一章(2) 当世を学ぶ


 再会を果たして間違いなくここが今生の居場所と確かめたシェリアイーダは、次に『自分の人生』を手に入れるべく動き始めた。

 何しろ覚醒前のシェリアイーダは、何事につけ意志を強く持てずにいた。そのままでいたら早々と婚約を決められてしまい、外の世界へ出ることもかなわなくなってしまう。これが最後の人生になるかもしれないのに、そんな不自由で不本意な成り行きを受け入れたくはなかった。

(せっかく都に生まれたのに、大学も図書館も六彩府も、どこにも入らずに一生を終えるなんて、冗談じゃないわ。そもそも、あの人のほかに夫なんて欲しくない。家畜のように売り渡されてたまるものですか)

 いつもいつも、女の人生は不自由なものだった。今生ではようやく、女王にはなれなくとも少しは自分の意志を通せる立場になったのだから、これを活かさなくてどうするのか。

お父様シェイダールが始めたこと、シャニカが引き継いだこと、すべてどうなったのか確かめたい。必要なら手直しも……政治に関わるのは難しそうだけれど)

 シェリアイーダとして『薔薇の宮』で育つ間に得た経験からして、今の王宮はひどく窮屈だ。特に女にとっては。彼女は唇を噛んだ。

(いいえ、負けない。少なくとも、学問やウルヴェーユに取り組むことは許されているのだから、そこで地位を築けば王や大臣になんらかの提案をすることも叶うはず)

 決意と共に、まずは課せられる勉学に打ち込んだ。

 時代と共に文化も言語も変化しているため、新たに学ばなければならないことは多いが、それでも既に蓄えた知識は充分な基礎となる。彼女が本気を出せば、教師がもう手に負えませんと降参するまで、あっという間だった。

 ふた月が経つ頃には、シェリアイーダはずっと年長の王女たちにまじって指導を受けていた。

「ねえシェリアイーダ。いったいどうしたのかしら、急に熱心になって……もちろん良いことだけれど、皆、驚いているわ」

 授業の後で姉姫の一人に話しかけられたシェリアイーダは、相手の表情に警戒が潜んでいるのを見抜き、できるかぎり無害そうな笑みをつくって見せた。

「やりたいことが見付かったのよ、リストゥーナ姉様。目標ができたら、急に何もかも面白くなってきたの」

「やりたいこと、って?」

「世界の秘密を知ることよ。もちろん王女のつとめをおろそかにするつもりはないから、大学にも行くけれど、六彩府で『大いなる御柱』を研究している人たちの仲間に加わりたいと思っているの」

 にこにこと、身のほどを知らない子供が夢を語るように、あくまでも純然たる学問への興味関心だというふりを装って語る。姉姫リストゥーナは案の定、驚き呆れた内心を上品に包み隠した笑みを広げた。そこに安堵の気配もまじっていることを、シェリアイーダの目は見逃さなかったが、むろん指摘はしない。

「大きな夢ね。ええ、とても素敵だわ。でもシェリアイーダ、あまり勘違いしては駄目よ」

「勘違い?」

「わたくしたちは、何よりもまず王家の姫であるということ。それを忘れないで。世界の根にいたる神秘を解き明かそうと挑むのは、とても大胆不遜なことでもあるわ。つまり殿方の仕事よ。あなたはとても賢いけれど……」

「ご安心なさって、姉様。先頭に立つ人の旗を奪って突き進もうなんて、そこまで欲張ってはいないから」

 シェリアイーダは思わず苦笑して、姉姫をなだめた。出しゃばった女がどんな目で見られ、どんな妨害を受け不利益を被るか――彼女は既に先例を知っているのだろう。実際はシェリアイーダのほうこそが、より骨身に染みているのだが。

 幼い妹を案じてたしなめるつもりだった姉姫は、先回りされて複雑な気分になったようだが、それなら良しと満足した様子でうなずいた。

「きっとあなたなら、皆の助けになれるわね」

「だといいけれど。あっ、そうだ、質問があったのに……先生はもう帰られたかしら」

 しまった、とシェリアイーダは顔を上げてきょろきょろする。講堂代わりの大部屋に残っているのは、姫たちとその侍女だけだ。慌てて書字板や巻物をまとめて抱え、侍女を待たずに部屋を出る。廊下を見渡し、明るい光の射す出口へ駆けつけたところで、おっと、と足を止めた。

