三章 秋

不穏


   三章 秋



 厳しい夏が渋々腰を上げて去り、優しく恵み深い秋がカトナを訪う頃には、神殿の師弟のみならず町のあちこちで不穏な軋みが生じていた。

 マリシェとヨツィを筆頭に、色と音の感覚を得た者たちが、おおっぴらにそれについて話すようになってきたのだ。はじめはおずおずと慎重であったのが、同じ感覚を持つワシュアール人と親しみ、やがて仲間が増えると心強くなって、語り合うのに憚らなくなる。彼らは驕っている自覚もないまま、ただ新しい世界に踏み出した喜びを口にし、美しさに酔いしれた。

 まだ路が閉ざされている者、音に色が見えない者たちは、当然それが不愉快である。親と子、夫婦、兄弟、隣人の間で、それまでなかった反目が芽吹いた。互いによく知る身近な人間が、何もないところに色が見えると言いだすのだ。不気味でないはずがない。いずれは誰もがそうなると聞かされても、安心どころか不安が募るばかり。

 そして、不安は人を攻撃的にする。タスハに相談が持ち込まれることも増え、双方の感覚がわかる彼は、なんとか仲裁しなだめるのに苦心する毎日だった。

 そんなある日、いつものように正午礼拝をおこなったタスハは、滅多に神殿に来ない少年を見付け、驚くと同時に警戒した。大人並の立派な体格に不釣り合いな、拗ねた稚気の濃い顔。

(ギムランか。面倒を起こしそうだな)

 シャスパの甥、ツァルム家の長男であるこの少年は、常から同じ十代の少年らとつるんで大将気取りの振る舞いをし、街でも何かと煙たがられているのだ。

 案の定、礼拝が終わって大半の参拝者が帰った後、それが始まった。ジェハナの教室へ向かおうとしたマリシェの前に、ギムランが立ち塞がったのだ。にやにやするだけで挨拶もせず、横をすり抜けようとする少女の邪魔をする。

「……何のつもり? 用がないならどいて」

 とうとうマリシェが苛立った声を上げた。ギムランはわざとらしく嘆くそぶりをして見せる。

「随分な言い草だな。未来の嫁とたまにはゆっくり話したいと思って顔を見に来たのに、ご機嫌伺いの挨拶もなしかよ」

「まだ決まったわけじゃないのよ、ギムラン。早くどいて。わたし、忙しいの」

「何が忙しいんだ? もう読み書きなんか勉強しなくても充分だろ、どうせおまえは俺んとこに嫁ぐんだ。それともまさか、本気で魔女になろうってのか」

 見下されたマリシェが怒りを瞳に込めて睨みつける。ギムランの方も浮薄な笑みを消して、冷たく危険な表情になった。牙を剥くように唇をめくり、低く唸る。

「生意気なんだよ」

 別の場所であれば間違いなく暴力を振るったろうと確信させる声音だった。マリシェが竦み、青ざめる。祭壇を片付けていたタスハは、手を止めて聖域から外に出た。

「よしなさい、ギムラン」

 たしなめられた少年は不服げにこちらを見たが、おとなしく従おうとはしなかった。少女の進路を阻んだまま、やれやれという仕草をする。タスハはシャスパに目をやり、身内の面倒を見るよう期待したが、奥方は三歳の娘に手を取られているふりで無視した。ハドゥンがいれば何とかしてくれたろうに、折悪しく――あるいは前もって工作がなされたのか――今日は来ていない。

 タスハは苦い顔でギムランに向き直った。

「神々が君にその立派な体格を与えたもうたのは、か弱い娘さんを脅すためではない」

「こいつがか弱い? 何言ってるんだい祭司様。か弱い女だったら、俺に向かってこんな態度は取らねえだろ。こいつは、自分がご立派だと思ってんだよ。だったら、お望み通り相手してやろうってのさ」

 はっ、とギムランが嘲笑する。マリシェが屈辱と恐れに身震いし、拳を握り締めた。侮られ脅され、自尊心をへし折られる痛みが目に見えるようだ。タスハは身の内に白い怒りが燃え、腹の底へ吸い込まれるがごとく、螺旋を描いて路を駆け降りるのを感じた。

