十章(3) 赤い花
*
「ミオ!」
肩を揺さぶられてはっと我に返ると、間近に狼の顔があった。女は数回続けて瞬きし、放心気味に周囲を見回す。美しい紋様に覆われた、秘密の隠れ家。今は墓所。水晶の傍らに立つ継承者が、まじろぎもせずこちらを見ている。ああそうか、とぼんやり女は納得した。ヴァステルシ、すなわち『柩守』とはそういう意味だったのか。
狼に目を戻した途端、ぎゅっと抱きしめられる。毛皮の匂い、人より高い体温。雨に降られて逃げ込んだ岩陰の記憶が、鮮明によみがえった。
「スルギさん」
ほっ、と息をついてミオはスルギの胸によりかかる。まだ大丈夫、思い出せる。私はここにいる。吹きつける風、雨上がりの濡れた草と土の匂い、食べさせてもらった甘いお菓子の味。全部、まだ私の記憶だ。
ミオの意識がはっきりしたのを感じ取ったスルギは、灰色の目を潤ませて顔を覗き込んできた。
「ミオ、やっぱりこんなのは駄目だ。どうして大昔の過ちのせいで、君が犠牲にならなきゃいけないんだ。生きたいんだろう、だったらもっと一緒に生きよう」
切実に訴える彼の姿に、遠い遠い昔、傍にいてくれた獣達の面影が重なる。ひめさま、と無邪気に呼ぶ声が胸に木霊し、彼女は悲しげに微笑んだ。
(姫様、どうしてあなたが犠牲にならなければいけないんです)
最後にここで過ごした穏やかな一時、ヤルゥルが黄水晶の目を潤ませヒゲを震わせて訊いた。イーヴァも、他の獣人達も、大好きな姫を取り囲んで口々に言った。
(私達は皆、人の命に従い人を守れ、と教え込まれました。けれど姫様、彼らは勝手だ。姫様を罵り、殺せと叫んだあの人間達を、なぜまだ守ろうとするのですか)
(一番大切な姫様を守れないのに、どうして他の人間を守らなきゃならないの?)
(ねえ姫様、こんなことやめようよ)
あの時も彼女は――シェリアイーダは、ただ微笑んで謝ったのだ。
ごめんなさい、でも、お願いね。
一言そう頼んだだけだったが、彼らは飲み込んでくれた。理屈をこねて食い下がりもせず問い詰めもせず、ただ受け入れてくれた。『女神』と『柩守』の二人だけでは背負いきれない償いの一端を引き受けさせられていると、彼らは気付いていただろうか。
この場所に刻む術がいつまで保たれるか、継承が滞りなく行われるか、いつ『理』があるべき路に戻り鎮まるか。未来まではわからない。だからこそ、彼ら忠実な友に最後の審判を委ねたかったのかもしれない。
ミオは遙か昔にかけられた枷がまだスルギにも受け継がれていることを感じ取り、額を彼の肩に押し付けるようにして詫びた。
「本当に、ごめんなさい」
良き友であって欲しいと願った。共に喜びを分かち合う存在であって欲しいと。それが結果として今、彼を苦しめている。
「謝らないでくれ、ミオ。謝って欲しいんじゃないんだ」
「そうですね。ごめんなさい、ではなくて……ありがとうございます。本当にたくさんお世話になりました。あと少しだけ、そばにいて下さいね」
再び、ひたひたと波が打ち寄せる。ミオはゆっくり深く息を吸うと、抱擁を解いて水晶の前へと進み出た。
継承者がうなずく。ミオはシェリアイーダと向かい合うかたちでひざまずき、水晶に両手をついた。触れたところから白い光が生じ、床や壁の紋様が色鮮やかにまばゆく輝きはじめた。
宇宙を覆うほどの巨大な力が、うねり、迸った。
シェリアイーダは自ら描いた紋様の中心に膝をつき、手を組んで激流に耐えた。すべてを制御し、予定通りの流れを描かなくてはならない。食いしばった歯の間から息を吸い込み、機をはかって口を開く。
最初の一声で、残してきた幾つもの封印が弾け飛んだ。自由になった世界樹は、もはや樹らしい在り様を捨て、荒々しく躍り暴れる。
広大な大地が瞬く間に突き破られ覆い尽されてゆくのを感じながら、二声。
山が凄まじい速度で天を指して伸びはじめた。その足元で、西の大地がせり上がり、東の大地が切り落とされて沈み込み、元より深かった大峡谷がさらに巨大な亀裂となって大陸を分断する。ワシュアール世界の『端』を刻み、これより先には決して影響が及ばず平原の弱々しい世界樹を守れるように。
荒々しい外界の変化も、隠れ家の中には届かない。わずかな振動も、微風もなく、ただ色と音が響くのみ。
