鍵の白石


 数日後。濃紺の夏空の下、カトナの人々は『住民全員にかかわる重要な告知』を聞くべく、こぞって総督府に足を運んだ。要所に立っている使用人が、中庭へと誘導する。

 タスハはかつてハムリの役所であった場所を久方ぶりに訪れ、見覚えがなさすぎてしきりに首を捻っていた。記憶違いだろうかと訝ったが、どうやらそうではないらしい。大半の市民が、ざわつき、きょろきょろし、物珍しげな反応をしている。

 記憶を探る限り、建物の配置や大きさまでが変わっているわけではない。だが外観はまるきり別のものになっていた。住人が入れ替わってから長らく工事に明け暮れていたのは知っているが、これほど改修していたとは。

 壁は漆喰で白く塗られ、鮮やかな色で複雑な模様があちこちに描かれている。軒先にはランプらしいものが吊るされているが、繊細優美な装飾が蔓のように柱や壁に走り、どこかに消えている。さらには足元――真っ白な石が人の歩く道筋を示し、大勢が行き交っているのにほとんど汚れていない。白い道の周囲は細かく砕いた色タイルが敷き詰められ、様々なモザイク模様が描かれている。白、赤、緑、青、黄、紫。

 タスハは目と心を奪われ、人々のざわめきも耳に入らぬまま、無意識に色の描く軌跡を追っていた。

(流れだ。ここから……あちらへ、そこでつながって)

 感じる。色によって形作られた路を辿り、微かな旋律が流れる。連なる音、心地良いせせらぎの歌。この敷地内すべてが安全かつ快適であるように、清潔を保てるように。

 タスハは嘆息し、同時に深く納得した。これがワシュアールでは当たり前であるなら、彼らを初めて見た時、まったく別世界の住人のようで驚かされたのもむべなるかな。

(このわざが善か邪か、まだ判断は下せないが。少なくとも心地良さは否定できないな)

 神殿以上に心安らぐ場などないと思っていたのに、ここにいるとその信念が揺らぐ。早く始まって、すんなり終わってくれないものか。長居したくない――そう考えながらタスハがそわそわと見回した時、建物からジェハナが姿を現した。イムリダールとマリシェも一緒だ。

 中庭を取り囲む柱廊は地面よりやや高いので、演壇の必要がない。ジェハナは庭に向けて張り出した階段へ進み出る前に、帯から鉦を抜いてコンコンと軽く柱に打ちつけた。何をしたのかと群衆がざわつく。タスハは、淡い黄色が柱や手摺を伝って中庭を囲むのを感じた。

 ジェハナが鉦に唇を触れさせてから、元通り帯に挟む。こほん、と小さく咳払いして彼女が口を開いた。

「お集まりくださり、ありがとうございます」

 挨拶をかき消すように場がどよめく。ジェハナの声は、庭の隅々までまったく同じように明瞭に届いたのだ。

「お静かに! ご心配なく、全員にきちんと聞こえるようにする術です。さきほど柱で鉦を鳴らした時、何人かは色が巡るのに気付かれたでしょう。広場で全員に聞こえるだけの大声を張り上げる自信がなかったもので、こちらにお集まりいただきました」

 ジェハナが冗談めかして言い、忍び笑いが広がる。皆の動揺がおさまるのを待って、彼女は続けた。

「わたしたちがカトナに来てから、およそ二月になります。そろそろ皆さんも、わたしたちが用いるウルヴェーユについて様々に見聞きし、いくらか慣れてくださったことでしょう。また、わたしたちと接することで『路』に目覚めた方もいらっしゃいます。今日はいよいよ具体的に、ウルヴェーユが何であるかをご説明しましょう」

 そこで彼女は聴衆を見回し、タスハを見付けてにっこりした。

「そうそう、わたしは仕事の話になるとつい、熱が入って難しい話し方をしてしまうようなので、ちょっと待て、よくわからんぞ、という時はご遠慮なく手を挙げてお知らせください。放っておくと独りでどんどんしゃべり続けてしまいますから、どうぞよろしく」

