六章 不信/北へ


   六章


 天幕の中は別世界のように静かで清浄だった。シンは用心深く口を覆う手を外し、それから思い切って深呼吸する。驚きを隠せず幕内を見回し、彼は布と布をつなぐ複雑な色模様に目を留めた。

 生成りの布地は漂白も彩色もされておらず素っ気ないが、継ぎ目には驚くほど多彩な色糸が用いられている。その色彩と官位との一致にまでは気付かず、彼は快適な空間の主に目を向けた。

「帝国の歴史がはじまるよりも前、ってったな。じゃあ今まで一度も、おまえらが城壁の東に逃げ込む必要に迫られたことはないのか。そんな記録は残ってないぞ。それとも、城壁が完成する前に何度も平原に侵入したってのは、もしかして邪鬼から逃げるためだったのか? だとしたら、どうしてまた丘陵に戻れたんだ。じっと待っていたら自然に脅威がなくなったってのか?」

 息をするのに支障のない空気を得て、シンは一気にまくし立てた。厳しい口調で問い質されたイーラウは、正直に賛嘆めいた表情を見せ、次いで愉しげな笑いをこぼした。

「存外、知恵が回るな。閑職に飛ばされた無能な小役人かと思ったが」

「うるせえ! 昼間も言っただろう、緑綬正二位は飾りじゃねえんだよ。質問に答えやがれ!」

 シンが噛み付くと、継承者は笑みを消し、抑揚のない声で答えた。

「そなたがすべてを知る必要はない」

 突き放すような言葉だが、口調には敵意も、小さな棘すらもない。シンが反論しかけたのを、彼は穏やかに制した。

「知れば恐らく、なすべきことの判断が下せなくなる。そなたが知り、考えるべきは、長城の西から脅威が迫っていること、いかにして我らを避難させるか、そのふたつだ」

「余計なことに気を回すな、ってか」

 シンが唸り、歯噛みする。イーラウはとぼけて応じた。

「役人というのは、そういうことが得意なものだろう」

「ああ、そうさ。どうせ、大きな問題は上の方の偉いさん達が決める。下っ端役人があれこれ気を揉んでも、どうすれば良いか必死に考えて上申しても、何にもなりゃしねえ」

 辺境に飛ばされる前の経験を思い出しているのだろう。唸る声音には怒りが滲み、今なお飲み込まされたあれこれが胸につかえたままのように苦しげだ。

「だからこそ、城壁の東に馬賊を入れろなんてむちゃな要求は、俺には裁決できねえぞ。県か郡、下手すりゃ中央にまで上申するはめになる。そうなった時に詳しい背景まで把握していなけりゃ、説得力のある書類は作れねえ。気がふれたと思われて黙殺されるか、下手すりゃ官位を取り上げられて療養院に強制収容だ」

 そこまで言い、彼は自分の腕をこすった。

「正直まだ俺自身、おまえの話を信じられん。あの森も、邪鬼だって奴の臭いも、確かにぞっとしたが……」

「離れた途端にそれも怪しくなるか。致し方あるまいな、低地の者らはそうしたものだ。我々イウォルでさえ、境界を越えて東の平原に入り、楽園のごとき暮らしに慣れてしまえば、同じ道を辿るだろう。世代を経たが最後、もはや丘陵に戻ることはかなうまい。柔らかい土からは柔らかい人間しか生まれない」

「楽園ねぇ」シンは皮肉たっぷりに繰り返した。「お互いに足を引っ張り合って、何をしてるかこそこそ監視しては密告し、部下や嫁の差し出す茶に砒霜が入れられてないかびくびくする、そんなクソみたいなところが楽園だってんなら、おまえは随分趣味が悪い。親は子を捨て、子が親を捨てる。ちょっとした失敗で職や身分を失ったが最後、誰にも助けてもらえず野垂れ死に。それでもか」

 どうだ地獄だろう、とばかり帝国の実情をことさら醜悪に披瀝されても、イーラウの心には何も響かなかった。彼にとっては見飽きた世界、時が経とうと国が代わろうと大差なく繰り返される人の営みにすぎない。だから彼は何の感慨もなく応じた。

