五章

模擬試合/呪い

   五章 



 朝だというのに陽射しが強い。日々力を増す夏の気配が、腕や足の露出した肌をチリチリと焦がす。砂地の鍛錬所でシェイダールは防具を着け、厳しい面持ちで身構えていた。向かい合うのはいつもの相手ではない。

「練習用の防具など、随分久しぶりだな。昔に戻ったようだ」

 楽しげなアルハーシュの傍らで、対照的に渋面のバルマクが、王の胸当ての革紐を締める。留め具をすべて点検し、余計な所を傷めはせぬか念入りに確認してから、近衛隊長は重々しくうなずいて後ろへ下がった。その場には彼だけでなく何人もの衛兵が控え、シェイダールの側にもリッダーシュとジョルハイがついている。

 シェイダールは湿った掌を裾にこすりつけた。お互いに防具を着け、武器は木刀。間違っても命をかける要素はない。にもかかわらず、彼は緊張のあまり嫌な汗をかいていた。

「準備は良いか、我が跡継ぎよ」

 軽く挑発する声音で王が呼びかけ、自然な構えをとる。だがシェイダールは、まともに木刀を持ち上げることもできなかった。


 模擬試合を計画したのは、そもそもシェイダールのほうだった。

「手合わせを、人前で?」

 思いもよらない提案を受け、アルハーシュは驚いて聞き返す。過去、王と候補者が儀式の前に刃を交わした例はない。記録に残らぬ非公式の場でならばあったかもしれないが、少なくとも第三者の見る前で行われたことは皆無。なぜなら、現王がどれほど衰えているか、あるいは新王がどれほど未熟であるか、明らかになってしまえば人々が動揺するから。

 シェイダールは目をそらさずにうなずいた。

「第二候補を引きずり出したいんです。儀式を無事に生き延びるには、あいつを味方にしなければならない。ただし俺のほうから近付いても相手にされないだろうから、向こうに行動を起こさせるんです。俺が到底、第一候補には相応しくないと判断したら、あいつは絶対に動く」

「そなた、自らを餌にして猛獣をおびき寄せようとしておるぞ」

 王が懸念を示したが、シェイダールは平静に断言した。

「暗殺される心配なら無用です。リッダーシュに昔の話を聞いて、何度かそれとなく偵察させた上での結論です。あいつは度外れてお堅い人物だから、密かに俺を葬って自分が繰り上がるようなことはしない。むしろ、おまえには無理だから代わってやる、分相応の地位は与えてやるから引っ込んでろ、ぐらいの態度で直談判に来ますよ」

 街での接触をきっかけにして、リッダーシュを使者としてヤドゥカのもとへ遣わした。手土産代わりに鉦の試作品を持たせ、これの完成に協力して欲しいと乞うたのである。

 返事はどちらでも良かったのだ。リッダーシュは交渉しながら反応を逐一観察し、シェイダールが知りたかった答えを掴んで帰ってきた。

「恐らく確実に、第二候補も普段から色が見えています。リッダーシュが鉦を鳴らしてみせた時には、耳を澄ませるよりも目を凝らすような反応をした。鉦の製作にも乗り気だったそうです。それはもちろん、色が見えているせいもあるでしょうし、もうひとつ、あいつはリッダーシュを信頼しているから」

 シェイダールは言って、当人に目をやった。昔の話を聞いてヤドゥカの人柄や人間関係はおよそ把握できたが、決定打となったのは、声に対する反応だった。リッダーシュが懐かしさからつい、親愛のこもった笑い声を立てたりすると、ヤドゥカは必ずわずかに目を細めたというのだ。明らかに眩しさゆえの反射的な動きで。

 あの美しい金色が自分だけのものでないというのは不愉快だが、同時にそれは己同様ヤドゥカにとっても弱点ということだ。

「あいつは、俺の生死は気にしないでしょうが、リッダーシュは臣下にしたいはずです。暗殺を試して俺の代わりにリッダーシュが死ぬような危険は冒さない。だから、あっちが俺に要求を持って来るように仕向けるんです。こっちから話を聞いてくれと出向くより、断然楽に引き込めるでしょう。それが狙いです」

 にやりとしたシェイダールに、アルハーシュ王も苦笑を浮かべた。

「なかなかの策士ぶりだな。しかし、そなたが手合わせでぶざまを晒した後では、侮られるであろうに」

「程度は調節しますよ。とにかくおびき出せたら、後はなんとでもやりようはあります」


 いい計画だと思っていた。

 しかし実際に王と対峙した今、彼は己自身に裏切られようとしていた。

(くそっ、どうして……! たかが模擬試合だろう、落ち着け!)

