二章(1) 大学と政治


   二章



 白い石灰岩で造られた長椅子が階段状に連なり、その八割ほどを人が埋めている。演壇に立つ教師は教え子たちを満足げに眺め渡した。若々しく意欲に満ちた顔がその視線に応える。教師が女であり、さらには小柄で珍しいほどずんぐりした体型であっても、誰一人として彼女を侮り軽んずる様子は見せない。

 学生は男と女がほぼ半々。これは大学全体の比率ではなく、教師が女であるがゆえの構成だ。女が学問をすることも珍しくはなくなったが、それでも家庭の外、しかも男教師のもとで学ばせるのは危ういと判断して、女教師を指定する親が多い。高貴の子女ともなればもちろんで、この教室はこれまでも王族や貴族を受け入れてきた。そして今日、また一人。

「ようこそ、シェリアイーダ様。かの女王シャニカの再来との呼び声も高き御方をお迎えできて光栄の至りにございます」

 恭しく一礼した教師に対し、最前列に座っていた王女も立ち上がって礼を返した。

「こちらこそ、名高きサーダッド師の教室に加わることをお許し下さり、ありがたく存じます。師ならびに諸先輩がた、どうぞこの名もなき初学者に存分なご指導を賜りますよう、お願い申し上げます」

 丁寧に深く腰を折った王女は、その場の誰よりも若かった。若い――どころか、まだほんの十二歳だ。当然のこと、挨拶に対する拍手は複雑な心情を含んでいた。ご謙遜を、わかっていますとも、ええ我々は等しく学友ですからね、それらしく振る舞いましょうとも……そんな暗黙の了解に基づく賛意。その白々しさを気にする風もなく、教師はにっこりと大きく笑みを広げた。

「本日をもって、共に学ぶ私達の仲間は十九人となりました。十七に続く素数ですね。今日はこの、一あるいはそれ自身をもってしか割り切れない数、というものの性質について『数学原論』に基づき議論します」

 さも当初の予定通りというように、新入生をきっかけにして講義に入っていく。ざわついていた学生たちも表情を改め、すっと集中した空気に変わる。

 講義で使われる主な古典教本は、学生それぞれが自分のものを持ち込んでいる。活版印刷で作られた簡易な複製本だ。しかしそれを開く者はほとんどいない。既に通読して頭に入れていることを前提として、講義は進められていくからだ。

 シェリアイーダは隣席で警護についているリゥディエンから冊子を受け取って開いた。入学を許されはしたが、まだ教本なしで講義についていけるほどではない。

 都の大学はどこも、決まった入学時期などはない。一段階前の教育を指導した者――たいていは家庭教師――の推薦を得て入学を希望する教室に申し込み、試問を受けて可否を下されるのだ。講義は入ってくる初学者の都合にお構いなく進められるため、ついていくにはそれぞれが自分で学ぶしかない。そのために図書館があり、普通は先輩の誰かが指導してくれる。むろんそれは人脈をつなぐためであり、そうして同じ教室で学んだ者を通じて、就職や地位、あるいは弁論大会での応援など、諸々の斡旋がおこなわれるのだ。

 シェリアイーダは王女であるから、顔をつないでおけば得になりそうな気もするが、積極的に指導役をつとめたがる者はいなかった。なにしろまだ十二歳なもので、誰もがこの少女の価値を正確に計れなかったし、隣に警士がぴったりついている状況で迂闊な振る舞いをして身を危うくしたくはなかったのだ。

 講義が終わると学生たちは三々五々、教室を出て行ったり、その場で仲間と議論したりする。シェリアイーダは遠巻きにこちらを窺う視線を感じながら、それを無視して筆記具を片付けていた。まとめた手荷物を受け取り、リゥディエンが複雑な顔でささやく。

