正義をもたらすため

   *


 言葉通り、ジェハナは以後ほとんど毎日、礼拝に訪れた。タスハはそれを歓迎する一方で、どうにもいたたまれない気持ちに苛まれるはめになった。彼女が近付くと生じる胸のざわめき――その正体を知らされて、恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになるのだ。異性に対するあれこれだとか意識した自分を殴り倒したい。

(いい歳をして浮つくんじゃない。立場をわきまえろ、おまえは征服された町の祭司、ただそれだけだ)

 親しみを見せられようとも、相手の方がずっと年下であろうとも、そこには厳然たる支配・被支配の関係がある。好意だなんだと錯覚してはならない。

(それに彼女は……ダールと呼んだ)

 総督を、愛称で。彼のことをよく知っているようだった。いよいよもって、恋人あるいは婚約者であることは間違いない。ため息をつきかけて、そんな憶測をすること自体がまずおかしいのだと首を振る。

(だったらどうした、最初から私には関係ない話だろう)

 とっちらかった思考をどうにかまとめ、些細なことで揺れ動きそうになる感情の手綱を強く引いて、彼は祭司らしい態度を保ってジェハナに接した。

(じきに慣れて落ち着くさ。一度にいろいろ変わったせいで、ちょっとおかしくなっているだけだ)

 タスハは自分に言い聞かせたが、十日もすると実際その通りになってきた。町の人々も総督府の門から中を覗き込むのをやめ、ワシュアール人が広場にいるからと避けて通ることもなくなり。礼拝に来た者も、ジェハナが壁際にいるのを気にせず今まで通り祭司と話すようになって。タスハの弟子である平神官や見習いの少年も、彼女とぽつぽつ挨拶や言葉を交わすようになった。

 杏の花がすっかり散ると、待っていたようにジェハナはひとつの提案を持ち出した。

「祭司様、ここしばらく町の皆さんの様子を見て考えたのですが……神殿で礼拝の後に、子供たち向けの読み書きの教室を開くことをお許しいただけませんか?」

 おや、とタスハは目をしばたたいた。基礎教育を施すとは聞いていたが、ウルヴェーユとやらは良いのか、と小首を傾げる。彼の疑問を察して、ジェハナは説明した。

「読み書き計算を学べるというのであれば、皆さんも安心して来てくださるでしょう。より身近に触れ合う時間を長く取れば、資質に優れる子は自然と路の感覚に目覚めていきますし、それを導くための信頼関係も築けます。総督府で教室を開くよりは、ここをお借りする方が多分、警戒されないでしょうし」

 筋は通っている。ふむ、とタスハは思案した。現在カトナの住民は大半が読み書きできない。教育は家庭や職場任せで、必要最低限を学ぶだけだ。

「教えるのは子供だけですか?」

「意欲さえあるなら、どなたでも。ですが子供、とりわけ女の子にはできるだけわたしと接する時間をつくってほしいのです。理由はまた後日追ってお話ししますが」

 不可解な条件をつけられ、タスハは眉を上げる。だが彼女はまだ話す気がないようで、口をつぐんだままだ。難しい判断を迫られ、タスハは天を仰いで神々に祈ってから慎重に応じた。

「私としては、皆に読み書きを教えるのは良いことだと思います。祭司として多くの文書に触れ、知ることの意義や喜びを実感しておりますから。しかしそれが、ウルヴェーユを広めるための餌にすぎないのであれば、神殿を教室に、というご希望にはそえません」

「祭司様がお立場ゆえに警戒なさるのはもっともだと思います。ですが、どうかご理解ください。ウルヴェーユを教え広めることはわたしたちの使命であり、同時に義務でもあるのです。祭司様もわたしや総督と接し、ご自身の内なる路に気付かれましたね。もし、その感覚が何であるか、どう接してゆくべきものか、誰にも教えられないまま一生を過ごさねばならないとしたら、いかがですか」

 ジェハナが中立を保ち事実のみを話そうとしているのはタスハにもわかったが、しかしやはり、いくらか脅しの含みを感じないわけにはいかなかった。彼は眉を寄せ、相手の論に穴がないか、こちらを騙そうとしていないか、注意深く質問する。

「あなた方と接した者は皆、否応なく、これまでにない感覚に目覚める。だから正しい使い方を教えなければならない、とおっしゃるのですね。あなた方が何もしないままでいるほうが罪悪であると」