リゥディエンが鉦の音を載せ、己が詞を紡いだ。力の流れが一筋、彼の身体と帯びた剣の中へ吸い込まれてゆく――
圧倒的な記憶と力がミオの精神を灼いた。
シェリアイーダの意識、この山の頂に集められた膨大な力、幾度となく繰り返された継承の記憶が、自己の岸辺を削り取り、呑み込んで、広大な海に散らす。現実の体までも、足の先から白い光に覆われて感覚がなくなっていく。
怖い。
初めてミオは心底から恐怖した。魂そのものが抉られ、消し去られようとしているのを理解したのだ。
空ろだから、生きていなくても良い、死なねばならぬのなら仕方がない、そもそも命に執着していなかった。そんな考えが蝶の羽より脆くちぎれて消し飛ぶ。
己という存在が端からどんどん崩れて消えていく。何も残らない。思い出も感情も、家族に申し訳ないと詫びたことも、世界を美しいと感じたことも、
「スルギ、さん」
もっと一緒に生きていたかったという願いも。
「スルギさ……っ」
涙が溢れ、歯の根が合わなくなる。ミオは衝動的に、水晶から顔を背けた。スルギがぶるりと震え、こちらに一歩踏み出す。ミオはまだかろうじて感覚の残っている片手を、必死の思いで彼の方へ伸ばした。
「怖い……っ、スルギさん、スルギさん!」
子供のように泣きながら何度も名を呼ぶ。せめて指を握ってほしい、この世につなぎとめられなくてもいいから消え去る最後の一瞬まで触れていたい。せめてあと少し、もう少しだけ、まだ――
スルギが駆け寄り、わななく細い指先を掴み取りかけた、寸前。
鋭くざらつく銀の音が首に吸い込まれ、一切が消えた。
触れ合うことなく、スルギの指のほんのわずか先で、細い手がぱたりと落ちる。勢い余ってつんのめり、膝をついた彼の目の前で、白い光が瞬く間にミオの全身を覆い隠した。
光は束の間ひときわまばゆく輝き、高く澄んだ音と共に弾けると、次々と水晶に吸い込まれていった。それが消えた後には、何もない。ミオの体はもちろん、靴跡も、あんなにたくさん落ちた涙の痕さえも。
残されたのは一人、継承者のみ。
スルギは愕然とし、そんな、とつぶやいた。剣が鞘に収められた小さな音で、はっと我に返る。次の瞬間、彼は咆哮を上げてイーラウに襲いかかっていた。
全身で体当たりし、突き倒してのしかかる。首に喰らいついて噛みちぎりたいのをぎりぎりで堪え、スルギは牙をガチガチ鳴らした。
「なぜ……、どうして!」
非難と共に涙が溢れた。あと少しだった、もう少しだけ早く駆け寄っていたら、ミオの手を握れたのに。
「怖いと言ったんだ、ミオは! あんな瀬戸際でもまだ、死にたくないとも助けてくれとも言わずに、ただ、怖いって! なぜ、なぜあとほんの少し、待たなかった!」
イーラウは組み伏せられたまま抵抗もせず、静かに目を閉じた。己の命を噛み砕ける鋭い牙がすぐそばに迫っているというのに、緊張すらしていない。
「呼ぶためだ」
端的にそれだけ答え、言葉を切る。スルギが荒い息をしながら待っていると、彼は目を開けないまま、あくまでも平静に続けた。
「邪鬼は元々、人のしもべだ。主に呼ばれるとやって来る。標とするなら、呼び声はできる限り強くなければならない」
「……まさか」
「そうだ。最初の姫も、これまでの幾人もの依り代も、すべて私が殺した」
あまりのことにスルギは眩暈をおぼえた。ふらつきながら無意識に相手を離し、立ち上がる。信じられない、信じたくない、とばかりに何度も首を振った。
ややあってイーラウは目を開き、むくりと起き上がって微苦笑した。
「どうやら私は、今回も殺されないようだな。……帰ろうか、友よ」
スルギは凝然と彼を見つめた。今回も。その意味を察し、新たな衝撃に身震いする。
「残酷すぎる」
かすれ声を漏らしたスルギに、継承者は吐息のように応じた。
「それほど我らの罪は重い」
同意を求めるように、あるいは共に罪を負う者をいたわるように、彼はシェリアイーダを見つめた。かつて艶やかな黒髪に触れたのと同じ手つきで、そっと水晶の表面を撫でると、ほとんど唇を動かさずにつぶやく。
「……また、あなたを独りにする」
謝罪はしない。別れも告げない。一呼吸の間だけ瞑目すると、彼は踵を返し、六色に輝く出口に向かった。
