豊穣祭

     *


 豊穣祭はカトナの一年を通して、最も賑わい盛り上がる祭りである。初夏に収穫した麦はまだ充分あり、厳しい夏を乗り越えて家畜がまた太り、豆や果樹が次々に実る季節。ヒヨコ豆、棗椰子や葡萄、無花果、柘榴。リーニ河の豊かな恵みだ。

 まず神殿の祭壇に、この秋の収穫を少しずつ供えて感謝の祈祷をおこなったのち、広場で焚火を囲んでの祭りになる。何日も前から広場に薪を組み、飾りつけと供物を準備し、女たちは前日から大量のご馳走支度にかかりきりだ。

 総督府の面々はそれに加わることはなかったが、着々と広場が様変わりしていくのはなかなかの見物だった。いよいよ当日の朝、大勢の住民がせわしなく働く広場の隅で、ジェハナとイムリダールは始まりを待っていた。

「憂さ晴らしは結構だが、宴の後のならわしはやめさせないとな……」

 イムリダールは渋い顔で、薪の山を見上げて唸る。横でジェハナも「いずれはね」と苦笑で同意した。

 逢瀬の慣習が風紀上望ましくないということを、短期間で納得させるのは無理だ。とはいえ、初年を逃せば変化をごり押しするのも難しくなる。イムリダールはむっつり不機嫌に妹を睨んだ。

「こんな風習をおまえが容認するとはな。まさか誰かに誘われたんじゃないだろうな」

「ないわよ! 容認もしてないし誘われてもいません!」

 思わずジェハナは赤くなって声を荒らげた。

「いきなりあれもこれも押しつけるのは危険だと言っているだけよ。それにわたしがこの祭りに『お呼ばれ』するわけないでしょう? 行き遅れの魔女ですからね!」

 わざと自虐の罵詈を強調し、忌々しげに口をひん曲げる。イムリダールは咳払いで答えをごまかし、明後日の方を向いた。ジェハナは兄に構わず、ふん、と腕組みして自分に腹を立てた。

(そうよ、決まってるじゃない。どうかしてるわよ、馬鹿の極みだわ)

 タスハが言いにくそうに切り出した時、反射的に浮かんだのは、もしやこれは誘いをかけられるのだろうか、という考えだった。何のことはない、ごくまっとうで親切な忠告だったわけだが。

(そもそも祭司様がそんなことを考えるわけがないでしょう、当日は祭礼を執り行う側なんだし……わたしをそんな風に見るなんて、まさか。あの方からすればわたしなんて、ろくでもない仕打ちばかりする疫病神の小娘じゃないの。教室のために場所を借りて謝礼もほとんど渡していないし、神殿の地位や信仰を揺るがすことばかりして、ああ、嫌われていないのが奇跡だわ!)

 いつも穏やかに親切に接してくれるのが、ただ立場上やむを得ないからだとは思いたくない。些細なことでも羞恥をあらわにする彼に、そんな残酷な演技ができるはずがない。きっとそこには、温かい真心がある。

(……はずよね?)

 ジェハナが一抹の不安を抱いたと同時に、広場の中央でハドゥンが声を張り上げた。

「よぉし、揃った! 神殿へ出発だ!」

 その手には、豆の団子を盛った高坏がある。まわりには他に、パンや果物などを手にした住民がいた。供物を捧げ持った五人ほどを先頭に、受け持ちの仕事を終えた町の人々がぞろぞろと神殿へ向かう。イムリダールは広場に残り、ジェハナは一人で行列に紛れて坂道を上った。誰の顔も楽しげで、期待に輝いている。着ている服も一張羅だ。

(そうか、娯楽が少ないものね)

 自分はこの町に来てから、見るものすべてが新しく興味深くて退屈とは無縁だったが、ここで生まれ育った人間にとっては、ただ当たり前の日常があるだけだ。その視点で考えるなら、確かにカトナはワシュアールの都と違って地味な暮らしぶりだった。

(劇場も競技場もないし、大きな物産展を開く店もないみたいだし)

 折々の祭礼で歌い、華やかな衣装を纏い、その日だけの料理や菓子を食べる。その程度の非日常が楽しみなのだろう。

 やがて行列は神殿に到着し、開け放たれた扉から中に入っていった。待っていたウズルとシャダイが供物を受け取り、祭壇へ運ぶ。ざわついていた人々も神妙な面持ちになり、礼拝室に上がった。

