娘シャニカ/第二候補

     *


 色と音をつなぐものが『ことば』であるならば、とアルハーシュ王が考案した呼び名は『ウルヴェーユ』というものだった。

「古い楽曲の作法で、音を修飾する法則をタンヴェーユというのだがな。それを少し変えて、『詞を彩る法』という意味にしたのだ。わかりやすかろう」

 古語にも芸術にも疎いシェイダールに、異論のあろうはずもない。求める対象の名が決まり、さらには言語という手がかりを得て、シェイダールはなおいっそう謎の解明に打ち込むようになった。王宮に保管されている古い記録を漁り、揚水機や水路やその他の遺構を毎日訪れては、目を凝らし耳を澄ませて。

 そうして彼が探究にかまけている間に、ヴィルメが娘を出産した。

 月が二巡りし李の花びらが風に雪と舞う頃、やっと父親以外の男も面会が許され、シェイダールは従者と御付祭司を部屋まで連れて行った。

 シャニカと名付けられた娘にジョルハイが祝福を授け、リッダーシュがいそいそと揺り籠を覗き込む。彼はすぐ満面の笑みになり、小さな手足をこちょこちょくすぐった。赤子がまだのっぺりしている顔をしかめてむずかると、リッダーシュは笑いをこぼした。

「祝福を授かったというのに、そう不機嫌な顔をなさいますな、姫。父上と同じ気難し屋になりまするぞ」

 おどける声は、いつにも増して機嫌良く幸福な金茶色だ。シェイダールは文句を言おうと振り返り、ぎくりとする。揺り籠のシャニカがぱっちりと菫色の目を開き、じっとリッダーシュを見つめているのだ。

「ああ、可愛いな。瞳の色も同じだ」

 のんきな寸評の内容などわかるまいに、赤子はふにゃりと顔を蕩かし、きゃ、と笑い声を立てて手を伸ばした。懐かれたリッダーシュも嬉しそうに、指を伸ばして小さな手に握らせる。誰もが微笑ましく見守る中、シェイダールだけは渋面になって唸った。

「おいリッダーシュ。黙って外に出ろ、シャニカをたぶらかすな」

 親馬鹿の極致のごとき横暴に、命じられた当人のみならず全員がふきだした。

「待て、おぬし、生まれたばかりでもう嫁がせる心配か?」

「いいから黙れ。声を出すな」

 強い口調で再度禁じられ、さすがにリッダーシュも真顔になって声を飲み込んだ。もしかして、と目顔で問いかけた彼に、シェイダールはしかめ面で重々しくうなずいた。

「恐らく見えている。手を伸ばして色に触れようとしただろう?」

 もしシャニカにも『王の資質』が受け継がれているのなら、それが父親と同じものであるなら、リッダーシュの声は相当な影響力があるはずだ。単に金色というだけではない。まだ赤子ゆえに麦畑もパンも蜂蜜も知るまいが、今の彼女にとって一番幸せなものを想起させるに違いないのだ。

「おまえの声が聞こえないと泣き止まない、寝付かない、なんてことになってみろ。大変どころの騒ぎじゃないぞ」

「それは……そうだが」

 リッダーシュが見る見るしょんぼりと萎れる。未来永劫国外追放でも言い渡されたかのようだ。シェイダールは罪悪感をごまかすように傲然とした態度を装った。

「何も一生口をきくなとは言ってない。物心ついて、声の色よりも言葉の内容を理解できるようになるまでだ。まったく、そんなに赤ん坊が可愛いのならさっさと結婚しろよ」

 村と都では違うかもしれないが、年齢的に結婚してもおかしくないだろう。とりわけリッダーシュは若く健康だし、個人の資産はあまり持たないかもしれないが、結婚となれば王から祝いの金品が山ほど下賜されるはずだ。妻を求めたなら、我も我もと希望が殺到しておかしくない。

