四章 冬

冬を占う


   四章 冬



 一日また一日と昼が短くなり、朝晩の冷え込みが厳しくなってゆく。吐く息が白くなって、蒼穹の調べも音色を変える。

 しんしんと冷える神殿の聖域で、タスハは聖火に向かい合っていた。祈りの文言を唱えつつ金属皿に殻付きの豆を六粒載せ、小さな火挟みで炎にくべる。

「……力強き火のアータルよ、氷の魔物に打ち勝ち大地を守りたまえ……」

 つぶやきながら、深く己の内を意識し、心を静めて神々に呼びかける。ゆっくりと、暗い水に沈んでゆくように。

 ややあって、パチンパチンと殻がはぜはじめた。それに伴って、タスハの内でも火花が光る。路に刻まれた『知恵』の標が反応しているのだ。その是非について考えるまいと気をそらし、彼はただ、もたらされる直観を間違いなく丁寧に掬い上げた。

 皿を取り出して豆の様子を見る。殻に入ったひびや開いた隙間、焦げ目の模様をじっと見つめるうちに、不思議なことだが、それらのしるしが語りかけてきた。

(いや……不思議でもなんでもないのだな。これが、ウルヴェーユの……内なる路に宿る知恵によるものならば)

 ほろ苦い諦念。だが手段が何であれ、未来を占うことは重要だ。

 祭壇に置いた皿を睨んで考え込んでいると、街に降りていたウズルが帰ってきた。ジェハナも一緒だ。おや、とタスハは眉を上げた。

「お帰り。何かあったのかね」

 弟子に声をかけてから、ジェハナには目礼する。裁判の後、どうも避けられているようだから、こうして彼女の方から訪ねてきたのは特段の事情があるのかと推測したのだ。しかも薄い箱型の鞄を提げている。何かの道具入れのようだ。

 ウズルは買い物を床に置いて神像を拝んでから、いつもの快活な口調で答えた。

「たまたま行き合ったんです。下では今、総督府の人たちがウルヴェーユを使って、寒さを防げるように建物の壁に模様を描いているんですよ。ジェハナ様は神殿にもどうかとおっしゃって」

 すらすら説明されると同時に、タスハはつい今まで辿っていた路が微かに震えるのを感じた。ジェハナに目を向けた時には、それがどういったわざであるのか、彼にはもうわかっていた。

「すべての建物に術を描くのですか? しかし、カトナでは冬に雨や雪も降りますよ」

 詞と色を結びつけて適切な紋様を描けば、消えるまでは効果が持続する。この場合は壁の断熱性を高める術を込めるのだろう。

「薄れて消えたら、また描き直しますから。この土地の気候にはどの程度の術をかけるのが適切か、まだわかりませんし……ひとまず希望する方の家だけを対象に」

 ジェハナはどことなくよそよそしい、事務的な態度で応じた。冷淡というのではなく、なんとなくばつが悪いのを取り繕っているような雰囲気だ。そこへウズルが楽しそうに口を挟んだ。

「術はともかく、気分は明るくなりますね。単調な漆喰壁に色とりどりの模様が踊って、いい感じですよ。タスハ様も、見物に降りられたらどうですか」

「ああ、どちらにしても後でハドゥンのところへ行かなければならないし、楽しみにしていよう」

 タスハは弟子に答え、ジェハナに目を戻した。うつむきがちに唇を噛むその表情から、事情を察する。

「カウファ家には断られましたか」

「はい。カウファとツァルム、それに両家とかかわりの深い家からは、突っぱねられました。……余計なお世話だと」

 そこまで言い、彼女は不安を隠さぬまなざしでタスハの反応を窺った。神殿も――あなたも拒みますか、と無言の問いかけが届く。まともに目を合わせると動揺しそうで、タスハはさりげなく顔を背け、豆の皿に気を取られているふりをした。