 聖域ではタスハがいつものように静謐な動作で灯明を並べ、香木をくべている。すべてが調うと、彼は奥の神像に向かい合い、深々と頭を下げた。参拝者も同じく黙礼する。

「カトナの守護者、輝く炎のアータルに誉れあれ。ありがたき御恵みにより今年も豊かな実りを賜り、ここに感謝を捧げます。御力のいやまし、この地のなお栄えんことを」

 緩やかな抑揚のついた朗詠が、暖かな黄白色に緑や赤のきらめきを乗せて流れる。まさに神々の元まで祈りを運んでゆくがごとく。自然とジェハナの胸の内にも、感謝の思いが芽生える。無言歌が住民と共に捧げられ、タスハが終了を告げると、場の雰囲気が軽くなった。さぁ、お楽しみの始まりだ、とばかりに。

 タスハが聖火から燃える薪を壺に移し、神殿の外へ持ち出す。その後からわいわいとおしゃべりしながら住民が続く。やがて広場に戻ると、タスハが運んできた聖火で薪の山に炎を入れた。

 最初はゆっくり、そして一気に大きく育つ炎に合わせ、赤、緑、黄の三声と三拍手。燃え盛る焚火を、祭装束の舞い手が輪になって囲む。他の住民はその外から、歌と手拍子を合わせた。

 やや古めかしく厳かな舞が一通り終わると、笛や鳴り物の調子が変わった。軽やかに楽しげに、皆が入れ代わり立ち代わり踊りだす。ジェハナも手拍子を打っていたが、人の輪から外れた祭司の姿を見付けて、そちらへ駆け寄った。

「祭司様!」

 呼びかけると、いつもの穏やかな笑みで会釈を返される。彼の手には聖火を運んだ壺があった。ジェハナは小首を傾げる。

「もう神殿に戻られるのですか?」

「ええ。私たちは神殿でまた祈ってから、供物を下げて調理しますので。どうぞ皆と楽しんでください」

「おつとめご苦労様です」一礼してから、冗談めかして付け足す。「祭司様も踊られるかと思ったのですけど」

 途端にタスハは頬を染めてあたふたした。

「いや、私は……いずれにしても、その、あまり。ご容赦を」

「そうなんですか。でも、ちょっと残念ですね。せっかくお祝いの祭りなのに、神々の恵みを地上に引き寄せた本人が楽しめないなんて」

「祭司とはそういうものですよ。神々との仲立ちをおこなうのですから、皆と同じになってしまうわけにはいきません。ですがまぁ、おかげで見苦しい姿を晒さずに済みます」

 肩を竦めておどけた祭司に、ジェハナもちょっと笑った。

「あの踊りや歌は、今まで見てきた祭礼とは趣が違いますね。なんというか……失礼ですけど、俗っぽい、と言いますか」

「ああ、そうでしょうね。元々広場で歌い踊るのは、神殿に伝えられてきた祭礼とはまた別ですから。恐らく神殿に伝わる儀式祭礼や神話は、大昔……それこそ『最初の人々』がおこなっていたものだったのでしょう」

「興味深いお話ですね。つまり、いにしえの時代には『最初の人々』と、今のわたしたちの先祖と、別々の民族が同じ土地に暮らしていたんでしょうか」

 思わずジェハナは身を乗り出す。タスハも面白そうな表情になった。

「恐らくそうだろうと私は考えています。村に伝わる素朴な舞楽は、ほら今踊っているのもそうですが、歌詞がついていますね。内容にも神々は出てこない」

「曲調も礼拝や儀式の無言歌とは似ていませんよね」

 儀式の時は、ウルヴェーユの基音を辿る旋律が入ることがある。だが今楽しげに跳んだり回ったりしながら皆が踊っている曲は、階調からして違う。その事を言っても良いものかどうか、ジェハナは判断しかねた。すると彼女の配慮を察したかのように、タスハはふと苦笑をこぼした。

「神々を祀る儀式が『最初の人々』のものだと認めるのは、正直に申し上げて気が進みません。単なるウルヴェーユの演奏にすぎない、とは考えたくありませんからね。ですが、彼らもまた神々を崇めていたのだとすれば、その信仰を我々祭司が受け継いでいるとして誇りを持てます。かつての偉大な人々が去った後も灯火を守っているのだ、と」