 どっ、笑いが巻き起こる。普段の教室で彼女に接している者は特に、それをよく知っているらしい。先生がんばれー、などと、励ましか冷やかしかわからない声が飛んだ。

 ジェハナは苦笑で声の主に応え、もう一度小さく咳払いして真顔になった。

「では、改めて。ウルヴェーユとは……」

 既にタスハが何度か聞いた説明が、順を追って語られる。すぐに場は静まり返り、人々は熱心に聞き入った。

 誰の内にも『路』があること、その壁にはいにしえの知恵を宿した『標』がきざまれており、それを手がかりにして魂の奥底へ降りてゆけること。その方法は路を自覚した後、おのずと理解されること。そして色と音と詞を結び付けられるようになったら、ウルヴェーユを行使できる……。

「大切なのは、この『路』はほぼ間違いなく誰の内にもあり、路が開いた結果得られる感覚はあくまで正常なものだ、ということです。気が触れたのではなく、悪魔に魅入られたとか、神々が罰を下されたわけでもありません」

 そこで彼女はヨツィの例を出し、皆がああなるわけではない、路が不安定であれば起こり得ることだが、既に皆も知っての通り、正しい処置を施すことで普通に暮らすことは可能であると説いた。

「そのための道具がこれです。『鍵の白石』」

 ジェハナが言って、手のひら大のものを掲げて見せた。河原に転がっている石と大差ないような、楕円形の白い何か。だがタスハは目にした瞬間、それが歌うのを視た。

 小さな星がいくつもいくつも、色とりどりにきらめきながらこぼれだし、見えない糸を紡ぎながら空へと昇ってゆく。さざめきが広がったのは、ほかにも大勢が何かを感じ取ったのだろう。

「既にウルヴェーユを修めた人と一緒にこの石を持つことで、路が完全に開かれ、不安定であったり脆かったりすればきちんと保護することができます。あるいは、完全に路を閉ざしてしまうことも可能です。今後、目覚めた人から順次これを用いていきますので、色と音の感覚に強い不安をおぼえる方はわたしのところへおいでください。ただし、特段の事情がない限り、子供や若い女性を優先します……お静かに! 理由をご説明します!」

 途端に不穏なざわめきが生じ、ジェハナは声を大きくした。タスハも周囲を見回し、これは一度水を差さなければと手を挙げた。注目が彼の方に集まり、ジェハナがほっと息をつく。どうぞ、と仕草で促され、タスハは穏便な口調で問いかけた。

「話の腰を折って恐縮です。子供や女性でなくとも、是非にと願えば先に『路』を開かれるのですか? あるいは逆に、子供や女性であってもウルヴェーユには一切かかわりたくないと願えば、『路』を閉ざしてくださるのでしょうか。望まぬ人はそのままそっとしておき、望む人には手助けをする……そのように我々の意志を尊重していただけますか?」

 皆の漠然とした不安をすっきりまとめた質問のおかげで、場が静まる。誰もが「もちろんです」という即答を期待したに違いなかったが、ジェハナはそうしなかった。

「できる限り、尊重したいとは願っております」

 ゆっくりと用心深い言葉を返し、彼女は聴衆を見回して続けた。

「ですが、我々の都合ではなく、皆さん自身の持って生まれた資質によって、それぞれの希望に必ずしも沿えないこともあるのです。さきほど、子供や若い女性を優先する、と言ったことにもつながるのですが……一番大きな理由は、夫婦が子を生した時、夫だけが路を開かれ、妻がそうでなければ、ほとんどの場合で死産や流産になってしまうからです。お静かに! 最後まで聞いてください」

 ジェハナは再び声を張り上げ、次いで鉦を抜いてひとつ鳴らした。庭を取り囲む金色の光の糸が揺れ、どよめき騒ぐ声を打ち消してゆく。タスハは立て続けの驚きに襲われ、呆然と立ち尽くしていた。

(まさか、以前出された不可解な条件の答えがこんな理由だったとは……いやしかし、こんなに次々と術を使って見せて、これでは余計に男たちの不安を煽ってしまうぞ。女だけがこんなことを簡単にやってのけるようになって、男は取り残されたら、と)