「私からどうしろとは言えませんが、後で話し合っておきましょう。特にカウファ家には生まれたばかりの赤子がいるし、安産だったとはいえ奥方も大事を取るべきです」

 もっともシャスパにしてみれば、いっそ死産にでもなった方が嬉しかったようだが。産後の清めと祝福に訪れた折、奥方が見せた不機嫌な顔を思い出す。楽な出産で元気な男児とくれば喜ばしいはずなのに、彼女は確かに、ちっ、と舌打ちしたのだ。総督府の連中は悪魔だ、と非難攻撃する強力な証拠が得られなかったから。さりとて、今さら凍えて病に伏したいわけでもあるまい。タスハはこの後の訪問を考えて憂鬱に言った。

「寒さを和らげられるのなら、その方がいい。この冬は厳しくなるでしょうから」

 ウズルがはっとして、急いでそばに寄って皿を覗き込む。未来のしるしを読み取ろうとしている少年に、タスハは複雑な思いを抱いた。豆のはぜ方と気象に関連があるわけではないのだと、教えてしまったらどうなるのだろうか。問題なのはひびの形ではなく、それらを見つめるうちに呼び覚まされる標の知恵なのだ、と。

(この占いをするのも、私の代で終わりかもしれないな。きっとウズルなら、豆を煎るような手間をかけず、最初から路を辿り手がかりを探して、気象の変化を予測するだろう)

 だが口に出しはせず、彼はジェハナに向き直って話を続けた。

「申し訳ないが、祭殿に術は必要ありません。祈りの妨げになりますので。ただ、住まいの方は何箇所か施していただけますか」

 途端にジェハナは、ぱっと笑顔になった。思わずくらみそうになったタスハは、急いで足を踏ん張る。彼の動揺に気付かず、ジェハナは嬉しそうに頭を下げた。

「ありがとうございます。せめて教室に使う食堂だけでもお願いできないかと、考えていました。ほかにもどこかご希望ですか?」

「お礼を申し上げるのはこちらですよ。ウズル、おまえの部屋に描いてもらいなさい。隣も忘れずにな」

 弟子たちを気遣うタスハに、ジェハナは怪訝な顔をした。

「あら、ご自身のお部屋は」

 言いさして息を飲み、いきなりかぁっと赤面する。その反応にタスハは驚き、次いで彼女と同じことを思い出して、こちらもまた頬を染めた。いつぞやの、殿方の部屋を詮索するなど、といった会話がよみがえったのだ。

 彼はいたたまれずそわそわしながら、しどろもどろに言葉を押し出した。

「いや、私の部屋はそれほど、寒くないので」

「そ、そうですか、あの、……すみません」

 揃ってもじもじする二人をウズルは胡散臭げに眺め、大きなため息をついて呆れ顔で首を振った。

「師を差し置いて、弟子だけぬくぬくするわけにはいかないでしょう。まったく……いいじゃないですか、タスハ様も温めてもらえば」

「ウズル!」

 明らかに艶めいた含みを持たせた弟子に、タスハが叱声を飛ばすのと、ジェハナが真っ赤になって逃げ出すのが同時だった。動転した足音が走り去る。タスハは強いて苦々しい顔をつくり、頬の熱が引くのを待って、弟子に説教した。

「口を慎みなさい、ウズル。ジェハナ殿は名家のお嬢様なのだから、ああいうからかいは侮辱になるぞ。……なんだその顔は」

 ウズルは反省するどころか、かつて師に見せたことのない変な顔をする。そこにはありありと、あなたは馬鹿ですか、と大書されていた。

 タスハは見えないふりを決め込み、厳しい態度を崩さず睨みつける。生意気な弟子は、言いたいことは山ほどあるんですけどね、と表情で物語ってから、形ばかり謝罪した。

「すみません、つい調子に乗りました。……冗談はともかく、なぜ断ったんですか? 確かに、私とシャダイの部屋よりタスハ様のお部屋は暖かいですけど、どうせついでなんだから」

 そこまで言って、ウズルはやっと真顔になった。一呼吸置き、外に人の気配がないのを確かめてから続ける。

「そんなにウルヴェーユが嫌いなんですか。本当は、邪悪な魔術だと考えていらっしゃるんですか」

「……そういう問題ではないんだよ」

 まるきり答えをごまかす卑怯な大人だな、と自覚しながら、タスハは時間稼ぎの返事をした。案の定、ウズルは不服をあらわにする。タスハはちょっと待てと言う手振りをし、三柱の神像に向き合った。ゆっくりひとつ深呼吸して、慎重に言葉を紡ぐ。

