変化の始まり

   *


 久しぶりに参拝者の多い昼礼拝が予想され、タスハは緊張していた。礼拝を執り行うようになって十年近いというのに今さら硬くなるのは、ほかでもない、ジェハナが見ているせいだ。生まれてこの方かけられたことのない賛辞をまともに浴びせられて、意識するなと言う方が無理である。

(落ち着け、あの『美しい』は祭儀全体のことであって、私個人のことじゃない。いやそんなことはわかっている、そうではなくて)

 先代祭司のもとで修行を積んでいた頃を除けば、礼拝も祭儀も、他人の目を意識したことなどほとんどなかった。祭司が相対するのは神々であり、会衆の前で格好をつける必要はない。皆がちゃんと神に祈っているか、それによって心の平安を得られているかを気にかけはしても、己がどう見られているかなど考えなかった。それを今になって。

 ゆっくりと深呼吸し、目を閉じて胸の前で手を合わせる。聖火の揺らめきと薪のはぜる音だけを意識に満たし、雑念を払い心を清める――どうにか成功した。

(いつもと同じだ。アータル神の導きに感謝し加護を祈る、神々の恵みがカトナにもたらされるよう取り計らうのが私のつとめ。儀式は出し物ではない、ましてや私自身のつまらない欲や見栄で穢してはならない)

 心を定めると、彼はいつもより強い気持ちで礼拝に臨んだ。

 それが幸いした。礼拝室にぎっしり人が詰めかけるなど、滅多にないことだ。祈らねば、と皆が切迫するような出来事があったわけでもないのに。

 タスハは驚き動揺しかけたのを、すぐさま抑制した。これは礼拝だけが目的なのではない、きっとジェハナの教室に入りたくて来たのだろう。推測だけして、後に続きそうになった感情にぴたりと蓋をする。

(余計なことを考えるな)

 火に邪念をくべぬように。祈りに私情を加えぬように。

 彼は己と神々だけを意識し、おもむろに無言歌の最初の一音を解き放った。ジェハナのみならず、ウズルやマリシェ、何人もがはっとして身じろぎしたが、それらはもう彼の目には入らなかった。

 いつもと変わらぬ内容の、しかしどこか今までとは違う礼拝が終わる頃には、タスハは清々しい落ち着きを取り戻していた。

「さて、今日は随分大勢が神々と語らいにおいでくださったようですが、読み書きを学ぶのも同じぐらい重要なことと認められたようで、喜ばしい限りです」

 彼がおどけて言いつつ一同を見回すと、曖昧な笑いが広がった。どちらが主目的でどちらがついでであるのか、知っているのは参拝者本人だけ、というわけだ。

 タスハは真顔になって続けた。

「あいにくですが、教室に使っている食堂に入れるのは十五人ほどが限界です。是非とも今日、学びたいという方は手を挙げてください」

 ざわつき、様子を窺いながらも次々に手が挙がる。ふむ、とタスハは思案し、少し待つように手振りで指示してからジェハナのところへ行った。

「どうなさいますか。一日あるいは二日置きに人数を振り分けるか、場所を総督府に移しますか?」

「ど……う、しましょう。まさかこんなに一度に増えるなんて。ええと、総督府に移るのは、少なくとも今日は無理です。あちらで何も準備していませんし。でも、せっかく来てくださったのにお引き取り願うのも……」

「そうですね。なんだ無理なのか、と諦めて次から来なくなるかもしれません。それは困りますので、とりあえず今日限りのことであれば、食堂に入りきらない人数は私が引き受けましょうか」

「えっ? でも、場所が」

「外にあつらえむきの木陰があります。私も昔はよくそこで師の教えを受けました。粘土板がなくても、地面に書けば済みますからね。あなたの教え方とは少し違いますので、今日が初めての子だけを集めて基本の文字を教えましょう。それとも、既にある程度読み書きができるようになった子を集めて、神殿の蔵書を外で共に読みましょうか」

