九章(1) 世界は美しく

   九章


 赤、黄、白。可憐な花がまばらに咲く『女神の裳裾』を越えて、細い山道を上る。前を行くのは継承者だ。その後に、ミオを抱いて荷物を背負ったスルギが続く。

「花、だいぶん減りましたけど、まだ咲いていますね」

 斜面を見下ろしてミオが言った。スルギは足を止めて背後を眺め、うん、とうなずく。彼にとっては毎年目にする馴染みの景色だが、短い夏が終わる前にと懸命に咲く花の儚さが、今はとりわけいじらしい。腕の中のか弱いものがもうじき失われる、その予感ゆえだろうか。

 スルギはこみ上げてきた切なさを隠そうとして、必要もないのにミオを抱え直した。ヤティハを追ってここまで来てから、季節が一巡りしてもいないというのに、遠い昔のことのようだ。

 ミオもまたあの日を思い出し、目を細めて言った。

「……美しいですね。あの花も、草も、何もかも」

 少し先で二人を待つ継承者が、彼女の言葉にたじろぐ。スルギはそれに気付かず、はたと思い立ってミオを下ろした。

「すぐに戻るよ」

 言うなり斜面を駆け下りてゆく。ミオがきょとんとして見守っていると、灰色の狼は花の咲いているところで屈み込み、何かを探すようにふんふんと嗅ぎ回ってから、急いでまた登ってきた。その手に一輪の赤い花を、大事そうに包んで。

 散らさないよう握り潰さないよう気を使いながら、彼は登山道まで戻ってくると、やや緊張した様子でミオに向かい合った。

 慣れない手つきで花をつまみ、そっとミオの髪に挿す。焦茶色の髪は相変わらずひっつめただけで、平凡な顔に紅も白粉も使っておらず、低地人が見れば、せめてもっとましな花器に活けろと一笑に付すだろう。だがスルギはつくづくと彼女を見つめ、いたって真面目に告げた。

「君もきれいだ。ミオ」

 一語一語、とりわけ名前に力を込めて言う。

「他人事のように、世界を外から評するのはやめてくれ。君自身も、ここにこうして生きているんだ。君が美しいと言うものと同じなんだよ」

 切々とした訴えを、ミオは意外な面持ちで聞いていた。彼の言わんとするところを推測し、飲み込むまで、少しく時間がかかる。ややあって彼女は口を開いた。

「ありがとうございます」

 感謝の言葉に別人の気配を感じ取ったスルギが、歯を食いしばる。ミオは胸に手を当てて、己の意識を確かめながら続けた。

「里に来る前の私であれば、おっしゃることを理解できなかったでしょう。でも、今はわかります。スルギさん、私はまだ『ミオ』です。あなたに助けていただいた、弱きものの一人です。だから……、ありがとうございます」

 重ねて礼を言い、ミオは低頭した。女神の記憶が魂の空ろから溢れ、満ち潮のようにミオという存在の岸辺を少しずつ洗い、覆い隠してゆくのがわかる。だがまだ岸は沈んでいないし、たとえそうなっても、消えてなくなりはしないだろう。

 ゆっくりと深く呼吸し、ミオは明確な意志をもって笑みを広げた。当惑しているスルギを見上げ、手を伸ばして首まわりの毛に指を埋める。こんな時に、と言いたげな顔をした彼に、ミオは自然と湧き上がる思いのままに告げた。

「あなたが好きです」

 端的かつ明白、誤解しようのない一言であるのに、スルギは理解に手間取っていた。続けて数回瞬きし、そわそわと落ち着きなく尾を揺らす。ミオは首をちょっとだけ掻いてから、手を離した。

「あなたと、もう少し一緒に過ごしたかった。心の底からそう思います。だから、もう良いのです」

「待ってくれ、それじゃ意味が通じない。君が生きていたいと言うのなら、俺は」

「いいえ。……スルギさん、私はずっと、生きていたいとも、死にたいとも思うことなく過ごしてきました。誰かを愛しいと感じることも、何かを美しいと感じることも、ほとんどありませんでした」