「だからこそだ。他人を蹴落とし踏み台にしようと、誰かの労苦が生む蜜を舐めて怠惰を貪ろうと、生きていることを許される。楽園には違いあるまい? そなたらが望んで築いた世界だ」

 シンが絶句する。何を言われたのか、すぐには理解できなかったらしい。だが内容が頭に染みこむと、彼は顔を歪め、屈辱を堪えるように拳を握り締め、歯を食いしばってこちらを睨みつけた。よほど痛いところを突かれたか、そのまま彼は一言も返せずにうつむく。

 イーラウは気にかけず、何事もなかったように毛皮の敷物に腰を下ろした。腰の宝刀を外して置く時だけは、少しばかり懐古の情が胸をよぎって微かな痛みをおぼえる。シンが目敏くその変化を捉え、怒りを殺がれた様子で問いかけた。

「その刀、特別な物なのか」

「古い物だ」

 イーラウは端的に答え、それ以上触れるなと示すように、背後に置いて相手の視界から隠した。そうして話を元の軌道に戻す。

「そなたらが容易に我らを受け入れぬことはわかっている。だから、充分な猶予のあるうちに交渉をはじめたのだ。のんびりしてはおれぬが、そなた一人が焦る必要はない」

 言いながら彼は、天幕の中央に切られた炉に火を熾し、使い込まれた薬缶をかけた。熱せられた薬缶がチリチリと小さな音を立てる頃には、爽やかな香気が天幕に満ちていた。

 小さな茶碗に中身を注ぎ、座れ、と促しながら差し出す。シンはおとなしく受け取り、適当な場所に胡座をかいた。

「茶か?」

「いろいろな香草を混ぜて煎じたものだ。気分がすっきりするぞ」

 言って、継承者は自ら先に飲み干した。シンは疑わしい顔をしたものの、じき茶碗に口をつけた。礼儀というより、鼻に残る悪臭を洗い流したかったのだろう。

 湯気を吸い込んだ時点で既に、シンは驚きに目をみはった。心にかかっていた靄が晴れていくのが、外から見てもわかる。イーラウは微かに満足げな笑みを浮かべ、自身も二杯目を注いでゆっくりと味わった。

 瞼を閉じると、遙かに遠くなった風景が広がる。漆喰の白壁に踊る鮮やかな色彩の紋様、柘榴や薔薇の茂る庭園。ナツメヤシの木陰を抜けていく風のざわめき……

 茶が喉を下りていくと共にまぼろしも消え、後には清々しい香りだけが残った。

 シンもささくれた気分がすっかり落ち着いた様子で、空になった茶碗をつくづくと眺めていた。

「不思議な茶があるんだな」

 曖昧な感想をつぶやいて軽く頭を振り、居住まいを正して切り出す。

「改めて訊くぞ。馬賊を城壁の内側に避難させろと言うが、いつからいつまでだ? 邪鬼が城壁に攻めてきたら、防ぐ手立てはあるのか」

 ようやく彼が前向きに取り組む気になってくれたので、イーラウもほっとしてうなずいた。

「そのぐらいは答える必要があるだろうな。……よかろう。避難の期間については目処が立たない。防ぐ手立てはある」端的に言い、少し考えて続ける。「女神の呼ぶ力が復活すれば、今まで通り、邪鬼は北へ向かう。それがいつになるかは私にもまだわからない。邪鬼が大挙して城壁にまっすぐ向かってくるわけではないから、避難した一族と協力すれば、あれらを退けることは可能だ。殺すことは難しいがな」

「つまり、滅ぼすことはできないが、追い払って追い払って、そのうち女神様とやらが目を覚ましてくれるのを待つって寸法か」

「そうだ」

「まさに神頼みってわけか。不確定なのは変わらんな」

 シンが嫌味で一刺ししたが、ちょうどイーラウは外の物音に気を取られたところだった。天幕の入り口を振り向くと同時に足音が近付き、「今代様、失礼します」と一声かけて男が入ってきた。