 聞くうちにジェハナも思考力を取り戻し、最後には笑顔になって大きくうなずいた。

「ああ、それがいいですね! 書物は文字が細かいでしょうから、屋内よりも外の方が明るくて見やすいでしょう。急なことですのに、ご親切にありがとうございます。本当に何から何までお世話になって、どれほど感謝しても足りません」

「いえ、こちらこそ。おかげでさまで、子供らに神話を読ませる機会を得られるというものです」

 タスハは応じて澄まし顔をつくる。ジェハナは目を丸くし、してやられたと苦笑した。

 分担する生徒を割り振りし、シャダイに準備を言いつけて、タスハ自身はウズルと共に礼拝の後片付けをする。そんな様子を見ていたハドゥンが、息子をジェハナのところへ行かせてから、タスハに歩み寄ってその背をこっそり殴った。

「お人好しも大概にしろ、この馬鹿。まるっきり、軒を貸して母屋を取られちまったじゃねえか」

 ささやき声ながら苛立ちもあらわに叱咤され、タスハはなだめる口調で応じた。

「おまえだってシウルを連れて来たじゃないか。礼拝室を占拠されたというのでもあるまいし、そう怒るなよ」

「何をのんきに」

 ハドゥンが舌打ちしたので、タスハは眉を上げた。

「総督府と揉めたのか? おまえはジェハナ殿に好意的だったろうに」

「好き嫌いの話じゃない。はぁ……そりゃあな、魔女にも総督にも、認めたくはねえが大いに世話になってるし、悪い奴らじゃねえんだろうってのはわかる。だがおまえ、こんな調子じゃそのうち、神殿に来たのに礼拝室を素通りして魔女のところへ行く奴ばかりになっちまうぞ」

「取り越し苦労だよ、ハドゥン。私だって教室で神々の教えを説く機会ぐらいは確保するさ。人が来ないよりは来る方がいい。それに……楽しそうな皆を見るのは悪い気分じゃない。ほら」

 タスハは微笑み、ジェハナの方を視線で示した。すっかり助手らしくなったヨツィが、おっかなびっくりのマリシェに話しかけられている。じきに意気投合したらしく、少女たちに笑顔が弾けた。そんな光景を目にしては、さすがにハドゥンも不機嫌面を保てない。やれやれと諦めた。

「ああ、まぁな。わかったよ……おまえが惚れた弱みで神殿丸ごと貢いじまおうってんじゃねえなら、いいんだ」

「だから違うと何回言わせるんだ!」


 その日を境に、ジェハナの教室も総督府も、町の暮らしへどんどん溶け込みはじめた。

 教室は一日二回に増やされた。午前中に総督府で一回、昼礼拝の後に神殿で一回。総督府では庭の一画や広い会議室を使って大人数に対応し、結果すべての希望者が読み書きを学べることになった。

 総督府の片付けや改修もようやく終わって余裕ができたらしく、イムリダールも頻繁に町の様子を見て回るようになった。お供の兵士を必ず一人は連れているが、いつも気安い鷹揚な雰囲気を漂わせているため、町の者も普通に挨拶をし、言葉を交わす。

 用事で商店や工房と往来する使用人も、以前より相手方と親密になり、より近くで、より長く会話するようになっていく。

 そうして総督府の人々――すなわち開かれた『路』に音と色を響かせる人々が、カトナの人々と親しさを増すにつれ、ジェハナが予告したことが現実になりはじめた。

「祭司様」

 呼びかけの主がジェハナであると認識する一瞬前、タスハは無意識に、穏やかな夕暮れの空を連想していた。優しい藤色と薔薇色のあいまった色。なぜそんな心象風景が浮かんだのかを不思議に思う間もなく、彼はすとんと納得していた。

(ジェハナ殿の声だ)

 まるで神々からもたらされる啓示のように、何の疑問も迷いもなく。振り返って確かに彼女がそこにいるのを認めた後で、ようやく彼はたじろいだ。返事がないことを訝しんだジェハナが小首を傾げる。

