七章 唯一の道


   七章


「あれが霊峰カリハルシか。確かに実際、威厳があるってえか、なんだ……おっかねえ山だな」

 山並みの間にはっきりと姿を現した白い峰を仰ぎ見て、シンは腕をこすった。夏だというのに風が冷たく、涼しいのを通り越して寒い。ずっと南方の砦から連れ出されて着の身着のままなのだから、さもあろう。イーラウは彼の状態を見ていながら、あえて何も言わずにいた。考えなしに同行すると言いだしたのは彼だ。快適な旅の支度が調えられておらずとも文句を言える筋合いはなかろう。むろん、命にかかわるようなら対処するが、そうでなければ彼は別段、賓客でも何でもないのだから。

 ともあれ、霊峰を前方に見ながら斜面を上りきると、眼下に開けた土地が広がっていた。ヴァストゥシャだ。久しぶりに人里らしき風景を目にして、シンがほっと息をついた。

「やれやれ……今夜は布団で寝られるかね」

 つぶやいた直後にややこしい表情になったのは、あの里に住むのが虎狼だと思い出したがゆえだろう。そもそも布団など使うのだろうか、と。イーラウはからかってやりたいのを堪え、真顔を保って忠告した。

「あれがヴァストゥシャ、『守人の里』だ。生きて帰りたければ、ジルヴァスツを虎狼族と呼ぶのはやめておけ。見た目がいかに虎や狼に近くとも、彼らは理性と知性をそなえた戦士だ。人間よりもよほど誠実で信頼に足る。彼らに恩義があることを忘れるな」

「へいへい。言われなくとも余計な口出しはしねえよ。俺はただ確かに虎……じゃない、ジルヴァスツか、そいつらが実在して、邪鬼を殺してくれるってことを、この目で見るだけが目的だからな。お近づきになりたいわけじゃねえ」

 シンがぞんざいに応じる。イーラウはしかつめらしくうなずいた。

「下手に親愛の情を持つよりは、その方が良かろう」

「はぁ? 何が言いたい」

「犬猫のつもりで手を出すよりは、距離を置いて見るだけにしておくのが安全だという意味だ。彼らは普段は無用の戦いはせぬが、邪鬼が現れると獰猛さを発揮するからな」

「冗談じゃねえ」

 ぼそりと唸って、シンは首を竦めた。

 ややあって畑地の端に差しかかり、イーラウは馬を止めて鞍から降りた。他の面々も同じく下馬し、それを見たシンも戸惑いながら皆に倣う。

「なんだ? ここから先は歩けってか」

 一人の男が全員の馬を集めてそこに留まり、残る数人が檻を載せた台車を引く。しばらく静かだった邪鬼が低く呻きはじめた。

 緑の葉が生い茂る畑の間を縫って里へ近付くにつれ、密かな緊張が高まっていく。やがて、里の境を示す石垣が見えきた頃、畑仕事をしていた狼がこちらに向けて手を挙げ、朗らかに挨拶をくれた。中年女の声だ。

「イウォルの若様、ようこそ! いらっしゃるのは見えていましたよ。じきに皆も来るでしょう。……おや? いつもと様子が違いますね」

 平和的な来訪だと思い込んでいたのが、戸惑いに翳る。イーラウが答えるより早く、隣の畝にいた黒豹が気付いて駆けつける。

「待て! この臭いは」

 続いてどこからか虎も駆けつけ、一行は三人のジルヴァスツに行く手を阻まれる形になった。

 気色ばむジルヴァスツを前に、イーラウは落ち着き払った態度で告げた。

「生憎だが、いつもの交易に訪れたのではない。南に邪鬼が現れた。ジルヴァスツの爪と牙によるとどめを頼みたい。それから、神子に話があると伝えてくれ」

 言葉が終わるや否や、虎が身を翻して里の中へと走ってゆく。黒豹と狼は警戒に牙を剥き、険しい面持ちで人間たちのほうへ歩み寄ってきた。

 彼らが敵視し、牙を剥いているのは邪鬼に対してであって、人間にではない。そうわかっていても、等身大の獣に迫ってこられて平静でいるのは難しい。継承者は己の中にわずかに残った人間の部分が震えるのを抑えつつ、視界の隅でへっぴり腰のシンが後ずさるのを捉え、いささか同情した。

