王族がいると、どうにかして伝えて欲しいのです。それに、彼らの主張を認めるにせよ否定するにせよ、事実としてウルヴェーユは世界の理に触れるわざ。わたくしたちの罪が何の影響も与えないと、どうして言い切れましょう。教会でこの問題に詳しい方がいらっしゃるなら、一度お会いしてお話を伺い、この不安を払っていただけないでしょうか」

 気丈に、理性的に振る舞いつつも、本心では怯えている証拠に声が震えた――完璧にそう見える演技。司教は疑いもせずころりと騙された。

「なんとおいたわしい。そこまで気に病まれるほどの大それた罪など、御身にありはしますまいに……しかしお望みとあらば、適任を探して参りましょう」

「ありがとうございます。六彩府にも教会の方がいらっしゃると、以前噂を耳にしました。そのような賢き方であれば、きっとこの胸につかえた疑念と不安も、難なく解きほぐしてくださると信じております」

「六彩府に……? ああ、うむ、心当たりがあります。お任せあれ」

 王女からへりくだった感謝の笑みを向けられて、司教は頼もしく請け合う。では後日改めて、と約束を交わして司教が退出すると、足音が充分遠ざかるのを待って、シェリアイーダは大きなため息をついた。

「はあ、まだるっこしい!」

 壁際に控えている侍女が失笑し、リゥディエンも苦笑しながら「お疲れ様でした」といたわる。シェリアイーダはうんざりと頭を振った。

「説得力のある理由と伝手がなければ、ただ人に会って話すだけのことさえ叶わないんだもの、不自由だったらないわ」

 菓子皿に残っていた焼き菓子をひとつ口に放り込み、席を立つ。すぐに侍女と警士がそばへやってきたので、王女は皿を取って差し出した。

「ちょうどあと二つあるわ。片付けてしまえる?」

 二人は顔を見合わせたものの、では遠慮無く、とそれぞれつまんで口に入れる。貴人のお付きをしていると、たまにこういうおこぼれに与れるものだが、シェリアイーダは他の王族のように、残り物や不要品をくれてやるという驕りを感じさせはしなかった。身分の隔てを認識しながらも、当たり前に融通するだけだという態度。最初は当惑していた侍女も次第に慣れて、今はこの姫君のありようを受け入れていた。

「ごちそうさまでした。では姫様、お部屋に戻りましょう。……まだるっこしいと仰せながらも、きちんと手順を踏んで進められたこと、ご立派でございます。望みをおっしゃるだけで自ら動くことはなさらない方も多うございますのに」

「皆、わたしのようにわがままではないのよ」シェリアイーダは笑った。「勝手にあれこれしたら迷惑がかかると思って、周りがあれこれ調えてくれるのを待っているだけ。ただ、王子だったらそれでも大体のことは通せるけれど、王女だと適当にごまかされたり、“良かれと思って”違うようにされたりするものだから、本当にやりたいことは自分でやらないとね」

「では、姫様の願いはとても真剣なのですね」

 侍女がつくづく感じ入った声音で言ったので、シェリアイーダは足を止めて振り返った。覚醒した時から変わらずそばに仕えている侍女は、母親のようなまなざしで王女を見つめていた。

「世界の神秘に触れたいと仰せられた時は、また突然に大きな夢を、と驚いたものですが。その後リゥディエン殿を取り立てられたことも、まだ『薔薇の宮』にいられるお歳ですのに、少しでも外の世界に近いところへと望まれて今のお部屋に移られたことも、皆、その真剣な願いを叶えるための布石なのでしょう。本当に姫様には感嘆させられております」

 まるで別人になったようだ、と言外に仄めかしつつ、しかし表情はあくまでも温かい。シェリアイーダは複雑な面持ちで首を竦めた。

「正直わたしも、あなたには驚かされているの。こんな風にわたしの願いを尊重して付き合ってくれて、詮索もせず他人に噂を流しもせず……本当にありがとう。今回のことだって、あなたとリゥが外との伝手を通じていろいろ調べてくれたおかげよ。贖いの寄進ができるなんて思いつかなかったし、六彩府の学者に司祭位を持つ人がいることも、王宮の奥にいたら知りようがないもの」

