三章 通り雨

   三章


 翌日の昼近くになって、スルギが帰ってきた。ヤティハも連れていたが、こちらは毛皮があちこち剥げて、随分みすぼらしくなっていた。

「ヤティハ! なんてこと、そんなにやられるなんて……他の皆は?」

 迎えたシムリが恐怖に声を上ずらせる。あちこちに膏薬を貼り付けたヤティハが首を竦めて縮こまり、横からスルギが苦い口調で答えた。

「皆は軽傷だよ。ヤティハが邪鬼を一身にひきつけたおかげでね。あんなむちゃな狩りを見たのは初めてだ。ああシムリ、雷を落とすのは堪えてやってくれないかな。もう向こうで散々いろんな人がやったから。とにかく今は、きちんと傷の処置をやり直さないと」

 いつもは温厚なスルギも、さすがに腹に据えかねたらしい。鼻面に皺が寄っている。ヤティハはすっかり萎れて、尻尾もヒゲも力なく垂らしたまま部屋に上がった。

 小言を封じられてしまったシムリは苛立たしげに尾を一振りし、荒々しい足取りで水を汲みに出て行った。ミオは邪魔にならないよう慎重に、スルギの手伝いをする。

 ヤティハの腕から膏薬を剥がすと、深い傷があらわになった。毛がむしられて、皮膚どころか肉まで見えている。明らかに喰いちぎられた痕だ。

(大きな口……)

 ミオはうっすら残った歯形から、邪鬼の顎が思ったより大きいと気付いた。小さな犬猫ほどの生き物、あるいはいっそ虫のようなものかと想像していたのだが、この痕はミオが思いきり口を開けて噛みついたのと同じぐらいだろう。

 早くも薄皮が張っていたが、人間ならまだ血が止まってもいないほどの傷だ。火傷も負っていたが、これは邪鬼に浴びせるべき酸がかかってしまったものらしい。ミオは痛ましそうに眉をひそめた。

「皆さんは、こんな危険なことをされているのですね」

「危ないのは否定しないが、こんなざまになったのは自業自得だ。ミオが同情してやる必要はないよ」

 すかさずスルギが言い、ヤティハがさらに縮こまる。外から戻ってきたシムリが、清浄な水を湛えた桶を置いて、立ったままヤティハを睨みつけた。

「どういう状況だったのか知らないけれど、あなたがそこまでの危険を冒すのは、考えが足りないんじゃないかしら。まだ子供も残していないのに、早々に命を落として、女神に申し訳が立つとでも?」

 怒りに毛が逆立っている。責められたヤティハは何か言い返したそうにしたものの、口をもぐもぐさせただけで言葉にはせず、黙ってうつむいた。

 シムリはなおも収まらない様子で尾を震わせていたが、ややあっていきなり怪我人の鼻面をひっぱたくと、身を翻して走り去った。ヤティハは悲鳴を上げて両手で顔を押さえ、目を潤ませて戸口を見やる。今すぐ追いかけても無駄だということくらいは察せられるようで、浮かせた腰をべたんと力なく落とした。

 まだ不機嫌なスルギに処置を施されながら、ヤティハはほとんど突っ伏しそうなほどにうなだれる。ミオは横からそっとささやいた。

「シムリさんは、ヤティハさんのことをとても心配されていました。昔から無茶ばかりする、と言って。今も、怒っているのではなく、悲しいのだと思います。……多分」

 感情の機微に疎い自分の観察では当てにならないだろうが、それでも、ヤティハを見送った後の彼女の様子はきちんと伝えなければと感じ、ミオは拙い言葉を紡ぐ。だが彼の方では、そんなことはとうに承知しているようだった。

「うん。いつも心配させて、悪いと思ってるよ」

 若虎は寂しそうにつぶやいて、ぱたり、と尻尾で床を叩いた。

 ミオは自分の出る幕ではなかったと悟り、新しい包帯を用意しながら、話題を変えた。

「狩りはいつも危険なのだそうですが、今回は特別だったのですか。酸を取りに来られた時、動きがおかしいとおっしゃっていましたが」

「うん。いつもはもっと、連中はまとまって来るんだが」

 ヤティハはついうっかりのようにそこまで答え、はたと相手が『弱きもの』であることを思い出したらしく、慌ててごまかした。

「ミオは心配しなくていいんだぞ、大丈夫だからな!」

 白々しく明るい口調に、ミオはどう応じたものか悩み、結局、黙ってうなずくだけにとどめた。気遣われているのはわかる、彼らなりの善意であることもわかる。だが、何も知らずにいれば心配もしない、というわけではないのだ。

