四章

火祭り

   四章



 ビィーン……

 弾かれた弦が震え、緑の波紋が拡がる。シェイダールはぎゅっと目を細めてその色を見極め、首を振った。手元に置いた翡翠に耳を澄ませ、弦を押さえる指の位置をずらして、もう一度。

 ぴたりと音が合い、石の歌声が大きくなると共に鮮やかな緑が輝いた。見守るアルハーシュが、ほう、と声を漏らす。シェイダールは絨毯に胡坐をかいたまま、五弦琴を横に置いて、寒さにかじかんだ手に息を吐きかけた。すぐ近くに火鉢があるが、べったりへばりつきでもしない限り、大して暖は取れない。

「この音ですね」

「そのようだ。色が強まるのが余にもはっきり見えた。やはり、ひとつの色にひとつの音が対応していることは間違いあるまい」

「ええ。細かな違いはありますが、この六色と六音が基本になっているんでしょう」

 王の推論に同意し、シェイダールは大昔に加工された宝石を眺める。白、赤、緑、青、黄、紫。それぞれの分類の中で色合いによって多少揺らぎはするが、基本となる音があることは既に突き止めていた。

 比較のために最近加工された石も用意されたが、それらは色に応じた音を微かに帯びているものの、こちらの働きかけにいっさい応えなかった。シェイダールは小さな柘榴石をつまんでじっと睨み、古い石と何が違うのかと首を捻った。

「何かが音と色を結び付けているんです。それがわかれば、俺たちもまた新しい石に音を響かせて、力を引き出すことができるはず……それにしても、音を確かめるのにいちいち調律するのは不便ですね。何か、いつでも同じ音が出る楽器はありませんか」

 楽器と言えばこの五弦琴、というのが王宮の常識だったので、シェイダールもそれを用いて音を探っていたが、音が一定しないのには難儀させられていた。

「ふむ。笛という手もあるが、最初に色に応じた音が出るように作るのが難しかろうな。もっと簡単に作れて、音が変わりにくい……打ち鳴らす類のものか」

 アルハーシュ王がはたと閃いて言い、シェイダールもぱっと顔を輝かせる。

「金属の棒がいい! よく響くし、一度作れば長持ちする。奏者によって音が変わることもない。それでいきましょう。単純な形で、ひとつの澄んだ音が出るように」

「鍛冶師や細工師には、無理難題をと嫌がられそうだがな」

「たったの六音ですよ。長さや太さ、材質を変えた棒を何種類か用意して……」

 熱心に案を検討する二人に、壁際から「シッ」と声がかかった。外の気配に警戒しているリッダーシュだ。王とシェイダールは急いで琴を隅にやり、石を片付け、粘土板を互いの間に並べる。土地の権利をめぐる訴えと、それについての調査報告だ。各地から寄せられる訴えに、こう対処せよと命じたり、かような訴えが届くとは何事かと地方役人を叱責したりするのも、王の仕事なのである。シェイダールが呆れて「役人ってのは馬鹿なのか」とうっかり正直な感想を漏らしたところ、王はやんわりとたしなめて「そう厳しく断ずるでない。己には物事を決める権限も、責任を負う能力もございませんという、麗しい謙譲の美徳であろう」とのたもうた。

 ともあれ、そうした慎ましい役人のおかげで、場をごまかす文書の山には事欠かない。二人はあれこれ読み比べているように装い、リッダーシュも何食わぬ顔で壁際を離れて近くに寄る。同時に、外から召使の声が告げた。

「祭司長ディルエン様がお見えになりました」

 入れ、とアルハーシュが応じると、召使がずっしりした帳を持ち上げた。いかめしい顔つきの初老の男に続き、お供のジョルハイが入る。最後尾の平神官は外で待機した。

 シェイダールと王も立って客を迎える。今日は祭司長自らが、各候補者のもとを巡察すると知らされていた。半白髪の祭司長は両手を袖に入れた臣従の礼をとり、王も丁寧な礼を返した。

