異国の兄妹

   *


 カトナ総督イムリダールは、食事をほとんど仕事の片手間にとる。立って着替えながら済ませる朝もあるほどだ。しかし夕食だけは、なるべく総督府に暮らす同国人と共にすることにしていた。導師たる妹や、医師、また諸々の役人にいたるまで、皆が問題なく過ごせているかを確認するためである。

 絨毯に並べられた大小の皿や器から、豆の煮込みや串焼き肉、パンを手元の皿に取り、銘々好きに食べる。ワシュアールの都と同じ献立とはいかないが、連れてきた料理人は良い仕事をしてくれている。今のところ、故郷の味恋しさに脱走した者はいない。

 だがそれでも、常に全員の胃袋を掴んでおくわけにはいかないようだ。イムリダールは向かいの妹を見やり、眉を上げた。

「なんだ、ため息ばかりでちっとも食が進んでないな」

「あんまり食欲がなくて。……なんだか、ここにいるのが間違いのような気がするのよ」

「祭司殿の件か?」

 既に医師から顛末を聞いていたイムリダールは、呆れ顔をした。

「おまえが気に病むことはないだろう。彼が信仰を持ち続けられるかどうかは、彼の問題だ。我々はなすべきことをなしている。それをどう受け入れ、過去の考えや常識とどうやって折り合いをつけるか、それは彼ら自身が決めることだ。終始手を引いてやらねばならぬよちよち歩きの子供ではないんだぞ」

 そこまで面倒見られるか、とばかりに一線を引く彼に、ジェハナはきつい口調になって言い返した。

「立場が逆だったら、とは想像してみないの? わたしたちが何の疑いもなく善きものと信じているウルヴェーユについて、実は全部嘘でした、って言われたら。ある日突然『最初の人々』が戻ってきて、君たちの魂にいろいろ刻みつけたのはつまらない落書きで間違いだらけだし、世界の深淵に触れていると感じているそれは錯覚なんだよごめんね、だとか教えられたら、絶望せずにいられる? わたしたちはそういう仕打ちをしたのよ」

「わけのわからん想像をするやつだな」

「たとえばの話よ!」

 真面目に取り合ってくれない兄にジェハナは憤慨したが、彼の態度は変わらなかった。

「神殿にあまり入れ込むな。どうせいずれ廃れる。カウファ家の奥方でさえ、その内にはウルヴェーユの世話にならざるを得なくなって有用性を認めるだろう。祈りが気休めにしかならない時も、知識とわざは困難を乗り越える力となる。……そんなことより、マリシェの指導は上手くいっているのか?」

 イムリダールは問いかけ、ちらりと視線をオアルヴァシュの方へやった。医師の隣ではヨツィが楽しげにしゃべりながら、食事をぱくついている。例によって猫のごとく、恩人の身体にべったり寄りかかって、時々「あーん」と口を開けて食べさせてもらったり。

 イムリダールの視線に含まれる意図を察し、ジェハナは複雑な苦笑をこぼした。

 ヨツィの劇的な変化は、カトナの住民に対して強烈な印象を与えた。ワシュアール王国は見捨てられた獣のごとき小娘さえも救えるほどの、慈悲と力を備えているのだと見せつけた。しかし、それまでだ。

 彼女はジェハナの助手として教室の雑用をこなせるようにはなったが、それ以上に進む気配はない。読み書きを覚えようとしてはいるがあまり熱心ではないし、学びも遅い。素行もあまりよろしくない上に、有力な血縁もいない。すなわち、これ以上は総督府の宣伝看板にできないのだ。ゆえにイムリダールはその役割を、一番弟子たるマリシェに期待しているのだろう。

「あなたが考えることはいつも実際的よね、ダール。達すべき目標、片付けるべき問題、そのための手順と必要なもの、あれこれあれこれ」

 皮肉めかしたジェハナに、イムリダールは眉を上げた。それの何が悪い、と目つきが語る。ジェハナは新鮮な瓜を一切れつまんで口に運び、それ以上の棘が出ないように飲み込んだ。