 さもしい考えだとは思うが、実際タスハもいささか怯んでいたので、その感情を否定はできなかった。

 ジェハナはそんなことなど夢にも思わないのか、平静な口調を保って語りかけた。

「かつてワシュアールでも、ウルヴェーユが知られていなかった時代がありました。その頃はこの『鍵の白石』で資質に優れる人物を探し出し、王の位に即けていたのです。王だけが己の路を自覚し、標を辿っていにしえの知識とわざをほんのわずか引き出すことができたからですが……なぜか代々の王には子が生まれませんでした。ウルヴェーユの謎が解き明かされた時、その理由がわかったのです。路と標は親から子へ受け継がれ、親の路が開かれていた場合、子もまた生まれつき路が開いているため、赤子が胎内にいる間、母親の路を通じて子の路を守り育てることができなければ無事に生まれません。つまり、父親はともかく、これから母となる女性は子を宿す前に路を開かなければならないのです」

 つかのまの沈黙。そして、怒号が響いた。

「この悪魔! ふざけんじゃない、あたしのおなかには三人目がいるんだよ!? あんたらのせいで流れちまうってのかい! ああっ、こうしちゃいられない、帰らなきゃ。こんなところにいたら赤ん坊を殺されちまう! どいとくれ、どいて!!」

 誰かと見るまでもない、シャスパだった。いきなり罵倒されたジェハナは、まさに呆気に取られた顔で声を失っていたが、シャスパが夫を振り払い人を押しのけて出口に向かうのを見て、ようやく我に返った。

 その時にはもう、有無を言わせぬ母の主張につられた女たちが何人もシャスパの後に続き、男たちまで不安に顔を見合わせていた。

「待ってください! 誤解です、そうじゃありません! 聞いてください!」

 逃げ出す女たちよりも、ジェハナの方がむしろ混乱しているようだ。明快に筋道立てて事実を説明したのに、何がどうしてこんな意味不明な受け取り方をされるのか、予想外のことにうろたえている。

 イムリダールが天を仰ぎ、兵士らに目配せして合図を出した。庭の周囲に控えていた兵が素早く動き、帰ろうとする女たちの進路を塞ぐ。

「まだ話は終わっていない、戻れ。人心を惑わす妄言を吐き散らすならば、こちらも相応の対処を取るぞ」

 イムリダールの厳しい声が隅々まで響く。タスハは紺青の響きを目にして、声の色には性格が出るのだろうか、などと訝った。その間にも女たちと兵士の睨み合いは険悪さを増してゆく。タスハはため息をつき、深く息を吸って腹から一声発した。

「帰らせておやりなさい、総督」

 はっ、と皆が驚いて振り返る。タスハは軽く肩を竦めて見せた。術で小細工せずとも、毎日の朗詠や無言歌で声は鍛えられている。

「恐れに取り憑かれた羊を無理やり押し込めても、静まるどころか暴れるばかりですよ。家に帰って落ち着いた後で、ハドゥンに苦労してもらいましょう」

 奥方の行動にさっさとお手上げしていたハドゥンが、おい、と顔だけで抗議する。失笑が生じ、剣呑な毒の気配を薄めてくれた。シャスパが真っ赤になってこちらを睨みつけたが、タスハは丁寧な会釈を返す。

「赤子を大事にされるお気持ちはまことに尊い。だからこそ、ここで揉めて突き転ばされたりしては大変ですよ」

 シャスパとイムリダール双方に聞かせるための言葉だった。間違いなく二人ともそれを理解し、渋々矛を収める。兵士に掴みかからんばかりだったシャスパはわざとらしく腹をさすって一歩下がり、イムリダールは諦め顔で兵士に手を振った。

「通してやれ」

 兵士が道を空け、シャスパはふてくされた態度でそこを通る。ついて行こうとしていた女たちは、羊扱いで失笑されたのが悔しかったのか、結局ほとんどその場に残った。

 ジェハナがほっとして笑みを広げ、説明を再開した。

「なぜ誤解されてしまったのかわかりませんが……両親とも路が閉ざされている場合、赤ちゃんの路も閉じたままですから、妊娠中に発育が阻害されることはありません。ああ、つまり、無事に生まれます。わたしたちがカトナに来るより前、あるいは両親ともまだ路に目覚めていない内に宿った子は、何も問題ありません」

