第二部 夢

一章(1) 邂逅





 暗くて寒くて誰もいない。ただ繰り返し夢を見る。

 生々しく鮮やかに、今その時にいるように。

 変えられない、やり直せない記憶をいつまでも。




  一章



 ああ、またか。

 幾度となく見た悪夢の訪れを、彼女は感慨もなく認識した。

 薄暗い屋内。肌に触れる冷たさ。声は聞こえない、ただ気配だけが伝える慟哭。床を濡らす深紅と、生白い女の腹、投げ出された足。

 ――かあさま。

 呼びかける幼い声。刹那、時間が飛び、父が振り向く。

 ――怖い夢を見たのか。もう大丈夫だぞ、よしよし……

 癇の強そうな顔を微笑に緩ませ、両手を広げて抱きとめてくれる温もり。だがそれも、じきに遠ざかる。

 物思いに耽る父を残し、部屋を去る。手を引いてくれるのは、黄金を帯びた人。

 ――わたし、いっぱい勉強する。そして必ず、死なない術を見付けるわ。

 少女は誓う。永遠の訣別を断固として拒む強さを込めて。

 ――魂そのものは留められなくとも、記憶だけでも、想いのひとかけらでも。身体が死んでしまった後、いつか必ずまた巡り会えるようにしてみせる。だから……


 お願い、置いて行かないで。ひとりにしないで。


「……―シュ」

 唇が動き、かすれた声が名前を紡いだ。瞬きし、横たわったままぼんやりと宙を見上げる。高い天井は薄暗がりに覆われ、華やかな色彩も今は静かに沈黙していた。

 ゆっくりと身を起こし、彼女は両手で顔を覆って深く息をついた。

 自分が何者であるかを思い出した後は、いつもこうだ。何より逃れたかった喪失の悲嘆に追いつかれ、打ちのめされる。

 遠い遠い昔に失った、記憶もおぼろな母。父はもう少し一緒にいてくれたが、早くに旅立ってしまった。彼女が『死なない術』を見付けるよりも早くに。

 そして傍らに残ってくれたのは、愛する夫ただ一人。

「リッダーシュ」

 確かめるように、改めて声に出す。金茶の髪と森緑の目、晴朗な笑みが脳裏によみがえった。鮮やかに、眩しい黄金のきらめきを伴って。

 次いで己の胸に手を当て、慎重につぶやく。

「シャニカ」

 どくん、と心臓が打った。わたしの名前。わたし。違う、今の名前は。

「イーダ……シェリアイーダ」

 口にしたそれは、まるで他人への呼びかけのようだった。

 ごめんなさい、と泡沫のように謝罪が浮かんで消える。つい昨夜までは確かな存在であったシェリアイーダという少女への、哀悼。心のどこかに空ろを宿し、何かを忘れているような気がかりを常に抱きながらも、日々を精一杯生きていた少女は、もういない。消え去ってはいないが、別の魂に取り込まれてしまった。

「これで何人目かしら。今生も絆は切れなかった……彼もどこかにいるのね」

 無意識に独りごちながら掛け布団を押しやる。上で丸くなっていた黒猫が、迷惑そうに唸ってもぞもぞした。ふっと少女が失笑すると、黒猫は胡乱げに緑の目を片方開けてじろりとこちらを睨んだものの、興味なさげにまた寝直してしまう。

「そう。おまえはあるじの魂が入れ替わっても、気にしないのね。ふかふかの寝床さえあれば」

 ささやきながら手を伸ばし、指先でそっと額を撫でてやる。これは身体に染みついた、シェリアイーダの仕草だ。

「姫様、お目覚めですか」

「ええ。お入り」

 耳慣れた女性の声に答えながら、素早く記憶を総ざらえする。

 わたしはシェリアイーダ姫。現ワシュアール王ジョファルの娘、母は第五妃で故人。ここは都の王宮、姫君たちが暮らす『薔薇の宮』。わたしはここで毎日、内なる路を辿って標を読み解いている。作法と教養を修め、王族としてそれなりの経歴を積んだらすぐにも、優れた資質を持つ殿御の子を産むために――それだけのために。シェリアイーダはまだ十歳だが、その『路』の深さと強さゆえに早くも期待の目を向けられている。

 はしたなくも舌打ちしそうになって、彼女はぐっと自制した。扉を開けて侍女が入ってきたからだ。そちらを振り向き、木の扉に繊細な透かし彫りが施されているのを見て取ると、シェリアイーダは曖昧な表情になった。

