アウィルニー祭
*
数日間続いた混乱が収まった後、ハドゥンとタスハは連れ立って医師を訪ねた。
灼けつく陽射しを遮り、棗椰子が涼しい木陰をつくる。ひんやりと微風がそよぐ総督府の庭は、外とは別世界のようだ。医務室の開け放たれた戸口や窓からは、真夏の今も青々と茂る庭園を眺めることができた。
「オアルヴァシュ先生、今回はあんたに随分世話になった。あんたが無償で皆を診てくれただけでなく、総督府の水道を使えと言ってくれたおかげで、大事にならずに済んだんだろう。カトナを代表して、礼を言う」
頭を下げたハドゥンに対し、当の医師は面倒くさそうな顔をしている。
「俺は仕事をしただけだ。どいつもこいつも吐くわ下すわで不衛生が蔓延した後で火消しに回るより、先に叩く方が楽に決まってる。だが恩義に感じるってんなら、秋の徴税には快く協力してくれよ。俺らの大事な給料になるんだからな」
露骨な言い方にハドゥンが渋面をし、同席するタスハは咳払いで失笑をごまかす。医師はそちらを見て続けた。
「あと、祭司殿にも礼を忘れないでくれ」
「私は何も……」
「祭司殿のおかげで、総督府に来ようとしない連中にも対処できたんだ。そうでなかったら、火種を消しきれないまま周辺ばっかり叩き続けるはめになるところだからな。あんたの薬湯はちゃんとしたもんだ、都にいる怪しいまじない屋よりよっぽど信用できる」
オアルヴァシュは請け合った。どさくさ紛れにちゃっかり薬湯をせしめて材料や効果を調べたこの医師は、もっと作れと要求してきたのである。
「お役に立って何よりです」
タスハは微苦笑をこぼした。先代から教わった薬湯を無遠慮に調べられ、役に立つから寄越せと要求されて、不愉快になってもおかしくないのに、この医師の態度はどうも憎めない。だから素直に協力を頼もうという気にもなれる。
「また近々、旱鎮めの祭をとりおこないます。川辺とはいえ炎天下での祭礼になりますので、倒れる人が出ないようお力をお貸しください」
真夏の頃、各地では様々な形でこうした祭礼がおこなわれる。雨が降らないのはどうしようもないにしても、せめて暑熱が和らぎ、乾いた季節が早く終わるように、秋まで水がもつように祈るのだ。カトナは幸いリーニ河のおかげで深刻な旱魃に見舞われたことはないが、それでも、河川の女神が力を保てるように祭をおこなう。皮肉なことだが、そのために真夏の陽射しに長時間晒され、気分が悪くなる住民が毎年何人かいるのだ。
「お、そういやそんな話を耳にしたな。どうせうちの連中も見物に行くだろうから俺もお供するさ」
オアルヴァシュが気楽に応じる。そこでふと会話が途切れた。ハドゥンが外の気配に耳を澄ませ、誰も来そうにないことを確かめてから、声を低めて切り出した。
「ところでな、先生。前から訊きたかったんだが……今のワシュアールの王ってのはどんな人物だ? 総督と違ってあんたは密告者を気にしなきゃならん立場じゃないんだろ。わしらも本当のところを知っておきたい。実際はわしらの血の一滴まで搾り取ろうとしている暴君で総督が堤防になっているのか、それとも逆なのか、判断するためにもな」
「おいおい、俺だって王国の禄を食んでる身だぞ。そりゃまぁ亡命するはめになったって食ってける自信はあるが」
オアルヴァシュは苦笑いで断りを入れたが、さりとて口を濁しはしなかった。そうだなぁ、と腕組みして宙を見上げ、ちょっと考えてから明瞭な答えを返す。
「一言で言や、若い、だな。実際の歳もまだ二十二だか三だったか、そのぐらいだが、中身が若い」
褒め言葉には到底聞こえない言い方だった。質問したハドゥンの方が、そんなにはっきり言っていいのかと不安げな顔をする。オアルヴァシュは構わず続けた。
「色々とな、血筋だの過去の功績だのにこだわりが強いんだ。ワシュアールの『大王』のことは知ってるか」
「三代前の偉大な王、って話は聞いたが」
ハドゥンが曖昧に言ってタスハを見る。むろんこちらも詳しくは知らない。
「それまで『王の力』とされてきた謎を解き明かし、ウルヴェーユを広く民人のものにしたのだそうですね」
「そうだ。その『大王』の先代もまた偉い王でな。若い大王の革新的な行動を理解し後押しし、敵対勢力から守った。当時のゴタゴタは今も不明なところが多いが、その先代王を殺したのが『大王の妻』、名前も消し去られた罪深い女だ。今のエサディル王は、大王の血筋じゃあるが、この女の血を引いてはいない」
「……それはつまり、良かったんじゃねえのか?」
ハドゥンが困惑気味に問う。偉大な王の血を引き、そこに罪の汚れは入っていない。自慢していい血筋だろう。
