教室にて

   *


 うららかな陽射しが降り注ぎ、日々深みを増す空が、遙か彼方の響きを降らせる。ジェハナはうんと伸びをして青い音色を心身に満たすと、気合いを入れて歩きだした。

 今日は初めての教室だ。正午礼拝に間に合うように神殿へ行かねばならないが、その前に彼女はどうしてもやっておきたいことがあった。

 帯に挟んだ数本の細い金属の棒――鉦を抜いて握り、歩きながらそっと小さく打ち鳴らす。淡く白い波が拡がり、一箇所でわずかに歪むのがわかった。そちらへ足を向けてほどなく、彼女はヨツィを見付けた。逃げられないよう、離れた位置で立ち止まる。

 少女は前と同じく汚れきった姿のまま、座り込んで宙を見上げてぼうっとしていた。指先を半端な位置にもたげ、拍子を取るようにゆらゆらと振りながら。

「あー……あ、ぁ」

 調子外れの歌が唇から漏れた。赤、緑、黄。ジェハナはその色を辿り、同じ音をそっと鉦で繰り返す。色の波が優しく触れ、ヨツィはうっとり目を閉じて身体を揺らした。

 ジェハナは注意深く音を辿り、半歩、一歩と進みながら己の路を意識し、彼女のものに共鳴させてゆく。

(ああ、やっぱり)

 予想通りの反応を得て、ジェハナは確信した。ヨツィの路は既に開いている。強度はあるが不安定で、外界の刺激に対して大きく揺れていた。

(可哀想に)

 この様子では昔から、色に音を聞き、音に色を視るだけでは済まなかっただろう。ただそれだけであったなら、特異な感覚を持つ者として孤立しようとも、理性も知能も正常に発達していたはずだ。誰にも導かれなかったがために、絶えず自身の路の反響に惑乱されてまともな思考もままならず、こんなありさまにまでなってしまった。

(でも、それも今日限り)

 ジェハナは呼吸を静め、己の路へ意識を向けた。

 コォーン……

 鉦を鳴らして余計な音を消し、安定した色を路に伝える。白、赤、緑……青、黄、紫。基本の六音を順に。色と音につながる世界の力を、今はできるだけ削いで、ごく単純な作用として巡らせる。己の路から、ヨツィの路へ、連なる色の流れとして。

 揺れ動き震えていたヨツィの路が落ち着き、壁に螺旋を描く標が無秩序な反応を静めて沈黙する。そこへ、ジェハナは《詞》を紡いだ。

「《白銀を縒りし蜘蛛の糸 巣となり網を成せ

  守り支えよ 揺らがぬよう 流されぬよう》」

 リィン、と路が応える。色と音を結び合わせた《詞》が、ジェハナの路の奥、深い泉の底へと届き、白い光を細い糸に紡いで巻き上げる。輝く糸はヨツィの路へと送られて、しなやかな網を織りなし、揺れ動く壁を支えるように内と外を瞬く間に包み込んだ。

