十章(1) 異変は静かに進み

   十章


 白。一面の雪が陽光を反射して、白という色さえも消えてしまうほどに眩しい。

 膝近くまで足を埋めながら、一歩一歩、その中を進んでゆく。標もない急斜面を、継承者は通い慣れた道かのように歩んでいた。時折、雪に足をとられて体勢を崩すが、それでもほとんど危うげがない。

 ミオはスルギに背を支えられるようにして、自分で歩いていた。さすがにここまで来るともう、彼の両手を塞いでいるわけにはいかない。

 風が耳元で唸る。スルギはともかく人間二人は凍えてもおかしくないのだが、手足が痺れることさえなくいられるのは、継承者が用いる彩詠術のおかげだ。三人をつなぐ命綱は六色の紐。先頭を行く継承者が小さく詞を詠うごとに、暖かな力がそこを伝ってくる。

 ついに目の前に、切り立った崖が現れた。垂直を通り越して、頭上にせり出す形に湾曲している。スルギがはぁっと蒸気の小山を吐き出した。

「『女神の喉』だ」

「ここが?」

 思わずミオは頓狂な声を上げた。崖には風で雪がへばりついているが、ところどころ岩肌が露出している。よくよく目を凝らしてみると、小さな紫色のきらめきが見えるような気がしなくもない。

「昔は、こんなところまで水晶を採りに来ていたのですか」

 まさに命がけの求婚だ。これでは儀式も廃れるだろう。呆れつつ納得したミオの前で、継承者が崖に手を当てて伝い進み、ぴたりと足を止めた。慎重に帯の鉦を抜き、唇に押し当てて詞をつぶやく。一呼吸の後、透徹な音が響きわたった。崖に反射し、紺碧の空へと吸い込まれていく。

 瞬間、ざわり、とミオの中で潮がうねった。続けてもう一音、さらに一音。六の音が六の色を載せて歌う。


 白雪 血潮 萌ゆる草

 海原 麦の穂 遠き宇宙

 巡り廻せよ 百歳 千歳

 果つることなき 時の果つまで……


 ゴウン、と巨大な鐘が唸るような響きが応じる。空ろの底から熱く巨大な力がせり上がり、噴き出した。目には見えない流れが、渦巻きながら崖に吸い込まれてゆく。岩が六色に輝き、揺らめきはじめた。

 ふっ、と継承者が微かな吐息を漏らす。彼は鉦を帯に差し、新たな女神の器と、その忠実な友たる狼を手招きした。

「さあ、こちらへ。この奥こそが、『カリハルシ』――女神の柩だ」

 言って、自ら揺らめく光に手を通す。確かに岩であったにもかかわらず、何もないかのように突き抜けた。その手に誘われるように、ミオがふらりと歩きだす。急いでスルギも後を追い、六色の壁を通り抜けた。

 わずか一歩の間に、地の果てまでも移動したような感覚があった。固い岩を踏みしめ、ミオは目をみはってぐるりを見回した。

「――……」

 声も出ない。

 広い空洞には光の射し込むわずかな隙間さえないというのに、中は明るかった。床にも壁にも、天井にまで、複雑に絡み合った色彩溢れる紋様が刻まれ、ちらちら光っている。精緻に編まれた紋様は、あまりにも巨大な力を集め、満たし、放っていた。

 すべての中心に坐すのは巨大な水晶だ。その内に封じられた、一柱の女神と共に。

「シェリアイーダ姫」

 ミオの口からぽろりと名が落ちる。いにしえの姫君は、膝をついて祈る姿勢のまま時を止めていた。柔らかそうな布をたっぷり使った、どこか懐かしい異国の服。床に届く長い黒髪が優美な顔を縁取っている。瞼は閉じられているが、その奥の瞳が深い紫であることを、ミオは知っていた。

 記憶の高波が押し寄せ、岸辺を呑み込んだ。


     *


 ゆらり、ゆらり。硝子の筒の中で色が揺らめく。六つの色が球のように集まって、上へ、下へ、それぞれどこに落ち着くか迷っているかのように、入れ替わり浮いては沈み。

 飽かずそれを眺めていたシェリアイーダは、背後で控えめな咳払いをされて、おっと、と背筋を伸ばして振り向いた。

 所狭しと積み重なった書物や書類や様々な器具の間に、この部屋のあるじ、彩理学者マヨーシャ=ロダグが立っていた。三十代の、これといって人目を引く特徴のない女だ。いかにもな学者らしさも纏っておらず平凡で、ある意味、気楽に話せる相手ではある。