「どうでしたか?」

「ちょっと分からない所もあったけれど、さすがに内容が高度で面白かったわ」

「そうですか。私は正直あまり魅力を感じませんが……」

 面目なさそうに白状したリゥディエンに、シェリアイーダは小さく笑いをこぼす。

「数は音とも似ているの、そこに気付けばあなたも興味をそそられるのじゃないかしら」

 抑えた声で会話していると、学生の質問に答え終わった教師が二人のところへやって来た。

「シェリアイーダ様。今日は発言がありませんでしたが、内容はご理解いただけましたか」

「ありがとうございます、おおよそは。もし良ければ少し質問をしても?」

「もちろん。この後は講義が入っていませんから、あなたの年齢に配慮して特別に私の部屋でじっくりお話ししましょう」

 こちらへ、と手振りで促し、教師が先に立つ。王女と警士も後に続いた。

 廊下を歩きながら、サーダッド師は軽い世間話の口調で尋ねた。

「私の教室を選んで下さったことは大変光栄ですが、珍しいですね? 過去の教え子に王族の方が二人いらっしゃいますが、女性は初めてです」

 女子学生が教室の半分ほどいるのだから、数学を学ぶ女が稀だというわけではない。だが王族や貴族の娘は大半が、修辞学や文学といった方面を選ぶ。そのように仕向ける周囲の圧力があり、実際、詩人や歴史家としてならば女でも名を残しやすいからだ。対してサーダッド師が教えるのは数学と天文学、それに関連する哲学である。

 シェリアイーダは悪戯っぽく微笑んだ。

「珍しいから選んだ、というのも理由のひとつなんです。王女なら当然こうするだろうと思われる通りにしたくなかったので」

「それだけの目的で『数学原論』を読めるのなら、素晴らしい才能をお持ちということですね」

「もちろん数学を学ぶことも目的です。それも、あなたから――ワンジルの学問をもたらして下さったサーダッド家のカチェラ様から」

「なるほど」

 予想はしていた、というように教師は含みのある相槌を打った。

 カチェラ=サーダッド。その名前は、多民族をまとめあげて過去最大の版図を有する現在のワシュアールにあっても“異国風”に響く。本来の名であるカッチェ=サルディアルを当地風に言い換えたものだからだ。サーダッド家は、山岳と海峡とによって隔てられた隣国ワンジルからの亡命者だった。

 ワンジルは現在のワシュアールが唯一境を接する国だ。ワシュアールの東南に位置し、険しい山脈を越えての往来は困難だが、海路を使えば普通に交流があって然るべき地理である。にもかかわらず、国交はおろかまともに干戈を交えたことすら無い。国境付近に住む人々は多少、関わり合いになることもあるが、互いに可能な限り接触を避けようとしている。それほどに、文化的な隔絶――否、もはや拒絶というべき意識が強いのだ。

 ワシュアールにとって、ワンジルは『世界樹の覆い』から外れた野蛮な非文明国。一方ワンジルはきわめて厳格な血統主義が支配しており、あらゆる他国民に対する侮蔑を隠さない。同じ国土に住み暮らしていようとも劣った血筋は容赦なく迫害するほどで、ゆえにこそサーダッド一族も命がけで逃げ出したのだ。

 カチェラの父親は優れた数学者にして天文学者であり、母親は素晴らしい歌声を持つ詩人だが、それでもワンジルで安全に生きられなかった。おかげでワシュアールは、学問と芸術に大きな躍進を得たわけだ。

「ワンジルでは無と無限の概念に長い歴史があるとか。それに数の認識もワシュアールとは根本的に異なっているのですね。数を図形と結びつけず、ただ数として捉える……その扱い方を学べば、もしかしたら数と音とを結びつけ、ウルヴェーユにさらなる発展を見込めるのではないかとも思ったのです」

 抑えきれない知的興奮が、宇宙の瞳を輝かせる。大きな野心の発露を見て取り、教師は眩しげに目を細めた。

「それは私の手に余りますね。むろん数学の神秘と奥深さを存分に学んでいただくつもりですが、何しろ私は……無径者ですので」

「ワンジルの方ですものね」

 シェリアイーダはさらりと受け流した。かつて侍女が侮蔑をこめて口にした『無径者』という言葉は、他国民にさえ烙印を押す。カチェラはいっとき教師の顔を消し、寄る辺ない亡命者のまなざしを空に向けた。都のどこにいても見えるという光の柱が、その目には映らない。彼女が振り仰いだのはただ、故郷とつながっているはずの青い空だった。

「私にはワンジルの思い出がほとんどありません。ワシュアールに来た時はほんの五歳。ですから、まわりの誰もが当たり前に“色と音を紡いで詠う”のに、自分にはできないことが不思議で悔しくてなりませんでした」