 膝が震え、呼吸が浅く速くなる。うつむいた視線の先、砂地の上に黒ずんだ紅がどろりと流れた。赤い。赤。鮮血の叫び。堪えきれず、彼は顔を覆ってよろけた。そのまま武器を取り落し、砂に膝をつく。

「シェイダール?」

 王が驚き、周囲の見物人もざわめく。シェイダールは情けなさと恥辱と、その下からせり上がる恐怖にわななきながら、言葉を絞り出した。

「少し……少し、待ってください。気分が……」

 子供のように頼りなく弱々しい声に、ますます腹立たしくなったが、震えはまだおさまらなかった。きつく我が身を抱き、砂に額がつくほどに縮こまる。

(ああ、そうか、俺は)

 理解が悲嘆を呼び、悔しさに涙がこぼれた。自覚せぬ間に、彼はアルハーシュに父の姿を重ねていたのだ。幼い頃に失われ、それきり与えられなかった男親の庇護を、頼もしさを、理想とする男の姿を、アルハーシュ王に求めていた。彼の癇癪や未熟さを寛容に受け止め、共に未来を語り、歩みを後押ししてくれる王に。

(殺せない。俺には絶対に殺せない、殺す気で戦うなんてできない)

 もう二度と、あんな叫びは聞きたくない。あの赤だけは。

 しかし、だからこそ今、その「ふり」をせねばならないのだ。唾を飲み、押し寄せる過去の記憶と恐慌の波を押し戻す。殺させない、死なせないために、村を出たのではないか。強いて深く呼吸すると、いつぞやのリッダーシュの言葉が脳裏によみがえった。覚悟が足りなかった、頭でわかったつもりになっていただけだった、と。

(しっかりしろ、ここで挫けてどうする! 肚を括れ!)

 気合いを入れて己を叱咤すると、震えが止まった。シェイダールはぐっと顎を引き、慎重に立ち上がる。

「すみません、もう大丈夫です。……お願いします」

 一礼して身構えた彼に、王も余計な言葉はかけなかった。

 審判役のバルマクが手を挙げ、両者の構えを確認してから「始め」と手を振り下ろす。同時にシェイダールが砂を蹴って飛び出した。

 大きく振りかぶってのわかりやすい一撃は、最小限の動きで難なくかわされた。素早い反撃。繰り出された突きを受け流し、間合いを取る。睨み合い、もう一度。

 二合、三合と交わすうちに、シェイダールはふと気付いた。リッダーシュとの稽古と、あまり違和感がない。両者は共に同じ流儀を学んだのだろう。

(だったら、次は)

 動作を予測し、その通りに生じた隙に向けて踏み込む。

 だが甘かった。かかったな、とばかり王は素早く木刀を左手に持ち替えたのだ。隙だったはずの空間に切っ先が現れ、シェイダールは一瞬、完全に集中が切れた。

 勢い余って前のめりになった彼に、王は空いた右手を伸ばし、むんずと後ろ襟を掴んで投げ倒した。横ざまに転がされたシェイダールは急いで立ち上がろうとしたが、その時にはもう、喉元に木刀を突きつけられていた。

「……参りました」

 放心したまま、自分のものではないような声で降参する。本当に、心底驚いていた。王宮に来て一年、相当に腕前を上げたつもりでいたし、何より自分は若くて敏捷だと思い込んでいた。それがこんなにあっさり負けるとは。

 勝負がつくまで時間がかからなかったこともあり、アルハーシュは涼しい顔だ。木刀を引き、敗者が立ち上がるのを待ちながら、ふむと思案して評する。

「基礎はよく練られておる。動きも悪くない。だが、戦い方が通り一遍で工夫が見られぬな。儀式においても同じざまであれば、そなたが失うのは面目だけでは済まぬぞ」

 容赦なく指摘され、シェイダールは唇を噛んだ。勝手なもので、ぶざまを晒すと自ら言っていたくせに、いざ負かされるとひどく腹立たしい。拳を握り締めた彼を、王はむしろ満足げに眺めて続けた。

