十章(2) 滅びの日

「第三工廠に行きましょう。それも、先方には知らせずに。何らかの異常が起きていながら隠蔽しているのは明らかだわ」

 王都に戻って自室に落ち着く暇もなくまた出かけようとするシェリアイーダに、リゥディエンも「御意」と同意した。

「以前、姫様がお気付きになった理力の歪み。加えてあの、腹を空かせる労僕しもべの話。無視するにはあまりにも不穏です」

「王宮の労僕たちは何も変わりないから、第三工廠を取り立てて気にしていなかったけれど、挙動のおかしい労僕をよそへやって都の人間の目に触れないようにしていたのなら、もっと前からかなりの数が異常を示していたのかもしれないわ。……理力の歪みだけじゃない。第三工廠は、この王宮の労僕たちを回収し、再生しているのだもの」

 シェリアイーダは悔しげに言って唇を噛んだ。

 最初のウトゥが廃棄処分にされてから、シェリアイーダの側仕えは害されていない。だが注意深く調べていくと、あれ以後も断続的に『不慮の事故』は起きていた。いずれも何らかの形で王女との接点がある労僕ばかり。

 リゥディエンも沈痛な面持ちになり、声を低める。

「もしも、惨たらしい『壊され方』をしたものが何体も再利用されていたのなら……そこから何かの『特性』が受け継がれてしまっている可能性がありますね」

「ええ。主任ではなく、現場で作業をおこなっている人から直接話を聞き出しましょう。ごまかしや責任逃れに付き合ってはいられないわ」

 そうと決めると二人はすぐに支度を調え、目立つ獣兵は連れず、密かに王宮を出ようとした――が、城門で衛兵に阻まれてしまった。

「畏れながらシェリアイーダ様、ジョファル陛下から外出は罷り成らぬとのお達しでございます」

 その声音と表情の厳しさは、今まで何度も形式的に諫めてきた時のものとは様相が違う。シェリアイーダは困惑し、対応に迷った。王女が頻繁に街へ出ることを、はしたない、わきまえない行為だと批難する声は根強い。それでも彼女が大学や六彩府に通い続け、それぞれの場で成果を上げてきたため、近年は概ね容認の空気になっていたのだが……

「禁足の理由や期日は聞かされていますか」

 シェリアイーダは言いくるめようと試みるのは諦め、ただ冷静に確認した。衛兵が露骨にほっとした表情になる。王命には逆らえないし、かといって王女に対してもあまり強硬な手段は取れないしで、おとなしく聞き分けてくれたらと願っていたのだろう。

「我々にはただ、追って命を解く時まで、としか知らされておりません。行き先がどこであれ目的が何であれ、まず国王陛下のもとへ請願に上がるように、とのことです」

「……そう。わかりました」

 硬い声音で短く言って、鋭く踵を返す。来いと言うなら行ってやる、とばかり憤然と歩き出した王女を、リゥディエンが慌てて追いかけた。

 シェリアイーダは怒りに任せて国王の私宮殿に乗り込んだが、待っていたのは彼女自身のそれよりも遙かに危険で強力な怒りだった。

「禁足令とはどういうおつもりですか、父上!」

「控えよ! 誰にものを申しておる!」

 批難の声を怒号で叩き伏せ、国王ジョファルはさっと手を払った。近衛兵が槍を交差させ、父王に詰め寄りかけていた王女の行く手を遮った。これは本気だ、と悟ったシェリアイーダはぐっと堪え、一歩退いて今更ながら臣従の礼をとる。

「わたくしが大学や六彩府で研鑽を積むことは、王族の誉れに数えられ、父上もお許しくださっているものと思っておりました。なぜ突然このような……」

「控えよ、と余は命じたぞ。シェリアイーダ。そなたはいい加減に王女の本分を思い出すべきだ。許しもなく勝手に口を開き、余が尋ねもせぬことを語り、まして余の決定に異を唱えようとは、増長も甚だしい」

 何ひとつ問いかけの内容に応じない、とにかくただ「黙れ」との強圧。まずい、とシェリアイーダは身を強張らせた。既に“裁き”は下されているのだ。誰が何を吹き込んだのか、どの行動が知られて勘気に触れたのか――無言で頭を垂れたまま思案する。