 邪鬼の奇声が大きくなる。狼も黒豹も、鼻面に皺を寄せて牙を剥いていた。黒豹が低く唸りながら、用心深く檻に近付く。

「間違いない。檻の隙間から手を入れて、首を掻き切ろう」

「気をつけて。念のため、先に足を落とすわ」

 手順を相談する二人にイーラウが何か言おうとして、突如はっと里を振り向いた。否、視線が向けられたのはもっと高い位置――空か、あるいは霊峰か。帯に挟まれた鉦が微かに震え、高く細い音を立てる。同時に邪鬼が激しく反応した。

「ヴォッ、オオオゥゥ!」

 縛られたまま叫び、もがき、のたうち回る。ジルヴァスツの二人がぎょっとなり、動きを封じようと檻の隙間に手を突っ込んだ。だが焦ったせいで狙いは外れ、むしろ細い木の枝を折ってしまう。邪鬼がさらに暴れ、ブジュッと音を立てて縛めの紐が弾け飛んだ。

「くそっ、まずい!」

 黒豹が叫ぶ。ちぎれたのは紐ではない。邪鬼の体がブチブチと音を立てて、紐に縛られたところから切れてゆく。血と肉を撒き散らしながら、邪鬼は吼え、全身を振り回して紐から抜け出した。瞬く間に檻が打ち壊され、バラバラに崩れる。

「里に入れるな!」

 イーラウが素早く鉦を抜きながら怒鳴ったが、遅かった。

 狂気の笑いがまじった咆哮と共に、邪鬼が癒着再生した両腕で檻の床を叩きつけ、上半身だけで宙を跳ぶ。黒豹の頭上を軽々と越えて、地面にべたんと落ちたかと見るや虫のように這い、助走をつけて再び高く跳ねる。その向かう先を振り向き、女狼が「スルギ!」と悲鳴を上げた。

 石垣の内側にいた灰色の狼が、何かを守ろうとしゃがんでいた姿勢から立ち直り、邪鬼を叩き落す。なおさらに襲いかかる邪鬼の首に、狼が喰らいつき、牙を立てた。

「ウブオォァァァ!! アァァアァー!」

 憤怒のまじった悲痛な叫びを上げながら、邪鬼が腕を振り回して暴れ、胴の断面から内臓がこぼれ落ちる。もはや再生はかなわず、じきに邪鬼は痙攣するだけになり、そのままぐったりと動かなくなった。

 灰色狼が顎を開く。邪鬼の体は自らの臓物の中に落ち、ぐちゃりと音を立てた。

 あまりにも凄惨な光景を前にして、既に腰を抜かしていたシンが地面に這い蹲り、嘔吐した。胃袋まで吐き出しそうな勢いで二度、三度とえずき、震えながら泣き崩れる。だがそんなざまの彼を労わる者はいなかった。イウォルの一人がちらりと同情のなまざしを寄越しただけで、他の者は皆、危機への対処で手一杯だった。

「スルギ、無事か?」

 檻に残った下半身を始末した黒豹が呼びかける。スルギは手で口を拭い、不快もあらわに唸った。

「大丈夫だ。しかしどうして邪鬼がここに」

「イウォルの若様が南で捕らえたらしい」

「南で?」

 スルギが険しい顔で聞き返す。イーラウは進み出て答えた。

「しばらく前から邪鬼の動きに変化が出ていただろう。女神の力が弱まっている。その件で神子と話をしたいのだが」

 言いながら彼の目は、石垣の内側に倒れている者に吸い寄せられていた。スルギがそれに気付いて警戒の仕草を見せる。だがイーラウは彼のことなど眼中になく、すいと横を通り過ぎた。一瞬、スルギは止めようと手を上げかけたが、本能的な忌避感に逆らえず退いて道を空ける。

