氷の悪魔

   *


 冬至祭から数日の後、それまで力を蓄えていた氷の悪魔がついに縛めを打ち破った。

 正午礼拝と教室が終わって皆が帰った頃、早くなった夕暮れに先駆けて空が暗くなりはじめたのだ。どうも怪しいな、と思った時にはちらちらと雪が舞い、気温もぐんぐん下がっていった。

 タスハは窓から灰色の空を眺め、風の冷たさにぶるっと震えた。舞い込んだ雪が襟元から入って首に触れ、慌てて戸を閉てる。

「これは不穏だな。ウズル、シャダイ。薪をいくらか中へ移しておこう。もし雪が積もって取りに行けなくなったら大変だ」

 タスハは当たり前のように弟子たちを促し、一呼吸置いて内心ぎくりとした。この地方では雪が降ってもたいして積もりはしない。くるぶしまで埋まれば驚くほどで、それも一日二日でほとんど消える。扉が開けられなくなるほどの積雪など、普通は考えない。タスハも子供時代に一度だけ経験したきりだ。

(なぜ今、あの時のことを思い出したのか……いや、理由が何でもいい。今は備えをしておかなければ)

 無用の骨折りだったと笑って済ませられたら、それでいい。師弟は外の薪小屋までせっせと往復したが、その間にも雪はどんどん勢いを増してゆく。最初は「占いの通りになりましたね」とむしろ安堵していたウズルも、前が見えにくいほどになると、さすがに顔をこわばらせた。

「皆は大丈夫でしょうか」

 シャダイが不安げに町を見下ろす。だがその視界も既に白い紗幕に覆われていた。タスハも眉を曇らせる。

「備えをしておくように言っておいたのだから、後は各々の判断と神々に委ねるのみだ。さあ、中に戻ってアータルに加護を祈ろう」

 薪を抱えて祭殿に入ったが、聖火が燃えているにもかかわらず凍えるほど寒かった。薪を加えて炎を大きくし、火の神へ祈願の文言を唱える。

 三人は夜を徹して祈った。アータルが力を盛り返すように、氷の悪魔が町を蹂躙せぬよう、赤子の命が奪われぬように。繰り返し、繰り返し、赤い音を辿り、深く己の内に沈みながら。

 吹き荒れる風の音は、次第に弱まっていった。やがて死のごとき静寂が世界を覆い、雨戸の隙間からうっすらと光が射してくる。

 タスハはすっかり嗄れた声で祈祷を終え、よろめきながら窓に向かった。ウズルも待ちかねたように別の窓へ走っていく。

 雨戸板を外してすぐには、何がどうなっているのかわからなかった。灰色と白しか見えない。タスハは充血した目をぎゅっと瞑ってから、ゆっくり瞼を開く。隣の窓ではウズルとシャダイが、驚愕と恐怖のあいまった奇声を上げた。

 外は一面、雪に覆われていた。しかもまだ、鈍重な灰色の空からはしんしんと雪が降り続けている。朝とも思えぬ薄暗がりの世界。物の形も境目も判然としない。

 タスハはしばらく放心していたが、その光景の意味をじわじわと理解するにつれ、血の気が引いて指先から冷たくなる感覚に襲われた。

 見慣れた植え込みも道も、何もかもがなだらかな雪原に覆われ、木立の黒い影だけが突き出している。ということは恐らく、大人の腰ほどまでは積もっているはずだ。

 ――閉じこめられた。

 ごくりと唾を飲んで叫びをとどめる。だが弟子たちは堪えきれなかった。

「おしまいだ!」

 ウズルが絶望の悲鳴を上げ、シャダイが泣きながらおろおろする。アータルが氷の悪魔にやられた、このままカトナは雪に埋もれて滅びるんだ――恐慌を起こした弟子たちがまくし立てる。

 タスハは眉間を揉み、改めて外に視線を向けた。わずかの間に、降雪はおさまってきたようだ。空も少し明るい。ゆっくり深呼吸すると、どうにか頭が働きだした。

「落ち着きなさい、二人とも」

 一言たしなめておいて、ふむと思案する。窓からは出られない。採光と通気が目的の小さな窓しかないから、小柄な子供ならどうにかくぐれる程度だ。そもそも、無理に窓から出たところで雪に埋まって動けなくなるだけだろう。