 王女がおとなしく黙ったので、王も少しは気が静まったようだが、それでも続けて口から出てきたのは、まだ煮えたぎるような声音だった。

「地震被害の視察にかこつけて、叛徒どもに会ったそうだな」

「――! 父上、それは」

「いつから国政の舵取りができるなどと思い上がったか! いいや、言い訳など聞かぬ。そなたの考えなど必要ない。部屋に戻れ、そして余が許すまで謹慎せよ!」



「いいざまだな、少しは身の程を思い知ったか」

 せせら笑った兄王子レーシュを、シェリアイーダは無言で見つめ返した。わざわざ女区画まで出向いてきたのは、ただ侮辱するためだけなのだろうか、と冷ややかに思う。

 泣くでも悔しがるでもない様子の妹姫を見て、レーシュは鼻白んだものの、気を取り直して傲然とした態度に戻った。

「エイムダールから伝言だ。労僕の改良に関して、もうおまえの協力は必要ないそうだ。六彩府を口実に外出しようなどと考えるなよ」

「……そうですか。お知らせ下さり、ありがとうございます。では先生は今後、兄上との共同研究のほうに専念されるのですね」

 これほどレーシュが嬉しそうだというのは、そういう話になったのだろう。妹の名声を上げる契機となった労僕研究からその専門家を引き抜き、自分の手下に抱え込んでやったぞ、という勝利宣言をしに来たわけか。

 シェリアイーダの推測は正しかった。レーシュは酷薄な笑みを広げ、得意満面に語ってくれた。

「ああ、労僕に関するエイムダールの知見は獣兵の強化にもかなり役立つぞ。おまえに貸し与えている二頭もむろん、改良してやるとも。じきに『労僕のごとき無能ども』など、世界から一掃してくれよう」

 叛徒を嘲る言い回しを強調し、レーシュは堪えきれず笑いを漏らした。その目に宿る危険な光に射られ、シェリアイーダはぞくりと悪寒に震えた。リゥディエンが警戒の反応を示したほどの、あからさまな害意と敵意。だがレーシュは直接には何の行動にも出ず、ただ冷笑だけを残して立ち去った。



 外出を禁じられたからといって、シェリアイーダはおとなしく“王女の本分”に立ち返ったりはしなかった。

 侍女とリゥディエンを通じて内外の情報収集を続け、六彩府の学者や官僚を呼んで話し合った。その頃にはもう、世界樹の異常に危機感を持って避難計画を進める同志が複数人結束しており、国王の不興を買ってでも王女の優れた彩詠術を必要としていたのだ。

 だがそうする間にも、事態は思いがけない速さで進んでいた。

 パキン、と遠くで何かが割れるような音に、自室で信書をしたためていたシェリアイーダは、ぎくりと竦んで顔を上げた。近年とみに増えた、不吉な気配だ。直後、より大きな響きが『路』を揺さぶった。

「――!」

 喘ぎよろめいて、机上のインク壺を倒しそうになる。ぎりぎりで身体を支えると、彼女は反射的に立ち上がった。王宮のあちこちで動揺した人々が騒ぎ出し、異変に気付いた豹の獣兵が駆け込んできた。

「姫様、ご無事ですか」

「わたしは大丈夫。でもこれはただごとではないわ。外で何か大きな事故か異変か、理の乱れがあったはず。この気配、方角……ヤルゥル、わたしを第三工廠へ連れていって。止める人は無視してかまわないから」

「御意」

 ヤルゥルは頼もしく請け合うと、すぐさま王女を抱き上げた。余計な気を回して諫めたりもせず、素早く部屋を走り出る。気付いた侍女が声を上げたが、命令通り無視して外へ向かった。

「リゥがいなくて良かった。遠慮しないで、思い切り走って跳んでいいわよ」

 シェリアイーダは言って、ヤルゥルの力強い肩をぽんと叩く。リゥディエンは情報収集のために六彩府へ出ていたのだ。今頃は彼も異常を察知して、その源へと向かっているだろう。

 ヤルゥルは喉の奥で小さく唸り、脚に力を込めた。

「シェリアイーダ様!? なりません、お待ちを!」

 行く手にいた警士がぎょっとなり、制止しようとする。だがヤルゥルは軽々とその頭上を跳び越えた。そのまま、庭園を囲む通廊の手摺りや彫像の頭を踏み台にして、宮殿の屋根にまで駆け上る。人間にはとても真似のできない身のこなしだ。

 思わずシェリアイーダは笑顔になっていた。

「すごいわ、あっという間にこんな高く!」

 褒められたヤルゥルが満足げに喉を鳴らす。非常時だというのに、シェリアイーダは久しく忘れていた無邪気な喜びに胸を高鳴らせていた。

「行きましょう、ヤルゥル。もっと速く、高く遠くへ!」

(ああ、そうして地の果てまでも駆けて行けたなら)

 ありえない望みがよぎったが、それは口にせずしまいこむ。

 ヤルゥルが一声吼え、力強く走り出した。人間たちは当然、何の障害にもならない。他の場所で警護についている獣兵たちも、明らかに王女とヤルゥルが格上であるのを正確に理解しているため、手出ししてこない。