「どうされました?」

 その声にもまた、夕空が添う。煩わしくはないし、目に見える景色に色がかかることもないが、ただ……わかる、のだ。

「失礼、ぼんやりしていました」

 恐る恐る答えると、自分の声には何も感じなかった。そういうものなのか、別な理由があるのか。だがタスハはあえてそれを知りたいとは思わなかった。強いて気持ちを切り替え、目の前のジェハナと、その後ろのマリシェに注意を限定する。

 正午礼拝までは間がある。総督府での教室を早めに切り上げて来たのだろう。

「今日は何か相談事でも?」

 タスハが問いかけると、マリシェが身じろぎした。ジェハナがその肩を励ますように抱き、顔だけタスハに向ける。

「実はマリシェの路が予想よりも力を通しやすかったようで、もう色と音の感覚を得ているらしいんです。ヨツィと親しくなったのも一因でしょう。マリシェ、祭司様のお声は何色だった?」

「……黄色、です。白っぽい黄色」

 おずおずとマリシェは答え、怒られはしないかと窺うように上目遣いになる。彼女の答えと同時に熟した杏の色が意識の端をかすめ、タスハは目をみはった。

「先日ジェハナ殿がおっしゃったことが、いよいよ本当になったのですね。自然と人の声に色を感じ取るだろうという、あれが……」

 こういうことなのか。己だけでなくマリシェも、そしていずれは誰もが、さっきの夕空のように、今の杏色のように、声だけでなく色を同時に捉えるようになるのか。

 ぞわりと背骨に冷たいものが絡みつく。己がこれまでとは違う別のものにつくり変えられようとしている、そんな恐怖が心臓を掴んだ。知らぬ間に骨まで染み込んだ異物が蠢き増殖し、内から魂と身体をじわじわと食むような。

 タスハの顔に表れた怯えを見て取り、ジェハナが哀しげに眉を下げた。そしてすぐに、励ますように明るい笑みを広げる。職務のための作り笑い。

「どうか恐れないでください。もちろん、生まれた時から音に色を視るわたしたちとは違い、祭司様やカトナの皆さんは今初めて異なる感覚を知るわけですから、足が竦むのは当然ですけれど……でも、決してあなた方をまったく別の世界へ連れて行くわけではないんです。ただ、見え方が変わるだけ。今までよりも、世界の美しさが本当にしっかりと感じられるようになる、素晴らしいことなんです」

 訴える声に夕風の気配がする。タスハはジェハナから気をそらせようと、マリシェの様子を見た。

「……君はどう思いますか、マリシェ。こうして話しかける私の声にも色が見えているのでしょう。煩わしさや、恐ろしさは感じないかい」

 タスハの問いかけに、少女はまさかという顔で首を振った。どうやら彼女の心配は、単純に祭司が己を許してくれるかどうか、神々の怒りを買わないかどうか、ということだけらしい。新たな感覚に怯えてはいないのだ。

(これが若さということか)

 いささか萎れた気分で痛感する。新しい感覚、開かれた世界に、向こう見ずにも飛び出してゆける若さ。はじめてのものを受け入れる、怖いもの知らずの柔軟さ。

 タスハがつくづくと見つめていると、彼女は思い切ったように口を開いた。

「怖くないです、それどころかすごくきれいなんです! 祭司様、これって罰が当たるんでしょうか? でも本当にたくさんの色が溢れていて、きれいで……えっと、そう、それこそあらゆるところに神様のお力が宿っているんだ、って感じられるんです! ヨツィも以前は時々混乱させられて怖かったそうですけど、今は何もかもが本当にきれいだ、って嬉しそうで。だから、あの、祭司様……」

「落ち着いて。そんなに泣きそうな顔をしなくても、大丈夫ですよ。世界を悪意で染めるものであるならともかく、そのように敬虔な心にさせるものを、神々が罰せられることはありません。これまでと変わらず、あなたを守ってくださいます」