 祭殿裏手の通用口から出られたら居住棟はすぐそこだが、たぶんあそこは吹き溜まりになって完全に埋もれている。扉が開いたとしても、雪を掘って道をつくれる気がしない。

 正面玄関は、状況がましかもしれない。玄関前には小さな屋根があるから、まともに雪が吹き付けてはいないはずだ。

 彼は黙ったまま礼拝室を抜け、扉に向かった。その頃になると弟子二人も、恐怖にやっと理性の手綱をつけたらしく、急いで後からついてきた。

 閂をかけた木製の扉は、隙間に入り込んだ雪が一度溶けて凍りついていた。閂を抜いても動かない。氷を溶かさなければ駄目なようだ。幸い聖火はいつものように燃えている。火箸もある。

 聖域に戻ろうと向き直ったタスハは、弟子二人の必死のまなざしに足止めされた。怯んだのを悟られないよう、平静な態度を装ってなだめる。

「二人ともこんな雪は初めてだから、世界の終わりだと思うのも無理はない。確かに滅多にないことだ。しかし私が子供の頃にも一度、こんな大雪の冬があったのだよ。だから、神々に絶望の言葉を吐くのはよしなさい」

「……すみません」

 ウズルがうつむき、弱々しく謝罪する。横でシャダイもしおらしくうなだれた。タスハは二人の肩にそれぞれ手を置き、力づけてやる。

「大変な状況ではあるが、なんとか力を合わせて乗り切ろうじゃないか。まずここの扉を開けて、住まいへ戻れるように雪をどかせて道をつくろう。ウズル、シャダイ、使えそうな道具を探してくれ。献納皿では小さいかな?」

 言いながら彼は聖火に歩み寄り、アータルに一言祈って許しを乞うてから、火箸を熱して玄関に戻った。

 やるべき仕事が決まると、弟子二人もめそめそしてはいなかった。祭具入れをひっくり返して、雪かきに使えそうなものを物色する。

 どうにか正面扉が開いた時には、外は随分明るくなっていた。雪が止んだのだ。三人は皿や鉢を使い、玄関前に積もった雪を掬っては投げ、掬っては投げていく。小さな屋根の下から雪がなくなると、絶望もどこかへ消えていた。

 ウズルは打って変わって明るい表情になり、こめかみを伝う汗を袖で拭いた。

「やってみれば何とかなるものですね! ここからが大変ですけど」

「しかし食事にありつきたければ、頑張るしかあるまい。幸い三人もいるのだし、おまえたちは私と違って若いんだから元気も力もあり余っているだろう」

 タスハがにやりとして応じると、弟子二人はなんともややこしい顔をした。そんなこと言ってさぼるつもりじゃないでしょうね、僕たちだって徹夜明けなんですけど、と心の声が聞こえそうだ。

 ともあれ、寝不足な上に空きっ腹な三人は、早く何か食べたい、寝台で休みたい、という切実な欲求を支えにせっせと働いた。

 慣れない労働、しかも道具はとても適したものとは言えず、作業は遅々としてはかどらない。タスハはだんだん腰が痛くなってきて、呻きながらゆっくり伸びをした。目的地まであと少しだ。やれやれ、と息をついて休憩がてら周囲を見回す。空では不穏な雲の塊がぶつかり合っているが、まだしばらくは降らずに持ちこたえてくれるだろう。たぶん。

(町の皆は無事だろうか)

 高台の下、すっかり別世界のようになった白い屋根の連なりに目をやって思う。積もったのは夜間だから、母屋から離れた所にいたせいで難渋している者はいるまい。断熱の術を施された家なら、薪が不足しても凍え死ぬほど寒くはならないだろうし、何より、きっと総督はすぐに人手を動かして対処するだろう。

(ウルヴェーユを使えば、道具がなくてもやりようはある)