 とりどりの薔薇が咲き誇る広い庭園の向こうに、王子たちの暮らす『糸杉の宮』がある。姫君たちへの授業を終えた教師は、次にそちらへ向かうつもりだったらしい。庭園の中ほどで、ひとりの王子と語らっている姿が見えた。

 追いついた侍女が横に立ち、残念そうな吐息をもらした。

「……一応、後でこちらに戻られるようにお願いして参りましょうか」

「いいわ、次の時に訊くから」

 シェリアイーダがすんなり諦めたので、侍女は面倒を避けられてほっとした。教師と議論するのも、庭園を自由に歩くのも、あちらのほうが優先だ。第五妃の娘にすぎないシェリアイーダの要望は、正妻の子である第三王子の邪魔をしてまで通せるものではない。

「帰りましょう」

 シェリアイーダは屈託のない声音で軽く言い、侍女を促す。宮の中へ戻る手前で、話し声を聞きつけたか、庭園の王子がこちらを振り向いた。射るようなそのまなざしに縫い止められ、シェリアイーダは一瞬、息を詰めて動きを止める。離れていてもわかるほどの、暗い憎しみが込められた視線。

 覚醒前ならば怯んでいたが、今の彼女は兄王子からの敵意を、真正面から受け止めた。恐れず、怒りや反発のような負の感情を返すこともせず、ただ静かに。

 反応の違いに気付いて兄王子は眉をひそめた。だがそこで人目も憚らず幼い妹を嘲り侮辱するほど、出来の悪い少年ではない。少なくとも、この頃はそうだった。彼は何も言わず、ふいと顔を背けて教師とともに『糸杉の宮』へと歩き出した――片足を少し引きながら。

 今度は侍女も安堵を隠さず、大きなため息をついた。シェリアイーダは同情的に苦笑し、ぽんとその腕を叩いてやる。苦労かけるわね、と口にしそうになって、いくらなんでも子供の台詞ではないと思い直した。

「レーシュ兄様……足だけでも、いつか治して差し上げられたら良いのに」

 ぽつりとつぶやいた彼女に、侍女がなんとも複雑な声を返す。

「兄上様は望まれないかもしれませんよ」

「たぶんね。でもわたしがするのでなく、誰かに方法を伝えてばれないようにすれば良いと思うの」

 シェリアイーダは寂しげに微笑んだ。

 三歳年長の兄レーシュが、無謀な挑戦で『路』を毀損したのは、シェリアイーダが覚醒する一年前のことだ。その頃のシェリアイーダはただぼんやりと過ごしていただけなのに、病み上がりの兄から突然激しい憎悪の目を向けられるようになって、身に覚えのないことに困惑するばかりだった。今なら理由はわかるし対応も変えられるが、当初の彼女のそうした「自分には関係ない」といわんばかりの鈍感さもまた、レーシュの怒りを煽ってきたのだろう。

(可哀想な子)

 心に浮かんだ思いを、シェリアイーダは頭を振って消した。万が一にも憐憫の気配を悟られたら、彼に致命的な屈辱を与えてしまうだろう。妹の魂が女王シャニカのものであるなどと知る由もないのだし、仮に知ったところでやはり痛撃に変わりはない。

(気をつけなければね)

 シェリアイーダは自分に言い聞かせた。今の自分は、偉大なる王に最も愛された最初の娘にして女王となったシャニカではない。他の王族、とりわけ年長の男たちの機嫌を損ね敵意を招かぬよう、慎重に振る舞わなければ。資質に優れるという称賛も、王子ではなく姫に対するものであるならば、将来の出世を約束しない。ただ“同等以上に優れた子を産むことが可能な女”という、いわば資産としての評価でしかないのだから。



 とはいえ彼女も、そうした慎重さが必要ないところについては、自分の望みを通すことに遠慮しなかった。

「今日から晴れてわたしの専属警士ね、リゥディエン。今後ともよろしく頼みます」

「この上なき光栄、謹んでお受けいたします。この身を剣とも盾とも、存分にお役立てください」

 跪いて頭を垂れた少年に、シェリアイーダは輝くばかりの笑みを降らせた。

 王族が下々の者から『お気に入り』を取り立て、身辺に置くことは珍しくない。高位の官職や特別待遇を与えるとなれば問題も出てくるが、この程度のことは、それこそ路傍の花を無造作に摘むのと同じ感覚でおこなわれている。