 男はシンに警戒の一瞥をくれたが、イーラウが許可のしるしにうなずくと、素早くそばに寄ってささやいた。

「器が北に」

 イーラウは驚きに息を飲み、まじまじと相手を見つめる。

(馬鹿な。私が何も感じ取れなかったというのに)

 いつの時も、女神の器となる者の存在は、微かな星の光に似た予感で見付け出せた。遙か昔に互いの魂を結びつけた術の力だ。あまりにも遠く離れていれば感じ取れないこともあったが、女神と柩守の使命を負ってからはずっと、一族の中に器となる者が生まれてきた。

「間違いないのか」

 ささやきで質すと、男は深く首肯した。

「川でこれを拾った者が、女神の歌を聞いたと」

 シンから見えないように手で隠して差し出したのは、白い綬の官位章だった。イーラウはますます信じがたい気持ちになった。まさか、平原に生まれていたのか。それも、官位を得られる齢まで、器であることを誰にも気付かれないまま成長して。

 ためらいながらも、官位章を手に取る。ああ、と吐息が漏れた。懐かしい気配、運命を分かち合う存在の残り香。

 イーラウが官位章を握り締めたまま沈黙していると、男は頭を下げて言い添えた。

「ヴァストゥシャに赴き、お見定めのほどを」

「承知した」

 短いいらえを受けて男が退出する。イーラウはしばし瞑目した後、すっかりのけ者にされた帝国役人に向き直った。案の定、何こそこそ内緒話してやがる、と露骨に面白くない顔でこちらを睨んでいる。思わず苦笑し、イーラウはおどけた声音で言った。

「神頼みとて馬鹿にしたものではないぞ、小役人。どうやらそなたに難しい書類作りを強いて、悩ませる必要はなさそうだ」

「そっちこそ小役人を馬鹿にするんじゃねえ。連れ出しておいて今さら用なしだ? ふざけんな」

 シンは険悪に唸り、次いで嫌な予想をして顔をしかめた。

「まさか、用はなくなったから自力で帰れ、だとか言うんじゃねえだろうな」

「そなたは我らの信義を随分軽んじているな。約束しただろう、無事に砦に帰すと。だから己の幸運を喜んでおけ」

「どういう意味だ。上申しなくていいってことはつまり、逃げる必要がなくなったってこったろう。噂の女神様がもうお目覚めになったってのか」

「まだだ」

 イーラウは素っ気なく否定し、背後の宝刀を気にしながらつぶやいた。

「……だが、じきだろう」

「予兆みたいなもんがあった、ってわけか」

「そうだ」

 これ以上は説明しないぞ、と断ち切る口調で応じる。シンは鼻を鳴らして腕組みし、大袈裟なほど憤慨して見せた。

「それで終わりかよ? 問答無用で連れ出して、怖気のするものを見せ付けて、大袈裟な与太話を吹き込んで、挙句いきなりもう帰れ、ってのは勝手が過ぎるぞ。ああもちろん、全部説明しろってんじゃない。『すべてを知る必要はない』んだろ、こっちだって面倒事は御免だ。だが迷惑の代償に、それなりの誠意ってもんを見せてもらいたいね」

「誠意? ふむ。頭を下げて謝罪すれば良いのか、手土産のひとつふたつ持たせてやれば良いのかな」

 そういうことではあるまい、と薄々察しながら、イーラウはとぼけて応じた。恐らくただの時間稼ぎだ。今すぐ追い払われないように、もっと踏み込んだ情報をわずかでも得るための。面倒事は御免だという言葉とは裏腹に、真実が気になって仕方がない、とあからさまに顔に出ているのだから。

 案の定シンは、勢いでごねたものの詳細を決めていなかった、とばかり視線を泳がせた。取り繕うように急いで口を開き、要求したことには。

「メシぐらい食わせろ。それで帰りは明日しっかり日が昇ってから、俺のぶんの馬も用意してもらおうか。兵どもの前で馬賊と仲良く二人乗りなんざ、末代までの恥だ」

「承知した。では賄い方に食事を頼んでこよう。うっかり外を覗けばまた食欲が失せるぞ、退屈してもこの天幕から出ぬことだ」

 イーラウは笑いを堪えているのがばれないように、立ち上がりながら答えた。シンが渋面になったのを見やり、いささか同情を込めて続ける。

「もう少し日にちがずれていれば、そなたに余計なことを教えて心労を増やすこともなかったが……まあ、悪い夢だったと思って元の暮らしに戻るのだな。無事に女神が力を取り戻したら、そなたにも知らせよう。だがそれまでは、我々が大挙してそなたの砦に押し掛けても問答無用で攻撃することのないよう、心に留めておいてくれ」