「……そうですね。真実はもう誰にもわかりませんし。もしかしたら、ずっとずっと西へ旅してゆけば、『最初の人々』の足跡に追いつけるかもしれませんけれど」

 言ってジェハナは、遠く彼方へ憧れのまなざしをやる。タスハもまた西の空を見やり、静かにうなずいた。

「いつか、彼らの遺したものを辿って行きたいものです。その果てに何があるのか、この目で見ることが叶うなら」

 ささやくような声。いつもの黄白色が白い輝きを帯びる。引き込まれるように、ジェハナの喉元まで、わたしもです、との言葉が出かかった。その時、

「タスハ様、こっちは片付きました」

 シャダイの声がして、二人は揃って振り返った。野外用の祭壇を片付けて、帰り支度を済ませた弟子らが遠慮がちにこちらを見ている。

「おっと……すまないな、すっかり任せてしまった。戻ろうか」

 タスハは急いで弟子の大荷物を一部引き受け、ジェハナに挨拶をすると、広場の賑わいに背を向けて歩み去った。

 ジェハナはしばし茫然とその後を見送っていたが、ややあって空腹を思い出し、御馳走の並べられた方へ行った。山盛り用意されていた料理がもう随分減っている。葡萄酒の壺もひとつふたつ、空になっていた。

「よう、先生。楽しんでるかい」

 陽気な声をかけてきたのは、杯を片手に赤い顔をしたハドゥンだった。ジェハナは揚げ団子をひとつ取り、「これからです」とにっこりした。茹でた豆を潰して挽肉などを包んで丸め、揚げてあるのだ。香ばしい匂いに誘われるまま、ぱくりと一口にする。

 豪快な食べ方にハドゥンが大袈裟に驚き、哄笑した。

 しばらくあれこれ食べて腹の虫をなだめてから、ジェハナは葡萄酒の杯を手に、ハドゥンに誘われるがまま広場の隅の腰掛に座った。初めてタスハと出会った時に話し合った、あの場所だ。踊り疲れた面々が、そこかしこに座ってくつろいでいる。

 並んで腰を下ろすと、ハドゥンはふーっと長く一息ついて、おもむろに切り出した。

「ヨツィから聞いたんだが、総督やあんたの任期は一年だって?」

「……はい。でも、多分もう一年は続けられると思います。既にワシュアールの法が定着した地域なら、一年で入れ替わっても支障はありませんけど、初年ですから」

「だとしても、まぁ、ずっとカトナにいるわけじゃないんだな」

 含みの感じられる声音だった。ジェハナは返答に迷ったが、結局、正直に肯定するほかなかった。そうですね、とつぶやくように応じてうなずいた彼女に、ハドゥンはまだ曖昧な表情のまま重ねて問う。

「任期が切れたら、また別のところに行くのか? それとも、故郷に帰って嫁入りかい」

「先のことはまだ、何も考えていないんです」

「ふむ。決まった相手がいるってわけじゃないのか。ショナグ家のお嬢様なのに」

「兄弟姉妹は大勢いますから。それに、昔と違ってワシュアールでは、家同士の縁組に必死にならなくてもいいんです。……奥方様から何か言われたんですか?」

 神殿で罵倒してくれた時の様子からして、きっとシャスパは家でもジェハナのことをこき下ろしているだろう。行き遅れどころではない、多分もっと汚い言葉で。

 渋面になったジェハナに、ハドゥンは苦笑いで「いや」と手を振り、杯を呷った。

「あんたの悪口をしょっちゅうぼやいてるが、今わしが話してるのはそれとは関係ない。不愉快な思いをさせたのは悪かったが、陰口を叩くのはシャスパ一人じゃないし、槍玉に挙げられるのもあんた一人じゃない。誰かを貶めてなきゃ気が済まない人間ってのはいるもんさ。ワシュアールでもそれは同じだろう? この町が格別あんたにとって居心地が悪いってんでなかったら……できるなら、任期が切れてもここで暮らしちゃくれないか」

 思いもよらない提案を受け、ジェハナはほろ酔いも忘れてまじまじとハドゥンを見つめた。さすがに即答しかね、首を傾げる。

「それは、どういうお立場でおっしゃっているのですか? カトナを代表して、ワシュアールの導師たるわたくしに対する要望、……ではありませんよね」

「むろん違う。わし個人の頼みだ。ヨツィはやっとまともになったばかりで、あんたを信頼してる。あんたがいなくなったら、また他人の手を拒むかもしれん。それに……その、なんだ。あー……ほれ。あいつだ。あいつも、あんたにいて欲しいだろうし」

 ハドゥンはもぐもぐと歯切れ悪くごまかそうとする。酔っぱらって名前が出て来ないのだろうか、とジェハナは困惑し、「息子さんですか?」と推測した。ハドゥンは苛立たし気に否定する。