(目覚める度に、素敵な美術工芸品が増えているのは楽しみだけれど。あらゆるわざも進歩して、暮らしは便利で豊かになっているし、住み良い時代になっている……お父様にも見せたかった)

 とうに地上から去った魂を想ってしまい、いけない、と考えを修正する。今の父親は、黒髪と紫の瞳を持つあの夢の中の人ではない。似ても似つかぬ凡俗の王。

 ぎゅっと目を瞑り、置いて行かれた寂しさと思慕を抑え込む。枕元に洗面道具を整えていた侍女が気遣わしげに眉を曇らせた。

「どうなさいました? お加減がすぐれませんか」

「大丈夫。なんでもないの」

 違和感を抱かせぬように、シェリアイーダ姫らしい口調を意識して答える。魂が馴染むまで、少しの間ぎこちなくなるのはいつものことだ。大丈夫、今回も問題ない……。

 まだ不安げな侍女に、姫は笑みを見せてからいつも通りに顔を洗った。

 着替えが済むと、朝食が運ばれてくる。温かい香気の立ち上るパンは、手のひら大の丸形に花模様の切り込みが入っている。野菜と豆のスープ、ゆで卵。干し果物入りの焼き菓子。チーズとヨーグルト。蜂蜜の小さな壷も。何の祭日でもないのに、当たり前のように贅沢に、王国各地の豊かな実りが集められている。

(これ全部わたしが食べるの?)

 シェリアイーダにとっては毎朝の見慣れた内容だとわかっていたが、改めて見ると少々唖然とする。しかし一口食べると、育ち盛りの身体がもつ旺盛な食欲が目を覚ました。目を輝かせてせっせと口を動かす。気付くと、あれほどあったのが嘘のように、器はすべて空になっていた。

 胃が落ち着くまでの間、改めてゆっくりと身繕いをする。と言っても、彼女自身はじっとしているだけだ。侍女が三人がかりで、髪を梳かし結い上げる。白、赤、緑、青、黄、紫。六色の石を通した銀糸が、露を宿した蜘蛛の巣のように黒髪を飾る。六彩のさざめきが路に優しく働きかけるのが感じられた。

 身繕いが終われば様々な日課が待っている。ウルヴェーユの修養だけでなく、いずれ王族の一人として貴族官僚と関わりを持つために、公用語たるワシュアール語の技術を磨かねばならないし、地理をはじめ最低限の知識は幅広く修めねばならない。たとえ結局ただ女の部屋に押し込められ、子を産み育てるだけで終わる人生だとしても、一族に恥をかかせてはならないから。

 『糸杉の宮』で育つ王子らと違って、武芸を強制されることはないが、代わりに姫たちは手芸や楽器演奏を求められる。日々、自ら何をしたいと決める余裕もなく、次はこれ、その次はあれ、と侍女や教師らにパン生地よろしく捏ね回されるばかりだ。

 そうして過ごしながら、彼女はゆっくりとシェリアイーダの人生に魂を馴染ませていった。小さな手足や幼い声に、久方ぶりの王族の生活に。

(またここで暮らすことがあるなんて。さすがに様変わりしているけれど、やっぱり少し懐かしい)

 ワシュアールの都は『大いなる御柱の家エストゥナガル』から一度もよそへ移されたことはない。だが街は幾度か火災などで再開発され、大学や図書館が建ち、王宮も増改築されて、シャニカの時代とは大きく異なっている。

 それでも、かつて歩いた敷石を踏み、宝石の象嵌された美しい石柱にもたれ、同じ窓から変わらぬ青空を見上げる時、昔の意識が現在を飲み込むほどに強まってしまう。

 懐かしい面影が次々に脳裏をよぎり、胸が締めつけられる。ひときわ恋しい相手を想い、彼女はぎゅっと目を瞑った。

(ああリッダーシュ、あなたもここにいる? 今生ではうんと近くにいてね、捜し出すのに何年もかかったりしないで。どうかお願い……ひとりにしないで)

