踏みつけにする者、される者


   *


 会議室や客室すべてを住民に開放し、できるだけ問題が起きないよう部屋割りをして、毛布や食事を配る。避難所となった総督府はてんてこ舞いで、ジェハナも様々な雑用に追われた。

 神官たちには、かつてのハムリの役人が総督府内に設けていた礼拝室をあてがった。神像も祭具も持ち去られ――さもありなん、異教徒に破壊されては一大事だ――部屋も改装して、宗教的な雰囲気は既になくなっていたが、それでもタスハは感謝した。

 聖火を奥まった壁のくぼみに安置し、祭司と弟子らは紐と布で即席の仕切り幕をこしらえた。ジェハナも作業を手伝いたかったが、やんわり断られてしまった。

「祈りの場を設えるのは我々神官の役目です。あなたはどうぞ導師のつとめを果たしてください」

 そう言われては引き下がるしかない。それに実際、彼女がやらねばならない仕事も山のようにあったのだ。敷地内の術を総点検して、融雪と排水、断熱保温、その他諸々の環境に支障がないか安全確認して。教え子が不安を訴えたらなだめ、気を紛らすために読み書きの宿題をさせたり。

(忙しいのは事実だから仕方ないのだけど)

 図書室で読み聞かせに適した書物を探しながら、ジェハナはふっとため息をついた。

(でもどうして、いつも遠ざけられてしまうのかしら。あとちょっと歩み寄りたいと思った時に限って、やんわり拒絶されているみたい。やっぱり私では駄目なのかしら)

 支え合い、助け合って共に歩む相手として、傍らに立ちたいのに。異教の魔女だから、年下の小娘だから? それともあるいは総督の妹、ショナグ家の娘だからか。

 書棚に向かい合っていると、同じように壁に手を触れていたタスハの姿が脳裏をよぎった。知らず眉間に皺が寄る。

(隔てよ白土……あの時確かに、そう口にされた。《詞》ではなかったけれど、標を解いて術を読み取ったんだわ。あれほど恵まれているのに、いったいいつまで頑固な驢馬よろしく踏ん張って動こうとしないのかしら。腹立たしい!)

 理性ではわかっている。彼には彼の信仰があり、かつ旧い信仰を守る人々を神々にとりなすためにも、敢えて留まって動かないのだと。だが、それなら仕方ないと諦めてしまうには、彼の有する資質はあまりにも惜しい。

(あの方がウルヴェーユを使って、標を読み解くことに力を注いでくださったら、どれだけ有用な術が見付かるか。宝の持ち腐れもいいところだわ)

 内なる路に刻まれた知恵の標。それがなければ術が使えないわけではない。一から理論を考え、詞と色と音を結び合わせ術を組み立てて、失敗の危険にひやひやしながら詠うはめになるだけだ。同じ効果をもたらす術でも、標に刻まれたものを使うならばずっと安定しているし、発動も滑らかで無駄がない。

 タスハの内に眠っているだろう膨大な知恵を思うと、問答無用で引きずってでもこちら側へ来させたくなる。相手が嫌がろうとなんだろうと――否、嫌がるからこそ。

(わたしったら、なんてさもしいの。こんな醜い嫉妬、知られたらどんな……ああ、だから拒まれるのかしら。わたしが心の底ではタスハ様を妬んで、苦しめばいいとさえ願っていると、勘付かれているのかもしれない)

 情けなくて涙が出そうだ。ごつんと書棚に額を預け、瞑目する。六色六音を巡らせようとして思いとどまり、かわりに神の名をつぶやいてみた。

「万の目ですべてをみそなわすアシャ、清き炎のアータルよ……」

 灼き尽くされてしまえばいい。妬みも独善も、淀んだ汚泥のごとき想いすべて。

 色が消えて静寂が世界を支配する。しばらくしてジェハナは顔を上げ、小さく首を振った。効果があるのかないのか、よくわからない。即席の祈りで何かが得られるほど甘くはないということなのか、それとも作法が間違っているのか。

(まあ、とりあえず頭は冷えたわね。無理強いしては駄目よジェハナ。機が熟した上で何かきっかけさえあれば、ウルヴェーユを受け入れてくださるわ。それまでは地道に信頼を築くこと。そうだ!)