 そう考えると同時に、路の標が星のようにきらめいた。チリン、チリリ……微かな音が内からささやく。雪を切り裂き突風を送りこんで吹き飛ばし、道を開くわざ。必要な色と音と詞、それらを結ぶ形。

 タスハは反射的に頭を振り、睨むように居住棟の戸口を見やった。凍えて死にそうというなら背に腹は代えられまいが、あと少しではないか。弟子たちもまだ元気だし、己とて今にも倒れそうというわけではない。腰は少々危ういにしても。

 彼は見えない誰かに反証するかのように、またせっせと雪をかきはじめた。

 しばらくして横で、シャダイがぽつりとつぶやいた。

「タスハ様、僕たち、悪いことをしたんでしょうか」

 何を言うのだ、とタスハは眉を上げ、次いで理解した。この大雪は、神々がカトナに下された天罰ではないのか、と恐れているのだろう。タスハは苦笑し、やんわりと穏やかに否定した。

「もしそうなら、我々が食糧庫に這いずっていく猶予が与えられるとは思えないな」

「でも、……もし、ウルヴェーユが神々の御心に背くものなら」

 シャダイは雪に皿を突き刺し、震え声で問いかけた。言うべきではないと承知の、しかし秘めておくにはあまりに苦く重い疑い。タスハは少年の胸中を慮り、慰めるように、そっと肩を叩いてやった。圧倒的な白銀の光景が一夜にして出現したのだ、畏怖に打たれるのも当然のこと。しかし戒めるべきは戒めねば。

「自然の猛威を恐れ、神々の怒りに平伏すのは、正しいことだ。しかし、安直に何かのせいにすべきではない。神々の御心も、神々が創りたもうた世界の複雑さも、おいそれと理解できるものではないのだから。疑いが胸に兆したとしても、我々神官はことに、軽々しく口にしてはならない。見習いであってもだ。もし誰かの耳に入れば、それはすぐ、神のお告げに姿を変えて広まってしまうだろう。くれぐれも言葉に気を付けなさい」

 穏やかに、しかし強く説く。シャダイが深くうなずいたのを確かめると、タスハは表情を和らげ、明るい口調で言い添えた。

「今はむしろ、このような稀に見る困難の時に、カトナを治めているのがワシュアール人で良かったと感謝すべきだろう。前のハムリの長官ならきっと、毛皮にくるまって役所に籠ったきり出て来ないぞ」

「春になるまで居留守でしょうね」

 と苦笑いで同意したのはウズルだ。近郊農家生まれのシャダイと違って、町育ちの彼は前統治者の評判もあれこれ聞き知っている。数年ごとに入れ替わりはしたが、どの長官も勤勉という形容からは程遠い人物ばかりだった。

「しかもきっと飲んだくれているだろうな。だからと言って、神々が東の民を遣わしたもうたのだ、と結論付けるのもまた軽率ではあるがね。さあ、あと少し頑張ろう」

 タスハは弟子を励まして作業にいそしんだ。ようやく扉に辿り着くと、倒れるようにして中へ転がり込む。それぞれ床に座り込んだまま息を切らせ、ぐったりした。タスハも疲労困憊のあまり意識が遠のきかけたが、ここで寝たら凍えてしまう、と気力を振り絞る。

 睡魔に負けぬよう唸りながら、ぐっしょり濡れた靴を足から引っぺがしたところで、胸の奥に微かな気配が届いた。何がなし、深い息をつく。よろけながら立ち上がって、開けたばかりの戸口から外を窺うと、案の定、斜面の下方に白い雪煙が見えた。

「……何でしょう、あれ」

 後からやって来たウズルが目をこする。タスハは肩を竦めた。

「総督府から救助に来てくれたようだ。ウルヴェーユで道を開いているのだろう。熱い食事をふるまえるように、用意するとしようか」

 やれやれ。こんなにすぐに助けが来るのなら、苦心惨憺重労働をしなくても良かったのではないか。まさに骨折り損のくたびれ儲けだ――子供のように拗ねた自嘲が脳裏をよぎり、彼は思わず舌打ちした。

(馬鹿なことを考えるな。まず己の力を尽くすのは当然だろうに)