 しかし彼は未練げに赤子を撫でてからそばを離れ、あるじのもとへ来て小声で答えた。

「おぬしが無事、王になってからだな」

 微妙な含みの感じられる声音だった。シェイダールは生じかけた不安を払おうとして、うっかり口を滑らせた。

「何十年先の話だ」

 失言したと気付いたのは、ヴィルメが疑惑と警戒の目をこちらに向け、ジョルハイがそれを声にした後だった。

「何十年だって?」

「ああいや、大袈裟にしすぎたな」

 シェイダールは極力さりげなく言い繕い、腕組みしてリッダーシュを睨んだ。

「俺に気兼ねして、いい相手を逃したら取り返しがつかないぞ。人の子供にうつつを抜かすぐらいなら自分の子を作れよ」

「気兼ねしているわけではないんだが」

「じゃあ何だ。女の相手をするのが面倒臭いとか言うなよ……おい、本気か?」

 シェイダールは呆れ、無言で目をそらした従者の肩を小突くと、わざとらしくため息をついた。

「やれやれ。とにかく、おまえはシャニカのそばで声を立てるな。わかったな」

「御意、我が君」

 ささやいて頭を下げた従者を、シェイダールは複雑な目で見る。この屈託がなさそうな少年にも、胸に秘めたものはあるのだ。あるじが王になるまで、という理由の裏に隠されたこと。あるいは、結婚を考えられないほどの、王妃への思慕か。

 あれこれ忖度していた彼は、じっとこちらを観察するジョルハイの視線に気付かなかった。

 やがてダハエが面会終了を告げ、ジョルハイとリッダーシュが退散すると、シェイダールはもう少しだけと断って妻に歩み寄り、そっと抱きしめた。

「ありがとう、ヴィルメ」

「急にどうしたの」

 戸惑いながらも嬉しそうに、ヴィルメが抱擁を返す。シェイダールはそのこめかみに口づけし、いい香りがする、とささやいた。

「俺がろくに何もできないでいる間に、おまえはこんなに元気な娘を産んでくれた。どう言っても足りないぐらい、感謝してる」

「シェイダール……わたしも、感謝してるわ。村にいたら、こんなに素敵な暮らし、想像もつかなかった。それに何より、あなたが優しくなったから」

「そうか?」

「そうよ。今思い返せばわかるけど、村ではずっと張り詰めてたもの。独りぼっちで、世界中すべてに素手と石ころだけで立ち向かおうとしてるみたいだった。だから、そばにいたいと思ったのよ。他の誰もいなくても、わたしはあなたの味方をしなきゃ、って」

 素直に喜べない言葉を受け、シェイダールは返答に詰まった。そして小さく苦笑する。

「おまえはいつでも、思いやり深いんだよな」

 村人の輪に入れとしつこく促したのも。誰も口をきこうとしない母子と親しく会話し、腕を組んで歩いたのも。いつも、いつでも、あなたのためを思って。

 複雑な彼の内心を感じ取ってか、ヴィルメが訝しげに首を傾げる。シェイダールは、なんでもない、と言うように表情を取り繕った。

「赤ん坊の世話は大変じゃないか? 人手は足りてるか」

「大丈夫よ。宮で赤ちゃんが産まれるのは、ほとんどないことだからって、お妃様たちが代わる代わる世話してくださるの。シャニカはすっかり人気者よ」

「そうか。なら良かった」

 シェイダールはほっとして、今度は本心からの笑顔になると、それじゃあ先生が睨んでるから、とおどけて最後に軽く口づけした。


 帰る道すがら、シェイダールは改めて妻のことを考えた。身なりを整え立ち居振る舞いを練習し、田舎の村娘らしさは随分と薄れた。だが本質的には昔の彼女のままだ。

(ずっとあの宮で過ごしているのは、息が詰まるだろうな)