 わずかな感情の起伏はあっても、心から深く何かを願うということはなかった。怒りや喜びや楽しさを、どうやらこういうものらしいと推測はしても、自らの内からそれが湧き出し溢れるようなことはまったくなかった。ほんの少し染み出るのがせいぜい。

 あの崖を飛び降りた瞬間が、転機だったのだろう。ひらり、と雪のひとひらのように女神の心が降ってきた、あの時が。

「今は世界が美しく感じられ、生きていたいと願える。ですからもう、充分です。たとえ叶わずとも、生きていたいと望みを抱けたこと自体が、とても幸せなのです」

 穏やかながらも確信を込めて言い切ったミオに、スルギは「そんな」と声を震わせる。そこへ、無情な足音が近付いた。

「友よ、そこまでにしておけ。彼女があと少しだけ共にいたいと願えばこそ、本来は神子の役目であるところをそなたに委ねたのだ。務めを果たせぬのであれば、ここから一人で引き返すが良い」

 脅しつける口調ではなく、あくまでも平静な警告。だが継承者の放つ力は、ジルヴァスツの意志を抑え込んだ。スルギは耳を寝かせて低く唸ったが、それ以上の抵抗はかなわず、全身に苦渋を滲ませてミオを抱き上げる。

 三人は再び、山を登りはじめた。


     *


 何かがおかしくなりつつあった。しかし兆しはあまりにも些細で、その重大性に気付いた者はほとんどいなかった。

「シェリアイーダ姫、本日はようこそお越し下さいました」

 都に隣接する第三工廠の主任、産業省技官レウム=サーヴィナが、恭しく頭を下げる。数人の作業員もそれにならった。さらにその後ろに、ずらりと並ぶ労僕しもべたち。普段の作業にない役割を命じられたせいで落ち着かない面持ちだが、事前にしっかり訓練されたようで、誰も妙な動きを見せたりはしない。丁寧かつ従順に、いらっしゃいませ、と唱和する。

 シェリアイーダは作業員のみならず労僕たちをも無視することなく、一体一体に目をとめて笑みを返した。労僕たちは行儀良く直立したまま反応を見せないが、漂う気配が微かに喜びの色を帯びる。むろん彼らは相手の身分などは理解していないし、恐らく好意をありがたく感じてもいまい。だが、失敗しなかった、良しと認められたことは、彼らにも安心をもたらすのだろう。

 主任と作業員らがこっそりと、物言いたげな視線を交わした。彼らにとって労僕は、魂のない製造品なのだ。そうでなければ扱えない。使役するだけの側は好きに感情移入すれば良かろうが、造る側は違う。

 しかし文句など言えようはずはなかった。この賓客は王族であり、改良計画の発端となった当人である。

 数字をまとめて提出し、必要な資金をもぎ取って、試行錯誤の海に漕ぎ出してから三年。労僕の耐久性と治癒力は少しずつ着実に高められてきた。その過程で難しい壁に突き当たる度に、六彩府の彩術学者から助力があったのだが、最近になってそれが実際には王女の手によるものだと明かされた。つまり工廠にとっては幾重にも恩があるのだ。

 そんなわけで、これまでは見学を「ご遠慮願って」きたものの、とうとう断りきれず受け入れる運びになったのである。

 正面出入り口をくぐり、通路を進んでいくつかの小部屋を通り過ぎ、最奥にある二重の扉を抜けると、工廠の心臓とも言うべき『大釜』が姿を現す。組み合わされたいくつもの配管、常に濁らぬよう汚れぬようそれ自体が輝いている色彩の紋様。澄んだ音が高く低く鳴り響く中で釜が沸き立ち、人の似姿を作り上げてゆく。

 ウルヴェーユとそれを支える種々の技術工学の粋を集めた機構は、複雑に入り組んで見通しが悪く、素人が歩き回るには危険が伴う。加えて、そうした高度な技術だとか、あるいは――率直に言って不気味な人間未満の肉塊だとかは、女が見るべきものではない、という漠然とした規範もあって、主任技官や作業員たちは緊張と警戒もあらわに王女の様子を窺っていた。