「ご機嫌麗しゅう、偉大なる天空神アシャの現し身、民の守り手たる王よ」

「そなたも健勝のようで何よりだ、神々のしもべにして民の導き手たるディルエンよ」

 仰々しい挨拶が済むと、祭司長は遠慮のない視線で室内をさっと見回した。鷹のような目が二人の少年の上を走り、絨毯に置かれた粘土板を捉える。

「第一候補殿も、日々励んでおいでのようですな」

「我が跡継ぎは覚えが良い。余も安心して後事を託せるというものだ」

 アルハーシュが鷹揚に応じて誇らしげな顔をする。祭司長はシェイダールを見据え、探るように目を細めた。

「成果の程、しかと見せていただきますぞ」

 脅すような含みのある灰銀色の声を受け、シェイダールは畏まって一礼した。おほん、と祭司長が咳払いしておもむろに問いかける。

「目覚めて最初に寝台から降りる足は」

「左」

「血族を殺した罪人に触れた手を清めるには」

「塩水で三度洗い、麦わらの束で三度ずつこする。先に左手、その後で右手。最後に香油を二滴垂らしてすりこむこと」

 次々に出される細々した決まりごとに、シェイダールは時々考えながら答える。十問余り尋ね、祭司長は渋い顔になった。

「よく覚えてはおるが間違いも多い。ジョルハイ、手を抜いておるのではあるまいな?」

「滅相もないことでございます、ディルエン様。第一殿は恐らく今しがたまで、王と熱心に議論されていささかお疲れなのでしょう。普段は正しく記憶しておいでです」

 すぐさま言い訳したジョルハイに、祭司長は疑わしげな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。標的を変え、リッダーシュを睨みつける。

「鍛練のほうはどうだ。見たところ、第一殿はいまだ女子のように華奢なようだが」

 軽侮をこめて放たれた言葉に、シェイダールはぴくりとこめかみをひきつらせる。あるじが余計なことを言わぬうちにと、リッダーシュが急いで答えた。

「お言葉ながら、人の身体というものは粘土細工のように簡単には作り変えられぬものでございます。第一殿は王宮に来たばかりの頃に比べ、随分と逞しくなられました。短刀の扱いにかけては、申し分ない上達ぶりであるかと存じます」

「まこと、さようであれば良いがな。少し披露してもらおう」

 祭司長が傲岸に命じる。予想していたシェイダールは平静に承諾し、リッダーシュが差し出す短刀を受け取った。最近は練習にも木刀ではなく、儀式用のものに形や重さの似たこの刀を用いるようになっていた。日常的に帯刀してはいないが、手に馴染みつつある。

 部屋の中央の空いた場所に進み出ると、静かにひとつ息を吐き、鞘を払う。仮想の敵に向かって素早く踏み込み、鋭く一突き。引き抜きざまに返して斬り、ひらりと見えない刃をかわす。一通りそつなく型を演じると、一礼して刃を収めた。

 武芸に関して慧眼とは言いがたい祭司長は、顎鬚をしごいてもったいぶるばかり。リッダーシュが横から説明した。

「ご覧の通り、ほとんど危うげのない域にまで習熟されました。都に来るまで武芸を一切たしなんでいなかったことを思えば、充分かと。今後の練達も期待できましょう」

「おお、そうであったな」

 第一候補が貧しい田舎者であったことを思い出し、祭司長はうむと大きくうなずいた。シェイダールを見る目が、蔑みと哀れみと、尊大な慈悲に彩られる。

「読み書きも満足にできぬ身であったことを思えば、なるほど目覚しい成長である。一日も早く王の力を受け継ぐにふさわしき器となるよう、いっそう励むが良い」

 ありがたきお言葉、との返事が望まれるところだが、シェイダールは声を詰まらせたように黙って低頭した。伏せた顔が憤怒と侮蔑に歪んでいると悟られぬよう、充分に深く。

 祭司長は寛容な笑みを浮かべ、王に向き直ると慇懃に一礼した。

「その日まで、何卒御身大事になされませ、王よ」

「心得ておる」

 アルハーシュが苦笑を滲ませて応じる。死すべき定めの日までは死んでくれるな、などという頼みに、誰が皮肉な思いを抱かずにいられようか。祭司長も明らかにそれを感じ取ってはいたが、素知らぬふりで続けた。

「時に王よ、この冬は例年よりも寒さが厳しゅうございます。近々火の神に供犠を」

「うむ、執り行おう」

 了承を取り付けて満足し、祭司長は王の御前を辞する。外で待っていた神官だけを連れて祭司長が去ると、居残ったジョルハイは苛立ちもあらわにシェイダールに詰め寄った。

「第一殿、わざと間違えただろう。それとも私が言った通り、君のおつむはちょっとした議論ですぐに茹だる程度の粗悪品か」

 わざと辛辣に非難したジョルハイの挑発には乗らず、シェイダールはそらとぼけた。

「あんまり優秀なところを見せてしまったら、後々面倒じゃないか」

 どうせ決まりごとを守るつもりも、神殿の言いなりになるつもりもないのだ。完全に記憶していると知られてしまったら、忘れてた、だの、うっかりした、だのという言い訳は使えない。それに、あまり早くに準備が整ったとみなされても困る――こちらの理由は明かせないが。