「ごめんなさい、つい見入ってしまって。つくづく面白いですね、この理力計というものは。これで湧出点の力の流れを計るのですよね? 秤などと違って、ひとつの目盛りをぴたっと指して止まることがなさそうだけれど、そういうものなのかしら」

 控えめに質問した王女に、マヨーシャは「はい」とうなずいてそばに寄り、指で筒の側面に触れた。

「理の力というのは、常に流れうつろうものですから。そのせいで昔は本当にてんでばらばらな条件のもとで我流に記録されていたし、今も統一基準が確立されていなくて困りものです。とはいえ近年はさすがに、白を基として相対値で諸々記録するのが主流として定着してきましたね。読み取るのにはちょっとした練習が必要なので、誰でも一目でわかる装置、というわけにいかないのが難点ですが。最近では第三工廠の調査にもこれを持って行ったんですよ」

「あなたが?」

 第三工廠、と聞いてシェリアイーダは真顔になった。やっと内部を見学できた日の帰り際、わずかな歪みを感じ取った件。気のせいかと思うほどではあったが、主任は必ず総点検すると約束し、後日その結果が書面で届けられた。

「異常なし、あくまで自然変動の範囲内で影響もきわめて短時間で消えている、といった感じの内容だったけれど、間違いありませんか」

「えっ、そうだったんですか? そんなふうに解釈されるような説明は……したのかな……いえあの、全然違うって言うのじゃないんですけど」

 マヨーシャは不本意げな声を上げ、次いで自分の落ち度かと思い返してしかめ面になり、唸る。シェリアイーダも眉をひそめた。

「異常はあったのですね?」

「はい」

 はっきり一言そう答えてから、マヨーシャは正確を期して注釈を加える。

「ただ、自然変動の範囲内か、影響は限定的か、と訊かれたら、まぁそうですね、という返事にはなります。極端な話、湧出点でさえ自然な変動の一部ですし、影響があるのは――封印のおかげではありますが、狭い範囲に限られているわけですから。だからその、詳しく説明したとしても結局の所『異常だと騒ぐほどではなく様子見で良い』のであれば、王女殿下には異常なしとお伝えして煩わせないようにしよう……と配慮されたのかもしれません」

「あるいは、わたしがまた乗り込んできて些細な異常をうるさく言ったら面倒だから、黙っていることにしたとか」

「かもしれません。どこの職場でも、よくあることです。正直に報告したら面倒が増えるだけだし、目を瞑っておいたって別に問題ないんだから、見なかったことにしよう。もし大事になったらその時に誰かが対処すればいい、わざわざ自分の首を絞めるなんて馬鹿げてる、って」

 マヨーシャは苦笑いで肩を竦める。知の殿堂たる六彩府の中でさえ、そうした人間心理のはたらきはままあることのようだ。

 シェリアイーダは傍らのリゥディエンを振り返り、不安のまなざしを交わした。しばし黙考し、彼女は慎重に口を開く。

「もし……仮定の話よ、もしも、工廠で見られた異常が本当にささやかで一時的限定的なもの、ではなかったとしたら? あなたが調査計測したその時は実際、見過ごしても問題ない程度だったとしても、その異常が長期間、何度も生じているとしたら。それは、あなたが以前に言った、理の力そのものの異常につながりはしない?」

「ワシュアールの『世界樹』本体の異常に、ですね。仮定、というか可能性としてはもちろん、あり得ます。枝葉末節のちょっとした異常なのか、幹である『御柱』からしておかしくなっているのかは、計測の限界でなんとも言えませんけど」

 マヨーシャはそこまで言い、目をしばたたいて複雑な表情になった。気遣いというよりは、相手の理性を疑うような警戒のまじったまなざしだ。シェリアイーダは苦笑いを返す。

「何を心配したのか察しはつくけれど、安心して。ウルヴェーユを使う人々に天罰が降って『世界樹』が枯れるだとか、昨今流行のああいう言説に影響されてはいないつもりよ。ただ、これまでと同じように常に安定した理の流れを前提としていたら、工廠のような大規模な施設では様々に不具合が生じるでしょうし、それによって民の生活にも影響が出るから」