「単純な好き嫌いや善悪のみで判断できる問題ではない。私にとっては、信仰と魂にかかわることだ……私自身、はっきりと言葉にして説明できるほどには、この問題を理解できていない。真実が何であるかもわからない。おまえは一度ウルヴェーユが『悪しきものではない』と納得したら、後はたやすく受け入れているようだがね」

 彼は弟子に温かな微笑を見せた。そのことを責めているのではない、むしろそれで良いのだと認めるしるしに。

「祭殿に術を施さないよう断ったのは、おまえも納得できるだろう?」

「……はい。術に込められた音や色が、祭儀や祈りの時に、路に響いてしまうから……ですよね」

 でも、と続けたいのが窺われる声音と表情。それの何が悪いのか、祈りながら色と音を意識し路を辿れば良いではないか――弟子のそんな声が聞こえるようだ。

 タスハは黙ってウズルの肩をぽんと叩き、それ以上は説明せず、黙って出ていった。彼が何も疑問に思わないのならば、どう言ったところで伝わりはしない。タスハ本人さえ、己の感情とつまずきを明瞭に把握できていないのだから。

 刺すような風を浴びて首を竦め、彼は冬空を見上げた。薄青色の彼方から届く、微かな音。目を閉じると、遠い鳥の声にうっすらと緑を感じる。

(そもそも、ウルヴェーユとは何なのだろう)

 色と音を用いて内なる路を辿り、刻まれた標を読み解き、《詞》によって理の力を行使するわざ。いにしえの遺産。その説明は恐らく正しいのだろう。だがあくまで表面的な説明にすぎず、根本の原理には触れていない。

(あの占いも……どう考えたら良いのか。神々の啓示ではなく、単に私が内なる標を無意識に辿り、必要な知恵を参照して未来を予測したのだとすれば……それは、ただの人智ではないのか)

 以前ジェハナが、自分ならこうすると言った、情報を集めて理性で進むべき道を選ぶことと、何が違うのだろう。標を辿っていにしえの知識を開く時、神の手が意識を導いてくださったと信じても良いのだろうか?

 彼女の意見を聞きたくなって、タスハは急ぎ足に居住棟の方へ回った。

 ジェハナは食堂の外で、壁に向かい合っていた。足元に道具箱を広げ、小さく歌いながら刷毛で白い絵の具を壁に塗っていた。

 町の建物の多くは、日干し煉瓦を積んで漆喰や泥で塗り固めたものだが、神殿は違う。祭殿は石積みだし、居住棟の方も焼成煉瓦に漆喰、部分的にタイル装飾も施されている。模様を描ける空いた部分を、白い下地で整えているのだろう。

 タスハは邪魔しないように、離れたところで足を止めた。つぶやくような《詞》が、旋律に乗って届く。彼の路が共鳴して震えた。

 じきに白を塗り終え、ジェハナは次々と筆を取って鮮やかな色を走らせはじめた。力強く踊る赤、鋭く冴える青。

「《炎と氷 触れてはならぬ》」

 優しい声が、普段の色とは異なる術の色を載せて詠う。タスハもまた、同じ《詞》を自らの内に見出していた。術の構成が自然と理解され、彼の路でも色と音が紡がれてゆく。

「《炎は熱く 氷は融けず》」

 ジェハナが詠い、音と詞の結びついた色が壁に定着する。美しい白銀の響きが術を結ぶと同時に、タスハは我に返ってぎくりとした。いつの間にか、唇を小さく動かしていたのだ。まさか無意識に術を使ってしまったのではないか、と恐れに身を硬くしてジェハナを見守る。

 だが彼女は何も気付いていなかった。壁に手を当ててもう一度術を確かめ、うん、とうなずいて筆をしまおうと振り向いたところで、やっとタスハを認めた。びっくりしたはずみに筆を取り落とし、慌ててしゃがむ。タスハも急いで歩み寄り、こちらへ転がってきた一本を捕まえた。