 ヨツィが黒藍色の目を大きくみはり、ジェハナを凝視する。震える唇からこぼれた声が銀色に瞬いた。

「う……ぅ? なに、したの」

 彼女自身の声に反応し、蜘蛛の糸が朝露を纏ったようにきらめく。同じ白銀の色。

 ジェハナは微笑み、祭司の語り口を思い出しながら、できるだけ穏やかに話しかけた。

「素敵な声ね、ヨツィ。きれいな銀色。同じ色の糸であなたの路を支えておいたから、これからはもう混乱させられることはないわ」

「……? わかんない、あんた、なに言ってるの」

 ヨツィは首を振り、怯えて後ずさる。だが手はぎゅっと胸元を握り、身体に反してまなざしは食い入るようにジェハナに迫った。

 やはりさすがに、即座に感謝感激されるとはいかないか。ジェハナはほろ苦く考えながらも、あくまで優しく言った。

「長い間つらかったでしょう。もう大丈夫よ」

「――!」

 ヨツィが息を飲む。見る間にその瞳が潤んで揺れた。が、まだ警戒は緩めない。じりじりと後ずさっていく。ジェハナは追わず、その場に佇んだまま続けた。

「総督府に……役所に、いらっしゃい。あなたと同じ、皆、色と音を知っているから」

 そこまで聞いてヨツィはぱっと身を翻し、路地の奥へと走り去った。

 ジェハナはしばらく待ってみたが、戻ってくる気配はない。そっと鉦を鳴らして捜したが、もう近くにはいないようだった。

 多少がっかりしたが、このぐらいは予想していたことだ。逆恨みされたり余計に怖がられたり、最悪、術が失敗することまで考えたのだから、それに比べたら上首尾と言うべきだろう。

(まぁ、悪くはないわよね。総督府に来てくれなくても、これで落ち着いて話ができるようになるだろうし、少しずつお近付きになればいいわ)

 自分を褒めてうんとうなずき、ジェハナは神殿へと歩きだした。


 礼拝室には珍しく大勢が詰めかけていた。ジェハナが入るといっせいに視線が集まったので、どうやら読み書き教室の告知が町に行き渡った成果らしい。ハドゥンも奥方と共に来ていた。

 これ全員が希望者なのかしら、と嬉しい驚きにジェハナは笑みほころぶ。しかし途端に大半が顔を背けたり眉をひそめたり、周囲の顔色を窺ったりと複雑な反応をしたもので、膨らんだ期待も一気にしぼんでしまった。

 野次馬的に偵察に来ただけ、あるいはむしろ我が子が〝魔女〟の教室に入れられるのを阻止しようとしてか。根回ししたカウファ家の顔を立てるために、頭数だけ揃えたというのもあるだろう。

(そんなに甘くない、か)

 ため息をつきたくなるのを堪え、いつものように聖域が見える壁際にそっと退く。ウズルが献納台の品を聖域へ運び、タスハがそれらを祭壇に供えていく。丁寧な手つき、恭しい動作を見ているだけで心が洗われるようだ。

 ジェハナ自身は、神を崇める気持ちがしかとあるわけではない。神々とは人智ではかれる存在ではない、という立場だ。在るのか無いのか、在るとしてどのようなものであるのか、伝えられる神話が正しいのか間違っているのか。判断を下すのに、何ひとつ確実な根拠はない。

 それでも、祈る人の姿は美しいと感じる。自然と己も敬虔な気持ちになる。彼らの抱く信仰に理解も共感もできずとも、それが消えてなくなることは望まない。

(そう言ったらまた、ダールには呆れられるんでしょうね)

 兄の顔を思い浮かべ、ジェハナは内心鼻を鳴らした。彼は神殿を、扱いに注意すべきものとして認識しているだけで、敬意を持っていない。神殿が強い求心力を持つことを警戒し、一方で人々の不安や不満を吸収し緩和する役割を期待している。勝手なものだ。

(ワシュアールの官吏として、武人として、ショナグ家の一員として……彼の態度は正しいんでしょうけれど。わたしは違うわ)

 あれこれ考えている内に礼拝は滞りなく進み、終了した。

 いつものようにタスハの小さな咳払いで、日常が戻って来る。だが常とは異なり、誰もすぐには帰ろうとしない。タスハが聖域から礼拝室に出てきて、祭壇の傍らに立った。

「皆さん。既にご存じの通り、この後ワシュアールの導師ジェハナ殿が読み書きの教室を開かれます。場所は食堂を予定しておりましたが、十人ほどしか入れません。今日、授業を受けられるつもりの方は手を挙げてくださいますか」

 問いかけに対し、参拝者らはおずおずと顔を見合わせる。少女が一人、サッと高く手を挙げた。たっぷり二呼吸ほどの間を置いて、ようやくもう一人、幼い子供が。そして最後にほとんどわからないほどの仕草で、身を縮こまらせた中年の男。