 ――どうすればいいのか識っている。炎に触れられた標が震えて開き、放つべき《詞》とその音色を示す。人を従わせ、立ち去らせる《詞》。

 その一言を発したい衝動はあまりに強かった。だがタスハは堪えた。己がこのわざを使えば、もっと事態が悪くなる。否、それよりもまず魂と信仰に背くことになる。

 彼の内に渦巻くものを感じ取ってか、マリシェが驚きの表情をこちらに向けた。ギムランも、何かまずい気配を察して顔をひきつらせる。

 タスハは深く息を吸い、乱れ騒ぐ路を鎮めた。

「君のおこないがみっともないことは、自覚しているだろう。神々に申し開きができなくなる前に改めなさい」

「なんだ、あんたまで魔女とよそ者の言いなりかよ」

 強がりを返したギムランに、タスハは厳しく応酬した。

「ワシュアール人は関係ない。私は祭司として、この町の皆の幸福を神々にこいねがい、罪をとりなし恵みを乞うつとめを負っている。いいかねギムラン。今は一部の者だけが色を見るようになって奇異に思われているが、いずれ皆が同じようにウルヴェーユを使うようになるという。君がそうなった時、今のように思いやりのない態度で力をふるうとすれば、そんな夫のもとに嫁ぐ花嫁を祝福はできない」

 言っている意味がわかるか、と少年の目を見据える。ギムランが愕然となる一方、マリシェは救われたように祭司を見上げ、また背後ではシャスパが憤怒の形相になった。

「ふ……っ、ざけんな!」

 口をぱくぱくさせた末にギムランが怒鳴る。礼拝室に残っていた人々が、いよいよ大事になるかと身構える。そこへ、マリシェを待ちかねたジェハナがやって来た。

 ちょうど怒声と同時に扉を開けたジェハナが、びっくりして立ち竦む。ギムランはそれに気付かぬまま、足を踏み鳴らして喚いた。

「ツァルムとアハマトの縁組はもう決まってんだからな! いくらあんたでも、家の取り決めに口出しすんのは勘弁ならねえ。いいか、取り消すんなら今だぞ。後で頭下げても遅いからな! ……いいんだな!」

 少年は祭司に指を突きつけて罵ったが、相手が寸毫も動じないことに腹を立て、鼻息荒く踵を返した。そこでやっとジェハナに気付き、狂犬のような顔つきになる。

「どけ!!」

 言われるまでもなく彼女は壁際に避けていたのだが、ギムランはわざわざ自分からぶつかるほどに近付いて腕を振り回し、荒々しく出て行った。

 壊れそうな勢いで扉が閉められると、シャスパの娘が堪え切れなくなってわっと泣きだした。ジェハナが当惑顔でタスハに歩み寄り、そっと小声で尋ねる。

「いったい何事です?」

「マリシェの許婚――まだ正式に決まってはいないのですが――その少年が、言いがかりをつけてきましてね」

 タスハが苦々しく答えるのに、幼子のわんわん泣く声が重なる。ジェハナは気の毒そうにそちらを見やった。タスハも向き直り、シャスパに苦情を言う。

「シャスパ。あなたの甥御さんの振る舞いは、いささか目に余る。あのままではツァルム家にとっても不幸ですよ」

「あたしの知ったことじゃぁないですよ。もう家を出た身ですからね」

 ふん、とシャスパは鼻を鳴らして他人事を決め込んだ。かと思えば、忌々しげな顔になり、娘をその場に置いてタスハに詰め寄る。

「祭司様こそ、ちょっと肩入れしすぎじゃありませんか。マリシェのためを思うなら、いつまでも役に立たないことばかりさせてないで、一日も早く嫁入りの算段をしてやるべきですよ。縫い物もろくにできないってんじゃ、嫁いだ後で泣くのは目に見えてるんですから。女の苦労なんて、おわかりじゃないでしょうけどね! マリシェ、あんたもあんただよ。ご両親を困らせて……」

 後ろでは幼い娘が座りこんだまま、母親を呼んで泣いている。だがシャスパは説教に熱中して振り向きもしない。見かねたジェハナがそっと礼拝室に上がり、幼子をあやしに行った。その、瞬間。

「触らないどくれ!」

 今にも獅子に喰われるとばかり、シャスパは娘を引き寄せて抱え込んだ。あまりの剣幕にジェハナが驚き竦んでいると、彼女は憎悪に燃え立つ怒声を放った。

「この子まであんたと同じ行き遅れにする気かい! 近寄るんじゃないよ、疫病神が!」

 勢いに呑まれて動転したまま、ジェハナは焦点のずれた反論をした。

「い……行き遅れてなんかいません! ワシュアールでは普通です!」

「はん、どうだか。あたしらにわからないと思って、都合のいい法螺を吹いてるんだろ。口先ばかり達者になって、二十歳にもなって一人も産んでないだとか、行き遅れじゃなきゃなんだい。まともな女の人生を踏み外しておいて、巻き添えを増やさないどくれ!」