「狡賢い君のおかげで私の評価が下がったら、どうしてくれるんだ」

「そんな心配はないさ。あんたのおかげで面倒な文書もすらすら読めるようになった。そのうち、古より伝わる神々の説話にさえ取り組めるかもな。教師としては充分に優秀だと自慢していいとも。それより、頼んでおいた話はどうなってる?」

 シェイダールは白々しく話題を変えた。神殿に保管されている『最初の人々』の遺物を見せてくれ、なんなら貸してくれ、と頼んであったのだ。ジョルハイはやれやれと肩を落としたが、すぐにいつもの口調に戻って答えた。

「見せるのはいいが、貸し出すのはやはり拒否されたよ。紛失されたら大事だし、あちこち持ち運んでいる間に壊れでもしたら、修復する方法もわからないのだからね。どうしても見たければ神殿に来いと仰せだ。もちろんその際は、神々への挨拶と感謝を忘れずに、と……その顔はよしたまえよ、産まれたての猿じゃあるまいし」

 猿呼ばわりされてシェイダールはますます嫌そうな顔をし、アルハーシュ王とリッダーシュが揃って失笑した。ごほんと咳払いし、王が取り繕うように言う。

「ちょうど良い。近々、火の神アータルへ捧げものを供えて暖を乞うゆえ、そなたも参列せよ。心より祈れとは言わぬ。新たに王となる身として、祭儀の実際と携わる人々のありようをしかと学ぶが良い。儀式が終わった後、神殿内で宝物を見せてもらうとしよう」

「第一殿とご一緒に?」

「さよう。すべての宝物をじっくり眺める機会は、余もなかなか得られぬのでな。案ずるな、ひとつ寄越せとは言わぬよ」

 くく、と王は悪戯めかして笑った。ジョルハイは曖昧な苦笑で返答をごまかし、低頭する。ではそのように申し伝えて段取りをいたします、と恭しく了承して彼が出て行くと、シェイダールと王はどちらからともなく顔を見合わせた。

「アルハーシュ様でも、すべてをご覧になったことはないんですか」

「うむ。『最初の人々』が遺したもののうち、揚水機のように大型で動かせないものは別として、細々した品はすべて神殿が保管しておるのでな。儀式祭礼の折にしかるべき祭具を用いるほかは、王といえどもおいそれとは手に取れぬのだ」

「でも、儀式の短刀はここにありますよね」

 ちらりとシェイダールは部屋の隅に目をやった。壁際に並ぶ大小の櫃。あの中に安置されているのだ――王の命を奪う刃が。王もまた同じところを一瞥してうなずいた。

「継承の刀は二振り伝わっておるのだ。儀式では余とそなたが共に用いるのでな。一振りは神殿にあり、だが一振りは常に王の身近に置かれているのだ」

「……不慮の死に備えて、ですか」

 意味ありげな言葉の裏側を理解し、シェイダールは苦々しく言う。無為に死なれて力が失われる前に、その場にいる者があの短刀でとどめを刺して、不完全でも間に合わせに継承するためなのだろう。王はむしろ面白がるような表情で肯定した。

「そなたは実に察しが良いな。あまり聡すぎる王も嫌われるぞ。鋭利な知恵は時に刃よりも深く人を傷つける」

「構いません。俺は王になりませんから」

 シェイダールは低くささやいて顔を伏せる。困った奴だと言うようなアルハーシュのまなざしを避けるように。

「王の力の秘密を解き明かせたら、きっと……王の子も普通に生まれるはずです。資質があっても継承するまでなら子を生せるのだから、絶対に不可能なわけじゃない。何か理由があるはずなんです。それがわかれば、きっと」

 結論は言わず、口を閉ざす。王が子を生せるようになれば、血を引く子を世継ぎにすることが可能になる。すぐれた資質を受け継がせ、殺し合う必要もなく次の王として育てられる。そうなるはずだとシェイダールは確信していたが、その時に王の子を産むのが誰かと考えると、舌が鈍るのだ。