 三十人以上はいるだろうに、その中でたったの三人。いったい何をしに来たのだと呆れるが、礼拝にかこつけたのはジェハナも同じなので文句を言える筋合いではない。彼女は進み出てにっこりと愛想の良い笑顔をつくり、呼びかけた。

「ではその方々はわたしと一緒においでください。今日は都合のつかない他の皆さんも、またいつでも気軽においでくださいね。特段のことがない限り、毎日、正午礼拝の後に教室を開きますので、来られる時に来ていただければ結構ですよ」

 こちらへ、と生徒三人を促して外へ出る。一足先に出たウズルが、皆を先導して居住棟へ案内した。『先輩』になるのが嬉しくて張り切っているのだろう、とジェハナは微笑ましくなったが、生徒の一人が年齢の近い少女であることも無関係ではあるまい。

 最初に手を挙げた少女は、以前タスハに占いを頼みに来たマリシェだった。ふっくらした体型や、くるくる渦を巻く栗茶の髪の艶からして、裕福な育ちであると窺える。

(たしか、水運業者の娘さんだという話だったわね。やっぱり家業の関係で必要なのかしら。単に好奇心というのもありそうだけれど)

 ふむと観察していると、視線を感じてか少女はくるりと振り向き、はにかみつつも明るく懐っこい笑顔を見せてくれた。

「先生、よろしくお願いします!」

 弾むような杏色の声がくすぐったい。ジェハナが「こちらこそ」と応じる間もなく、ウズルが食堂の扉を開けながら口を挟んできた。

「俺も一通りは読み書きができるから、わからないことがあったら聞いてくれよな」

 神官としての口調ではなく、年相応の少年らしい物言いになっている。ジェハナはにやけそうになったのを堪え、真顔を取り繕った。

「そうですね。わたしがいない時は、祭司様やウズルさんにも対応していただけると助かります。よろしくお願いしますね」

 からかう気配が声に滲むのは、隠しきれなかったようだ。ウズルが頬を染めて視線をそらし、後ろで中年男が白々しい咳払いをした。

 食堂は意外に広かった。十五、六人は一度に会食が可能だろう。細長い机が二脚と背もたれつきの椅子が三脚、簡素な腰掛が十脚ばかり。タスハと弟子二人で物置から引っ張り出してきたものだ。田舎町とはいえ、最盛期にはこの神殿にも大勢の神官がいたらしい。上座の奥の壁にはくぼみがあり、アータル神の像が安置されている。腕に抱えられる程度の小さなものだ。

 机上には既に筆記具の準備が整っていた。神官見習いのシャダイがやってくれたのだ。ジェハナは感謝しつつ皆と席に着き、おもむろに切り出した。

「最初にお断りしておきますが、わたし一人で生徒を教えるのは、実は初めてなんです。都の学び舎で助手をしながら指導方法を勉強しましたが、あちらとこちらでは何もかもが違いますから。不都合や不便は遠慮なくおっしゃってください。個別に対応します」

 そこまで言い、年少の子供がきょとんとしているのに向けて言い直す。

「よくわからない、とか、そんなこと知ってる、とか、どんどん言ってちょうだいね」

 途端に幼子はいい笑顔になって、あい、と舌足らずな返事をする。ジェハナがうなずいて顔を上げると、他の生徒二人もやっと納得したような表情をしていた。あっ、とジェハナは早速の失敗を悟る。

「ごめんなさい、もしかしてわたしの話し方はわかりづらいですか。祭司様にも言われたのですけど。まるで書物を読み上げているようだ、って」

「いえっ、大丈夫です!」

 マリシェが否定するのと、男が大きくうなずくのが同時だった。マリシェは隣席の男をじろっと睨んでから、ジェハナに向かって身を乗り出す。

「ちょっと難しいけど、ちゃんとわかりますから。あの、先生の話し方は格好いいと思います!」

 格好良くても意思疎通がままならなくては意味がない。ジェハナは苦笑し、ひとつ深呼吸して肩の力を抜いた。王国の認可を受けた導師としてふさわしい仕事をする――その意気込みを一旦溶かして無に戻す。上から教えてやるのではなく、寄り添って一緒に歩くつもりでなければ。