 王宮で貴人のそばに仕えるのが人間ばかりで、労僕しもべはほとんど目に入らないのには、そうした理由もある。単に彼らの容貌や知能だけが問題なのではない。王族の誰かに自分の存在を見てもらう、というのは、それだけで特権になるのだ。そんな機会は労僕ごときに与えるものではない。

 もっとも、リゥディエンが異例の若さで自分の剣を与えられ、王女の身辺警護を任されたのは、単に贔屓のみがゆえではなかった。

 薔薇の宮を出て、王宮の敷地内にある図書館へと向かう道すがら、シェリアイーダは隣を歩く少年警士を見上げて話しかけた。少し離れて従う侍女に聞かれぬよう、ひそひそ声で。

「来年になると言っていたのに。無理をさせたかしら」

「いいえ、まったく。記憶が戻ればウルヴェーユはもちろん、武術についても一足飛びに成長しますから。無理どころか適度に手抜きをしなければ、あらぬ疑いを招きかねませんでした。……姫様のほうは?」

「人前で術を使うことは極力避けているから、たぶん大丈夫。急に勉強熱心になって戸惑っている人たちはいるけれどね。世界の神秘に触れたいと言ったら、それは殿方の仕事ですって諭されたわ」

 やれやれ、と肩を竦めてシェリアイーダは空を仰ぐ。ちょうどその視線の先に、巨大な光の柱がそびえていた。目を眩ます太陽の光とは異なり、内なる路で感じ取る光。足を止めた彼女の横でリゥディエンも佇み、同じ空を眺める。

「……物心ついた頃から見慣れているはずですが」と彼はつぶやいた。「改めて畏怖を感じる光景ですね」

 ええ、とシェリアイーダも小声で返した。お互いに言いたいことはわかる。かつてあんな光は、この都にはなかった。特別な資質を持つ者だけがその存在を知っていた、天から地へと降り続ける理の力。あれを、今この時代の人々は、日常当たり前に存在する風景の一部と認識しているのだ。

 どんなに心を打つ絶景でも――威厳に満ちた峻峰、虹と共に歌う滝、輝く紺碧の海も――ただ変わらずそこにあるものと思えば、気にしなくなってしまう。時たまふと、その素晴らしさを見直すことはあっても、いちいち心奪われていては生活がままならないから。

 シェリアイーダは自分の中にある古代の記憶と、幼少期から馴染んできた日常の感覚との齟齬に落ち着かなくなり、瞬きして顔を下ろした。

「今、あの下は六彩府になっているのよね」

「はい。大いなる御柱を守っているのは彩学者たちです。かつての神官の一部が、姿と役割を変えたようなものですね」

 リゥディエンがささやきで答えた。大神殿は既にシェイダールの時代に祭儀院と大学に分割され、かつて学究派と呼ばれた人々が大学の中心になった。ウルヴェーユと、それに付随して幅広い分野を探究する場。時代につれて新たな大学も設立され、語学をはじめとする一般の学問はそちらに場を移し、今あの建物は六彩府となりウルヴェーユを究める者が集っている。

 立ち止まったままの姫を案じて、侍女が近付いてきた。シェリアイーダは表情と雰囲気を変え、いかにも好奇心いっぱいにリゥディエンを見上げる。

「あなたはあの『御柱』のそばまで行ったことはある? 街で育ったのでしょう、六彩府には入れるのかしら」

「残念ながら、六彩府に一般人は入れないのですよ。見学のために開放されているところもありますが、世界の柱に触れられるのは彩学者の中でも特に優れた、ほんの一握りの者だけという話です」

「それならわたしも、すごく頑張らないと駄目ってことね」

 いささか難しそうに眉を下げた王女に、後ろから侍女が慰めの言葉をくれた。

「姫様でしたら、学者など目指されなくとも機会はありますよ。紀元祭や折々の祭礼で大事なお役目を受けられるお歳になられたら、最奥で『御柱』を間近に見られる筈ですから」