 当のシェリアイーダは周囲の懸念に構わず、冷静かつ真剣に、じっくりと大釜を検分していた。ひとつひとつの色と音を捉え、『路』の標を通じて吟味する。

 すべてが問題なく調和していることを確かめると、彼女はほっと息をついた。

「機構と術については学んでいましたが、実物は想像以上ですね。これほどの規模のものを間違いなく動かし続けるのは、優れた技術があってこそ。労僕を丈夫にする、と言うのは一言でも、実際にここまで進めるのは大変だったでしょう」

 賛嘆とねぎらいを賜り、サーヴィナ技官は得意気にえへんと咳払いした。。

「構造そのものの強化ではなく、治癒再生に方向転換したのが奏功しました。やはり形としては現状から大きく変えると、他の部分に歪みが出やすいのです。殿下もご存じの獣兵のように、まったく別の生き物として創るのならば別ですが、あくまで労僕として、となりますと……多少の欠点はあれども、この形が最も安定する調和の一点なのでしょう。どのみち素材や製造段階であまり費用をかけるのは、実用的ではありませんし」

 ごぼごぼと音を立てて釜の溶液が煮立ち、蒸気を噴き上げる。労僕が三体がかりで巨大な把手を回すと、釜がゆっくりと傾き、側面の一部が開いて、出来たての熱い『種』を水槽に流し込んだ。淡い緋色の溶液の中で、でこぼこした白い塊が揺れる。より小さな水槽へひとつずつ移されていく過程で、上手く芽の出ていないものが取り除かれ、再利用の素材として別の工程に運ばれてゆく。その先で破砕され、こね回されて、もう一度作り直されるのだ。

 その様子を、王女は曰く言いがたいまなざしで見つめている。一方でサーヴィナ技官は、ただ満足げだ。

「新しい労僕を使っている現場からは、明らかに作業の能率が良くなった、と報告が届いておりますよ。傷や不具合を点検する手間も省けて、喜ばれております」

 すべてはあなたのお陰ですよ、と持ち上げるように言った技官は、しかしふと表情を曇らせた。

「他の工廠にも順次、第三ここと同様の改修を導入しているのですが……残念ながら、捗々はかばかしくありません。術式そのものは問題ない筈なのですが」

「うまく働かないのですか?」

 シェリアイーダが問うと、技官は急いで首を振った。

「いえいえ、殿下のお示し下さった技に間違いなどございません。ただ、どうも時々おかしなことが。説明のつかない失敗――不良品が出たり、組み替えた回路で一時的な故障が起きたりするようなのです。恐らく作業員の技術が今ひとつ足りないのでしょう。王都と違って、優秀な人材ばかりとはいかないというわけで」

「そんなに扱いが難しい術式になってしまったかしら」

 独り言のようにつぶやいて、シェリアイーダは首を傾げる。この三年の間に何度も組み直し修正を重ねてきたので、自分が思っているより難儀な代物に化けてしまったのだろうか、と。

 彼女としてはあくまで純粋に技術的な疑問だったのだが、技官のほうは王女がけちをつけられて不愉快になったと思ったらしい。慌てて取り成そうとして、口を滑らせた。

「地方には程度の低い者が多いので、単に手抜きや嫌がらせでしょう」

「――」

 シェリアイーダは呆れて眉を上げた。随分な偏見ではないか、と言いたかったのだが、サーヴィナ技官は気付かずに弁明を続ける。

「昔からままあることです。労僕に仕事を取られるだとか、最近は労僕を使うこと自体が罪悪だとかなんとか、妙な思想にかぶれた者が妨害工作を仕掛けるのですよ。厳しく調べたら防げることですから、どうぞ殿下はご安心ください。まぁ……別の原因があると言う彩理学者もいますが、それよりは現実的に」

「別の原因とは、何です」

 聞きとがめて遮った王女に、技官は取るに足りないとばかり肩を竦めた。

「人的問題でも、術式の問題でもない、理の力そのものの影響だ、と。話を大袈裟にして自分たちの出番をつくりたいだけですよ。もし本当にそうなら、ありとあらゆる術がおかしくなっているはずですが、実際そうではありませんからね」