「悔しいか。ならばいっそう励むが良い。そろそろリッダーシュだけでなく、他の者にも指南を乞うべきかもしれぬな」

 思わせぶりな言葉は、どこかで直接あるいは間接に話を聞いているであろう、第二候補の耳を意識してのことだ。気付いたシェイダールは思わずにやりとしてしまう。王の背後でバルマクがそれを見咎め、厳しく叱った。

「何をにやついておるか、己の力不足を恥じ入れ!」

「申し訳ありません」

 シェイダールはすかさず、しかしまるで心のこもらぬ謝罪を返した。恥じるどころか、晴れ晴れとした笑顔になって言う。

「王のご壮健なること、この身をもって知り、嬉しさの余りつい。失礼しました」

 彼の言葉に観衆は皆、虚を突かれたようにぽかんとする。次いで誰もが、そうだ、その通りだ、と喜びを表した。第一候補の弱さに対する失望が、現王の強さへの安堵に塗り替えられる。王のますます健やかならんことを、との祈願で模擬試合は終了した。


「まったく君は、慣例破りで退屈しないな!」

 自室に引き取って部屋着に着替えるシェイダールに、ジョルハイが呆れ声をかける。

「使者に選ばれ、御付祭司に任じられ、ああしろこうしろとディルエン様やお歴々のご指導を賜ったのがほとんど無駄になりそうだよ。愉快だったらないねぇ」

「そりゃ良かったな」

 嫌味に真顔で応酬し、シェイダールは帯を締めて淡々と続けた。

「俺に言わせれば、今まで模擬試合もせずにいきなり儀式を行っていた、って方がおかしいんだ。明らかに結果が見えているんならともかく、王がまだ元気なら、継承させるはずが失敗する可能性だってあるだろうに」

「今までの候補者はほとんどが貴族だったからね。武芸の鍛錬は積んでいるから、そんな心配はなかったんだろうさ」

「貴族だからって皆が武芸の達人とは限らないだろ。今の俺ぐらいの奴だって……しかし本当にあっさり負かされたな」

 悔しさを思い出して顔をしかめた彼に、横からリッダーシュが詫びた。

「忠告するのを忘れていたよ。アルハーシュ様は両手利きでいらっしゃるんだ。お若い頃には戦の場で、剣や槍だけでなく盾や紐など、あるものを何でも武器にしたとか」

「……想像もつかない」

 シェイダールが眉間を押さえて唸り、これにはジョルハイも苦笑で同意した。あの、いつも落ち着いた物腰の温厚な王が、そんな常識外れの戦いぶりを見せるなどとは。

 やれやれ、とシェイダールはため息をついて気を取り直した。

「何にしろ、模擬試合のおかげでアルハーシュ様がまだまだ衰えとは縁遠いことがわかったし、俺も危うく死にかける無謀を強いられずに済んで、一安心だ」

 そこで間を置き、ジョルハイの反応を見る。御付祭司は何か言いたそうだったが、探りを入れられていると察知すると、いつもの澄ました表情で内心を隠してしまった。

 シェイダールは用心深く一歩踏み込む。

「正直に言うと、儀式が遅れるほうが俺はありがたい。戦いの技量に不安があるだけじゃなく、アルハーシュ様からまだまだ多くを学びたい。王の資質について語り合えるのもあの方だけだ。この資質がいにしえの遺物とどう関係しているのか、どうすれば意図的に王の力を使えるのか、もっと知りたい」

 雲行きの怪しさを感じ取ったリッダーシュが、静かに窓や出入り口を回って、立ち聞きする者がいないかを確かめる。ジョルハイは何食わぬ顔で応じた。

「ああ、神殿に管理されている遺物に興味津々だったね。つまり君は、王の力は正体を解き明かし自在に使いこなせる類のものだと確信しているのかい? 神の力などではない、と……君の信条とは別の、確実な根拠を得たのかな」