 以前、総督府の蔵書について話したことがあったではないか。あの時のタスハは、いかにも興味津々だった。立場は違えど、彼もまた知識欲が強いのは明らかだ。

 誘ってみよう。良い思いつきにうきうきしながら、彼女は祭司を呼びに行った。

 即席の礼拝室に行くより早く、すっかり馴染んだ共鳴の気配がして足を止める。総督の執務室だ。そろりと覗くと、兄とハドゥン、それにタスハが、執務机を囲んでいる。どうやらタスハが先代祭司の言葉を伝えたところらしい。気象記録の保管や活用方法について再考せねば、と話し合っていた。

 ジェハナに気付かぬまま、ハドゥンがやれやれと腰を伸ばして苦笑いする。

「しかしまぁ、実際あんたはやり手だよ、総督殿。記録がなくても卜占の結果を馬鹿にせず備えをして、町の全員を凍え死にから救った。それでいて物資はカウファ家から運び込ませて、郷士の顔も立てるんだからな。おかげで、あの裁判以来すっかり地に落ちていた我が家の声望も戻った。礼を言わにゃならんか」

 感謝というには毒の強い皮肉だ。イムリダールも、にこりともせず応じる。

「それには及ばない、政治的な判断だ。カウファ家とは良好な関係を保ちたいからな」

 陰気な対応をされて、ハドゥンが眉を上げる。イムリダールは声を潜めてささやいた。

「王宮の動向がきな臭い。そのうち、無茶な命令が届く可能性がある」

「ふん、若い王がいよいよおかしくなりそうだってことか」

 ハドゥンが遠慮なく切り返し、イムリダールは渋面になった。低く唸って眉間を揉む。

「誰から聞いた。いや、それはもういい、とにかく……心積もりと根回しを頼みたい。私としても、武力で貴殿らを制圧し、いつ暴動が起きるかと神経をすり減らして眠れぬ夜を過ごしたくはないのだ。どんな命令が届いても、なるべく弾力的に運用したいと考えているが、しかしそれにも限度がある」

「弾力的とは便利な言いようだな」

 くっ、とハドゥンが笑った。イムリダールも苦笑いを見せたが、それも一瞬だった。真顔でタスハに向き直る。

「祭司殿も、申し訳ないがお覚悟を。エサディル王が何かしでかすとしたら、真っ先に標的になるのは間違いなく神殿だ。現状の平穏がいつまでも続くとは思わず、生き延びる方策を考えておいてもらいたい」

「……畏まりました」

 厳しい見通しにタスハは顔をこわばらせたが、いつものごとく抗議もせず受け入れ、頭を垂れた。彼のそんな態度に、ハドゥンが苛立ったような舌打ちをする。

「総督、あんたの身内の力でなんとかならねえのか。ワシュアールじゃ名門なんだろう。第一、こんな田舎の、最近征服したばかりのちっぽけな町まで、王の手が届くのか?」

「ワシュアールの『名門貴族』は我がショナグ家だけではない」

 忌々しげにイムリダールは応じたが、それ以上は弁解しなかった。下手に話して都の政情をばらさないよう、さっさと後半の質問に答える。

「そしてまた王の手は長い。とりわけ最近のエサディル王はどんどん疑心暗鬼になっているらしい。都では密告が横行し、地方には『王の耳目』のみならず何の証も持たない犬どもが放たれたと聞く。この町にも恐らく既に入り込んでいるだろう。東のテルカに不服従の兆しがあってな、この辺りの都市が連合して王国に背くのではと、都では危惧されているらしい」

「おいおい……」

 ハドゥンが呻いた。戸口の陰で立ち聞きしていたジェハナも、寒々しい気分になる。このまま声をかけずに去るべきかと考えたところで、意識したせいか共鳴の気配が強まり、タスハが振り向いた。

 驚いた様子もなく穏やかな表情で目礼し、彼はイムリダールに注意を促した。

「総督、ジェハナ殿がお見えですよ」

「どうした?」

 問いかけたイムリダールの声は、疲労と懸念と苛立ちで濁っている。ジェハナは後ろめたくなって返事に詰まった。

「ごめんなさい、あの、あなたじゃなく……」

 はっきりしない妹に兄が眉を寄せる。視線で察したタスハが立ち上がって、こちらへやって来た。

「私にご用ですか」

「はい。でも、お話の途中では」

「ああいえ、大丈夫ですよ。総督、では私はこれで」

 何か言いにくい用件だと察してくれたらしく、タスハはイムリダールに一礼して退室する。ジェハナは失礼を詫びようと室内の二人に低頭したが、何とも表現し難い形相の兄をまともに見られず、赤面しながら逃げ出した。

(違うのよ! そんな目で見ないで、違うんだから!)