 ラファーリィとはあれからも逢瀬を重ねているが、王妃が彼の子を宿す気配はない。四度酷使された子宮はもう、命を育む力を失ったのかもしれない。だとすれば、シェイダールの予想する未来は彼女にとってあまりにも残酷ではあるまいか。

 不義を知られて以来、なぜか王と王妃の関係は改善されたようだった。相変わらず肌に触れてはいないらしいが、王は再び『柘榴の宮』を訪うようになった。

 一方でシェイダールとヴィルメの間は、ぎこちなく軋んでいた。王妃とのことは知っていように、非難しない代わり徹底的にその話題を避けるのだ。仕方なく彼も謝罪を諦め、夫らしくせいぜい心を砕いた。妻の身体を気遣い、大きな腹を内から蹴る足を愛で、一緒に名前を考えたり将来を想像したり。甲斐あって今のところ破局は避けられている。

 シェイダールの考えをなぞったかのように、アルハーシュが言った。

「そなたの子は、もうじきに産まれるそうだな」

「ええ。ダハエ先生は問題ないから任せろと、頼もしく請け合ってくれました。この後また様子を見に行く予定ですが、次は無事に生まれて落ち着くまで会えないみたいです。どっちにしても俺の出る幕じゃないから、おとなしく待つしかありません」

 言葉にされなかった不安と無力感が、声音や仕草に滲み出る。アルハーシュはそれをひとつひとつ受け止め、静かに告げた。

「祈るが良い」

 はっ、とシェイダールが顔を上げる。王は穏やかに繰り返した。

「神を信じずとも、祈れば良いのだ。妻女が産みの苦しみに耐え抜くよう、ダハエが持てるわざを間違いなくふるうように。神ではなく、人を信じて祈れ」

「人を、信じて……」

「むろん人の力は弱く、心もすぐに挫けるものだ。しかしそれでも、己の手が届かぬのならば、望みをかけて祈るしかない。そうであろう? シェイダール。神が真実、天におわすか地におわすか、それは必ずしも重要ではない。人には縋るものが必要なのだよ」

 祈れば良い。その一言は、不安に揺らぐシェイダールの心がまさに求めていたものだった。すとんと胸におさまったそれは、しかし根付かなかった。続けて一緒に入り込もうとした言葉に気付いた途端、憤怒が火を噴きすべてを焼き尽くしたのだ。

「縋りついて、責任を全部押し付けて、それを理由にして自分たちの醜さや愚かさを正当化できる、都合のいい存在が必要だってことでしょう!」

 剥き出しの怒りと煮えたぎる毒を浴びせられ、さしものアルハーシュも怯む。シェイダールは己の激情を持て余し、無礼を承知で宮殿を飛び出した。

 アルハーシュは肩を竦めてリッダーシュを見やった。

「やれ、失言であったな。なかなか手強い」

「御無礼、平にお赦しを。……機嫌を取って来ます」

 深く頭を下げてから、忠義な従者はやれやれという顔をする。王はふっと微笑んだ。

「そなたは上手くやれているようだな。あれの表情も、最初の頃より随分と柔らかくなった。そなたならば誰が第一候補になろうとも、充分に務めを果たせるであろうと見込んでおったが……今後も頼んだぞ」

 ごく自然に仕事ぶりを褒められただけであるにもかかわらず、リッダーシュは返答に詰まった。口を開きかけては閉じ、しばし逡巡した末に言葉を絞り出す。

「アルハーシュ様。彼は……私を、友人と言いました」

「そうか。それは良かった」

「私も、彼を友と呼びました。……どうか、私に彼を殺させないでください」

 声が震え、緑の双眸が揺らぐ。アルハーシュが思いやりのこもった温かな声を返した。

「それは儀式を行ってみるまで、誰にもわからぬ。だがあの者の器は広く深い。恐らくそなたの危惧する事態にはなるまいよ」

「……死ぬな、と彼は私に言ったのです。神々の機嫌を取るためになど死ぬな、と」

「情の篤い若者だ。彼とそなたのために、儀式の成功を祈ろう。……下がれ。癇癪持ちのあるじをなだめてやるが良い。早くせぬと、そこいらの植木をむしり散らされるぞ」

 言葉尻でおどけた王に、リッダーシュは苦笑をこぼす。情けない顔を見せるな、という王の心遣いに感謝し、いつもの笑みで御前を辞した。


     *


 薄暮の淡い藤色に染まった街を、松明の列が行く。歩みに合わせて神官らの声が響く。

 オォー……オー、オォオー……

 決まった節を繰り返しているが、詞はない。ぞろりぞろりと進む一団を、道の両側に垣なした人々が見送る。松明から散る火の粉を受けようと手を伸ばす者、合掌して一心に祈る者。押しかけた人々の熱気で、今この大通りだけは冬が遠のいている。