「そう簡単なら良かったがなぁ。大王とその罪深い妻との間に生まれたのが女王シャニカで、これがまた大層な名君だったんだ。路と標も常人離れしていた。一方でエサディル王の親の筋はそれほどぱっとしない。だもんで中途半端に誇りと劣等感がいりまじって、本人の若さもあって傍目にわかるほど情緒不安定らしい。大王の施政や方針を頑なに踏襲しようとしたり、逆に自己流の解釈でねじ曲げようとしたり。まぁ、まわりの古参官僚がうまく手綱を取ってくれてるうちは安心だろうがな」
ここまで赤裸々な内容とは予想外で、ハドゥンは目を白黒させ、タスハも言うべき言葉に詰まってしまった。オアルヴァシュはしかつめらしく、うむうむと独り合点したようにうなずいて話を締めくくる。
「偉大なご先祖がいる名家に生まれるってのも、余計なものを生まれながらに背負うことになって大変なもんだ。とにかくそんなわけだから、今は総督の裁量に任されていることも、ある日突然方針転換を迫られるかもしれん。イムリダールもあれで名家の坊ちゃんだし、何かと義理や義務に縛られて不自由してるんだ。気に食わないところもあるだろうが、大目に見てやってくれ」
「おお……いや、よくわかった。しかしあんたらの国は不可思議なところだなぁ、先生。王の性格やら内情まで平気でよそ者にしゃべっちまえるとは驚いた」
「訊いておいて何だそれは。この町でだって、あんたの家の事情が極秘事項だってわけじゃないだろうが」
「郷士と王じゃまったく別だ。ハムリの長官がいた頃は、とにかく王は偉いんだ凄いんだの一点張りで、動向に探りを入れてもほとんど何もわからなかったもんだ。行商人やら交易関係の仕入れる噂だけが頼りだったさ」
「ワシュアールはそれだけ自由な国だってことだ、少なくともハムリよりはな」
ハドゥンと医師の会話をよそに、タスハはぼんやりと窓外を眺めていた。
(名家の生まれ、か……ジェハナ殿も同じなんだろうか。いつも活き活きとして、熱心に楽しそうに、つとめに励んでいるように見えるが)
あんな彼女も、重荷を背負っているのだろうか。この町へ来たのも何かしら家柄や経歴のしがらみがあってのことなんだろうか。
(何を考えているんだ。詮索したところで、私に何のかかわりがある?)
彼女の人生に己がどんな役割を果たせるというのか。ワシュアールの導師で、きっといずれは家柄にふさわしい相手のもとへ嫁ぐのだろうに。田舎の祭司ごときが。
つい考え耽っていた彼は、不意に沈黙と視線を感じて我に返った。幼馴染みと医師が揃って何とも言えない顔でこちらを凝視しているではないか。
「あっ……失礼、聞いていませんでした。何か?」
話を振られたのに無視してしまったろうか、と慌てる。だがハドゥンは何も言わず、ただ憐れむような顔をしてタスハの両肩に手を置き、頭を振りつつしみじみと嘆息した。いったい何だと言うのか。釈然とせず医師の方を見たが、こちらも腕組みしたまま無言でただ苦笑するばかり。
眉を寄せて訝しむタスハは、自分が心の声の切れ端をひとつふたつこぼしたことに、まったく気付いていなかった。
リーニ河はカトナの遙か北東にある山岳地帯から流れ下り、西のハムリ王国領を抜けて海に注ぐ。夏にはかなり水位が下がるが、記録にある限り涸れたことはない。
女神アウィルニーが旱の悪魔に屈することなく命の水を運び続けてくれるよう、秋には間違いなく力を取り戻せるよう、カトナの民は女神に捧げものをする。
例年通り川岸の決まった場所に祭壇を置き、供物と香の準備をしながら、タスハは水辺に寄ってふむと思案していた。
「何か不都合がありましたか?」
後ろから声をかけたのは、準備を見学していたジェハナである。タスハは土手にしゃがんで流れに指先を浸してから答えた。
「去年よりも水位が高いようです。今年は水不足の心配もなく安泰でしょう」
喜ばしいはずなのだが、どうにも気分が晴れない。何かの影が無意識の隅にひっかかって取れず、彼は曖昧な表情で首を傾げる。ジェハナも怪訝な顔をしたが、この春に来たばかりの身で例年に比べどうだとわかる由もない。疑問は横に置いて、彼女は祭壇の供物に目をやった。
「きれいですね」
視線の先にあるのは、とりどりの花や緑の草で編んだいくつもの輪飾りだ。タスハと弟子らで手分けして、夜明け前からせっせと作ったのである。真夏のこととて花も限られ、使う植物や編み方にも伝統的な決まりはあるが、自由に工夫できる部分もあって、神官たちにとってはちょっとした表現の機会となる。今年はなかなか上手く出来たと自負しているタスハは、口元をほころばせた。
「女神も喜んでくださると良いのですが」
