五章 早春

抑圧の始まり


   五章 早春


 どうやら氷の悪魔は、最初の大雪で力を使い果たしたようだった。例年よりも降雪は多いが、以後は家に閉じこめられるほど積もることもなく、町には雪遊びに興じる子供らの歓声が響いた。

 よしんばまた大雪になっても、総督がなんとかしてくれる。その安心感は人々の顔を明るくし、生活における緊張や切実さを緩めた――それゆえ、だろうか。人々の足は神殿から遠のいていった。二日と空けず雪が降っている間は、この天候では仕方ない、と言うこともできたが、雪が去り、凍てつく風が弱まっても、やはり参拝者は戻らなかった。

 タスハはともすると忍び寄る虚しさや焦りを努めて抑え、これまでと変わらぬ生活を保っていた。毎日の礼拝や清掃、日常の身の回りのことを淡々とこなし、静かに時が過ぎるに任せる。

 何とかして神殿に人々を呼び戻したい、という思いはあった。ウズルとシャダイのためにも、このまま寂れるに任せてはならない。だがどうすれば良いのか。

(せいぜい頻繁に街へ下りるか)

 人々がわざわざ高台の神殿まで登るのが億劫なら、こちらから出向くしかあるまい。忘れられないように。

(節目の祭儀を賑やかにしたら良いのか)

 ただの客寄せの出し物にしてはならないが、定められた作法に則りつつも変化をつけ、あるいは規模を大きくして、皆が参加したがるように仕向けるか。

(……こういう方面には、才がないんだがなぁ)

 まるで商人か芸人のようなことを考えていると気付き、彼は天を仰いで神々の助けを乞うのだった。

 そうして彼が、来る春分の新年祭について頭を悩ませている折、珍しい客が神殿を訪れた。カトナ総督イムリダールである。


「これは総督、ようこそお越しくださいました。知らせをいただけたら、こちらから出向きましたものを」

 ちょうど外で祭殿に飾る木の枝を選んでいたタスハは、一人で坂道を登ってくる総督を認めて驚いた。歓迎したのもつかのま、いつになく難しそうな彼の表情に、不穏な胸騒ぎを覚える。礼拝の時間を外しての訪問ということは、他人に見られたくないのだろう。

 昨今参拝者もまばらになったとはいえ、タスハは念のために居住棟の方へ招いた。質素ながら、応接室を兼ねた神殿祭司長執務室があるからだ。もっとも、タスハ自身はほとんど使っていないのだが。いずれにせよ、総督は別の希望を出した。

「ご配慮、痛み入る。良ければ教室に使っている場所を見せてくれないか」

「構いませんが……」

 当惑しながらタスハが案内すると、イムリダールはつくづくと食堂を眺め回した。ここで教室を開くようになってだいぶになる。生徒の作文や教材が片隅に置かれたままになっていて、人の集まるところという気配が漂っていた。

 イムリダールは不格好な文字の刻まれた粘土板を見て口元をほころばせたが、じきに真顔になり、タスハに向き合った。

「今頃と思われるだろうが、改めて、貴殿に心からの感謝を申し述べたい。神殿が協力してくれたおかげで、我々がどれほど容易に受け入れられたか。最初にここを貸してもらえたからこそ、我々の教育に対する抵抗も少なかった。おかげでもう、教師の増員要請を出せた。できることなら、我々……いや、私個人としては、貴殿には今後とも穏健な中立の立場を保ち、緩衝役を果たしてもらいたいと願っている」

「だが、……と続くのでしょう」

 タスハは諦念の滲む苦い笑みを浮かべた。イムリダールが言いづらそうに口を閉ざしたので、彼は手振りで促した。

「あの大雪の日にお話しくださった懸念が、いよいよ現実になりましたか。率直に仰せください、心構えはできています」

「申し訳ない。いや、最悪の事態ではないから安心してくれ。新年祭のことだ。ワシュアールの都でも新年祭は盛大に催される。宗教的な祭礼というより、国家の行事としてだが……各地方都市においても、今年は必ず祭儀の中でワシュアール王の威光を讃え、健やかなることを祈願すべし、との触れが届いた」