「そうです。ワシュアールでもこのわざが万人のものになったのは、ほんの五十年ほど前のことなんですよ。それまでは皆、生まれつき路が開いてはおらず、ごく稀に優れた資質を持つ者が不思議な感覚を示すだけでした。その感覚や力の正体を幾許なりと知ることができたのは、王となる一人だけ。ほかは、他人とは異なるものを見聞きする奇妙な人間、もしくは狂人であるとして、迫害されたり幽閉されたりと不幸な一生を送ることになったのです。そんな過ちを繰り返すことは許されません」

 ジェハナは力強く言い切り、次いで悪戯っぽく微笑んだ。

「仮にウルヴェーユのことがなくとも、基礎学習はワシュアールでは民の義務ですので、皆さんに勉強してもらわなければなりませんけれどね。誰もが布告の文書や法の定めを読んで理解し、些細な諍いをことごとく上訴しなくても良くなるように。あるいはごく一部の知識階級が、読み書き計算のできない者を騙して不当に虐げることのないように。王国に正義をもたらすためですもの、まさか祭司様は反対なさいませんでしょう?」

「そう言われては断れませんね」

 タスハは苦笑し、両手を上げて降参した。実際、この町でもかつてはハムリ王国の役人がしばしば不正をはたらいていたのだ。税の内容をごまかしたり、土地の所有台帳を勝手に書き換えたり。そうした揉め事を仲裁し、場合によっては長官やハムリ王への訴状をしたためるのが、学のある郷士や祭司の役目だった。しかし必ず解決できるわけでもなく、したとしても遺恨は残る。余計な揉め事を減らせるのならば、否やはない。

「いいでしょう、教室のために場所を提供します。礼拝室では祈りに来た人の邪魔になりますから、我々の食堂をなんとか使えるようにしましょう。後々人が増えて入りきらなくなったらよそに移らざるを得ませんが、それほど盛況になる頃にはどこで教室を開いても皆、抵抗なく集まるでしょう」

「そうなると良いのですけど。この町ではまだ粘土板文書が主流ですか? 以前のハムリの役人は退去に際して大半の文書を破棄してくれたもので、倉庫が瓦礫の山で……住民台帳を復元するのに苦労しました。草木紙や羊皮紙であれば燃やされていたかもしれませんから、重くてかさばる粘土板も良いところはありますね」

 さらりとジェハナが言う。タスハは改めてつくづくと、彼我の文明格差を実感した。草木紙に羊皮紙。この町では本当にごく稀にしか目にする機会がないものだ。神殿の書庫に収められているのも粘土板や石板が大半で、それ以外はごくわずか――木板を綴じ合わせた本が一点、羊皮紙の巻物が数点。

「ワシュアールの都には、種々の書物も溢れているのでしょうね」

 タスハがつい羨む声を漏らすと、ジェハナは悪気なく笑った。

「溢れるほど潤沢ではありませんが、街には書店や貸本屋が何軒もあって、書物に親しみやすい環境ではありますね。総督府にもいくらか運び込みましたから、興味がおありなら読みにいらしてください。今はまだ整理できていなくて無理ですけれど、近日中に片付く予定ですから……たぶん」

 思わずタスハは釣られそうになり、すんでのところで自制した。過去の偉大な知性に触れ、遠い世界について知ることは何よりの喜びだが、それを記した人間も、選んで持ち込んだ人間も、ともにワシュアール人だということを忘れてはならない。必ず偏向があるのだから、知識欲に目をくらまされ無防備に飛び込むのは危険だ。

「そうですね。そちらが落ち着いたら、ぜひ」

 彼は社交辞令で応じると、素早く話をそらせた。

「筆記具などは、こちらにも少しは予備がありますが、教室の分はそれとして別個に調達したほうが良いでしょうね」

「ええ。費用のこともありますし、この後ハドゥン様に相談しようかと。よろしければ、祭司様もご同席いただけませんか」

「そうですね、ご一緒します」

 タスハはちょっと考えて同意した。教室をいつ、どの程度の時間、開くべきか。住民への周知をどうするか。そうしたあれこれも相談したい。

「ウズル! 聞いていたかね、私はこれから町へ出てハドゥンのところへ行くから、しばらく留守番を頼む」

 呼びかけると、献納台を片付けていた平神官が「はい」と答えて急ぎ足にやってきた。短い茶色の巻毛と、同じ色の丸い目をした少年だ。いつものように、利発で明るい受け答えをする。