 偉大なる天空神の現し身にして王国の守り手アルハーシュ王が、火の神アータルを象った冠を被り、唱和しながら先頭を行く。すぐ後に従うのは輝く日輪を模した鏡を捧げ持つ祭司長。二人の両側ではひときわ大きな松明が燃え、屈強な神官がそれぞれ三人がかりで運んでいる。続いて牽かれてゆくのは、犠牲に捧げられる牡牛。

 シェイダールはジョルハイとリッダーシュに挟まれて、先頭集団の後ろを歩いていた。整然と並んだ神官らが両手を袖に入れ、どこか遠く前方の宙に目を据えたまま、歌とも言えない節を繰り返しているさまは、奇妙な夢の中に迷い込んだ心地にさせられる。

 オォオォー……オー……

 うねる声に色は見えない。だが、無数の細い糸が縒り合わさって太く厚くなり、布となってはためきながら絨毯のように広がってゆく、そんな感覚がした。臑まで埋まるほど毛足のある、もはや敷物とは言えぬその上を、行列が粛々と進んで行くのだ。

 シェイダールは不気味さと薄ら寒さに震えぬよう、ぎゅっと拳を握った。自分だけが、いてはならない存在、織り糸に挟まった藁くずのような気分だ。装いだけは周囲の平神官と同じ、簡素な無地の長衣に丸帽子を被って紛れ込んでいるが、織り手の目には差異が明らかだろう。見付かったら、つまんで捨てられてしまう。

 埒もない不安を抑えた吐息にして逃がし、彼はこっそり周囲を観察した。誰も彼も、この状況になんら不自然さを感じていないようだ。ごく当たり前に声を合わせ、歩みを合わせ、心を合わせて祈りを捧げる。沿道に並ぶ何千対もの目に、彼はぞっとなった。

 あれが全部、厳寒を払うことを期待して、王一人に向けられているのか。

(狂ってる。反吐が出そうだ)

 どうかしている。だというのに、彼らは揃ってシェイダールのほうがおかしいと言う。王自身まで、これほどのおぞましさを「縋るものが必要なのだ」と許し認めているのだ。先日のやりとりを反芻し、彼は爪先に目を落とした。

(……もしかしたら)

 神などいない、神のせいで死ななくて良い人が死ぬ、神にかこつけて祭司どもが専横にふるまう、そう憎んできた。だが突き詰めてゆけば、

(俺が憎んでいたのは、神を生み出す人間そのものだったのかもしれない)

 人間のあくなき欲望、卑劣な弱さ、無責任な怠惰――神に力を与えるそれらをこそ。

(駄目だ。俺は王にはなれない。なんとしてもアルハーシュ様を玉座に留めないと)

 王になって国を変えると意気込んでいたが、己が王になれば、人々の望みの重さに耐えきれず、きっと何もかもめちゃくちゃに壊してしまうだろう。縋りつく数多の手を振り払い、面倒見きれん自分でなんとかしろ、と打ち捨てて一人で先へ行く、そんな未来が目に浮かぶ。

 堪え性がないことは自覚していた。外から横槍さえ入らなければ、いくらでも忍耐強くなれるのだ。五年もの間、村の出来事と天候を記憶して関連を検証したように。だが他人に手出し口出しされ、平静を乱されるとすぐに癇癪を起こす。悪癖だと骨身に染みてはいるが、我に返るのはいつもやらかした後。今はまだ揶揄される程度で済んでいるが、王になって同じことをすれば致命的だ。

(こんな大勢の、こんな疑いもない信心を受け止めながら、同時にそれを変えさせていくなんてとても無理だ。少なくとも俺一人じゃできない)

 儀式の日をひたすら遅らせて時間を稼ぎ、アルハーシュに王のつとめを続けてもらわねば。己はその下で謎を解き明かして、王と民を神の呪縛から自由にするのだ。リッダーシュと共に王を守り、ジョルハイを利用して神殿を内から崩していけばいい。