 まわりにいるのは上品で洗練された者ばかりだ。たまには普通の庶民に接したいのではあるまいか。あるいはせめて、それを思い出せる品物にでも。

(……外で何か買えるかな。そうだ、ついでに街の様子も見てみよう)

 思いついたシェイダールは、部屋に戻ると急いで話を切り出した。

「街に行きたい?」

 唐突な希望を受け、リッダーシュは不審げに聞き返す。シェイダールは何となくばつが悪くなって目をそらし、頬を掻いた。

「ああ。都に来てから王宮にこもりっきりで、外に出たといったら冬の火祭りの時だけだろう。それも大通りをちょっと歩いただけだし、町の連中も祭りで興奮してる状態だったし……普段、外の普通の人はどんな風に暮らしてるのか知りたい。王宮のことがどう思われているのか、どんな連中がこの王宮を取り巻いているのか、直に見聞きしたいんだ」

「民の声を聞きたいのなら、アルハーシュ様の謁見に同席して陳情を聞くという方法があるぞ。それではいけないのか?」

「そんなよそ行きの取り繕った面を見たって、しょうがないだろう」

 シェイダールは言い返し、次いで従者の心配に思い当たって呆れた。

「なにも道行く奴を片っ端から捕まえて、王と神殿をどう思いますか、だとか質問して回ろうとは言ってない。適当にぶらぶら歩き回ってみたいだけだ。ついでにちょっと買い物でもして」

「ああ、そのぐらいなら」

 あからさまにほっとしたリッダーシュに、シェイダールは苦虫を噛み潰す。

「いくら俺が田舎者でも、そんな馬鹿げた振る舞いをするわけないだろう」

 普段の街を知るどころか、怪しまれ警戒されて兵士に突き出されてしまうではないか。失礼な。と思ったのだが、従者の評はいささか違った。

「おぬしは目的のためなら、なりふり構わぬ節があるからな」

 そう苦笑されては、身に覚えがないとも言えない。唸ったシェイダールに、リッダーシュは朗らかな笑みを見せた。

「ならば午後の鍛練は休みにしよう。昼食を外でとるのも良いな。私も随分長く出ていないから楽しみだ」

「え、そうなのか? 道に迷うのはごめんだぞ」

「心配無用だ。街路は昔から変わっていないし、どこにいても神殿が目印になる」

 そこへ横から、ジョルハイが口を挟んだ。

「二人だけで街歩きさせるのは不安だな。護衛の兵をぞろぞろ連れて行くわけにもいかないだろうし、私がお供するよ。それなりに歩き回っているからね」

 途端にシェイダールが嫌そうな顔をし、リッダーシュは怪訝そうに眉を上げる。やれやれとジョルハイは補足した。

「道に迷いはしなくても、しばらく出ていないのなら物珍しくてきょろきょろするだろうし、いかがわしい界隈にうっかり入りこむかもしれない。君たちだけでは悪目立ちしてしまうし、面倒事に巻き込まれるぞ。角帽と一緒の方が安全だ」

「不案内な観光客のように見えるだろうか」

 一応地元民なんだが、とリッダーシュが苦笑する。ジョルハイはそんな彼を胡散臭げな半眼で見やって、しらけた口調になった。

「正直、これを言うのは業腹だがね。主従揃って少しは容貌に自覚を持ちたまえよ。王宮にいると身ぎれいな召使やら女神のごとき王妃様やらを目にして感覚が麻痺してしまうだろうが、君たち二人も街に出れば注目を浴びること間違いなしだ。余計な悶着は起こしたくないだろう」

 忌々しげに忠告され、主従は顔を見合わせる。シェイダールは小馬鹿にした目つきでリッダーシュを評した。

「確かに女に好かれそうな顔だよな。いかにも金持ちそうだし、単純で騙しやすそうだ」

「そうか? おぬしこそ女が見惚れそうな顔立ちだと思うがな。黙って澄ましていれば、だが。とにかく、そういうことなら懐を狙われないように気をつけよう。取り急ぎ貨幣を用立ててもらってくる」