「それじゃあ、私は手が空いたら食堂を片付けてみます。ジェハナ様、演壇みたいなものは必要ですか?」

「いいえ、結構です。ありがとう。集まった人数を見て、どういう形にするか決めますから、どけられる物をよそに移しておいていただければ充分です」

「わかりました!」

 師に対するよりも意気込みのある返事だ。タスハは苦笑してしまった。

「随分張り切っているな」

「そりゃあ、だって。読み書きできる仲間が増えるのは、嬉しいですから。タスハ様がしてくださったように、私も皆とひとつの書物を囲んで、一緒に読んで話し合いたいです」

 少年に笑顔で行ってらっしゃいと送り出され、タスハとジェハナは連れだって坂道を下りていった。

「ウズルさん、楽しそうでしたね。彼を神官に育てたのは、祭司様おひとりで?」

「ええ。彼は今十七歳ですが、五年ほど前に見習いになりまして、その頃にはもう先代の祭司様は逝去されていましたから」

 タスハは端的に答え、ジェハナの遠慮がちな物問い顔を受けて付け加えた。

「ウズルは両親が亡くなって親類に引き取られたのですが、そりが合わなかったようでしてね。自分から見習いにしてくれと言ってきました。頭の良い子ですよ。読み書きも祭式手順もすぐに覚えてくれて、先の冬に神官位を授けたばかりですが頼もしい限りです。今はもう一人、見習いがいますが、彼の面倒もよく見てくれています」

「そうでしたか。タスハ様もまだお若くていらっしゃるのに、弟子を二人も育ててご立派ですね」

 しみじみとジェハナが言ったもので、タスハは危うくつんのめって転びそうになった。どういう真意なのか、どう応じるべきなのか、困惑して足を止める。彼の反応に、ジェハナも遅まきながら赤面した。

「ごめんなさい。わたしのような若輩者が、ご立派などと偉そうに」

「ああ、いえ……と言うか、その……まさか若いと言われるとは思わなかったもので。もう三十は越えていますし、そうでなくとも昔からハドゥンには年寄りくさいとからかわれてばかりですから」

 タスハはもぐもぐと取り繕う。予想外なことに、ジェハナは純粋に驚いた顔をした。

「そうなんですか?」

「正確な年齢はわかりませんが、おそらく」

 そうは見えない、との意味かと早合点してタスハが言い添えると、ジェハナも動転気味に答えた。

「そのくらいかと思っていましたけど、年寄りだなんて。ワシュアールでは三十歳を過ぎてやっと一人前ですよ。もちろん二十歳前後で独り立ちはしますけれど、まだまだ駆け出しで……」

 早口にそこまでまくし立て、話の行き先を見失って中途半端に言葉を切る。曖昧な沈黙の後、彼女は気を取り直して問いかけた。

「正確な年齢がわからない、とおっしゃいましたか?」

 タスハは「ええ」と応じて歩みを再開した。振り返って高台の神殿を仰ぎ、それから前を向いて、町とリーニ河と、その向こうの畑や果樹園を眺め渡す。所々に赤茶色の岩肌が露出した大地、白銀の大蛇のごとき河に沿って連なるこんもりした緑。彼はこの風景しか知らない。だがもしかしたら、生まれたのはもっと別の場所かもしれなかった。

「一歳か二歳か、まだ言葉もおぼつかない頃に捨てられていたのです。私は憶えていませんが、神殿に置き去りにされていたとか」

 横を歩くジェハナが息を飲んだので、彼は平穏な笑みを見せて続けた。

「珍しくはありませんよ。見習いのシャダイも、小作農の子ですが、七つの頃に養いきれないからと連れてこられたのです。もっとも、神殿にも余裕がある時とない時がありますから、必ず引き受けるというわけには参りませんが。ワシュアールでは捨て子などいませんか?」

「……まったくいないわけでは、ありませんけれど。でも」

 沈んだ声で答えるジェハナの横顔は、まるで自分が捨てられたかのように痛ましく険しい。やはり真面目な人だな、とタスハはこっそり微笑んだ。

「そちらの事情は存じませんが、カトナは幸いにして小さな町です。誰かしら不自由していればすぐに知れて、ささやかながらも助け合うことができる」

 そこまで言い、彼はふとあることを思い出した。下り坂が終わり、町並みに入る。

 カウファ家への道を辿りながら、タスハは路地に目を走らせていた。やがて、探していたものを見つけて足を止める。どうしましたか、とジェハナが首を傾げたのに対し、彼は改まった口調で切り出した。