 イムリダールは、まるで耐え難い恥辱かのような表情で唸ったが、聞いたタスハは拍子抜けしてしまった。

「それだけですか? そんなことなら、あなた方がこの町に来ると同時に強いられてもおかしくなかったのに、なぜ今頃」

 毎日の礼拝に欠かさず王を讃える文言を加えよ、だとかいう命令は、ハムリの王も何人かが発布した。たいていはごく緩いもので、怠け者の長官が毎度実行されたか確認するわけもない。大きな祭礼の時に形ばかり付け加えるだけで、ハムリの役人は満足したし、町の住民も特に気に留めなかった。神々の恵みが変わるでもなし、ただ面倒な触れを出した王の名前が住民に知れるだけのこと。

 不思議そうなタスハに、イムリダールはこめかみを揉んでため息をついた。

「それだけ我が国では神殿の価値が軽かったのだ。神官に褒め称えてもらわなくとも、ワシュアールは栄えているし王も敬意を集める存在なのだ――本来ならば。神殿の祝福を王の権威のために利用するというのは、前時代に逆戻りすることだ。そもそもかの大王は、そうした関係をこそ最も嫌っていたというのに」

 忌々しげに吐き捨てられた言葉の意味を、タスハはすぐには理解できなかった。数拍してやっと飲み込み、驚きの声を漏らす。

「まさか、その大王は神々の祝福を拒んだのですか。王ともあろう身で、神々の加護と恵みを退けたと?」

 そんなことをしたら、国土と民から実りも安寧も失われてしまうではないか。

 愕然とした彼に、イムリダールは複雑な微苦笑を浮かべた。

「そうか。いまだこの西方まで夜明けの光は届いていないのだな。大王が目指したのは、神々の拒否ではない。神の名の下に権威権力を集める神殿が、王権までも支配し国を牛耳る、そんな状態に終止符を打つことだったのだ。まぁ、王位につく前は神を否定していたらしいが、ともあれ……かの王は、人々が真に自立することを願われたのだよ。天候ひとつに神の機嫌を損ねたかとびくびくし、王が病んだり道を外れたりすれば天罰が下ると嘆く。あげく、その不安と恐怖をなだめようと神殿に群がり金を投じ、意志や自由や生命までも捧げてしまう……そんな世の中を変えたいと願われた。そのためにこそ、すべての人が己の内にある力を意識し、知識とわざを身につけられるように、神や祭司の気まぐれに拠らぬ公正な裁きが行われるように、国を整えたのだ」

 熱っぽく語るイムリダールの瞳には、少年のような輝きが宿っている。タスハが眉を上げると、彼は興奮を自覚して、ごまかすように肩を竦めた。

「ワシュアール人なら皆、一度は大王に憧れるものだ。私も例に漏れず、大王が何を考え何をなそうとしたのか、何が実現されたのか、夢中になって学んだ。そして得た知識から自分なりに、将来目指すべき理想や国のあり方について考えを深めてきた。無垢な子供の憧れから少年の葛藤を経て、大人の現実を悟るまで」

 そこで彼はふっと表情を翳らせた。瞳から輝きが失せ、暗いつぶやきが落ちる。

「出発点は同じ憧れであっても、結論はそれぞれに違ってくる。良くも悪くも」

 タスハは総督の内心を慮り、目を伏せた。彼とエサディル王は同じ人物の同じ業績に憧れているはずであるのに、それを己の理想とはほど遠い形で利用されたのが口惜しいのだろう。大人の現実を悟ったという今でも、彼の中にはまだ無垢な憧れが、それこそ信仰のように、残っているのに違いない。

「今回のお触れはカトナのような田舎町よりも、あなたがたの都で、大きな……影響があるでしょうね」

 タスハが言葉を選んでいたわると、イムリダールは鼻を鳴らして応酬した。

「他人事だと判断するのは早いぞ、祭司殿。命令の詳細はここからだ。貴殿が考えているのは恐らくこんなところだろう……新年祭の朗詠部分で、来る一年も天空神アシャがワシュアール王エサディルを嘉したまわんことを、だとか祈願する。違うか?」

「まあ、およそそのような内容になりますね。王に誉れを、王国に繁栄を授けたまわんことを。不足ですか」

「不足どころか。そもそも、そんな祈願では駄目だ、とエサディル王は仰せなのだよ。王たるものが神々に哀れっぽく恵みを乞うなど、迷信の時代の残り滓だ、とな。真に前時代的なのは誰か、鏡を見ていただきたいものだ」