「違う、そうじゃない。だから……えい、本当に気付いてないのか。タスハだよ、わしらの祭司様だ。さっきも話してたろう」

「えっ」

「あいつは昔っから、何でもかんでも譲って、聞き分け良く諦めてきたんだ。自分は捨てられていた身だから、欲しいものを欲しいと言っちゃならねえ、与えられるものだけで満足しなきゃならん、ってな。このままだと、あんたが任期切れで故郷に帰るとなったら、あいつは例によって、そうですか仕方ありませんね、ってな具合に諦めちまうだろう。一年かそこらの付き合いじゃ、あんたもそれがあいつの本心だとしか思えないだろうから、わしがこうして頼んでるんだ」

 早口にまくし立て、ハドゥンはまた杯を傾ける。中身はもう空になっていた。底に残った赤紫の輪を睨み、彼は怒ったように続ける。

「わしがお節介したことは、あいつには言わんでくれ。あいつが実際、どういう気持ちなのかは、本人にしかわからんことだしな。だがともかく、あんたが来てからのあいつは今までになく明るくなった。あいつにはあんたが必要なんだよ」

「…………」

 ジェハナは口をぽかんと開けたまま、何も言えなくなる。ハドゥンは酒のお代わりを取りに行き、そのまま戻って来なかった。

 取り残されたジェハナは立ち上がることもできず、放心していた。何度も何度も、いましがたの言葉が脳裏にこだまする。己が必要とされていること、考えてもみなかった未来への驚き。そして、タスハという人物に対する納得。

(いつも穏やかで、信仰を揺るがされてさえも怒らなかったのは……ずっと、いろいろなことを諦めてきて、その姿勢が変わらなかったからなのね。……そうよね、ただでさえわたしたちは勝者で支配者なんだもの。カトナの人々の多くは、直接戦をしなかったせいもあって、打ち負かされたとは考えていないけれど。でも、あの方は)

 瞑目し、息をつく。気の毒に思う一方で、改めて尊敬の念が生じた。抵抗し戦うことに比べて、諦めは見下されるものだ。しかしその実、諦めて飲み込んで、なおかつ己を失わず立っていることはとても苦しい。

(もしも、本当にわたしが必要とされているのなら。それがどんな形であっても、あの方の力になれるのなら)

 ウルヴェーユと旧来の信仰の折り合いをつけ、町の住民のために共に尽力することが叶うなら。それを彼が望んでいるなら。

(この町に残る、選択も……あるのね)

 不意に心細くなる。家名の重さを苦にしていたくせに、いざ本当にこのまま二度と帰らず異郷に住み暮らすことを考えると、寄る辺を失った不安に身震いせずにいられない。

(任期が終わるまで半年ある。来年もまだ続けられる見込みではあるけれど、しっかり考えてみなければ。お母様にも手紙を書いて相談しよう)

 よし、と決意して空を仰ぐ。もう大分、陽が傾いていた。焚火はまだ勢い良く燃えているが、ご馳走はあらまし食べ尽くされ、踊っている人もまばらになっている。

 そろそろ帰るべきだろうか、と考えて立ち上がり、使った杯をどうすべきかとうろうろしていると、「おやおや」と嫌味な声が飛んできた。

「導師様はお楽しみだったようで。準備も片付けもしないで、飲み食いだけはしっかりしてさ。よそからのお客様は気楽なもんだね」

 むろんのこと、シャスパである。嫌な相手に捕まった、とジェハナは渋面になったが、何も手伝わずご馳走にだけありついたのは事実だ。後ろめたさに加え、まさに〝この町の者〟になることを考えた矢先に〝お客様〟扱いされては、受け流せない。

「ごめんなさい。いつ手を出していいのか、よくわからなくて。今は何かお手伝いできることがありますか」

 素直に謝り、下手に出る。シャスパは疑わしげに眉を上げたが、ふんと鼻を鳴らして顎をしゃくった。

「見ればわかるだろ。男どもが食い散らかした後を片付けるのさ。いつだってあたしら女の役割はそうなってるんだ。ほら来な!」

 横柄な命令にジェハナはむっとしたものの、今さらやっぱり帰るとは言い出せない。飛び火した不機嫌をくすぶらせ、奥歯で文句を噛み潰しながら後についていった。


 数えきれない食器をすべて用水路で洗い、汚れた卓を拭いて、食べ残しやごみをひとまとめにして、ようやく広場がすっきりした時には、もう残照も消えかかっていた。

「やれやれ、どうにか日暮れに間に合ったね。皆、今年もお疲れ様!」

 シャスパがねぎらいの声をかける。せっせと立ち働いた女たちは、互いを称えるように「お疲れ様」と笑顔で声を交わした。ジェハナもその中にあって、自分でも意外なほど充足感を得ていた。こうした雑用をするのは初めても同然なので、何かと手際が悪かったのだが、女たちは皆、てきぱきと横から手助けしてくれた。

