八章 記憶の漣

   八章


「ミオ、行っちゃうの」

「また遊びに来てねー」

 子供達に囲まれて、ミオはくすぐったそうに微笑んでいた。

「私も皆さんとお別れするのは寂しいです。また遊びに来るのは難しいと思いますが、皆さんのことはずっと忘れません。本当にありがとう」

 帝国の官吏がミオを南方から密かに国内に帰らせてくれる、と聞かされて、東区の住民は良かったと喜びつつも名残を惜しんでくれた。シンの袖をちょいちょい引いて、山猫の子が丸い目を潤ませる。

「明日じゃ駄目? ねえ、もう一日だけ」

「ミオを連れてかないで」

 ねえねえ、とお願いされて、シンは天を仰いだ。大人のジルヴァスツには及び腰になる彼も、子供相手だと勝手が違う。

「卑怯だろう、これは」

 小声でぼやき、手で顔を覆う。傍で見ていたイーラウが笑った。

「人攫い役は荷が重いか」

「うるせえ」

 苦りきって唸り、シンは舌打ちする。それから、まとわりつく子供らに不慣れな仕草で手を伸ばし、頭を撫でてごまかした。

「ここで暮らすのは、やっぱり俺達にゃ不便だし、危ねえんだよ。明日、明後日と出発を遅らせても、結局はお別れするんだ。駄々をこねるんじゃない」

 言い聞かせると、子供らはそれ以上、行かないで、と食い下がりはしなかった。代わりにひたすら目で訴えてくる。シンはさっさと逃げ出したい一心で、祈るようにスルギの家を見やった。

 中ではスルギがやりかけの用事を片付け、旅の荷物をまとめていた。シムリとヤティハがそれを手伝いながら、今ひとつ納得のいかない顔をしている。

「ねえスルギ。あたし達に何か隠してない?」

 シムリに訊かれ、正直にスルギの体がこわばる。背を丸めて無言で鞄の紐を結ぶ彼に、ヤティハも疑いを投げかけた。

「ミオがおまえに送って欲しいって頼んだのは、別におかしくないんだ。ずっと一緒に暮らしていたんだし、道中でもしも邪鬼が出たら、っていう用心も当然だとは思う。けど、それだけじゃないんだろう?」

「イウォルの若様や、あの低地人に、何を言われたの。今にも泣きそうな顔をしているくせに、なんでもない、なんて嘘はつかないで」

 畳みかけられて、スルギはじきに降参した。元来ジルヴァスツは、騙すとか欺くとかいったことが苦手なのだ。

「二人とも、すまない。でも今は話せないんだ。……ヤティハがいずれ長の仕事を引き継いだら、きっとわかる。だから訊かないでくれ」

 茨を握り締めるがごとき声で、幼馴染みの二人を見ないまま呻く。シムリとヤティハは顔を見合わせた。ぱさ、ぱたん、とそれぞれの尾が床を打つ。ややあって、シムリがスルギの肩に手をかけ、うつむいている顔を覗き込むように身を乗り出した。

「スルギ。あたし達は確かに、弱きものを守る使命を負っている。でも、だからって彼らの言いなりになる必要はないのよ。納得いかないなら、逆らってもいいはずだわ」

 思いもよらないことをささやかれ、スルギは驚いて顔を上げる。視線の先で二人がうなずいた。

「あの役人がミオをどうするつもりか、知れたものじゃないからな。低地に帰らせるのが必ず良い結果になるとは、俺も思わないぞ」

 ヤティハは腕組みして深刻そうにそこまで言い、ちょっとおどけて付け足した。

「それに実際、ミオがいないと寂しいしな」

「本当にね」シムリも微笑んだ。「あんなに弱くて、何かにつけ大丈夫かしらって心配になるんだけど、それでもミオがいるとなんだか嬉しいのよ」

 ごく素直に口にされた感想に、スルギは内心ぎくりとした。シムリはそれに気付かず、同意を求めるような調子で夫に話しかけている。

「彼女が来るまで低地の民って本当にいるのかどうかも怪しいぐらいだったけれど、里で一緒に暮らすようになって、ああこれは確かに守ってあげなきゃ、って実感したものね。ミオがいるとつい、いろいろ張り切っちゃうわ」