 苦しいほどの思慕を押し込めて吐息を逃し、瞬きして涙を堪える。胸に生まれた星のような予感に導かれるまま、六色の糸で作られた毬を手にして部屋を出た。

「姫様、どちらへ」

 慌てて侍女が追ってくる。シェリアイーダはあどけない笑みを浮かべて見せた。

「ちょっと散歩に。お勉強の時間まで、まだ少しあるでしょう?」

「はい。でも……」

 あまり感心しない、とばかり侍女は眉をひそめて言葉を濁した。王女たるもの、用も無いのに軽々しく『薔薇の宮』から外へ出るものではない、とたしなめたいのだろう。窮屈な時代になったものだ、とシェリアイーダは内心で肩を竦めた。かつては王子も王女も分け隔てなく、おのおの好奇心や活発さを発揮して、広い王宮を自由に行き来していたというのに。

(まぁ、私は子供だから、そんな決まりごとは何も知らないのよ。ごめんなさい!)

 侍女に向かってにっこりすると、シェリアイーダは毬を抱いて足の向くままに歩き出した。毬を投げたり蹴ったりしながら走るわけではないのだから、行儀良く散歩するぐらい大目に見てほしいものだ。

 覚醒してから初めて宮の外へ出た彼女は、すぐに様々な景色に心を奪われた。

 知っている。この場所、この景色。この音色を。

 水路を流れるさざめきは千年を経て変わらず、改修された建物も昔のままの場所が残されており、高い位置にある王の私宮殿や豪壮な謁見殿は今もその屋根で空を衝いている。

 ひとつひとつ記憶を確かめ、新たに加わった建物や入れ替わった草花に目で触れながら、シェリアイーダは足を速めた。後ろで心配にそわそわしている侍女が、もう戻りましょう、と言い出さないうちに、予感が導くところまで行かなければ。

(存在を感じる……でも本当に、まさかこんなに近くに?)

 高まる鼓動を強いてなだめると、毬を抱きしめるようにして口元に寄せ、小さな声でことばを注ぐ。

「《糸手毬、吾が糸を辿り導け 伴なる星へ》」

 術に気をとられていたために、周囲への注意がおろそかになった。

「あっ」

 庭園をめぐる回廊に出た瞬間、思わず声が漏れた。ほんの数歩のところで、箒を持った人影が掃除をしていたのだ。

 それがただの召使であったなら、彼女も怯みはしなかったろう。少なくとも、声を漏らすほどには。だがそこにいたのは人間ではなく、労僕しもべだった。

 むろんシェリアイーダにとっては、物心ついた時から日常のなかに存在するものだ。滅多に目にすることはない――貴人のそばに仕えるのは人間のみだから――とはいえ、王宮内にも、卑しいものに押しつけたい雑用や汚れ仕事は数多い。それらを担っているのが労僕たちなのだ。

 人間の似姿ではあるが人間ではない、奴隷よりも卑しく、せいぜい家畜よりは頭が良くて使い道が広いというだけの生き物。否、厳密に生き物と呼べるものかも怪しい。何しろ彼らは自ら繁殖することなく、工廠でつくられるのだから。

 その姿を一言で表すなら、人間の出来損ない、というのが最も的確だろう。基本的には人間と同じだが、ざらついた硬い皮膚は異様に青白く、頭髪も眉も睫毛もごく薄くまばらで、平均して小柄だが手足はひょろりと長く、なんとも歪な印象を受ける。知能は幼児並にあるが、思考や感情といった精神の働きはきわめて弱い。

 そうした生き物であるから、日常の貴人の行動から外れた姫君の出現にどう対応して良いのか分からず、掃除係の労僕はただぽかんと立ち尽くしていた。

「姫様! なんてこと、こんな所に……誰か!」

 侍女が駆け寄り、貴い姫君の視界から卑しい労僕を隠すように立ちはだかった。声を聞きつけて、すぐにそこいらから武装した男がばらばらと現れる。王宮内や王族の身辺警護を担う警士たちだ。

「さっさとどこかへやって。姫様のお目を汚さないうちに」

 侍女が鋭くシッと獣を追うような声を出す。労僕は身を竦ませた。人間からその音を浴びせられた時に何が起こるか、よく知っているからだ。すぐに警士が槍を向け、労僕を追い立てにかかる。シェリアイーダは急いで侍女を押しのけ、身を乗り出した。