 そうしてふたりは、城門と城壁の存在意義さえ失わせて、街へ、都の外へとひた走った。驚く人々をあっという間に置き去りにしていく爽快さは、しかし、長くは続かなかった。工廠に近付くにつれて『路』に響く音色が歪み、反響に意識が呑まれそうになる。シェリアイーダは呻いてヤルゥルにしがみついた。『路』を持たない獣兵は、それこそが創られた目的の通り、この異常下でも何ら支障をきたさなかったが、いささかの不快は感じているようだった。鼻面にしわを寄せながら、具合の悪いあるじを気遣う。

「姫様、まだ近付きますか」

「大丈夫よ、はっきり状況がわかるところまで行って……」

 顔を上げて答えかけたシェリアイーダは、既にもうその距離まで来ていることに気付き、息を飲んだ。

「嘘――こんな」

 かすれ声で喘ぐ。第三工廠のあった場所は、完全に樹木に呑まれていた。しかも今なお、地面を突き破って次々と新たな木が芽生え育ち枝葉を広げて、全体がひとつの生き物のように蠢いている。

(怖い)

 本能が急き立てる。今すぐここから逃げろ、できるだけ遠くまで、一刻も早く!

(でも、なんて美しい)

 熱く滾る脈動が、暗い泥土を突き破って歌い輝くさまに魅せられて、泣きたいほどの恐怖に駆られながらも魂は手を伸ばし触れようとする。

 相反する感情に翻弄され、シェリアイーダは歯を食いしばった。

(鎮まれ、鎮まれ――鎮まれ!)

 必死で自我を保ち、『路』を侵食する色と音の渦を鎮めようと、ただひとつ白だけを意識して響かせる。だが、太刀打ちできない。

(違う、そうじゃない)

 遠い記憶が無意識の片隅に閃いた。音色で打ち消すのではない、別の方法をおまえは知っているはずだ、と。

 息を深く吸い、自らの内に潜る。色も音も無い静寂の砦へ。目の前の激しく沸き立つ一点ではなく、もっと根源にあるものへと近付く。

 やがて、無色無音の世界に黄金の世界樹がそびえた。シェリアイーダの自我はその幹に触れ、同化する。あらゆる梢の葉の一枚、根の先端までを知覚し、何が起きているのかを理解した――と思った瞬間、外の世界から響いた透徹な白によって切り離される。

 目を開くとリゥディエンの顔がすぐそばにあった。路は鎮まり、いつもの静穏を取り戻している。いける、と確信したシェリアイーダは姿勢を立て直し、第三工廠に向かい合った。


 白雪 血潮 萌ゆる草

 海原 麦の穂 遠き宇宙


 詠う声にリゥディエンも合わせ、二人の生み出す波が理の樹木を取り囲んでゆく。


 巡り廻せよ 百歳 千歳

 果つることなき 時の果つまで――


 無限に拡がるかに見えた木立は不気味な蠢動を止め、地表を食い破ろうと煮え滾っていた力が渋々と地の底へ戻ってゆく。

「今のうちに」

 リゥディエンが背後に向けて声をかけた。彼と共に駆けつけていた六彩府の学者術者たちが、六色の紐をつないで工廠の敷地を包囲していく。

 しばらくの後、どうにかもう安全だ、とシェリアイーダは長い息を吐き出して、ようやく思い至った。

「中にいた人は……」

 こぼれ落ちたつぶやきに、答える者はいない。何日も経ってからやっと、レーシュ王子が第三工廠を訪れた後に消息不明であると公表されたが、誰にも理由はわからなかった。



「こんな時に自分の誕生祝賀会だなんて、あの男は馬鹿なの!?」

 ついに父王を馬鹿よばわりし、シェリアイーダは自室で天を仰いで叫んだ。集まった者達も、そこまで露骨に罵倒こそしないものの、顔を見合わせてそれぞれ呆れ嘆き怒りを交わす。顔ぶれは多種多様だった。王宮警士の大半、六彩府や大学の関係者、官僚、それに市井の民も。

「王の狙いもまったくの的外れではない、と理解はできます」渋面の官僚が唸る。「第三工廠の事故は激しい動揺を引き起こしました。もう大丈夫だと、何があっても王族の優れた血筋が、類稀なるウルヴェーユの力が、この通りちゃんと治めてみせる――そう知らしめて人心を慰撫する必要は、確かにあるでしょう」

「ご本人は何もしとらんがね」六彩府の長が鼻を鳴らした。「それに実際、何も大丈夫ではない。殿下がなされたあの封印はお見事ですが、所詮一時しのぎだ。王は第三工廠の保安処置が杜撰であったとか、内部の者が不正に工程を改変したからだ、と死者に責任を負わせているが……」