「仰せの通りです」

 マヨーシャはほっとした顔で同意し、低頭して失礼を詫びた。

「すみません、近頃はそういう極端に悲観的な言説で不安を煽る声が、この王都でも大きくなってきているものですから。私みたいに無名の小物学者なんかは幸い無視されていますけど……」

 曖昧に口を濁し、残念そうに首を振る。沈黙の中に伏せられた事実を、シェリアイーダは厳しい面持ちで言葉にした。

「何かしらの“勢い”が生じれば、波に乗って名を売り、権威ぶる者が必ず現れる。理性や倫理や、将来的な影響はおろか客観的な事実さえどうでも良い、そういう無責任な者によって波はさらに荒れ狂い人を呑む……歴史上何度も繰り返されてきたことだわ」

 剥き出しの事実を辛辣に評した王女の物言いに、マヨーシャが怯む。それを見て取り、シェリアイーダは棘を引っ込めた。

「わたしたちはせいぜい、波に呑まれないように注意しながら、それはそれとして対処すべきことに向き合いましょう。現実問題、何ができるかしら? このまま理の力が不安定になれば、影響は工廠だけにとどまらないでしょう。数年前、火事の現場に居合わせたことがあるのですが、放水車がうまく動かなくて手間取っていました。故障だと言われたけれど、恐らく理力の異常が原因だったと思うのです」

「そんな頃からもう兆候があったなんて……はい、本当に生活すべてにかかわってくることです。とはいえ、何が出来るか、と言われると私は正直お手上げですが」

 曲がりなりにも最先端の学問の場に属する彩理学者が降参の仕草をしたもので、シェリアイーダは眉を上げた。マヨーシャは首を竦めて恐縮する。

「彩理学は理力そのものを調べて、異常や変化の原因を探り、そもそも世界樹とはどういうものなのかを解き明かす学問ですから。むろん成果は他の分野とも共有しますが、異常があるならどう対処するか、というのは彩術学の受け持ちですね」

「つまり、理力の異常それ自体はどうにもできない、不安定でも支障が出ないように工夫するしかない、ということね」

「それはそうです。ほら、だって、雨乞いしても雨は降らないから、水路を造り水を貯え、渇きに強い作物を栽培して乗り越えてきたわけじゃありませんか」

 でしょ、と言われてシェリアイーダは目をみはる。言われて見ればまったくその通り。自然の運行は変えられない、それは太古の昔から同じだ。

「参りました。わたしったら、いつの間にか世界の姿さえ変えられるように錯覚していたみたい。そうよね、世界樹の様子がおかしいからといって、いくらウルヴェーユがあっても人間の力でどうにかできるはずがなかったわ」

 苦笑気味に言って、ふと遠いまなざしになり、懐かしむようにつぶやく。

「これまでと同じく、知恵とわざで自然の厳しさに立ち向かうだけ。それが人間というものね」

 肯定的な響きをもった温かな声音だった。マヨーシャは我知らず微笑し、はい、とうなずく。

「彩術学は人材豊富ですから、きっとじきに打開策が出てきますよ。もし万が一、どうにもならなくても、その時は最終手段として『逃げる』があります。幸い『世界樹』とはいっても本当に世界すべてを覆っているわけではないので、その影響下から逃れることは可能ですよ」

「逃げる?」シェリアイーダは面白そうに応じた。「ワシュアールから、でも、どこへ?」

 西の海を渡って存在の不確かな別大陸を目指すか、それともワンジルを攻めて土地を奪うしかない。現実的にそう考えた王女に対し、彩理学者はにっこりして見せた。

「東の平原があるじゃないですか。今は氷漬けですが、恐らくあるはずの世界樹を開鑿して理の力を働かせることができたら、先住者のいないだだっ広い土地がまるごと手に入るんですよ。殿下から国王陛下や大臣の誰かに提案してみてください、きっと誰かは食いつくでしょう」