「ご心配なく。マリシェは順調で何の問題もありません」

「それならいい。アハマト家は地主でないぶん何かと融通がきくし、新しいものにも柔軟だ。大いに助けになってくれるだろう。娘が資質に恵まれていて幸運だった。おまえもこの調子なら、一年で都に戻れそうだな」

 当然嬉しいだろうという声音で言われ、ジェハナは喉を詰まらせそうになった。水を飲んで動揺をごまかし、呆れ顔をする。

「ついこの間、着任したばかりじゃない。ろくに何もしていないのに気が早すぎるわよ。まだまだこれから」

 気合いを入れるように拳をつくっておどけ、話を終わらせようとしたが、イムリダールは流されてくれなかった。

「何をのんきに構えているんだ。特段やっかいな問題もないこんな町で、だらだらと時間をかけられないことぐらい、わかるだろう。任期満了までに成果を上げられなければ、都に戻ってもろくな地位に就けないまま干されるだけだ」

「わかってます」

 ジェハナは苛立ちを隠しもせず、説教の語尾にかぶせるように応じて遮ると、むっつり不機嫌になって料理をつついた。いつまでもこの町にいられるわけではない、期限つきの赴任であることは承知している。だがなにも、日が昇ったばかりなのにもう夜が来るぞと脅さなくても良いではないか。

 彼女が沈黙の黒雲に引きこもると、横でイムリダールがやれやれとため息をついた。

「おまえが初仕事で失敗したら、私が皆に責められるんだぞ。兄上たちにどんな目に遭わされることか。少しはこの憐れな『ちい兄さま』を思いやってくれよ」

 直後、ジェハナは乱暴に器を置いて立ち上がった。なんだなんだ、と陪食者らが振り返ったが、彼女はただ兄だけを睨み据え、ぎりっと歯を食いしばる。怒りが路の奥を波立たせるのを感じ、一言も発さないまま荒々しくその場を去った。

 大股にずかずか歩いて中庭に出ると、階段の端にどすんと腰を下ろす。軒に吊るされたランプが落とす柔らかな光の円からわざと外れ、暗がりに隠れるようにうずくまっていると、生温い夜風が甘い花の香を運んできた。

 怒りの渦がおさまった頃、軽い足音が近付いてきた。振り返るまでもなく、路の気配で誰だかわかる。すとんと横に腰を下ろしてもたれかかってきたのは、ヨツィだった。

「導師さま、いなくなっちゃうの?」

「……まだよ。まだ先」

 ジェハナは嘘をつけず、寂しげに答えてヨツィの髪を撫でた。

「なんで? ずっといればいいのに」

「そうしたいけれど、交代しなければいけない決まりなの。同じ総督や導師がずっとひとつの町に居続けたら、いろいろ良くないことになるから」

 支配地の郷士や商人と癒着し、不正や汚職の温床になる。あるいは王と故郷への忠誠を忘れ、その地に染まってしまう。だから、総督の任期は基本が一年、長くて二年。導師の方は、赴任先に飛び抜けた資質の持ち主がいたり、あるいは近くに古代の遺跡が発見されたりすれば、もう少し融通が利くが、それでも三年以上同じ土地にいるなら、導師としての職権を停止される。

 そうした話をしてもヨツィにはわかるまい。少女は不満げな顔をして、ジェハナに身体を擦りつけた。

「なんで良くないのか、わかんない。導師さまも、あたいを捨てちゃうんだ」

「……ごめんね。わたしもヨツィとお別れしたくないのだけど。せめてここにいられる間に、できる限りのことは教えるから。わたしの後に来る人にも、ヨツィのことはしっかりお願いするわ」

「せっかく仲良くなったのに、また知らない人と入れ替わるなんて、変なの」

「そうね」

 少女の素朴な不満に、ジェハナも改めてつくづくとうなずく。汚職を防ぐために、『王の耳目』と呼ばれる役人が各地を巡って密かに監視しているのだから、頻繁に総督府の人事異動をおこなう必要などないだろうに。引き継ぎだけで一苦労して、やっと慣れたと思ったらまた別の土地へ行くなど、非効率的ではないか。