 誠実な褒め言葉を受けて、侍女はやや後ろめたそうな表情で低頭した。シェリアイーダは狙い通りの反応を得て、内心で微笑した。覚醒して間もない頃、この侍女が王宮図書館で姫君の読んだ書物を調べていたことは知っている。年少者にありがちな、物語の主人公と自分を重ねた思い込みで何か突拍子もない行動を始めるつもりではないか、と懸念したのだろう。あるいは、そう考えた誰かに指示されたのか。

 いずれにせよ、原因は見付からず変化を止められもしないと悟った侍女は、ほどほどに距離を保ちつつも何かと協力してくれるようになった。貴人に仕える者としての処世術ではあろうが、彼女の内にもそれだけではない何かがあるようだった。

「もったいないお言葉にございます。正直に申し上げて、わたくしには姫様がなぜそんなにも熱心になられるのか、どうしても腑に落ちません。身の程の違い、でございましょう。ですがこうしてお側に仕えていれば、いつか姫様の努力が大きな実を結ぶさまを見られるのではないか、という希望も感じるのです」

 訥々と紡がれる言葉は、使用人としてではなく一個人としての思いだ。シェリアイーダは心を込めて「その希望を現実にして、あなたに報いたいものね」と応じてから、ふと不思議になって問うた。

「腑に落ちないと言ったのは、わたしがあんまり熱心すぎること? それとも、願いそのものに共感できないのかしら。あなたは世界の理には興味がないの? あの御柱を毎日眺めていて、いったいあれは何がどうなっているのだろう、とか思ったことは」

「ございませんねぇ」

 侍女は途方に暮れたような顔で答える。シェリアイーダが目を丸くして絶句していると、侍女はちらりと空を見やってから続けた。

「御柱は御柱ですし、神々がそのように世界を創られたわけですから。六彩府の学者たちはそれを理屈でどうこう説明しようと努力しているようですが、そんな難しいことを考えなくてもウルヴェーユは使えますし、そもそも術を使うまでもなく便利なものが様々にあって、何も不自由しておりませんので」

「……」

 千年前と同じだ。ウルヴェーユによって動く揚水機を王宮で日常に用いていながら、誰もその原理や機構を解き明かそうとはしていなかった。それは『最初の人々』が遺したものであり『王の力』のみによって維持される神秘である、と説明がつきさえすれば良かったのだ。真実かどうかは二の次、納得できる物語があれば良い。それ以上は必要ない、とばかりに。

 なるほどねぇ、とシェリアイーダは口の中でつぶやいた。人の意識というものは、千年経とうがたいして変わらないものらしい。“当たり前”の中にある不思議を見出し、真実を知りたい、知らねばならぬ、と感じる者はいつも少数派なのだろう。むろん彼女も、そうしたことを考える余裕もなく生活に追われる人生がどういうものか、かつて経験し学んだ。だがそれでも、未知の事柄に気付き、時間と機会さえあればと願うことまで無かったわけではない。

 かつてそうしてシェイダール王が解き明かしたわざが、今ではまた新たな“敢えて理解する必要のない当然の事象”の座についているとは、皮肉と言うべきか。

 シェリアイーダはしばし茫然と物思いに耽ったが、侍女の視線がさっと逸れたのに気付き、意識を切り替えてそちらを振り向いた。廊下の先、角を曲がって兄王子レーシュが現れたところだった。

 王女の一行は急いで端に避け、慎ましく畏まって頭を下げる。レーシュもこちらの姿を認めて一旦足を止めたが、すぐにまた歩を進めた。本人は恐らく堂々と、あるいは威圧さえするつもりなのだろうが、相変わらず片足を引いているため、あまり上手くいっていない。ただ、相対する者を不安にさせる効果は充分にあった。

 シェリアイーダは頭を下げたまま、背後の侍女と警士の緊張が高まっていくのを感じていた。向こうから声をかけられない限り、挨拶を述べる必要はない。身分の低い者はただ黙って邪魔にならないよう小さくなっていれば良いのであり、存在を主張するほうが無礼になる。だからこのまま通り過ぎてくれ、とシェリアイーダは祈ったが、運悪く兄王子は誰かに礫を投げつけたい気分だったらしい。床を見つめる視界の端で、王子の靴がぴたりと止まった。

「司教と女々しい繰り言を交わしただけでは飽き足らず、こんな所で立ち話か。暇そうだな」

 呼びかけも前置きもなしに言い放たれる。薄青色の声は氷のように鋭い。シェリアイーダが表情を取り繕いつつ顔を上げると、不機嫌そうな兄王子と目が合った。その肩越しに見えるのは、何やら愉快なことになりそうだと期待しているのがありありと分かる笑顔のお供が数人。護衛の警士や従者ではなく、貴族の若者たちだ。

(もう少しましな友達を選べなかったの?)