「まあ。驚かせてくれるわね、彩理学者マヨーシャ=ロダグ先生! あなたがそんなに野心家だなんて」

 シェリアイーダは目を丸くして大袈裟な声を上げ、次いで笑い出す。マヨーシャは大風呂敷を広げたのが恥ずかしそうな顔をしたが、すぐ一緒になって楽しげに笑った。

 世界に少しばかり異常が起きている、それは確かだが対応は可能だろうし、なんなら思い切った大きな夢を実現させる機会にさえなるかもしれない。

 そう楽観していられるのは、自分たちがまだ何も失っていないからだと、二人とも気付いていなかった。


「それで結局、獣兵は役に立たなかったわけですか」

「最強の兵士だとかぶち上げておいてねぇ」

「しょせん労僕しもべと獣のまぜもの、はなから無理があったんですよ」

「それこそ『成り損ない』……おっと」

 ひそひそ、くすくす。嘲りと皮肉、侮辱のささやきが王宮を流れていく。噂好きの貴族官僚、召使たちを通して、それらはシェリアイーダの耳にも舞い込んだ。

「リゥ、噂はどこまで本当なの? 兵部省と兄上はどうなさるつもりかしら」

 部屋の外で警護についている狼と豹を心配そうに見やり、王女は警士に尋ねた。リゥディエンは傍らに寄って膝をつき、声を抑えて答える。

「獣兵が殺戮の道具としては役に立たなかった、という点は事実のようです。人間に絶対服従するように調教しておきながら、同時に別の人間を――ただ無力化するというならともかく、殺せ、というのは無理があったとか。姫様の『仕事』が奏功したのもありましょう」

「まさか、もっと凶暴にしよう、だなんて考えは……」

「ないでしょう。そこまでの獣を造るとなれば、使役するにも相当な危険が伴います。ごく少人数での作戦ならともかく、大勢が入り乱れる場には連れて行けません。ただ、叛徒の築いた防柵や家屋などを壊し、脅して追い散らすといった命令は問題なく行えたし、人間のように略奪に夢中になって統率を失うこともなかった、と聞いています。ですので、今後はそうした使い方へ方針を変えるのが現実的でしょう」

 そこまで言って、彼はちらりと戸口に視線を向けた。心配そうに中を覗き込んでいた狼と豹が、見付かった、とばかり身を竦ませる。リゥディエンの口元がほころんだ。

「ああして王宮の警護をさせておくだけでも、王家の威信は高まるし安全も保たれるのですが。レーシュ殿下はもっと華々しい戦果をお望みのようですから、数を増やし戦場に連れ出すことを諦めてはくれますまい」

「でしょうね。ことに、今回の実戦投入が“失敗”だった、という評が広まってしまった後では、駄目だったから戦に出すのはやめます、なんて負けを認められるはずがないもの。何とかして失点を取り戻さないことにはね。……気の毒に」

 ふっとため息をつき、声をささやきにまで落とす。

「その点、だったら上手くいかなかったことは上手くいかなかった、と認めて、別な方法や、より適した選択肢を考えられたでしょうね。負けず嫌いで諦めが悪いのに、一方で見栄を張ったり地位名声をめぐって競うことには無頓着な方だったもの。あの振る舞いを当たり前だと思っていたから、世の殿方の大勢はそうではないと知って、どうして同じようにできないのかと本当に不思議だったわ」

 しみじみと過去を振り返った王女に、かつてその父に仕えた青年も懐かしそうに苦笑する。

「それは我が君が当時、他の何者も及ばぬ力を持っていたからでしょう。ウルヴェーユの才だけでなく、大王の座も脅かされることがなかった。そもそも彼は生い立ちからして孤立していて、常に他人と優位を競り合う集団の力学に馴染まなかったのでしょうから」

「ええそう、もちろん今では理解しているのよ。レーシュに同じ振る舞いは求められない。ずっと兄弟と比較され続け、露骨で無遠慮な品定めの噂につきまとわれて、軽んじられる屈辱を味わってきたのだもの。どうにか……」

 言いかけたところで人の気配に気付き、口をつぐむ。シェリアイーダの顔に戻って戸口を見やった姫の傍らで、青年もまたリゥディエンの面差しを取り戻して警戒した。

 幸い、入ってきたのはいつもの侍女だった。労僕を一人連れており、盆に載せた茶菓を運ばせてきたのだ。

 そんな時間だったか、とシェリアイーダは気を取り直して礼を言おうとし、はたと不審げに眉を寄せる。

「ウトゥはどうしたの?」

 通常、王族の目に触れるところで労僕が働くことはない。だがシェリアイーダは、彼らをよく知りたいのだ、と侍女に頼み込み、一人だけ労僕をそばに置いていたのだ。ウトゥと名付けられたその労僕は、最初は起床時に枕元まで洗面器を運んでくることしか出来なかったが、やがて少しずつ王女の日課を学び、やや複雑な指示も理解するようになってきたところだったのに。なぜ今、別の労僕を連れてきたのか。