 言いながらリッダーシュは立ち上がる。シェイダールは失敬な一言に舌打ちしたものの、意外に思って問うた。

「おまえも自分の金を持ってないのか?」

 元々無一文だった己が、貨幣を与えられていないのはわかる。王宮にいる限りは金など必要ないし、下手に金を持たせて変な使い方をされても困るだろうから。しかし王宮で育ったリッダーシュは、褒賞などで金銀を授かることもあろうに。

 案の定、返事はいささか庶民の常識を外れていた。

「ああ、街で使えるような貨幣がないから……」

 なぜか気恥ずかしそうに言い、リッダーシュはもじもじする。シェイダールは眉間を押さえた。なるほど、街でちょっと飲み食いするのに、金貨や宝石では支払えないということか。あるじの頭痛には構わず、リッダーシュは懐かしそうに続けた。

「昔は時々、街で遊んだり買い物をしたくて外に出ていたんだ。買うと言っても駄菓子とか安物の玩具とか、その程度なんだが。しかしその度にアルハーシュ様にお願いしなければならないから、さすがにその……小遣いをせびるようで、恥ずかしくなってな。それでこの二年ほどは出ていないんだ。だが今回は、おぬしが口実を作ってくれたから」

 礼を言うのも妙だがありがたい、とちょっと笑い、はにかみつつも嬉しそうに、いつもより軽い足取りで部屋を出る。残された二人は、楽しげな足音が遠ざかると揃って深いため息をついた。ジョルハイが胡坐の膝に額がつきそうなほど深くうなだれて呻く。

「……なんというか、時々あの純朴さには眩暈がする……」

「俺なんかしょっちゅうだ」

「つくづくご愁傷様だね」


 しばしの後、三人は連れ立って大通りを歩いていた。

 荷車が余裕をもってすれ違える車道の両側に、ナツメヤシを境界線として歩道が設けられている。行き交う大勢の通行人は、実に多種多様だった。

 裕福そうな恰幅の良い中年男は商人だろう。お供を五、六人も連れて、荷物を運ばせ露払いをさせている。悶着を起こさぬようそそくさと端に避けるのは貧しそうな母子連れ。談笑しながら歩いてきた若者らが、それにぶつかって文句を言いながら押しのけた。

 使いでも頼まれたか、丸帽子の平神官が長衣の袖と裾を翻して走っていく。車道では籠や壺を満載した荷車が、驢馬に牽かれてのろのろ重たげに進む。

 砂と塵埃で薄く色づいた空気には、ありとあらゆるものが溶け込んでいた。話し声や店の呼び込み、犬の吠え声。荷車が落としていく馬糞の悪臭、屋台から漂う料理の匂い、荷運びの汗。春の陽気がそこに加わって、既に風さえも手で掴めそうな濃密さだ。

 シェイダールは早くも外出を後悔しながら、はぐれないよう必死でリッダーシュについて行く。大通りから横道に入り、ようやく一軒の食堂に辿り着いた。

「良かった、まだあった」

 看板を確かめてリッダーシュが嬉しそうに言い、開け放しの戸口から中の様子を窺う。飾り気のない簡素な卓と腰掛が適当な間隔で並べられており、常連とみられる寛いだ雰囲気の客で八割方は席が埋まっていた。三人が席を取ると、すぐに給仕の娘がやってくる。

「いらっしゃいませ、何になさいますかぁ」

「ここに来るのは二年ぶりなんだが、料理人は前と変わっていないか?」

 リッダーシュが気さくに問うと、給仕は驚いたように「あ、はいっ」と答え、表情を明るくした。一見客に対する素っ気なさが消え、常連向けの愛想が浮かぶ。リッダーシュもにこりとした。