 鬱々と考えていると、頭上から紺青の声が降ってきた。

「役人を辞めたら、ずっとこの町にいられるぞ。だがそうしたら、どうにかして食い扶持を稼がなければならない。読み書き教室を有料にしたら、生徒はいなくなってしまうだろうな」

 半ば冗談、半ば真面目な口調だった。イムリダールはヨツィを挟んで腰を下ろし、ジェハナに目礼した。

「さっきは保護者ぶって悪かった」

 率直な謝罪に、ジェハナは黙って首を振る。それから彼女は、軽いため息をついて夜空を仰いだ。

「……結局わたしたち、ショナグ家の桎梏から抜け出せないのかしら」

「だからなのか」

 イムリダールが問いかける。その意図がわからずジェハナが目をしばたたくと、彼はじっと彼女を見つめて繰り返した。

「だからおまえは、この町に肩入れするのか。ショナグ家の軛から自由になりたいからこそ、ことさら今までの暮らしと異なる場所や人に引き寄せられ、神殿に入れ込むのか」

 思ってもみなかった指摘を受けて、ジェハナは驚き、とっさに答えられなかった。初めて自問し、ああ、と納得する。

「考えたこともなかったけれど、そういう部分もあるのかもしれない。ええ、多分そうかもね」

 素直に認めた妹に、イムリダールは優しい苦笑をこぼした。うんと伸びをして仰向き、屋根越しの夜空に星を探すふりをする。

「だがやはり、どこまで行っても生まれ育ちからは逃げられないのだろうな。私もおまえも、こんなに西まで来て、ワシュアールの法もウルヴェーユの知識もろくに伝わっていない土地で、ショナグ家の名も知らない人々を相手にしているのに」

「ちい兄さまは相変わらず妹のお守りを押しつけられて、膨れっ面だものね」

「それはもう謝っただろう」

 勘弁しろ、と呻いた兄に、ジェハナは小さく笑った。久しぶりの家族らしい会話は妙にくすぐったい。眠そうにしているヨツィの邪魔をしないように、ささやき声でしゃべる。

「昔から時々、想像してみることがあるの。ずっとずっと遠くへ……『最初の人々』が去ったといわれる日没の向こうへ行ってみたいって。家も地位も国も、何ひとつ持たないただの『わたし』独りで。実際にそんな状況になったら生きていくのも難しいだろうけど、それでも……ね」

「ああ、わかるよ。私もたまに夢想する」

 イムリダールも穏やかに同意した。しんみりと沈んだ雰囲気になってしまったので、ジェハナは急いで表情を明るくし、言葉を続ける。

「でもねダール、わたしが神殿贔屓になっているとしたら、それは絶対に後ろ向きな逃避願望から出たわけじゃない。祭司様の礼拝を見て初めて、祈りの美しさを知ったからよ」

 途端にイムリダールが胡乱げな顔をした。ジェハナは必要以上に厳しい目つきを返す。

「嘘じゃないわ。あなたにはわからないでしょうけど。まったく、無理して来なくていいと言われたからって、本当に一度も神殿に詣でないなんて、失敬きわまりないわね」

「不信心者が退屈そうに突っ立っているほうが失敬だろう。初穂祭はちゃんと参加したじゃないか。都の祭礼のほうが見応えがあったぞ」

「つまらない人」

「つまらなくて結構」

 素っ気なく応じてイムリダールは立ち上がる。

「いつまでもここにいないで、部屋に戻って休めよ。おまえは総督府の外で過ごす時間も長い。気を付けないと体調を崩すぞ」

「はいはい」

 この暑さだし外は不衛生だから、と言うのだろう。心配性だな、とジェハナは苦笑したが、さっき食欲がないと言ったせいかもしれないと思い出す。

「ありがとう」

 礼を付け加えると、それでイムリダールは安心したらしく、ひとつうなずいて屋内に戻っていった。

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