 心中悲鳴を上げたものの、実際のところ兄の邪推は的外れでもあるまい。自覚があるだけに、いたたまれなくて蒸発してしまいたくなる。

 すっかり挙動不審なジェハナを、タスハはいたってまじめに気遣ってくれた。少し歩いて執務室から遠ざかり、柱廊に出る。寒い場所だが、他人に聞かれないように配慮してくれたのだろう。屋内はどこも避難者でいっぱいだから。その上でなお、彼はひそっと小声で問いかけた。

「何かありましたか」

「ご、ごめんなさい、実は大した用事ではないんです」

 ジェハナは羞恥のあまりかすれ声で答えた。いつの間にかまた降り始めた雪が、手すりに積もっている。あれで顔を冷やすべきかもしれない。微かな白い旋律と共に降り積もる雪が視界を遮り、まるで世界に二人きりのような錯覚に陥る。ジェハナはますます恥ずかしくなって、身を縮こまらせた。

 なかなか用件を切り出されないので、タスハはやや当惑した顔をする。そして、彼女の仕草を寒さゆえと勘違いし、ためらいながら己の上衣を脱いで肩に掛けてくれた。

 体温が残った衣服に包まれた瞬間、ジェハナは全身の血が沸騰するかと思った。転びかけたのを抱きとめられて以来、それまで意識していなかった男性らしさを相手に見出してしまい、ちょっとした接触にも平静でいられない。骨という骨が融けてしまいそうだ。彼女は真っ赤になって、大慌てで上衣を突っ返した。

「違います、寒くはないんです!」

「えっ……それは、その、失礼しました」

「あっ、あの、じゃなくて、すみません、お心遣いは大変ありがたいんですけども、わたしは大丈夫ですのでタスハ様の方が」

 二人して茹だったように赤くなり、ちぐはぐな遣り取りをする。ジェハナはとうとうしゃがみ込んでしまった。

 ばつの悪い、しかしどこか甘い心地の妙な沈黙が続く。サラサラと雪が屋根を滑り落ちて、ため息のように落ちた。ジェハナはようやく動悸を鎮め、融けかけた骨をしっかり固めると、頭を振って立ち上がった。

「失礼しました、ちょっと……いろいろ動転してしまって。煩わせてすみません。用事と言うほどのことでもないのですが、以前、総督府の蔵書についてお話ししましたよね。この機会にご案内したいと思いついたものですから」

「蔵書? ああ、そう言えばそうでしたね」

「ええ。子供たちの気を紛らすために、何か読み聞かせるか宿題を出そうと考えまして。書庫にいる間に、祭司様も興味がおありだったと思い出したんです。いかがですか」

 導師らしい態度を取り繕い、職業的な笑みをつくる。一方のタスハもようやく気まずさから解放され、ほっとした様子でうなずいた。

「よろしければ、ぜひ」


 書庫に入ると、予想通り、タスハは感嘆と喜びに顔を輝かせた。

 羊皮紙や草木紙を綴じた本、巻物。最初は触れてもいいのかと遠慮するようだった指先が、ひとつ取って開くと、あとはもう手当たり次第となった。ジェハナはしばらく邪魔しないことにして、先ほど探していた子供向けの教材をどれにするか検討する。

 ややあって紙の音が静かになったので、そっと様子を窺うと、タスハは窓辺に一冊の本を広げて熱心に読んでいた。何の書物だろうか、とジェハナが横から覗き込んだが、没頭していてまるで気付かない。

 彼は時々小さく唇を動かしながら、指先で行を辿っていた。ただ読むだけでなく、咀嚼し、身体に覚えこませようとするかのように。ジェハナは飽きもせず、文字を追う指先や書物を支える手つきの端正な佇まいに見惚れた。不思議なもので、他人の手と何がどう違って美しく感じるのかはわからない。ただただ、良いな、と思うばかり。

 手元を見つめながら読むともなく文字を追い、彼女は意外な驚きに声を漏らした。

「創世神話?」

「うわっ!?」

 我に返ったタスハが頓狂な声を上げる。竦んで取り落としそうになった本を慌てて受け止め、他に巻き添えにしたものはないかとあたふたした。ジェハナは慌てて一歩下がり、礼儀として必要な距離を空けた。