 内心げんなりしながら、それを隠して彼女は兄に応じた。

「兄上は救世教の教えを女々しいと仰せですか」

 思わぬ反応だったらしい。レーシュが軽く眉を寄せ、後ろの若者たちが鼻白む。情けない謝罪か言い訳か、さもなくば稚拙な怒りが返って来るものと予想していたのだろう。

 シェリアイーダは黙ってじっと兄を見つめ続ける。レーシュは軽侮の表情になって何か言いかけたが、妹の背後から警士がいかにも不吉なまなざしを向けたのに気付くと、思い直して苦々しげに答えた。

「ああそうだ。あんなものは王者の宗教ではない。女子供にこそ似合いだ。めそめそ泣いて救い主の到来をこいねがうばかり、無為無力の言い訳でしかない。おまえが縋るのも当然だが、目障りだから女区画に引っ込んでいろ」

 前半には賛同しかねる雰囲気だった取り巻きも、最後の侮辱にだけは追従して笑う。その瞬間、王子の口元がぴくりと引きつった。一緒になって妹を嘲笑するふりをしているが、実際は後ろの連中にも苛々させられているのだろう。

 シェリアイーダは、ことば一節で邪魔者たちを追い払いたい衝動を抑え、慎重に話の舵を取った。

「救世教が兄上のおっしゃるようなものであるか、わたくしには判断できませんが、少なくとも今日、わたくしが司教様とお会いしたのは、泣いて赦しを乞うためではありません。人倫派について伺いたかったからです」

 途端にレーシュがまた頬を引きつらせた。取り巻きの中の二人ほどが、ほうこれは面白い、とばかり含み笑いで顔を見合わせている。レーシュの声音がさらに棘を増した。

「知ってどうする。俗世の騒動に首を突っ込む暇があるなら、ウルヴェーユの修養に励むのが王女のつとめだろう。でないと資質の持ち腐れでまともな子を産めなくなるぞ」

 最後の一言には猛毒が込められていた。どうせ貴様は家畜だ、という蔑み。加えて、ウルヴェーユが使えなければ“まともな”王族ではない、との自虐。

 シェリアイーダはそれを、まるで聞こえなかったかのようにかわした。

「兄上が人倫派鎮圧の目的をもって兵部省に入られたことは、聞き及んでおります。司教様も、彼らに和平の手を差し伸べても無駄だとおっしゃいました。それが現実として取るべき対応なのでしょう。その上でわたくしは、彼らのことを理解したいのです。彼らが訴える不満の本質はどこにあるのかを。そもそも、すべての人がより安全に豊かに暮らすための知恵とわざであるはずのウルヴェーユが、人を不幸にしているのなら、解決するのが王族のつとめではありませんか」

 静かに穏やかに、相手を否定せず自分の意志目的を語る。だがその気遣いもあまり役に立たなかった。後ろの若者がとうとう失笑し、軽侮の声を上げたのだ。

「さすが、王女殿下はお優しい! ウルヴェーユを使えない無径者どもに情けをかけてやろうとおっしゃる!」

「――!」

 レーシュが息を飲む。無径者にかこつけて自分のことも侮辱されたのが、間違いなく伝わったからだ。青ざめた彼がさっと振り向いて睨みつけると同時に、シェリアイーダが強い一声を発した。

「控えなさい」

 《詞》になる寸前の、音色の揺らぎを凝縮した声が場の空気を塗り替え、王子と追従者たちが反射的に姿勢を正す。シェリアイーダは力を緩めずに続けた。

「王子と王女が話しているのです。発言の許しも得ず割り込むなど不敬不遜。下がりおれ」

 従わねば次は《詞》に代えてその身にわからせるぞ、という威圧は、かつてそれが『王の力』であった時代ならばてきめんに効いただろう。だが残念ながらもう、そうではない。最初だけは驚いて畏まった若者たちが、叱声半ばにして早くも軽侮を面に浮かべた。