「そうそう、同感だ」

 夫婦で笑みを交わし、次いでスルギに向き直る。

「だからね、スルギ。やっぱり駄目だと思ったら、ミオを里へ連れ帰っちゃいなさい。弱きものが一人、里に紛れ込むぐらい、女神だって大目に見て下さるわよ」

 ね、と励まされて、彼は泣きたくなるのを堪えて無理に笑みをつくり、うなずいた。

「うん。ありがとう」

(ああでも、違うんだシムリ。君が嬉しいのも張り切るのも、ミオが弱きものだからじゃない。そうじゃないんだ)

 彼女こそが、女神そのひとだから。

 言ってはならない言葉を喉の奥に押し込み、荷物を背負って立ち上がる。外に出ると、子供達に囲まれたミオがこちらを振り向いた。

「スルギさん」

 ただ名を呼ぶだけのなかに、温かな謝意と情が込められている。それが本来のミオ自身のものなのか、女神のものなのか、スルギにはわからなかった。ただ、今までになくその声が胸に沁みて、彼女を失うことが耐えがたく感じられた。


     *


 その『善意』は『正しい』ことだったろうか。

 後から経緯を振り返ったとき、疑念を持たざるを得ない選択というものがある。

「損耗の早さが気になると仰せで?」

 王都の六彩府りくさいふ労僕ろうぼく研究に携わる青年学者エイムダールは、訝しげに聞き返した。相手は非公式の生徒、王女シェリアイーダである。まっすぐな黒髪と深い紫の瞳をもつ王女はまだ十三歳だが、既に大学で学び論文を書き上げてもいる。近頃その知的関心は労僕――一般に『しもべ』と呼ばれる生き物――に向けられており、こうして六彩府にも出入りするようになったのだ。

 労僕しもべ。人間と同じような身体をした、しかし雌雄の別もなく歪で醜い姿の、知能も情動も弱い人造の生物。ウルヴェーユを駆使した工廠で造られるそれは、国によって供給と回収を管理され、つらい単純労働や危険な汚れ仕事に欠かせないものとなっている。

 王女は「はい」とうなずき、手書きの数字が整然と並んだ書類を一枚、差し出した。

「過去十年分の記録をざっと遡って、労僕の回収数の変化を見てみたのですが……ここ二、三年急激に増えているのが不自然に思えるのです」

「そうなんですか? 私は機能の解明と性能向上が専門なので、流通までは把握しておりませんので。いやしかし、どこでこんな記録を?」

 エイムダールは困惑気味に答える。王女がなぜこんな事に興味を持つのか、どこを調べたら記録が出てくると知っていたのか、まったく理解できない様子だ。シェリアイーダは肩を竦めてごまかした。

「王宮には各地からの報告が集まりますから。ともあれ、これを見る限り、単に労僕の需要が高まって生産がどんどん増えただけ、という話ではないと思われませんか?」

「ええ、まぁそうですね……実際、新たな工廠も造られて生産数そのものが増えていますが、それ以上に回収量が……まさか、不良品が増えたのかな」

 ふむ、と青年学者は考え込んでつぶやく。シェリアイーダは「素人考えですけれど」と前置きして遠慮がちに言った。

「最初の頃よりも労僕に任せる仕事が過重になっているとか、扱いがいっそう悪くなっているとかいったことはないでしょうか。王宮で働く労僕たちは見た目も最低限整える必要があるので、それなりに人間らしい待遇ですが、外では……奴隷どころか家畜よりも粗雑に扱われて使い潰されるものもいると聞きます」

 眉をひそめ、心を痛めている様子の王女に、学者は束の間きょとんとし、次いで曖昧な苦笑を浮かべて聞き返した。

「人間らしい、とはまた。あれらを人間並に扱うべきだとお考えですか? 王女殿下はお優しいのですね」

 いかにも少女らしい浅はかな情緒だ、と軽んじているのが滲み出ていたが、シェリアイーダは真顔で「いけませんか」と応じた。揶揄が通じなかったエイムダールは鼻白んだが、シェリアイーダは平静に真正面から言葉を打ち込んでいく。

「自分たちのやりたくない仕事をさせるために創り出した生き物に対し、せめて苦痛の少ないよう誠実に接するのは、責任を負う、ということ。ただ『かわいそうだから優しくしてやろう』との憐憫とは異なります」

「ああ、はい、お言葉はごもっともです」

 エイムダールは曖昧に言い、もう一度数字を確かめるふりをしてごまかした。なんといっても相手は王女だ。怒らせたらすぐにこちらの首が飛ぶような地位権力の主ではないが、それでも機嫌を取っておくに越したことはない。衝突を避け、彼は話の軌道を修正した。