 気持ちを切り替えると、ジェハナはまず生徒たちの個々の事情を確認した。

 マリシェは案の定、家業の手伝いができるようになりたいらしい。簡単な単語や加減算については既に生活の中で学んでいる。ただし、きちんと教わったことはない。

 幼子はカウファ家の長男シウルだった。皆の前でハドゥン直々に、よろしく頼む、と託してくれたら教室にも箔がついたろうが、どうやら奥方が反対したらしい。まだ五歳なので、本当に基礎の基礎から始めなければならない。

 男は木工職人。仕事の相手や注文内容は全部記憶しているのだが、一度、覚え違いか、支払いを渋った客が嘘をついたのか、双方の主張が食い違って揉めたらしい。ひどく嫌な思いをしたので、あんなことがないようにしたいのだ、と彼は渋い顔で説明し、それからついでに、またしてもジェハナの手落ちを思い出させてくれた。

「だから仕事の要点の書付ってのか、契約書が作れりゃそれでいいんだが、そんだけ教わるのに、どのぐらいかかるかね?」

「それはちょっと予測がつきませんが……」

「あん? いや、日にちじゃなくて。謝礼だよ。どんぐらい払えばいい? 金じゃなくて物でもいいか?」

 言い直されて、ジェハナは思わずぽかんと口を開けた。見ると他の生徒二人も、それぞれじっと彼女の答えを待っている。

「……すみません。言うのを忘れていました」

 あいた、と額を押さえて呻く。彼女にとってはあまりに当たり前すぎて、わざわざ知らせる必要など頭から抜け落ちていたのだ。道理で生徒の集まりが悪いはずだ。

「お金はいただきません。無料……ただです」

「えぇっ?」

「導師として、お給料をいただいていますから。つまり、皆さんがいずれ総督府に納める税の一部がわたしに届き、授業料のかわりになるんです。ですから、しっかり学ばないと税金の払い損になりますよ。また改めて皆さんにお知らせしますけど、他にも読み書きを習いたいが謝礼を払えない、という人がいたら、教えてあげてください。それでは、始めましょうか」

 ジェハナはおどけて締めくくり、いよいよ初の授業を開始した。

 一人一人に合わせて熱心に粘土板と格闘していると、いつの間にか、礼拝の後始末を終えたタスハもそっと見守りに来ていた。ジェハナはそれに気付いてほっと安堵した。何かあっても、彼がいれば穏便におさめてくれるだろう。

 やがて五歳のシウルが最初に「つかれたぁ」と声を上げた。

「よく頑張ったわね、シウル。えらいわ。それじゃ、今日はここまでにしましょう。おうちに帰って、お父様やお母様に、シウルが勉強したことを教えてあげてね」

 復習するように、という代わりに、幼子の自尊心をくすぐる。あい、とシウルが嬉しそうに言って席を立ち、タスハに連れられて出ていった。両親はまだ礼拝室で待っているのだろう。

 それからしばらくして木工職人が仕事に戻らなければと言い、最後にマリシェが、ジェハナに止められてやっと葦筆を置いた。

「一度に根を詰めると、頭が痛くなってしまうわよ。ほら」

 ジェハナはたしなめながらマリシェの顔に手を伸ばし、険しい皺の寄った眉間をこすってやる。少女は「うー」と気持ち良さそうな声を出してから、渋々諦めた。

「じゃあ、また明日来ます。……ねえ先生、ワシュアールでは先生みたいな女の人、たくさんいるんですか」

「たくさん、というのがどの程度かわからないけれど、女性の導師も珍しくはないわね」

 ジェハナは無難な答えを返した。彩紀元年以来の社会の変化で、女が大学で学んだり役人になったりするのも稀ではなくなったが、しかし絶対数は少ない。どうしても、妊娠出産という重大事に人生の一部を費やさねばならないからだ。子を宿した時から、母親には子が持つ路の響きがわかるようになる。無事に生まれるように、路を共鳴させて色を導き安定させなければならない。