(一日も早く、この……『王の資質』の秘密を知り、色と音のわざを手に入れなければ)

 決意を新たにし、ふと、いい加減に秘密だのわざだのと曖昧な呼び方ではなく、何か名前をつけなければなるまいと思い至る。後で王に相談しよう、と顔を上げて前を見ると、行列の先頭が大神殿の足元に到着したところだった。

 神殿の正面は一部が方形に突き出ており、見上げるばかりの重厚な門が巨大な口を開けている。その両横に広い階段が造られており、突き出た門の上は広場になっていた。祭壇が設えられており、今は縁に燈明も置かれている。

 先頭集団が階段を登り、門上の祭壇を目指す。王と祭司長、大松明と牛と十人ほどの神官。行列の残りは門前に整列する。最前列には各種楽器を携えた神官が並んだ。

 祭司長が高々と日輪の鏡を掲げ、天空神と火の神とに呼びかける。冷気と氷の魔物を打ち倒す火の神の伝説をなぞり、アルハーシュが見えない敵との戦いを舞う。決まった型を演じているだけとは思われぬ迫力で、足を踏み鳴らし、剣で風を切って。

 壇の下から励ますように、笛と鈴が鳴り響く。牡牛が屠られ、その血によって力を得た神の化身たる王が勝利すると、大松明が勇壮に転回した。

 見物の人々が拍手と歓声で、王すなわち火の神の勝利を褒め称える。その熱狂に、シェイダールは歯を食いしばって耐えた。耳を塞いでうずくまるか、もういっそ気を失ってしまいたい。そこへ、リッダーシュがさりげなく寄り添ってささやいた。

「もう少しの辛抱だ」

 微かだが確かな黄金のきらめきが、呼びかけに乗って耳から心に届く。シェイダールは目を瞑ってうつむいたまま、肩の力を抜いて小声を返した。

「何でもいい、話し続けてくれ。頼む」

「と言われても……困ったな」

 リッダーシュは当惑したが、じきにゆっくりと物語りはじめた。幼子を寝かしつける時に家庭で語られる、定番の神話だ。

「すべてのはじめ、世界は泥水のごとき混沌であった。名を持たぬ唯一の神が手でゆっくり掻き回されると、やがて最も固く重いものが沈んだ。世界の根であり、理である。次に柔らかな泥が積もった」

 泥の上に雲がたゆたって天をなし、最後まで沈まなかったところが宇宙となった。神はそこに新たな神々の座として星を置き、世界を委ねて眠りについた。後は固有の名と性質をもつ馴染みの神々が、大地を乾かし雨を降らせて天地を創造し、『最初の人々』が地に生まれて町を造り英雄が活躍し……と続く。

 幼い頃はシェイダールも、幾度となく母にせがんだ物語。しかし今は筋書きではなく、ただ声だけ、瞼を閉じていても感じられる美しい金色だけに、ひたすら心を傾けていた。

 そばで様子を見ていたジョルハイは、儀式が終わって二人を神殿内に招き入れると、軽い口調で皮肉った。

「神様嫌いの君に、素直に話を聞いてもらう方法がやっとわかったよ。今度からリッダーシュに朗読してもらおう」

「内容なんか聞いてないぞ。あんまりまわりがうるさくて煩わしいから、近くの声に集中していたかっただけだ。色が見えないあんたにはわからないだろうけどな」

 シェイダールは素早く邪険に応酬し、弱味を隠す。ジョルハイは降参の仕草をした。

「すぐれた資質も苦労の種でございますね、第一殿。思い至らぬ凡人の身で失礼を申し上げました、平に御容赦を」

 仰々しい謝罪にシェイダールが唸り、リッダーシュが失笑する。その間にも三人は、薄暗い廊下を奥へ進んでいた。多くの柱に支えられた神殿内は窓が少なく、空気がこもっている。そこへもって大勢の人が行き交い、まるで市場のように混雑していた。天井は高いが閉所の圧迫感は拭えず、息苦しい。

 ジョルハイが階段へと先導する。上り口には兵士が立っており、一般人が入り込まぬよう見張っていた。シェイダールは数段上がってから、首を傾げてリッダーシュに問うた。

「今のは王宮の兵か?」

「ああ、神殿の警備も王宮の兵が担っている。神殿のつとめはあくまで神々を祀り民のために祭儀を執り行うことだ。神殿内には宝物や財貨も多いから警備の手は必要だが、そのための兵力を祭司らが訓練するのは好ましくない。建前としては、だがな」