 その変化を見て取ったシェリアイーダは、忌ま忌ましさを顔に出すまいと堪えた。悔しがれば相手を図に乗らせてしまう。幸い、彼女には頼もしい警士がついていた。

 若者たちは王女の怒りを揶揄しかけていたが、ぎくりと竦んで今度はすっかり興醒めした顔になった。青年警士がわずかに踏み出し、剣の柄に手を置いただけで、この効果である。

 リゥディエンは一見して他人をびくつかせる類の風貌ではない。むしろ平時は温厚で親しみやすい印象の好青年だ。しかし彼が友好的な態度を拭い去ると、相対する者を恐れさせる異様な気迫が現れた。何をされるかわからない、との不安を抱かせるのだ。

 もう邪魔は入るまい。シェリアイーダは兄に目を戻し、わずかに頭を下げて謙譲を示した。

「兄上や兵部省のなさりように口を挟むことは、わたくしの分を越えます。ですがこの先いずれ、彼らと否応なく対話交渉せねばならない状況になった時、その責を担わせるに適した王族がここにおりますこと、お心に留め置いてください」

「……子供の分際で」

 ふん、とレーシュは鼻を鳴らしたが、もう妹とやり合う気分でなくなったのは明らかだった。シェリアイーダは深く一礼してそれ以上の発言は控える。レーシュはそのまま無言で、長い上着の裾を翻して苛立たしげに去っていった。

 今度はシェリアイーダも、まだるっこしい、などと声に出しはしなかった。ほうっ、と大きな息を吐いただけだ。背後で侍女も、魂まで抜けそうなため息をついた。

「……まぁ、なんとか教会と軍の両方に、わたしが交渉役になれる種を蒔けたかしらね。実際にお鉢が回ってくるとしても、あと数年は先でしょうけれど」

「姫様にそんな危険なお役目を受けていただきたくないものですが……姫様は、人倫派の叛乱は簡単に鎮圧されないとお考えなのですか」

 侍女が恐る恐る確認する。早く面倒事はなくなってほしいのに、と言いたげだ。シェリアイーダは小首を傾げ、リゥディエンと目顔で相談しながら答えた。

「最初はすぐに終わると思っていたけれど、リゥが集めてくれる各地からの報せからして、長引くのじゃないかしら。もちろん父上が本腰を入れて圧倒的な兵力を差し向けたら別でしょうけれど、多分そうはならないし。そんなことより、次の騎馬大祭で王家の馬を確実に勝たせるほうが大事でしょうよ。湧出点は取り戻さないと危険だとしても、騒動そのものは教会の問題だもの。それに人倫派も、さっき司教が言っていたように、指導者を王として体制を整えてきているのなら、一箇所で追い散らしても他所で再起するでしょうし」

 滔々となされる説明に、侍女はなるほどと感心した様子でうなずいたものの、納得したらしたで、やはり不安をあらわにした。

「だとすればなおさら、姫様が彼らに歩み寄ろうとなさるのは危のうございます。人倫派などとは関わり合いにならず、大学や六彩府で学問に励まれてください」

「心配してくれてありがとう」シェリアイーダはひとまず礼を言って微笑んだ。「戦いの最中に出て行って調停しようなんて無茶は考えていないから、安心して。ただ話し合いの機会が生じたなら、それを無駄にしたくないの。彼ら無径者を理解することもまた、ウルヴェーユの神秘に近付く手がかりだと思うから」

「……はい?」

 どうしてそうなる、と侍女は露骨に疑念を表した。理の力に触れられない無径者など何の意味も価値もない、と当たり前に信じているらしい。まさに「労僕しもべのようなもの」でしかないのだ。シェリアイーダは苦笑した。

「彼らはウルヴェーユを罪のわざだと言うけれど、彼らも術の恩恵を受けてはいるでしょう。便利な道具や、様々な生活基盤となる施設といったモノだけでなく、たとえば医療を受ければその身体で《詞》の作用を受け止めている。つまり路を通せないだけで、理の力そのものを受け付けないわけではないのよ。それがどういうことなのか、今まで誰も調べてみたことがないというのが驚きだわ。とても大事な手がかりのはず――世界の神秘を解き明かすための、ね」