「彩理学者は皆、そう主張しているのですか」

「まさか。いいえ、先日の会議でたまたま居合わせた一人が言っただけです。そもそも彩理学者はいささか世間知らずというか、変わり者が多いですし、その学者もこれといった実績のない……ロダグ、だったかな。そう、マヨーシャ=ロダグ」

 サーヴィナ技官は記憶を辿って名前を思い出し、「女性ですよ」と付け足した。無自覚であろうが、その一言には明らかに軽侮の響きがあった。だから真面目に取り合うに値しません、という。目の前にいる人物もその女性の一人なのだが、こちらは『王女』という何か別の生き物だとでも思っているらしい。

 シェリアイーダはそれを指摘せず、ただ出された名前を記憶に刻んだ。

 一番の見せ場である『大釜』から続く工程へと進み、「いささか刺激が強い」部分を除いて一通り見学を終えると、王女はそれ以上は現場の仕事を邪魔しないよう、謝意を述べて工廠から外へ出た。

 眩しい陽射しに目を細め、うんと伸びをする。見送りのために玄関までついてきたサーヴィナ技官が恐縮そうな笑みをこぼした。

「できるだけ効率よく要所を回れるように計らいましたが、それでもかなり時間がかかってしまいましたね。ご満足いただけましたでしょうか」

「ええ、とても。この目で見られて本当に良かった。案内ご苦労様でした」

 シェリアイーダは鷹揚に答え、それでは、と踏み出しかけたところで、ふと立ち止まった。ごく些細な、気のせいかと思うほどの引っかかり。どこかで何かがひび割れたような、微かな違和感。眉をひそめて周囲を見回した彼女に、傍らの青年警士もピリッと緊張する。

 すぐにシェリアイーダの目は、不自然な色を捉えた。敷地内のささやかな植栽だ。工廠周辺の土地はタイルで舗装され、余分な草木の生えぬようにされているが、その植栽はここで働く人間が木陰で一息入れられるように設えられたらしい。涼やかな落葉高木を控えめな低木が囲み、芝生に腰掛と卓まで置かれていたが、今はどうにも落ち着けそうにない気配が漂っていた。

 急ぎ足でそちらへ向かった王女にリゥディエンが従い、主任もあたふた追ってくる。

 近付いてみると、見えたはずの色はどこかに紛れていた。しかしまだ彼女の感覚には、音階が半音ずれたような違和感が残っている。

 この感覚は前にもどこかで、と記憶を探り、気付いた王女はぎくりとした。

(湧出点……?)

 かつて『神の指先が触れた土地』と呼ばれたそれは、各地で禁域や聖域として忌避されてきた。古い森や木立の様態だが、実体は地表に湧き出た理の力がそう見えるだけの危険な場所だ。国内の湧出点はすべて記録されており、人家や施設が近付き過ぎていないか、規模に変化はないか、監視されている。

(新たに発生したという事例は聞いたことがないけれど、まさか)

 こんな場所で理の力が表出すれば、工廠が機能不全に陥ってしまう。それどころか、都にも近すぎて多くの施設や人々に危険が及ぶだろう。シェリアイーダは危機感を持って、意識を内なる『路』に降ろした。標を辿り読み解くのではなく、色と音を鎮めて無色無音の静寂で満たす。視界が切り替わり、暗い泥土の世界が広がった。

 黒い大地を透かして、その下に脈打ち流れる理の力が視える。所々でふつふつと泥を破って噴き出ているが、どれも遠く、そのつぶやきも小さい。

(大丈夫……よね)

 ひとまず安堵し、外界に意識を戻す。念のため、帯に差した鉦を抜いて基音の白を打ち鳴らした。漣がなめらかに拡がって消える、その途中でやはりあの植栽のそばでわずかに歪んだ。だが本当にほんのわずかだ。たまたま今だけ、自然に生じ得る些細な乱れ。きっとそうに違いない。

