四章 婚儀/来訪者

   四章


 石笛が祝福の楽を吹き鳴らし、太鼓が喜びの拍子を打つ。高低幾層にも重なる声が、明るい希望と未来の芽生えを歌い上げる。

 シムリとヤティハの婚儀は里の北区祭殿で執り行われ、ミオも当然のように招かれた。

 歌や拍子に合わせ、新たに夫婦となる二人が舞う。振り付けの中には露骨に男女の交わりを表す部分もあって、ミオはさすがに目のやり場に困った。

 だがジルヴァスツは誰一人、そのような感覚を抱かぬ様子だった。ごく当然の態度で二人を言祝ぎ、夫婦の営みを称揚している。人間達がそうした事柄に触れる時のように、にやつくことも、恥じることもない。

 ミオは多少の落ち着かなさを残しながらも、次第に彼らの感覚を受け入れていった。もしも自分が父母のように『ちゃんとした』人間であったなら、きっとこの婚儀を見て「やはり所詮は虎狼、けだものか」と唾棄したであろう。それを思えば、空ろであるというのも悪いことばかりではないようだ。

(そういえば、シムリさんはヤティハさんを叱った時、子も残さず死んでは女神もお許しにならない、というような言い回しをされた)

 ふと思い出し、ミオは夫婦の舞から注意をそらせて、祭殿の北に目をやった。霊峰が見えるように、板壁は取り払われている。

 きっとこの里では、子供が減ることが恐れられているのだ。邪鬼と戦い関を守る――女神から託された務めを果たすため、常に数を保たなければならないから。

 そう認識してから改めて振り返ると、幸福な祝いの場が隠微な悲愴を孕んでいるように感じられ、ミオは胸の痛みをおぼえた。

 やがて儀式が済むと、新婚の夫婦は住まいへ引き上げ、儀式に加わった皆はその場に残って、女神に供えたご馳走のお下がりを分け合って祝宴となった。といっても里には酒がないので、ミオの知る宴席とは雰囲気が違ったが。

 見ていただけで何もしていないのに良いのだろうか、とミオは戸惑いながら、手渡された皿の燻製肉をつまむ。里の食事作法は基本的に手指か匙だけで、箸は使わないのだ。

 ちょんちょん、と肩をつつかれて振り向くと、スルギがいた。珍しく悪戯っぽい顔で、小皿を差し出している。

「ほらミオ、これは君の分だ」

「……?」

 目をぱちくりさせつつ、ミオは素直に小皿を受け取った。可愛らしい、一口大の丸いものが三つ載っている。黍団子のようだ。スルギが期待に尻尾を揺らしながらじっと見ているので、ミオは疑問を横に置いて、早速ひとつ口に入れた。

 途端、両目が真ん丸に見開かれた。

「甘い……!」

 思わず声が漏れる。この里に来てから、甘味と言えば果物だけで、菓子の類はまったくなかった。久方ぶりの甘さに、ミオは正直に驚いた。

「これは、何ですか」

「祭りの時だけ作る、カリフィエという菓子なんだ。女神の好物だって言い伝えでね。里で手に入るわずかな蜜や砂糖は、全部これのために秘蔵されているんだ。本当は神子が食べるものなんだが、ミオは低地で菓子を食べつけていただろうから、懐かしいんじゃないかと思って」

「そんな貴重なものを、私などが」

「ああ、ちゃんと許しは得たから、心配しないで食べてくれ」

 いささか動揺したミオに、スルギはくすくす笑って言い添えた。

「君がそんなに驚いてくれるなんて、頼み込んで貰ってきた甲斐があったよ」

 ミオはまだ困惑気味に、スルギを見つめていた。日頃あまりふざけた言動をすることのない彼が、こんな風に悪戯めいたことをするとは意外だった。だがともあれ、ミオを気遣ってくれたのは確かなので、ありがたく感謝しながら二つめの団子を口に運ぶ。最初のものとは少し違った風味があって、たったこれだけの菓子のために随分と手が込んでいるのがわかった。