 大丈夫です、と保証しながら、女たちの顔を一人一人見ていく。

「ただ、今後は皆さんも路に目覚めてゆくことになります。わたしたちの近くに寄らなければいい、というものではありません。既にワシュアールの版図に入った土地では、現地の人々もウルヴェーユを学び始めています。人から人へ、交易や移住や旅行によって、路の共鳴は広まってゆきます。時間はかかっても、必ず。ですから今、白石を用いてきちんと路を開き保護するのは、皆さんご自身の将来のためなんです」

 ようやくのこと、荒れた雰囲気がおさまって聴衆が納得の表情になっていく。程度の差はあれひとまず全体の了解を得られたと見ると、ジェハナは白石を持ってマリシェに向かい合った。

「すっかり待たせてしまったわね。それじゃ、始めましょう。上から手を置いて」

 ジェハナが微笑み、右手に白石を載せて差し出す。マリシェがおずおずと手を伸ばし、そっと重ねた――刹那、星が弾けた。

 朝焼けの緋色、真昼の青空、夕陽の黄金。とりどりの色が瞬き歌いながら立ち昇る。

 タスハは今こそはっきりと間違いなく、己の内にあるものを知覚した。

(穴だ。深い、深い、底なしの)

 それでいて暗くも狭くもなく、広々と明るく柔らかな光に満ちて、その半透明の壁には小さな楔のようなものが螺旋を描くように埋まっている。

「《写し取れ こだませよ》」

 ジェハナが詠うのが聞こえた。タスハは無意識に顔を上げ、向かい合う師弟を視界に入れる。目に映る姿に重なるように、ふたつの路の存在が視えた。

 星を連ねた糸がジェハナの路をひと巡りし、きらめきながらマリシェの路へと飛び込んでゆく。キィン、チリン、パリン……星屑がマリシェの路に触れて砕け、澄んだ音を立てて溶け消える。それが何を意味するのか、タスハは直観で理解した。

(標の位置にしるしをつけたのか。ジェハナ殿の標をそのまま写し取るのでなく、マリシェの中にあっていずれ読み取ることができる標の在処を示した……)

 知っている。このわざを、己は識っている。

 天啓のごとき確信を抱き、タスハは慄いた。白石の術に影響されて、彼の路にある標もまた星のように瞬く。そのきらめきの度に、理由も過程も飛び越えて結論と答えが降ってくる。

(馬鹿な。こんなことが――駄目だ、やめろ、鎮まれ!)

 かたくぎゅっと目を瞑り、拳を胸に強く押し当てる。あれは己には関係ないことだ、あの二人の間でおこなわれている術にすぎない。

(動揺するな、鎮まれ……っ!)

 どうすれば良いのか本当は知っている。ただ闇雲に念じるのでなく《鎮まれ》と詞にすれば、標の連鎖反応はおさまる。《遮断せよ》と紡げば共鳴も止む。知って――識って、いる。だが。

「《開かれよ 詠えよ 新たなる路に彩を与えよ》」

 祝福の詞に応じて六色の光がマリシェの路を照らし、ゆらゆらと深みへ沈んでゆく。そうしてようやく色と音が静まり、消えた。

 タスハは堪らずその場にしゃがみ込んだ。人目を気にする余裕もない。あちこちでざわめきが起きているから、何人もがあれを視たのだろう。胸が空っぽになるまで大きく息を吐くと、理性が戻ってきた。

(皆は無事なのか)

 自分が受けたほどの衝撃を、他にも誰か受けたのではないか。心配になって、よろけつつも立ち上がる。だがどうやら、倒れたりした者はいないらしい。タスハのすぐ近くにいた人々だけが気遣うまなざしをくれたが、ほかは皆、ジェハナとマリシェに釘付けになっていた。