「駄目よ、乱暴にしないで!」

 思いがけず制止され、警士が面食らった顔で振り向く。侍女が「いけません」と引き戻そうとしたが、シェリアイーダはそれを振り払って労僕に歩み寄った。

「驚かせたうえに仕事の邪魔をしてしまって、ごめんなさい。あなたは何も悪くないのよ、そのまま掃除を続けてちょうだい」

 語りかけられた労僕は目をきょときょとさせて反応に困っていたが、掃除を続けるように指示されると、それなら理解できる、とうなずいて箒を持ち直した。シェリアイーダはにっこりして邪魔にならない位置まで下がると、警士たちを見上げてねぎらった。

「あなたたちにも、騒がせてしまってごめんなさい。でも、すぐに駆けつけてくれたことは感謝します。これからも頼りにさせてくださいね」

 王族ならば幼くともこの程度の発言はおかしくない。だがほんのしばらく前までのシェリアイーダには、これほどの利発さはなかった。侍女は当惑と不安に眉をひそめ、警士らが礼節を保ちながらも疑わしげな目つきになる。

 シェリアイーダが無邪気を装ってごまかそうとしたその時、胸に宿る星がひときわ強く光った。

(そこにいる!)

 折良く聞こえた鳥の声に驚いたふりをして、ぱっと振り向く。

「何かしら、今の――あっ!」

 はずみで取り落としたと見せて毬を放つ。反射的に数人が手を伸ばしたが、毬はそれをかいくぐり、意外な勢いで転がっていく。

「待って、待って」

 シェリアイーダは慌ててそれを追いかけた。侍女が制止と悲鳴の相半ばする声を上げたが、肩越しに「大丈夫、すぐ戻るから!」と答えただけで止まらない。

(そこにいるのね、ほら……見つけた!)

 廊下の先で、一連の騒ぎを見守っていた少年が一人、自分の方に転がってくる毬を屈んで受け止めた。警士の制服を着られる体格年齢ではあるが、まだ王宮の作法に不慣れであるらしい。本来ならばそこで膝をつき頭を下げて待つべきところを、彼は目を丸くして突っ立ったまま、不躾にまっすぐ姫君を凝視していた。

 シェリアイーダはその胸に飛び込みたい衝動をぎりぎりで抑え込み、ほんの二歩ばかり空けて足を止めると、

「捕まえた!」

 歓喜に弾む声と輝く笑みを少年に浴びせた。驚きに見開かれた緑の双眸が、不意に優しい理解と喜びに緩み、細められる。彼はゆっくりと恭しく頭を垂れ、姫様、と一言だけ答えた。同時に、

「リゥ!」

 焦った叱責の声が飛んできた。シェリアイーダは振り返り、駆けつける警士と眼前の少年を見比べた。どちらも金茶色の髪で、顔立ちや全身の雰囲気が似通っている。シェリアイーダが関係を確認するより早く、警士が少年の肩を押さえつけた。

「馬鹿者、早く跪け! 姫様、愚息がご無礼いたしました。まだ見習いの身ゆえ、どうぞご容赦を」

「大丈夫よ、何も無礼なことなんてされていないわ。彼が跪いていたら、私の毬は今頃行方不明になっているところだもの。第一あなただって、いちいち畏まっていたら仕事にならないでしょう。それはもちろん、ただお話しするだけの時は座るか屈んでもらったほうが、わたしは首が楽だけど」

 軽い口調で言われてはっと気付き、警士は慌てて息子に並んで膝をつく。シェリアイーダは「ありがとう」と愉しげな声をかけ、しげしげと親子を眺めて言った。

「親子ともに王宮の守りについてくれるとは、頼もしいですね。リゥ、といいましたか」

「はい。リゥディエン=バラジと申します」

 答える声に黄金のきらめきが宿る。シェリアイーダは目を細めた。

「良い名ですね。それに美しい声だわ」

 後ろで侍女がくらりと目眩を起こしたような仕草をしたのがわかり、シェリアイーダは首を竦めた。リゥディエンが顔を伏せて笑みを隠した横で、その父は戸惑いを抑えて真面目な顔を保つのに苦労していた。

「愚息にはもったいないお褒めのお言葉、まことに光栄でございます」

 自惚れさせないでくれ、との心情がまともに声音にあらわれている。これ以上、王女の気まぐれに付き合わされるのは困る、というのも。シェリアイーダは察しの良いところを見せ、

「二人とも、今日はありがとう。これからもよろしく頼みますね。リゥディエン、機会があればぜひまた声を聞かせてください」

 寛大にうなずく仕草でもって、持ち場に戻ってよろしい、と示した。ほっとした様子で警士が一礼し、立ち上がって息子を促す。去り際に王女と少年が一瞬ながら深いまなざしを交わしたが、気付いた者はいなかった。