 言葉尻でリッダーシュは肩を竦める。シェイダールは神殿と王との微妙な駆け引きと力関係を察し、下らない、と鼻を鳴らした。

 そんな世俗の煩わしさも、歩を進めるにつれて薄れていった。二階の通路を行き来する人影はすべて神官であり、数もずっと少なくなっていた。話し声はほとんどせず、足音や衣擦れの音だけが控えめにさざめく。代わって深い静けさが重みを増し、シェイダールの胸の奥が震えはじめた。耳にはまだ聞こえない、音になる前の予兆。

 いつしか彼は、ジョルハイの案内を無視して歩いていた。どこへ行くんだ、そっちじゃない、と止める声も耳に入らない。目の前にまっすぐな道が開け、その先で六色の光がゆっくり明滅しながら招いている。

(あそこだ。あの中にある)

 何が、ともなく確信した。胸の奥、魂の底が押し開かれて、果てしない彼方へ続く螺旋が見えてくる――

「あいたっ」

 ゴン、と壁に頭突きをしてしまい、シェイダールは我に返った。なぜこんな所に壁があるのかわからず、彼は顔をしかめて煉瓦の継ぎ目をむなしく手でなぞった。

「勘弁してくれよ、シェイダール。そのまま壁を突き抜けて消えてしまうかと思ったぞ」

 追いついたジョルハイが、冗談めかした言葉に微かな畏怖を滲ませて咎める。シェイダールは振り向かず、拳で壁を数回叩いてその実在を確かめてから、足元に目を落とした。先刻聞いた創世神話の一場面が、今まさにその時であるかのごとく心に広がる。

 沈んでいく。遙か深く、下へ下へと。混沌の世界から最初に分離されたものが。

「ジョルハイ。この下には何があるんだ? 神殿も『最初の人々』が遺したものの上に建てられたんだろう。そもそもはどうなっていたのか、知らないか」

「なんだ、歴史の勉強かい。熱心なのは結構だがね、時と場所を考えてもらえないかな」

「知らないんだな」

 ばっさり切り捨てたシェイダールに、ジョルハイは渋い顔をした。

「やれやれ……。ああそうだとも、祭司長でも知るまいよ。恐らく祭壇だろうと言い伝えられているが、何にしても保存しておける状態ではなかったらしい。今では土の下だ」

「そうか。もう見ることもできないんだな」

「ぺちゃんこになるのを覚悟で、床を剥がして掘り返せば別だろうがね。気が済んだら、こっちに来てくれ」

 手招きして歩きだしたジョルハイについて、シェイダールも本来の目的へ向かう。幾度目かの角を曲がると、急に行く手が賑やかになった。儀式を終えた王が神の化身から人の身に戻り、供の衛兵を連れて待っていたのだ。ほかに、宝物庫の番をしている神殿兵と、立派な身なりの祭司、その御付らしい平神官もいる。

「お待たせしてしまい誠に申し訳ございません、アルハーシュ様」

 慌てて謝罪したジョルハイの後ろから、シェイダールとリッダーシュも頭を下げる。王はいつものように寛容だった。

「余も今着いたばかりだ。さあ、開けてくれ」

 手振りで促した相手は、扉を背にして立っている祭司だった。貴重な木材に銅板を打ち付けて補強と装飾を施した厚い扉には、大きな錠が掛かっている。祭司は首にかけた細鎖を慎重に引き出した。面倒な手順の末、ギィッと軋みながら扉が開く。『鍵の祭司』が廊下の篝火から燭台に火を移し、中へ入って脇に避けた。王とシェイダールが続いて敷居をまたぐと、あとは誰も入れぬよう、兵士らが戸口にぴったり並んで立ち塞がった。

 宝物庫には窓がひとつもなく、ごく細い隙間が壁の所々に入っているだけだ。採光と換気のためだろうが、ほとんど役に立っていない。祭司が壁際を回って篝火を灯し、ようやくまともに物が見えるようになると、シェイダールは感嘆の喘ぎを漏らした。

 整然と積まれた大小の櫃の他に、収納できない形状のものがずらりと並んでいる。巨大な矛槍、いくつもの円環を繋いだ置物、錫杖、黄金の円盤……それらすべてが、さまざまな色の石で飾られていた。