「すみません、驚かせましたね。術の邪魔をしたのでなければ良いのですが」

 言いながら筆を差し出し、道具箱の中身に目を奪われる。ほう、と嘆声が漏れた。ウルヴェーユの基本六色の絵の具が箱に整列し、対応する音を静かに響かせているのだ。

 まばゆい白銀、血潮の赤、生い茂る草木の緑。果てなき海原の青、輝く黄金、遙かな宇宙の紫――

「なんと美しい。ウルヴェーユに用いる特別な絵の具ですか」

 彼の素直な感動に、ジェハナも「はい」と嬉しそうな声を返した。

「あらかじめ顔料に対応する音を固定してあるので、あとは術に応じて《詞》を重ねがけすればいいんです。普段は乾かしてあるので、使う前に水で溶かさなければならないんですけど。年少者はこの六色の絵の具と鉦を使って、路を辿っていくんですよ」

 言って、指先を軽く絵の具に浸す。

「《白雪 血潮 萌ゆる草》」

 一声、一色。詠いながら順に指を染める。響く色にあわせてタスハの脳裏にも、鮮やかな光景が浮かぶ。

「《海原 麦の穂 遠き宇宙

  巡り廻せよ 百歳 千歳

  果つることなき 時の果つまで》」

 柔らかな余韻を残して詞がゆっくりと消える。タスハはこのわずかな間に、まるで魂だけが世界を隅から隅まで、時の始まりから終わりまで旅したような、遠大な感覚に陥って茫然とした。

「この歌は……いったい」

「いたしえの人々が遺したものを、わたしたちの言語に置き換えたものなんです」

 手巾で指先を拭いながら、ジェハナは当然のように言った。絵の具の瓶にしっかり栓をして、道具箱を片付ける。

「祭司様は、『神の指先が触れた場所』をご存じですか。土地によっては別の名前で、聖域や禁域とされていることもある、不思議な森、あるいは木立」

「聞いたことがありませんね。神殿の記録にある、聖なる森のことでしょうか?」

「おっしゃっているのがどういう場所か存じませんけれど、古い石柱や碑が近くにあるなら、そうかもしれません。そういった土地では、理の力が地上に近いところまで迫っているんです。原因はまだ解明されていません。ひょっとしたら自然に生じる現象で、どうしようもないのかも……『最初の人々』も解決できなかったようですから。彼らはただ、この泥土の地上が世界の根に食い破られないよう、封印を施しました。ならぬ、と強く封じると共に、先ほどの歌を巡らせて」

 いつになく饒舌なジェハナに、タスハは無難な感想を述べた。

「不思議な歌ですね。まるで……ほんのつかのまに、世界のすべてを見て回ったような気がしました」

「ええ。あれは個人の路を通して力の流れを淀みなく整える詞のようです。元々はいにしえの言語で紡がれていたのですが、ウルヴェーユの再発見と共にこの歌も」

 そこまで聞いて、タスハは堪えきれず失笑した。小首を傾げた彼女に、彼は「失敬」と詫びつつも面白がってしまう。

「ウルヴェーユのことになると、実に楽しそうですね」

 途端にジェハナは赤面し、あたふた謝罪した。

「ごめんなさい! すっかり一人でしゃべってしまって」

「どういたしまして。夢中になれるものがあるというのは、良いことです」

 きっと都の大学でも、こんな風に目を輝かせて学んできたのだろう。それが天文や歴史といった学問ではなく、信仰と相入れぬウルヴェーユであったのは、少し残念だが。

 タスハは立ち上がって壁の色彩を眺め、そこから聞こえる微かな調べを指でなぞった。壁の内と外で熱を遮断する術。

「隔てよ白土……」

 ぽつ、と独りでにつぶやく。《詞》にはせず、ただ表面的な語句として。

 ジェハナが息を飲み、目をみはる。彼は振り向かず、壁に拳を押し当てて唇を噛んだ。知っている。このわざも、必要な詞も、その組み合わせも。別のやり方でさらに応用が利くことも。全部、己の魂にはじめから刻まれている――