「こうすっきり片付くと、気分がいいですね」

 言いながらジェハナは広場を見回し、シャスパに目を戻して丁寧に「お疲れ様でした」と一礼する。やはり好きにはなれないが、彼女の的確な指示や采配は見事だったし、大きな腹を抱えてまったく億劫がらず自らも動き回る、その勤勉さは評価せざるを得ない。

 だが相手の方は、ジェハナに対する態度をまったく変えなかった。

「白々しいおべっかは結構。どうせあんたは、例の魔法を使えばすぐなのに、とでも思ってるんだろ。それより、倉庫であんたのお気に入りが最後の片付けをやってるよ。行ってやったらどうだい」

 つっけんどんに言われ、ジェハナはむっとしつつ夕空を瞥見した。これ以上遅くなったら、面倒事に巻き込まれるかもしれない。だがお先に失礼しますと言える雰囲気ではないし、弟子を放ってさっさと帰ったと噂を立てられたら、後々響く。

 仕方ない。ジェハナは女たちに会釈してから、示された路地に入っていった。

 倉庫、というのは町の行事に用いるあれこれを普段しまってある小屋だ。ジェハナも大鍋や掃除道具などを入り口まで運んだが、マリシェが残って整頓しているのだろう。

「何もこんな暗くなるまでやらせなくても」

 口の中でぶつぶつ文句を言う。《詞》で明かりを灯そうかと思ったが、この暗がりを待ち侘びる男女もいるのだと気付いてやめた。足下を照らすだけのつもりで、余計なものまで光に晒したら大変だ。

 いずれにしても、明かりがいよいよ必要になるよりも先に倉庫に着いた。だがマリシェの姿がない。あれっ、と中を覗き込むと同時に、裏手で人の声がした。

「……ってば! ……なんか、……でしょ!」

「うるせえ!」

 押し殺した不穏なやりとりに、打擲のような音が重なる。ジェハナはぎょっとなってそちらへ急いだ。すぐに声の正体が明らかになる。

「勘違いしてんじゃねえぞ、どうせおまえは俺の嫁になって、がきを産むんだ。おまえなんぞに何ができる。ちょっと学問したからって見下しやがって!」

 ギムランの罵倒、マリシェのくぐもった悲鳴。ジェハナは鉦を抜いて握り、その場へ駆けつけた。

「やめなさい、ギムラン!」

 マリシェを壁に押しつけていたぶっていたギムランが、獣のように唸って振り向く。建物の陰はすっかり暗く、顔が見えない。

「くそアマが」

 露骨で下劣な侮辱は、名家育ちのジェハナには痛撃だった。一瞬怯み、《詞》を紡ぐことを忘れる。その隙に、そこかしこの暗がりが動き、立ち上がった。暴力の予感に興奮した息遣い、押し殺した野卑な笑い、舌なめずり。ギムランの取り巻きの少年たちだ。

 顎をがっちり掴まれたまま、マリシェが涙声を漏らす。

「せんせい、にげて」

「てめえは黙ってろ! ……東の売女め、何もかもてめえのせいだ。てめえが勝手なことを吹聴するせいで、こいつらが勘違いしておかしくなった」

 毒々しい唸りに応じるように、少年たちがジェハナににじり寄る。ジェハナは怒りと嫌悪に歯を食いしばり、一歩下がって鉦を構え直した。ギムランはそれを、恐れからくる防御と見たらしい。下品な嘲笑と共に罵った。

「泣けよ! 這いつくばって泣けよ、許してくださいってな!」

 凶暴な笑い声に押されるように、少年らが前進した――が、しかし。

「《照らせよ月光》」

 キィン、と鉦の一音が響き、ジェハナが詠うと同時に柔らかな光が生じた。いきなり明かりの下に姿を暴かれ、少年らがぎょっと怯む。どの顔も未熟で浅慮な、子供じみたものばかり。そこへ彼女は厳しい叱声を浴びせた。

