五章(2) 脅威の正体



「なんで誰も駆けつけねぇんだ畜生、あんだけ騒いだのに。弛みすぎだろ、くそっ」

 鞍の後ろに載せられたまま、シンはぐちぐち文句を言い続けている。歩みに合わせて息が詰まるし楽ではなかろうに、おとなしく黙ってはいられないらしい。

 継承者は相手にせず無視していたが、丘を二つ越えてもまだ終わらないので、とうとう失笑をこぼした。

「よくもそう延々と恨み言が続くものだな、小役人。あまり部下を責めてやるな。弛んでいるのは否定せぬが、誰もそなたを救いに来なかったのは、私がそのように細工したからだ。彼らの責ではない」

「笑うなクソガキ! いい加減にこの紐を解け、妖術なんか使いやがって」

「妖術、か」

 ふっ、と辛辣な苦笑をこぼし、継承者は馬を止めた。いにしえの術、誰もが使いこなした知恵とわざも、落ちぶれたものだ。ともあれ、それはこの小役人の責任ではない。

「そうだな、ここから砦まで徒歩では日が落ちるまでに帰りつけまいし、逃げる気がないのなら解いてやろう。言っておくが、私の馬を奪おうとしても無駄だぞ」

「いいからさっさと解け! 馬の背中を濡らされたいのか!」

 真っ赤になってシンが怒鳴り、一拍置いて少年の快活な笑い声が辺りに響き渡った。

 捕らえた時と同様に、紐がするりと動いて解ける。自由になったシンは大急ぎで地面に下り、少しばかり走って離れると、切迫した膀胱を解放してやった。

 人心地ついた顔で彼が戻って来ると、イーラウは真面目を装って茶化した。

「これからは不測の事態に備えて、早めに水甕を空けておくのだな、小役人」

「腹の立つ小僧だな、いちいち人を小役人呼ばわりするんじゃねえ」

「仕方がなかろう、そなたが名を言わぬのだから」

「そういう時は普通に名前を訊け! 俺はシン=ウェイデン、緑綬正二官だ。馬賊の若様にとっちゃ意味のねえ位だろうが、これでも官吏登用試験の成績は……」

 ふつっ、と言葉が途切れる。シンは顔をしかめ、風上を振り向いた。

「なんだ?」

 異臭がした。風に乗って、ほんの一瞬だったが、確かに何か危険なものの臭いが鼻をかすめていったのだ。目の前の怒りも何もかも放り出して、今すぐ一散に逃げろと本能が命じるほどの臭い。

 日が翳り、風が冷たく重くなる。動悸が速まり、肌が粟立つ。

「心配ない。まだ遠い」

 イーラウが言って、ぽんと馬の首を叩く。

「あれが邪鬼の臭いだ」

「……臭ぇな」

 シンは憎まれ口を返す元気もなく、そそくさと馬のそばに寄った。今の自分は寸鉄も身に帯びていない。得体の知れない化け物が出たとして、身を守る術は何もないのだ。

 彼が不安になったのを見て取り、イーラウは表情を和らげた。

「そなたの身の安全は私が守る。必ず無事に砦へ帰すと約束しよう。でなければ、連れ出した意味がないからな」

「偉そうに言いやがって。俺だって武器があれば、おまえみたいな子供の背中に隠れる必要なんかねえんだよ」

 ちっ、と舌打ちして空を仰ぐ。雲が流れて太陽が再び輝いた。

「子供ではない」

 継承者が言った。若者にありがちな強がりではなく、年長者が幼少の者を諭す声音で。

「そなたも既に気付いていよう。先に告げたように、この身はイーラウ、現イウォルの長の甥だ。しかし同時に私はヴァステルシ、即ちいにしえの力と技の継承者でもある。長き時を歩み幾人もの身を経て、固有の名はもはや無い」

 静かな口調は神秘の気配を帯びていて、内容もさながらすぐには受け入れ難く、シンは頭を抱えてしまった。星空の下、揺らめく焚き火を挟んで言われたなら少しは信じやすくもあったろうが、夏の陽射しが降り注ぐ緑の丘ではどうにも嘘臭いばかりだ。