 辛辣な笑みと投げやりな怒りで、紺青の声が針のように尖る。それをまともに胸で受けたタスハは、息を詰まらせた。

「待ってください、それは……それはつまり、私に、神々を貶めよと言うのですか」

「寛大なるエサディル王の慈悲によって、新年の祭儀を執り行い神々を祀ることがかなう、ありがたく感謝つかまつる、御代永からんことを、といった具合に称えるよう例文付きで勅令が届けられた。ご入り用なら写しを作らせよう」

「無理です!」

「だが、やらねばならぬ」

 動揺のあまり反射的に拒んだ祭司に、総督はにべもなく応じる。二人の視線がまともにぶつかり、せめぎ合った。

「文言は貴殿の良心が許す程度に工夫し、婉曲にして構わない。だが新年祭の様子は確実に王の耳に入ると心しておけ。町に犬が潜んでいるのは間違いない。正体を暴こうとしてはいるのだが、そもそも誰が犬かを割り出せたところで狩るわけにもゆかぬし、一匹だけとも限らんのではな」

 イムリダールは低い声で早口に告げた。タスハが唇を噛んだまま承服できずにいると、彼は口調をいくぶん和らげた。

「なにも、王こそが神々に力を与えている、などと逆転させる必要はない。ただ、神々が王に対して祝福や長寿を授けるといった直接の関係を出さず、王のおかげで神殿も安泰だと感謝すればそれでいい。玉座を蹴飛ばしそうな奴を血眼になって探している王が、この町は無視していい、と判断する程度におべっかを使うのだと思ってくれ。屈辱だろうが、災いを避ける方便だ。……従わなければ恐らく次は、より強圧的な命令が届くぞ」

 それきり、深い沈黙が降りる。総督として譲歩し警告してやれるのはここまで、という一線だ。鉛のように重い痛苦に満ちた数呼吸の末に、ようやくタスハは「承知いたしました」との返事を絞り出した。

 説得が成功したと見て、イムリダールがあからさまに安堵の息をついた。そういうところは、彼も正直だ。老獪な総督であれば、決して本心を悟らせはすまい。ずっと『総督』あるいは『ジェハナの兄』としてのみ捉えていた青年の、素のありようを見た気がして、タスハはいささか新鮮な気分になった。

「わざわざご自身で伝えに来てくださって、ありがとうございました。元の命令は正確にどんな文言だったのですか」

「知らない方がいい。王に感謝する気が失せるから」

「……都でまつりごとに力を及ぼせたら、と願っておいでのようですね」

 青年の苦笑いに込められたやるせなさを見て取り、タスハはそっと探りを入れる。イムリダールは率直に応じた。

「私が戻っても王に目通りすらかなわぬだろうよ。兄上や父上にお供しているのでない限りはな。父上がよく言っていた。権力の中枢に入れば目も耳もまともに働かなくなる。あらゆる事柄は、己と己の派閥に利するか否か、金がどう動くかで計られる。権力に手の届かない者の方が、正義や公平の欠落をまともに目にするのだが、その不平不満は羊の鳴き声にしかならない。皮肉なものだ、とな」

「まるで、都や王の周辺にはまともな人材がいないかのようなおっしゃりようですね」

「良質な材はあるさ、腐った材の方が多いだけで。ワシュアールの都は今や世界の富が集まるところだ。優れた人材もまたしかり。だが甘い蜜を吸いたいだけの蠅もわんさとたかってくる」

 そこまで言ったところで、彼の唇をふっと自嘲がかすめた。口の中で何事かつぶやいて、わずかに首を振る。タスハは敢えて尋ねはしなかった。

 ジェハナの兄たる彼もまた、同じく家名の重みや人脈のしがらみに息苦しさを感じる時があるのだろう。この若さで総督の地位を得たからには、相当に苦労もしたろうし、将来も期待を負わされているに違いない。

 タスハのまなざしに礼儀正しい関心が込められていると、イムリダールも気付いたのかどうか。やや照れくさそうな表情になって一礼した。

「時間を取らせてしまった、申し訳ない。今日はこれで失礼する。さきほども言ったが、文言の草案が欲しければいつでも総督府に来てくれ。……ああ、ジェハナに言付けてくれても構わないが」