 その夜更け。

 当然のように、シェリアイーダは警士宿舎で就寝中のリゥディエンのもとへ忍び込んだ。まさかの夜襲を受けて少年は動転し、叫びそうになったのをすんでのところで堪える。雨戸の隙間から射し込む月明かりで相手の正体を知ると、彼は唖然とし、次いでぎりぎりまで声を抑えてささやいた。

「姫! なんてことを、誰かに見られたら私の首が飛びます」

「見られないし、そうなってもわたしが守るわ。大丈夫よ、外に声は漏れないから。あなたがもう個室をもらっていて良かった」

 シェリアイーダは言い返したものの、強気な態度はそこまでだった。ああ、と嘆息ひとつ、あとは声を詰まらせて相手の胸に飛び込む。小さな身体を、まだ華奢な少年の腕が抱きしめた。『みち』が共鳴し、古い記憶がいくつもいくつも、時の重なりと共に波となってしるべを洗う。

 ややあってリゥディエンがささやいた。

「こんな無茶をなさらずとも、私があなたのもとへ参りましたのに」

「それこそ無茶だわ。ウルヴェーユについてはわたしのほうが上手だってこと、あなたも認めるでしょう。今は皆が随分いろいろな術を使えるから、昔みたいに何でもごまかせるとはいかないでしょうけど」

「そうではなく」

 リゥディエンが苦笑し、なだめるように姫君の頬に手を添える。

「まだこんなに幼くていらっしゃるのだから、焦らなくとも時機を待てば、一人前の警士になった私を御身の警護に取り立てられましょうに」

「もちろん、それはそれでやるつもりよ。でもそれまでずっと、せいぜい王宮内ですれ違うだけで我慢するなんて耐えられないわ。あなたは平気なの? ろくに話もできないまま、あと何年も」

「……無理でしたね、確かに」

 降参です、と少年が笑う。シェリアイーダはつくづくとその顔を見つめ、改めて一音一音ゆっくりと名を呼んだ。

「リッダーシュ……リゥディエン。不思議ね、今生の名も少し響きが似ているわ。それに顔立ちも、声も。あの頃のように誰彼かまわず魅了してしまう黄金ではないけれど」

 ふふ、と思い出して笑う。彼の今の声は、黄金ではあるがもっと穏やかに透き通っていて、少しだけ若葉のような緑が混じっている。より自然に溶け込む陽射しのような色。

 彼のほうも幼い姫を見つめ、ふむとひとつうなずいた。

「あなたもですね、シャニカ様。名の響きも、お姿も。お声はあの頃の杏色ではありませんが、お父上と同じ白銀しろがね……そしてこの王宮でふたたび相見あいまみえた。まるで千年を経て、最初のところへ車輪が戻ってきたかのように」

 二人は顔を見合わせ、ふと沈黙した。長い歳月を繰り返し共にしてきたために、同じことを考えていると感覚でわかる。

 ――ならばここで、我らの旅は終わるのだろうか。それともあるいは、ここからまた同じだけの時を巡る二周目が始まるのか。

 だが二人とも、それを口に出しはしなかった。いずれにしても、最後まで共にあるだけだ。ずっと昔に定めた通り。

 ややあってシェリアイーダはふっと息をついた。

「今生では、あなたを夫にするのは難しそうね」

 途端にリゥディエンが失笑した。その反応に、幼い姫は膨れ面をして見せる。

「ええ、面白いでしょうよ。ほんの十歳の子供がませたことを言っているようにしか見えないものね? わたしだってこれが他人なら笑ってしまうわ。あらあら可愛いわね、って」

「すみません、失礼を」

 かつての夫はそう詫びたものの、声も顔も笑っているのでは説得力がない。シェリアイーダはわざと厳しい声音で唸った。

「わたしは真面目に考えているのだけど」

「承知しております。……いかような状況になったとて、おそばにおりますから」

 穏やかに言い、リゥディエンは畏まって胸に手を当てて誓う。かつての妻もまた表情を改め、彼の手にそっと手を重ねた。祈るように頭を垂れて、

「ありがとう」

 雨滴が土に染みこむように感謝を伝える。言葉通り、幾度もの巡り合わせで彼は必ずそばにいてくれた。共に過ごした日々がすべて良いものだったわけではない。互いの愛情があってさえ、寄り添うのが難しい時もあった。それでも彼は、独りにしないという約束を守り続けてくれたのだ。