 背後で主任技官が不安げに身じろぎしたのがわかり、シェリアイーダは大袈裟にならないよう平静な表情で振り返った。

「急にごめんなさい、少し違和感があったものですから。工廠の遮蔽が不完全で、外部に影響が出ているということはありませんか」

 あくまで一応の確認です、という口調を装って問う。サーヴィナ技官も、一般人からのよくある質問に答える体で応じた。

「もちろん取りうる限りの対策は取っております。ですが人の出入りや、部分的な綻びによって、外部の共鳴しやすいものに多少の影響が現れることはあります。一時的なものですし、どこの工廠でも同じですよ」

 すらすらと淀みなく説明し、王女殿下に対しては特別の配慮をいたしますよ、とばかり慇懃に言い添える。

「ですが念のため、このあと遮蔽をすべて厳密に点検しましょう。この植栽も慎重に観察し、異変があればすぐに対処いたします」

「そう伺って安心しました、ありがとう。ではお願いしますね」

 シェリアイーダは笑顔でそつなく応じると、青年警士を促して歩きだした。充分に遠ざかってから、リゥディエンがささやく。

「私では正確に捉えられませんでしたが、異変がありましたか」

「何とも言えないの。確かに奇妙な歪みを感じたのだけれど……彼が説明した通りの、よくある事だと良いわね」

 しつこく居残ってあれこれ調査を指示できる立場でもないので、ここは退くしかない。そう割り切りつつもやはり気がかりな様子の王女に、リゥディエンも眉を曇らせた。

「大掛かりな術を常時働かせている場所です、歪みや乱れがあってもおかしくはありません。ですがあなたが懸念されているのは、そういう範囲のことではないのでしょう」

「ええ。きっと直前に聞いた話のせいね。理の力そのものが原因だという彩理学者の主張と勝手に結び付けてしまったのよ」

 大袈裟よね、と軽い口調を装い、シェリアイーダは肩を竦めた。ゆっくりと歩きながら空を仰ぎ、王都の大神殿に天から降り注ぐ光の柱を見やる。『大いなる御柱の家エストゥナガル』という地名の由来となった、理の力の流れだ。

「ちょうど先日、大陸東部に派遣されていた調査隊が戻って来たでしょう。あの報告のことも思い出したの」

「ワシュアールの東の果て、険しい山脈に遮られた向こう側を調べに行ったのでしたね。苦心惨憺山を越えてみれば、到底渡れない大峡谷に行く手を阻まれ、しかもその先は見渡す限りの氷原だった……という」

「ええ、そう。理の力も働かず、恐らくはそのせいで何もかもが凍てついている大地。幸いなことにワシュアールはいつも、大地の下に熱く滾る理の力が巡っているけれど……外の世界では全く違う状態もあり得るのだと知って驚いたし、少し怖くもなったわ」

 冷静な態度を保っている王女の心中を慮り、リゥディエンはそっと――警士として許される範囲ぎりぎりのところで、手に触れた。

「サーヴィナ技官が言っていた彩理学者のところへ、一度話を聞きに行きましょう。ただの『考え得る多くの可能性の内のひとつ』に過ぎないのか、それなりの確証を得た上での主張なのか、それを確かめるだけでもいくらか気が楽になるでしょう」

「そうね、帰ったら手配を頼んでおくわ。また慎みもなく王宮から出歩いてばかり、と父上の御不興を買ってしまうでしょうけれど。でも、いい運動になるし」

 言葉尻でふっと笑みをこぼし、「あの子たちの」と付け足してシェリアイーダは行く手に視線をやった。敷地の境、門のところで待っているふたつの影に。リゥディエンも表情を和らげ、まことに、と同意した。

「いつも活力を持て余していますからね。外にも出してやらないと」

 苦笑まじりの言葉通り、ふたつの影は二人を待ちかねてそわそわしている。それは、狼と豹の『獣兵』だった。後ろ足で立ち上がった獣を人間に近付けたような姿で、頭と尾は獣そのもの。知性ある兵士らしい服を着せられてはいるが、全身毛皮に覆われ、爪と牙の鋭さは目にした者を怯ませる。だがその性質は随分と無邪気に和らげられており、今もつぶらな瞳をきらきらさせて、早く早くと足踏みしている懐きようだ。