「そうだ」

 シェイダールは短く肯定する。強いまなざしでまともに見据えられたジョルハイは、珍しく含羞の窺える曖昧な表情になった。

「私に教えたということは、ようやく信頼してくれたと思っていいのかな。いずれ神殿組織を解体する時に、その事実が鉈として役立つようにしたい、ということかい。それとも、私が裏切るんじゃないかと鎌をかけているのかな」

 シェイダールは問いも皮肉も無視し、ただ無感情にささやいた。

「もしも王の力が神とは無関係で、道具――つまり『最初の人々』の遺物さえあれば使えるものだったら、どうする。神殿が認めようと認めまいと関係ない、王にならなくても、資質があれば誰でもいにしえの力を使えるようになる。そんな方法があるとしたら」

 かなり剣呑な発言であるにもかかわらず、ジョルハイは小さく息を飲む以上の反応は見せず、ふむと平静に思案した。

「間違いなく、神殿の政治的発言力は弱まる。ただし同時に王の権威も失墜するぞ。考えてみたまえ、神殿は神の威光を体現する組織だ。王の選定や即位にかかわることがなくなったとしても、人々の支持は変わらない。下手をすれば、王だけが軽んじられて神殿の力が増す結果にもなりかねないぞ」

「神殿が恭しく崇め奉ってきた祭具が、全部ただの古道具だって暴露してもか?」

「シェイダール、問題は何が事実か、じゃない。人々が何を真実だと信じるかだ。今までさんざん苦汁を舐めてきたから身に染みているだろう、神などいないと言って誰か一人でも君に心から賛同したか?」

「……その言い方だと、少なくともあんたは神を信じていないように聞こえるがな」

 読みの甘さを指摘され、シェイダールは悔し紛れに唸った。ジョルハイは空々しく身震いして見せる。

「まさか、神々に仕える身でそのような畏れ多い。確かに私は神を信じているよ。君が言うところの古道具だって、そもそも神の力が存在しなければ働かないだろうに」

 そこまで言うと、彼は真顔になってシェイダールの目を見つめ返した。

「この話はまだ私一人の胸におさめておこう。迂闊に世に出していい内容ではない。王の力が神から与えられるものでないとなれば、拠り所を失って人心は動揺し世は混乱する。君が打ち壊したいのは今の神殿であって、人々の安心安全じゃないだろう? だから重々頼んでおくよ。くれぐれも慎重に時機を見極め、決して乱暴なやり方で急がないように」

 いかにも正論なのだが、シェイダールは素直にうなずくのが癪に障り、険しい顔で唸るばかり。ジョルハイは呆れて眉を上げ、やれやれと嘆かわしげに首を振った。

「たまには聞き入れてくれないものかね、困った第一殿だ。ああわかっているとも、私の言い方が気に食わないんだろう。毎度ご不快にさせてたいそう申し訳ないことだよ」

 自虐的な物言いに思わずシェイダールは失笑し、咳払いでごまかした。

「あんたの言い分が恐らく正しいんだろう。それはわかってるさ。俺だって焦って何もかも台無しにしたくはない、気を付けるよ」

「なんと。奇蹟だ」

 ジョルハイはおどけ、シェイダールが怒ったのを手振りでなだめてから続けた。

「打ち明けてくれて感謝するよ。おかげで私も、新たな展望が開けた気がする。もしも君の考える通り、王の力やいにしえのわざが、祭儀の介在なくして行使し得るものであるなら、神殿の役割も変わるだろう。そうだな……古代の祭具や文書、あるいは遺跡について調べる、学究の場へと舵を取ればどうだろう? ああ、まったく、君は私に、考えてもみなかった可能性を見せてくれる。実に面白い、将来が楽しみだよ」

 ふっと満足げな笑みをこぼし、彼は恭しく一礼した。

「ひとまず今日は、神殿に帰って祭司長に模擬試合の結果を伝えておこう。君はまだ鍛練が必要なようだ、とね。……だが、ひとつ忠告しておくぞ。君の狙いはわかったが、あまり儀式を遅らせようとするな。神殿内では君の評判は芳しくない。今日のようなことが続けば、いざ王になっても神殿に力を及ぼせず、悲願の改革を果たせないぞ」