「ああもう、いっぺんにあれこれ言われてわけがわからん。そもそもおまえをなんて呼べばいいんだ、え? イーラウか、継承者か、ヴァス……なんとかってったか」

「どれでも、覚えている名で呼べばいい。さして重要なことではないからな」

「なんだよそれは。重要じゃねえんだったら、聞いたこともない名前を色々出すなよ、混乱するだろうが!」

「だから最初に、見込みの有無を見定めたのだ。すべてを理解せずとも良い、どうせ我らの歴史は失われたのだし、弱きものらはまた忘れるだろう。今はただ、そなたが何をなさねばならぬかを知って対処すれば良い。行くぞ」

 突き放した口調で言い、さあ乗れ、と鞍の後ろを叩く。シンはあからさまに不服顔だったが、頭を掻いて大きなため息をついた後、諦めて鞍に手をかけた。

 丘陵を西へと進む間、シンは落ち着きなく身動きしたり、辺りを見回したりしていた。乗馬にあまり慣れていないのだろう。それに、いざとなったら砦まで徒歩で帰れるか、不安になってきたらしい。

 イーラウは気楽な態度で「どうした」と訊いてやった。何の問題もないぞ、心配するな、となだめる代わりだ。シンは何ともいえない唸りを漏らしてから、はたと気付いた様子で疑問を投げかけてきた。

「最近、砦の近くにちらほら騎影が見えると思ったのは、おまえか。邪鬼とやらが出て来ていないか、見回っていたのか?」

「そうだ」

「おまえ一人でか」

「いや、仲間と分担している。邪鬼を封じられるのは私だけだが、見付けて知らせるのは誰でも良いからな」

「封じる、ってな……さっきみたいに紐を使って?」

「ああ。他の者も大勢でかかれば動きを止めるぐらいはできるが、犠牲者を増やすだけだからな。見回りは必ず単騎でおこない、発見したら合図をしてすぐに逃げろと言い聞かせてある」

「なんだ、馬賊は誰でもあの妖術を使えるんじゃねえのか。紐を生き物みたいに操ったり、いきなり部屋に現れたり」

「そなたの部屋に入った折は、特別込み入った手段に頼ったわけではないぞ。むろん多少の細工はしたが、せずともたやすかったろうな」

 イーラウが軽く揶揄する。シンは苦虫を噛み潰し、帰ったらあいつら覚悟しとけ、などと不穏な決意をつぶやいた。イーラウは気の毒な兵士らを思いやって苦笑を浮かべたが、じき真顔になって独り言のように続けた。

「そなたが妖術と呼ぶのは、いにしえの時代に我々が用いた技だ。ウルヴェーユ……今の言葉に訳するなら、彩詠術、とでも言おうか。詞に音と色を載せて対象に働きかけるのだ。今ではもう、私の他にこの力を持つ人間はいない」

 なぜ、の問いを許さない声音だった。孤独と寂寥、哀惜の滲む声。シンはわざとらしく応じた。

「そりゃァ良かった。馬賊が皆おまえみたいなんだったら、こちとら長城に隙間なく兵を並べたって安心できねえよ」

「褒め言葉と取っておこう」

 ふっとイーラウが笑うと、シンはむず痒いのをごまかすように身じろぎした。

 そのまま馬に揺られ続け、丘をさらにいくつも越えて、蜂蜜色を帯びた陽光に長い影が伸びてきた頃、二人は丘陵の果てに辿り着いた。先日イーラウが邪鬼を仕留めた、あの丘だ。

 何の予告もなく、初めて禁忌の森と対面させられたシンは、完全に度肝を抜かれた。

「着いたのか? さっきからどうにも不気味な感じがするんだが」

 馬が止まったのでそう言いながら身をずらし、前を覗き込んだ途端、眩暈に襲われ落馬しそうになる。危ういところで我に返ったものの、声すら出せないまま喘ぎ、目の前の光景を拒否するように顔を背けた。身体が震え、歯の根が合わずにカチカチ音を立て始める。あまりにも巨大な存在を前にして、本能的な恐怖に圧倒されているのだ。