 首を振って視線を送った先で、街の市民が苦々しく皮肉な笑みを浮かべる。

「今回たまたま第三工廠だけの事故であって他は安全だ、ってことにしたいんでしょう。見え透いた嘘なのに、近所には本気で信じてる人が多くてびっくりです。目端の利く金持ちはどんどん逃げ出しているってのに」

「我々も急がなければ」

 数年前に東部調査隊を率いていた男が深刻に言い、王女を見つめる。シェリアイーダは硬い表情でうなずいた。大陸東部の世界樹が開鑿され、凍りついていた平原は人が移り住める状態になりつつある。元々生き物のいなかった土地だから、移住するにしてもまずは周縁部からだ。しかしそこに辿り着くためには、とんでもなく高く険しい山々と絶望的な大峡谷を越えるか、海路でワンジルを迂回していくしかない。

 目下、ワシュアール南部の海に面した街では船団が次々に組織されている。王の目を盗んで密かに始められた計画は、いまや堂々と大っぴらにおこなわれていた――叛徒たちを国外追放するという名目で。

 かつて冗談半分に「東部平原へ逃げる」ことを提案した彩理学者マヨーシャ=ロダグが、気弱な苦笑を浮かべて言った。

「まさかあの時の会話が現実になるなんて、いまだに悪い夢でも見ているようです。でも残念ながら、理の力は狂い続けている。新たな湧出点の出現は、第三工廠だけにとどまらないでしょう。他の工廠や水利施設など、大規模な術を常時働かせている場所はすべて危険です」

 厳しい予想を聞かされ、一同は暗い表情になる。誰かがぽつりとつぶやいた。

「最初に滅びるのは都だな。そうなれば必然、国全体が沈む」

 その言葉を受けて、シェリアイーダはふと宙を見上げた。つかのま『世界樹』と繋がったあの感覚がまだ残っており、『路』を通じて直観をもたらす。

「ええ、いずれワシュアール全土が、理の樹林に呑まれるでしょう。わたくしはそれを遅らせるよう努力します。すべての人、すべての命を救うことなど叶いませんが、心ある人が少しでも多く逃げられるように」

「……姫?」

 隣でリゥディエンが不安げに、問いの声音でそっと呼びかける。シェリアイーダは瞬きし、宇宙の瞳で己の番い星を見つめた。わずかな仕草で手を握り、微笑む。そばにいてね、と唇だけで紡いだ願いは、確かに伝わった。


 だがわずかな人々が奮闘する間もなく、異変はさらに速度と規模を増していった。

 第三工廠の閉鎖で不足した労僕を補充するため、他の工廠は限界以上に稼動する。結果つくられた労僕たちは大半がおかしくなった。丈夫で傷つきにくく治癒力は増した一方で、すぐに腹を空かせて勝手につまみ食いをする。知能の程度は相変わらずだが、そうした“間食”のために作業の効率は落ち、遅延や失敗が増え、あらゆる生産の場で物資が不足し始めた。

 立ち行かなくなった現場では、やむなく人間が使われだした。貧しい者、身寄りのない者、子供たち。人身売買が活発になり、瞬く間に治安が悪化していく。

 そんな中で、現国王ジョファルの誕生祝賀会は盛大に催された。金を注ぎ込み、まともな労僕や食料をかき集めて、我が世の春を信じる人々が何日も続く宴に興じたのだ。

 彼らにとって、ワシュアールの終焉などは妄言にすぎず、まともな文明の無い東部平原に移り住もうとする愚かな狂信者の集団がいなくなれば清々する、という認識しかなかった。国王とその側近、彼らに群がり甘い汁を吸う人々にとって、衰退の兆候は他人事でしかないのだから。

 それが誤りであると気付かされる時は、ほどなくやって来た。



 王宮にも終末の影が差してはいたが、少なくともその日までは、シェリアイーダも普通の生活を送れていた。一日中『路』に潜って理力の異常を抑える方法を探っていても、食事は用意され、衣類も部屋も清潔に保たれていた。献立の内容や清潔さの程度は低くなっていたが、それなりには。

 その朝も変わらず侍女が王女を起こし、いつものように労僕が洗面器を運んできた。

「ありがとう、ウトゥ」

 シェリアイーダは労僕に、不安と憐れみのいりまじる目を向けた。もはやウトゥの名前も意味は無く、労僕は黙って薄く微笑むばかり。王宮はまともな労僕を選りすぐって独占しているが、それでも以前とは確かに質が変わってしまった。