「ただ私としては、損耗が早くなった原因を知るには工廠を調べるほうが良いと思いますね。需要の高まりに追いつくために増産を要求されたら、現場の判断で様々な“調整”をしてしまうこともあるでしょう。あるいは、本来は廃棄すべき粗悪な回収品を再利用するとか」

「粗悪な――というのはつまり、再生できないほどの状態になった労僕の身体、ですね」

 シェリアイーダの表情がまた曇る。エイムダールはこの繊細な王女が必要以上に労僕を憐れむことのないよう、専門家としての説明を付け加えた。

「そういう状態で回収されるものもありますが、浄化しても再生に回せないほどのものは最初に弾かれて廃棄されます。問題なのは、再生が可能であってもすべきでない粗悪品、というものでして」

 王女が首を傾げて先を促すと、エイムダールは躊躇し、室内に視線を走らせた。警護の青年の他には誰もいない。ひとつ深呼吸してから、彼は声を低めて続けた。

「まだはっきりとしたことは分かっていませんが、どうやらあれらは、元になった労僕の知識や技術――というほど大したものではありませんが、いくらかそういうものを引き継いでいるようなのです。たとえば、鉱山で回収した労僕を主として再生したものが同じ山に供給されると、先に働いている労僕に従って仕事を始めるものが時々現れます。道具の扱い方や鉱石を掘り出す手順を毎回すべて一から教えなくても良いのだと」

「そんなことが……!」

 すごい発見ではないか、とシェリアイーダは目をみはる。エイムダールは急いで注釈を加えた。

「いえ、大半はそれほど違いませんよ。気のせいではないかというぐらいの、本当にささやかな変化なんです。ええと、ほら、たとえば犬です。長い歴史の間に交配を繰り返して、ある特性の強い種別というのができているでしょう。猟犬、あるいは牧羊犬。何も教えなくても、物を咥えて人間のところへ運んでくるとか。あんな風に……だからそう、知識や技術ではなく習性ですね。さっきの例で言えば坑道の奥へ進ませるのにいちいち尻を押さなくても素直に入っていくとか、そんなぐらいです」

「それでも大きな違いではありませんか。労僕が働いていた環境ごとに分けて回収し再生すれば、その仕事に適したものが造られるようになって、人間も労僕自身も楽になるのでは?」

 なぜそうしないのか、とシェリアイーダはもどかしげに言ったが、学者の答えは慎重だった。

「そうするのが良いかどうか、難しいところです。犬の交配とは違いますからね、こうと狙った特性や習性を引き継がせられるとは限りません。さきほど『粗悪な』と言いましたが、つまり『望ましくない習性』でも残ってしまうのですよ。爆薬の扱いを間違って死んだようなものを使えば、それが危険だと学習するのでなく、誤った扱い方をしようとする習性のほうを引き継いでしまう。これはまぁ、実験室でやったことなので……一体の労僕から一体を再生すると、工廠での大量生産と異なり特性が顕著にあらわれたわけですが」

「ああ……そういうことなら、確かに実用的ではありませんね」

 シェリアイーダは落胆のため息をついた。労僕の数は膨大だ。ひとつひとつの経歴や特性を調べて選別して回収再生を、などとやっていたら流通が止まってしまう。それに、もし『望ましくない特性』が付与されてしまったら、実験室でのように一体限りでは済まず、大惨事になりかねない。

 王女は手元に戻された書類を、痛ましいまなざしで見つめた。そこに並ぶ数字がただの数ではなく、ひとつとつ命の重みを持っていると確かめる目で。

「それならせめて、労僕たちの身体を丈夫にしてやることはできませんか。現状、彼らは人間とあまり変わりありません。肌は硬くて丈夫ですが、それでも課せられる仕事が苛酷なものであることが多いため、よく怪我をしています。彼らを大切に扱えというのが現実的でないのなら、せめて少しでも傷つきにくいように、あるいは傷ついても治りが早いように」

 王女の提案に、青年学者は「ふむ」と唸って思案する。

「あれら自体は痛みをあまり感じていないのですがね。ですが確かに、だからこそ傷や不調を訴えることもなく、そのまま使い潰されてしまうわけで……使用者があれこれ点検して目配りするように意識を変えさせるよりは、放置してもすぐ治るようにしてやれば長持ちさせられるかもしれません」