「神子様にも、お礼を」

 ごくんと飲み込んで辺りを見回す。婚儀を取り仕切っていた豹の姿を探していると、向こうがこちらを見付けて歩み寄ってきた。儀式用の衣装から普段着に替えていたので、ミオには判別できなかったのだ。

「女神の甘露、喜んでいただけたようで良かったわ」

「貴重なものを、ありがとうございます」

「ヤティハとシムリのこと、あなたが背中を押してくれたそうだから。ささやかな御礼ですよ」

 神子は柔らかく目を細め、満足げに喉を鳴らす。猫だ、と考えかけて、ミオはごまかすように、小皿に残った最後のひとつをつまんだ。甘さの中に塩の味がする。普段の食事はほとんど味がついていないのに、これだけはまるで人間の味覚に合わせたかのようだ。ミオが不思議な気分で団子を飲み込むと、待っていたようにスルギが横から言った。

「神子様、この前、ミオがひとつ発見したんですよ。注連縄に吊るす色布、あの色と並び方が、低地の官僚の位と同じなんだそうです」

「官僚の位?」

 神子が首を傾げたので、ミオは官位と綬の色について説明した。そして、改めて問いかける。

「あの色の由来を、何かご存じですか」

 すぐには返事がなかった。神子は口元に手を当てて、深く考え込んでいる。黄水晶の目がじっとミオを射抜くように見つめた。

 丸い目。ふたつの。ミオの心臓がどくんと打った。

 ――どこかで見た。知っている。ずっと、そばにあったもの……

(そんなはずはない)

 家では動物を飼っていなかった。近所には犬や猫がいて、時たま相手が許してくれたら撫でることもできたが、この目に馴染みがあると感じるほどに、多くの時間を共に過ごしたことはない。

 だから、この感覚はきっと自分のものではないのだ。

 ミオが無意識に胸に手を当てると同時に、神子はふっと目を細めた。

「そうですか。低地では女神のことも私達のことも忘れ去られているようですが、時を遡りそれぞれの歴史の糸をたぐり寄せたなら、同じひとつの紡錘から出ているのかもしれませんね」

 語る口調には不自然さも緊張もない。さきほどの凝視は、単にどう考えたら納得のいく説明をつけられるか、彼女なりに考えていただけのようだ。神子は得心したように、ひとつうなずいて続けた。

「あの色は、女神が里の始祖に伝えたと言われています。場を清め、女神の力を受け止めて、あるべき路へと巡らせるためのしるしなのだそうですよ」

「結界……」

「ええ、そのような役割です。北区は霊峰の足下に近いので、降りてくる力をきちんと集め、鎮めて、里をお守りいただくために、ああして門を設けているのですよ」

 言いながら神子は、柱の間から見える霊峰へ目をやった。ミオも同じ方を見やり、ぽつりとつぶやく。

「……雪、血潮……」

「え?」

 何か言いましたか、と神子が振り返る。ミオは我に返り、首を振った。やめよう。これ以上この謎を突き詰めていっては、良くない気がする。

 ようやく実感した。この里に来てから、折に触れて何か自分のものでない言葉が浮かぶのは、霊峰に坐すという女神の働きかけに違いあるまい。『牙の門』より西の世界を忘れ去った低地の民に、いったいなぜと思わなくもないが、忖度しても詮無いこと。

(女神様。何か伝えたいことがおありなら、どうかはっきりとお示し下さい。私は……空ろで、ちゃんとできない娘です。お気持ちを推し量ることはできません)

 気が利かなくて的外れで、配慮したつもりのことがいつも裏目に出た。父母や親戚相手に留まらず、上司やさらに立派なお歴々に対してやらかした結果が、この現状だ。女神に対してまで同じ失敗をしたら、今度こそ命を失うかもしれない。

 死。刃の音。

 不意にミオは首筋に冷気を感じた。指先が冷たい。

(一度は要らぬと言われた命。今さらどこへ行き何をするという当てもない。ですが女神様、叶うなら……もう少し、生きていたいのです)

 雪のように冷えた指で、空になった小皿をぎゅっと握り締め、それを渡してくれた者を見る。気付いたスルギがすぐにまなざしを返し、どうかしたかい、と尋ねるように小首を傾げた。