 もはや二人とも、遠い日に魂を結んだことの是非を問いはしない。愛も責任も憐憫も義務も、共有した時間の重みの前にはあまりに軽く無意味だ。

 シェリアイーダは来し方にしばし想い巡らせ、それから顔を上げて問うた。

「そういえば、あなたは今、何歳なの? 見習いだと言われていたけれど、どのぐらいで正式に警士になれるのかしら」

「今、十七です。来年には自分の剣を持たせてもらえる見込みですよ。五年前の紀元祭で幼いあなたを初めて目にした時、覚醒には至りませんでしたが己が天命を感じ、父に頼み込んで見習いに加えてもらったのです。さすがに十二歳ではほんの子供ですから、見習いといっても実質、使い走りの雑用係でしたが」

「驚かれたでしょうね。いずれは我が子も同じく宮仕えの道を、と思っていたとしても、まさかその歳でなんて」

 親子の騒動を思いやって、シェリアイーダは笑いをこぼす。リゥディエンも苦笑した。

「しかも理由が『あの王女様をお守りしたい』ですから。子供にありがちな誇大妄想だとしても、いきなり五歳の女の子にのぼせ上がるなんて、かなり心配させてしまったでしょう。両親には気の毒でした」

「でも、そんな無茶な望みを聞き入れたおかげで、可愛い息子は王女のお気に入りになって、将来安泰が見込めそうなのだから、きっと……ぁふ」

 話の途中であくびが漏れた。再会の興奮がおさまって眠気が差してきたのだ。傾ぎそうになった小さな背中を、慌ててリゥディエンが支えた。

「ああほら、ここで眠ってしまわれてはいけません。急いでお戻りください。魂はともかく、お身体はまだ子供なのですから」

「そうね。まだまだ話し足りないのに、この身体は完全にもう寝るつもりみたい。続きはまた明日……おやすみなさい」

 素直に聞き入れ、シェリアイーダは小声で詞を紡いだ。月に叢雲、白鷺に雪……その表象に従って幼い姫の姿は周囲に溶け込んでしまう。リゥディエンは薄明かりの中でわずかに揺らいで見えるところへ向けて、おやすみなさい、と挨拶を返した。

 部屋の扉が開閉したはずなのに、それさえ分からないまま、気配が遠ざかる。わずかな継ぎ目も織り目もない滑らかな術の巧みさに、リゥディエンは感嘆すると同時に懸念を抱いた。

(これほどの腕前を、性急に人前で発揮せずにいてくださったら良いが)

 元々シェリアイーダ姫は、抜きん出て資質に優れると知られてはいた。だからこそ既に、兄弟姉妹やその母らの間で密かな牽制や競争が繰り広げられているのだ。しかしつい先頃まで、姫がその資質を開花させる様子はなかったため、彼女自身の周囲はまだ平穏であったわけだが。もし彼女が何らかの目的をもって進み始めたら、事態は変わって来る。

(何事にも意欲的に挑まれるのは、我が君譲りで致し方なしとはいえ……)

 そんなことを考えた途端、すっかり遠くなったはずの記憶が鮮やかによみがえった。彼は息を詰め、ぐっと拳を握ってこらえた。幾度もの異なる人生がすべてなかったかのように、最初の自分自身に引き戻されそうだ。てのひらに爪を食い込ませて抵抗し、彼は強いて現在のこと、守るべき人のことを考えた。

(どうか今の年齢と立場を、お忘れにならぬように)

 せめてあと一年か二年。彼女が行動の自由をいくらか勝ち取り、『薔薇の宮』以外の場所では己がつきっきりで守れるようになるまで。

 リゥディエンは拳を額に当てて真剣に祈った。それからゆっくりと手を開き、くっきり残った三日月形の跡を見つめる。忘れてはならないのは己もだ。用心しなければ。今の自分は、女王の伴侶もしくは王の近侍リッダーシュではない。まだほんの十七歳の警士見習いで……

(そうか。彼と初めて出会ったのと同じ年頃だ)

 また意識が過去に舞い戻り、耐えきれず両手に顔を埋める。そのまま彼は、窓の隙間から射し込む月光が消えてしまうまで、じっと動かなかった。


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