「わかってる」

「本当にわかってくれているのなら、私も安心できるんだがね」

 苦笑に紛らせた鋭い棘を投げて、ジョルハイは退室しようと歩きだす。途中で彼は、はたと思い出して振り返った。

「そういえば、ヴィルメが二人目を身籠ったそうだね。帰る前に祝福しておこうか」

 不意を突かれたシェイダールは、照れたのをごまかしきれず変な顔になった。頼む、とぶっきらぼうに答え、「承りました我が君」などと大仰な返事で揶揄されてしまった。

 薄青色の微かな笑いを残して御付祭司が出て行くと、シェイダールは深いため息をついて眉間を揉んだ。リッダーシュがそばに戻ってくる。

「なんとか乗り切ったな。彼については安心しても良さそうだ」

「どうだかな」

 安堵した様子の従者とは対照的に、そのあるじは渋面のままだ。リッダーシュは困ったように小首を傾げた。

「疑いすぎではないか? 彼が言った『新たな展望』は興味深かったぞ。神殿のもつ権威権力をただ奪い取るのでなく、むしろ新たな役割を与えて徐々に置き替えてゆけば、無用の混乱を招かずに済む。反発も少なかろう」

「そう上手く運ぶもんか。……どうもあいつの言う通りにするのは気に食わない。あいつと話しているといつも、自分の考えがあいつにとって都合のいい方へ流されていくような気がするんだ」

 するすると滑らかな水のような声。彼の言うことが実際に最善なのだとしても、それは誰にとってのことであるのか、どうしても疑問を抱かずにおれない。本当に己にとっても正しい論であるのか。当初の道筋から逸らされてはいないか。

「ジョルハイ殿は弁が立つからな。おぬしが警戒するのも無理はないが……それはそうと具合はどうなのだ?」

 唐突にリッダーシュが問いかける。シェイダールが訝しげな顔をすると、彼は心配そうに眉をひそめた。

「試合の前に、気分が悪いとうずくまってしまっただろう。演技には見えなんだが」

「ああ、あれは」

 シェイダールは答えかけ、脳裏に砂と血が瞬いて頭を振った。寝台に腰を下ろし、両手でこめかみを押さえて、まぼろしが去るのを待つ。

「……思い出したんだ。父さんが殺された時のことを。ふりだとわかっていても、アルハーシュ様に刃を向けるのが恐ろしくなって」

 小声で独り言のようにつぶやく彼の前に、リッダーシュが無言でひざまずく。シェイダールは顔を背けた。

「心配ない、もう割り切った。大丈夫だ」

 沈黙が降りる。シェイダールは気遣いの表情を目にしたくなくて、遠くの壁を睨んだまま動かない。ややあって、湖面に映る月光がささやいた。

「シェイダール、友よ。必ず成し遂げよう。もう決して、神々のために血が流されることのないように。おぬしが二度と、流血の悪夢にうなされぬように」

 静かで力強い声が、降り注ぐ光のように心の底へと沈んでゆく。シェイダールは目を瞑ってそれを受け止め、吐息と共にうなずいた。ゆっくり正面に向き直ると、森緑の瞳がじっと見つめていた。途端にシェイダールはばつが悪くなり、苦い顔になって唸る。

「俺は悪夢なんか見てないぞ」

 いつもの調子を取り戻したあるじに、リッダーシュも微笑んで立ち上がる。

「そうか、それなら良かった」

「大体、夢見がどうだろうと関係ないだろう。この国どころか世界だって変えようとしているのに、そんな小さなことにかかずらってるほど、俺はみみっちくない」

「その通りだ」

「まじめに聞け!」

「聞いているだろう?」

 たわいないやりとりが途切れたところへ、外から召使が声をかけた。

「畏れ入ります、リッダーシュ様にお目通りを願う使者が参っております」

 ぴたりと主従は口を閉ざし、目配せを交わす。来た。シェイダールに、ではなくリッダーシュに、というのですぐにわかる。

 シェイダールが「入れ」と許可すると、見覚えのある少年が現れた。しかしそのまま用件を切り出せず、途方に暮れた顔で立ち尽くす。察したシェイダールは白々しく欠伸し、寝台にごろりと横たわって背を向けた。リッダーシュが真顔を装って応対する。