 とは言え、そんな己の考えを伝えて良いのか否か、そこのところがミオにはよくわからなかった。

 手当てが終わって、ミオはヤティハを見送るために外へ出た。そしてふと何気なく、北の空を仰ぐ。霊峰の白い尖った頂上が雲に隠れていた。

 ――ごめんなさい……

 申し訳ない思いが胸をよぎる。誰に対して、何について、ということもなく漠然と。

 ミオは数回続けて瞬きし、それから、何をしに出てきたのだったかと首を傾げながら家に戻った。


 数日後のこと。

「ミオ、ちょっと助けてくれ」

 珍しくジルヴァスツの方から助力を求められ、ミオは驚きながら応対した。訪ねてきたのは、ぐんにゃり萎れたヤティハである。

「私にできることなら良いのですが。スルギさんは今、往診に出ていらっしゃるので」

「ああいや、あいつじゃない。ミオに助けて欲しいんだ。……あのさ、ミオ、シムリとはよく話すだろ。それとなくこう、取り成してくれないかなぁ。前の邪鬼狩り以来、口をきいてくれないどころか、目も合わせてくれないんだよ」

 悲しげに言って、ヤティハは両手で顔を覆った。ヒゲや尾が震えている。これはどうやら本気で泣きだしそうだ。ミオは困って首を傾げた。

「私は、そういうことはあまり、上手くありませんので……今度シムリさんが見えられたら、お伝えしておきますけれども、機嫌を直して下さるかはわかりませんよ」

「そこをなんとか、女同士の誼で」

 両手を合わせて拝まれても、なんとか、などという曖昧で高度な人付き合いは、無理な相談だ。ミオは考えながら訥々と説いた。

「ヤティハさん、私から言うのではいけないと思います。シムリさんは、あなたの言葉を待っているのではないですか。あの日、ヤティハさんを見送った後で、シムリさんは昔の話をいろいろと聞かせて下さいました。あなたが小さい頃、廃れた儀式の真似をして皆を心配させたとか」

「うわぁ……そんな事まで根に持たれてるのか。とうとう愛想が尽きたってことか」

 ヤティハが嘆いたが、ミオはかまわず続けた。

「求婚のしるしに水晶を採ってくる、という習わしもあったそうですね。あまりに危険だから、今は禁じられているそうですが」

 はっ、とヤティハが顔を上げる。思い当たる節があったらしい。ミオは虎の瞳をじっと見つめて言った。

「危険な場所から採ってきた水晶でなくていい、花一輪だっていいのだけれど、何かそうしたきっかけがないと前に進めないこともある、とおっしゃっていました。シムリさんは、あなたが本当に結婚する気があるのかどうか、不安になっていらっしゃるのだと思います。実はあなたの方は結婚など考えてもいなくて、だから無謀なことをするのじゃないかと。だから、私では駄目だろうと思います。ヤティハさんがご自分で、シムリさんに対する考えを、はっきり伝えるべきではないでしょうか」

「……そうか。わかった、ありがとう」

 ヤティハは神妙にうなずくと、すぐに腰を上げた。決然とした面差しで、行ってくる、と低く唸って玄関へ向かう。

 なんとなく嫌な予感をおぼえたミオは引き留めようとしたが、間に合わず、若虎は敏捷に戸口をくぐって姿を消した。

 ――いけない。まだ、……ではない。

 呼び戻さなければ。ミオは理由もなく確信し、杖を手に外へ出た。北の空を仰ぎ、霊峰に通じる道を目で追う。建物の陰になって見えないが、恐らくヤティハがそこを駆けているのだろうと感じられた。

 呼び戻さなければ。私が。

 ミオは片足をわずかに引きながら、いつもよりやや急いで歩きはじめた。どのみち全力で走れたとしても、ジルヴァスツの疾駆に追いつけるはずなどないのだから、焦って転ぶよりは着実に進む方が良い。