 あくまでも『道具を使用する』側の立場として考えるその姿勢に、シェリアイーダは微かな苦味を目元に浮かべたが、敢えて言葉にはしなかった。

「では、先生から長官や関係者に伝えて頂けますか」

「もちろんです。具体的な方法の当たりをつけてから、殿下のお考えと併せて提案しておきましょう。ここ数年はとにかく数を増やすことにばかり注目して改修を進めてきましたからね、良い転機になると思います」

 自身も乗り気になった様子でエイムダールが請け合ったので、シェリアイーダは「宜しくお願いします」と念を押してから席を立った。エイムダールも礼儀として見送りに立つ。

「今日はこの後、また獣たちを見に?」

「ええ!」

 答えたシェリアイーダがぱっと笑顔になる。歳相応の無邪気さが現れ、エイムダールは失笑した。手強い議論を持ちかけてくる一方で、やはり少女は少女なのだ、と安心させられる。

 六彩府には兵部省の研究施設もあり、そこでは今『獣兵』の開発が進められている。労僕を基にして猛獣の強靭さを加え、ウルヴェーユに頼らず理の力に影響されない兵士を得るのが目的だ。シェリアイーダは施設に入ることも許されていないが、実験のために連れて来られる獣たちを見たいと駄々をこねて、外の庭でしばし触れ合う時間をもぎ取ったのである。

 笑われたシェリアイーダはやや恥ずかしそうに、訊かれてもいない言い訳をする。

「だって王宮ではせいぜい猫しか許されていないんですもの。小さい犬でさえ、噛み付くとか汚すとかいって触らせてもらえないんです。滅多に見られない狼や豹などもいるんですよ、こんな機会は逃せないと思いませんか?」

「それはまぁ、同感ですが」

 エイムダールはいかにも、可愛らしいなぁ、と言わんばかりの表情になって気楽に応じる。

「ですが私は遠くから見られたら充分ですね。殿下のようにすぐそばまで行って、ましてや手を触れるだとか、怖くてできません。いくら術でおとなしくさせているとは言いましても、やはり猛獣ですし」

 そこまで言って、彼はふと複雑な苦笑をこぼした。

「どのみち、私は獣たちを可愛がってやれる立場ではありません。あまり思い入れてはならない。結局は実験に使うのですからね」

「……そうですね。それなら、わたしが先生の分までいっぱい撫で回しておきます」

「ぜひ、御存分に。ただし、くれぐれもお気をつけて行ってらっしゃいませ」

 沈みかけた雰囲気を、互いに笑顔で立て直す。シェリアイーダは一礼し、専任警士を連れて部屋を辞した。

 ふれあいの庭へ向かう道すがら、王女は傍らの青年を見上げて問いかける。

「ねえリゥディエン、あなたもやっぱり心配かしら。守るべき王女が危険な獣に近寄るのは緊張する?」

「取り立ててその時だけ、という意味であれば答えは否です。私はいつでもあらゆる危険を警戒しておりますから」

 青年警士は真面目くさって答えてから、目元を和らげてささやく。

「あなたの実力を知る身として、相手が怪物であっても危険はないと確信しております。ですがそうであっても、あなたをお護りするのが私の役目。堅苦しく警告しても、我慢してお聞き入れください」

「もちろん。そうしないと、危ぶんだ他の人達に割り込まれて『仕事』が駄目になってしまうものね。だからあなたも、わたしが子供っぽく拗ねたり膨れたりしても、怒らないでね? ……笑うのも駄目よ、言っておくけど」

 信頼の通う声音に対して王女も笑みを返し、次いで言葉尻で脅すように声を低くした。吹き出しかけたリゥディエンがぐっとそれを堪え、咳払いでごまかす。シェリアイーダは「もう」と憤慨するふりをしたが、すぐに自分でも笑ってしまった。

 じきに、行く手の庭にささやかな楽園が見えてきた。獣が逃げ出したり興奮したりしないように、《詞》を込めた色紐を杭に結んで作られた囲いだ。

 此は安らぎの園、諍いなく満ち足りてあれ……優しい風にそよぐ葉ずれのように、音色が詞を紡いでいるのがわかる。柔らかな芝生には、何度か訪れて馴染みになった狼と豹が寝そべっていた。早くも匂いと足音で来訪者に気付き、狼がむくりと頭を上げてこちらを見る。シェリアイーダは手を挙げて挨拶してから、ふとつぶやいた。