「ヤドゥカ殿の使いか。あるじはお休みになられているゆえ、挨拶は結構。用件を伺おう」

「恐れ入ります。ヤドゥカ様は、リッダーシュ様と旧交を温めたいとお望みです」

 幼さの残る声が告げる。シェイダールは背中でそれを聞きながら、馬鹿馬鹿しい気分になった。つきましては明後日、お招きありがたく、等々の決まりきったやりとり。回りくどくて無意味にしか思えないが、

(これもアルハーシュ様がおっしゃっていた、暗黙の諒解の上に成り立つ世界、ってやつなんだろうな。そうするのが当たり前、従うのが当然だから。……下らない)

 密かに彼が鼻を鳴らすと同時に、使者が辞去の意を述べる。だが彼が部屋を出るより先に、外から騒々しく誰かが駆け込んできた。

「シェイダール!」

 取り次ぎもなく乱入したのは、ジョルハイだった。シェイダールはぎょっとなって跳ね起きる。普段決して取り乱さない青年祭司が、動揺と悲嘆を全身で表していた。

「今すぐヴィルメの所へ行け!」

 ただ事ではない。シェイダールは「何があった」とジョルハイに詰め寄った。

「流れた」

「えっ……」

「赤子が流れたらしい。今朝。宮の手前で追い返された」

 皆まで聞かず、シェイダールは走りだしていた。遅れてリッダーシュもついてくる。

 非常事態でも相変わらず『柘榴の宮』は、独自の決まりで動いていた。部屋どころか、建物に入ることさえ阻まれたのだ。シェイダールは相手が女でも構わず殴りつけたくなったが、かろうじて衝動を堪え、噛み付くように問いただす。

「ヴィルメは無事なのか。ダハエ先生はなんて言ってる」

「命に別状はありません。とにかく今、殿方はお引き取りを」

「ふざけるな! 妻の大事に夫が駆け付けたのに、帰れだと!?」

「夫だからこそです」

 女兵士はシェイダールの剣幕に怯むどころか、全身により強く力を込めて不動の意志を示した。

「女をもっとも深く傷つけるのは夫なのですよ、第一殿。悲嘆に取り乱し、平静を失っている妻に、貴殿はどのような言葉が慰めとなるか、あるいはさらに傷を抉る刃となるか、正しく判断できる自信がおありか。泣き叫ぶ女からどれほど理不尽に罵られようと、責められようと、果てしなく恨み言を浴びせられようと、すべて受け止められると仰せか。貴殿ご自身がさほどに動揺しておいでだというのに」

 厳しい言葉が冷水となって、シェイダールの憤激を鎮める。言われる通りだ。彼は唇を噛んでうつむいた。その様子を見て衛兵は口調を和らげた。

「愛する者を助けたいと勇み立つそのお心はご立派です。しかし燃え盛る炎の中へ、あるいは薄氷一枚に覆われた凍れる湖へ、ただ闇雲に飛び込んでは諸共に倒れるばかり。おいでになったこと、ご心痛であったことはしかとお伝えします。ここは何卒」

 深く頭を下げられ、シェイダールはなす術もなく立ち尽くしたまま拳を握り締める。そこへ、奥からダハエが現れた。

「通せ。ヴィルメが望んでおる」

「ダハエ先生!」

 反射的にシェイダールは衛兵を押しのけ、医師に駆け寄る。ダハエは厳しい面持ちで、他の者にも聞かせるように言った。

「ヴィルメの身体に深刻な問題はない。安静にしておれば回復する。ラファーリィ様がすぐに駆けつけて、ずっと付き添っていてくださったゆえ、激しい悲嘆もようようおさまってきたところじゃ。気を落ち着かせる茶を飲ませてあるが、長時間はならぬぞ」

 女医師はシェイダールを促し、歩きながら懇々と諭した。

「良いか、決して『どうして』だの『何がいけなかった』だのと問うてはならぬぞ。必要なのは、責任や原因を明らかにすることではない。そんなことを言えばあの娘は、己が責められていると取るだけじゃ。ただそばにいて、苦しみと悲しみを受け止めてやれ」

 シェイダールはほとんど聞いていなかった。わかってます、と上の空で答える。早く彼女を抱きしめてやらなければ、と気が急いていた。

 ヴィルメの部屋が見えてきた辺りで、先に数人の集団が中から出てきて、奥へと去っていった。侍女に囲まれた貴人がちらりと見え、シェイダールは一瞬ぎょっとする。

(ラファーリィ様か?)