 シェリアイーダは諦めの滲む吐息をもらし、身を屈めて両手に水を掬う。うつむいた首から艶やかな黒髪がするりと前へ流れ落ちて、うなじがあらわになった。

 そのまま彼女は顔を洗おうとしたが、続いて起こったことに驚いて動きを止めた。

 洗面器がいきなり床に落ちたのだ。何事かと顔を上げる間もなく、両手で頭をがっしと抱え込まれた。首を引き抜こうとでもいうのか、力任せに。

「あっ! いたっ、痛い! やめなさい!」

 何をするの、と叫ぶよりも先に、首に激痛が走った。噛み付かれたのだ。

 悲鳴を上げた直後、荒々しい足音が部屋に駆け込んできた。ジャリッと鈍く鋼が響き、労僕は奇声と共にくずおれる。

「姫様! なんてことだ、血が」

「リゥ、ディエン……あ、ありが、とう」

 シェリアイーダもまた立っていられず座り込み、ぬるりと濡れた首筋を手で押さえていた。恐怖と痛みに喘ぎながら、それでも急いで詞を詠い、血を止める。危地を救ってくれた警士の剣は、べったりと赤黒く汚れていた。

「リゥ、その刃は」

「労僕が狂いはじめました。何が原因なのかわかりません、いずれこうなるよう仕組まれていたのか、積もり積もった異常が限界に達したのか。いずれにせよ、まだ正常なものも時間の問題でしょう。片端から斬り捨ててここまで来ましたが」

 リゥディエンは早口に答え、次いでぎょっと息を飲んだ。床に倒れていた労僕が、ぴくぴく動いたのだ。愕然とした彼の視線を追い、王女も目をみはる。首が半分ほどまで切断されているのに、労僕は床に両手をつき、むくりと起き上がったのだ。

「馬鹿な……! これほどの再生力など」

 付与していないはずだ、と続けることはできなかった。現に労僕の首は見ている前で癒着し、流れた血の汚れだけはそのままに、傷口が消えてゆく。

「ひ、ヴェ、ざマ」

 雑音じみた声を漏らし、にぃっと労僕が笑った。口の中に溜まった血がどろりと垂れる。あまりのことにシェリアイーダは、逃げることも考えられずただ硬直する。そこへ、風のように新たな影が飛び込んできた。

 ガッ、と労僕に影が激突する。突き倒された労僕は絶叫し、床でのたうち転げ回った末に、痙攣して今度こそ動かなくなった。

「良かった、間に、合った」

 ふうふう息を切らせながら言ったのは、イーヴァだった。口のまわりが血まみれだ。すぐ後からヤルゥルも現れた。シェリアイーダがまだ放心したまま豹を見上げると、黄水晶の目が悲しげに揺れた。

「姫様、もう駄目です。かれらはもう、人の命令を聞きません」

 暗く重い宣告の背後で、遠く誰かの悲鳴が尾を引き、消えた。

 その時には王国のありとあらゆるところで、同じような光景が繰り広げられていた。乳幼児や子供、女。弱い獲物が最初に襲われた。激怒した人々が労僕を叩き潰し、斬り、焼いたが、労僕はしぶとくよみがえった。

 そして一方では、待っていたかのように『理』が各地で現出し、工廠や関連施設が次々に呑まれていった。わずかな振動だけを前触れに、この世ならざる存在が地面を突き破って生え、瞬く間に樹となり森を成す光景は、世の人々を慄かせ、恐慌を起こさせるに充分なものであった。

 ――崩壊がはじまった。


 暴徒が王宮に押し寄せた。

 かねて危機を予測していた人々は、速やかに街を脱出し南へ向かっていたが、そんな行動を取れたのはごくわずかだった。ほとんどの人間は何が起こったのか、どうすれば良いのかもわからず、闇雲に『安全そうな場所』へと詰めかけたのだ。

 最初はただ城門前の大階段に群衆が集まり、誰に統率されるでもなく、口々に「助けてくれ」「中に入れろ」「兵を出せ」などと訴えるばかりだったが、何ひとつ返答のないまま城門が閉ざされるや、懇願は怒号に変わった。

「王は何やってる! 出てこい!!」

「殺せ! 吊せ!!」

 何しろ国王はつい先頃、派手な大宴会を開いたばかりだ。おこぼれにあずかれなかった庶民にしてみれば、自分たちだけで最後の贅沢を使い切りやがった、と怒りも倍増する。

「王家のクズどもは皆殺しだ!」

「殺せ! 殺せ! 《殺せ》!!」

 繰り返される叫びがひとつにまとまり、色を帯びた《詞》に変化して城門を揺らす。壁の内側では青ざめた衛兵が一人二人と逃げ場を探しだした。そもそも、群衆の暴徒化を恐れて門を閉めさせた現場指揮官が一番最初に、上の判断を仰いでくる、と言い置いて遁走したのだ。残された下っ端に何ができようか。