 問いかけに対し、侍女は硬い表情で断固として答えた。

「これが新しいウトゥでございます。前のウトゥは不慮の事故に遭いましたので」

「――!」

 シェリアイーダは顔色を変え、侍女と労僕を凝視した。

 事故。

 この王宮内で、『不慮の事故』。

 それが何を意味するか、王女として理解できないはずがなかった。弱いものいじめは古くから人間の娯楽だが、王宮内のように権勢を競い合い特権意識を育てやすい環境では、ことさら顕著になる。人間同士はもちろん、憂さ晴らしに労僕をいたぶる者は、禁じても罰しても絶えない。軽微な罪など簡単に握り潰せる地位の者なら、尚更のこと。

 シェリアイーダは手をきつく拳に握りしめ、震える声で質した。

「事故、の……原因や状況は……教えては、くれないのでしょうね」

「まことに畏れながら」侍女は目を伏せ、低頭する。「既に廃棄処分とし、回収も済んでおります。どうぞお心を煩わせませんように」

 いつもはもっと温かみのある言葉をくれる侍女が、まるで突然氷になったように冷たい。それだけこの話題が危険だということだ。シェリアイーダは悔し涙で瞼が熱くなるのを感じたが、強いてそれを堪えた。

「……わかりました。ありがとう。茶菓を置いて下がってくれる?」

 はい、と侍女も短く応じ、労僕に指示を与えて王女のそばに盆を置かせると、そのまま連れ立って部屋を辞した。

(事故? 決まっている、レーシュ兄上のほかに誰がいるの)

 第五妃の娘にすぎないくせに着実に名声を築きつつあるシェリアイーダを、疎んじ憎む者は王宮内にもそれなりにいる。父王をはじめとして他の王子王女だけでなく、貴族の一部も。

 だが、彼女が労僕を大切に扱っており、労僕の研究にもいくらか協力して成果を上げていることを、ことさら忌々しく憎悪しているのはレーシュだけだ。

 おまえのお気に入りの労僕ども、弱々しく醜い労僕が似合いだ、そう罵ったレーシュ。

 長兄次兄を見返したいと、自分も歴とした王子であり崇敬されるべきだと、必死に努力してきた結果が今回の失敗に終わり、王子どころか王女ごときにさえ劣ることになって、さぞ憤激しただろう。それを何らかの形で、憎い相手に思い知らせずにはいられないほどに。

 シェリアイーダはぎゅっと目を瞑った。耐えきれずこぼれた涙が一筋だけ、頬を伝う。

(レーシュ。わたしはあなたを気の毒に思った。その境遇を慮り、助けられたらと願いもした。けれどもうやめましょう。憐れみを持たぬ者を思いやることは、もう)

 兄王子一人に対するのでない、その行いに象徴される残酷さすべてに対する怒りと諦めが胸を焼いた。



 ――時間の奔流が速さを増す。記憶の波頭が次々に訪れ、渦の中で閃く断片が『かつて経験したこと』として思い出されてゆく。



 日干し煉瓦の建物は、木材資源に乏しい乾燥地では安価で便利で、一般的だ。彩紀の世となりウルヴェーユによる補強と装飾は加わったものの、町並み全体の様相は大昔からあまり変わっていない土地も多い。

 自然条件に合った建築であるがゆえだが、そうなると弱点も同じく受け継がれてしまう。

 見る影も無く崩れた塀や壁が街路にまで散乱し、風に土埃が舞い上がる中、疲れた顔の人々が広場に向かい、行列を成していた。無事だった井戸で水を汲み、食料などの配給を受けるためだ。

「随分被害が大きいわね。王宮では少し物が壊れたり、転んで捻挫した人がいたぐらいだったけれど……まさかこんなに」

 瓦礫を避けて歩きながら、シェリアイーダは隣の青年警士に話しかける。リゥディエンも眉をひそめてうなずいた。

「こちらのほうが激しく揺れたようです。そこへもって建物の強度も王宮とは比べものになりませんから、これほどのありさまに。再建する時には日干し煉瓦を避けるか、やむを得なければしっかりウルヴェーユで補強するように定める必要がありますね。とはいえ、そのウルヴェーユがまともに働かなければ無意味ですが」