 幼子を連れ、大きな腹をした女の罵倒は、有無を言わせぬ迫力があった。ジェハナはごくりと喉を鳴らして歯を食いしばる。タスハはそれを目にしていながら、仲裁に入ることもできなかった。

 緊迫した沈黙の末、ジェハナがかろうじて平静な声を絞り出した。

「……早々に結婚して子供を次々産むことだけが、『女の人生』ではありません。あなたが立派な人生を歩んでこられたことは事実でしょう、それは認めます。でもわたしの人生はわたしのものです」

「はっ! 馬鹿だよこの女は!」

 シャスパが勝ち誇って嘲笑した。聞いたかい、とばかりの視線を周囲に巡らせ、蔑みをこめてジェハナに据える。

「あんた、自分が独り勝手に産まれて生きてきたとでも思ってんのかい。あんたの人生はあんたのものなんかじゃないんだよ! そんなこともわからない馬鹿が、偉そうに説教しないどくれ!」

 さあ帰るよ、と娘を促し、シャスパはのしのしと神殿から出ていく。ジェハナは青ざめた顔をこわばらせ、石像のように立ち尽くしていた。関り合いを厭った人々がそそくさと帰り、やがて静寂が息をつく。タスハがふさわしい言葉もなく途方に暮れていると、幸いなことに、居残っていたマリシェがとりなしてくれた。

「あ……あんな言い方、あんまりだと思います」

 ジェハナはぎゅっと目を瞑ってこめかみを揉む。一呼吸、二呼吸。彼女が内なる路を意識し、色を巡らせることで心を鎮めているのが、タスハにも感じ取れた。危機は去ったと察し、彼はそっと静かに祭壇の片付けに戻る。

 ややあってジェハナが厳しい顔つきを緩め、己の一番弟子に向き直った。

「ええ。正直、今すぐ外に出て後ろから泥団子をぶつけてやりたいぐらいよ。でも、人生がわたしのものでない、というのは目を開かされたわ。わたしは自分の意志で生き方を決めてきたつもりだったけれど、そこに家族や周囲の期待と支えがあったことは間違いないもの。良い縁組のために早く嫁いで子を生すのではなく、しっかり学んで人々の尊敬を勝ち得る仕事に就くことを望まれたからこそ、今のわたしがある」

 ふっ、とため息をつき、ジェハナは心配そうなマリシェに笑みを見せた。

「すべての民に基礎教育とウルヴェーユを。その目標は間違ってない、信念は揺るぎないけれど……教え導くことはすなわち、人生の行き先を示唆することだというのに、わたしは少し浮かれていたようね。無責任に希望と未来をあれもこれも広げて見せて、あなたがそれを選び得るのか、選ばせても良いのか、考えていなかった。ごめんなさい」

「……よくわかりませんけど、先生は悪くないと思います」

 マリシェは途中から理解がついていかなくなったらしく、小首を傾げて目をぱちぱちさせた。それから、拳を握って力説する。

「あと先生ぐらい美人なら、行き遅れるとかないですよ! その気になれば、お相手はすぐ見付かりますって! カウファの奥様は妬んでるだけですよ」

「そんな風に勘ぐるものじゃないわ、マリシェ。あの方は、女として望まれるつとめを立派に果たしているのよ。けれどわたしを見ていると、それを否定されるように感じられるのでしょう。そんなつもりはないのだけど」

「やっぱり嫉妬じゃないですか」

 二人の会話を、タスハとウズルはあえて無視していた。聞いていないふりで黙々と供物の皿を片付け、灰を掃除し、花を整える。迂闊に存在を思い出させて「どう思います?」だとか意見を求められたら、どう答えてもろくなことにならない。女の揉め事に首を突っ込むのは、死にたい男だけだ。