「これなら間違いなく、どんな女性も満足しますよ」
ジェハナは笑い、うらやましいぐらいです、とおどけて言い添えた。タスハは危うく口を滑らせそうになり、とっさに唇を引き結ぶ。
今度あなたにも差し上げましょう――などと。
己の発想があまりに恥ずかしく、彼は赤面したのを隠そうと背を向けた。辺りを眺めるふりでごまかし、ゆっくり深呼吸する。
川岸にはカトナの住民がずらりと並び、儀式の始まりを待っている。祭壇の捧げものとは別に、子供らは手に手に草葉の舟を持っていた。小さな花一輪といとけない願い事を載せた、ささやかな贈り物。
自分も幼い頃、ああして舟を流したことを思い出し、タスハはそっと微笑んだ。心が静まり、祭司のつとめに集中していく。胸の奥、魂の底から静かに湧き上がる清澄な流れが心身を満たしてゆく。信仰の証であったその感覚が、実はいにしえの人々が遺したものであると知らされた今、かつてのように純粋に歓びだけを感じることはできない。
(だが、この『路』が魂に通じているのなら、きっとその向こうに神はおわすのだ)
砕けた心を集め繕い、折れた信仰の杖を継ぎ直して、彼はもう一度しっかりと地を踏みしめる。
「タスハ様。調いました」
ウズルの声に応え、彼はゆっくりと祭壇に向かった。
祭司が位置につくと、集った人々がいっせいに姿勢を正し、静まり返る。一瞬で空気を塗り変えた静寂の銀盤に、ひときわ美しい碧玉の音がまっすぐな線を描いた。祭儀の始まりを告げる一声。続いて輝く黄金が花開き、白銀の波が再びすべてを洗い清める。
余韻が鎮まると、タスハはごく自然な動作で手を合わせて女神に呼びかけた。
「穢れなく力強き流れアウィルニー、命をもたらしまた運び去る悠久の環を司る女神よ、この地カトナをみそなわしたまえ。旱の悪魔を打ち負かし、絶えずこの地に恵みをもたらしたまわんことを」
恭しく女神を讃え恵みを乞い、香を焚いて、悪魔を打ち倒す詞を詠じ捧げる。それが終わると、弟子らと共に無言歌を唱えながら、花輪を河へ流すのだ。タスハは旋律を辿りながら花輪を掲げ、水に足を浸す。町の人々も唱和しているが、すぐ後ろについているウズルの声が、時折妙に途切れた。タスハはその度に気を散らされ、儀式に集中し直さなければならなかった。
なんとか無事にすべての捧げものを流し終え、祭式が終了すると、タスハは祭壇の片付けを後回しにして弟子をたしなめた。
「どうしたんだ、ウズル。今日はまるで儀式に集中できていなかったぞ。何が気にかかるにせよ、神官たる者、祭儀の間は神々に心を傾け精魂を捧げなさい」
「はい。申し訳ありません」
少年神官は素直に謝罪したが、伏せた顔は悔しそうに歪んでいる。タスハは嫌な予感をおぼえたものの、声音を和らげて促した。
「いつもきちんとしているのに、何があったんだ。理由があるなら言いなさい」
厳しくならないよう気を使ったつもりだったが、ウズルはすぐには答えなかった。
沈黙の淀みに、迷いと気遣い、恐れが浮かんでは消える。しばらくかかって、ようやくウズルは細い流れをこぼした。
「……色が。色の調和が、取れていないんです」
うつむいて視線を合わせないまま、絞り出すように告げる。予感が当たり、タスハは瞑目した。ウズルは師の反応を見ないまま続ける。
「あの音律じゃ、だめなんです。だから、詰まってしまって上手く歌えませんでした」
「ウズル。儀式はウルヴェーユではない」
重々しくタスハは断じた。はっ、と弟子が顔を上げる。その表情から、彼もまた、色が見えるようになって思わぬ弊害に苦しんでいるのだとわかった。だがタスハは手控えなかった。ここは、曖昧にしてはいけない一線だ。
「我々が守り伝えてきた祈りを、異教の考えでねじ曲げてはいけない」
「でも、タスハ様」
「おまえは何に対して祈っているのだね? 美しい色か、それとも神々か。そもそも儀式を通じて何をしようとしているのか、もう一度よく考えてみなさい」
敢えて弟子の反論を許さず、タスハは厳しく命じた。これでもし、彼が従来の祭式を守らずウルヴェーユを優先するようであれば、自らの意志で師に背き反抗するのであれば、……その時は恐らく、彼には導師の道へ進めるようはからってやるべきなのだろう。
(憎まれるかもしれないな。だがそれも、時代の流れだ)
ワシュアールの支配下に入った時から、後戻りはできなくなったのだ。旭日の勢いにある王国を止められないように、カトナの変化にも、一個人の力で抗えはしない。
苦い諦めを抱いて、タスハは瞑目した。
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