 自分に腹が立ち、眠気と疲れを忘れる。怠惰な甘え心、あるいは自らの労苦を誇りたがる傲慢。己の愚劣さにほとほと嫌気がさす。

(疲れているんだ。そのせいだ)

 苛立ちを噛み殺し、乾いた服に着替えて厨房に急ぐと、竈の火を熾した。

 しばしの後、ジェハナがお供の兵士一人と一緒に居住棟までやって来た。既に食堂で熱い粥にありついている三人の姿に、彼女は安堵で脱力したように戸口に寄りかかる。タスハは急いで椅子をすすめた。

「お掛けください。遠いところ、道も難渋したでしょうにお越しくださって恐縮です。朝食もまだなのでは? 召し上がりますか」

 ジェハナは当惑して返答に詰まったが、タスハが二人分の粥を食卓に置くと、明らかにごくりと唾を飲んだ。恥ずかしそうに縮こまりつつも、素直に礼を言って匙を取る。

「ありがとうございます、いただきます。……ああ美味しい、温まります。助けにきたつもりが、助けられましたね」

 お恥ずかしい、と苦笑した彼女の横で、兵士も畏まって「かたじけない」と礼を言う。

「どういたしまして。下はどんな様子ですか」

 タスハが問いかけると、ジェハナも真顔になって応じた。

「ここと同じく、腰の高さまで雪が積もっています。総督府の人員総出で雪かきをして、一軒一軒回って住民を避難させているところです。今は止んでいますが、恐らくまた降るだろうと思われますので……皆さんもこの後、総督府に移ってください」

 持ち物は最小限の身の回り品だけで。ここから総督府は遠いし、皆が持てるだけのものを持ち込むと保管場所もない、所有者がわからなくなったり窃盗なども起きる。食糧と防寒具は準備がある……等々の説明を受け、タスハたちは荷造りした。当然、聖火も壺に入れて持ち出す。心細い思いをしている住民には慰めになるはずだ。

 一行が外に出た時には、空はまたずっしりと重い雲に覆われつつあった。

「それじゃあ、行きましょうか」

 ジェハナは神官たちを振り返って確認し、それからふと、妙な顔つきになった。

「そういえば……ここの雪は、皆さんが除けられたんですよね。もしかして祭殿の方にいらしたんですか?」

「ええ」当然、とタスハは応じる。「夜通しアータルの加護を祈っておりましたから」

「でも、それじゃあ、雪かきの道具なんて何もなかったでしょうに。まさか素手で?」

「まさか! 祭具を使ったのですよ。危急の時とて神々もお許しくださるでしょう」

 タスハはおどけて答え、天を仰いで火の神を讃える言葉をつぶやいた。そして、行く手にくっきりと掘られた街への道を見やり、感情を殺して言い足す。

「ウルヴェーユが使えなくても、工夫と努力次第でなんとかなるものですよ」

 口にした直後からもう、言わなければ良かったと後悔する。何をつまらない見栄を張っているのか。張り合ったところで無意味だろうに。

 だが幸いジェハナは、彼の虚勢には気付かなかったようだった。ごく素直に、そうですね、と感心した声音で同意して、先導をはじめた。

「足元に注意してくださいね。雪を吹き飛ばして道をつくってきましたが、わたしたちが踏み固めた部分が滑りやすくなあぁっ!」

 言った矢先に自分が滑って転びかける。後ろについていたタスハは、慌てて右腕一本で抱きとめた。左手に聖火の壺を持っているからだ。よろけたものの転倒は免れ、ほっと息をつく。シャダイが急いで聖火壺を受け取り、安全圏に下がった。

「大丈夫ですか」

 タスハは両手でしっかりジェハナを支えると、慎重に体勢を立て直した。これほどまともに接触するのは初めてだが、それをどうこうと意識するには、彼は疲れすぎていた。とにかく一緒になって転ばないようにと、それだけに集中する。

「ご、ごめんなさい、すみません」

「慌てないで、落ち着いて足元を確かめてください」

「はいっ、すみません!」

 ジェハナがしどろもどろに謝って飛びのこうとするもので、タスハは急いで支え直さなければならなかった。失敗が恥ずかしいのはわかるが、この勢いで飛び出したら今度は前のめりに転んでしまう。