「ごめんなさい、驚かせてしまって」

「いえ、こちらこそ、貴重な書物を傷めてしまったかも」

 タスハは早口に謝って、大丈夫だろうかと点検する。彼がほっと息をついて落ち着きを取り戻すと、ジェハナはもう一度詫び、改めて書物の内容を確かめた。やはり間違いなく神話の書だ。

「タスハ様ならよくご存じでしょうに、どうしてこれを? 比較のためですか」

 問うてから思い当たり、小首を傾げる。創世神話はワシュアール人のみならず、一帯の多くの民族に共通している。崇める神の逸話や英雄譚は、町や民族によってさまざまに異なっているが、世界のはじまりについてはほぼ同じだ。『最初の人々』が遺したものだろうと考えられている。

 案の定、タスハは厳粛にうなずいた。

「ワシュアールでは異なるのだろうかと思ったのですが……同じですね。すべてのはじまり、世界は泥水のごとき混沌であった。名を持たぬ唯一の神が手で掻き回されると、やがて最も固く重いものが沈んだ」

 淡々と読み上げたタスハに、ジェハナも続けてそらんじる。

「世界の根であり、理である。次に柔らかな泥が積もった。……この世界の成り立ちがあるからこそ、ウルヴェーユも力を発揮するのですから、ワシュアール人が神々に敬意を持たないからといって、神話を否定しているわけではありませんよ」

「だからこうして、書物も生き残っているのですね。しかし神話を記したものは伝えられていても、信仰そのものは廃れている」

 考え深げにタスハが言った。うつむいた横顔に、憂いの影が落ちる。先刻イムリダールに警告されたことを考えているのだと察し、ジェハナは目を伏せた。

 記録を残すことはできるだろう。カトナの歴史、アータル神殿の由緒、折々の祭礼とその内容について。だがいずれウルヴェーユによって生活が変化すれば、あるいはワシュアールの文物が流入することによって、生きた信仰は失われていく。しかも時代による風化のみならず、王の気まぐれで叩き潰されるかもしれないのだ。

 どうすれば良いのかなど、ジェハナにもわからなかった。

 薄暗い沈黙の末に、タスハがそっと本を閉じて言った。

「時代の流れですから、致し方ない部分はあるでしょう。カトナの皆が古来のしきたりを部分的にでも守り伝えてくれることを祈るばかりです。私にできるのはせいぜい、祭殿そのものや神像や聖火を守り、記録を残すことぐらいですね」

「……諦めるのですか?」

 ジェハナは我知らず問うていた。灰色の目に見つめられ、己にそんな発言をする資格はないのだと思い出し、うなだれる。他でもない、己こそが、そもそも信仰のありようを変えるためにこの町へ来たのではないか。カトナの人々が自分たちの側に歩み寄ってくることを期待して、教育を、正義を、知識とわざを、伝え広めている張本人のくせに。

 顔を上げられないまま、ごめんなさい、とほとんど声にならない謝罪をこぼす。だがタスハは責めなかった。

「我々神官は、神々と人の仲立ちをし、双方に奉仕するものです。神々の威光を伝え広めることも大切なつとめではありますが、何よりもまず、皆に必要とされることが第一。人が神を求めなくなり、遠ざかってゆくのなら、無理やりに引き戻すべきではありません。そうしようと思うなら、いずれ必ず神官としての本分を逸脱するでしょう。神々の御名を我が物のように振りかざし、謙虚にこいねがうべき天の恵みを、支配のための脅しや報酬として利用するようになる。それはもはや、神官ではありません。ただの暴君です」

 淡々と、しかし断固とした口調。己を戒めるような声音は、それが負け惜しみでも諦めでもないことを表している。ジェハナが言葉を失っていると、タスハはふと含羞の笑みを浮かべた。

「受け売りです。元は先代様から授かった訓戒ですから。我々は神々の代弁者ではない、神々に捧げられた生贄にすぎないことを忘れるな、と言い聞かされました」

「穏やかじゃありませんね」

 まさか本当に人身御供にするわけではないでしょう、と確かめるように、ジェハナは曖昧な疑問形で言う。タスハはさも当然の態度で応じた。

「先代は古い時代をご存じですからね。我々は神々に仕える特別な立場ですが、必ずしも貴い身分ではありません。災害や戦などが起きて、どれほど捧げものを積み上げ、とりなしの祈祷をしてもどうにもならなかったら、その時は人々の手で殺されても仕方がない。本来はそういう存在だったのですよ。ワシュアールの王が真っ先に神殿を標的にするだろうというのも、それゆえではないのですか?」

