明日への希望

   *


 翌日、シェイダールは予定通り王の私宮殿へ赴いたが、ひどい裏切りをはたらいた自覚から、まともに顔を見られなかった。王はあからさまに様子のおかしい跡継ぎを観察し、ややあって思い当たった顔をした。

「そうか。我が妃の閨で過ごしたか」

 看破されたシェイダールは身を竦ませる。背後でリッダーシュが息を飲むのが聞こえ、絶望的な気持ちになった。昨日は暗くなるまで待たされたのに、忠義な従者は何も言わなかった。その彼に今、軽蔑の目を向けられていると思うと、消え入りたくなる。

 羞恥と悔恨で耳まで赤く染めてうつむくシェイダールに、王は複雑な苦笑をこぼした。

「良い。妃に招かれたのであれば、そなたに断れる道理もあるまい。いずれそなたのものになるのだし……あれにも、思うところがあるのだろう」

 寂しげにつぶやき、いつものように絨毯に腰を下ろして二人を誘う。少年二人がぎこちなく座ると、アルハーシュはひとつため息をついてから告げた。

「王の力は、子を生すことを阻むのだ。ラファーリィは四度身籠ったが、三度は流れ、最後にやっと生まれた子は人の姿をしておらず、産声を上げることもなく死んだ」

 衝撃を受けたシェイダールは目をみはる。王は膝の上で拳を握って続けた。

「若さを証するため、そしてまた妃の望みもあり、二度三度と流産しても通い続けていたが……さすがにこれ以上はならぬ、もしまた身籠れば次は妃が命を落とすやもしれぬ。そう判断して、以来あれには触れておらぬのだ。命あればこそ、王妃としてドゥスガルとワシュアールの友好を取り持つ役目も果たせるというもの。だが……求められぬと承知で美しく装い、『柘榴の宮』のあるじたらんと努めることは、酷であったのだろう」

 そこまで語り、王は哀しげなまなざしを、若い跡継ぎに注いだ。

「あれを憐れんでやってくれ。余の子を産みたい、なぜ王となる前に出逢えなんだかと、身も世もなく嘆き暮らした頃もある。したたかな王妃ではあるが、か弱い女なのだ」

 切ない頼みに、シェイダールはなんとも答えられなかった。しんみりとした沈黙がしばし続く。アルハーシュは己に対して小さく失笑し、首を振った。

「いかんな、妻女のあるそなたを都合よく妃にあてがおうとは。だがそなたにとっても多少の益はあるぞ。第一の妃を立てることで、他の妃から招かれても無難に断れるだろう。ともあれ、そなたが己を責める必要はない。さて……本題に入ろう」

 気を取り直し、表情を改めて昨日の宝石箱を取り出す。蓋を開けると、王はシェイダールの前にそれを置いた。とりどりの色が溢れ、シェイダールは目を奪われる。

「これは、『最初の人々』の遺物や遺跡から集めたものだ。そなたにはどう見える」

 問われて手を伸ばし、ひとつひとつ石を手に取った。どれも、そのもの自身と同じ色をうっすらと放ち、微かな音を帯びている。無意識のうちに、彼はそれらの石を六種類に分けていた。濃淡や色合いにばらつきはあるが、あの短刀に見えたのと同じ六色。

 白、赤、緑、青、黄、紫。同じ色にまとめられた石が互いに響き合う。

「……音が、聞こえます」

 シェイダールはささやくように答えた。

「色は石そのものと同じ。それぞれの色に対応した音が聞こえるんです」

「揚水機も、儀式の短刀もか?」

 はい、と彼は応じて、揺らめく色彩から強いて意識をそらせた。

「俺は昔から、声や音に色が見えていました。人の声や鳥の鳴き声、扉を開け閉めする音なんかにも、全部。無視できるほど薄いことも多いですが」

「今、こうして余が話す声にも色がついておるのか」

 不可解げに問うた王に、彼はうなずき、青い石のまとまりを探ってひとつ取り上げた。

「これです。同じ人の声ならばいつも同じ色というわけではなくて、叫んだり泣いたりすればもちろん変わりますが……アルハーシュ様の普段のお声は、いつもこの色です」

「ふむ。天藍石か」

 王は興味深げに夜空色の石を掌で転がした。明晰な王も自らが持たぬ感覚についてはいまひとつ理解しづらいようで、思案げに首を傾げている。

「アルハーシュ様にお会いしてからは逆に、色に音が聞こえるようにもなったんです。あの揚水機の建物に入った時……低い鐘のような音が響いていました。高い音も幾つか。それが欠けているのがわかったんです。必要な石がこれだと」