「あなたは先ほど、教室を開くのは正義をもたらすためだとおっしゃった。ならば、あなた方の〝正義〟を見せていただきたい。あの子に対して」

 すっ、と路地の奥を手で示す。最初、その指先に何があるのか、ジェハナは認識できなかった。当惑しながら目を凝らし、――愕然と息を飲む。

 路傍のごみか何かに見えていたものが、もぞりと動いた。うぅん、と声を漏らして、ゆっくりと起き上がる。人、だった。

「どうして」

 ジェハナが喘ぎ、小さく震えながら手で口を押さえる。叫びを押し殺すように。タスハは強いて平静を保ち、己の心を突き放して言葉だけを紡いだ。

「名前はヨツィ。幼い頃から奇矯なふるまいをする子だったそうです。親も家もありますが、とうに見放されて……と言うより、彼女の方から逃げ出したようですね。ずっとああして路上に暮らしています。いっとき、シャスパ……カウファ家の奥方が、有志の婦人方と共になんとかしようと努力していましたが、果たせず」

 説明する彼の声を聞きつけて、少女がこちらを振り向いた。泥や埃で汚れた顔に、脂でべたべたになった黒髪がへばりついている。にぃ、と少女が笑って、よろよろと三歩ばかり近寄って来る。

「あぁー、祭司さまだぁ。ねぇ、きょうはイイことする? ねぇねぇ」

 ぞっとするほど汚いなりだというのに、声は無垢で無邪気で、夜空のような双眸はきらきら輝いている。その目が見知らぬ人物を捉えた瞬間、カッと吊り上がった。

 鴉まがいの奇声を発し、大きく跳び退る。歯を剥き、両手を振り上げて威嚇したかと思うと、一瞬で身を翻して逃げ去った。

 何もできず立ち尽くしていたジェハナが、嗚咽のような吐息を漏らす。タスハは彼女の肩に手を置いて慰めたくなったが、ぐっと堪えた。見せつけたのは己だ。そして今、彼女にはワシュアールの導師として、この事実を受け止めさせなければならない。

「比較的まともな言動をする時もあります。そんな時に、身売りや物乞いをして食べ物を得ているのです」

「身売り!?」

 ジェハナが非難の声を上げた。タスハは逃げもごまかしもせずうなずく。

「ヨツィに警戒されないのは、彼女に情けをかけてやれる少数の男だけです。優しく触れて落ち着かせてやって、どうにかその間にごまかしながら身体を洗い髪を梳かしてやるのがせいぜいで……それも迂闊なことをして一度でも恐れや苦痛を与えたら、二度と近寄れません」

 見かねたシャスパや女たちが、ヨツィを無理にも〝まとも〟にしようとしたが、まず身体を洗おうとした段階で激しく抵抗され、殴る蹴る叫ぶの大騒ぎになった。結果、ヨツィは限られた男を除くすべての人間に敵意を燃やし、どうにも手がつけられなくなってしまったのだ。

「彼女に近付けるわずかな人間も、いつも必ずではないのです。ヨツィは我々にはわからない何かを見聞きしているらしく、突然大声を上げたり、手足を振り回したり、怯えて狭い場所に逃げ込んだりします。そんな時に近寄ろうとしたら、引っ掻かれ噛み付かれ、挙句に目を突かれかねません。シャスパが匙を投げたのも、そのせいです。野良猫を捕まえて洗う方がまだ簡単だ、とね」

 ふっ、と苦笑まじりのため息をつくと、彼はジェハナに向き合った。

「すぐにどうにかできるとは期待しておりません。性急にすればまた、あの子を苦しめてしまうだけでしょうから。しかし、ワシュアールの正義が弱き者を救うというなら……その証を見せていただきたい。結果がどうなるにせよ、あなた方がどのようになさるかを」

 重々しく締め括ったタスハに、ジェハナもまた真剣な面持ちで厳粛に応じた。

「わかりました。必ず対処すると約束します。狂気の原因が何であれ、ウルヴェーユを用いれば少なくとも状態を改善できるはずです。たとえ無理でも、あの子をこのままにしてはおきません」

「ありがとうございます。どうかお願いいたします」

 タスハは真摯に、深く頭を下げた。自分たちにどうしようもない問題を押し付けて、支配者の能力や方針を試してやろうなどと、厚かましい話ではある。だが憐れな少女を救うためなら、いくらでも厚顔無恥になろうというものだ。