 どうにか姿勢を正したジェハナは、耳まで赤くなっていた。そしてふらふらと道の端に寄ると、いきなり両手で雪を掬って顔に押し当てた。啞然となった一同の前で、火照りを冷ますことしばし。顔を上げた彼女は、振り向かずに泣きそうな声を漏らした。

「いっそ埋もれたい……恥ずかしすぎる」

 思わずタスハはまともにふきだしてしまった。慌てて口を覆ったが、もう遅い。転んだ当人を除く全員が、堪えきれずに笑い崩れる。ジェハナは赤い顔で目を潤ませたまま、怒ったふりをした。

「ええどうぞ、好きなだけ笑ってください。総督府に着くまでに誰と誰が転ぶか、楽しみにしていますから!」


 思いがけずジェハナの幼い言動を目にして、タスハの気分は軽くなった。妙にささくれていた心が落ち着き、穏やかに物事を考えられるようになる。

 道々彼は足元に注意しつつ、笑いを押し殺して話しかけた。

「雪の感触は如何でしたか、ジェハナ殿」

「ふかふかして冷たくて気持ち良かったですよ。祭司様もどうぞご遠慮なく」

 ジェハナは照れ隠しに怒った口調を装ったが、すぐにその皮も剥がれた。初めての積雪に高揚した子供そのものの声音で続ける。

「本当にびっくりしました、一晩でこんなに積もるなんて! 倒れ込んでも痛くないんですね、羽毛布団みたいです。わたし、最初は面白がってそこらじゅう転がってしまって、ダールに馬鹿にされました。でもあの人だって、雪かきのついでにお城を造ろうとか言ったんですよ」

 タスハがくすくす笑っていると、後ろからウズルが遠慮がちに問いかけた。

「ジェハナ様は、恐ろしくなかったんですか? 初めてでいきなりこんな大雪……閉じ込められてぞっとしませんでしたか」

 振り返ったジェハナは怪訝そうに「閉じ込め?」と繰り返したが、ああと気付いて笑顔になった。

「総督府の敷地内には、そんなに積もらなかったんですよ。祭司様の警告を受けて、あらかじめ対策しておきましたから」

 当たり前のように言われたことに、タスハの心がまた軋んだ。ウズルやシャダイも複雑な表情をする。自分たちが脅威に感じたことを、いともあっさりと、楽しく遊べる程度のものにしてしまうとは。

 漂う空気が変わったのに気付いてか、ジェハナも笑みを消して真顔になった。

「ごめんなさい、はしゃぎすぎましたね。皆さんにとっては一大事ですし、下手をすると命にかかわることですのに。……実際わたしも、通りに出て初めて怖さを感じました。敷地内と同じぐらいの軽い気持ちで、腰まである雪の中に転がってみようとしたんです。でも、手を突いた途端に肩まで沈んで抜けなくなって」

 その瞬間を思い出し、彼女は腕をさすって身震いした。タスハも穏やかにうなずく。

「迂闊に一人で雪にはまってしまったら、そのまま身動き取れず凍えて亡くなることもあるでしょう。皆が無事だと良いのですが」

 話しながら街に入るとすぐ、避難する集団と行き合った。総督府の兵士に先導され、不慣れな雪によたよたしながら歩いている。その中にマリシェの姿を見付け、ウズルがそわそわした。タスハはほほえみ、足を止めて弟子の荷物を引き取ってやる。

「行って、手を貸してやりなさい」

「はいっ!」

 勇んで駆けてゆく姿は、神殿でこの世の終わりだと怯えた少年とは別人のようだ。タスハは妙にこそばゆい気分になって苦笑する。鞄や手提げ袋で大荷物になった彼に、ジェハナが複雑な視線を向けた。