 継承者は石垣をまたぎ越え、気を失っている女の傍らに膝をついた。ジルヴァスツではなく、人間だ。ごく平凡な造作の顔は初めて見るものだが、にもかかわらず彼にははっきりと、それが誰だかわかった。頬にそっと手を添え、乱れた髪を払う。

(ああ、またあなたは)

 彼は思いつめた表情で唇を震わせ、しかし、そのまま閉ざした。発せられなかった声の代わりに、鉦が小さく震えてキィンと鳴った。


 先日は婚儀の喜びに満ちた祭殿が、今は一転、厳しく張りつめた場となっていた。

 神子と里長、継承者、そしてミオとスルギが車座になり、緊張した面持ちで黙り込んでいる。その様子を、シンは一人壁際にうずくまって観察していた。

 あの後、騒ぎを知って駆けつけた里の者らは、驚き混乱しながらも親切にしてくれた。おかげでシンは清潔な衣服に着替え、白湯を頂戴して人心地がついたものの、受けた衝撃が深すぎて、話し合いの輪に押し入るだけの気力はまだ出なかった。

 そのためイーラウのほうは、自身の使命に集中することができた。感情を抑え、女神の器となる者を見つめる。これまでと異なり、平原で何も知らずに育ったためか、間近に接してもまだ覚醒する様子がない。だが既にいくらか内面の変化は生じていたのだろう。話し合いの前にそれぞれが身分と名を明かしたが、彼女は戸惑いも訝りもせず成り行きを受け入れていた。

 しばし誰もが会話の糸口をつかめず沈黙していたが、ふとイーラウが懐に手を入れ、肌身に着けていた官位章を外して差し出した。

「これは先日、一族の者が川で見付けたものだ。そなたのものではないかと思うが」

 ミオは黙って受け取り、汚れた白綬と刻まれた官位を確かめてうなずいた。

「確かに、私のものです。ありがとうございます」

 礼を述べて頭を下げる。顔を上げた時、彼女の表情は奇妙に変化した。恥じらいと喜びと、困惑とがいりまじって定まらない、不可解な反応。イーラウは微笑を返した。そうです、私ですよ、と肯定を込めて。想いは胸に秘めたまま、彼は同じく器であった者としての助言を口にした。

「恐らく今は、まだいろいろなことが整理できず、混乱していよう。強いて線引きしようとはせぬことだ。自然に任せていれば、いずれそれぞれのところに落ち着く」

 何を言っているのか、とシンのみならずスルギも不審げな顔をする。当のミオは数回瞬きし、手の中の官位章に目を落とした。

「……やはり、女神なのですね。里に来てからずっと、私に働きかけていたのは」

「そうだ」

 答える声は、はたで聞いている者がどきりとするほど、深い情を含んでいた。その響きを打ち消すように、スルギが尾をばさりと振って割り込む。

「何の話をしているんだ? ミオ、まだ具合が良くないんじゃないのかい」

 苛立ちと心配を隠そうともしないスルギに、ミオは曖昧なまなざしを向けた。自分がどう反応すればいいのか、いくつもの選択肢を並べて迷っているような。しばしの後、彼女は頼りなげな微笑を選んだ。

「ありがとうございます、スルギさん。大丈夫です」

「本当に? つらかったら我慢しないで言ってくれよ」

 まだ不安げな彼に、ミオはふと手をもたげ、思い直して膝の上に戻した。見ていた継承者が小さく笑う。

「忠義も過ぎれば過保護だぞ、ジルヴァスツ。彼女を抜きにしては話ができぬ。本来ならそなたも、そこの小役人と一緒に壁際でおとなしく待っているのが筋なのだ」

 揶揄されてスルギが鼻面に皺を寄せると同時に、ミオが明らかに異なる声音でたしなめた。

「意地悪はよして、リゥ――」

 名を呼びかけ、自分でぎょっとしたように口を塞ぐ。スルギが困惑し、神子と里長は興味深げに彼女を見つめる。そこへ、壁際から大きなため息が聞こえた。

 振り向いた全員の視線を受け、シンはぼりぼり頭を掻いて忌々しげに言った。

「なるほどな。そこの白綬の姉ちゃんも、小僧と同じってわけか。本来の体の持ち主と、別の誰かが一緒くたになっちまってる。その『別の誰か』が大昔のことを知っていて、ああしろこうしろって命令してんだろう。違うか?」