 タスハは穏やかに諭した。半ば自身に言い聞かせるためでもあったが、おかげでいくらか気楽になる。彼はマリシェの両肩に触れて祝福を与え、改めてジェハナに向き合った。危ういところを脱したのは彼女も理解したようで、ほっとした表情になっている。

「今後もこうした導きが必要になると、知らせに来てくださったのですか」

「はい。ウルヴェーユについて、より具体的にご説明すべき段階に来たと判断しました。近々そのための場を設けますので、祭司様にもどうかご協力をお願いいたします。わたしたちが使うぶんにはウルヴェーユも便利なわざだ、と理解していただけたようですが、まだ皆さん自らが修得するには、不安も懸念もあるでしょうから」

「神罰を恐れる必要はない、と私から皆に推奨することをお望みですか」

 タスハは苦笑いになった。ジェハナから依頼に来たとはいえ、ウルヴェーユを教え広めるのに神殿の許可が不可欠というのではない。神殿が彼らのために人心をなだめ、宣伝係をつとめるよう期待されているのだ。

 彼の皮肉にもジェハナは動じなかった。強いまなざしで、まっすぐに答える。

「ウルヴェーユに関する疑問や不安に対してならば、わたしたちはいくらでもお答えします。どのようなわざであり、どう作用するのか、使うことで何が変わるか。ですがどれほど説明したとしても、神々に背くことにならないか、神罰が降らないか、という不安を払うことはできません。それができるのは、真に神々に仕えるあなただけです。以前も申し上げたように、望むと望まざるとにかかわらず、ワシュアール人とかかわる限り『路』は目覚めます。あなたがウルヴェーユを邪悪と断じれば、すべての人が、己の魂は悪に染まったのだと苦しむでしょう。そのような破滅を招かないために、どうか力を貸していただきたいのです」

 滔々と述べる声が、夕陽のように眩しい。タスハは我知らず目を細めて聞き惚れ――見入っていた。

「あなたのその、まっすぐな熱意は眩しいばかりですね」

 ふっと微苦笑がこぼれる。比喩でなく文字通りの意味でも眩しいとは。

 己が善を為している確信、使命感。翻って我が身は、かつて一度でも神官としてのつとめにこれほどの熱意を抱いたことがあったろうか。

 ジェハナの言い分は筋が通っている。ただし「カトナの全員が内なる路を有し、いずれ必ずそれに目覚める」という前提が正しければ。

(彼女はその点には疑問を持たないのか? この『路』の感覚が『最初の人々』の血を引く証にすぎず、そしてまたほとんどすべての人に見られるものである、と信じているんだろうか)

 実際はワシュアール人と接触することで感染する、罪の烙印であるという可能性は?

(しかしそれを突き止めることは、私にも、彼女たちにも不可能だろう。現にこうして目覚めた者がいる以上、いつからどうして『路』が魂の内にあるのかを論じても遅い。私がなすべきは、それが神々の恵みを損なう邪悪ではないと確かめ、皆が安心して暮らせるようにはからうことだ……)

 どのみちそれ以外に選択肢はない。ワシュアール人のみならず目覚めた者すべてを町から追放し、二度と寄せ付けない、などという案は現実的でない。タスハとて、彼らを――ジェハナを、悪魔の手先と断じて罵りたいわけではないのだから。

 長考の末、ようやくタスハはひとつうなずいた。

「承りました。カトナの祭司として、皆の魂の平安を守るために微力を尽くしましょう」

「ああ、ありがとうございます」

 ジェハナは深く息をつき、ほっと安堵して柔らかな笑顔になった。こちらを信頼しきった目で見つめられ、タスハは慌てて白々しく聖域奥の神像に向き直る。

(この愚かな男をお許しください、そしてなにとぞご加護を。正しき眼で正邪を見極めることができますように)

 少々後ろめたい気持ちを抱いて、彼は手を合わせて頭を垂れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る