 それほどに、王宮の中とていまだ混乱のさなかだった。

 獣兵の爪と牙によって労僕にとどめを刺せることがわかり、どうにかすべての労僕を殺し尽くしたものの、そこらじゅうに死体と怪我人が溢れていた。王族も貴族も隔てなく『長』とつく肩書きの誰もが生死不明で、統率は失われ場当たり的な対応が精一杯。救護しようと奔走する者がいる一方で、錯乱して泣き叫ぶだけの者、人目につかない隅の暗がりに隠れる者、懐に詰め込めるだけ詰め込んで逃げようとする者も多く――最悪なことに、国王自身が最後の例のひとりだった。

「何かの間違いだ、ありえん、これで終わりなどと」

 髪を振り乱し目を血走らせ、ひっきりなしに独り言を口走りながら、ジョファル王は私宮殿の中にあるめぼしい財貨を櫃に詰めていた。

「シュルト。そうだ、あそこまで行けば」

 遙か西の港町を思い出し、長男が治めている土地に望みを託す。とにかく王都を離れて息子たちの誰かと合流すれば、兵も財もある、立て直せる、と。

 彩紀以前の時代から変わらぬ輝きを保つ黒曜石の床も、今は絨毯がめちゃくちゃに破れ乱れ、血や肉片が飛び散っている。労僕の死体や負傷した召使らは運び出されているが、それ以上の片付けをさせられる状況ではない。

「近衛! 何をしておる、誰かおらんのか!」

 自分ひとりではろくに何もできず、彼は大声で呼ばわった。残念ながら、姿を現したのは彼の期待する相手ではなかったが。

「シェリアイーダ……?」

 名を呼びかけた声が頼りなく尻すぼみになって、消える。青年警士と二頭の獣兵を連れた王女は、もはや手を焼かされる娘の一人だとは思われなかった。この非常時にあって毅然と立ち、強い意志と冷徹な理性を窺わせる姿には、女王の風格さえある。よく見れば、私宮殿の外に警士の一団が控えているではないか。他の獣兵もだ。

 呆然とする王に向かって、シェリアイーダは感情の無い一瞥をくれた。室内をざっと見回し、ほかに助けるべき誰もいないことを確かめる。

 それでも一応まだ「父上」と呼びかけ、彼女は最後の確認をした。

「王として、この事態に立ち向かおうという気はありませんか。警士と獣兵は皆わたくしに従っていますが、近衛はまだ王の命を聞くでしょう。怪我人を救護し、狂った労僕を退けながら避難する、その指揮を執る意志は?」

「は――はっ、はは、何を言っている。そなたも狂ったか。なぜ余がそんなことをせねばならん。まず何よりも余の安全を確保し、暴徒を鎮圧し化け物どもを殺し尽くす、それが臣下たる者どものつとめであろうが!」

 ひきつった笑いを漏らしてジョファルはまくし立て、王女を守る二頭の獣兵に目を向けた。

「そこな獣よ、労僕を殺せるのだろう。行け、行って殺し尽くせ! 王宮と街から化け物を一掃するのだ、そのために創られた命ぞ! 警士どもはさっさと暴徒どもを追い払え! ああそうだ、シェリアイーダ、まずそなたが城門へ出向き暴徒どもに言い聞かせろ。ここは卑しい者が踏み荒らして良い場所ではない、とな。そなたの顔なら民も見慣れていよう、あれほど出歩いていたのだから」

 よし決まりだ早く行け、とばかり彼はせわしく追い払う手つきをする。シェリアイーダは辛辣な冷笑を浮かべた。普段は我こそ頂点に君臨する者であるとふんぞり返っているくせに、ひとたび困難が生じれば弱い立場の者に説明や対処を丸投げして、何の責任も取らない。王というのはいつからそんな愚劣なものに成り果てたのか。

(いいえ、昔からだったわね。長く権力の座にあれば誰でも)

 己自身も最初の人生で落ちた陥穽だ。民の暮らしを豊かに安全にすべく励んだのは事実でも、その目標のために他人がお膳立てするのは当然だと思っていた。つまるところ、自分がしたいようにするため他人を使う、という点では同じだ。

(そして今もまた、わたしは目的のために大勢を従わせようとしている)

 皮肉な思いが胸をよぎったが、シェリアイーダはそれを意識の隅に追いやった。余計なことに心を乱されてはいけない。

「言われるまでもなく、わたくしは己の責務を果たします。今このワシュアールで何が起きているのか、生き延びるためにはどうすべきかを、皆に説きましょう。あなたが望んでいる内容ではないでしょうけれど」