「そうだったわね」

 シェリアイーダは曖昧にうなずいた。近くで見るだけが望みではない、その力に触れて世界の神秘をわずかなりとも理解したいのだ、と言いたいところだが、そこまでの野心を度々口にするのは軽率だろう。

 リゥディエンがそつなく話題をつなげた。

「王家の祭儀がおこなわれる時だけは、六彩府も昔のように神殿の役目を果たし、我々庶民もいつもより簡単に中へ入ることができます。古い時代のしきたりも、時にありがたいものですね。救世教の祭礼だと、あまり露店が賑わうということもありませんし」

 茶目っ気を出して笑いかけた少年に、王女は興味を引かれて身を乗り出す。当節は救世教のほうが一般的で、信心の程度はさまざまながら、大半の人々にとって生活のどこかしら一部に教会がかかわっている。王族と、一部にまだ生き残っている古い神殿の関係者だけが、古代の伝統を受け継いでいるのだ。

「そうなの? わたしは教会の催しをあまりよく知らないの。もう少し大人になったら呼ばれる機会があるかもしれないけど……露店が出ないのなら、飲んだり食べたりはしないのかしら」

「まったく出ないわけではありません。ですが私たちの場合――ああ、私の家族もご多分に漏れず信徒ですが、ごちそうを食べて楽しむのはそれぞれの家庭や、親戚、友人知人が集まって、という形が多いのです。教会で礼拝をおこなった後で」

「往来や広場で歌い騒いだりしないなんて、救世教徒はお行儀が良いのね」

 疑わしげな響きで言った世間知らずの箱入り姫に、リゥディエンは微笑んで答えた。

「典礼と関係のない催しだと、無差別に往来で騒ぐこともありますよ。武芸の競技会や蹴球の試合の時などは、鍋いっぱいの煮え立つ豆かというような……もちろん敬虔で行儀の良い信徒なら、そういう馬鹿騒ぎに加わったりはしないでしょうが」

「あなたも友達と騒いだりした?」

「たまには」正直に認めて首を竦める。「ですが常々両親に戒められておりますから、楽しみつつも節度は守ってきたつもりです。少なくとも、姫様のおそばに仕えることで御名を穢す恐れはありません。ご安心を」

 頼もしい保証の言葉に対し、シェリアイーダは、あなたはいつだってそうだったわね、とまなざしで理解を伝え、一方で侍女は曖昧な表情でほっと抑えた吐息を漏らした。おや、とシェリアイーダはそちらを振り向く。

「リゥのことで何か気がかりでもあったの?」

「ああいえ、失礼を。彼の身元について心配していたのではありません。もちろんそこは事前に吟味されている筈ですから。ただ近頃、救世教徒の一派に過激なものも現れているとかで、都といえども王宮の外の者には安易に気を許してはならないと、改めて思ったのです」

 不安に翳る声音でそこまで説明し、侍女ははっと気付いて頭を下げた。

「姫様にお聞かせするような話ではありませんでした、どうぞお忘れください」

「まさか。何も謝ることはないわ。『薔薇の宮』にいたら外の世界のことなんてろくに教えてもらえないんだもの、何でも聞かせて」

「ですが、このような下々の噂など、お耳が穢れます」

 渋る侍女相手に、シェリアイーダはわざと子供っぽく、ぷっと頬を膨らませた。

「お父様や大臣たちの耳に入るような“高貴なお話”は、聞かせてもらえたとしても、どっちみちよくわからないわ。それよりあなたの話を聞きたいの。駄目?」

 まあ姫様、と侍女が苦笑をこぼす。そうだ、相手はほんの子供ではないか、と警戒を緩めたようだ。その隙に、シェリアイーダはことんと首を傾げて素朴な疑問を装った。

「救世教って、昔からいろんな“異端”が出てきては身内争いして潰れていったんでしょう? そういう、よくある話、ではないの?」

「さようでございますね。きっと彼らもまた、よくある話の顛末を辿るのでしょう。ですがそれまでに、まかり間違って姫様が巻き込まれてはいけません。勉学に励まれるのは素晴らしいことですが、公の行事でもないのに街に出て六彩府に入ろうなどと試みられるのは、危のうございますよ」