「自分たちが何をしているか、わかっているの? ワシュアールの導師を待ち伏せて襲ったとなったら、単なる悪ふざけや出来心では済まされないわよ。すぐにマリシェを離してさっさと家に帰りなさい!」

 早くも一人二人、明かりを避けて逃げ込む物陰を探しだす。ギムランが舌打ちし、素早く懐に手を入れた。

「雌犬が吠えたぐらいでびびるな! どうせ何もできやしねえ!」

 怒声と共に腕を振る。投げられた礫が、鉦を掲げる手を直撃した。

「あっ!」

 ジェハナは鉦を取り落し、反射的に拾おうとして屈んだ。そこへ、狼の群のごとく少年らがわっと襲いかかる。あの棒さえなければ魔女のわざも使えない、そう錯覚したのだ。突き飛ばし、のしかかって組み伏せようとした彼らは、すぐに間違いを悟った。

「《嵐よ散らせ》!」

 抑揚を伴った《詞》が竜巻を起こす。突風に吹き飛ばされ、地面を転がり藪に突っ込み壁に激突し、そこかしこで悲鳴が上がる。邪魔者を一掃したジェハナは、唇を噛んで立ち上がった。辱めの手始めに解かれた帯の飾り紐を握り締め、怒りのままにそれをギムランめがけて投げた。

「《縛めよ》!」

 短い一声と共に紐が生き物のようにしなり、ギムランに襲いかかる。

「うわっ! くそっ、なんだこのっ、ちくしょう!」

 身体に巻きつく紐から逃れようとギムランは暴れたが、ジェハナは冷ややかに見るだけで忠告はしなかった。抵抗すればするほど、変な姿勢のまま縛られて余計に痛い目を見るだけなのだが、どうせ大人しくしろと言っても聞くはずがない。

「くそ、うぁぁっ……! いて、いてぇ、解けぇ! ふざけんな、こんなことしてただで済むと思うな、あばずれが!」

 取り巻きの少年は誰一人助けようとせず、散り散りに逃げていく。とうとうギムランは立っていられなくなり、ぶざまに倒れた。ジェハナは腕組みしてそれを見下ろした。

「あなたのご両親は、あなたに何も教えなかったのかしら。それともあなたがまるで聞いていなかったの?」

 失望の苦みが口に広がった。所詮この程度なのか。ワシュアールの支配下に入ることの意味も、己らの身の上に降りかかる変化すらも、この町の住民はまともに考えていなかったのか。

「あなたがどこの何様だろうと関係ない。罪を犯した者は法のもとに裁かれる。それがワシュアールの正義だと、最初に告知したはずよ。もっとも、実際のところあなたは何様でもない、ただの愚かな子供だけれど」

 ジェハナは侮蔑をこめて言い捨てると、マリシェに歩み寄った。少女は壁際に座り込んで我が身を抱き、がたがた震えている。青ざめた頬には殴られた痣があり、唇の端が切れて血がにじんでいた。

「ああ、痛そう。すぐオアルヴァシュ先生に診てもらいましょう。立てる?」

 マリシェは涙ぐんで小さくうなずき、よろめきながら壁にすがって立つ。その表情には明らかに恐怖だけでない、深い後悔が刻まれていた。ジェハナはその理由を同じ女として直感的に理解した。

「あなたは何も悪くない」

 強い口調で断言する。案の定、マリシェははっとして、すがるように師の目を見つめ返してきた。ジェハナは深くうなずき、まなざしに力を込めた。

「こんな扱いをされたのは、あなたのせいじゃない。あなたは間違ってない、何の落ち度もない。絶対に」

「せ……んせぇ……うっ、ううっ」

 マリシェが顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を次々に落とす。ジェハナはそっと抱き寄せ、肩をさすってやった。

 ワシュアールの都でさえ、いまだにこうした事件の度に必ず女を責める者がいるのだ。のこのこ危険な場所に行く女が悪い、隙があったからだ、相手を誤解させる振る舞いをするからだ、と。この田舎町でどんな常識がまかり通っているのかを思えば、マリシェの反応も当然だろう。

「さあ、行きましょう。大丈夫、もう大丈夫だからね。あの紐は《詞》を使わない限り解けないから、すぐに総督府の兵が逮捕するわ。そして皆の前で裁きをおこない、誰が悪くて何が罪であるかはっきりさせる。二度とあなたを、こんな目に遭わせやしないから」

 ジェハナは少女を慰め、励ましながら、ゆっくり歩きだした。

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