 いたわりはする。だが、すまなかったと詫びはしない。イーラウは継承者のまなざしで何も知らない平原の民を一瞥すると、天幕を出て行った。


 夕餉の内容は遊牧民の暮らしにおいては普通のものだったが、平原人の舌には馴染まない代物だった。独特な臭いのする乳や蘇、帝国内では一部地方を除いて食されない黍粥。シンは正直に不味そうな顔をしたが、要求した手前もういらないとも断れず、苦労してもそもそ口を動かしていた。

 そんな食事でも腹が膨れたら眠気が差してくる。何もやる事がないのでは尚更だ。イーラウは炉の火明かりで武具や衣類の手入れなどをしていたが、シンのほうは毛皮に横たわってだらだらするしかない。くっつきそうな瞼を開けておくために、彼は何でも良いから会話しようと試みた。

「おい。帯に挟んでるそれは何だ? 金属の棒みたいだが、武器じゃねえな。まじないに使うのか。そういや最初におまえが部屋に現れた時も、妙な音が聞こえたが」

「ああ、昔の鉦だ」

 イーラウは答えて帯から抜き、軽く鳴らして聞かせる。

「私が扱うと力が載ってしまうが、他の者であれば、ただの楽器として使うことができる。多くの楽曲は失われたが、単調な旋律ならばまだ伝わっている」

 そっと辿った優しい音の連なりは、遙かな昔の子守唄だ。色と詞を結びつけなくとも、心を安らがせる効果ぐらいはある。

「帝国の歴史よりも古い時代の音楽か? そんなもん、残っているほうが不思議だろう。執念深い奴が覚えていない限り、たとえ譜があったって奏で方が忘れられちまう」

「そうだな」

 イーラウは相槌を打ち、鉦をそっと撫でて余韻を消す。その動作につられたようにシンの頭が揺れて、あえなく毛皮の中に落ちた。むぅ、とかなんとか小さな唸り声を漏らしたきり、もう会話は続かない。じきに彼は深い寝息を立て始めた。

(さて……どのぐらい効果があったかな)

 術で意識を奪ったわけではないので、単に疲労の限界だっただけだろう。程よく腹も満ちて安らかな音色に誘われ、すんなり眠りに落ちたのだ。

(朝までぐっすり、とゆけば良いが)

 そうはなるまい。彼は途中だった手仕事を片付け、炉の火に灰をかぶせて小さな熾にすると、いつもの場所で身体を横たえた。そうしてふと、奇妙なおかしみを感じる。

 暗がりの中で他人の寝息が聞こえるというのは、この天幕を使うようになって初めてのことだ。それが同じイウォルの誰かでも、女神の器となる女でもなく、帝国の役人だというのは何の因果だろう。

 当代の継承者は、歴史の早い時期から常に独りだった。彼らイウォルが『警戒するもの』として丘陵に暮らす事を決めたごく初期の頃は、全員が古い王国の歴史を知っていた。なにゆえ、何に、どうやって、警戒せねばならないのか――各々が腹を括り、能動的に一族の生き方をつくりあげた。

 いまやその記憶を有するのは継承者ただ一人だ。他は皆、先祖より伝わる慣わしを守り、邪鬼の監視と女神の代替わりを間違いなくおこなうことだけを使命として、一族の存在を維持している。

(いつまで……)

 危険な問いかけが心に浮かびかけた寸前、若い肉体の意識がそれを打ち消す。

(これが我らの生き方だ。今までも、これからも)