「それなら、羊の串焼きにチシャ菜の付け合わせ、芥子の実入りのパンを三人分」

「飲み物は水で? 麦酒なら赤と白がありますよ」

 ぴく、とシェイダールが反応する。だがリッダーシュはそれを見ていながら、水を注文した。給仕が立ち去ってから、彼は不満そうなあるじをなだめる。

「そういえばおぬしはまだ、麦酒を飲んだことはなかったか。好奇心は結構だが、酔っ払ってもらっては困るからな。お望みなら今度、食事に出すよう言っておこう」

「別に、欲しがっちゃいない」

「そうだな。でも、言っておくよ」

 最近あるじの扱いに長けてきた従者は、屈託なく対応する。ジョルハイが呆れた。

「君がそんなだから、御主人様のわがままが増長するんじゃないのか」

「わがままなんか言ってないだろ」

「それ本気かい」

 シェイダールが舌打ちしたところで、もう料理が運ばれてきた。忙しさの余り乱雑に皿を置いた給仕に、リッダーシュはさりげなく礼を言う。途端に給仕は笑顔になった。

「お客さん、運が良かったですね。今日のぶんの羊、この三人前で最後なんですよ」

 ごゆっくり、と機嫌良く給仕が離れる。一連の出来事にシェイダールはつくづく感心した。そういえばリッダーシュは王宮でも、影のように仕事をする召使に対して高圧的に命じたり粗略に扱ったりせず、ごく自然な穏やかさで接していた。

「リッダーシュおまえ、本当に育ちがいいんだなぁ」

 珍しく嫌味も鬱屈も抜きで称賛したシェイダールに、当人は目をぱちくりさせる。それから彼は控えめに微笑んだ。

「それはまぁ、アルハーシュ様とラファーリィ様に育てて頂いたようなものだからな」

「……なるほど。納得だ」

 育ちが良い、と褒めてそう返されるとは。シェイダールがしみじみ己との差を実感したところで、新たに入ってきた客がだみ声を張り上げた。

「おい、ぼさっとしてんなよ! 客が来てるんだぞ!」

「はぁ? 羊がもうない? ふざけんな、客の数ぐらい読んで仕入れとけ、素人じゃあるまいし! すみませんも何もあるか、鶏しかないんだろ、さっさとそれ出せよ!」

 卓を叩いて怒鳴り、給仕が厨房に逃げ帰ってもまだ、ぶつくさ悪態をつき続ける。シェイダールは疎ましげな一瞥を向けた後、やれやれとため息をついた。

「下衆な連中だな。リッダーシュとは大違いだ」

 引き合いに出された当人が複雑な顔をする横で、ジョルハイが平然とパンを取る。

「まぁ、いろんな人間がいるさ。あの連中も機嫌のいい時は、無害で親切かもしれない。年柄年中、品行方正にふるまえる出来た人間ばかりじゃないさ……ん、美味い」

 途端に少年二人も食欲を思い出し、我先に手を伸ばす。王宮では大体どんな料理も運ばれてくる間にぬるくなっているから、熱々の串焼きは珍しいごちそうだった。

 がつがつ貪って一息つくと、シェイダールは水を飲みながら店内を見回した。さっきの不快な二人連れは、料理を口に詰め込みながらしつこく文句を言い合っている。他の卓では職人らしい数人が熱心に何かの問題について討議しており、かと思えば書記らしい青白い顔の男が麦酒の杯を抱えて、陰気にため息を吐き出していたり。

 先日の祭儀で見たような雰囲気は、微塵もなかった。どこまでも現実的な、目の前の暮らしに追われる人々の姿。シェイダールはぽつりとつぶやいた。

「……普通に暮らしてるんだな。誰も、王や神々の存在を気にしてないみたいだ」

「皆、自分の仕事や生活があるからね」ジョルハイが応じる。「だが時々は思い出して気にするさ。神殿に参拝する人は絶えないし、そこいらの祠にも願掛けする人は誰かしらいる。神々も王も、常に在るのが当然、この大地のようなものだ」