 そんな彼の想いを理解してか、ジェハナは一切、非難も皮肉も口にしなかった。かわりに、なんとも複雑な顔になって小声で確認する。

「あの……祭司様は、その、『警戒されない』少数の殿方に含まれるのですか? つまりその、彼女に近付くのに手助けをお願いできるのかどうかと」

 途中であたふたと言い繕って赤面する。初心なところを見せられて、タスハは自分もいささか頬が熱くなるのを感じ、顔を背けた。どう言えば良いか迷った末に自嘲の苦笑をこぼす。

「私は意気地なしですから。彼女が神殿に来た折には必ず食べ物を与えていますが」

 そこまで言って唇を噛み、首を振る。自ら触れてくれと寄って来るヨツィに応えないのは、高潔さゆえではない。単に勇気がないからだ。

 不潔で臭くて、いつ暴れ出すか予測がつかない、何がきっかけで噛み付かれるかしれない。しかも一度優しくしてやれば、以後も彼女に対して面倒を見る責任が生じる。それを引き受けるだけの覚悟が、タスハにはなかった。彼女が神殿に居着いてしまったら、参拝者が激減するだろう。良くない噂を立てられ、人々からの寄付のみならず尊敬までも失ってしまうだろう。

 神々の恵みと力を地に下ろし、日々の暮らしにおいては人々の調停役をつとめる神殿祭司であり続けるためには、救える見込みのない者と共に汚泥にはまってはならないのだ。

 タスハの沈黙に、ジェハナもそれ以上は口を閉ざした。

 そのまま二人はそれぞれの物思いに沈み、無言のままカウファ家に向かった。着いてみると、偶然にも総督が訪問中だという。これ幸いと取り次ぎを頼んで招き入れられると、ジェハナは当主への挨拶もそこそこに、イムリダールのもとへ駆け寄った。

「ダール! 丁度良かったわ、相談したいことがあるの。教室については祭司様が場所を貸してくださることになったのだけど……」

 一方タスハは頼れる幼馴染のハドゥンと向かい合って腰を下ろし、教室の開催日時について話を振ったものの、ジェハナを気にしてちらちら目をやってばかりいた。意見を求められたハドゥンは腕組みして考えながら、

「そうだなぁ、子供だけに限らないんなら、正午礼拝の後がいいんじゃないか。朝だと大人は、先に仕事にかかるもんだし」

 と言いさしたものの、反応がないので眉を上げる。タスハは完全に横を向いていた。

「おいおいタスハ、どうするって訊いておいてそれはないだろう」

「ああ、すまない」

 慌てて向き直ったタスハに、ハドゥンは呆れ、次いでにんまりする。身を乗り出してひそひそささやいた。

「おまえもついに春が来たか。このまま枯れた爺さんになっちまうかと心配してたが」

「ばっ……馬鹿、違う!」

 即座にタスハは否定したが、朱の差した頬をはじめ全身でその通りと肯定しているのでは、言葉に何の意味もない。ハドゥンはさらに意地悪く笑い、奥手な友人の肩を乱暴にばしばし叩いた。

「難物を的にしたもんだなぁ、えぇおい。よりによって祭司が魔女に惚れるとはね。まぁ今んとこ嫌われちゃいねえようだし、読み書き教室とやらに協力して親切ぶりを見せつけてやれよ。どう頑張ってもおまえは色男って柄じゃねえからな」

「だから違うと言っているだろう。妙な噂を立てるのも、魔女呼ばわりするのもよしてくれ。彼女はきっと総督の……妻になる人だぞ。貶めるようなことを言って、総督府と住民の間がぎすぎすしたら、困るのは第一におまえじゃないか」

 言い訳は後半から真剣な懸念になった。にもかかわらず、ハドゥンはきょとんとし、一拍置いて弾けるように大笑いをはじめたのだ。後ろに引っくり返って倒れそうなほど、のけぞって。

 何事かと驚いて、ジェハナとイムリダールがこちらを見る。ハドゥンは「失敬、こちらの話だ」と手を振っていなし、笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いた。