 ジェハナが、今の術によって初心者の路が安定することや、これだけの短時間で済むこと、施術後は独力でも路を辿ってゆけるが最初しばらくは指導に従ってほしいことなどを説明している。その視線がこちらに向けられた瞬間、タスハは反射的に顔を伏せた。

 見られたくない。目が合えば必ず悟られる。

(早く終われ、早く)

 神殿に帰りたい。ここから遠ざかり、神々のもとへ……

「おい」

 不意にささやきかけられ、タスハはぎくりとした。同時に腕を掴まれる。恐怖に竦みながら顔を上げると、見知らぬ男がしかめっ面をしていた。短く刈った黒髪と藍色の目、きれいに整えられた髭。ワシュアール人らしい清潔感だ。

「気分が悪いんだろう、こっちに来い」

「あ、あの」

「いいから来い、祭司殿がぶっ倒れたら大騒ぎだ」

 いやもう平気です、とタスハは逃げようとしたが、男の手は万力のようで小ゆるぎもしない。強引に連行されて、後ろの方から目立たないように中庭を出た。

 拡声の術が張り巡らされた庭を離れると、タスハはふっと息が楽になるのを感じた。無意識に入っていた肩の力が抜ける。同時に男も、腕を掴む手を離した。

「うん、少し顔色がましになったな」

「お世話をかけて、申し訳ありません」

 タスハが頭を下げると、男はぞんざいに否定の仕草をした。

「謝罪には及ばんよ、祭司殿にはこっちこそ散々世話をかけてる。ああ、俺はオアルヴァシュ、医者だから安心してくれ。ジェハナからあんたの様子に注意するように言われてたんだが、実際あんたの資質はたいしたもんだ。先にあんたに白石を使うべきだったんじゃ……ふん、なるほど」

 言いさして、異国の医師はタスハの表情に鼻を鳴らした。

「それだけ抵抗が強けりゃ無理か。まぁしかしこれであんたも、自分がどれだけ資質に恵まれてるかわかったろう。早いとこジェハナの指導を受けた方がいいぞ。うっかり独りで路に潜りすぎたら、帰って来られなくなる」

「わかっています」

 不本意だったが、タスハは認めた。彼が己の路と標について何も知らないとみなされたら、無理にでもあの白石を使われるか、ジェハナが彼を導こうとしてくるだろう。

 眉間を揉み、彼は痛苦の声を絞り出した。

「……閉ざしてもらえませんか」

「なに?」

「あの白石を使えば、開いた路を閉ざすこともできると。だから、……私の路を」

 閉ざしてくれ、と言いたいのに言えなかった。心がふたつに引き裂かれたようで、言葉が声にならない。

 祭司としてのタスハは、間違いなくこの感覚を恐れ拒んでいた。美しい色も、深淵からの響きも、標が解かれて降りかかる直観も、何もかもを。これらは神々とのつながりを邪魔するものだ。目の前にある現実と、そこで必要とされる神々への祈りを、色と音の感覚で美しく塗り替えてしまう。標に宿るいにしえの知識の記憶には、神々への畏敬は含まれていない。

 それでいて個人としてのタスハは、抗い難くウルヴェーユに惹かれていた。ジェハナがかつて言った、決して手の届かぬ世界の深淵や天の高みの宇宙に、魂を触れ合わせられるように神が恵んでくださったのだと――あの説こそが真実だと願わずにおれない。

「わからんな。あんたはこれまで随分ジェハナに協力してくれた。聞いた限りじゃ、ウルヴェーユを広めることの意義と必要性を理解してくれたもんだと思ってたんだが、違ったのか。それほどの資質を有していながら、なんで持ち腐れにしようとする?」

 話しながらオアルヴァシュはタスハを屋内にいざない、風通しの良い一室に招き入れて椅子に座らせた。タスハは腰を下ろした途端にどっと疲れを感じ、長々と息を吐く。そうして思わず自嘲した。

「まるで本当に老人になったようですね。しばらく立っていただけで消耗するとは」

 苦笑いしながら室内を見回し、なんとなくそこが医師の部屋だと納得する。絨毯に胡座が一般的な土地にあって、あるじと客――患者が向き合えるように椅子が置かれ、寝台が堂々と据えられている。そして書き物机と薬品棚。種々の薬草の匂い。