スルギも尻尾を垂れて後に続く。光の壁をくぐり抜ける寸前、ミオに呼ばれた気がして振り返ったが、幻すらも見えず、かすかな匂いも嗅ぎ取れなかった。
二日かけて麓まで下りてきた時、先に異変に気付いたのはイーラウだった。うつむいてとぼとぼ歩いていたスルギは、前で待っていた彼にぶつかりそうになって止まる。
何をしているのか、と物問い顔になったスルギに、イーラウは複雑な表情で振り向き、行く手を示した。
「そなたの女神が挨拶を残したようだ」
「え?」
不審げに顔を上げ、指差された先に目をやる。『女神の裳裾』だ。
「……? えっ、あ……!」
数呼吸の後、ようやく理解して目をみはる。驚きに口がぱかんと開いた。
赤い花だ。彼がミオの髪に挿したのと同じ、赤い花が、季節を無視して一面に咲き乱れている。
(美しいですね)
ミオの声が心に木霊した。スルギさんは美しいですね。あの花も、草も、何もかも。
「……――っ」
堪えきれず、スルギはその場にうずくまって泣きだした。辺り憚らぬ号泣に、イーラウはいたたまれないような、困ったような苦笑いになる。まさか今さら撫でてやるわけにもゆかず、代わりに自分の頭を掻いた。
そこへ、下の方からかすかに「おぉい」と呼ぶ声が届いた。見ると、小指ほどの人影が手を振っている。イーラウはスルギの丸まった背中を軽くぽんと叩いてやってから、その場に彼を残して先に下りていった。
「迎えに来るとは小役人ながら勤勉だな」
「誰が迎えだ! たまたまそこまで来てたんだよ。なんか色々こう、……落ち着かなくてよ。そしたら、いきなりそこらじゅうに花が咲きだして仰天したのなんのって」
シンは相変わらずの調子で言い、首を伸ばして狼の姿を確かめた。さらに上まで道を目で追ったが、他にはもう誰もいない。彼の無言の問いかけを受けて、イーラウが答えた。
「継承は成功した。これでまたしばらく……もしかしたら何百年かは、もつだろう」
「そうか」
シンは曖昧に相槌を打ち、足元に目を落とす。言い出しにくそうにもぞもぞしてから、聞き取りにくいぼそぼそした調子で言った。
「その……な、やっぱりあれ、なしにしてくれねえか」
「何の話だ」
「あれだよ、つまり……ああもう察しの悪い奴だな! 記憶を消すのはやめてくれっつってんだよ!」
いきなり癇癪を起こされて、イーラウは呆れ顔をする。シンは忌々しげに舌打ちし、花畑の方を向いて言葉を続けた。
「あの花がいっぺんに咲きはじめた時に、なんでか胸にじわっと来てよ……ああこいつは忘れちゃいけねえんだ、ってな。心配すんな、あれこれ喧伝する度胸はねえよ。正気を疑われて職を失くしちまうからな。その前に、おまえに寝首をかかれるかもしれねえし」
言ってじろりと横目に睨む。暗殺者扱いされた当人は、軽く眉を上げてとぼけた。
「そなたの言動を監視し続けるほど暇ではないぞ。だが私が封じるまでもなく、そなた自身がいつまで覚えていられるかな」
「馬鹿にすんなって何回言わせるんだクソガキ! 俺はなぁ、登用試験で」
「わかった、わかった。とにかく野営地に戻るぞ」
「人の話を聞け!」
怒鳴るシンの横をすり抜けて、イーラウはさっさと道を下ってゆく。線の細い背中に向かって、シンはひとしきり悪態を投げつけてから、憤然と鼻を鳴らした。
苦い顔のまま振り仰ぐと、霊峰の頂は今日も遙かに高く遠く、凛として孤独だった。尖端の白さが眩しくて、ぎゅっと顔をしかめる。
「……くそったれで弱っちい低地の人間だって、忘れないくらいはできるさ。なぁ」
口の中でつぶやいた時、遠吠えが響いた。ぎょっとなって顔を下ろすと、スルギが風に揺れる赤い花の中、膝をついている。
長い遠吠えの余韻が消えて、すぐにもう一度。あまりの痛切さに耐えきれず、シンは背を向けて逃げ出した。己に非はないはずなのに責められているようで、駆け足になる。だが、遠吠えはどこまでも追ってきた。赤い色と共に。
シンは勝手に溢れてきた涙を袖で拭い、歯を食いしばって確信した。
ああ、二度と忘れられないだろう。
第一部・完
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