 微かな歌が庫内に満ち、色と共にたゆたい巡っている。静かなささやきが胸の奥まで沁みこんで、開けてくれ、入れてくれと扉に触れる。力なく、弱々しく。

(……――、……)

 意味の解らない言葉で切々と語りかけられている。大勢の、異国の民の霊魂に取り囲まれたかのように。初めて儀式の短刀を見た時と同じだ。色と音が何かを望み訴えかけているのは感じられるのだが、それが何なのか推測すらできない。もどかしい。

「シェイダール」

 肩を掴まれ、はっと我に返ると、アルハーシュが驚嘆を目に浮かべて凝視していた。

「そなたは……そなたならば、聞こえるか。これらのものが訴えかける声が、この……たとえようもない深みへと降りてゆく足音が」

 王にも聞こえているのか、とシェイダールは考え、すぐに違うと直観した。王は聞いたのではなく感じたのだ。深みへと通ずる穴、その壁に刻まれた手がかり足がかりを介し、これらの色と音が通ってゆくのを感じ取ったのに違いない。

 降りて、沈んでゆく。創世の神話に語られる遙かな深みへ、色と音と共に。神ならぬ身であろうと、それは可能なのだ――資質さえあれば。

 シェイダールは王の腕をがっしと握った。魂の底が震え、確信が湧き上がる。

「やっぱりそうだ! アルハーシュ様、これは『最初の人々』が遺した術なんです、世界の根に至るためのわざですよ! 俺やあなたの持つ『資質』も、そこの杖や円盤に刻まれているのも、同じ……彼らのわざなんです! 神の力なんっ」

 危ういところで、王の手がシェイダールの口を塞いだ。むが、と彼は面食らい、次いで大勢の耳があることを思い出して冷や汗をかく。すぐ近くに『鍵の祭司』と神殿兵士がいるというのに、神の力なんかじゃなかったんだ、と断言してしまうところだった。

 彼が理解を目顔で伝えると、王は手を離し、小さく安堵の息をついた。

「なるほど。世界の根、理へと通ずるわざか。深みに降りてゆくこの感覚は、それゆえであったのだな。一度にこれほどの遺物に囲まれたゆえか、そなたと共にこの場に立ったゆえかはわからぬが、余もいささか常より感覚が鋭くなったようだ。これらの物は皆、同じひとつの理論に基づいて作られているのだな」

 恐らく、とシェイダールは同意し、ついでに思い出して言った。

「その理論やわざをまとめて呼ぶ名前をつけませんか? 漠然としたままでは正体を掴みにくい気がするので。王の資質も、色と音も、ひとつのまとまり……いや、ええと」

 言い淀んで言葉を探し、日々の勉学で蓄えた語彙を浚う。

「そう、体系だと思うんです」

 適切な言葉を拾い上げられてほっとした、その直後、突然の閃きが降ってきた。シェイダールは目をみはって立ち尽くす。

 うまく言葉に表せないもやもやした感覚、そこに「体系」という単語がぴたりとはまった瞬間の明瞭さ。それが、異国の民の霊魂に取り囲まれたようだと感じた、今しがたの経験に合致する。彼は庫内を見回すと、片端から宝物に手を触れていった。微かな音と色、呼びかけてくるいにしえの声。これらのものが何を求め訴えかけているのか――

「ことば、だ」

「突然どうした、シェイダール」

「言葉です! 色と音をつないでいるのは古い言葉なんだ、だから俺たちには意味がわからない。今ではもう誰も知らない『最初の人々』の使っていた言葉だから!」

 叫ぶように断言したシェイダールに、アルハーシュも息を飲んだ。これまで繰り返してきたもどかしさの正体が、やっとはっきりした。己の内にある穴を降り、代々の王が残した手がかりを頼りに直観を掬い上げ、経験と推測をもとに読み解いて適切な行いに変える……その迂遠さが何に由来するのか。

 理解に続いて痺れるような感動と興奮が湧き上がり、アルハーシュは身震いした。

「では、その古い言葉をよみがえらせたなら、我々は再びいにしえのわざを自在に使うことが可能になるのだな」

「そうです。必ずそうして見せます。だから――それまで、どうか」

 その先は声に出さない。王も同じく無言でうなずきを返す。感極まったシェイダールは希望と意欲に胸を満たされ、王の目に宿る微かな痛みを見抜けなかった。

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