 ぼんやりとそれらを眺めた後、タスハは医師に目を戻した。年齢はハドゥンぐらいか、もう少し上だろう。豪胆というか大雑把というか、との評が脳裏によみがえる。

 そこでやっと思い出し、タスハは座ったままではあったが深々と頭を下げた。

「先にお礼を述べさせてください。ヨツィのこと、あなたが手を差し伸べてくださったと聞きました。ありがとうございます」

「よしてくれ、大仰な。具合の悪い奴がいたら助ける。医者として当然のことをしただけだ」

 オアルヴァシュはしかめっ面で虫でも追うように手を振り、真顔に戻ってずいと身を乗り出した。

「それが身体のことでも、路と標のことでもな。さっきの質問に答えてくれ、祭司殿。ああ、言っておくが俺はあんたの思想信条がどうでも気にしないぞ。よくよく考えたらやっぱりウルヴェーユなんてのは悪魔のわざだ、って結論に達したってんなら、路を閉ざして神殿に引きこもるのもあんたの自由だ。総督がどう対処するかは知らんがね。そうじゃなくて、あんたがウルヴェーユに触れることでどうにも具合が悪いってんなら、そこのところは医者と導師の出番だからな」

 素焼きの土器を思わせるくすんだ茶色の声は、まさに飾り気もなく率直だ。タスハは膝の上で手を組み、意味もなく指先を見つめたままつぶやいた。

「……正直、わかりません」

 胸の奥にまた、静かな流れが湧き出る。この感覚自体は決して嫌悪をおぼえるものではないのだ。しかし。

「あなた方がこの町の新たな支配者となり、ワシュアールのやり方を受け入れざるを得なくなった時、私はそれでも折り合いをつけられるだろうと楽観していました。あなた方は決して横暴でも強圧的でもなく、カトナの従来のあり方を尊重してくださった。だから、神々を崇めず不思議のわざをおこなう異教徒であっても、我々とはまったく異なる人々であっても、共にこの町で暮らしてゆくために妥協できるだろうと。……自分自身の魂まで変化を強いられることになるとは、まったく予想していなかったからです。ある意味、やや他人事の気分だったのでしょうね。見通しが甘かった」

 己に呆れるしかない。まだしも最初から警戒と敵意をむき出しにしているシャスパの方が、我が身に及ぶ危険を敏感に察知していたということだろう。

 タスハは顔を上げ、戸口を振り返って寂しげに微笑んだ。

「失望されましたか」

 視線の先で、ジェハナが小さく首を振った。彼女は痛みを堪えるような表情でタスハに歩み寄り、傍らに膝をついた。

「祭司様、あなたにはつらいことをお話ししなければなりません」

 ジェハナはまっすぐに彼の目を覗き込み、その手をぎゅっと握った。タスハは椅子から飛び上がりそうになり、堪えきれずひとつ喘ぐ。恐れと警戒と動転と羞恥が一度に襲いかかり、顔は火照るのに胃が冷たくなって、もう何をどうして良いやら。

 ごほん、とオアルヴァシュがわざとらしい咳払いをしたので、ジェハナがそちらに顔を向ける。救われたタスハは急いで彼女の指から手を抜き、怒ったようにぶっきらぼうな一言を返した。

「ひざまずくなど、よしてください」

「えっ? ……あ、ごめんなさい」

 一拍置いてようやくジェハナも、自分の姿勢が誤解を招きかねないものだと察し、赤面しながらそそくさと立ち上がった。オアルヴァシュが笑いを堪えて肩を震わせながら、予備の椅子を取ってきてくれた。

「深刻な話と仰せなら、腰を落ち着けてからにすべきでありましょうな、導師ジェハナ」

「もう、笑い事じゃないんですよ、先生」

 恥ずかしいのをごますように抗議し、ジェハナはわざと大げさな仕草で裳裾を払って座ると、居住まいを正して威厳を取り繕った。

 ゆっくりと深呼吸をひとつするほどの沈黙。誰からともなく顔を見合わせ、おもむろにジェハナが口を開いた。

「祭司様。あなたの標が白石の術に反応するかもしれないとは予想していましたが、それがあなたにとってどれほどの動揺をもたらすか、配慮が足りませんでした。事前にお話ししなかったこと、お詫びいたします。どうか路を閉ざすのは思いとどまってください」