「せいぜい知恵を絞ってみましょう。お帰りになる前に、祭殿へ寄って行かれませんか」

 さりげなく誘うと、途端にイムリダールはややこしい顔になる。思わずタスハは苦笑した。

「祈られずとも結構ですよ。美術あるいは文化的な観点からでも、一度ゆっくりご覧になってはどうかと思ったのです」

「それならば」

 苦汁を飲ませた後だという負い目もあってか、イムリダールは譲歩し、タスハに先導されて礼拝室に上がった。都の神殿に比べたら質素でしょうが、とタスハが謙遜すると、彼はあっさりうなずいた。

「このぐらい質素であれば、金の出所はどこだと要らぬ詮索をしなくても済むな」

 思いもよらない感想に、タスハは目を丸くした。改めて祭殿を見回すと、まるで初めての場所のような気にさせられる。

「なるほど。総督の視点というわけですね」

「同じ時、同じ場所に立っていても、隣にいる者がどのように世界を見ているかは知りようもない。私はこれらの神像を見ても敬虔な心持ちにはならないし、祈れば御利益があるとも思えない。ただまぁ、少し修繕費用を出す必要は感じるが」

 言葉尻でおどけ、イムリダールは柱の塗装が剥げたところを軽く引っかく。タスハは目をそらして返事をごまかした。毎日そこで暮らしていれば、みすぼらしさも当たり前になってしまう。かつては鮮やかだった彩色が褪せて剥げているのも、聖域を仕切る柵があちこち欠けているのも、漆喰壁の隅に走るひびも。

「祭司殿。私は確かに不信心者で、神殿があまり強い力を持つことを望まない。だが住民の心の平穏を保ち、良識や教養を培う場として価値を認めている。だから、要望があれば遠慮なく伝えてくれ。応じられるとは限らないが、建物の修繕や祭礼にかかる費用については相談に乗ろう。我々ばかりが貴殿に犠牲を強いるのは本意でない」

「これほどの貧窮に甘んじているのは見るに堪えない、と仰せですか」

 タスハはちくりと皮肉を返したものの、穏やかに続けた。

「ジェハナ殿と同じことをおっしゃる。ですが私は、あなた方の犠牲になっているとは感じておりませんよ。時勢のもたらす変化はやむなきこと。私はただその中において、神殿にとって最善と思われる道を模索しているだけです。ご厚意には感謝いたしますが」

 心を込めて丁寧に頭を下げた彼に、しかし、相手は渋面で黙り込んだ。不意に気詰まりになり、タスハは当惑する。ややあってイムリダールは視線を合わせず唸った。

「ジェハナが何を言ったと?」

「犠牲にされるのが当然だと考えるな、たまには自分の望みを言え、と。ああご心配なく、彼女はワシュアールの導師という立場をわきまえていらっしゃいますよ」

 神殿に傾倒していると誤解されないよう、タスハは念を押しておいた。書庫での出来事を思い返すと心が温かくなり、口元がほころぶ。

「真面目で情が篤く、それゆえ不公平が許せないのでしょう。良い妹御ですね」

「まさにその気質ゆえに、兄としては苦労させられる。貴殿は……いや、なんでもない。そろそろ失礼する」

 イムリダールは不穏な疑念の宿る声音で言いかけ、思い直して踵を返した。タスハが見送りに出ると、総督は会釈だけして帰路につき、ほんの二歩で止まった。突然道を見失ったように、己の爪先に目を落として立ち尽くす。

 まだ何か言いにくい用事が残っているのか、とタスハは眉をひそめて待ち受けた。案の定、くるりと向き直ったイムリダールはひどく苦い顔をしていた。

「祭司殿。突然おかしなことを尋ねるが、貴殿は妻帯する予定がおありか」

「は?」

 まさに唐突な質問だ。タスハはぽかんと聞き返し、答えに詰まった。だが相手はそれ以上の説明をしない。仕方なく、彼は歯切れの悪い返事をした。

「今はそういった予定はありません。独身の定めがあるわけでも、誓いを立てたわけでもありませんが」

 そこまで言い、さらにイムリダールの眉間が険しくなったのを見て推測する。

「結婚すべきでないとの忠告ですか? 今後は祭司の立場は悪くなる一方だから、家族など持つな、と」

「……私からどうしろとは言えない。だが、そのことをわきまえていてもらいたいと願っている」

 卑怯で勝手な言い分とは承知している、しかし黙って飲み込んでしまえなかったのだ、と声音が語る。タスハが凝視すると、彼は顔を背けて今度こそ決然と立ち去った。

 残されたタスハは寒々とした風に心の中まで冷やされて、肩をすぼめ我が身を抱いた。

(祈らねば)