「そうね……ここ何十年も大きな地震は起きていなかったのに、やっぱり理の力そのものがおかしくなっているのだわ。本気で東部平原への移住計画を急がせないと」

 声を抑えて話し合っていたところへ、行く手から「姫様ー!」と明るい呼び声が届いた。顔を上げると同時に、とんでもない勢いで狼と豹が駆け寄ってきて、飛びつく寸前でぎりぎり止まった。

 狼のほうが満面に嬉しさを湛え、興奮気味に報告する。

「お帰りなさい! 待っている間に、生き埋めになっていた人を助けましたよ、五人!」

「まぁ、すごいじゃないイーヴァ! 良かったわね」

 シェリアイーダも笑顔になり、褒めて欲しそうな狼の頭をよしよしと撫でてやる。遅れてふうふう息を切らせながら追いついてきた役人が、畏まって一礼した。

「お帰りなさいませ、殿下。お預かりした獣兵二頭、捜索と救助に大活躍してくれましたよ。皆もすっかり頼もしく当てにするようになって、いやぁ本当に助かりました」

 そこで役人は二頭の獣に目をやり、信頼と感謝の笑みを見せる。

「もう息のない者が大半でしたが、それも弔ってやれましたし。生存者を見付けた時はとても喜んで……彼らのそんな様子に励まされる者、慰められる者も多うございました。獣兵をお連れになったと伺った時は、暴動や略奪を取り締まるためかと肝を冷やしましたが、まさかこんな風に助けて頂けるとは」

「そういう懸念も当然、ありましたけれど」シェリアイーダは苦笑した。「この子たちは人を怖がらせるよりも、人を助けたり一緒に楽しく遊んだりするほうが好きなんです。軍の方々は戦に連れ出して敵を震え上がらせたいようですが、本当はとても優しく善良な子たちなんですよ」

「さようでございましたか……それで、殿下のほうは如何でしたか」

 役人は緩んでいた頬を引き締め、心持ち身を屈めて小声で尋ねた。シェリアイーダも表情を改める。

「湧出点の封印には問題ありません。大丈夫です。ただ、明らかに異常な理力の動きがあった痕跡が残っていました」

「なんと。では地震もそれが原因で?」

「理力の乱れが直接地震を引き起こすのではありませんが、様々な要因と影響し合って今回ほどの規模になったのでしょう。いずれにしても、一度大きな地震があった土地はその後しばらく、揺れが起きやすくなるという記録もあります。無事だった建物の補強や住民の安全と医療の確保に努めてください。ただし……なるべくウルヴェーユには頼らないで。次にまた大きな揺れがあった時、理力の乱れも伴っていたら、対応できないかもしれません」

「御意、承知いたしました」

 役人は畏まって一礼し、次いで難しい顔になって、独り言のようにつぶやいた。

「となるとせいぜい労僕を働かせんと。しかしあの妙な奴はな……」

「どうしました、何か問題が?」

 王女が聞きとがめると、声に出すつもりはなかったらしい役人は、慌てて取り繕った。

「ああいえ、労僕の話など殿下のお耳には」

「配慮には感謝しますが、わたくしも一応は労僕研究に携わる身ですし、専門の学者への伝手もあります。聞かせてください」

「はぁ、まぁ……たいしたことではないのですが。この辺りでは第一工廠からの供給が主なのですが、近年長らく供給不足なので、第三工廠から融通されることも増えてきまして。その中に、ちょっとおかしなものがまじっているんですよ。いえ、使い物にならない不良品ではないんですが。普通の労僕は餌を食べても食べなくてもあまり変わらないものですが、そいつらは明らかに『腹を空かせる』んです。勝手にその辺の虫なんかをつまみ食い……ああいえ、失礼」

 おほんおほん、と役人は咳払いしてごまかす。シェリアイーダとリゥディエンが顔を見合わせている間に、彼は早口で話を切り上げた。

「お耳汚しをいたしました、ご容赦を。こちらで対処いたしますので、殿下はどうぞお気になさらんでください。どうせいつものあれですよ、地方の連中には適当な粗悪品をあてがっておけばいい、という。きつめに文句を言ってやれば、しばらくは真面目にやるでしょう。では、私はこれで」

 言うだけ言って、役人は急ぎ足に去って行く。シェリアイーダとリゥディエンは共に厳しい面持ちでそれを見送っていた。


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