「何の疑問も抱かない、頼っている自覚もないってことか。困った時だけ神頼みするくせに、なんともない時は本当にそれが頼れる相手かどうか気にもかけない。信じて頼りにしていたのに、肝心の時に実はそんなものいませんでした、と思い知らされるわけだ」

 シェイダールは厳しい目でジョルハイを睨みつけた。おまえたち祭司がやっているのはそういうことだ、との非難をこめて。

「祈りも供物も効果はない。火祭りをして寒さが和らいだか? たいして変わらなかったろう。火祭りをしなければもっとひどかったはずだ、と言うのはごまかしだ。しなければどうなっていたかなんて、誰にもわかりやしないんだから。あんたら祭司がなすべきは、煮炊きに使えば何百人の腹を温められる薪や粗朶を無駄に燃やして無意味な儀式をすることじゃなく、人が神に頼らなくても生きていけるように導くことじゃないのか」

「……最後の点については、君が正しいかもしれないな。だが儀式は無駄ではないよ。実際に効果があったかどうかは白黒つけられなくとも、人々の心はひとつになる」

「不気味なぐらいにな。それがいいことだとは、俺は思わないが」

 あの日の異様な空気を思い出し、シェイダールは顔をしかめた。厚い絨毯の毛に足を取られるような、巨大な一枚の織物に巻き込まれていくようなあの感覚。ぞっとする。しかしその意見をジョルハイは否定した。

「大方の人間にとって一体感というのは心地良いものだし、安心を与えてくれるさ。寒さに震えているのも、暖を求めて祈るのも、皆同じだと思えば日々の苦しみを耐え忍びやすい。それに、王や神殿にとってもその方が都合がいいんだよ」

 言って彼が辛辣な皮肉を口元にのぼせたその時、給仕の甲高い叫びに続いて男の怒声が上がった。

「なに上品ぶってやがる、飯運びの分際で馬鹿にしやがって!」

「俺らが汚いってか、ええ!?」

「そんなこと言ってません! 離して!」

 どうやらあの横柄な客が、給仕にちょっかいを出そうとして邪険にされたものだから激怒したらしい。さすがにこれは捨ておけぬと、リッダーシュが腰を浮かせる。だが幸か不幸か出番はなかった。

「うるさいぞ」

 奥の目立たぬ席で静かにしていた青年が立ち上がり、のしのしと騒ぎの元に近寄ったのだ。あ、とリッダーシュが小さく声を漏らした理由を、シェイダールもすぐに察した。

 明らかに高貴な身分とわかる装い、腰には短刀。黒茶の巻毛を短く刈り整えており、年齢は二十歳ほどだろうか。がっちりした体格と太い眉のいかつい顔つきは、誰かを思い出させる。同じ卓には気弱そうな少年がいて、おろおろしていた。あれは従者だな、とシェイダールは見当をつけ、リッダーシュに身を寄せてささやく。

「候補者か」

「……ああ。第二候補のヤドゥカ殿だ」

 諦め顔でリッダーシュが白状する。シェイダールは改めて青年を振り向き、無礼な客を威嚇し追い払うさまを眺めて確信した。

「あいつ、バルマクの子だろう。王の近衛の」

 初対面で縮み上がらせてくれた近衛隊長バルマクは、今も少々苦手な相手である。その巌のごとき面影があの青年にも見て取れた。彼の観察を、リッダーシュは「わかるか」と苦笑で肯定する。シェイダールは不審げにつぶやいた。