 北に向かう辻を折れてしばらく歩き、用水路にかかる愛らしい橋を渡る。ミオの足では渡りきるのに十歩ほどかかるが、大人のジルヴァスツは軽く跳び越えられるし、子供や老人は近くの誰かが背負って対岸へ渡すので、橋は実用というよりも飾りのような意識で架けられているものらしかった。

 さらに行くと、道の両脇に立つ二本の柱が見えた。北区の境だ。立派な丸太を地面に立てて、先端に縒った縄を渡し、細く裂いた色布の房をずらりと結わえてある。扉のない門をくぐる前に、ミオは足を止めて遙か頭上の縄を見上げた。

 風にはためく布の色を、なんとなく目で追う。そして、不意に気付いて瞠目した。

(官位の綬と同じ色だ)

 白、赤、緑、藍、黄、紫。

(どうして)

 偶然とは思えない。六色もあるのに、すべてが同じ、そして並び順までが帝国の官位と一致している。無位の白、次いで赤、課の責任者ほどの緑。郡県の長にもなれる藍、その上は貴族しか得られぬ黄と紫。

 風にひらひらと舞う色布が、脳裏に鮮やかな郷里の景色を呼び起こす。懐かしさを感じる間もなく、それはよく似た、しかし見知らぬ街へと変化した。

 白雪、血潮、萌ゆる草……

 誰かがゆっくりと歌うようにささやく。ミオは茫然と立ち尽くしたまま、無意識にその言葉を追って唇を動かしていた。

 海原、麦の穂、遠き宇宙そら……

 色が流れ込む。空ろの中へ、さらに深くへと染みてくる。澄んだ鉦の音。細い指、絵皿に浸して色を掬う。ひんやりとした漆喰、タイル、色を載せていく……

「……――」

 開いた唇の隙間から、何かがこぼれようとした、その時だった。

「ミオ? こんなところまで来て、どうしたんだ」

 呼びかけが耳に届き、異国の情景は薄氷のようにぱりんと砕けて消えた。

 ミオは瞬きしながら振り返り、灰銀の狼を視界に捉えた。一呼吸してからやっと、そのものの名前が頭に浮かぶ。

「スルギさん」

「俺を捜しに来たのかい。急患が担ぎこまれたとか?」

 訊きながら、スルギはもう仕事にかかる意気込みでこちらへやって来る。ミオは急いで答えた。

「いいえ。私は……私が、迂闊な言い方をしたものですから、ヤティハさんを止めなければいけないと思って」

 どういうことか、と訝るスルギに、ミオは最前の出来事をかいつまんで話した。言葉が足りなかったせいで、ヤティハは水晶を採りに行ったに違いない、だから呼び戻さなければ、と。

 話を聞いたスルギは難しそうに唸って、北の霊峰を振り仰いだ。

「いくらあいつでも、ついこの間、邪鬼狩りでむちゃをして怒られたばかりなのに、『女神の喉』まで登ったりはしないと信じたいんだが……ヤティハだからなぁ」

 ああ、とスルギは頭を抱える。その時になってミオは、自分のしたことと彼との関係を思い出した。

「あの……スルギさん。もしかして、私は余計なことをしたでしょうか」

「いや、聞く限りでは、君は至極まっとうにヤティハの相談に乗ってくれたと思うよ」

「まっとうに相談に乗って、お二人の間を取り持とうとしたこと自体が、出すぎたことだったのではありませんか? つまり……その、スルギさんはシムリさんに、好意をお持ちなのでしょう」

 途端にスルギが視界から消えた。ミオは一拍置いて視線を落とし、地面に沈没してしまいたそうな背中を見下ろす。彼は尻尾を足の間に巻き込んでうずくまり、かつてないほど小さくなっていた。

 ややあってスルギはしゃがみ込んだまま、弱々しく言った。

「うん……まあ、そうだな……露骨だよな。うん、いいんだ……いいんだが」

「大丈夫ですか」

「ああ、なんとか生きてる」

 微かに自嘲のまじった苦笑をこぼし、スルギはひとつ息をついて立ち上がった。

「俺だって、あの二人が上手く行けばいいと思っているよ。もちろん、少しでも望みがあるならヤティハに挑む覚悟はある。だけどシムリは昔からずっとあいつのことしか見ていないから、割り込める余地はないってわかってるんだ。君がきちんと伝えてやってくれて良かったと思う。……正直なところ少しばかり悔しいし、本当にあいつが勘違いして先走っていたら困るけどな」