「しかし、私には、この感覚は……」

 タスハは喉に石がつかえたように、切れ切れに言葉を押し出した。もう無理だ、こんな感覚に翻弄されたら神々に向き合えない――そう言ってすべてを退けたいのに、路を満たす豊かな光がそれを許してくれない。

 ジェハナが目を伏せて唇を噛み、険しい表情になった。膝の上できつく手を組み、決意を固めるようにぐっと顎を引いて、改めてタスハを正面から見据える。

「あなたはご自身の路が今、完全に開かれている自覚がおありでしょう。穏やかな光に満ちて、世界の根とつながり、色が巡り標がきらめく……その状態にまでなるには、普通ならもっと月日を要するのです。けれどあなたは、実際にはずっと昔から既に、ご自身の路を辿り続けていらした」

「……ずっと昔? まさか。私がこれの存在に気付いたのは、広場であなたに初めて話しかけた時ですよ」

「ええ。あの時もあなたの路はほとんど閉ざされていて、それなのにあまりにはっきり共鳴したものですから、わたしもダールも驚いたんです。今ならわかります、あなたは……まったく自覚がないまま、色と音の助けもなしに、独力で深淵へ降りていらした。祈り、という方法で」

 岩で頭を殴られても、これほどの衝撃ではなかったろう。タスハは一瞬で全身が粉々に砕けたように、椅子ごと倒れそうになった。オアルヴァシュが素早く抱き止め、しっかりと支える。

(祈り……祈りで、ああ、それで)

 標が瞬く。直観が閃く。香を焚き心を静めて一心に祈り、魂を通じて神々に問いかけ、そうして得られた啓示はすなわち。

(既に私が識っていることだったのか。魂に刻まれたこの標に宿る知恵を、そうと知らず読み解き)

 神々が応えてくれたわけではなかった。太古の人々が遺した知識と記憶を無意識の内で参照し、必要な答えと未来の予測を引き出していただけ。

 だというのに。

(――ああ、神よ。全知なるアシャ、万の目を持つ正義の守り手よ、どうか)

 それでもやはり、彼は神に祈った。歯を食いしばり、組んだ手を額に押し当てて。

 祈りの文言を口の中で唱え続けるうち、どうにか少しずつ痛みが引いていく。目尻からこぼれた熱い滴が、苦しみを閉じこめて床に落ち、板の継ぎ目に吸い込まれて消えた。

 彼の呼吸が落ち着くのを待って、ジェハナがそっといたわる声をかけた。

「祭司様、わたしにあなたの信仰がわかるとは言いません。けれど、あなたが神々を信じる心は……本物だ、と感じます。神々の啓示ではなく標による直観だとしても、それが何でしょう? 正しい標へとあなたを導いたのは、それこそ神の手だったかもしれません。わたしたちもウルヴェーユのすべてを解明しているわけではないんです。神々が介在している可能性だってあります。だから」

「ありがとう」

 タスハはやんわりと遮り、なんとか微笑んで見せた。

「大丈夫です、ええ……ええ。わかっています」

 この一事をもって神々を否定する根拠にはならない。だが路を完全に閉ざせば直観が得られることはなくなり、卜占によって何かしらの答えを出すことは困難になるだろう。だから、色と音が祈りを妨げようとも、神々を信じる心が不安に晒されようとも、祭司のつとめを果たすためにはこの感覚と付き合ってゆかねばならないのだ。

 わかっている。

 ジェハナが心を砕いて祭司の信仰を否定すまいと努力してくれたこと、それゆえのあの躊躇と決意だったことも。彼女に感謝すべきであることも。

「本当に、ありがとうございます」

 わかっているのに、どうしてこんなにも悔しく悲しいのだろう。どうして、礼を言ったのに彼女は泣きそうな顔をするのだろう……。

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