 彼はひとつ息を吐くと、真剣な面持ちでジェハナに向き合った。

「この冬は厳しくなりそうだと言ったのは、卜占の結果そのように確信されたからです。ジェハナ殿、これは私が標を辿ったからですか。いにしえの『知恵』を手がかりに未来を予想しただけで、神々の示唆ではないのだとしたら……その予想を、どこまで信じて良いのでしょう」

 投げかけられた疑問に、ジェハナは戸惑った様子で返答に詰まった。タスハは彼女が何を考えているのか察し、続けて言う。

「むろん、あなた方にしてみれば、いにしえの知恵によって導かれた予測こそ信頼すべきで、神々のお告げなど根拠のない当てずっぽうだ、というのでしょう。しかし本当にそうでしょうか。知恵は、知識は、絶対なのですか。標を辿ることが人智の活用でしかないのなら、私には、神のお告げの方がよほど信じられる。それこそ、小石を投げて行き先を決めるように」

 衝撃、とはまさにこれだろう。ジェハナは目と口をぽかんと丸く開いたきり、声を失った。タスハは意図せず意趣返しを果たしたことに気付いた。我々が信じてきたものをひっくり返しておいて、自分たちの常識や信念だけは盤石だとでも思ったか、と。むろん勝利ではないし、愉悦も感じない。どんな考えも、当然も、いつ覆されるか知れないのだ。

 しばしジェハナは啞然となっていたが、ややあって難しそうに考えながら唸った。

「確率の問題でしょうか。わたしたちはむろん、いにしえから受け継がれてきたこの『知恵』に信を置いていますけれど」

「あなたの意見を聞きたい」

 タスハは強い口調で遮った。今までにない態度に、ジェハナがまた絶句する。彼はそこへ畳みかけた。

「総督や医師殿に訊ねたなら、さも当然と答えることはわかっている。あなた方の常識がどちらを支持するかも。だがそうではなく、あなた自身の考えを聞きたいのです、ジェハナ殿。私の信じていた神の啓示が、標を辿って得た直観であるとしても、そこへ意識を導いたのは神の手かもしれない――あなたはそう言った。だからこそ」

 挑むように、鳶色の瞳を真正面から見据える。当惑と驚愕に彩られていた双眸が、やがて理解と受容の光を浮かべ……柔らかく細められた。

「宿題にして頂けますか」

 手強く明晰な論が来るものと身構えていたタスハは、拍子抜けした。そんな彼の反応にジェハナが肩を竦める。

「さすがに今すぐには、考えをまとめられません。神のお告げの方がまだ信用できる、という言葉をどうにか納得したばかりですもの。ええ、おっしゃることは解ります。解るつもりです。だからこそ、しっかり考えてみなければ」

「ああ……そうですね。すみません、単純明快な即答が得られる問題ではないのに」

 性急だったと恥じ、タスハはぎこちなく低頭した。ジェハナはおどけて「どういたしまして」とつい先ほどの彼の台詞を返した。

「どちらにしても、冬の備えはしておくに越したことはありませんけれど。ハドゥン様にはよろしくお伝えください」

「ええ、それはもちろん」

 タスハが気を取り直してうなずくと、ジェハナは安心したように小さく笑った。

「さっきのわたしではありませんけど、タスハ様も、疑問に思うことについては随分熱心になられますね。いつも穏やかに話されるのに、とても強い口調で驚きました」

「……っ、すみません」

 頬に血が上り、熱くなる。タスハは恥ずかしさのあまり手で顔を覆った。耳をくすぐるジェハナの声に、背骨を溶かされてしまいそうだ。

「わたしの意見を求めてくださって、ありがとうございます。信頼して頂けて、……導師として誇らしく思います」

 感動に胸を詰まらせたか、言葉が途切れる。一呼吸置いて、彼女は慎重に切り出した。

「実は、わたし……この町での任期は一年か二年で終わるのですが」

「えっ」

 タスハはぎょっとなった。そんなにあっさりと、短期間でいなくなってしまうのか。

「もちろん、然るべき理由を添えて申し出たら、延長は認められます。でも生涯ずっと、とはいきません」

「そう……でしたか」

 そんな仕組みになっていたとは。任期があることすら考えてもいなかった。タスハは肩を落とし、早くも習い性で諦めを抱く。彼女は役人でもあるのだ、国の定めに従うのは当然で致し方ない。