「はー、笑った笑った……いやまったく、おまえも間が抜けてるなぁ」

「何がそんなにおかしいんだ」

 むっとなったタスハに、ハドゥンは大仰に憐れむような苦笑を見せ、うんと声を低めてこそっと教えた。

「あの二人は兄妹だよ、馬鹿」

「……っ!」

 タスハは目をみはり、またしても赤くなった。今度は耳まで。声を失って口をぱくぱくさせるばかりの彼に、幼馴染は知った風にうんうんとうなずく。

「この女こそと定めたら、まず家族親戚を洗うもんだぞ。今度からちゃんと覚えとけ」

「今度って何だ、いやそもそも違うと……。きょうだい?」

 タスハは混乱のままに口走り、疑わしげに念を押した。外見はまったく似ていないのだから、家族という発想が浮かばなかったのも無理はない。ハドゥンもようやく笑いをおさめ、ああ、と応じる。

「腹違いなんだとさ。とは言っても、別に身内だから連れて来たってんじゃなく、妹はまともな導師だから安心しろと仰せだ。魔女にまともだってのも変な話だがね」

「魔女はよせったら。縁故贔屓で形だけ役人にしてやったのとは違う、というんだろう。ハムリの長官なんかはその手のことをしていたからな」

 タスハはそこまで言い、居住まいを正して続けた。

「彼女はまっとうな人だよ、ハドゥン。悪く言わないでくれ。ヨツィのことを教えたら、必ずなんとかすると真剣に約束してくれた」

「おまえ……」

 ハドゥンは絶句し、信じられないというようにタスハを凝視した。熱心に話し込んでいる兄妹を一瞥し、がりがり頭を掻く。

「あんまり危ねえことはするな。そりゃ、いずれは知られただろうけどな。いかれた浮浪児なんか殺して片付けちまえ、ってなったらどうするんだ」

「そんなことにはならないと判断したんだ」

 タスハが捨て子だったと聞いた時の、痛ましげな表情。あれは、まずいことを訊いてしまったというものでも、なんて可哀想にという憐憫でもなかった。捨てられる子がいるという事実に対する衝撃、そして憤りと悲しみ、口惜しさ。だから、ヨツィのことを頼めると確信したのだ。

「このままの状態では、ヨツィは野の獣と同じだ。食べ物を与えることはできても、怪我や病気を治してはやれない。いつかの朝に誰かが冷たくなった彼女を見付けて、墓場に運ぶだろう。別の未来が与えられるのなら、ワシュアールの法でも不思議のわざでも、構いはしないさ」

「そりゃあ、わしだって同じだが。……よそ者に頼まなきゃならんとはなぁ」

 ハドゥンは難しい顔で唸り、肩を落としてため息をついた。彼の心情がわかり、タスハは思いやるように言った。

「私も不甲斐ないよ。だがこれからは、彼らもよそ者じゃなく同じ町の住民だ。むろん立場は大きく異なるが、それでも共に暮らしていけるかどうか、ヨツィの件が試金石になると思う」

「読み書き教室の方もな。連中がこうしろってったらこっちは逆らえねえんだから、カウファ家としちゃ協力はするさ。だがぶつくさ言う連中がいるのはどうしようもねえぞ。机にかじりついてる暇があったら働けってな」

「最初はそうかもしれないが、読み書きできるようになれば便利だってことに気付くさ。それに恐らく当分、この町のあるじがもう一度変わることはない。ワシュアールのやり方に学んでゆかざるを得ないのなら、子供たちの将来のために教育は欠かせないよ」

 庶民でも書に親しむことが可能な、豊かなワシュアール。見捨てられた子供の存在が、当たり前ではなく衝撃となる社会。そんな国が簡単に衰退するとは思えない。ならばカトナの住民も、意固地に反発するだけ損だ。

 タスハは客観的にそう分析したつもりだったが、ハドゥンは眉を曇らせ、じっと彼を見据えてささやいた。

「おまえが心配だよ、タスハ。昔からおまえは喧嘩も競争も嫌いで、誰にでも譲ってばかりだ。今度はもう、ワシュアール人がいい奴らで、悪いようにはならないと決めてかかってる。あんまりお人好しも考え物だぞ」

 しみじみと諭す口調は、いつになく切実だ。取り越し苦労だといなすこともできず、タスハは苦笑するしかなかった。

「気を付けるよ。ありがとう」

 素直な返事にも、ハドゥンは疑わしげな顔をするばかり。じろりとタスハを睨み、本当はわかってないだろおまえ、と言うようにため息をついて、諦めの仕草と共に余計な一言をくれた。

「まぁ、惚れちまったもんはしょうがねえか」

「だから違うと言っているだろう!」


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