 シェイダールは目を落とし、黄色の山からひとつ選ぶ。チリチリと指の間で震える微かな音。アルハーシュはしばし瞑目し耳を澄ませてから、残念そうに言った。

「余が他人に聞こえぬ音を捉えたのは、『最初の人々』の遺跡と思しき祠を訪れた時だけだ。それも色とかかわりがあるとは気付かなんだ」

「王の力を受け継いでいても、駄目なんですか」

「恐らくこの力は、感覚にまでは及ばぬのだろう。揚水機の欠けたる石を見出したのも、そなたの選択が正しいとわかったのも、そなたのように色や音から直接読み取ったわけではない。深みに通ずる手がかりによって確信したのだ」

 淡々と答えられ、シェイダールは失望をあらわにした。思わず正直に肩を落とす。

「あなたにさえ、俺が見ているものをわかって頂けないんですね」

 途端に王が、失笑を堪え損なってぐふっと妙な声を漏らす。シェイダールがむっとなって睨むと、彼は鷹揚な――向けられる側にとってはいささか癪に障る笑みを返した。

「いや、すまぬ。そなたの口から『わかってくれない』などと、並の若者らしい言葉が出るとは思わなんだ」

 揶揄されたシェイダールは頬を紅潮させたが、王はそれすらも面白がるばかりだった。

「そなたは色や音のついた世界を余が理解せぬと難じるが、ならばそなたのほうは、どうなのだ。声にも音にも色のつかぬ世界を見聞きしたことのないそなたが、我らを理解していると申すか? そなたと余がこうして共にいても、そなたの見ている世界を余が見ることはできぬように、余と妃が同じ花を見つめても、色や香りや美しさを同じように認めているとは限らない。それを確かめる術はない」

「あ……」

 世界の真実の姿は、誰一人正しく捉えていないのかもしれない。その可能性に気付かされ、シェイダールは急に恐ろしくなった。己の目に映る色鮮やかな世界こそが本当で、皆にはそれが見えていないだけだと思っていたが、そうではないのだと。

 身震いした彼に、王は優しく諭した。

「実際のところ、この世は誰もが『こうであろう』と暗黙に定めた約束事の上に成り立っているのだ。一人として、世界を同じように見ている者がいないとしても、そのような諒解の上に暮らしている。まつりごとも同じだ、心せよ」

 シェイダールはしばし無言だった。衝撃で波立った感情が落ち着くと、深く息をつく。

「やはり、あなたは死ぬべきじゃない。そんな考えのできる人が、朝起きるのが億劫だとか白髪が生えたとか、下らない理由で命を絶たれるなんて馬鹿げている」

「余といういち人間の価値よりも、身に宿す神の力が重いのだ。やむを得まい」

 ほろ苦く微笑んだ王を否定するように、シェイダールは身を乗り出して言った。

「聞いてください。俺は確かに資質に恵まれているかもしれない。でも、他の者だって資質がないわけじゃないんでしょう。だったら、王にならなくてもこの『穴』の壁に手がかり足がかりを刻むことができれば、誰だって深みへ水を汲みに降りていける。きっと方法があるはずです――色と音の間に」

 希望に逸る少年の言葉に、アルハーシュ王は驚き、声を失った。ゆっくりと理解が浸透すると、彼は唇を震わせてつぶやく。

「そのようなことが……可能なものだろうか」

「できるはずです。『最初の人々』がこれだけ多くのものを遺しているのなら、彼らはたった一人に頼っていたはずがない。皆が同じように色と音を感じ取れて、それであんな装置や道具を作れたんです。儀式を行う前に方法を見付けましょう、それで皆に教えるんです。いもしない神に祈らなくていい、王一人の若さと力に国全部を任せるような、危ういことをしなくていいって! そうしたら俺は、……俺は、あなたを殺さなくて済む」