 語る言葉に熱がこもる。侍女はもう完全にぽかんとなってしまっていた。

「はぁ……本当に姫様は、余人にはとても考え及ばないことを思いつかれるのですねぇ」

 呆然と言いながら、驚きの共有を求めて青年警士を振り返る。だがそこにあったのが満足げな笑みだったので、彼女はさらに呆れて首を振った。

「リゥディエン殿は姫様のお考えをすっかり解っているのですね。しばしばお二人で内緒話をなさっているのは、そういうことでしたか」

「ごめんなさいね、ニンナル。あなたを仲間外れにしようというのではないのだけど、あまり大勢に知られると誤解や反感を招きそうだから」

「よろしいのですよ、賢明なご判断です。実際もしリゥディエン殿がおらず、わたくしだけが今のようなお考えを聞かされていたら、お諫めしたと思います。あるいは、とんでもない姫様だと驚いて、御為を思って陛下のお耳に届くよう注進したかもしれません」

 侍女は悪びれずにそんなことを言い、肩を竦めた。

「不思議なものでございますね。わたくし、姫様がリゥディエン殿を取り立てられた時、恋物語の真似事を始められるつもりではと警戒したのですが、わたくしの目を盗んで睦み合われる様子など一度もなく。それなのに、お二人を引き離すことなど決してできまいと感じられるというのが……安心して良いのやら悪いのやら」

 やきもきしたのが馬鹿らしい、と言うように苦笑してから、侍女はふと真顔になってつぶやくように言った。

「それにしても、先ほどの姫様のおっしゃりようを、当の無径者たちが聞いたら何と言うでしょうね。姫様に関心を向けられることを栄誉と理解できましょうか」

「あまり快くは受け取られないでしょうね」シェリアイーダは控えめに表現した。「いくら『世界の神秘を解き明かすため』であっても、自分の身体や能力や性質を根掘り葉掘り調べられるとなったら、栄誉に思う人ばかりではないでしょう。だからあまり話さないようにしているのよ。もちろんわたしは、世の中を平和にしたくて行動してもいるのだけど、その願いまで疑われては交渉や調停で信頼されなくなってしまうもの」

 当たり前のようにそう語る王女を、侍女はつくづくと眺めて静かに嘆息した。

「こう申し上げては不敬であると重々承知ではございますが、それでも、シェリアイーダ様が男児でないことが惜しまれます」

「そう言っても罰せられないと思えるほどにわたしを信頼してくれているのは、嬉しいことね。ありがとう。確かにね……わたしも度々、王女ではなく王子であったら、もっと違う対応をされただろうと悔しく思うわ。でも、男であればそれなりの余計な苦労もあるでしょう。……本当は味方でも仲間でもない者たちと、ただ自分の陣営を増やすためだけに馴れ合ったり、常に自分の能力を証明し続けて少しでも上に立たなければならなかったり。自分には弱みなど無い、劣った奴らとは違う、優れた存在であると……」

 語るにつれ声が沈んでいく。リゥディエンが「レーシュ様のように」とささやきで締めくくり、シェリアイーダは沈痛に首肯した。

 現王の長男次男はそれぞれ軍事・政治の分野で既に要職を得て活躍している。三男レーシュは『なり損ない』に落ちぶれたせいもあり、彼らに大きく水を空けられていた。西部を中心とした人倫派の騒乱に便乗する貴族もおり、長男は軍を率いて対処に当たっている。だがウルヴェーユを使えない三男に出番はない。だからこそ、彼は人倫派制圧の切り札を持って兵部省に入ったと噂されていた。前線で指揮を執れる能力はないから、後方支援で功を挙げ、なおかつ己を無径者扱いする連中に違いを見せつけてやるために。

「競ったり比べたりするものではないと、あれほどおっしゃっていたのに」

 ぽつりとシェリアイーダはつぶやいた。遙かに遠い記憶の彼方、ウルヴェーユを拓いた当人がその本質を繰り返し子らに説いていたのに、彼女自身も子供らにそう教えたのに、どこで失われてしまったのだろう。

「姫様?」

 侍女が案じて呼びかける。シェリアイーダは微笑をつくって、何でもないの、と答えた。

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