 侍女は脅しつけるような低い声音になった。藪蛇だったか、とシェリアイーダは顔をしかめ、内心の落胆を隠すために怖がるふりをする。

「そんなに見境なく暴れ回る人たちがいるのなら、公の行事だって危ないじゃない。そもそも街の大学で学んでいる兄様や姉様もいるのに、大丈夫なの?」

「大学は安全でございましょうけども……」

 侍女が曖昧にぼかしたことを、リゥデイエンが明確な言葉にした。

「ああ、侍女殿は人倫派のことを案じているのですね。彼らはウルヴェーユを罪のわざだと主張しているから、六彩府は危ない、と」

「そうなの!?」

 今時まさか、と言いそうになったのを寸前で堪え、シェリアイーダは頓狂な声を上げた。ウルヴェーユがまだ正体不明の怪しい魔術妖術かのように警戒されていた古代ならともかく、もはや誰の生活にも欠かせないものとなった現代で、まさかそんな。

 どういうことか、と視線で問いかけた彼女に、リゥディエンは慎重に言葉を選んで――大人同士の会話でなく子供への説明に聞こえるように――自分の知る当世事情を教えてくれた。

「いつの世でも、皆が当たり前に頼っているものを攻撃すれば、簡単に注目を集められるものですから。人倫派の言い分では、ウルヴェーユは世界の理を人間の欲得で穢すもの、だそうです。というのも、彼らの中心にいるのはどうやら……無径者であるらしく」

 それを聞いて、ああ、と納得しかけたシェリアイーダは、自分の中の子供がつまずいたのに気付き、急いで取り繕った。

「むけいしゃ、って?」

 おっと、とリゥディエンも説明を中断する。横から侍女がいとわしげに口を挟んだ。

「生まれつき『路』を持たない者のことですよ、姫様。労僕のようなもの」

「もちろん無径者も同じ人間です」素早くリゥディエンが訂正する。「ただ『路』が無いだけで、ほかは我々と変わりません。しかしそれがゆえに、内なる路に理の力を通せない。すなわち根源の力に人の欲を混ぜ込むという、人倫にもとる――人の道を外れる罪に、決して加担しない。だから我々は清いのだ、という理屈を通せるわけです」

 おわかりいただけましたか、とリゥディエンは姫君に向かって教導者ぶった微笑を見せてから、侍女のほうに向き直った。

「人倫派について誰からどのようにお聞きになったか存じませんが、それほど恐れる必要はないと思いますよ。そもそも無径者が多いのは世界の中心たる『御柱』から遠い土地ばかりですし、人倫派の活動もそうした地方で、少人数が時々集まっては教会に異を唱えている程度のこと。地方の軍に在籍する親類からの情報ですので、信頼が置けます。もちろん市街には、姫様が気分でふらりとお出かけになるには危険な場所も多いことは確かですが。六彩府ほどの、真っ当かつ警備の厳重な場所であれば、暴徒に襲撃される恐れはありません」

 滔々となされる説明は、侍女に対すると同時に王女に聞かせるためでもある。シェリアイーダはふむふむと理解の表情で耳を傾けており、一方で侍女はまだ信用できないと言いたげな顔だ。リゥディエンは駄目押しの笑顔を見せた。

「いずれにせよ、何があろうとシェリアイーダ様は私がお護りいたしますゆえ、どうぞご安心を。姫様も、無謀と勇気を取り違えるほど、目の曇った方ではありますまい」

 ですよね、と悪戯っぽい目つきをくれたリゥディエンに、シェリアイーダは何とも言い返せずしかめっ面をする。珍しくやり込められた姫君を見て、侍女は堪えきれず笑いをこぼした。

「この頃わたくしどもは姫様に言い負かされてばかりですのに、リゥディエン殿はどうやら姫様の手綱を巧みに捌かれるようですね。このように若い方が警士など、一緒になって無茶をしまいかと案じておりましたが、一安心でございます。重々よろしく頼みましたよ」

 信頼を預けられ、リゥディエンは畏まって一礼する。むろんこっそりと、おや見抜かれていましたよ、と愛しい共犯者に目配せしながら。



 ――そう、この時はまだ、わたしたちのみならず世間一般の誰一人として、人倫派が自然消滅どころか、ワシュアールの歴史において重要な役割を果たす一大勢力になろうとは、まったく予想していなかったのだ。

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