 そんな内情を知らないマリシェは、ただ「いいなぁ」と羨んで嘆息した。ジェハナは小首を傾げ、慎重に問いかける。

「あなたも何かの先生になりたいの?」

 今の己の立場に、予定されている将来に、不満があるのか。露骨にそう訊いては、要らぬ波風を立ててしまう。だがマリシェの表情を見れば明らかだ。

「うーん……『先生』じゃなくてもいいんですけど。わたしね、初めて広場で先生を見た時、すごく格好いいなぁって感動したんです。あんな風に兵隊さんや総督さんと並んで、堂々としていられるの、素敵だなぁって。……わたしも先生みたいになれたらなぁ」

 目を輝かせて憧れを語り、一転、肩を落としてうなだれる。そこへタスハが戻ってきたので、マリシェはぱっと振り向いて言った。

「あっ、祭司様! 今度、占ってくれますか。うんと勉強したら、わたしもジェハナ先生みたいになれるかどうか」

 いきなり突拍子もないことを言い出され、タスハは目をしばたたいた。少女とジェハナを見比べ、ふむ、とひとまず思案する。それから彼はおもむろに答えた。

「占ってもいいが、もし、それは無理だと神々がお告げになったら、勉強するのをやめてしまうのかい」

「それは、……ええと、でも」

「目標があるのは良いことです。ジェハナ殿のようになりたいと願うなら、結果にとらわれず頑張りなさい。同じにはなれないかもしれません。だが努力したぶん、賢くて強いマリシェになれますよ」

 他人にはなれないが、より優れた自分自身にはなれる。穏やかに諭されて、マリシェはきゅっと唇を引き結び、こくりとうなずいた。

 礼を言って少女が帰るのを、ウズルが送っていく。食堂に二人きりになると、タスハはふっと寂しげに苦笑した。

「いささか姑息でしたかね」

 少女への説教についてだろう。ジェハナは「まさか」と即答した。

「良いお言葉だったと思います。わたしは迂闊に励ましもできなくて、正直どう答えたものか困っていましたから、助かりました」

 今から勉強しても、マリシェがワシュアールに留学して教職に就くことは不可能だ。恐らく彼女の家も、娘が良い縁組で家業を助けてくれることを期待しているだろう。学を身につけて今後の人生を豊かにすることはできても、ジェハナのようになりたいという願いは叶えられない。

 タスハも理解のまなざしを向け、小さくうなずいた。

「未来がわかれば、と願うこともしばしばです。最初から結果がわかっていて最良の選択ができるなら、と。しかしすべてが視えたなら、恐らく人はそれに振り回されて自滅するでしょう。神々が我々の目を覆われているのも、慈悲あればこそ。結局、不確かな未来から目をそらさせ、なだめて励ますしかないのですが……己の未熟を痛切に思い知らされるばかりです」

「そんな風に誠実に相談に乗ってくださる祭司様がいらっしゃるのですから、この町の皆さんは大いに恵まれていますよ」

 ジェハナは力強く断言した。途端にタスハが赤面し、何もない床の隅を見つめる。ジェハナは失笑しそうになり、慌ててぐっと口を引き結んだ。年長の殿方、しかも祭司ともあろう人物に、あら可愛い、などという感想を抱こうとは。

 ごまかすように長机の上を片付けはじめたところで、はたと気付いて手を止めた。

「未来がわかれば、と仰せですけれど……祭司様は占いで予見を求められた時、どのように対処されるのですか? 先ほどのマリシェのように、問題の本質が将来の成否とは別であれば、諭してあげるのが正しい対応だと思います。あるいは生活相談のようなことであれば、ご存じのことを繋ぎ合わせて適切な助言もできるでしょう。けれど、町全体にかかわるような重大な事柄について、神々にお伺いを立てなければならない時は?」