 気付けばジェハナは、爪が掌に食い込むほど固く拳を握っていた。右手など今にも殴りかかりそうな位置にある。どうにか堪えて、なるべく小さな動作で見えない壁を叩きつけると、息を吐いて拳を開いた。怪訝な顔をしている祭司を睨みつけると、今度は襟首を掴んで揺さぶりたい衝動に駆られる。

「あなたはそれでいいんですか。捨てられていた子だから、神殿で育ててもらったから、神官だから、……だから、愚かな王の暴走で踏み潰されるのが自分の役目だとでも?」

 反論はない。タスハはただ当惑していた。彼女が何をそんなに怒っているのか、まるで理解できていないのは明らかだ。思わずジェハナはタスハに詰め寄り、胸に指を突きつけていた。

「あなたは! 祭司だとかなんだとか以前に、一人の人間でしょう! 望みを持っていいし、あらゆる手を尽くして世界に逆らったっていい、犠牲にされるのが当然だなんて考えは捨ててください!」

 噛み付かんばかりの剣幕で言った彼女に、タスハは気圧されて後ずさる。だがじきに、その唇を苦笑がかすめた。ジェハナは冷水を浴びせられたように怯み、引き下がる。あまりにも見慣れた、馴染みの気配だったからだ。

 ――やれやれ、しょうがないなぁ、ジェハナは。

 兄たちから、両親から、使用人からさえ、幾度となく向けられたまなざし。小さなお嬢様のきかん気や意地に対する、屈辱的な寛容。今のタスハのそれには、さらに鬱屈した毒の苦味が加わっていた。支配し踏みつけにする側の人間が何を言うのか、と冷笑するような。立場の違いを思い出したジェハナもまた、自嘲せずにはいられなかった。は、と笑いのような吐息を漏らして顔を背ける。

「忘れてください。わたしが言えた義理ではありませんでしたね」

「義理はともかく、お気持ちには感謝します」

 タスハがぎこちなく言って、咳払いした。ジェハナがむっつりしたまま振り向くと、彼はもういつもの温和な表情に戻っていた。

「立場に関係なく、不条理や不公正に憤るあなたの純粋さは……救いになります。ヨツィやマリシェや、この町の皆にとって」

 あえて一般化して語り、彼個人の感情には触れない。ジェハナはもどかしくなって、真正面から賛辞を打ち返してやった。

「わたしだって、あなたのそういう、不本意なことも受け入れた上で最善を尽くそうとなさる姿勢は尊敬していますし、おかげで随分救われています」

 予期せぬ反撃にタスハがたじろぎ、赤面する。ジェハナはまだ悔しさを胸にくすぶらせたまま、遠慮なく続けた。

「ですがそれが習い性になっているせいで、諦めなくてもいい事まで先回りして諦めていらっしゃいませんか。お願いですから、たまにはあなた自身の望みを言ってください。わたしには、大したことはできませんけれど……それでも、力になりたいんです。助けていただくばかりでなく」

 勢いで言い切ってから恥ずかしくなり、わざとらしく書棚に向き直る。

「わたしがあなたにお返しできたことと言ったら、これだけじゃありませんか。書物だけ。それも自分で調達したのではなく、総督府の備品。あんまり不公平です」

「そんなことは」

 応じたタスハの失笑は、温かな情がこもっていた。先の苦笑とは違い、対等で純粋な感謝と好意が。ジェハナは振り向けず、棚の板をぐっと握って堪える。柔らかな声が見えない衣となって、背中にふわりとかけられた。

「あなたには、言葉に尽くせないほどのご恩を受けていますよ。本当に、ありがとうございます」

 陽だまりのような優しさが心に沁みて、もうそれ以上、何も言うことはできなかった。


   *


 断続的に降り続いた雪は三日目に止み、その翌日にはもう、人々は自宅に戻り始めた。通りは除雪されているから往来に支障はないし、となればやはり、あまり長く家を空けてはおけない。空き巣も心配だし、雪で屋根が傷んだり、窓が壊れたりしていたら大変だ。

 雪と水でぬかるむ道を急ぐ人々の顔は、晴れ晴れと明るかった。窮屈で不便な避難生活から解放された、というだけではない。こんな不測の災害にも、総督はほとんど完璧に対処して見せた。ウルヴェーユのおかげで、町では誰も凍え死ななかった。なんと素晴らしく頼もしいことか!