 言葉尻で顔を上げ、くん、と空気を嗅ぐ。

「確かに、ヤティハが通った気配はある。でも本気で『女神の喉』まで登る気じゃないと思いたいな。ちょっと様子を見てくるよ。君は家に帰って待っていてくれるかい」

「私も行きます」

 反射的にミオは言った。どうしてだかわからないまま、強い口調で繰り返す。

「私が行って、呼び戻さなければ。私のせいですから」

「君の責任じゃないぞ」

 スルギは不思議そうに首を傾げながら言ったが、ミオの表情を眺め、うーん、と考えてからうなずいた。

「まあでも、そう言うなら一緒に行こうか。どうせそんなに高く登るつもりじゃないし。ミオが追いかけてきたとなったら、あいつも慌てて下りてくるだろう」

 言うだけ言い、彼は近くの家の戸口を叩いて往診鞄を預けると、身軽になって戻ってきた。そして、ひょいとミオを抱き上げる。慌ててミオが肩に掴まると、スルギは位置を調整しながら訊いた。

「こんな感じでいいかな。おぶさる方が楽かい?」

「いえ、この方が良いです」

 ミオはスルギの肩と首に腕を回しながら言う。おぶさろうとしたら、広い背中に必死でしがみつかなければならないだろう。挙句に後ろから首を絞めてしまうかもしれない。

「それじゃあ、行こうか」

 スルギは言うと、軽やかに走りだした。その速さに、ミオは驚いて息を飲む。馬で駆けたこともない彼女にとって、それは初めての経験だった。

 風が耳元で唸る。景色がどんどん後ろへ流れていく。力強い足が一蹴りするごとに、ぐん、ぐん、と速さが増して。

 不意に、喜びが口をついた。

 怖いとは思わなかった。ただ爽快で、楽しくて、どこまでも遠くへ行けそうで、

(もっと! もっと速く、高く、遠くまで連れて行って!)

 幼い少女に戻ったような心地がした。

 初めて聞くミオの笑い声にスルギはちょっと驚いた顔をしたが、すぐに自分も楽しげな笑みを広げ、軽快に走り続けた。

 じきに家並みが終わり、最初にくぐったのと同じ色布の翻る縄の下を通り抜ける。スルギが歩調を緩めたので、ミオの目は門柱の足元にある小さな祭壇を見付けた。簡素な作りの台で、花や農作物が供えられている。霊峰と女神への捧げ物だろう。

 ミオは仰向いて、こちらの門もやはり張り渡された縄に色布が下がっているのを確かめた。白、赤、緑、藍、黄、紫。

 彼女の視線を追ってスルギも頭上を見やり、くるりと里の方に向き直って止まった。

「珍しいかい? あれは女神を表すしるしなんだ。北区には長や神子や記録師といった、里の祭礼や歴史に携わる人が多く住んでいるから、大通りの両端にああして門を建ててあるんだよ。俺達の東区は馬の民と売買したり、里の品物を融通するために集めたりと、女神とは直接に関係のない仕事が多いから、特に境界を定めていないんだ。ある意味、里で一番自由な区だね」

 スルギの説明にミオは相槌を打ち、太い腕に抱えられたまま風にそよぐ色布を眺めていた。ひらひらと揺れる色の波に、ともすれば吸い込まれそうになる。

「あの色の由来は、ご存じですか」

「ん? ああ、ええと……なんだったかな。ひとつひとつ意味があるんだが、あまり正確には覚えていないんだ。白が雪だったのは確かだけど、赤は花だったかな……帰りに神子か里長のところへ寄って聞いてみるかい」

「そうですね、あまり遅くならなければ。無理なら後日にでも……。あの色は、帝国の官吏に与えられる官位章を吊るすための綬と、同じなんです」

「えっ、何と同じだって?」

 さすがに予想外の言葉だったらしく、スルギが面食らって聞き返した。ミオは無意識に胸元をまさぐり、そこに官位章がないことを改めて確かめると、目を伏せた。崖から飛び降りた時、外れて落ちてしまったのだ。鞄と一緒に川底に沈んでいるか、どこかへ流されていったのだろう。