 戦をすべきか、どこと同盟を結ぶべきか。古来そうした政治の重要事項は、神託や卜占で決められてきた。町によっては投票もおこなわれたが、それでもやはり神々の示唆が大きな影響力をもっていたのだ。

 実際には祭司とて、卜占で正解を得られるわけではないのだろう。だがそれでも、神々の意志を皆に伝えなければならない。何をどのように告げるのだろうか。

 訝しむ彼女に、タスハ自身も謎を探るような遠い目をして答えた。

「神々の御心はわかりにくく、いつも明白な答えが得られるわけではありません。ですが心を静め耳を澄まし、深く魂をこめて問いかけたなら……神々がこの目の覆いを外し、啓示をくださることもあります。はっきりと未来が、あるいはなすべきことが、確信を持って理解されるのですよ」

 ジェハナは驚きに瞠目した。タスハが振り向き、穏やかな微苦笑を浮かべる。

「漠然としか感じ取れないことの方が多いので、どう解釈しどのように伝えるか、悩んでばかりですがね。あなたには神々のお告げなど信じられませんか?」

「いえ……いいえ」

 まだ衝撃に呆然としたまま、ジェハナは首を振った。

 それは『王の力』だ。かつてワシュアールでいにしえのわざが解き明かされる前、きわめて資質に優れた者だけが路を辿り、刻まれた標のもたらす直観によって様々な判断を下した。あたかも予知あるいは全知のごとく。

(教えるべき? あなたは祈りという方法で無自覚に内なる路を辿っているのだ、もたらされる『啓示』はいにしえの知恵によるものであり神々の言葉ではない、と――まさか。言えやしないわ)

 それこそ、信じられないだろう。反発と否定と激怒を招くかもしれない。逆に受け入れられたらその時は、彼から信仰を奪ってしまいかねない。

(ウルヴェーユがどういうものか、実際に路を開いて辿り、慣れ親しんでからでなければ教えられない)

 冷静な判断の背後を、教えたくない、という疚しい思いがよぎり、彼女はそっと唇を噛んだ。妬ましい、羨ましい。路がほとんど閉ざされており、色も音も響かないにもかかわらず、この祭司は標の知恵を汲み上げることができている。彼の路はジェハナよりも広く深く、多数の標を有しているに違いない。

(わかってる。資質は一人一人が持って生まれるもの、他人と比べたり競ったりするものではない。恵まれていても使いこなせなければ意味がない。まさに『他人にはなれない、より優れた自分自身になれ』ということ。わかっている、けれど)

 ――悔しい。

 思いが顔に出ないよう苦心して取り繕い、彼女は微笑んだ。

「祭司様はきっと、神々に愛されておいでなのですね」

「だと良いのですが」

 タスハは謙虚に応じ、曇りのないまなざしを壁龕のアータル像に向けて、さりげなく合掌する。その仕草の美しさに、ジェハナは理由のわからぬ敗北感を抱いた。目を伏せて内なる路に意識を向けることで、渦巻く厄介な感情を静めようと努める。そこへ温かな黄白色が流れてきた。

「それにしても、生徒が三人だけというのは、何とかしなければなりませんね」

 見ると、タスハが我がことのように真剣に考え込んでいる。ジェハナは話題が変わってほっとすると同時に、ありがたくも申し訳ない気持ちになって、曖昧にうなずいた。

「謝礼は必要ないということを、言い忘れていたんです。ワシュアールでは基礎教育が無償なのは常識なものですから。それを周知したらもう少し来てくれると思うのですが」

「ああなるほど、それは確かに」

 タスハが同意の苦笑をこぼし、ジェハナは顔を赤らめた。実に基本的なことを失念していたのが恥ずかしい。急いで言葉をつなげる。

「本当はもうちょっと、親自身はともかく子供に読み書きを学ばせよう、という方がいらっしゃると見込んでいたんです。よほど謝礼の問題が切実なのか、それともやはりまだ、大事な子供をワシュアール人に預けたくないと警戒されているのでしょうか」