 突き放した口調で言いながら、鉦を抜く。高く手を掲げて打ち鳴らすと、澄んだ音の連なりが響き渡った。

 シェリアイーダの内なる『路』を、白い炎が螺旋を描いて駆け下りる。触れられた『標』が次々に浮かび上がり、音色と共に花開く。深淵をどこまでも降りて行く炎に呼応して、巨大な力が世界の根から湧き上がってきた。

 かつてない規模のわざがおこなわれようとしている。それこそ世界を造り変えるほどの。ジョファルは己が路を通じて悟り、目を剥いて叫んだ。

「待て、何をする! やめろ、黙れ!!」

 むろんシェリアイーダは騒音を無視し、玲瓏たる声で詠い上げた。


  雨よ 葉を伝い岩より出でて 川となれ

  川よ 山下り野を駆け 集いて海となれ

  海よ 吼え猛り渦を巻き 深淵へ落ちよ!


 音色と声はどこまでも拡がってゆく。幾重もの壁も貫いて、王宮の外、都の端、そしてさらに先へと。世界樹の一番細い毛根一本一本の先まで届き、そこに繋がる『路』のすべてを切り離して、《詞》の通り大きなひとつの流れにまとまってゆく。圧倒的な力でもって『路』を閉ざされたジョファル王が苦悶に呻いてうずくまり、いたるところで悲鳴や驚愕の叫びが上がった。右往左往していた人々も、城門前の暴徒も、『路』を知覚する者すべてが予期せぬ異変に混乱する。だがその声はもう、王女の耳には届かない。

 すべての人間からもたらされる影響が消え、世界樹と相対するのはただひとつの――結び合わされた二人の魂のみとなった。その『路』めがけて、巨大な海そのものが大渦となって落ちて来る。

 ズシン、と世界が揺れた。現実の揺れではなく、人の意識を打ちのめす揺れだ。ジョファルが倒れ伏し、リゥディエンがよろめく。

 大渦に呑まれたシェリアイーダは、微動だにせず持ち堪えた。世界の理を識り、その変容を無意識で理解した。既に各地で地表へ現出した力、芽生えのようなそれらが成長しないよう抑制し、他の歪みをほんの少し矯めてとどめる。時間稼ぎにすぎないことはわかっていたが、それが必要だったのだ。

 深海の底で圧力に耐え、何も見えないまま肌に感じる水流を頼りに身体の向きを整える――そんな感覚としばし格闘したのち、シェリアイーダはやっと意識を引き上げた。

 現実の視界が戻ってくる。細やかな色の網に覆われ、音の流れに満ちて、あらゆる場所の出来事が星のように瞬いているが、それでも同時に目の前の光景を認識することができた。

 もはや取るに足りない、腰を抜かして茫然自失している男がひとり。傍らを見れば、何が起こったかを正確に理解している青年が、共に負う覚悟をもって見つめ返す。その後ろには、不安にそわそわしている豹と、まるい瞳に無垢な驚嘆を浮かべている狼。

 シェリアイーダはやっと、微かに笑みを浮かべた。支え合える者、信じてくれる善良な生き物の存在は、こんな時でも慰めになる。

 ふっとひとつ息を吐いて、彼女は己に繋がる世界樹を意識し、その流れに乗せて声を放った。

「南へ行き、海に出なさい。東へと向かう船があります」

 大音声ではなく、しかし確かな力強さをもって、ワシュアールの民すべてに語りかける。

「この国はじき、全土が理の力に呑まれて沈みます。狂ってしまった労僕たちは、叶う限りわたくしが北へと引き寄せましょう。その間に南へ逃げて、ワシュアールを離れ、東の平原に移り住みなさい。あるいは、西の海の彼方へでも。ウルヴェーユも労僕もない、新たな世界を築くのです」

 何が起こっており、どうすべきかを説いて、声を閉ざす。しばし迷ってから、彼女は祈りの言葉を添えた。

「生き延びる者に幸運を。それ以外には安息があるように」

 命運は各々に託して、シェリアイーダは踵を返した。

 もう王宮に用はない。向かうべき場所ははっきりしている。

 歩みを進める王女のすぐ後ろにリゥディエンが寄り添い、その後にイーヴァとヤルゥル、そして警士や他の獣兵が従う。粛々と進む一行の妨げになるものは、何もなかった。

 城門に集っていた群衆も、すっかり無力になっていた。大扉を揺らすほどの力が集まっていたのに、一瞬でそれがすべて奪われたのみならず、当たり前に行使していた色と音のわざまで失ったのだ。

 放心する者、むせび泣く者、座り込んで天を仰ぎ『御柱』を探す者。反応はそれぞれだったが、城門が開かれて王女が現れると、誰もが怯んで後ずさり、道を空けた。

 お許しを、と誰かがつぶやき手を合わせた。つられるように、その周囲の人々が頭を垂れる。シェリアイーダはもう、いちいち彼らに視線を向けることも、指示を繰り返すこともせず、前だけを見て歩いて行く。