 垣間見えたのは、目を疑う姿だった。泣き腫らした瞼、下がった口角。装飾品は最低限の簪だけ。いつもの自信に満ちた華やかな笑みの女神は、見る影もない。愕然と立ち尽くしたシェイダールに、ダハエがささやいた。

「忘れろ。この宮を訪う男が目にしてはならぬものだ」

 それでも彼は動けず、声も出せなかった。美しい装いに明るい笑顔、甘やかな言葉と優雅な挙措――気の遠くなるような労によって、この宮はまったき歓びの園とされていたのだ。隠されていた暗がりの底知れない醜悪さ、残酷さを見てしまい、ぞっとする。

(俺はこんな所にヴィルメを連れて来てしまったのか)

 息を吐き、こわばった顔を手でこすって重い足を動かす。緊張しながら帳をくぐると、ヴィルメが寝椅子に座ったまま蒼白な顔を上げた。シェイダールは胸を詰まらせ、大股で妻の元へ急ぐと、強く抱きしめた。

 ヴィルメがしがみつき、肩に顔を埋める。シェイダールは慰めたいと焦ったが、とにかく黙って受け止めろという忠告を思い出し、強いて耐えた。

 ようやっと、か細い声がヴィルメの口から漏れた。

「……ごめん、ね。二人目……ちゃんと、産んで、あげ……れ、なくて」

「おまえのせいじゃない、謝らなくていい。……おまえが無事なら」

 それでいい、と言いかけて飲み込む。赤ん坊などどうでも良い、との意味に取られはしないか、ひやりとしたのだ。彼はひたすらヴィルメの肩や背を優しくさすり続けた。

(薄情でも恨まれても、村に残して来れば良かった)

 そのほうがヴィルメにとっては、恐らく幸せだったろう。育ちも何もかも違う高貴な妃らと美を競わされ、子を産むよう期待され、あげくに流産するよりは。

(まだ王の力を継いでもいないのに……暮らしが変わったせいか、それとも俺の資質が目覚めたからか?)

 シェイダールは唇を噛んだ。決して責任や原因について口にするな、と禁じられていたにもかかわらず、自責の念に耐えかねて一言こぼす。

「すまない、ヴィルメ」

「……どうして?」

 不吉な沈黙を挟み、ヴィルメが顔を上げた。涙で濡れた頬に、乱れた髪が幾筋もはりついている。灰色の目を見開き、瞬きもせず、彼女は夫の両肩をがっしと掴んだ。

「どうしてあんたが、謝るの。あんたのせいなの? そうなのね?」

 皮膚を食い破らんほどに爪を立て、激しく揺さぶる。

「あんたが! あんたが罪をっ、犯したから! あんたがあの女とォ!! 返してよ、あたしの赤ちゃん、返せぇェェ!」

 狂ったように泣き叫ぶヴィルメを、ダハエが召使の手を借りて無理やり引き剥がす。帰れと命じられるまでもなく、シェイダールは逃げ出していた。

「あんたのせいよ、シェイダール! あああぁぁ!」

 真紅の叫びが背中を打つ。歯を食いしばって廊下を走り、無我夢中で逃げた。

(違う、違う違う違う! そうじゃない、そんなことは関係ない、わかってるだろう!)

 女神の罰ではない、姦淫の罪など関係ない、既に証明されたではないか。

(神罰なんかじゃない! ちゃんと理由があるはずなんだ、神の気まぐれとは関係ない、別の理由が)

 それでも結局やはり、「あんたのせい」であることに変わりはない。

「……っ」

 転がるように宮を出て、階段から落ちかけたところをリッダーシュに支えられる。そのまま彼は膝からくずおれ、両手を石に叩きつけて絶叫した。神を呪い、己を呪い、いにしえの人々を呪って。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る