「でもわたしは、気が進まないんです。大学に戻ってひたすら術の研究に打ち込むのも、この町のことを終わったものとして次の町へ向かうのも、……あるいは導師の資格なんて何の関係もなく、どこかの家に嫁ぐのも。だから、両親に手紙を送って相談しました」

 ジェハナの声音がほんのりと明るくなる。まるで、後ろ手に持っているとっておきの贈り物を、隠しておけなくなったかのように。

 困惑するタスハに、彼女は笑顔でそれを差し出した。

「総督府専属導師の権限はなくなってもいい、この町に残って仕事を続けたい、と伝えたんです。つい先日、返事が届きました。気が済むまでやってみろ、って!」

 言葉尻でとうとう歓声を上げ、ジェハナはぴょんとその場で跳ねる。タスハも安堵と驚きでややこしい顔をしながら、喜びを抑えきれずほっと笑みを広げた。

「ああ、……ありがたいことです。あなたがいて下さるのなら、これほど心強いことはない。ギムランのことがあったので、もうこんな……野蛮な町には、嫌気が差されたかと恐れていたのですが」

 気を緩めると嬉しさのあまり泣きそうだ。彼はしきりに瞬きして、目が潤むのをごまかそうとした。良かった良かった、と何度もうなずいて祭司らしい態度を取り繕う。

 ジェハナも、さすがに飛び跳ねたのは恥ずかしくなったらしい。弾む声を落ち着かせながら言った。

「両親からは忠告もされました。今はやりがいだけを感じているかもしれないが、長く続けたらいずれ嫌なことも、失望することもある。その時になって、今の選択を後悔しないように、と。でも、先のことなんてわかりませんものね? その時はその時です。……タスハ様、わたしは導師として、人として、とてもお話にならないぐらい未熟だと自覚しています。でもそんなわたしの意見を、あなたは求めてくださった。本当にありがとうございます」

 深々と頭を下げた彼女に、タスハの方が慌ててしまった。

「いや、感謝するのは私の方です。顔を上げてください。あなたが神殿を尊重し、信仰にも理解を示してくださったからこそ、私も、町の人々も、あなた方を異教徒の侵略者だとして敵視することなく受け入れられたのですから」

「お忘れですか? わたしはこの町に来るまで、あまり神々に敬意を持たない、ごく普通のワシュアール人だったんですよ。……祈りの美しさと意味を知ったのは、あなたのおかげです。だからこそ、中途半端で立ち去るのではなく、長く留まりたいと願ったんです」

 ジェハナはまだ何か言おうとしていたが、タスハは聞いていられず、真っ赤になって手振りで制した。

「ご容赦を。そんなに持ち上げられては、自惚れてしまう」

 というか、勘違いしてしまいそうだ。己と共にありたいがために、残留を決めたのではないか、などと。むろんそれも一面の真実ではあろう。タスハが協働しやすい相手だからこそ、ジェハナも、もっとここで成果を上げたいと願うのだ。

(そう、仕事の話だ。恋情とはまったく違う。誤解するんじゃない馬鹿、おまえはただの冴えない中年男なんだぞ。鏡を見ろ鏡を)

 なんとか理性の首に縄をかけて引きずり戻し、咳払いして態度を取り繕う。

「ともあれ、私はこれからハドゥンのところへ行って参ります。あなたも総督府に戻ったら、イムリダール殿に食糧や薪の備蓄を手配するようお伝えください。この予想がどの程度信頼できるのかわかりませんが……過去の経験から言って、占いの結果が大きく外れたことはありませんから。もしかしたら今年は、雪が多いかもしれません」

「雪? カトナでは雪が降るんですか」

「深くはありませんが、ひと冬に何日かは積もりますよ」

 タスハは答え、好奇心もあらわなジェハナの様子に苦笑する。楽しめる程度だと良いですね、と言い置いてさりげなく立ち去った。

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