(もう少し、この美しいもの達と、共に過ごしたい)

 老いて寿命が尽きるまでこのまま暮らせるとは、不思議と思い浮かばなかった。この里を終の棲家として考えられないのは、存外、己もやはり低地の民であったということかもしれない。それとも、あるいは――

 こちらを見つめる灰銀の狼に、ミオは静かに微笑んだ。


 幼馴染み二人の婚儀の後、スルギはしばらく少しだけ元気がなかったが、それ以外はいつもと同じように振る舞っていた。

 一緒に暮らしているミオに心配をかけまいという気遣いもあったのだろう。久しぶりに馬の民がやって来たと知らされた時、彼は、見に行かないか、とミオを誘った。

「普段はシムリや商舎の人達に任せっきりなんだが、今回は俺も少し相談したいことがあるし、君も自分で何か入り用のものを探せるんじゃないかな。もし品物がなくても、頼めば調達してくれるだろうし」

「お邪魔でないなら、是非」

 ミオは同意し、連れだって家を出た。実のところ、あれがない、これが欲しい、といったことは当初から少なく、それも早々にシムリとスルギが解決してくれていたので、買い物の必要はないのだ。しかし帝国で馬賊と呼ばれている人々がどのようなものか、ジルヴァスツとどんな交易を行っているのか、興味があった。

 小道を辿って東区を南西へ向かう。馬の民は品物をやりとりする時も、里の中までは入らない。欲しいものがあるなら、区の南外れまで出向かなければならないのだ。

「確か以前、里では大型の家畜を飼っていないから、とおっしゃっていましたが、主に家畜の肉などを買うのですか?」

「干し肉や燻製肉、蘇もだね。あとは大きな革や織物や毛糸。こちらからは石や木の加工品が多いかな。彼らの暮らす範囲には木が育つところが少ないし、禁忌の森には、たとえほんの端っこでも近寄れないから」

「……森は、ずっと南の方まで続いているのですね」

 ぞくりと嫌な気分がしたのを押し隠し、ミオは話をそらせた。

「スルギさんは、何の相談に出向かれるのですか」

「ああ、君のことだよ。低地の民と馬の民は別々に暮らしていると言っても、身体のつくりは同じだろう? だから、備えておいた方がいい薬だとか、何かあれば調達しておこうと思って」

 スルギは歩きながら答え、ついでのようにミオを軽く引き寄せる。空いた場所を、行く手から来た誰かが飛ぶように駆け抜けていった。

 ミオは驚きに目をぱちくりさせつつ、あっと言う間に小さくなる背中を見送る。里の中であれほどの勢いで走る人に出くわしたのは、初めてだ。

「何事でしょうか……」

「危ないな。まぁぶつかる前に避けただろうけど、もしちょっとかすりでもしたら、大怪我になるところだ。里にミオがいるってことを忘れたのか」

 スルギは低く唸り、それから行く手に鼻を向けて空気を嗅いだ。尖った耳がぴくっと動く。それから彼は、どうもおかしいと怪しむように言った。

「何か、大慌てするようなことがあったみたいだな。風がなくて匂いがあまりわからないんだが……皆がざわついている。どうする、ミオ?」

「ここまで来たのですから、行ってみます。お邪魔になりそうなら、隅の方に避けていますから」

「わかった。邪魔ってことはないが、用心していてくれ」

 スルギはうなずくと、ミオを背後に庇って歩きだした。

 ほどなく建物が途切れ、里の境を示す低い石垣が見えてきた。低地の町のような城壁はない。立てこもって戦う敵がいないからだ。邪鬼は里から遠くにいるうちに狩るし、そもそも人間同士の戦と違って町をめぐる攻防にはならない。石垣は、里で飼っている家禽の類が逃げ出さないようにする程度のものだ。ついでに、幼い子供らが荒野にさまよい出ないようにするための。

 その石垣の向こうで、人だかりがしていた。ジルヴァスツだけではない。

(人間だ)