 そう。そうだ。継承者は瞼を下ろし、想いを閉ざして眠りについた。

 安息は束の間で、ほどなく彼は気配を察知して目を覚ました。ごそごそ動く物音に続き、黒い影がむくりと起き上がる。慣れない天幕の中を手探りし、出口を見付けて這い出ていったのは、むろん帝国の役人だ。

 予想通りの行動に苦笑しつつ、イーラウは少し間を置いて起き上がった。元より警戒していたから既に目は冴えている。宝刀を掴み、そっと静かに後を追った。

 案の定、シンは冷たい夜気に震えながら、まっすぐに邪鬼の檻を目指していた。

 月光に照らされた蒼い夜の静寂を、ためらいがちな足音が進む。それにつれて、小さな声が生じた。

「オッ……ォ、ウゥ」

 シンの足音を聞きつけて、囚われている邪鬼が反応したのだ。目を見開き、何かを懇願するようにくぐもった声を漏らして、のたうちながら柵の際まで動いてくる。

 シンは悪臭に耐えつつ、あと一歩というところまで近付いた。

「やっぱり人間じゃねえか。おい、言葉がわかるか? おまえは帝国の者か」

「ウゥ……む、ぐ」

 質問を理解してか、虜囚はうなずくような動きを激しくした。シンはえずきそうになるのをぐっと堪え、半歩さらに近寄る。虜囚の目が歓喜に輝く。様子を見ていたイーラウは静かに距離を詰めた。縛が解けずとも、シンが手を檻に突っ込みでもすれば、指を喰いちぎられかねない。

 シン自身も危険を察している証拠に、身体が恐怖で震えている。それでもなお、邪鬼をただの虜囚と見て救出しようとするのは、彼にとっては一種の意地なのだろう。帝国役人が『馬賊』の戯言を真に受けるなど言語道断、という矜持だ。

「待ってろ。とにかく、まず息をつかせてやるからな」

 だがしかし本能は正直だ。足はそれ以上、頑として動かなかった。それどころか、膝までが小刻みに震えだす。

「くそっ!」

 シンは小声で罵って、己の足を闇雲に叩いた。

「今、助けてやるぞ」

 己を励ますために言い、しゃがんで手を伸ばす。虜囚が身を乗り出し、顔を柵に押しつけ――その時だった。

 銀のきらめきが走り、柵の間から虜囚の眉間を貫いた。

 シンは中途半端な位置に手を上げたまま、呆然とする。背後に継承者が立って、剣を突き出していた。

 事実としてイーラウはシンを危険から守ったのだが、反応は随分なものだった。シンは明らかに恐怖し、逃げようと後ずさりかけ、膝の力が抜けて尻餅をつく。こちらを見上げる目は、やめろ来るな殺さないでくれ、と訴えていた。

 イーラウはそれを蔑みも嗤いもせず、ただじっと見下ろしていた。

(まぁこんなものだ。つくづく無知というのは憐れな)