 驚く一同の中でただ一人、イーラウは薄く皮肉な笑みでシンの推論を肯定した。

「緑綬正二位は飾りではない、か。度胸はなくとも頭は切れるようだな」

「うるせえ! 褒めるなら素直に褒めとけってんだ、いちいち貶すな馬鹿野郎!」

 シンは赤くなって怒鳴り返す。続けて彼は神子と里長をねめつけ、羞恥と気後れを隠そうと、早口で難詰した。

「そっちの二人も承知していたようだが、医者だってえ狼が驚いてるところからして、里でも大半の連中には隠されているわけか。『知る必要がない』から? 気に入らねえな。一握りの連中だけが全体の運命を左右するのは、効率的だが独善じゃねえのか。他にもっとましな道があるかもしれねえのに、全員に目隠ししたまま狭い崖道を歩かせるのかよ」

「別の道などない」イーラウは冷ややかに断じた。「言っただろう。広く知らしめようなどと考えるな、と。少数の者だけが正しく受け継ぎ務めを果たす、それが一番安全なのだ。知れ渡ればその過程で必ず誤解や歪曲、取捨選択が生じて過ちを招く」

「その少数の判断が正しいかどうか、誰に決められるってんだよ。勝手な理屈をこねやがって」

 シンは食い下がり、とうとう我慢しきれなくなって叫んだ。

「自分の運命を握っていられない、だとか、二十歳にもならない小僧に諦めさせてんじゃねえ!」

 激しい声には、明らかに彼自身の積年の怒りが込められていた。かつて意欲溢れる若者の一人として官吏登用試験に合格したのに、行く手に幾度となく慣例だの忖度だのといった壁が立ちふさがり、ひとつまたひとつと夢を諦め意気を挫かれてきた怒り。

 自分自身であろうとすることさえ、押し潰されるという屈辱。シンがそれを目の前の少年に投影し、同じ目に遭わせてなるものかと憤っていることが伝わってくる。継承者は目元を緩め、穏やかに答えた。

「ままならぬ流れに怒りを抱くのは、誰しもだ。私でさえもな。……今代イーラウの人生を思って憤ってくれたこと、礼を言う」

 そこで彼は言葉を切り、シンにきちんと向かい合って深々と頭を下げた。まったく予想外の反応だったらしく、シンは憤懣も忘れてぽかんとなる。その間に、継承者は背を伸ばして静かに続けた。

「だが、そなたが考えているほどの犠牲ではないのだ。器となる者は、そのように生まれつく。心に空ろがあり、いにしえの力と共鳴しやすい性質を持って、自然と我らに寄り添ってくるのだ。その上で、先代の死と共に新たな継承者となる。女神の力も同様だ。ただし、私と違って彼女は一代が長い。なにしろ、神であるから」

 意味深長に最後の一言をつぶやいて、彼はミオに目をやった。静かに落ち着き払っている彼女に代わり、スルギが身を乗り出した。

「待ってくれ。それはつまり、ミオが女神の力を受け継ぐという意味なのか? 力の弱まった女神の代わりに、新たな神になるとでも? 神子様、長、どういうことです。俺達は弱きものを守るために生を享けたはずでしょう」

 板床に食い込むほど強く爪を立て、疑惑と非難を投げかける。今にも噛み付きそうな形相のスルギに対し、巨躯の虎すなわち里長が、低く唸るように答えた。

「そうだ。低地の者らを邪鬼から守るのが我らの務め。そのために、女神のお力が弱まった時には、新たな依り代を霊峰へお運びせねばならぬと、わしも先代の長から教わった。依り代はイウォルの民が連れて来ると聞いていたがな」

「これまでは女神の力が弱まる時期と前後して、我々一族の中に空ろを持つ娘が生まれていたのだ」イーラウがうなずいた。「低地の者から現れたのは初めてだが、既にこの地に導かれ、女神の記憶を授けられているからには、間違いない」