 遠い都の不穏を知らない人々は、口々にワシュアールを褒めそやす。有能な役人、周到な備え、氷の悪魔などものともしない不思議のわざ。ありがたい、ありがたい……。

 噂話を聞くともなく聞きながら、タスハは弟子二人と共に神殿への道を辿っていた。行き交う人々の関心は薄い。祭司の姿を認めたなら会釈はするが、アータルの勝利と加護に感謝する者はいない。一歩一歩、靴が雪混じりの水を吸って重くなるように、タスハの気持ちも沈んでゆく。

(人が神を求めなくなり、遠ざかってゆくのならば)

 ジェハナに対して語ったご立派な台詞が、辛辣な刃となって胸に刺さった。

 ――諦めるのですか。

 本人よりも悔しそうな彼女の声がこだまする。応じられるのはため息だけ。

(諦めるしかない、現実を見ろ。総督府にいる間、何人が祈りに来た? 帰り際、アータルに感謝を捧げた人がいたか?)

 新たな支配者がカトナに来てまだ一年にもならないのに、この変化。むろん水面下では不信と忌避感も根強かろうが、反感を露骨に表すのは少数派だ。ワシュアール人のもたらした数々の恩恵に与り、ギムランの裁判で反抗の無益を目の当たりにすれば、どのように振る舞うのが得かは自明の理。

 師の胸中を思いやってか、あるいは弟子らもまたそれぞれ考えるべきことがあるのか、三人はずっと無言だった。

 救助の際にジェハナが作ってくれた道は、その後の雪で一度埋まり、そしてまた誰かが開いたようだった。前よりも幅が広く、直線的な道になっている。

 滑らないようにな、とタスハは弟子たちに注意し、自身も慎重に歩を進めた。背後で聞こえるウズルの息遣いに、そういえば、と思い出す。冬至祭の後、彼は結局、神殿のあり方について口にしていない。利発な彼のことだから、じきに師を論破しようと挑んでくるものと予想していたのだが。

(今回のこととあわせて、後で話し合わなければな)

 あれこれ考えながら祭殿に入る。避難していた間に、聖火は燃え尽きていた。まず神像をしっかり拝んで、カトナを守りたもうたことに感謝し、それから聖火台を掃除して壺の火を戻す。

 元通りに炎が明るい光と音を取り戻すと、二人の弟子も安堵の息をついた。

「やっぱり、ほっとしますね」

 ウズルがしみじみとつぶやく。その声音の敬虔さにタスハもほほえみ、うん、とうなずいた。変化を積極的に進めていこうとする少年であっても、やはり火に慰めを見出し、神への感謝を抱くのだ。

 元気を取り戻した三人は、せっせと神殿まわりの雪をかき、掃除に点検、礼拝の準備にいそしんだ。慌しさが一段落して日常の雰囲気に落ち着く頃、ひとり、ふたり、と町の住民がやって来た。あるいは感謝の供物を捧げに、あるいはただ祈りに。

 タスハはそれぞれに丁寧に応対した後、参拝者に代わって灯明を捧げ香木をくべ、祭司のつとめをおこなった。白い光が射し込む礼拝室では、わずか数人の参拝者が各々の祈りに没頭している。声なき祈りが静寂に満ち満ちて、見えない輝きが肌身に感じられた。

 タスハはゆっくり深く呼吸し、この空気に魂を浸した。そうだ、ここだ――この祈りの場こそが、己の居場所、望みの結晶するところだ。確信が胸の奥底から生まれ、心身を隈なく照らしてゆく。

(いかにウルヴェーユがすぐれたわざであっても……人の手の届かぬ世界は神々の領分。我々はその前に頭を垂れて祈るしかない。これからもずっと)

 人が世界のすべてを手にする日など来ない。それは、人が人でなくなる時だ。ならばやはり神々は在り続け、祈りも捧げられるだろう。そして神と人を取り結ぶ神官もやはり、必要とされるに違いない。

「ウズル」

 祈りの邪魔をせぬよう、彼はそっと弟子にささやいた。

「冬至祭の日、おまえは神殿のありようも変わっていくべきだと言ったな。今もその考えに変わりはないかね」

「……はい」

 ためらい、苦しそうに、しかし譲らぬ堅さに裏打ちされたいらえ。そうか、とタスハは受け止め、軽く弟子の肩を叩いた。

「おまえの歩みを止めはしない。だが、今日のこの光景を、決して忘れてはならないぞ」

 その一言だけで、どれほどの意図が伝わったかはわからない。だがウズルは師の言葉を噛み締めるように長く沈黙し、はい、と深くうなずいた。

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