「なんでそんなお坊ちゃんがここにいるんだ?」

「そもそも私は、あの方にこの店を教わったんだ」

 遅まきながら浅慮だったと気付き、リッダーシュは首を竦める。その間にヤドゥカは迷惑な客を通りへ蹴り出して、元の席には戻らずこちらへやって来た。

「久しいな、リッダーシュ」

 愛想の欠片もない顔と口調にふさわしく、声も堅牢な焼成煉瓦の色だ。ごつごつして当たると痛そうだな、などとシェイダールは失敬な感想を抱く。心の声が聞こえたわけではあるまいが、ヤドゥカは彼に一瞥をくれ、無感情に確認した。

「おぬしが従っているということは、これが第一か」

 決して尊大でも傲慢でもないのに、ヤドゥカの物言いは人を威圧する。リッダーシュは逆らえず首肯した。

「お察しの通り、第一候補のシェイダール殿です」

「王が認められたのだから間違いあるまいが、極めて資質にすぐれるという話は本当か」

「訊きたければ本人に訊いたらどうだ。ここは王宮じゃないんだぞ」

 シェイダールは強引に割り込んだ。候補者同士が直接会話しないためだとしても、置物扱いは辛抱ならない。席を立ち、体格で圧倒されまいと背筋を伸ばして睨みつける。

「選定基準が気に入らないのなら、間違っているとはっきり言えよ。神の力だの王の資質だの、根拠が怪しいものに無理して従う必要はないだろう」

 明白に神殿を非難してはいないが、きわどい綱渡りの発言だった。さあどう出るか、とシェイダールは腕組みする。しかしヤドゥカの反応は、予想から大きく外れていた。

「悪趣味だな」

「……なに?」

「敢えて世人の信ずるものを否定し、非難反発が来るのを予想して論破してやろうと待ち受ける、その姿勢が悪趣味だと言ったのだ。己は世の無知蒙昧とは異なり物事をよく見ている、と悦に入りたいのなら、どこか他所でやれ」

「違う! そんなつもりで言ったんじゃない!」

 予期せぬ攻撃を受けたシェイダールは真っ赤になって怒鳴ったが、ヤドゥカは眉ひとすじ動かさなかった。

「そうか。ならばただ愚鈍なだけだな」

 まともに侮辱されて、シェイダールは衝撃のあまり反論できず、拳を握り締める。彼を無視して、ヤドゥカはリッダーシュに向き直った。

「さっさと見切りをつけて、私に仕えろ」

 それだけ言い、平然と背を向けて店を出る。従者の少年が第一候補の一行にちらちらと詫びるような目を向けながら、慌ててあるじの後を追った。

 シェイダールはしばらく突っ立ったままわなないていた。連れの二人が手をつかね、諦めて災厄を待つがごとき態度で見守っているのがまた、未熟な自分自身に対する怒りを煽る。

(落ち着け、頭を冷やせ! ここは王宮じゃない、怒鳴って注目を浴びるのはまずい)

 奥歯を噛み締めてどうにか爆発を堪え、荒っぽくどすんと腰を下ろす。杯を掴んで一気に水を喉へ流し込むと、胸が空になるまで息を吐いた。

 愚鈍。その一言がこれほどまでに衝撃だった理由は、認めたくはないが明らかだ。

(思い上がっていたのか)

 村ではヴィルメに頭が良いと褒めそやされ、完全に他の住民を見下していた。都へ出てきてからも、王やリッダーシュに「聡い」と認められてきた。いつの間にか、己は知性にすぐれると慢心していたのだ。そこへ鉄槌を下された。悔しかった。女のようだとか田舎者だとか他のどんな侮辱よりも、愚かだとして理智を否定されたのが堪えた。

「俺を馬鹿だと思うか」

 彼の呻きに、ひとまず沈黙が返る。そして、柔らかな黄金色がふわりと落ちた。

「そうは思わない」

「従者の立場は忘れて、正直に言えよ。この通り癇癪は堪えたぞ」

「本心だ。おぬしは聡い。ただ時折、智に溺れるきらいがある。頭ばかりが回りすぎて気を取られ、まわりの人間や状況を忘れやすい。愚鈍なのではなく、賢しさを持て余している……と言うべきかな」