 運命は決したとばかりの口調だった。スルギが絶句し、シンは舌打ちする。

「霊峰に運ぶってこたァつまり、置き去りにして死なせるって意味だろうが。あんな山のてっぺんで人間が一人で生きられるわけはねえ。依り代だの継承者だの言ったところで、要は生け贄じゃねえか、胸糞悪い」

 吐き捨てるように言ったシンに、当のミオが淡泊な声をかけた。

「緑二殿。私は構いません、どうぞお気遣いなく。そもそも私はこの里に来る前、殺されるところだったのです。官吏としてまっとうに勤めることができず、余計なことを知りすぎてしまい、もはや生きていてはならぬと。ですから、良いのです」

「良くねえだろう! くそ、中央の役人どもは相変わらず腐りきってやがる。おまえにだって家族がいるだろう、生きてやりたいことだってあるだろう!」

「いいえ。家族のことは心配しておりません。むしろ私が戻らぬ方が、皆にとっては良いでしょう。生きて、やりたいことも……」

 そこでふと彼女は、隣のスルギを見上げた。少しだけ眩しそうに目を細め、微かに笑みを浮かべる。

「これ以上は望みません。どんな形であれ、この身が必要とされているのなら、差し出すことにためらいはありません」

「駄目だ、ミオ。死なせるために助けたんじゃない」

 スルギが尾を震わせ、衝動的にミオの手を取って握る。細くて簡単に折れそうな、脆い生き物の手を。

「こんなか弱い君を犠牲にするなんて、なら俺達は何のためにこの力強い体を持っているんだ。長、他に方法はないんですか。女神の力を取り戻す、別のやり方は」

「残念ながら、ない」

 継承者が横から答え、思わしげに剣の柄頭に触れた。シンはその仕草に不吉なものを感じ、急いで割り込む。

「女神様が北に邪鬼を呼び集めているから、この里で待ち受けて殲滅できる、って話だったよな。だが呼ぶ力が弱まっても、邪鬼が大挙して長城に押し寄せるわけじゃないから防ぐことはできる、とも言った。だったら、この里の連中を砦に配備すりゃ済む話じゃねえのか? 呼び寄せてまとめて始末するより、ばらばらに来させて、一体ずつ片付ける方が安全だろうがよ」

 虚を突かれたように、里長と神子が息を飲む。だがイーラウは動じなかった。

「帝国官吏としては良い発想だろうが、採用できないな」

「おい。せめて考えるふりぐらいしたらどうだ」

「過去にもそなたと同じ提案をした者がいたのだ。その時と答えは変わらぬ。ジルヴァスツを分散させると、数が保てない。そしてまた、彼らの実在と力とが知れ渡れば、帝国の権力者は彼らを奪い合うだろう。戦のために、あるいはただ権勢を誇示するために。だから、今のやり方を変えてはならないのだ」

 理路整然と諭され、ぐっ、とシンは詰まった。何とか反論しようと、もどかしげに口を開きかけては閉じ、糸口を探してぎゅっと目を瞑り、こめかみを揉む。だがどれほど彼が苦悩しようと、現実は変わらない。

 ジルヴァスツがいかに勇猛果敢でも、平原の人間は狡猾さをもって上回るだろう。軍隊を送り込むか、騙すか、罠にかけるか。あらゆる方法で里を切り崩し、戦利品として、この惚れ惚れするような獣達を連れ去るだろう。

 そういう帝国貴族の欲と野心を、シンとて知らぬはずはなかった。ああくそ、と呻いて顔を覆う。

「どうしようもないのか……?」

「そうだ。他に道はない。そして我らの運命をそなたが気に病む必要もない」

「違う、そういうことじゃない」

 今にも泣きだしそうな声で否定し、シンは頭を振った。怒りの炎が消えてしまい、隠れていた本音が姿を現す。

「生け贄を出すようなやり方が気に食わねえのも本心だが、それ以前に俺は……怖いんだよ、くそっ」

 悔しそうに白状すると、彼はうつむいたまま、拳を床に押しつけた。

「一部の連中だけが世界の平安を守る鍵を握っているのが、恐ろしい。いにしえの技がどんなものか知らねえし、継承だの依り代だのが具体的に何をするのかも知らねえが、もしそれが失敗したらどうなる?」