 そこで顔を下ろし、まだ子供である生徒に気遣わせてしまったと察して、カチェラは肩を竦めて苦笑いした。

「そのうえ昨今は無径者というだけで余計な疑いもかけられますからね。私などは相応の身分肩書きがあって守られていますが、一方で無径者であることが明らかな外国人であるために、性質の悪い中傷を流す者もいるようで……シェリアイーダ様に火の粉がかからなければ良いのですが。まさかとは思いますが、何かありましたらどうぞ私への配慮などは気にせず、ご自分を守られてくださいね」

 ただの老婆心ですよ、とおどけるような声音だったが、シェリアイーダは眉をひそめて唇を引き結んだ。横からリゥディエンが懸念を口にする。

「サーダッド師は人倫派である、というあれですか。ワシュアールを転覆させて乗っ取るつもりだとかいう、荒唐無稽も甚だしい噂」

「ええ、まったく。私にそんな力があるなら、ワシュアールではなくワンジルの故郷を取り戻すという一族の悲願を実現させられるでしょうにね。人間というものは本当に、どれほど根拠に乏しい不合理な主張であっても、信念あるいは妄念だけで押し通すものだと呆れます。その点、数学は美しい。嘘もごまかしもありません。そういう意味で、私の講義が姫様の慰めになれば幸いです」

 私は大丈夫なのでご心配なく、と話題を変えたがっているのは明らかだった。だがシェリアイーダは敢えて不穏な事柄を確かめるように言う。

「人倫派のことは王宮でも懸念されています。最初は教会の内輪揉めぐらいに思われていたのに、だんだん活動が過激になってきて……一部には武装して立てこもる者たちまで現れたとか。この都でも密かに人倫派が支持者を増やしていると噂されていますし、それが本当なら、噂を聞いて先生を巻き込もうとするかもしれませんね。もし困ったことになりそうなら、早めに教えてくだされば、わたしでも何か助けられるかもしれません」

「シェリアイーダ様、あまりそうした言質をたやすく与えてはなりませんよ。ともあれ、私はあくまであなたを教え子として遇するつもりです。後ろ盾として頼みにすることはいたしませんよ――むろん特別な忖度もね。というわけで、今日の講義に関するあなたの質問を存分に料理するとしましょうか」

 ちょうどそこで教師の部屋に着いたので、カチェラは挑発するように笑って扉を開けた。



 白熱したひとときの後、興奮醒めやらぬ姫君は少しばかり疲れた様子の警士を伴って、大学から王宮への帰路についた。

「ああ、こんなに充実しているのはいつ以来かしら。新しいことを学べるのは本当に楽しいわね!」

 嬉しそうに言ってから連れを振り返り、しまった、と申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんなさい、退屈な話に長時間付き合って、疲れたでしょう」

「いいえ、そんなことは全く。むしろ興味を引かれる話もありました。本来なら学ぶ資格がないのに傍聴できて役得ですが、しかし私はあくまでも護衛ですから。あなたがたの議論に聞き入ってしまわないように、警戒を保つほうが大変でしたよ」

 リゥディエンは微笑んでそう答えながらも、素早く周囲に視線を巡らせている。シェリアイーダも足を止め、街の喧噪を眺め渡した。

 都の規模がかつての何倍にも拡大した現在、元からあった地域ごとの特徴、あるいは格差は、より顕著になっていた。大学のあるこの辺りは治安の良いほうだ。資産と教養があり、学問に精を出す余裕がある人々が集う街。大学の教師や金持ちの学生を相手にした書店や学用品店、飲食店。そういった小綺麗な町並みだ。

 とはいえ、住民もすべてが金持ちではない。大学は建前としてすべての人に門戸を開いているので、一般庶民の通う学校から努力と才能で大学に入り、立身出世を目指す者も少数ながらいる。また、大学には低賃金の従業員もいるし、学生が連れている使用人も、あるいは商店で働く末端の人々もいる。

 彼らもまたこの街で生活しているため、表通りの贅沢で洒落た店の間や裏手に隠れるようにして、安い食堂や居酒屋、中古の文房具や衣類を売る店などもひしめき合っている。治安が良いとは言ってもやはり、危険な暗い路地があり、いかがわしい気配が潜む店もある。そしてそれは商店だけでなく、教会の礼拝堂もまた然り、であった。

 シェリアイーダが目を留めたのは、大店に挟まれて見落とされそうな建物だった。通りに面した側には窓も装飾もなく、古ぼけた小さな木の扉が一枚、かろうじてそこに何かがあると示している。扉の上にはおそらく救世教のしるし、交叉する三本の釘が刻まれているはずだが、ここからは見えない。