 イーラウは静かに説明してやった。

「普段、我々はこれほど近くに寄ることはない。邪鬼の気配がした時は別として、最低でも丘をひとつ越えたところを移動する。だが今は、そなたに見せるために敢えてここまで登った。……説明が要るか?」

 返事代わりに、シンは激しく首を振った。何も言わなくてもいい、とにかくここから離れたい、と全身で主張する。

 もう充分だろう。イーラウは馬首を巡らせ、東北の方角へ下りていく。背後でシンが、抑えた安堵の息を吐いて緊張を緩めた。

「あれは……」

 小声で言いさしたものの、そのまま黙り込む。どんな言葉で説明されても、あの森の正体は理解できず畏怖が薄れることもない、いっそ何も言わないほうが良い――そうした諦観だろう。継承者は独り言めかしてささやいた。

「語らぬことが一番の安全。イウォルの民の多くもまた同じだ」

 人智を遙かに越えた脅威、手に負えない神秘について、まともに考えようとすれば気が狂う。だから、現実そこに在るのが確かであっても、そっと視線を外して知らぬふりをして過ごすのだ。

(そうやって生き延びた末に、禁忌の森が本来どういうものであったか、何故ああなったのかを理解しているのは私だけになってしまった)

 孤独を紛らすように、己の内にある『路』を意識する。世界の理に通ずる路、根源の力を汲み出すわざ。それらを知らずして、あの森を理解することはできない。

(否、もう一人)

 彼はふと目を細め、遙か北の空を見やったが、それもほんの束の間だった。記憶の彼方に揺り戻されるのを避けるように、瞼を閉じて一呼吸。現在に意識を戻し、手綱を取る手に集中した。

 ほどなく丘と丘の間の狭い平地に、一族の天幕が見えてきた。風向きが変わり、人のざわつきや生活の物音が届く。それだけでなく、先刻ほんの一瞬だけでシンの背筋を寒からしめたあの異臭も。

「おい、どういうこった。この臭いは……」

「そう、邪鬼の臭いだ。今、一匹捕らえたものがいるのでな。ヴァストゥシャへ連れて行って、とどめを刺してもらわねばならん」

 継承者は当然のように答えたが、シンの方はすぐには理解できない。眉間に皺を寄せてしばし考え、やっと思い出す。

「ああ……なんだったか、北の方にいる虎狼族でなきゃいけねえとか言ってたな。捕らえることはできるのに、殺せねえってなどういうこった。それとも、ここで殺しちゃならん理由でもあるのか? 土地が穢れるとか」

「違う。が、一部は正しい。邪鬼の息の根を止めるにはジルヴァスツの爪か牙をもってせねばならないが、他の方法でもやってできないことはない。酸を浴びせて焼いて動きを封じ、全身を細切れに切り刻み、徹底的に形がなくなるまで潰した上で、ばらして石灰に埋めて、どうにかというところだ。それでも不完全だと、月が一巡りする頃には元の姿で地面から這い出してくる。だから危険すぎて、埋めた土地には近寄れん」

「うえっ」

 シンは吐きそうな声を漏らす。実際にも気分が悪くなったらしく、彼は会話を打ち切って口をつぐみ、鼻をつまんだ。

「お帰りなさいませ」

「砦の者を連れて戻られましたか」

 継承者の姿を認めて、遊牧の民が次々に恭しく頭を下げる。ほとんどが壮健な男であり、皆、顔の下半分に薄布を巻いていた。元は日よけ風よけの布で、今は臭いを防ぐのにも役立っている。天幕の間には騎乗用の馬がわずかにいるだけで、生活の糧である山羊などの家畜はいない。ここにいるのは、邪鬼の脅威に耐えられ、かつ万一には立ち向かうことのできる人間だけなのだ。

 イーラウが馬を止めて下りるように合図したので、シンは急いで地面に両足をつけ、しゃがみ込んだ。邪鬼の臭いは下に淀むよりは上に散っていくようで、土と草の匂いが勝って少し楽になる。だがほっとした途端に、低い呻きとガタガタ何かを揺する音が聞こえて、胸のむかつきが酷くなった。