「帝国では官吏登用試験に合格した者に対し、公印を兼ねる官位章と、それを身につけるための綬……細長い布が、支給されます。その布の色で官吏が位づけられているのです。白が一番下。それから赤、緑、と上がってゆくのですが、その色と順番が……そこの門を飾る布と同じなのです。偶然とは思えないので、何かご存じの方がいらしたらお話を伺いたいと」

「へえ、それは確かに、偶然にしては揃いすぎだな。もしかしたら本当に、低地人とジルヴァスツはずっと昔、同じところに住み暮らしていたのかもしれないな」

 それだけ言うと彼はもう不思議な一致から関心をそらせて、ミオに微笑みかけた。

「君が笑うのを初めて聞いたよ。いい声だ。意外と歌ったりしたら良いんじゃないか?」

「……そうでしょうか」

 思いもよらない賛辞に、ミオは当惑し、気恥ずかしくなる。感情のない声で平坦に話すばかりで、歌など考えたこともなかった。

 スルギは彼女を抱え直し、うん、とうなずく。

「ともあれ、怖くなかったのなら良かった。この先は山道になるけど、この分なら大丈夫かな」

「お気遣いありがとうございます。むしろ楽しかったぐらいですから、大丈夫です」

「あはは、そうか、楽しかったかい」

 スルギは愉快げに言う。ミオは束の間の高揚を反芻した。

「はい。まるで子供の頃に戻ったような――」

 言いかけて、我に返る。子供の頃? いつの話だ、それは。己はずっと昔から、笑わない、泣かない、変な子供だったではないか。楽しくはしゃいだ記憶などない。

(もっと速く、高く遠くへ!)

 最前の笑い声と無邪気な望みが、作り事のように空々しく木霊する。

 馬に乗って駆けたことも、父に肩車をしてもらったことさえもないのに。

「ミオ?」

 不思議そうにスルギが呼び、ミオは小さく首を振った。

「いえ、子供の頃でも、こんなに楽しいことはありませんでした」

「そうかい。それじゃ、君を落っことさない程度に気を付けながら走ろうかな。行くよ」

 スルギがゆったりした駆け足になったので、ミオは急いでまた肩に腕を回した。

 じきに道は上り坂になり、斜面に沿って細く曲がりくねりはじめた。低地のように、夏だからとて草木が生い茂って一切を埋めてしまうということはないが、緑に囲まれた道は見分けづらい。

 スルギは時折立ち止まって風や草むらの匂いを確かめながら、山を登っていく。さすがに少し息が弾んでいるが、しかし疲れた様子はない。

 ミオは背後を振り返り、いつの間にか随分高いところへ来ていることに驚いた。自分一人では、とてもここまでは辿り着けまい。それでも、霊峰の頂はまだ遙かに遠かった。今いる辺りなど、ほんの麓だ。仰向くと、遠くから見るのと違って霊峰はただひたすらどこまでも続く絶壁だった。上の方は雲に閉ざされている。

 ミオがあちこち見回していると、スルギが下方に続く緑の斜面を指して言った。

「この辺りは『女神の裳裾』と呼ばれているんだ。ほら、あそこなんかは特に花がたくさん咲いているだろう。夏の間は本当にきれいなんだ」

 背の短い草の間に白や黄、赤や紫の彩りが散らばっている。多くの花が集まっているところは遠目にも華やかで、絢爛たる刺繍に飾られた裳を思わせた。なるほどここが、とミオは納得し、真顔で応じた。

「冬にはそり遊びができそうですね」

「ああ、もう少し下の方は子供の遊び場になっているよ。……そうか、ヤティハが雪玉お化けになって帰ってきた話、シムリから聞いたんだな」

 はは、とスルギは笑いをこぼした。ミオは表情を変えないまま、じっとスルギの目を覗き込む。何か間違ったかな、とスルギが首を傾げると、ミオは瞬きしてうなずいた。

「不思議ですね。橇遊びができそうだと言っただけで、スルギさんは、私が何を考えたかを言い当てられた。家族でもそんなことはなかったのに」

 いつもではないが、ミオの言うことは概ね的外れでわかりにくく不適切だった。きちんと意思が伝わることは少なく、不可解どころか不審や嫌悪を示されることがしばしばで、だからミオはもうずっと昔に諦めをつけていたのだ。きっと自分は空ろだから、誰とも解り合えないのだと。