 とは言え、いつまでも議論のような噂話のようなおしゃべりを続けられていては、日課に差し支える。話が途切れた隙を見計らい、タスハは慎ましくえへんと咳払いした。

「そろそろ、教室へ戻られてはどうですか。他の生徒さん方がお待ちでしょう」

「あっ、いけない!」

 ジェハナは頓狂な声を上げ、そうだった、とマリシェを急がせた。

「早く行きましょう。祭司様、お騒がせしました」

 いいえ、とタスハが応じるのも待たず、女二人がばたばたと出て行く。やれやれ、とタスハは息をつき、なんとなく弟子の様子を見た。随分と険しい顔で押し黙っている。

 重苦しさのうちにすべての片付けと清掃が済むと、ウズルが低く唸った。

「タスハ様。もし……もし本当に縁談が調ったら、婚儀をとりおこなわれるんですか。あんな奴に、マリシェを」

 怒りを堪えかねて、声が上ずった。紅玉髄の表面を小さな火花が走るように。ああ、こんな色の声をしていたのだな、とタスハは弟子について認識を新たにしつつ答えた。

「もし本当に調ったなら、断れるものではない。……つまりその時は、両家の当主や親類皆に加えて当人も納得したのだからね。神々を質に取って己の望みを押し通すなど、決して許されないことだ。しかし調う前ならば、やりようはあるだろう」

 台詞の半ばで早くも反論しようとしたウズルを手で制し、タスハはやや悪戯めかして最後の一言を添えた。師をなじろうとしていたウズルは困惑し、目をしばたたく。タスハはにやつきたいのを堪え、真顔を取り繕った。

「ギムランが素行を改めれば良し。だがあのままであれば、マリシェのご両親は気が進まないだろう。あそこは地主と違って家風も自由だ。娘を大切にしてくれる相手がいるとわかれば、家の利得にばかりこだわることもないだろう。おまえの頑張り次第だな」

 タスハが言葉を切ると、ウズルは見る見る赤くなって、握っていた拳を解いた。うつむいて視線をさまよわせ、つっかえながら言葉を押し出す。

「あの、俺……いえ、私は、その……い、いいんですか?」

「うん?」

「つまり、あの、……自惚れじゃないですが、いずれは祭司にして頂けるんですよね?」

「ああ、むろんそのつもりだ。おまえがこのまま神々に仕える道を歩み、この神殿の火を守り伝えてくれるのなら、いずれおまえに跡を託すことになるだろう」

 ほろ苦い思いが胸をよぎる。以前は当然定まっているようだった未来が、今はなんと不確かなことか。彼の声に漂う寂寥を感じてか、ウズルは頬の熱を冷まし、何か言いたそうに口を開いては閉じる。タスハはこの場は流すことにして、先の話題へ道筋を戻した。

「祭司になると、何か不都合があるのかね」

「えっ……と、だから……その、祭司になるのなら、独身じゃないと」

 ウズルはまた赤くなってもじもじ言った。タスハは面食らって頓狂な声を返す。

「誰がそんなことを? 私が以前そう言ったかい」

「違うんですか? ああ、いえ、はっきり聞いたことはありません、でもタスハ様も、先代様も」

「先代は奥様がいらっしゃったよ。子に恵まれなかったから、私が跡を継いだのだがね。お二人とも、私を我が子のように育ててくださった」

「そうだったんですか」

 ほっ、とウズルが納得の息をつく。タスハは失笑した。頭の回転が速いぶん、彼は時々こうした早合点をする。いつから悶々としていたのか。気の毒やら可笑しいやら。

(いや、笑ってはいけない。彼は真剣に思い悩んでいるのだから)

 ごほんと咳払いしてごまかしたところで、ウズルが師の足元に穴を掘った。

「それじゃどうして、タスハ様はずっと独り身なんですか」

 タスハは思わずよろけそうになり、笑った仕返しかと弟子を見る。案に相違して彼は真面目だった。からかう気配もなく、むしろぎゅっと眉を寄せて。これはきちんと答えねばなるまい。タスハはちょっと考えてから、慎重に言葉を選んだ。

「……そうだな。祭司の妻になって神殿に仕えたいという女性が、カトナにはいないのだろう。神殿の暮らしはいささか特異だからね。私も自分の世話は見られるから、無理を強いて女手を求めなくてもいいと思っている。子供の代わりに弟子が二人もいることだし」

 充分満足しているよ、と彼は笑みを見せる。息子扱いされたウズルは照れくさそうに目を伏せたものの、もどかしそうに口の中で「そうじゃなくて」とつぶやいた。

 今の答えで不満なら、いったい何を訊きたいのか。タスハは首を傾げる。ウズルは苛立ったように頭を振った。

「もういいです」

 邪険に切り捨てられたタスハはやや傷付いた気分になったものの、追及はしなかった。十七歳は難しい年頃だ。大人が期待通りの言動をしないからと、腹を立て見下すのもよくあること。肩を竦め、彼は話を戻した。