 熱をこめて語るシェイダールに、王も次第に引き込まれ、ついには笑みを広げた。

「面白い。余の役目はすべてそなたに譲って終わりかと思っていたが、この世を去る前にひとつ大業をなせるやもしれぬか。ふふ、なんと胸躍ることよ」

 瞳に光が宿り、王の全身を活力が取り巻く。

「死を恐れはせぬ。だがこのまま朽ちるよりは名を残したい。良かろう、我が跡継ぎよ。共にいにしえの力を求めようではないか」


 どこからどのように手をつけるか、王とシェイダールは昼食を挟んで長く話し合った。まずは『最初の人々』の遺物や遺跡に触れて、色と音のかかわりにどのような仕組みが隠されているのかを探ろう、との結論に落ち着いた頃には、太陽が中天を去っていた。

 王のもとを辞した後、リッダーシュは一言も口をきかなかった。高揚していたシェイダールの意気もじきにしぼみ、びくつきながら従者の後についていく。

 いつもの日課で鍛錬所に着き、練習用の木刀を取って向かい合う。かつてなく鋭い目つきで睨み据えられ、シェイダールは恥じ入って顔を伏せた。

「リッダーシュ、その……」

 弁解を試みた途端、声もなくリッダーシュが斬りかかった。反射的に受けたが、痛烈な衝撃が腕に伝わる。怒りに満ちた攻撃を次々に繰り出され、シェイダールは惨めな気持ちでひたすら防御した。軽蔑され叩きのめされて当然だ。それだけのことをした。これは彼の正当な非難であり罵倒であるのだ。甘んじて受けるしかない。

 だが一方的にやられ続けるうち、次第に腹が立ってきた。確かに己は王やヴィルメの信頼を裏切った。王妃との同衾は決して褒められた行為でないと承知している。しかし。

(おまえなら拒めたとでも言うのか? 王が『良い』と赦されたことを、おまえが責められるって言うのか!)

「くそ、この……っ!」

 悔しさに歯軋りし、反撃に出る。未熟で乱雑な突きはあっさり防がれ、より激しい攻撃を招いた。噛み合う太刀ごしにリッダーシュのまなざしに射抜かれ、シェイダールの背筋が冷える。その隙に、手痛い一撃を打ち込まれた。

「うあっ!」

 木刀を弾き飛ばされ、突きを避けようとのけぞった拍子に足がもつれて倒れる。背中を打って息が詰まった。立ち直る隙もなく、腹の上にリッダーシュが馬乗りになり、襟首を掴み上げて拳をふりかぶった。咄嗟にシェイダールは歯を食いしばる。だが、予期した衝撃はなかった。リッダーシュは拳を震わせ、がくりと力を抜いてうなだれる。

 ややあってリッダーシュは立ち上がり、弾き飛ばした木刀を取りに行った。シェイダールは身を起こしたものの地べたに座り込んだまま、従者の背中を眺める。相変わらず一言も口をきいてくれない。舌打ちさえ聞かれない。

「リッダーシュ」

 呼びかけると泣きたくなった。頼むから返事をしてくれ。

「……リッダーシュ!」

 二度目でようやく、反応があった。振り返らないまま、彼は砂を蹴ってため息をつく。しばらくして、

「王宮に来たのは七歳の時だった」

 ぽつり、と言葉が落ちた。一瞬の光を引く大粒の天気雨のように。シェイダールはあちこちずきずき痛むのを堪えながら、ぱら、ぱら、と落ちる雨粒を眺めていた。

「アルハーシュ様もラファーリィ様も、まるで我が子にするように接してくださった。大恩を受け、お二方を父とも母ともお慕いしておきながら、私は」

 声が揺れ、途切れる。怒りと口惜しさにこわばるその背を見ていられず、シェイダールは目を伏せて唇を噛んだ。声に出されずとも無念がありありと伝わってくる。

 敬愛する王と王妃の苦しみに気付けず、助けになれず。挙句こんな田舎の小僧が。

 ああ、とシェイダールはがっくり頭を垂れた。ひどく惨めだ。リッダーシュの純真無垢で誠実な苦しみに比べ、己はなんとみっともないことか。熱情に身を焦がした末の逢瀬だったならばまだしも、いわばちょうど良い存在として利用され、その快楽にたやすく酔い、挙句に従者の信頼を失って軽蔑された。