 スルギはゆっくりミオを下ろして立たせると、改めて正面から向き合った。

「今、俺達が誰を追っていて、この状況の発端になったのが何だったのか、きちんと理解していれば言葉が少なくても考えが通じることはあるさ。ミオ、君と俺達は確かに別の生き物だ。違うところの方が多い。だけどその分、ほんの少しの『同じところ』を見付けて歩み寄ることもできる。そう思わないか?」

「……よく、わかりません。私は、どこか皆さんと同じところがあるでしょうか」

 頼りなげな返事をしたミオに、スルギは深くうなずいた。

「同じ薬で効くものがあるじゃないか。食べ物だって似通っているし、そもそも俺達は二人とも同じ心配をしているから、一緒にここにいるんだろう? 低地人の間では、皆が同じだからこそ少しでも『違うところ』があれば、もうそれは異質で受け入れられないものだったのかもしれないが、この里では違う。だからミオ、そんな風に心を独りぼっちにしておかないでくれ」

 がつん、と頭を殴られた気がした。ミオは衝撃に息を飲み、スルギを見つめ返す。否、見ているのはスルギではなかった。灰色の目の、小さな瞳。その奥にある暗闇だけを。

 孤独。

 誰もいない、ここには誰もいない。もう皆、行ってしまった……

「シムリが言っていたよ。君は自分の命を軽く考えている、他人に死ねと言われたことを真に受けて、自分のことを不要な存在だと思っているようだ、って。俺達には、低地人のならわしはわからない。でも誰かに邪魔者扱いされたからって、それだけがすべてじゃないだろう」

 スルギが真摯に語りかける。だがミオは暗闇に捕らわれていた。

 刃が鞘をこする音。

(寒い)

 ミオは身震いし、実際にも冷たい風が吹いていると気付いて腕をこすった。スルギも軽く眉間に皺を寄せ、鼻を上げて空気を嗅ぐ。

 いつの間にか、雲が低く垂れ込めていた。晴れていたはずの空が灰黒の雲に覆われ、湿った風が吹き降ろしてくる。

「まずいな、一雨来るぞ」

 スルギがつぶやいたと同時に、ポツンと雨滴がその鼻先に落ちてきた。うわっ、とスルギは顔を拭い、素早くミオを抱えて駆けだした。

「スルギ、さん、どこへ」

「少し先に岩場がある。そこなら雨風をしのげるはずだ。今から戻ってたんじゃ、下に着くまでにずぶ濡れになる」

 言いながら、スルギはぐんぐん走っていく。里の中とは違い、ずっと速く、斜面を駆け登り、岩を跳び越えて。ミオはしっかり口を閉じ、肩にしがみついていた。

 風に乗って細かい雨がサアッと横に流れる。じきに岩場に着き、スルギは避難所に駆け込んだ。大きな岩が互いに寄りかかって屋根を成しており、ちょうど風向きの加減で雨が吹き込まず、乾いている。彼はミオを下ろし、少し離れてからブルッと体を揺すって滴を飛ばした。

 同じことができないミオは、濡れた袍を脱いで絞り、適当な岩に広げて置いた。肌着一枚ではやや寒いが、濡れたままの服を着ているよりはましだ。幸い、本降りになる前に逃げ込めたので、芯までずぶ濡れというわけでもない。

 雨は次第に勢いを増しつつあった。岩を伝って集まった小さな流れが、白く泡立ち飛沫を上げて斜面を下っていく。

「そう長くは降らないと思うが……やれやれ、ヤティハのせいでとんだ災難だな。ミオ、大丈夫かい」

 スルギが岩の陰から外を窺って言い、ミオのそばに戻ってきた。降りしきる雨で景色がほとんど見えない。ミオは我が身をぎゅっと抱いてうなずいた。

「私は大丈夫です。すみません、ご迷惑をかけてしまって」

「君のせいじゃない。そもそもの原因からして全部ヤティハが悪いんだ、君だって巻き込まれた身だろう。帰ったらあいつのヒゲを引っ張ってやればいい。尻尾を踏んでも許されるくらいだ。まぁ君が踏んでもたいして堪えないだろうから、そっちは俺がやろうかな」