 金の麦の穂が風に揺れる。シェイダールの内から怒りが消え去って、代わりにいつもの負けん気が戻って来た。様子を見ていたジョルハイが半ば感嘆、半ば呆れつつ首を振る。

「リッダーシュ、君、つくづくあるじのあしらいが上手くなったなぁ」

「いつまで経っても、いちいち俺の神経を逆撫でしてくれるあんたと違ってな」

「これは失敬、第一殿。……そろそろ我々も退散しよう、第二殿のおかげでいささか目立ってしまったようだし」

 ジョルハイは大袈裟に恐縮してから、小声で促した。リッダーシュもうなずいて給仕を呼び、支払いを済ませる。通りに出ると、シェイダールはよしと気合を入れた。

「帰ろうリッダーシュ、少し稽古をつけてくれ。あいつに負けたくない」

「見物はいいのか?」

「そんな気分じゃなくなった」

 性急に言うシェイダールを見て、ジョルハイが満足げに笑う。

「やる気になってくれて大変結構だ。私としても、君には早く王になってもらいたいからね。いつになるかわからない、だとか言わず」

 いつもの流水のような口調に、小さな氷がまじる。シェイダールが一瞬怯んだ隙に、ジョルハイは皮肉っぽく一礼した。

「君たちがもう帰るのなら、私も神殿に戻らせてもらうよ。ではまた明日」

 長衣の裾を翻し、最後に釘を刺すような視線を一瞬だけ投げて、青年祭司は神殿へと歩きだす。シェイダールとリッダーシュはしばしその場に残って見送り、角帽が雑踏に紛れると、揃ってふうっと息をついた。

「あんな些細な失言を拾われるなんて……危なかったな」

「ああ。幸い今回は追及されなかったが、いつまでも隠してはおけまい。いずれ神殿は儀式の催行を迫ってくるぞ」

「その時は、あいつ一人が味方でもどうにもならないさ。今はそれより、こっちのもくろみが漏れないようにしたい。あと、第二の奴をどうするかも問題だな」

 言いながら歩きだしたシェイダールの横に、リッダーシュがぴたりと護衛につく。無事に王宮へ帰り着くと、二人はすぐ鍛錬に向かった。

 木刀を用意しながらシェイダールは思案する。

 儀式の概要は既に教わった。だが当日どれほどの人数がその場に居合わせるかまでは聞いていない。もし大勢がいるのだとしたら――新王が旧王に勝つところを見届ける者が必ずいるはずだ――儀式の最後で王殺しを拒んだ候補者に、どう対応するだろうか。

(その場で第二にお鉢が回るだけだろうな。やっぱりあいつを味方に引き入れなければ駄目だ。けど、見込みがあるんだろうか)

 皆無ではない、と思いたい。シェイダールが神殿への非難めいたことを口にしたのに、彼はそれ自体については何も言わなかった。何より第二候補と言うからには、彼もまた色と音のわざに対して感じるところはあるはずだ。

 あれこれ考えを巡らせながらも、身体は一通り型をおさらいしている。今ではもう、いちいち掛け声がなくとも、考え事をしながらでも、身体が勝手に動いてくれる。刃の先が切り裂く風を、一足ごとに踏みしめる砂を、鋭い感覚で捉えながら。

 型が終われば、リッダーシュとの対戦になる。よそ事を考える余裕はない。シェイダールは頭を切り替え、目の前の強敵に集中した。

 ――そもそも街に出たのはヴィルメに何か土産を買うのが目的だったのに、と思い出したのは、疲労困憊で這いずるように寝床に入り、眠りに落ちる直前のことだった。

(しょうがない。また今度……)

 紡いだ思考そのものごと、深く入り組んだ夢の迷宮に落ちてゆく。結局彼は、妻にささやかな贈り物をすることを、そのまま忘れ去ってしまった。

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