「おまえも、マリシェに無理を強いてはいけないぞ。どうしてもとあらば、神殿の担い手はまだシャダイもいる。一人で考えて、こうするしかないと決めつけてしまわないようにな。きちんと想いを伝えて、心を掴めるように頑張りなさい」

 優しく励ましてやると、ウズルは照れながらも「はい」と素直にうなずいた。タスハは微笑み、つい余計な一言を追加してしまう。

「まあ、だからと言って次の豊穣祭でいきなり誘うのは勧めないがね」

「しませんよ」ウズルは憤慨して即答した。「儀式の後片付けで、そんなどころじゃありません」

「うん、大事なつとめを忘れていないようで何よりだ。……おっと、そうか、ジェハナ殿にも祭りのことを話しておかなければ」

 タスハは思い出し、神像を拝んでから食堂へ向かう。見送る弟子がなぜだかハドゥンのような表情をして、やれやれと首を振ったが、タスハには理由がわからなかった。

 ともあれ、ジェハナの教室はいつも通り問題なく開かれていた。最前の揉め事などなかったように、和やかに、知的に、皆が意欲をもって学んでいる。

(良いものだな)

 見守りながら、タスハは目を細めた。ワシュアール人に対する感情は複雑ではあるが、ハムリ王国時代には無視されていた、弱者の救済や子供らへの教育をもたらしてくれたことには、感謝の一念しかない。

(もっとも、それも施政の方針がこのままなら、だが)

 先日オアルヴァシュから聞いた話が脳裏をよぎった。王の若さやこだわりが不安でもあるが、拡大を続ける一途の王国がどこまでその勢いに対応できるのか、懸念もある。領土が拡がるということは、手に入る財や資源が増える一方で、面倒を見なければならない人間も増えるということだ。

 ほんの五十年ほど前まで、ワシュアールは東の数ある小国のひとつでしかなかった。急速な拡大に国の体力がついていかなければ、どこかで綻びが生じる。他地方で厄介なことが起きたら、カトナの資金人員が引き揚げられるかもしれない。

(気を揉んだところで、私に何ができるわけでもないが……時代がどうなろうと、ただ祈るだけだ)

 無意識に視線を奥の壁にやる。くぼみに安置されたアータルの小さな像へと。

 祀り、祈り、人と神との橋渡しをする。

 己の使命を再確認したところで、ジェハナが終了を告げた。生徒たちが挨拶して帰るのを待ち、タスハはゆっくりジェハナに歩み寄る。呼びかけるより早く気付いた彼女は、曖昧な表情で会釈した。熱くなって口論したのを今になって恥じているような、少しばかり言い訳じみた微苦笑。

 タスハは何も気にしていない風情を装って口を開いた。

「少し、よろしいですか。……近々、豊穣祭が催されることはご存じでしょうか」

「あ、はい。ダールから聞きました。広場で火を焚いて、皆さんで舞楽を奉納した後、宴会になるのだそうですね」

 ジェハナはほっとしたように答え、無邪気な笑みをちらりと見せて言い添えた。

「ご馳走が振る舞われるとか。楽しみです」

 健康な食欲の発露にタスハも微笑んだが、本題はここからだ。事務的な用件、注意喚起に他ならないのだから変に意識するなよ、と自分に言い聞かせて続ける。

「その後のことは、誰かからもう……?」

「えっ? 後片付け、ですか?」

 ジェハナはきょとんとしている。タスハは額に手を当てて内心イムリダールを恨んだ。兄だというなら、祭のことを知らせるついでに気配りしてくれたら良いものを。

「いえ、そうではなく。宴は日暮れまで続くのですが、その後は、……ああ、と。若者たちに逢瀬が許されていましてね」

「……はい?」

「つまり、まだ婚儀を挙げていないけれども、そうなりたいと望む男女が、互いの意志を確かめあう機会、というわけです」

 いかにも解説めいた言い回しで第三者の立場を保ち、えへんと咳払いする。ジェハナの頬が朝焼けのように染まるのを見ていられず、タスハは口を引き結んで瞑目した。

「あ、ああ、そういうこと、ですか……あの、それは、その、ええと」

 しどろもどろにジェハナが意味不明な言葉を口走る。タスハはできるだけ重々しくうなずいた。

「ですから、巻き込まれないように、とご忠告を。暗くなるまで宴に付き合わず、頃合いを見てお帰りなさい」

「……あ。はい、ええ、そうですね、はい」

 なぜかジェハナは、すこんと力が抜けたような声を返した。妙な反応をされたタスハは、眉を上げて様子を窺う。彼女は両手を頬に当ててうつむき、自分に対して何事かつぶやきながら、しきりに小さくうなずいていた。