「上手くいけば良いけれど」

「祈るしかありません」

 リゥディエンも神妙に言い、そっと、ほんのわずか王女の手に触れた。

 労僕を酷使するだけでは飽き足らず、獣とかけあわせて兵を創る――そんな企てを知ったシェリアイーダは、その残酷さを何とかして減じたいと願った。開発をやめさせたくても、第五妃の女児でしかなく父王にも疎まれがちな身では、口出しひとつできない。悩んだ末に採った策は、“素材”にされる獣たちに手を加えることだった。

 無邪気に子供らしく装って獣たちと戯れながら、シェリアイーダは密かにウルヴェーユを用いていた。獣たちがただ殺戮の道具として労僕のように使い潰されることのないように、せめて命のある間は喜びを見出せるように。

 無害で無意味な鼻歌に紛らせ、毛並を撫でる手の動きに載せて、互いに友として在る喜びや分かち合う幸いを詠い、染み込ませていったのだ。

「……どの程度まで、効果が残るかわからないけれど」

 シェリアイーダは痛みを堪えるまなざしを獣たちに向ける。彼女の苦悩など知らぬげに、早くこっちに来て遊んでよ、と期待をこめた目が応じる。その無垢さに負けて、シェリアイーダは微笑み、空を仰いだ。

 澄み渡った青空に響く音色。風がそよぎ、世界のあちこちから様々な歌を運んでくる。深呼吸し、まっさらな気持ちでそれらを受け止めると、万感の思いが胸に打ち寄せた。

「ねぇ、リゥディエン。世界はとても美しいわ」

 目が潤み、声が震える。青年警士が気遣いといたわりを込めて、姫、とつぶやいた。シェリアイーダは振り向き、改めて隣に立つ者を見つめる。幾度もの生で巡り合い、運命を共にしてきた、かつての夫を。

「ええ。そんなこと、とても言えない人生もあった。それでも今、こうして空を見上げ、内なる路に溢れる理の響きに心を澄ませたら、やっぱり世界の大きさと美しさに圧倒されるの。果てのない空の青さ、草木も獣も命の輝きに溢れ、雨も風も炎でさえも、色と光に満ちている。人の世がどうなろうと、世界の美しさは変わらない。瑞々しい若葉の緑、光を纏う黄葉の金、夕暮れの仄甘い風……何もかも、ただそれだけで胸を打たれる」

 夢見るように語る王女に、リゥディエンは目を細めた。そう仰せのあなたこそが美しく眩しい、というように。口に出されはしなかったが、彼の肯定は確かに伝わった。シェリアイーダは笑みを深め、うなずく。

「それを喜びと感じるのがわたしたちだけでは、あまりにも寂しいわ。魂を持つものすべてと分かち合いたい。魂の影しか持たないといわれる労僕であっても、喜びがあって良いのではないかしら。この世に生を享けたのは、彼らも同じなのだから」

 溢れる慈愛と善意を解き放つように、あるいは世界のすべてを抱きしめるように、彼女は腕をいっぱいに広げた。


     *


 ミオを連れた一行は大勢に見送られて南へ発った後、里をぐるりと迂回して東側から霊峰に近付いていった。継承者以外のイウォルの民は、シンと共に麓に残り、帰りを待つことになっている。普通の人間が登るには、霊峰はあまりに高く険しい。

 迫る夕暮れを前に、急いで野営の天幕を張る。スルギもその膂力を活かして手伝っており、非力で不慣れな低地人二人が、馬の見張りをしながら食事の用意をしていた。

「なあ、おい」

 散々うろうろして燃やせるものを集めてきたシンが、肩をすぼめて火のそばに寄る。ミオは粥を混ぜるのに集中しており、振り向きもしない。

「おい! 本当にこれでいいのか?」

 重ねて問いかけると、ミオはやっと目を向けた。感情の窺い知れないまなざしにシンはたじろぎ、薄気味悪そうな顔をする。それでも彼は疎んじることなく続けた。

「おまえが帝国じゃ死人扱いされる立場だってのは聞いた。それにおまえもあの小僧と一緒で、どっか抜け落ちてるらしい、ってのはその顔を見ればわかるけどよ。だからって人柱にされていいのか」