 その扉の前で数人の男女が何やら立ち話をしていた。前屈みで肩をすぼめて、あまり楽しそうではない。シェリアイーダは様子を観察しながら連れに話しかけた。

「人倫派が立てこもった件、あなたは何か聞いている?」

「断片的な情報だけです。これまでは礼拝堂を占拠しようとしたり、重要な典礼の日に合わせて自分たちの集会を開くことで抵抗を示したり、といった行動が多かったそうですが、今回は……湧出点を占拠したと」

 リゥディエンは声を低めた。シェリアイーダも眉をひそめてささやき返す。

「有径者への対抗手段ということね」

「はい。それで解散させるのに手こずったという話でした」

 湧出点とは、かつて『神の指先が触れた場所』と呼ばれ禁域とされてきた土地だ。そこでは、理の力がなぜか、世界の中心たる御柱とは逆に地下から噴き出そうとしてくる。もはや何の記録も残らぬ昔に『最初の人々』が封印を施した場所。近付けば内なる『路』を乱され、様々な悪影響を被る。もちろん迂闊にウルヴェーユを用いることもできない。

 シェリアイーダはため息をついて眉間を揉んだ。

「救世教が生まれたばかりの頃、救い主マーフが信奉者と共に世俗を捨てて野で暮らしたのと同じように、彼らもまた信じることを実践するために……つまりウルヴェーユという罪を遠ざけて生きるという望みのために、湧出点の近くに暮らしたいというだけだ、と――最大限好意的に解釈しても、やはり許すわけにはいかないわね」

「ええ。勝手に住み着くだけでも土地占有権の問題がありますが、それを置いても、いずれは封印の破壊をちらつかせて要求を出してくるでしょう。幸い今回はそうなる前に散らすことができましたが、規模が大きくなれば厄介になる。正統か異端かの抗争だけでは済まず、ワシュアールのすべての民に危険が及びます」

「どうにか対話を試みてくれないものかしら。父上ジョファル王が動かないのなら、教皇に働きかけて……まぁ、今の私には無理だけど」

 許すも許さないもあったものではなかった、とシェリアイーダは首を振った。

「やれやれだわ。人って本当に、決まり事を作って寄り集まるのをやめられないのね。しかも他人まで従わせたがるし。サーダッド師が中立で良かった」

 そう言ってから、ふと悪戯っぽい目つきになって傍らの警士を見上げる。

「見定めるように命じられていたんでしょう?」

「お見通しですか。はい、噂の真偽はもちろんのこと、何であれシェリアイーダ様がおかしな思想にかぶれないよう必要な措置を取れと」

「必要な措置、ね」

 苦笑した姫君に、青年警士も肩を竦めた。結局のところ、王女が大学に入るのは職務や人生の目的としてではなく、ただ箔をつけるためだと認識されているのだ。王族ともあろうに大学にも入れないようでは格好がつかない、それだけの話。だから簡単に、辞めさせてしまえ、との指示も出る。

「わたしの警士さんはすっかり信任厚くなられて、結構なこと。職務はそれで良いけれど、家族とはどう? 上手くやれている?」

「父には徐々に信頼されてきているようです。もう子供ではなく一人前の男だと。ただ、母や兄弟、ほかの親類には距離を置かれてしまいましたね。すっかり変わった、とも言われました。成長に伴う変化だと納得してはいるようですが」

「覚醒した時にもう十七歳だったものね。わたしのほうはまるで問題にならなかったけれど……」

 曖昧に濁して口を閉ざす。本来の『リゥディエン』の人生が途中から変わってしまったことに対する、いつもの感傷だ。申し訳ないという引け目と、そうあるべく生まれたものであるという納得と。

 ともあれ、簒奪者ができることはせめて人生を真に全うすることだけだ。シェリアイーダは気合を入れるように、ぎゅっと拳を握った。

「皆が『姫君はすっかり変わった』と気付く頃には、今さら誰にも止められないぐらいの力をつけておかないと。やっと大学にも入れたのだし、地盤を固めましょう。リゥ、あなたのほうでも引き続き情報を集めて伝手をつないでおいて。当面の目的はふたつ。六彩府でわたしを受け入れてくれそうな学者を探すこと、教会内で人倫派との対話の窓口を開くこと」