 シンの言葉を受けて、イーラウは正直なところいささか驚いた。自分達にはどうしようもない脅威を知ってしまい、恐れ震えるのはわかる。今までにも見てきた反応だ。しかし、失敗したら、などと言われたのは初めてだった。

(いつかこの術が力を失う日が来るかも知れない、とは予想しているが)

 しかしそれは、世界の理そのものが変化する時になるだろう。永きにわたる継承にも終わりが来る。その時にはもう、どうする、などと慌てふためく状況にはない。

 だが、普通の人間に同じ感覚を求めるのは無理というものだ。シンは切々と訴えた。

「この里の連中が突然、流行り病で全滅したら? あるいは平原の人間を守るのが馬鹿馬鹿しくなって、自分達だけどこか遠くへ去ってしまったら? あんな化け物を相手に、何ができるんだ。俺は死にたくない。奴らに食い殺されるなんざ、絶対にごめんだ。せめて自分でも何かができる、おまえらがいなくなっても他の誰かが空いた穴を埋めてくれる、そういう仕組みが欲しいんだよ」

 情けない告白の後、場は気まずい沈黙に包まれた。イーラウはつくづくと心配性の役人を眺め、なるほど左遷されるわけだ、と納得する。

(起こりうる危難を具体的に予想できるのは才能ではあるが、それを生かせる環境がなければ疎まれるだけで評価はされまいよ)

 何であれ物事を始めた、つくった、ということが成果とみなされるものだ。推進したがる勢力の足を引っ張る悲観的な予想は嫌われるし、上手く備えて厄介事を回避できたとしても、それは“何もなかった”ことにされてしまいがちだ。

(今まで随分損をしてきたのだろうに、挙句このような、まったく手に負えない事態を知らされるとは)

 やむを得なかったとはいえ、いささか責任を感じざるを得ない。彼はため息をついた。

「やはり教えるのではなかったな。砦へ送り帰す前に、記憶を封じてやろう」

 途端にシンはぎょっとなり、慌てて身構える。

「おいやめろ。勝手に人の頭の中をいじるんじゃねえ」

「ならばこの先の人生を、ずっと怯えて暮らすのか? 恐怖のあまり、誰彼構わず己が見聞きしたことを吹聴しないと、誓えるか。無理だろう? ……心配するな、女神が確かに力を取り戻し、そなたが生きている間は何の問題も起こらぬと安心させた上で、記憶を封じてやる。そうすれば、無意識の底から恐れがささやくこともあるまい」

「まさか、親切のつもりで言っているのか?」

「そのつもりだが。余計な世話だと言い切れるほど、そなたは強くあるまい」

「…………」

 シンは屈辱に拳を握り締めたが、言い返せずにうなだれる。

 重い沈黙の末に、神子がそっと言葉を紡いだ。

「ミオ。私達には、女神の声を聞く力はありません。ですが代々、決して変えぬよう、一語一句違わぬよう、神子としての心得を受け継いできました。ゆえにあなたを霊峰へ連れて行くのが正しいことであると、信じています。ですが……あなたの口から、それを命じていただけますか。確かにそれが私達の役目であり、罪ではないのだと請け合っていただけますか」

 丸い黄色の双眸が潤んで揺れる。ミオはじっと瞬きもせず見つめ返し、不意に、今まで見せたことのない柔らかな笑みを広げた。

「もちろんです。忠実な友よ、あなた方には何の罪もない。守り伝えてきた通りに、この身を標と成すため、高きくらに運んで下さい」

 穏やかな表情は、明らかに帝国官吏ミオのものではなかった。神子と長が頭を垂れる。彼女はそれを慈しむように小さくうなずくと、継承者に対し、互いをよく知る者が交わすまなざしを向けた。

「赦しを請わねばならないのは、わたくしです。世話をかけますね」

「――……」

 継承者は何かを答えかけ、だが声を詰まらせて、ただ深く一礼する。

 スルギ一人が愕然として、己が助けたはずの娘を凝視していた。

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