 一抹の虚しさをごまかすように、彼は昼間に笑わせてもらった出来事を思い出し、あの時と同じ小癪な鷹揚さを装って言ってやった。

「水甕を空けるなら、もっと別の場所にした方がいいぞ、小役人」

 途端にシンはかっと赤くなり、手近な草を土ごとむしって投げつける。手に力が入らず、間近だというのに土は狙いを外れて、継承者の足元にぽそりと落ちた。

「ふざけんな、よくも!」

「いいから見ろ」

 イーラウは端的に命じ、ぐいと剣を引き抜く。檻の虜囚はどさりと倒れたが、シンが驚いたことに、死んではいなかった。

 小さく呻きながら、ひくひくと動いている。眉間からぴゅっと黒っぽい液体が飛び散ったが、じきにそれも止まった。

「なん……」

 言葉が出てこず、シンは絶句する。瞬きもせず凝視する彼の前で、眉間の深い傷がふさがり、肉が盛り上がって血の痕さえも呑み込んだ。にたり、と目が細められる。

 ひっ、と鳴いたのが自分だと意識するよりも早く、シンは這いずり逃げていた。五歩もゆかずに手足がもつれ、また腰を抜かす。

「ぐ……グッグッ、ウゥ」

 邪鬼の喉からあぶくのような音が漏れる。笑っているのだろうか。

 恐怖に喘いでいるシンを残し、イーラウは踵を返して天幕に戻っていった。


 翌日。シンは寝不足の充血した目で、馬の背に揺られていた。向かう先は北。砦のある東南ではない。

 邪鬼が間違いなく人間ではないと思い知った後、まんじりともせず朝を迎えたシンは、ヴァストゥシャまで同行したいと申し出たのだ。

「降参だ、認める。邪鬼だのなんだのいうのは、おまえたち馬賊の迷信じゃない。だったら俺は、真実を知りたい。いや、知らなきゃならん。伝説の虎狼族の実在を確かめ、たとえ真に受けられることがなくとも、事実を記して伝え残す義務がある」

 きっぱりと言い切った彼に、イーラウは複雑な微苦笑を返した。義務だなどと強弁しているが、内心の不信と不安を隠すための虚勢だろう。とはいえ、昨夜あれほど怯えて腰を抜かしていたのに、己が目で真実を確かめると決めた心意気は好ましかった。

「そなた一人が知ったところでどうにもならぬし、記録は失われるだろう。それでも良いなら、共に来るのを止めはしない。砦には使者を遣ろう」

 そうして、シンは留守中の職務を緑綬三位の部下に委ねるとの伝言を託し、使者の腕に自分の官位章でしるしを捺して、北へ向かう一行に加わったのだ。

 先頭に継承者イーラウ、そのすぐ後にシンがつき、少し距離を置いて邪鬼の檻がごろごろと牽かれてくる。

 丘陵は荒涼とした風景だったが、じきに一行は静かな川に出会った。北から下ってきてゆっくりと南西へ向かっている。川沿いには樹木もぽつぽつと生えており、踏み固められた道がうっすらと続いていた。イーラウは何の説明もせず、ただそれを辿り、流れを遡ってゆく。

 北へ向かうにつれて、高地へ高地へと進んでいるのが、シンにも次第にわかってきた。右手――東に続く丘の稜線が、いつしか見下ろせるほど低くなり、その隙間に横たわる細い紐のようなものを目で追うことができるようになった。長城だ。しかしそれも、数日すると間に割り込んだ山並みによって見えなくなった。

「あの向こう側には、西果ての大峡谷があるって寸法か。こうして考えると、平原はまさに囲いの中だな」

 休憩時、シンは彼方の故郷を眺めやって、ぽつりと感慨を漏らした。イーラウも小さくうなずく。

「外から眺めてみれば、楽園と評されるのもわかるだろう」

 嫌な会話を掘り起こされて、シンは苦々しく唸る。だが今度は言い返さず、「ああ、まぁな」と肯定した。

 北は氷壁、北西は『牙の門』すなわち大峡谷と断崖絶壁、西は山脈と長城。南は塩の荒野と赤海、唯一境を接するワンジル王国。東はずっと海だ。余計な外敵に脅かされず、肥沃で農牧業に適した平原を占拠して、陽帝国は豊かな実りを享受し繁栄してきた。

「だから満足しちまったのかねぇ」

 シンが独りごちた。イーラウは聞こえなかったふりで、邪鬼の様子を見に行く。

 ぬるま湯の平穏に満足して、外洋を渡る船も造らず、西の果てに挑む者もなく、平原に引き籠ってきた帝国。

(そう納得し、それに倣うが良い)

 余計な事は知らなくていい――知ったところでどうにも出来ないのだから。

 だが彼が術の縛めを確かめて戻ってくると、シンはやけに強い意志を込めてこちらを睨み、挑むように問うてきた。

「おい。なんでおまえだけなんだ?」

「何がだ」

「邪鬼が反応して暴れるのは、なんでおまえだけなんだ。いにしえの力を受け継いでいるからだってのは聞いたが、それがおまえ一人だけってのが腑に落ちねえ。他の連中はどうなったんだ」

「そなたは知る必要のないことだ」

 例によってイーラウは回答を拒んだが、今度はシンも引き下がらなかった。

「勝手に決めるな! 書類を作る必要があろうがなかろうが、俺の砦勤めはまだ一年残ってるんだ。おまえら馬賊だけじゃなく、その向こうから湧いてくる別の脅威のことや、それにどうやって対抗するかってことは、知っておかなきゃならん。己の運命を他人任せにして、何もわからないままくたばるなんざ、ごめんなんだよ」