 久しぶりに見る姿に、ミオは妙な感慨を抱いた。あれが自分の仲間であり同類であるというのが、なにやら落ち着かない。虎や狼や豹に囲まれて過ごした数箇月の間に、心まで人から離れてしまったのだろうか。

 胃の腑がきゅっと縮まる感じがして、そうではないと気付いた。緊張しているのだ。また、『ちゃんと』しなければいけないから。言葉の意味を、状況を、話す相手と居合わせている顔ぶれとを、よくよく弁えて適切なふるまいをしなければ。

 しかも彼らは馬の民、すなわち帝国と敵対関係にある人々である。ミオが迂闊な言動をしたら、スルギや里の皆にも迷惑がかかるだろう。掌が嫌な汗で湿った。

「ミオ、大丈夫かい? そんなに緊張しなくても、何かあったら俺や皆が君を守るよ」

「……ありがとうございます」

 ほっ、と息をついて、ミオは礼を言った。彼の考えていることは多分少しずれているだろうが、それでも温かな心遣いは緊張をほぐしてくれた。

 二人は様子を見ながら、人だかりに向かって歩を進める。

「いつもなら、敷物を広げていろんな品物を並べているんだけどな……取引に来たわけじゃないのかな?」

 半ば独り言のように訝りながら前を歩いていたスルギが、不意にぎくりと竦んで立ち止まった。同時に風が吹いて、ミオにもその理由を教える。

 臭い。反射的にミオは鼻と口を手で覆った。何の臭いともつかない、今まで嗅いだことのない異臭が、神経という神経を逆撫でする。

「どうしてここに……!」

 喘ぐように言ったスルギもまた、全身の毛を逆立たせていた。その広い背中越しに、不快な声が微かに届く。間違いない。確信と共にミオの顔から血の気が引いた。

 邪鬼だ。

(嫌だ、怖い、来ないで)

 喰われる。

 本能的な恐怖に力を奪われ、その場にへたっと座り込む。ジルヴァスツを――虎や狼を間近に見た時でさえ、危険だと感じもしなかったのに。臭いと声だけで、混じりけのない恐怖に支配されるとは。涙が勝手に溢れて止まらない。

 うう、と呻きが聞こえる。ぺちゃぺちゃと舌を鳴らすような音も。

 ――駄目です。あれらはもう……

 恐怖の彼方から遠く誰かのささやきが届く。ミオにしか聞こえないはずのそれは、しかし、邪鬼にも捉えられたようだった。

「ヴォ……ォゥ、オヴワァァ!」

 人垣の向こうで叫びが上がり、緊張が走る。ガタン、ガタガタ、と何かを揺さぶる音。捕らわれている邪鬼が暴れているのだ。

 ミオは激しく震えながら、頭の片隅で邪鬼の声に違和感を持った。あれは獣の吠え声ではない。あれは、あれは……

「駄目だ」

 スルギが唸り、ミオを抱えて避難させようとしゃがみ込んだ、刹那。

 叫びと悲鳴と怒鳴り声に、何かが砕ける音、ブジュッと水気の多いものが潰れる音が重なった。

「くそ、まずい!」

「里に入れるな!」

 叫びをまじえた獣の荒い息遣い、大勢の暴れる音がして、

「スルギ!!」

 誰かの悲鳴が響き、ミオは濡れた目を上げた。弱きものを守って立ちふさがる狼に、不可解な形の影が飛びかかる。

 スルギは渾身の力でそのものを叩き落とし、なおも向かってくる敵に、大きく顎を開いて食らいついた。

「ウブオォァァァ!!」

 邪鬼が絶叫する。首を噛み砕かれ血をまき散らしながらも、まだ腕を振り回して暴れるその生き物を、ミオは愕然と凝視していた。

 あれは、人間、だ。

 毛のない丸い頭、血で真っ赤に染まったふたつの目、狼の毛皮をむなしく引っ掻く五本の指。下半身はなかった。断ち切られているのだ。ちぎれた腹からボタボタと臓物を垂らし、それでもまだ暴れ続ける。

 そこまで見て取るのが限界だった。

 暗闇がすべてを呑み込み、消し去った。


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