 アータルの聖火に薪を加え、供物を捧げて、先行きに落ちる暗い翳を祓うだけの光を乞わねば。

(わかっている。私には高望みなのだ、それはとうにわきまえている)

 祝福され望まれる結婚だとか、妻と子供のいる幸せな人生だとか。身に余る願いだとわかっている。だがせめて神殿の存続を祈り、ウズルとマリシェが良き夫婦となれるように願うぐらいは。

 タスハは無意識に歯を食いしばり、厳しい表情で祭殿に戻っていった。


「そんなむちゃくちゃな!」

 夕食時に話を聞いたウズルが、開口一番叫んだ。

「ワシュアールの王は、自分が神になったつもりなんですか? いにしえの英雄たちだって、神々の加護と力添えあってこそ悪魔に勝利できたっていうのに!」

 木匙をへし折りそうな剣幕で憤慨する少年神官の横で、シャダイも同じく怒り顔でうなずいている。タスハは二人にしばらく時間を与えた後で、慎重に口を開いた。

「恐らく王は、神々をまったく信じていないのではないかな。王にとって我々神官とは、神々と人の仲立ちをする者ではなく、ただの役人と大差ないのだろう。暮らしが円滑に進むように行事を司り、人々の心を安らがせる、ある種の……役所のような」

 畏れ多くも総督様が認めてくださった『神殿の価値』とは、そういうものだ。タスハはイムリダールの言葉を思い返して、辛辣な皮肉が出かかったのを堪えた。

「だからこそ、わざわざ王の権威権力を知らしめる命令を下されたのだ。神殿の上にいるのは神ではなく、王である、と言うために」

「そんなこと……信じられない」

 愕然としたまま、ウズルはつぶやいて首を振った。シャダイは匙でスープの豆をぐるぐる泳がせてから、たまりかねて師に問うた。

「これからずっと、ですか。いつか僕が朗詠を受け持つ日が来たら、神々ではなくワシュアール王を称えなきゃならないんですか」

「さあ、どうだろう。おまえたちが一人前になる頃には、王も代替わりしているのじゃないかな。まともな王になっていることを祈るとしよう」

「愚かな王には、じきに天罰が下りますよ」

 憤懣やる方なしのウズルが吐き捨てるように言う。タスハは嫌な役回りだと思いながらもたしなめた。

「それは神々が決められることだ。彼の王が人としての分際を思い出す程度に懲らしめられたら良いと願う気持ちは、私も引けを取らないがね。我々は我々の手が届くところで努力しようじゃないか。つまり、神々への崇敬を損なわぬまま、王の疑いと怒りを避けられるよう、言葉の棹を操って時流を乗り切るのだよ。……不満かね、ウズル」

 少年は唇を噛んでうつむいている。不満でないはずがない。だが彼はそれを口に出しはしなかった。

 その日以来、ウズルはめっきり口数が少なくなった。冬至祭での衝突があってから少しずつ考え込む時間が増えてはいたが、今ではもう、かつてのよくしゃべる少年とは別人のようだ。

 師に黙って何をしているのか、町へ降りたら帰りが遅れるようになった。マリシェのところに寄っているのだろうとタスハは大目に見ていたが、次第に度を超すようになってきたので、買い出しなど簡単な使いはすべてシャダイに任せた。すると今度は、タスハの目を盗んでこっそり神殿を抜け出しはじめたのだ。

 それとなく水を向けてわけを話すように促しても、ウズルは秘密を明かさなかった。しかしその態度は決して反抗的でも、ふてくされてもおらず、師を見限った気配もない。

 だからタスハも、強いて聞き出さなかった。

(そういう年齢だからな)

 もう十八歳だ。マリシェとの結婚を本気で考えているのかもしれないし、彼なりに自身と神殿の将来について算段してもいるのだろう。

 日々のつとめは欠かさずおこなっているし、祈りにも真摯さが増したようだから、心配はあるまい。

 タスハはそう判断して、自分の悩み事に集中した。新年祭が間近に迫っていた。

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