 街に残っていた王女の協力者や、六彩府に留め置かれていた獣兵たちがやって来て、合流した。

 そうしてシェリアイーダは都を去った。


 海へ出なさい――

 その声は静かに、しかし消えることなく人々の胸に届いた。既に多くの土地では労僕の襲撃や人間の暴動、食糧不足や不衛生によって人口が激減していたが、生き残った人々は小さな集団を作り、安全を求めて移動をはじめた。見境なく襲いかかる狂った労僕に怯えながら、各地に現出したこの世ならざる森を避けて、南へと。

 さざなみのようなその動きに反して、シェリアイーダとリゥディエンに率いられた一団は、北東へ向かっていた。打ち捨てられた町や村を辿り、置き去りにされた作物や家畜を集めて食いつなぎ、強い力を放つ“あるじ”に引き寄せられてくる労僕と戦いながら。

「『理』の現出は簡単に戻らないにしても、いずれ人がいなくなれば、この労僕たちも餌が足りなくなって死に絶えるでしょうか。第三工廠以外の工廠もいずれすべて呑まれてしまうわけですから、新たに作り出されることもないでしょう」

 警士の一人が、まだぴくぴく痙攣しているしもべから剣を引き抜いて言う。イーヴァが鋭い爪で首を掻き切ってとどめを刺した。ウルヴェーユを失った警士が安堵する。

「獣人の爪に、労僕の治癒再生を阻害する力があったのは幸いでしたね。レーシュ王子も、結果としては役に立つ仕事をしてくれたものです」

 王女はもはや日常と化したその光景を、まだ少し青ざめながら見ていた。

「労僕がどうなるか、わたくしにもわかりません。第三工廠は機能を完全に失いましたが、他の工廠や集積所では、あの後も工程を変えていました。理の下に埋まっても、まだ稼動するかもしれません。あるいは労僕自身が繁殖する能力を獲得するかもしれません。ですから……わたくしたちが、逃げ延びた人々を守らなければ」

 言って、遠く南を眺めやる。神にも近い力と感覚を得た彼女の目に、大地は穴だらけのぼろぼろに映り、その間を小さな虫の群のごとく人間達が移動していく様まで見て取ることができた。

「彼らはもうウルヴェーユを持たない。あなたがた警士とも異なり、戦う術を修めてもいない。無力で弱い者たちです。いずれそう遠くない未来に、自分達が世界の根源に触れる力を持っていたことも、膨大な知恵とわざがあったことも、すべて忘れてしまうでしょう」

「我々が受け継ぎます、姫」リゥディエンが静かに応じた。「何が起きたのか、あなたが何を思い何をなされたか、我々が何をなすべきか。すべて忘れることなく、守り伝えてゆきます」

「……ありがとう、リゥディエン。あと少しです、行きましょう」


 目的地である山は、険しい山脈の中でもひときわ高く鋭かった。

 山の麓の丘陵地帯で、リゥディエンは己以外の人間達にここで待てと言い渡した。いまや身分肩書きも意味を失ったが、かつての警士らと、そのごく親しい身内ばかりだ。

「ここより北は気候も厳しい。それに……姫が最後の術を行われる時、そこに私以外の人間がいてはならない。だから、そなたらはここで待つのだ。……必ず戻る」

 疑問も不満もなく、皆が承諾し、無事を祈る。人々に見送られ、獣兵達に守られて、シェリアイーダとリゥディエンは山に登った。

 頂上近くの岩壁に、シェリアイーダが隠れ家を用意した。

「ここまで来ると、なんだかすべての出来事が遠い夢の世界のようね」

 彼女は言って久しぶりに笑みを浮かべると、ほとんど忘れ去られていた古い歌を口ずさんだ。『理』と地表との境に隙間を広げ、ささやかな場を創ったのだ。外からは存在すら見て取れない、しかし充分に広くて暖かく穏やかな空洞を。

 内装には少し時間がかかった。いくつもの目的を同時に叶えるために、詞と色を複雑に絡み合わせて床や壁に刻み込んでゆく。リゥディエンもそれを手伝い、獣たちはひたすら辛抱強く待った。

 隠れ家にいる限り飢えも渇きもせず、眠る必要さえなかったが、退屈だけが厄介な問題だった。遊んでくれとねだる若い狼や虎にじゃれつかれ、シェリアイーダは時々苦笑しながら相手をしてやった。最後に残された唯一の喜びを、かたく噛みしめるように。

 そしてついに、すべての紋様が刻み込まれ、色と詞を載せて輝きはじめ――

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