「もう駄目だ……」

 今、水辺に行ったら、発作的に石を抱いて飛び込むかもしれない。弱音を吐いた途端、リッダーシュがきっと振り返り、つかつか歩み寄って乱暴に肩を揺さぶった。

「何が駄目だ、勝手を言うな! おぬしが始めたことに責任を持て!」

「俺が始めたこと?」

 驚いてとっさに意味がわからず、シェイダールは当惑顔をする。リッダーシュは傍らに片膝をつき、そうだ、と声を低めてささやいた。

「王の力を解き明かし広く大勢のものとし、神殿の権威を失わせ、民を自由にするのだろう。アルハーシュ様を、旧い軛から解き放って差し上げるのだろう!」

 熱い黄金が刃のように光沢を帯びる。シェイダールが気迫に呑まれて答えられずにいると、リッダーシュは肩を離して苦々しく言い添えた。

「ラファーリィ様のことは正直に言って赦し難いし、おぬしを城壁から逆さに吊るしてやりたいと思わなくもないが」

「おいやめろ」

 慌ててシェイダールが抗議すると、リッダーシュは初めて見る凶悪な笑みを浮かべた。

「妻女にどう言い訳するか、せいぜい悩め。『柘榴の宮』で秘密が保たれると思うなよ」

 痛い所を突かれてシェイダールは瞑目し、長々と息を吐き出して顔を覆った。

「少しは俺の身も思いやってくれよ」

 捨て鉢なぼやきに対し、リッダーシュは自業自得とばかり鼻を鳴らしたが、次いでふと神妙な顔つきになった。

「……思えば私も覚悟が足りなかった。おぬしが次の王になるということは、すなわちアルハーシュ様を手にかけ、ラファーリィ様をその腕に抱くということだ。頭だけでわかったつもりでいて、肚を括っておらなんだ。……すまぬ」

「謝るな。おまえに頭を下げられたんじゃ、ますます俺の立場がない。不心得者でも間男でも、気が済むまで好きに罵れ」

 げんなり唸ったシェイダールに、リッダーシュは苦笑しただけで何とも言わず立ち上がる。シェイダールもようやく腰を上げ、打たれた腕や足の痛みに顔をしかめながら、尻についた砂を払った。そこではたと気付き、木刀を片付けている従者に声をかける。

「七歳で王宮に来たって? ここで育ったんじゃないのか」

 ああ、とリッダーシュは答え、道具をきちんと整頓してから戻ってきた。

「私の家はウルビの王家だった。とうの昔にワシュアールの属国になったが、かつて人質を出した名残で三男の私が出仕したのだ。実際は単に遺産の分け前がないから、栄達したければ自力で励め、という事情なんだが」

「それがどこぞの馬の骨の従者をやらされるとは、ご愁傷様なことだ」

 シェイダールはわざと辛辣に言い、反論が来る前に続けた。

「普通なら俺はすんなり次の王になって、おまえもただの従者じゃなく近衛隊長とか、もっといい地位に上がれて、望み通り出世栄達思いのままだったのにな。当分俺は『候補』のままだぞ。しかもきっとこの先、敵ばかり増える。貧乏くじを引いたな」

 彼が浮かべた皮肉な笑みをリッダーシュは真顔で見つめ、姿勢を正して一礼した。

「それでも喜んで従おう、我が君」

「やめろ」

 すかさずシェイダールは拒否し、手を差し出した。

「俺は第一候補でおまえは従者で、その立場は変わらない。だがこれからやろうとしていること、実現しようとしている未来は、今までの身分だとかしきたりだとか、そういうものに縛られていたら辿り着けない。だから頼む。……力を貸してくれ。友人として」

 最後の一言はほとんど聞き取れないほどの小声で早口だったが、それでもリッダーシュはしっかり受け止めた。森緑の目をぱちくりさせてから、堪えきれずに笑いだす。

 シェイダールは苦虫を噛み潰し、赤い顔で唸った。笑われたこともだが、途端に溢れた幸福な輝きに巻き込まれ、いたたまれなくなる。彼の忍耐がわかっているのかいないのか、リッダーシュは朗らかに笑いながら力強く握手した。

「ああ、もちろんだ。我が友シェイダール」

 親しみを込めて名を呼び、誓いの証とばかり、がっしと抱擁する。さんざん打ち据えられた身体にとどめを刺され、シェイダールは悲鳴を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る