 真面目ぶってひどいことを言ったスルギに、ミオは微笑み、次いでくしゃみをした。途端にスルギは心配そうな顔をする。

「ああ、大変だ、弱ったな」

「ご心配なく。このくらい、なんともありません」

「だけど震えてるじゃないか。唇の色も悪い」

 言うが早いか、スルギは腕を伸ばしてミオを抱き寄せた。首まわりのふさふさした毛に顔が埋まり、ミオは慌ててのけぞる。スルギもむろん雨にかかってはいたが、体の前面はミオを抱えて走っていたせいもあり、あまり濡れていなかった。

 胴着越しに伝わる体温は、少しだけ人間よりも高い。ミオはほっと息をついて、遠慮なく抱きついた。湿っているせいで、いつもは気にならない毛皮の匂いが鼻をつく。不快ではないが、人間とはまったく異なるそれは、彼らが確かに獣であると思い出させた。

「最初に私を見付けたのも、もしかして、スルギさんだったのですか」

 凍えきった体に触れた、温かい吐息。運んでくれた広い背中。それにこの匂い。

「うん、たまたま川へいろいろ採りに来ていたところだったんだ。驚いたよ」

 スルギは答え、ミオを両腕に包み込んだまま、よいしょと体勢を変えて腰を下ろした。しっかり温めながら保持するにはどうしたら良いかと、真剣に考えているらしいその横顔に、ミオは奇妙なおかしみを感じた。

 きっと彼は、まだ彼女のことを巣から落ちた雛鳥だと思っているに違いない。沐浴など日常の場面では一応、異性に対する気遣いが見られるが、あくまで相手は『弱きもの』であり、成熟した大人の女であるとは認識していないのだろう。でなければ、こんな風に迷いもなく抱きしめたりはすまい。

(それでいい)

 おかげでこちらも、遠慮なく温もらせてもらえるというものだ。

 冷えていた指先に血が通い、硬くこわばっていた体が熱に緩んでいく。とろりと眠気が差してきて、ミオは瞼を閉じた。

 ――それでいい。あまり思い入れてはいけない……彼らは所詮、……だから……

 誰かの言葉が脳裏で熾火のように瞬き、消えた。


 白い壁の建物が連なる街。戸口に、窓のまわりに、とりどりの色が美しい曲線を描く。色タイルを敷き詰めた道。ひらり、色布を翻して風が駆け抜ける。

 ああここは良く知っている、と彼女は思った。

 歩く。閉ざされた城門。突き抜けて中へ移動すると、一転、白い砂利の敷き詰められた道。乾いた風に含まれる、仄かな黄色の香り。

 並ぶ柱。ひんやりと涼しい静寂。誰かの影が、見え隠れする。


 白雪 血潮 萌ゆる草

 海原 麦の穂 遠き宇宙そら

 巡り廻せよ 百歳ももとせ 千歳ちとせ……


 微かな歌声と、鉦のような音が遠ざかっていく。代わって意識を占めたまばゆさに、ミオは眉を寄せて瞬きした。いつの間にか雨は上がり、低くなった太陽の光が射し込んでまともに顔に当たっていたのだ。

 身じろぎすると、ミオを抱えていた腕が緩んだ。

「目が覚めたかい。もう雨は上がったよ」

 顔を上げると、スルギがこちらを見てうなずき、ほらと示すように鼻先を光の方へ向けた。ミオはそれを追わず、灰銀の狼をじっと見つめる。

 光を受けて、毛の一本一本がきらめいていた。灰色の瞳も水晶のように澄んでいる。外からの光ではなく、内から溢れる生命力によって輝いているかのようだ。

「美しい」

 無意識に言葉がミオの口をついた。怪訝そうに振り返ったスルギに、彼女はもう一度ゆっくりと言った。

「スルギさんは、美しいですね」

「……え?」

 唐突かつ率直すぎる賛辞に、スルギは変な顔をして首を傾げた。尻尾が落ちつきなくそわそわ動き、視線もあちこちへさまよう。

「さすがに、そんなことを言われたのは初めてだ」

 動揺を隠せず立て続けに瞬きしてから、彼は照れくさそうに鼻面を掻いた。

「異種族である君から見れば、美醜の基準も違うんだろうなぁ」

「そうなのでしょうね。私は、本当に女神がこの世界をお創りになったのなら、ジルヴァスツの皆さんこそは女神の最高傑作だと思います。力強くて、美しい」

 ミオは大真面目に、それこそ最高級の称賛を贈る。スルギが耐えきれなくなって、両手で顔を覆った。

「君はとんでもない褒め方をしてくれるなぁ。里に戻ったら神子様に聞かせたいよ。どんな反応をするやら……ああミオ、君の服はもう乾いているみたいだから、それを着たら出発しよう」