「意外と……」

 独り言のようなつぶやきがよく聞き取れず、タスハは振り向いて首を傾げる。ジェハナは慌てて言い直した。

「あ、いえ、意外と力持ちなんですね。先ほども助けていただいて」

 自分で言って羞恥がぶり返したらしく、頬を染める。タスハは強いていつもの口調を保って答えた。

「日頃から何かと重い物を持ち運びしていますから、このぐらいは平気です。とは言え、明日にはきっと全身がたがたで起き上がれないでしょうね」

「まあ大変。どれかお持ちします」

「いや、あなたは両手を空けておかれたほうが良いのでは」

 タスハはつい我慢できずにからかった。ジェハナに睨まれ、一度は真顔を装ったもののすぐに失笑してしまう。ジェハナが赤くなって憤慨した。

「もう! 人の失敗をいつまでも笑わないでください! いいですよ、あなたが転んでもわたしは手助けしませんから。そんな大荷物を抱えた人を、支えられるわけがありませんもの。たとえわたしが手ぶらでもね!」

「申し訳ない、お怒りはごもっともです」

 まだ笑いをおさめられないまま、タスハは形ばかり謝罪する。続けて、足ではなく口を滑らせそうになった。

「失礼しました。あんまり――」

 我に返って、危ういところで言葉を飲み込む。いきなり声を詰まらせた彼に、ジェハナが疑わしげな目をくれた。急いでタスハは取り繕う。

「その、あまりに意外だったもので。あなたがあんな、たわいない失敗をするとは思ってもみませんでした」

「……それは買いかぶりです」

 褒められたのか貶されたのか、釈然としない様子でジェハナはつぶやく。タスハは咳払いしてごまかした。

 ――あんまりあなたが可愛らしいから。

 だとか。どの口が言うか。

(気を付けろ馬鹿、妙なことを口走ったら軽蔑されるぞ)

 猛烈な勢いで恥ずかしくなってきたが、ここで赤面したら、何を考えたのかとますます疑われてしまう。急いで彼はうつむき、山ほど抱えた荷物を点検するふりをしてごまかすと、袋をひとつふたつ、ジェハナに任せた。

 時間稼ぎで平静を取り戻したタスハは、弟子がしっかり聖火壺を持っているのを確認してから、歩みを再開した。前を行くジェハナの金茶色の髪に、ひらりと花弁のように雪が絡まる。また降ってきたようだ。彼は空を見上げ、ため息をついた。

 徹夜に続く労働の疲れで、心の箍も緩んでいるようだ。自重しなければ。彼女がこうして親しくしてくれるのは、あくまでも仕事相手だからだ。協力的な地元神官で、異性の視線でいやらしく値踏みしたりしない、安全な人物だから。だのに妙なことを言い出せば、きっと警戒され距離を置かれるだろう。所詮ギムランの同類か、と蔑みの目で見られた日には絶望で死ねる。

(それどころか、やっぱり一年で帰る、と心変わりさせてしまうかもしれない。駄目だ、そんなことになったらカトナにとって大変な損失だ)

 代わりの導師が彼女と同等以上に神殿に好意的だとは、とても期待できない。総督府のワシュアール人たちを見ていればわかる。たまに礼拝に来る者もいるし、総督も祭礼の折には物資や人手の面で協力してくれるが、彼らは根本的なところで神々に向き合ってはいない。ジェハナが例外なのだ。

(……なぜなんだろう)

 ふとそんな疑問が浮かぶ。名家のお嬢様、ウルヴェーユを使いこなし理知と才に恵まれて、神々に縋る必要などなさそうなのに。畑を耕し羊を追い、雨や旱や寒暑に生活のかかった暮らしをしているなら、ひたすらに神々の恵みを乞うのは当然だが、そんな苦労などまったく知らぬだろうに。

 この町に来て、タスハのとりおこなう礼拝を見て初めて、神々への崇敬を抱いたと彼女は言う。己が神々との橋渡しとなったのは喜ばしい限りだが、ならばこれまでの人生で、彼女の魂を神々に引き合わせる者はいなかったのだろうか。都の神官たちでは駄目だったのか。なぜ。

 思索に耽っていたタスハは、おお、とどよめく声で我に返った。顔を上げると、先に総督府に着いたマリシェたちの集団が興奮してしゃべっていた。どうやら、敷地に雪が少ないことに驚いたらしい。