 シンは鼻息荒く言い切った。イーラウはただ平静に見つめ返し、相手の瞳の奥にあるものを汲み取ろうとする。

(恐れ、か。なるほど)

 遠い記憶が脳裏をかすめた。何代か前の継承者として在った記憶。やはり今回のように砦の役人を巻き込むはめになり、そして同じく恐怖された。結局、邪鬼の脅威が退いた後、かかわった帝国人すべての記憶を封じるしかなくなったのだ。

「己の運命を握っていられる者など、いない」

 時の彼方を思いつつ、イーラウは答えにならない答えを返した。「私もだ」と言い添えて、そのまま隊列の先頭に戻ろうとする。だが、その腕をシンが掴んで止めた。

「悲劇に酔ってるところ生憎だがな、俺は諦めが悪いんだ。第一、こんな胸糞悪い化け物やら、馬賊の若様の強烈な手前勝手ぶりやらをすっかり忘れて、目と耳を塞いで暮らすことなんざできるもんか。おまえが知っていることを、洗いざらい吐いてもらうぞ」

「……しぶといな」

 思わず笑みがこぼれる。こういう負けず嫌い、意志の強さに触れるのは、実のところ不快ではなかった。長い時を重ねてきた者にとっては、羨ましくさえある眩しい煌きだ。

 幼少の者のように見られたことを察してか、シンは嫌そうな顔をして手を離す。帝国官吏の自負だとか、三十路男の自意識だとかいったものは、しかし、継承者にとっては瑣末な事柄でしかなかった。

 ふむ、と思案したのち、イーラウは現実的な妥協を提示した。

「砦を訪れたのは避難の必要に迫られてのことだが、本音を言えば、余計な知識は渡したくない。そなた個人の心構えのためであるならば、ジルヴァスツの実在を確かめたいというのも止めぬし、そなたが砦にいる間、我々一族への対応を変えるのも良かろう。だが失われた時代の事柄については、記録に残さず心に留めてもらいたい」

「つまり何か? 記録するなら理由も原因も伏せて、ただ『いきなり馬賊が長城の東に入れろと言ってきたら避難させてやれ』ってだけにしろってことか。そりゃ勝手が過ぎるってもんだろう」

 シンは苦々しくなじった。そんな意味不明の忠告が、記録としてまともに取り扱われるはずがない。そうか、それでか、と彼は悟ってまくし立てた。

「過去にもあったんだな? 馬賊が帝国側に逃げ込まなきゃならん事態になったことが、あったんだろう。だが、余計な知識を書き残すな、と禁じたせいで記録は戯言として捨てられた。だからいまだに、砦の守りについている連中でさえ何も知らない」

「……さあ、どうかな」

 イーラウは薄く微笑んではぐらかす。シンは舌打ちした。

「馬鹿かおまえは! 伝えたらいいだろう、何がどうしてこうなってんのか、全部明かして助けを求めたらいいじゃねえか! 神頼みに縋らなくても、何か手立てが見付かるかもしれないし、それが無理でも」

「駄目だ」

 言い募るシンを、イーラウは断固として遮った。あまりに重いその声音に、シンは絶句する。継承者はもう一度「駄目だ」と繰り返し、ゆっくりと首を振った。

「国家も民衆も信じてはならない。そなたも肝に銘じておけ。私のこの力のこと、ジルヴァスツのことを、広く知らしめようなどと考えないことだ。……死ぬぞ」

 最後の一言は、地の底よりも深く暗かった。シンはたじろぎ、後ずさる。イーラウが目の前を通り過ぎるのを見送る間、彼は息を詰めていた。

 ――死ぬぞ。

 殺すぞ、ではない。忠告の意味がシンの心にじわじわと染みてゆくのが、表情の変化から窺い知れる。彼がこれ以上食い下がらないうちに、イーラウは馬にまたがり、出発の合図を出した。


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