「どちらも理由だとは思いますが、読み書きを学べるぐらいの年齢なら、もう親の手伝いができますからね。教室に行かせる暇がない、というのもあるでしょう。強引ですが、総督に勧告してもらう方が良いのではありませんか? 毎日とは言わないまでも、ある範囲の年齢の子は必ず読み書きを学ぶようにと」

 そう提案し、タスハはやや慎重な面持ちになって言い添えた。

「総督とはごきょうだいだと伺いました。協力してくださるのでは?」

 不意打ちを受けてジェハナの息が詰まる。ほんのわずかな間ではあったが、どうやら顔に出てしまったらしい。タスハが怯み、頭を下げた。

「失礼しました。縁故頼みと言うつもりではなかったのですが」

「いえ、こちらこそ申し訳ありません。どうぞお気遣いなく」

 慌ててジェハナは否定し、言い繕った。いずれ自分がショナグ家の者であることは知られたろうし、隠し通すつもりならイムリダールにも口止めすべきだったのだ。都から遠く離れた町だから、言わなければ何も噂されまいと高をくくっていたのがまずかった。

「確かにわたしは総督の妹ですが……あまり、ショナグ家の名や血縁であることに頼りたくないのです」

 そこまで言い、一旦口をつぐむ。大学では、名家の出はやっぱり違うよな、といった類の陰口を散々叩かれた。すり寄ってくるのは人脈と財力目当ての者ばかり。王国屈指の大貴族ショナグ家の名が、邪魔に感じられたことも数え切れない。

「ご自身の力だけで成し遂げたい、とおっしゃるのですか」

 そっとタスハが尋ねた。穏やかで中立的で、答えを聞くまではいっさい何も決め付けない声音。どうすればこんな質問の仕方ができるのだろう、などとジェハナは羨み、そんな自分に苦笑した。

「いいえ。家名も実力の内ですもの、必要とあらば利用はします。縁故贔屓だとか思われるのは癪ですけれど、わたしの自尊心と、導師として成すべき目標と、どちらが大切かを見失いはしません。ただ……妹として兄にお願いするのは、ちょっと。つまらない理由なんですけど」

 ジェハナは軽い口調で、無理にあっけらかんとした態度を装った。もう黙らなければという理性の堤に、捌け口を求めて暴れる記憶と感情の波がぶつかる。故郷から遠く離れていること、さらにどんな荒波でも受け止めてくれそうな人物の存在が、堤を崩した。

「わたし、小さい頃から可愛がられて育ったんです。ショナグ家は男ばかり多くて、女はわたしともう一人の妹だけでしたから。わがままという意識もなく、いろいろなお願いを聞いてもらって。でもそれで一度、使用人の子につらい思いをさせてしまったんです。それ以来、家族への頼み事は慎重にしなければと」

 一気にしゃべってしまい、語尾が震えて声を飲み込む。たいした出来事ではない、他人にとってはどうでもいいことだ。本当につまらない理由。だから、こんな程度で動揺してはいけない。

 自分に言い聞かせて笑顔をつくる。だが、紫を帯びた灰色の双眸に見つめられると、もうもたなかった。口元を手で覆ってうつむき、表情を隠す。

 ややあってタスハが静かに歩み寄り、そっと肩に手を置いた。

「わかりました。では私からハドゥンを通じて寄り合いにかけ、総督に提案しましょう。あくまで私一人の意見として」

 ぽんぽん、と優しく肩を叩かれ、ジェハナはかろうじて細い声を絞り出す。

「お願いします」

 しがみついて甘えたい、子供じみた衝動を堪えるのは、とても難しかった。


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