 シェリアイーダが門の外へ出た途端、我慢しきれず二頭は駆け寄ってきた。

「ひめさま!」

「まってた、ひめさま!」

 発音は拙いが、言葉から推測するよりは大人である証拠に、獣たちは共に飛びつく寸前でぎりぎり踏みとどまって、仕込まれた通りにぴしりと敬礼した。ところが、当の王女がにっこり笑顔で手を伸ばし、二頭を順に抱擁して甘やかす。

「いい子で待っていたわね、イーヴァ、ヤルゥル」

 こうなるともう自制が弾け飛んでしまい、狼と豹は我先に鼻面を王女の頬に押し付けた。こら、とリゥディエンがそれを引き剥がす。

「舐めるのは駄目だと言っているだろう」

 少し強い声音で叱られただけで、二頭はしゅんと萎れてしまった。あまりにも素直で従順で、シェリアイーダは愛しさから笑み崩れずにはいられない。だが同時に、これでは兵士として使い物にならない、と判断され処分されてしまうのではないか、という恐れが背筋を寒からしめた。

(戦闘に出す事は諦めて、王宮や都の治安に役立てる方向に切り替えてくれたら良いのに)

 ふかふかした毛並を撫でて不安を紛らし、彼女はえへんと咳払いした。

「では、帰りもしっかり護衛を頼みますよ」

「お任せあれ」

 畏まって一礼した警士に並び、狼と豹も張り切って姿勢を正す。あるじと認める人間から何かを指示され、それに応じられることが嬉しくてたまらないのだ。野生の獣には無いその性質は、生成過程で組み込まれたものか、基となった労僕の従順さ由来なのか、あるいは……王女が密かに施し続けた細工の結果なのか。

(いずれにしても、人間の命令には従ってくれる。懐いてもくれる。兵士として使うのでなく、わたしたちを助けてくれる頼もしい友として遇すれば、きっとずっと良い関係を築けるでしょうに)

 狼が恭しく屈んで、慎重に王女を抱き上げる。逞しい腕に腰を支えられ、肩に寄りかかると、馬や輿よりずっと楽だ。シェリアイーダとしては自分で歩いても構わないのだが、この外出は「王族が獣兵を従えている様子を人々に見せるため」という口実をつけて許可を得たものでもある。それに実際、視点が高くなるというのは気分が良いものだった。

 ――今、王国は長引く叛乱に悩まされている。五年ほど前に西部の一地方から始まったそれは、全土に拡がる勢いこそ無いものの、いつまでも鎮圧できず燻り続けているのだ。もはや彼らは、既に定着した独立勢力かのような振る舞いさえ始めている。それを叩き潰す切り札として、獣兵の研究が進められてきたのだ。

 当然、獣兵の存在は機密とされ、試験的に王宮警備に配置された後も、外へ連れ出すことは許されなかった。だがシェリアイーダは、外界は王宮内よりずっと刺激が多いのだから、慣らしてやらないと遠征に連れて行くことなどできない、それにいよいよという時にいきなり獣兵を間近に見せられた人々は、恐れから予想外の反応をするかもしれない、等と説き伏せたのだった。

 本当の目的はもちろん、今後さらに改良される獣兵に接触して“細工”を施すことだったが、それはそれとして、彼らと接することが楽しくてたまらなかった。

 門扉の反対側で緊張しつつ様子を見守っていた守衛の顔が、王女と獣兵のふれあいを見て和む。シェリアイーダはそちらに向けて笑顔で手を振ってから、お供を促して帰路についた。

 精悍で屈強な獣兵に守られて道を行く王女。御伽噺のようなその光景に、擦れ違う人々が驚嘆して振り返り、幼子が憧れに目を輝かせる。

「うわぁ、かっこいい!」

「おひめさま!」

 無邪気な声を上げる子供らに、シェリアイーダは笑みを返しながら夢想する。

 いつか、当たり前の光景になれば良い。獣人の猛々しい力も、しもべの従順な忍耐強さも、共にただ利用するのではなく、人を補うものとして尊重し、互いに助け合って生きられる国になれば良い。

 今はまだ夢想でしかなくとも、たゆまず歩めば、きっといつかは――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る