 しばらくかかってどうにか火照りが冷めると、ジェハナは冗談にしてごまかそうとばかり、手で顔を扇ぎながら苦笑して見せた。

「すみません、言いにくいことを教えて頂いてしまって。ダールったら、肝心なことをきちんと伝えてくれないんだから」

 そこまで言ってから、ふっと息をついて真顔になる。

「巻き込まれないように、とおっしゃいましたね。ということは、意に添わぬ目に遭う女性がいるのですか」

「まず滅多にありません。ですが、私が記憶している限りでも過去二、三度は厄介な揉め事が持ち上がりました。豊穣の女神への感謝と祈願の祭ですからね、本来は決して、単に羽目を外して良い夜というわけではないのです。しかし祭の熱気と酒の酔い、若さの勢いが合わされば過ちも犯しやすい」

 タスハも憂慮する表情になり、目を伏せた。

 互いに求め、喜びをもって愛を交わすことで豊穣の女神マヌハを讃え、来年もまた豊かな実りをもたらしてくれるように願う。男女の交わりで大地の実りをなぞる、祭りの一環としての逢瀬であるのが、本来のありようなのだ。

 しかしそれも歳月と共に変質してゆく。もはや、大地の恵みのわずかな増減がまともに生き死にに直結した、原始の時代ではない。

「とりわけ今年は、あなた方がカトナに来られて初めての豊穣祭です。誰が何をしでかすかわかりません。総督府の皆さんにも用心するよう知らせてください。無理強いばかりでなく、その場の勢いで承諾してしまって、夜が明けて頭が冷えてから裁判沙汰になった例もありますから」

 笑い事ではないのだが、タスハは冗談めかしてひとつの事例を挙げた。危険だなんだと深刻な話が総督の耳に入れば、治安と風紀を守るため祭礼に介入せざるを得なくなって、軋轢を生みかねない。

 ジェハナは生真面目に了承すると、儀式の準備で手伝えることがあればやらせてくださいね、と愛想良く言い添えた。

 あまり気まずくならずに済み、タスハも緊張を解いてほっとする。帰っていくジェハナを外まで見送りに出ると、涼しい風がざあっと走り抜けていった。

 ジェハナの髪がなびき、踊る。初めてその姿を目にした時のように、金茶色にきらめきながら軽やかに。慌てて彼女が乱れた髪を押さえ、手で整えながら、こちらを振り向いてはにかんだ笑みを見せた。

 その瞬間の光景に胸を打たれ、タスハは息を詰めて棒立ちになる。坂を下ってゆく背中が町並みに隠れるまで、彼はその場を動けなかった。動悸が速まり、忽然と生じた確信にうろたえ、顔を覆う。

 ――どうして独り身なんですか。

 ウズルの問いかけがよみがえり、意図が明瞭に理解された。

 ――どうしてジェハナ様に何も言わないんですか……

「あいつめ」

 思わず口の中で唸る。弟子の声を借りて、はっきりとひとつの言葉が形を取る。

 好きなんでしょう。

 堪らずタスハは呻いた。ハドゥンにからかわれる度、違うと否定してきたのは、最初に路の共鳴を胸の高鳴りと勘違いしたのが恥ずかしかったからだ。実際、彼女に好意を抱いてはいるが、あくまで祭司として、ワシュアールの導師たる人物に対する感情であるはずだった。加えて少々の見栄と。

 まさか、瞼に焼きついた一瞬の笑顔に、泣きたいほど心を揺さぶられるなどとは。

(いや……いや、落ち着けタスハ。おまえは何を考えているんだ。鏡を見ろ、立場を思い出せ。彼女はおまえよりずっと若くて、将来があって、名家のお嬢様なんだぞ)

 そして己は一介の田舎祭司だ。血筋の後ろ盾も資産も将来性も何もない。

 無慈悲な現実にうちのめされ、彼は深いため息をついて己の頭を小突いた。残念だが、この想いは密かな宝物として胸の奥底に沈めておくしかあるまい。

 タスハは天を仰いで小さく祈りの言葉をつぶやくと、肩を落として神殿へ戻った。

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