 打ち出される方針に、リゥディエンはひとつひとつうなずく。最後に、

「あと、わたしへの求婚者は蹴散らしていいから」

 と付け足されてふきだした。肩を震わせて「御意」と笑う青年に、幼い姫君はわざとらしいほど真剣に念を押す。

「冗談じゃなくて、本気よ?」

「はい、お許しを頂いたからには私も遠慮なく」

「わたしが自分で吹っ飛ばしてやってもいいのだけど、さすがにこの年齢では相手に恥をかかせて逆恨みされてしまうから、お願いね。十二歳の子供に求婚してくるなんて本当にどうかしてるわ」

 姫君が憤慨して言ったのを受けて、やっとリゥディエンは真顔になる。

「存じませんでした。既に正式な申し込みが?」

「一件だけね。さすがに父上も、まだわたしの価値がどこまで上がるかわからないのに売るのは早いと判断して却下したみたい。リストゥーナ姫を知ってる? わたしの五つ上の姉様。去年に大臣のひとりのところへ嫁いだけど、対抗意識を燃やした貴族が一人、じゃあ当家にはシェリアイーダ姫をくれと言ってきたらしくて。じゃあ、って何なのよ馬鹿にするにもほどがあるわ」

「まことに無礼千万です」

「しかもただ政治的な競り合いとしてだけじゃなく、わりと本気でわたしを欲しがってる様子だった、って。侍女たちの噂だけど、『薔薇の宮』に乗り込んできそうな勢いだったとか」

「姫。その男の名を教えてください、首を獲って参ります」

 凍てつく声音で言ったリゥディエンに、シェリアイーダはおどけた笑みを見せた。

「あなたは本当にやるから、まだ駄目。大丈夫よ、『薔薇の宮』は安全だから。でも、もし外で手出ししてきたら、その時はよろしくね」

「御命承りました。必ずや」

 青年警士が胸に手を当てて畏まる。深く頭を下げて、彼は低くささやいた。

「何者にも、決して御身を辱めさせはしません」

 暗く深い水底から響くような誓いの言葉。その重さの理由は二人だけが知っている。シェリアイーダの面をふっと儚い微笑がよぎり、消えた。気を取り直し、彼女は空を仰いで伸びをする。

「つくづく今生は恵まれているわ。衣食の費えに心をすり減らすこともなく好きなだけ学べて、自分がどう生きたいかを――選べるかどうかはともかく、考える余地があって。何より、あなたがこんなにも近くにいてくれる。あなたは車輪が一巡りしたようだと言ったけれど、私は……一番良いところから始まって最悪のところまで揺れた振り子が、ようやっと元の位置に戻ってきたように感じるの。なんだか、神々の意図を邪推してしまいそう。最初の生がどれほど恵まれていたかを思い出しなさい、次の生を望むなんて馬鹿だったと納得しなさい、もう充分でしょう、なんてね」

 そこまで言って彼女は連れ合いを見上げ、複雑な顔の彼に助け船を出した。

「もちろん本気ではなくて、いにしえの神々ならそういう意地悪もやりそうだって話。救世教の神なら、最後にご褒美をくれたのかもと思えるけれど、でもあの神が救ってくれるのは死んだ後だし。どうかしらね」

「生きている間は基本的に試練ばかり与える神ですからね」リゥディエンも苦笑で応じる。

「ということは、浮かれていないで精勤しないとご褒美を取り上げられるかも? まぁ、お父様にかかれば全部ただの偶然なんだけど」

 二人は顔を見合わせ、同時にふきだした。同じ姿、同じ声を思い浮かべたことがわかったから。リゥディエンが笑いを堪えながら、姫君をさりげなく促して歩き出す。

「そうですね。過去を振り返れば因果の糸が見事に精緻な模様を織っているとしても、それは神の摂理などではなく、ただの偶然の結果のひとつに過ぎない。そんな風に言うでしょう。それでも私はそこに幾許の神秘と畏怖を感じずにはいられませんが、ともあれ、我々の今生に神々の意志が作用していようといまいと、私はあなたと共に生きるのみです。願わくば、喜びと幸いに恵まれて欲しいものですが」

「ええ。あなたにも」

 そっとささやきで応じて、姫君は警士の手を取る。ほんの一瞬だけ二人はしっかりと手を握り、それから何事もなかったように王宮へと帰っていった。

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