 せわしなく話題を変えられて、ミオはちょっと目をしばたたいたものの、おとなしくスルギの膝から降りた。岩に広げた袍の端が、風に吹かれてひらひら揺れている。

 手を伸ばしてそれに指をかけた瞬間、どこからともなく言葉が聞こえた。

 ――力強く、美しく、なによりも忠実な友よ――

「……?」

 顔を上げ、辺りを見回す。だがもちろん、自分とスルギの他には誰もいない。一呼吸の後には、ミオは自分が何を不思議に思ったのかをも忘れていた。

 陽光の温もりを含んだ袍に袖を通し、スルギと共に岩の陰から出る。濡れた草の緑が鮮やかにまぶしい。雨の名残を乗せた青い風が、土と草木の匂いも一緒に運んでくる。その中に、ミオにはわからない気配を嗅ぎつけて、スルギが、あっ、と声を漏らした。風上を振り向き、安堵と怒りと苦笑のまじった呼びかけを放つ。

「ヤティハ!」

 おや、とミオも斜面の上を仰ぎ見る。同じく雨宿りしていたらしい、虎の姿が岩棚の陰から小さく覗いていた。

「スルギか? それにミオまで、どうして!」

 ヤティハが驚きうろたえ、慌てて降りてくる。手の届く距離まで来ると、スルギがいきなりヤティハの頭をごつんと拳で殴った。

「おまえが、どこまで何をしに行くとも説明せずに飛び出したから、ミオが心配して追いかけてきたんだ。本当に『女神の喉』まで水晶を採りに行くつもりじゃないか、って。たまたま北区で行き合ったから、一緒に捜しに来たんだよ。人騒がせな奴だな」

「ええっ?」

 ヤティハは明らかに不服の声を上げたが、スルギに睨まれて抗議は飲み込んだ。ミオの様子を窺いながら、もぐもぐと言い訳する。

「う……その、悪かったよ。でも、シムリにさんざん心配かけて怒らせた後で、またそんな危険なことするわけないだろう?」

「俺もそう思ったけど、残念ながら信じきれなかったんだ。今までの数々の『武勲』からして、当然だと思うが」

 手厳しく言われて、ヤティハはぐぅと唸ったきり黙り込む。たっぷり反省させるだけの間を置いて、スルギは口調を和らげ、続けた。

「まぁ、今回は本当に上まで行ってなかったってことで、ちょっとは信用も回復するだろうさ。それで? シムリに渡すものは手に入れたのか」

「あー、いや、それが……まだなんだ」

 ヤティハはごにょごにょ言い、恥ずかしそうにヒゲをしごいたり、尻尾を足に巻きつけたりしてもじもじする。スルギが呆れて天を仰ぐと、ヤティハは子供のように足を踏み鳴らした。

「いざとなったら迷うんだよ! 花一輪でもいいって言われたって、それじゃホラこれ、って適当にその辺のを摘んで渡すわけにもいかないだろ!? 絶対一生、ねちねち文句言われるって! ああそうだ、ミオ、ミオならわかるよな、求婚の時ってどんな花を貰ったら一番嬉しいんだ?」

「落ち着いて下さい、ヤティハさん。私ではお答えできません。そもそもシムリさんがどんな花を喜ばれるかは、あなたの方がよくご存じでしょう」

「ううぅ……スルギ、助けてくれ」

「自分で決めろ。こんな時に他人の助けを借りたとなったら、それこそ一生ちくちく責められるぞ」

「薄情者」

 半泣きで恨めしそうに言いつつも、ヤティハは観念して、一人で花を探しに行く。スルギがやれやれとため息をつき、ミオも小さく首を傾げて、虎の丸まった背中を見送ったのだった。


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