「邪鬼とやらを見たら、帰らせてくれるんだろうな。こんな臭いの元と一緒に長居したかねえぞ」

 小声で唸ったシンに、イーラウは軽くうなずいた。

「飲まず食わずでかまわないと言うなら、すぐに帰らせてやる。だが何か腹に入れたいのであれば、帰りは明日になるな」

「こんなところで何が食えるってんだ。そもそも飲み食いできる気分じゃない」

 シンは毒づいたが、イーラウは素っ気なく「こっちだ」と手招きして歩きだした。邪鬼を捕らえた檻に近付くにつれ、異臭は強まり、物音も激しくなる。

「ヴゥ……くご……ウォ……」

 呻きの中に何か意味のありそうな断片が挟まった。シンが怯んで立ち止まる。

「来い。そなたらを脅かすものの姿を、しかと目に焼きつけよ」

「命令するな」

 荒っぽく言い返し、シンは渋々歩みを再開する。じきに台車に載せられた檻が見えてきた。細い木の枝で作られた、いかにも頼りないそれは、中から揺すられて今にもばらばらになりそうだ。だがそうなっても良いようにか、囚人は紐で幾重にも縛られていた。

「……邪鬼だと?」

 後ろ手にされ、膝を折り曲げた姿勢で、両足のくるぶし、膝、腹から胸、首もとまで。これでもかとばかり巻かれた紐が、衣服も毛皮もまとわぬ青白い皮膚に食い込み、赤黒い染みを滴らせている。狭い檻の中で転がり、柵に体当たりして暴れるので、そこらじゅうに同じ色の汚れがついていた。

 猿轡を噛まされた口から、オッオッと声を押し出していたそのものは、シンに気付くと血走った目をぎょろりと向けた。狂気を孕んだ歓喜に、その目が細められる。

 耐えきれなくなってシンは怒鳴った。

「くそが! 人間じゃないか! どこから攫って来やがった、馬賊ども!」

 その反応を予期していたイーラウは、醒めたまなざしを返しただけで動じなかった。

「そなたには、これが人に見えるのか。青白く歪な姿をして、理性もなく、痛みも感じぬこの生き物が」

「こんな扱いをされたら誰だってイカれちまうに決まってるだろう!」

「そうではない。これは『しもべ』だ。人の行う仕事を担わせるため、人と似た体を与えられてはいるが、人ではない。いにしえの技で生み出された、偽りの命だ」

「馬鹿な……」

「そなたも心では理解していよう。これは人ではない、人にとっての敵であると」

「わけがわからねえんだよ! しもべだとか作り出したとか言った端から、今度は敵だとか、何がどうなってんだ畜生! 奴隷に反乱でも起こされたってのか」

 シンは頭を掻きむしり、地団太を踏む。混乱し、現実を拒絶したくて幼稚な振る舞いをしているが、そのくせ事情を推察する理性はまともに働いている辺り、何とも気の毒ではある。イーラウは内心ひそかに苦笑した。恐れ忌み嫌って、俺には関係ない知るか、と投げ捨てられる性分なら、もっと楽に生きられるだろうに。貧乏くじを引かされる人間というのは、いつも大体似たようなものだ。

「反乱を起こしたのではない」

 彼は少しばかり親切な口調になって言うと、邪鬼を一瞥した後、シンを促してその場を離れた。檻を揺する物音がおさまる。シンが背後を気にしているので、イーラウはひとつの天幕の入口を開けながら説明してやった。

「私の力はあれらを活気づかせるのでな。あまり長くそばにいると危ない。そもそもは、私が受け継いでいるこの力こそが、彼らしもべを生み出したのだ。だから今も彼らは、私と霊峰の女神に反応する。かつての主の力に引かれ、ただ闇雲に寄り集まろうとする。彼らは反乱したのではない、ただ……狂ったのだ」

「おまえが話しているのは、いったいいつの時代のことだ? 帝国の歴史にそんな話はいっさい伝わってないぞ」

 疑いを顔に出した勉強熱心な役人に対し、継承者は微かに皮肉な笑みを見せた。

「氷漬けだった東の平野に人が入る前、陽帝国の歴史よりも古い時代のことだ。今は禁忌の森に呑まれた西の大地に、王国が繁栄していた最後の時代――そなたらが伝えることを怠り忘れ去った歴史だ」

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