 先に聞かされていて良かった、とタスハはこっそり安堵した。到着していきなりウルヴェーユの力を見せつけられたら、またややこしい感情を惹起されるところだ。

 総督府には既に大勢の住民が避難してきており、不安げにざわついていた。イムリダールが書記と共に住民台帳と避難者を照合し、兵士が建物の中へと案内している。

 タスハの姿を認めた幾人かが頭を下げた。

「祭司様のおっしゃった通りになりましたなぁ」

「しかしまさか、これほどになろうとは……」

 口々に言う人々に、タスハは丁寧に会釈を返し、怪我はないか、家族は皆無事か、といたわった。しかし彼の慰めや励ましを必要とする者は、予想よりも遙かに少なかった。聖火の壺を拝む者もほとんどいない。皆、総督府内の暖かさや、手回しの良さ、救助の早さにすっかり心を奪われているのだ。

 漠然とした虚しさがタスハの胸に去来する。つかのま、彼はそれに囚われて立ち尽くした。目の前の光景がまるで現実ではないような、鈍い無感覚に隔てられる。雪景色がぼやけ、過去の記憶と重なり合った。

「祭司様?」

 夕空のそよぎに呼びかけられ、はっと我に返ると、ジェハナとシャダイが心配そうにこちらを見ていた。タスハは瞬きし、額を小突いて気を取り直した。

「昔のことを思い出していたようです。子供の頃、一度だけこんな風に大雪が積もった年のことを」

 言いさして、途中で愕然とする。今頃になってようやく、あの日の師の――先代祭司の言葉がよみがえった。彼は悔しさに顔をしかめてうつむき、低く罵りの言葉を吐いた。滅多にないことだけに、ジェハナがびくりとする。タスハは顔を上げて、失礼、と詫びた。

「もっと早くに思い出すべきでした。あの年も、夏にリーニ河の水位が高かったのです。ヤーディ様……私の師が、おっしゃっていました。カトナでは昔から何十年かに一度、こんな冬があると。夏に水涸れを心配せずに済んだからとて気を抜くな、そう戒められたのに。忘れていたとは」

 己が恨めしく、彼はきつく唇を噛んだ。ジェハナが遠慮がちに慰める。

「たとえ完璧な記録があったとしても、先の予測は難しいものです。ましてや何十年に一度のこととなったら、対処するにも限界があるでしょう。さあ、こちらへ。聖火を安置するための部屋はどこが適しているか、ご覧いただいて決めましょう」

「ありがとうございます」

 タスハは礼を言い、荷物を持ち直した。そこへ、門からわいわいと大勢がやってきて、馴染んだ声が耳に飛び込んできた。

「転んで濡らすななよ! こっちだ、よーし!」

 大声の指示と激励は、他ならぬハドゥンだ。タスハは思わず振り向き、来たのか、とつぶやいた。幼馴染みが家族と使用人を引き連れ、燃料や食料を山積みにした荷車を手土産に、総督府へ避難して来たらしい。イムリダールが出迎えにいくのを見て、タスハはますます意外な気分になる。だが二人の様子を見て納得した。

 こんな非常時にまで反目を引きずるほど、ハドゥンも幼稚ではない。カウファ家の屋敷は大きいが町の全員を収容はできないし、そもそも寒さと雪への対策は総督府の方が万全だ。物資をこちらへ運び込むことで、郷士としての体面も保てる。

 視線の先でハドゥンがふとこちらに顔を上げてこちらに気付いたが、軽く手を挙げて挨拶しただけで、すぐ仕事に戻った。

(ここにも私の出る幕はないわけか)

 ウルヴェーユを拒み総督と仲が良いとは言えないハドゥンさえ、今は祭司を必要としていない。災難の時に励まし合う幼馴染みとしても、単なる荷運びの手としてさえも。

(そうじゃない。私は私の本来のつとめを果たすべきなんだ)

 しっかりしろ、と自分に活を入れて歩きだす。それでもまだ、一抹の侘しさが胸に消え残っていた。


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