「顔、ですか」

 ミオはつぶやくように繰り返し、指先で己の頬に触れた。何がいけないのか、やはり彼女には理解も推測もできなかったが、今はひとつ、わかることが別にあった。

「あなたも官吏なのですよね」

 首を傾げて反問したミオに、シンは眉を上げ、苦い顔をする。

「答えないで勝手に話すとこまで同じかよ……。ああそうだ、緑綬正二位だよ、官位章を確認したいか?」

「結構です。ただ、私の知っている緑綬の方々とは、あまり似ていらっしゃらないので。長城のような辺境に勤める方は、中央とは性質が違うのですね」

「厭味か、それは」

 唸ったシンに、ミオは「いいえ」と端的に応じ、少し考えてから補足した。

「もし私が最初からそうしたところに勤めていたなら、『牙の門』の調査を命じられることもなかったかもしれない、と思ったのです」

「そいつはどうかね。俺だってたまたまこんなことに巻き込まれなきゃ、できるだけ何も変えず波風立てず、古参の連中や地元名士の顔色を窺ってへいこらしながら、だらだら過ごしていただろうさ。ああァくそ、あと一年早く任期が終わってりゃなぁ」

 今さら繰り言をこぼし、顔を覆う。そんな彼の様子を、ミオはしげしげと眺めた。

 それは何とも妙な気分だった。こんな性質の官吏は初めて見る、という、相変わらず希薄ながらも新鮮な驚き。同時により強く、こういう人間はよく知っている、という納得が落ちてくる。

 ひたひたと波のように、知らない記憶が自我の岸辺に打ち寄せる。気付けば白昼夢のように、遠い時代の失われた日々を思い出している。だが恐れは感じなかった。ミオという存在が別のものに塗り替えられる、というよりも、ただ本来あるべき姿に少しずつ戻っていく――そういう感覚があるだけだ。

 彼女は訥々と、自分の言葉と知らない誰かの言葉を縒りあわせながら紡いだ。

「不思議ですね。私の知っている官吏は皆、普通でないこと、危険の伴うことには決して手出ししない、かかわらないものでした。もし今ここにいるのがあなたでなければ、きっと『それでいいのか』などと尋ねはしなかったでしょう」

 そんな問題意識は、余計な仕事を増やし、失敗の危険を招くだけだ。上司や同僚には疎まれ、とばっちりを食う部下は不服従で不満を示すだろう。

 シンはがっくり肩を落とし、深いため息をついた。

「おまえが知ってる連中と同類なら、そもそも巻き込まれることはなかったろうよ。あの態度のでかい継承者様は、うっかり厄介事に向き合おうとしちまう馬鹿だけ選抜してくれたからな。やれやれまったく……なんであの時、話を聞こうなんて言っちまったのかね。散々嫌な目に遭って、辺境に飛ばされて五年も冷や飯を食わされたってのに、懲りない自分が恨めしいぜ」

 シンは唸って眉間を押さえる。ミオが火の世話に注意を戻したので、彼は馬の方を見やって独り言のように続けた。

「まァ……要するに、俺は臆病なんだろうよ。かかわったら面倒くせえことになるとわかっていても、放っておいたら自分の身がやばくなる気がして、ついつい近寄っていっちまう。冬が近付く度に砦の防衛を点検して、兵どもを鍛えようと躍起になっていたのも、自分が死にたくない一心だったわけだ。当時はただ、仕事熱心なんだと思っていたがな。だからまわりの連中には嫌われるんだろうさ」

 目を背けて「あるはずがない」と信じようとしている、あるいは本気で無いと信じている危険を、無理に見せつけられるから。そのうち誰かが何とかするだろうと放っておいたものを、おまえがやれと押し付けられるから。

(そういうものですね、いつの世も)

 ミオ――あるいは誰でもない女は、そんな感慨を抱いてささやいた。 

「ならばあなたは、臆病ではないのでしょう」

 穏やかで深い知性の感じられる声は、そこにいない誰かが遠くから語りかけるかのように聞こえた。シンが驚いて振り返る。女はしゃがんで鍋をかき混ぜていたが、炎に照らされた顔は、幾星霜をも経た者の微笑を浮かべていた。

「不穏や不快の存在を察知し、それに向き合おうとするのは覚悟の要ることです。まして理性をもって対処するには強さが求められる。あなたは自分で思っているほどには、臆病ではありませんよ」

 そこまで言って、彼女は目を伏せた。皆がそうであれば、と口の中でつぶやいたのは、シンには聞き取れなかった。彼はただ当惑し、曖昧な表情で問いかける。

「……女神様か、あんた」

 優しい言葉をかけられ赦されたと喜ぶのは簡単だが、そうしたくても持ち前の警戒心と卑屈さが邪魔をする。無意識に拳を握ったシンの前で、女は吐息のように答えた。

「いいえ。今は、まだ」

 聞き取れないほどのいらえが、火の粉と共にふわりと舞い、虚空に消えた。

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